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奈良・桜井の歴史と社会

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「近つ飛鳥と古市古墳群をめぐる」バスツアー

12月3日(日)に「奈良まほろばソムリエの会」はNPO法人化の5周年記念バスツアーを行う。

今回のテーマは「近つ飛鳥と古市古墳群をめぐる」。「湖北観音巡礼」、「継体天皇の足跡を辿って」の県外研修に続く、第三弾の県外研修バスツアーは大阪府である。

叡福寺(聖徳太子墓)、近つ飛鳥博物館を拝観・見学、そして誉田八幡宮宝物館を訪れる。

さらに世界遺産への登録を目指して推薦が決まったばかりの百舌鳥・古市古墳群のうち、応神天皇陵古墳、大鳥塚古墳、津堂城山古墳などのホットコーナーをめぐるコースを設定した。

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叡福寺。聖徳太子磯長墓

ご案内は天野末喜先生(奈良大学講師・関西学院大学元講師)。藤井寺市の教育委員会に長く勤務され、当地の遺跡・古墳の発掘・研究に直接タッチされてきた方である。今回のツアーには同行して現地を訪れ、古代日本の文化や技術を探り、日本の歴史を存分に語っていただく。今回も「ソムリエの会ならでは」の充実の特別企画、自信を持ってお勧めする。

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応神陵、航空写真。スマホをかざせば、空からの写真をみせてくれる

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津堂城山古墳、石棺のレプリカ。天野先生のホームグランドである

天野先生と相談して、このコース作りを担当、僕の自信作である。
ぜひ、ご一緒にお出かけいたしませんか。

    

■ 実施日 平成29年12月3日(日)

■ 集合場所と時間

近鉄奈良駅(春日ホテル前)

午前800

JR奈良駅(西口・ホテル日航前)

午前810

■解散時間 近鉄奈良駅にて

1830分頃 

■参加費  昼食つき

会員   7,000

会員以外 8,000

■お申し込みはメールにて

メールアドレス  kozaburo@cg8.so-net.ne.jp

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# by koza5555 | 2017-08-18 11:14 | 大阪とか京都とか | Comments(0)

十津川 小原の大踊り

13日は十津川の大踊り。朝から十津川に入り、谷瀬の吊り橋、玉置神社、玉置山登山、果無(はてなし)を見学して、夕方から小原の盆踊りがおこなわれる第一小学校を訪れてきた。

小原の盆踊りは午後8時から12時まで。桜井からは2時間30分以上かかる。最後まで拝見して、帰れば午前3時・・

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十津川の大踊りは、1974年(昭和49年)に「無形の民俗文化財」の指定を受けた。

十津川は村々で盆踊りがおこなわれているが、小原地区、武蔵地区、西川地区の大踊りが指定されている。

曜日に関係なく、13日は小原、14日は武蔵、15日は西川である。

ヤグラには音頭取り、音は締め太鼓だけで、調子を取っていくようである。

今年も木曽節で始まる。十津川の盆踊りはほとんどが扇子踊りであるが、これは手踊り。

その後は串本節とかの民謡をもとにした「馬鹿踊り」、お杉口説、たばこ口説、天誅おどりなどの「口説き」の踊りが続けらる。

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これは天誅おどり。天誅組に絡んだ十津川の物語。少女のお話である。二人で向かい合った珍しい踊り。男女のことか、あるいは切り違えの姿か

10時、過ぎに「次は大踊り」と告げられ休憩に。

ヤグラに向かって太鼓を持ち、ばちを持った男たち。その後ろには女性が扇をもって並び、竹笹の吊り灯篭が4本(白赤緑の3色の紙を切った美しいもの)並ぶ。

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初めはゆったりと足踏みするような踊りである。「元歌」といわれる。

太鼓うちは、白・赤・緑の房の付いたバチで抱えた締め太鼓をたたく。


後半はヤグラの周りが一転する。太鼓は太鼓持ちがもち、激しく太鼓が叩かれる。

踊り子はヤグラを取り囲み、頭上で扇を振り、灯篭もちが外周を走り回る。

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民謡や口説きの時とは、ガラッと異なる激しい乱舞である。

これが大踊り、これが無形文化財に指定されている。

風流踊りの流れを引くといわれる。美しい大きな灯篭を作り、みんなが飾り立て、激しく太鼓をたたき、音頭取りもここぞとばかりに歌い上げていく。

素晴らしいの一言に尽きる。糸井神社のなもで踊りの絵馬を見たばかりだが、あの絵が彩色されて、音付きの動画に代わったとみても、言い過ぎではないだろう。

近世、盆地内で廃れた風流踊りは、こんな形で十津川に残っているんだろうなと感動する。


盆踊りは大踊りの後、数曲を踊って、最後はお決まりの「伊勢音頭」で、終了した。

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小原盆踊り、8月になると奇数日に練習、7日盆は休んで8日にからは毎日練習、12日に休んで13日に開催という日程とのこと。

今日、15日は武蔵、明日の16日は西川で開催される。

実施の主体はそれぞれ、小原踊保存会、武蔵踊保存会、西川大踊保存会となっている。

朝から十津川を訪れた。はじめは谷瀬

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谷瀬の吊り橋。高さ54m、長さ297m。

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世界文化遺産、中辺路・・果無の集落
「雲を踏み嵐を攀て御熊野の果無し山の果も見しかな」『 南山踏雲録』伴林光平である



# by koza5555 | 2017-08-14 14:48 | 奈良 | Comments(0)

上ツ道・上街道を歩いてみよう

上つ道・上街道 (丹波市から桜井の札ノ辻まで)というテーマでお話をする。3年目に入ったエルトのカルチャーセンタ―、「おもしろ歴史講座」である。

エルトの改装で、このカルチャーもあと二回だけ。

今回は「上街道」、最終回は「山の辺の道」と決めている。

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9月1日(金)は、上街道、桜井の札ノ辻から話を始める。

桜井は中世から有数の交通の要衝地。全国的な経済人を輩出していることからお話を始めたい。

江戸の魚河岸は日本橋である。大正12年に築地に魚市場が移るまで、こちらが江戸と東京の魚市場だった。この魚市場は「和州桜井村の大和屋助五郎が魚商として市場を開いた(生け簀が人気に)」と『東京市史稿』に紹介されているのである。

「種々活鯛場を設け、広くこの地方(静岡県)の魚類を引き受け、売りさばきしが、ついで問屋の業を営む者を増やし、ついに本船町横店安針町に市場を開くに至り・・」で、これが元和2年(1616年のこと)とのことである。大阪夏の陣の直後である。


さらに同じころに江戸に入った桜井の車力がおり、その4代後の子孫が、江戸の豪商、奈良屋茂左衛門(もざえもん)。(?~1714)であるとされている。紀伊国屋文左衛門と張り合った豪商である。

太和屋助五郎は魚、奈良屋茂左衛門は材木、桜井が生んだ、痛快な偉人だろう。

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     桜井の札ノ辻跡、魚市場跡でもある

んな話から始めて、

桜井市札ノ辻、粟殿、三輪恵比須神社、三輪宿、桜井埋蔵文化財センター、芝村の織田藩、箸中と箸墓古墳、五智堂、大和神社のちゃんちゃん祭り、朝日観音と隔夜僧、青板橋と丹波市の市座神社などをお話しする。

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   長岳寺五智堂 。昔は板が張られており、旅人が休めたようである。

確実に楽しんでいただける。おいでいただきたい。

午後7時から、桜井市の駅前、南都銀行の二階のエルトにて。参加希望の方はメール、メッセンジャーで、直接ご連絡お願いします。

  メールアドレスは   kozaburo@cg8.so-net.ne.jp

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    こんなお話もいたします。芝村ですもの、織田藩です。


# by koza5555 | 2017-08-10 20:11 | 桜井・山の辺 | Comments(0)

山田寺跡

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山田寺の遺跡の草はきれいに刈られている。山田の大字の区長さんに聞いたら、「国に頼まれて刈っている。一年に何度も刈るよ」と言われた。「平らなところも多いので、四輪の芝刈り機も買った」とのことである。
それを小学校の孫が聞いて、「遺跡を守るために、みんなががんばっているんだ」と山田寺の遺跡を壁新聞に書くことを思いついた。

山田寺の跡地からは五重塔と金堂の跡が発掘されている。金銅の風招(大きな鈴)や鴟尾(しび)が発見されている。

さらにその後の調査で、回廊が土に埋もれた昔のままの状態で残っていることが分かり、古代建築の貴重な資料となった。

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東回廊は屋根付きの廊下で、87mもあり、中央には扉口もあった。この一部が東から西に向かって倒れ、土の下に埋まっていた。このため部材の保存状態はとても良かった。部材は柱、連子(れんじ)、大斗などが、完全に近い状態で発見された。日本で一番古い建物の姿がわかる世紀の大発見である。


山田寺の建物の配置は南から、南大門、五重塔、金堂、講堂となっている。そして五重塔と金堂は回廊というものに守られている。講堂は回廊の北側で回廊の外にある。

そして
金堂の中には丈六の仏像が祀られていた。白鳳時代に作られた、この仏像は奈良の興福寺に移されて、その後火事で体が溶けてしまった。残った頭部は布に包まれて500年もお堂の下に保管されていた。それが近代に発見されて、いまは国宝になって大事にされている。
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飛鳥資料館にもそのレプリカが展示されている。

山田寺は大化の改新に参加した石川麻呂が建て始めた寺院である。このころ各豪族がさかんに立てはじめ氏寺という寺院である。石川麻呂は曽我入鹿のいとこだが、曽我入鹿を殺害したクーデターに加わり、右大臣委任ぜられたが、その後、反乱の疑いが晴れ、皇室の援助で造営が続けられ、7世紀後半に完成したている。


こんなことを小学生のユキト君が一所懸命書いている。僕は遠くから見学するだけだ。
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最後の付録に山田の村で見かけたかんぴょう干し・・おいしいだろうなあ
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# by koza5555 | 2017-08-08 15:34 | 桜井市と安倍 | Comments(0)

大碓命と猿投神社

猿投神社(愛知県豊田市)に参拝。古事記ツアーの成功を祈ってきた。

御祭神は大碓命である。景行天皇の第一皇子で小碓命と双生児の兄である。

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①古事記によると、大碓命は小碓命(ヤマトタケル)にみじめに殺されてしまう。

②日本書紀の話はそれと異なる。東国攻めを命令されたが、恐れて従わなかったため、美濃国を任地とされ、美濃に下らされたとされる。

③皇后である播磨イナビ(印南)ノオオイラツメを母として、大碓、小碓は双子として生まれた。双生児は兄を育てないという慣習があったが、イラツメが大碓を隠して守り育てたという説話が残されている。大碓命を殺したとか、美濃に追いやったという話は、この双生児に絡んでの説話かとも思える。

併せて、双生児はどちらかが左利きという伝承も残されている。

この、大碓命の生涯がとても気になるのである。

この大碓命を祭神とする猿投神社が、愛知県豊田市猿投(昔は西加茂郡猿投町)に鎮座することを初めて知った。

40年も前に猿投神社経由で猿投山に登ったことがある。その猿投神社である。

大碓命は東征の命に服さなかった為に、美濃国に封ぜられる。命は三野国造の祖神の二人の娘を妃とせられ、二皇子(押黒兄彦王、押黒弟彦王)をもうけられたとされる。

ちなみにこの押黒彦王が牟宣都君(むげつのきみ 武儀郡)の祖先となった。

猿投神社の社殿によれば、大碓命は「猿投山山中にて蛇毒のために薨(こう)ずる。すなわち山中に斂葬(れんそう)し奉る」とされている。

古事記には記された、「兄の手足を切り、コモにくるんで投げ捨てた」と答えたヤマトタケルの乱暴ぶりは無かったと考えようという論も古代からあったということである。

猿投神社には絵馬のように鎌がいっぱい掛けられていた。大きな、そしてそれが鉄製などで、「左鎌」とあった。

古来より左鎌を奉納して祈願する特殊な信仰がある。その由来については記録がないので判然としないが、古老の言い伝えによれば、双生児は一方が左遣い(左利き)の名手であると言う。祭神・大碓命は小碓命(日本武尊)とは双生児であるので人々が命(大碓命)左遣いであらせられ、当時左鎌を用いてこの地方を開拓せられた神徳を慕って所願の成就を祈るときに左鎌を奉納する。

職場安全・交通祈願を会社関係者に祈られおり、そのときに左鎌が奉納されるようになったという。

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奉納された左鎌。さすが豊田市、トヨタをはじめトヨタ系列会社や職場のオンパレードである。ペラペラなブリキ板みたいなものではない厚くて重い鉄製・・である。

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拝殿前の欄干には親子猿の彫り物・・猿投神社である

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神社から歩いて70分。西宮

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大碓命墓。宮内庁の管理であるが、「朝一番に参られた方は、下のペットボトルの水を花差しに注いでください」とある。僕も注がせていただいた。

大碓命はヤマトタケルの陰に隠れてしまうけど、なかなかいい男なんだ…

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素晴らしい境内、猿投神社



# by koza5555 | 2017-08-04 12:28 | 万葉の旅 | Comments(0)

幕末に成った神武天皇陵

「神武天皇の即位」というツアーである。

実在性はともかく、神武天皇のゆかりの地が残されている。

これを勉強して、組み立てて案内する。これはガイドのだいご味である。

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神武天皇陵

『天皇陵の誕生』(祥伝社新書 外池昇)が適切な解説本か。

「第二章 蒲生君平が求めたもの――『山稜史』を読み直す」・・これが面白いが、今日はここをスルーして、「三章 幕末に成った神武天皇陵――聖域に群がる人びと」を紹介したい。

神武天皇は初代の天皇である。その陵であれば、はるか太古の時代に成ったもののはずである。だが私は、本章のタイトルに「幕末に成った神武天皇陵と書いた」。太古の時代のはずの神武天皇陵が「幕末に成った」とは、いったいどういうことなのだろうか。

初代が神武天皇である。…今日積極的に取り上げられる機会が少ないというのは、ご承知の通り、今日では実在した人物とは考えられていないからである。

実在したとは考えられていないのではあるが、『古事記』にも『日本書紀』にも、その所在地について、具体的な記述がある。

『古事記』  「畝火山北方白檮尾上」

『日本書紀』 「畝傍山東北(うしとら)陵」


そして、

幕末期には神武陵は三か所。『聖蹟図志』に示されていて、

①「今日神武陵、一説には綏靖天皇陵(第二代)たり」と四条村の塚。

②「山本村神武田」(じぶでん)。旧塚と新塚の二つの「塚」がみえる。神武天皇陵と書かれず、「廟社の地」とされていた。

③「三番目は畝傍山手前の山である」。「この一丘は御陵また丸山、神武天皇畝傍山東北陵」とある。日本書紀にある神武天皇陵についての記述のままの文言である。

時は幕末、文久の修陵というさなかである。

②の神武田を主張したのは谷森義臣である。天皇陵の研究家して文久の終陵では大きな影響力を発揮していた。

③の丸山を推したのは北浦定正で、尾上という古事記の記述をもとに主張した。

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   丸山はこちらである。「御陵又丸山」と今も記されている

①の四条村の塚は、幕府の公認陵ということもあり、推すものがなかったという。

この論争の結論はつけたのは孝明天皇。「御沙汰書」が出された。「神武田で決めなさい、但し丸山も粗末にするな」という沙汰だった。



明治11年には、四条村の塚は第二代綏靖天皇陵として治定されている。

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これが綏靖天皇陵


文久の修陵の当時は、神武天皇陵としての陵域が確定されたことがよくわかった。


文久山稜図  荒蕪

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文久山稜図  成功

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神武天皇陵御陵真景(明治34年 奥野陣七による)では、以上の二つの塚が示されていたが、

神武天皇畝傍山東北陵の図(大正15年)では、方墳、中心に円墳が一つとなった。


以上のような解説をしても、「なぜ、この地に三カ所の神武天皇陵の候補地ができたのか?」、言い換えれば、古事記・日本書紀は、この地になぜ初代天皇の陵を考えたのかという疑問は残るだろう。

古事記・日本書紀が準備された時期には、「藤原京の近くに初代天皇陵を求めた」という論を展開する学者もいるのである。

前橿考研の今尾文明さんなどは、それを解明して「都市陵墓」としての神武陵などという論も書かれている(『明日香風』122号 平成24年1月号)。説得力のある論で、これはこれとして又の機会に紹介したい。

「神武即位」をテーマにしたツアーは12月6日(水)に、予定している。


# by koza5555 | 2017-07-31 14:02 | 橿原・明日香・吉野 | Comments(0)

平井大師山と丹波佐吉

菟田野の北東、平井の大師山に残る四国八十八カ所を模した霊場。幕末の石工、丹波の佐吉照信が弟子たちと共に刻んだもので約百体の石仏が大師山をとりまいている。各石仏には本尊を浮き彫りにして、本尊の仏名、霊場番号、霊場名を刻んでいる。

この霊場は、嘉永、安政の頃(1848~1859)に各地の施主によって寄進、建立されたもので、台石に寄進者の指名が残されている。とりわけ十九番、立江寺の地蔵石仏は小形ながらも秀作といわれている。(宇陀市観光協会 平井大師山席仏群)


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順番に回ったが初めの写真は第87番の長尾寺聖観音である。


矢田寺の四国八十八カ所霊場を回ったことがある。聖林寺の裏山にも八十八カ所霊場が設けられていて、上がらせていただいたこともある。さらに僕は、四国の霊場を回ったこともあるのである。

それぞれ、特徴があるわけで、比較はできないが、平井大師山は丹波の佐吉が彫った、あるいは助手に彫らせたというところに意味があるんだろう。
丹波佐吉はこの地の大地主、美登路家と一族の平田彦八郎に招かれた。佐吉は十人ばかりの弟子とともに、嘉永4年(1851年)から三年掛かりで石仏を刻み続けたとのことである。

歩くにつれて、その魅力に引き込まれ、汗をかきながら完歩である。

素晴らしい石仏群、折々の大師像、仏塔も見逃せないのである。

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86番 志度寺十一面観音

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45番 岩屋寺 供養塔 不動明王(佐吉の銘あり)

モミジの季節、桜の季節がベストで寒い冬も好適だが、夏は今は厳しいものがあり、訪問は季節を選びたい。


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最後はいつものお遊びで


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あかい奈良』  平成6年夏号 「丹波佐吉と大和」 長田光男著 参照


# by koza5555 | 2017-07-25 16:04 | 宇陀 | Comments(0)

古事記でたどる大和の旅

「古事記でたどる大和の旅」をご案内する。9月から12月まで、クラブツーリズム大阪の企画である。いずれも大阪発(新大阪と天王寺)で第三水曜日の催行である。

『古事記』といえば・・・神武天皇とヤマトタケルだろうか。書き記した太安万侶、読み上げた稗田阿礼も欠かせない。

日本最古の歴史書である『古事記』を舞台に全4回で奈良を旅するシリーズツアー。

『古事記』といえば神撫天皇、悲劇の皇子・ヤマトタケル,誦習したのは稗田阿礼、筆録したのは太安万侶。『古事記』に関わる英雄とそれを誦習、筆録した人をテーマにしました。クラブツーリズム テーマ関西より


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    丹生川上神社中社

第一回目は「神武天皇の東征 ゆかりの地めぐり」で、9月20日

で、丹生川上神社中社、宇賀神社・血原橋、八咫烏神社、墨坂神社を訪ねる。
昼食は大宇陀道の駅のレストラン甘羅。

第二回。「大和青垣にヤマトタケルをしのぶ」。10月18日の催行である。

日本武尊琴弾原白鳥陵、景行天皇陵、黒塚古墳館、石上神宮を訪れる。人気の「道の駅かつらぎ」でも、ゆっくりくつろいでいただき、昼食は柿の葉ずしヤマトあすか店である。


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日本武尊琴弾白鳥陵

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               太安万侶墓・奈良市田原
第三回は「稗田阿礼・太安万侶ゆかりの地めぐり」で11月15日である。ツアーは錦秋の大和高原から始める。

太安万侶墓、神功皇后陵(佐紀盾列古墳「」群)、賣太神社・稗田環濠集落、多神社というコースで奈良・大和郡山・田原本を訪れる。食事は倭膳 たまゆら‥ご満足いただけるだろう。

12月は「即位した神武天皇」をテーマに橿原神宮、神武天皇陵、等彌神社、大神神社を訪問する。12月は変則で6日(第一水曜日)を予定している。

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     橿原神宮 久米舞

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このシリーズツアーの工夫したところは、『古事記』を語りぬきたい、併せて、ひろく奈良を回っていただきたい・・だった。思惑通りのコースができた。全コースの参加をお勧めしたいが、日程、時間もあります。今回は一回ごとの参加ももちろんできます。

お待ち、いたしております。

お申込みはクラブツーリズム大阪 06(6733)0090



# by koza5555 | 2017-07-23 07:48 | 奈良 | Comments(0)

黒塚古墳と長岳寺。話題の「洋食Katsui」の特製お弁当―

大人の学校、今秋は「雜賀の歴史ウォーク」を開催する。毎月、第四水曜日を目安に3回の実施である。

今秋の計画・行先は

★1025日(水)山の辺の道 黒塚古墳と長岳寺。話題の「洋食Katsui」の特製お弁当

★1122日(水)平群のロマン 鎮まる古墳から大和の歴史を考えるー

★1213日(水)纒向遺跡と三輪そうめん ―あなたもの三輪そうめんの手延べ体験に―

今回は山の辺の道を集中的に取り上げ、その間に奈良盆地の対角線の平群谷を案内することとした。

要綱は以下のとおりで、お申し込みは「大人の学校」だが、今日はとりあえず僕のメッセンジャー にお願いします。

今日、紹介するのは

1025日(水)山の辺の道 ―黒塚古墳と長岳寺。話題の「洋食Katsui」の特製お弁当

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「山の辺の道いいとこどり」と題して、山の辺の道を歩きたい。崇神天皇陵や神籬(ひもろぎ)、相撲神社を訪ねて、初期ヤマト政権のふるさとを訪ねる。山の辺の道に新しくオープンした「洋食Katsui」のお弁当をいただくグルメウォーキングである。

「三輪山をしかも隠すか雲だにも 心あらなも隠そふべしや」(額田王)を歌いながら、三輪山を仰ぎ見て歩くウォーク、ぜひおいでいただきたい。

■行き先 山の辺の道 柳本から巻向へ

■実施日 平成27年10月25日(水)雨天決行

■集合時間 午前10時 

■集合場所  JRまほろば線 柳本駅改札口前

■コース(歩く距離 6km程度)

柳本駅  黒塚古墳 → 崇神天皇陵 → 昼食(洋食Katsuiのお弁当) → 長岳寺  → 神籬(ひもろぎ)→ 穴師坐兵主神社(相撲神社) → 珠城山古墳 巻向駅解散

高低差はほとんどありませんが、未舗装路を歩きますので、歩きやすい靴でおいでください。

■参加費 3200円 拝観料(350円) 食事代(2000円) 資料代他経費・講師料(850円)

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   洋食の勝井のお弁当を


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22日(水)平群のロマン 鎮まる古墳から大和の歴史を考えてみるー

倭建命(やまとたける)が「命の全(また)けむ人は 畳薦(たたみごも) 平群の熊かしが葉を 髺頭(うず)に指せその子」と歌った平群。

平群谷は古代には巨大な勢力を誇った平群臣の本拠地である。さらに、この地には反逆の汚名を着せられた長屋王が葬られたという歴史も残されていて、今は穏やかに鎮まる古墳から、日本の歴史を考えてみるウォークである。平群谷の紅葉も満喫したい。

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   烏土塚古墳

1213日(水)纒向遺跡と三輪そうめん ―あなたもの三輪そうめんの手延べ体験を―

12月は「大神神社と三輪そうめん」にご案内いたします。そうめんは奈良が発祥の地、その中でもそうめん作りをリードしてきた本家本元の「山本」で、そうめん延し体験と美味しいそうめんを味わっていただきます。

食事後は箸墓古墳と纒向遺跡をご案内いたします。

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そうめん手延べ体験・・自分で手延べした生そうめん、お持ち帰り



# by koza5555 | 2017-07-20 15:50 | 桜井・山の辺 | Comments(0)

談山神社 一日ウォーク

談山神社だけを一日かけて、ご案内するツアーを「やまとびとツアーズ」で、企画した。紅葉が始まる10月29日(日)である。

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「マイカーでもバスでも参加しやすいでしょう」で、今回は談山神社のバス駐車場(ふく屋前)に集合である。


 神社を徹底してご案内する。歴史と現在をつなぐお話をしたい。

 御破裂山にも今回は登ることとする。

明治維新の時、神仏分離のさいには「妙楽寺をこちらに残そう」ならと検討された、念誦窟(ねずき)にも訪れる。

やまとびとツアーズの募集パンフレットの紹介は以下の通りである。

◆「古くから国家の不祥事があると鳴動するという“御破裂山”」観阿弥・世阿弥の本拠地で、能楽の起こりと深い関わりを持つ“権殿”」「妙楽寺時代の僧侶が眠る墓所“念誦窟(ねずき)”

談山神社には、大化の改新談合の地・・・だけではない、複雑で深い歴史があります。本ツアーでは、奈良まほろばソムリエの会理事であり談山神社氏子総代も務める、雜賀耕三郎氏に1日じっくりと境内をご案内いただきます。そして、特別に日本唯一の木造十三重塔の初層開扉や正式参拝もしていただきます。

 今回はあえて談山神社のみで一日を過ごしていただく事で、より深い新たな大人旅をご提案いたします。

◆スケジュール

10:15 談山神社駐車場 出発 --- うすずみ桜 --- 入山 --- 東殿(恋神社) --- 三天稲荷神社 --- 拝殿(正式参拝) --- 十 三重塔(初層特別開扉) --- 総社拝殿 --- 神廟拝所 --- 1215社務 所(昼食) --- かたらい山、御破裂山 登拝 --- 念誦窟(ねずき)増賀 上人墓--- 西大門跡 --- 1515 解散予定

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◆ご旅行代金は

お一人様 5,980

(講師料、拝観料、軽食代、保険料、消費税込)

◆歩行距離

2km

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私がご案内いたします。ぜひ、おいでください。
申し込みは やまとびとツアーズ 0744 43 8205 まで



# by koza5555 | 2017-07-18 21:43 | 桜井・多武峰 | Comments(0)

談山神社と談山雅楽会

談山神社の社報は『談』(かたらひ)である。桜井市の全域での新聞折り込みと「談の会」(崇敬会)会員に郵送で配布される。
この社報の2ページ目が僕の担当で、7月15日号は、談山神社の神事に奉仕される「談山雅楽会」を紹介した。

談山神社の四季折々の神事には、雅楽の伴奏が欠かせない。

神事の始めは神職の参進(入場)である。この参進に合わせて厳かな雅楽の伴奏が行われる。神事がすすみご本殿の開扉となる。ここではしめやかに笙(しょう)が奏でられる。献饌、玉串奉奠、撤饌、閉扉、退下と進行に合わせて雅楽の演奏は続く。談山神社では、この雅楽を談山雅楽会がほうしする。

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「神事にあたり雅楽会の奏者がまず入場、整列して着席します。参列者のみなさんは、私たちの姿を見て、坐り直されたり、姿勢を正されたりするのです。始まるなという緊張感を共有できます。神職が参進、そこで演奏を始めます」と、談山雅楽会の松本永二郎代表が語られる。松本さんは「神さまは音楽が好きなんです。神様に喜んでいただきながら、神事の進行を支えるのが雅楽です」と、雅楽会の役割も説明される。


この談山雅楽会は平成7年に結成された。「雅楽を習いましょう。演奏しませんか」と談山神社が呼びかけて同好者が集まった。談山雅楽会としての形を整えて20年以上も神事の雅楽奉仕を務め、演奏力の向上のために練習を続けてきたのである。


笙を吹く久保順子さんは結成当時からの会員である。久保さんに雅楽への思いをお聞きすると、「何も知らずに雅楽を始めました。子供のころから親しんだ談山神社が、雅楽の奉仕者を求めていると知り応募しました。20年以上、笙を吹いてまいりました」と神社への思いを語っていただき、「みんなで雅楽の練習を重ねて、神さまの前に並んで一心に奉納の演奏をするのが好きなのです」と話される。

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       練習風景である

その言葉を受けて、松本代表は「談山神社は雅楽演奏の最高のロケーションです。ご本殿前の演奏があります。いつでも心が引き締まります。神幸祭と春・秋の蹴鞠祭での道楽(みちがく・歩きながらの演奏)もやりがいがあります。屋外ですから力一杯吹いても、音は空に散って行きます。力を込めて吹く、息は苦しいがやりがいのあるすばらしい経験です」と語られた。
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          松本永二郎 談山雅楽会代表

神廟拝所での雅楽奉仕は観音講祭だけである。江戸時代まではお寺の講堂として使われてきた神廟拝所の音響効果は抜群で、そのうえ、ここにはとっておきの壁画が描かれているのだ。上部欄間の壁画には笙(しょう)、鼓(つづみ)・太鼓などで天女が雅楽を演奏し、舞う姿が描かれている。こちらの神事では、雅楽会が演奏して音を出し、壁画の天女奏楽図も無音の演奏をするのです。「ここだけ、この日だけ」の感動を味わうことができるのである。


観音講祭は毎年、6月の第四日曜日、今年は終えたばかりだが、来年はぜひ訪れていただきたい。

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神廟拝所、壁画

もともと談山神社(妙楽寺)は能楽が生まれ育った場所とされる。中世から近世にかけての多武峰の猿楽(現在の能楽のこと)は、大和四座(金春・金剛・観世・宝生)が一堂に参勤する盛大なものだった。こちらでは毎年、新演目が披露され、これが猿楽の発展に寄与したとされている。

談山神社は音楽と芸が溶け合った芸能の地で、こんな場所で生また談山雅楽会、その演奏と活動に期待を寄せて、注目してゆきたい。

談山雅楽会が奉仕する談山神社の祭祀は以下のとおりである。

1月  福禄寿大祭  雅楽始め

4月  神幸祭と蹴鞠祭

6月  観音講と鏡大王祭

8月  献灯祭

10月  嘉吉祭

11月  蹴鞠祭と新嘗祭

神社外では三輪戎神社(初えびす)、等彌神社(大学ゆり祭)、與喜天満神社(初瀬まつり)、妙顕寺(大阪府)に奉仕している。

申し込みにもとづき各種団体、施設、学校、社寺などへの出張演奏も行う。

雅楽会は入会を、常時受け付けている。参加条件はなく、会費は無料。練習は原則第2・第4土曜日の午後、談山神社境内で行う。

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# by koza5555 | 2017-07-16 05:50 | 桜井・多武峰 | Comments(0)

ヤマトタケル

10月に、古事記に沿ってヤマトタケルをテーマのバスツアーをご案内する。

ヤマトタケルは乱暴者?

ヤマトタケルは知力と武力に優れた英雄?

ヤマトタケルは退路を断たれた悲劇の主人公?

ヤマトタケルのイメージが溢れつくすようなツアーを実施したいものである。


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大和琴弾原陵(御所市)。大和のヤマトタケルの陵。竹藪の中、外周を歩けるが、これは方墳だろうか

ヤマトタケル、
古事記や日本書記を見直してみるが、「魅力、どこ?」と遠い人なのである。
そこで、
例えば黒岩重吾はヤマトタケルをどんなふうに書いているのかなと考えて…ぺらぺらと読んで見た。
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ヤマトタケルのにし・東に遠征する前の大和での生活を考えるとき、兄さんの大碓命との関係は重要である。

兄に出仕するように教え諭せと天皇に言われるが、ヤマトタケルは「手足をちぎり、コモにくるんで投げ捨てた」との乱暴を兄に対して行ったと古事記は記す。

ここをしっかり考えたい。古事記のツアーだが、ここは書記の力を借りなければどうにもならない。数知れない景行天皇の皇子のうち、大碓命とヤマトタケルは母をともにする兄弟である。自らの力を弱めるような、そんな乱暴するんだろうか。

古事記によれば
景行天皇の時に、天皇は美濃の大根王の兄比売、弟比売の二人の娘が美しいと聞き、妻に迎えようと大碓命を派遣する。ヤマトタケル(小碓)の同母の兄である。

ところが大碓命は、その二人の娘を自分の妻にしてしまい、代わりの娘を偽って大和に連れ戻った。天皇はそれに気づくが、大碓命を処罰することはなかった。

大碓命が兄比売に産ませた子は宇泥須和気(うねすわけ)の祖先となり、弟比売に産ませた子は牟宣都君(むげつのきみ 武儀郡?)の祖先となった。

こんな状況だから、大碓命は天皇(景行天皇)を避けるようになってしまう。そこで弟の小碓命に、「出仕せよと教えさとせ」と命令する。

小碓命は、「兄の手足をちぎり、コモにくるんで投げ捨てた」と答えた。

天皇はその乱暴ぶりを疎ましく思い、「西の熊襲を撃て」と追い払った。

これが、古事記である。

日本書記は、ここらあたりはだいぶ違う。

天皇が美濃の国造の娘、兄遠子、弟遠子を召し上げようと大碓命を遣わすが女と通ずて、天皇が恨みに思うのは同じである。

その後、天皇は熊襲を撃つ。「倭は国のまほろば たたなづく 青垣 やまごもれる 大和しうるわし」を」歌われたとされる。

こうして、いったんは平定する。さらにヤマトタケルを熊襲征伐に改めて、送ったとされていて、日本書紀には「大碓命を殺した」という話がないのである。


黒岩重吾はこれを取り上げて
500ページの「白鳥の王子 ヤマトタケル 日本の巻」を書き上げてしまった。

大碓命は山背で、秘密の屋敷を持ち兄比売を住まわせるが、天皇の知るところとなり、ヤマトタケルに「大碓命を殺せ」と命令するのであるが、ヤマトタケルは兄を殺さず、美濃に兄を送ったという話を作り上げた。

古事記と日本書記の折衷であり、またその後に大碓命が美濃や尾張・三河に足跡があるとの伝承を取り入れ、まとめ上げているのである。


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愛知県豊田市に鎮まる猿投神社の御祭神は大碓命。しかもこちらには大碓命の墓も残されているというのである。
こちらは猿投山への登山口に当たり、僕も立ち寄ったことがあるのである。写真はないので、Wikipediaから借用した。


イナビ(印南)ノオオツラヒメを母とする大碓、小碓をライバルとして敵視し、疎んだ、皇后のヤサカノイリヒメの策略による攻撃を合間に挟んで、話が楽しめるようになっている。
ちなみに大碓、小碓の母は早く亡くなっている。皇后のヤサカノイリヒメの長男は成務天皇(第13代)である。


ヤマトタケルの西征、東征にはこの皇后の意向が働くのかという予測があり、ヤマトタケルの繰り返しの遠征は景行天皇の意向というより、皇后の意向なんだろうか・・・

景行天皇をめぐるヤサカノイリヒメ(成務天皇の母である)と大碓命とヤマトタケル(仲哀天皇の父である)の力関係とか、微妙におもしろい。

使命に生きたヤマトタケル、愛に生きた大碓命がとっても好きになった。


登場人物が、とりあえず好きになること、それが講演やツアーの成功の第一歩である。

ヤマトタケルの三陵を拝見してきた。

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  • 能褒野墓。三重県の亀山市、考古学では「能褒野王塚古墳」である。
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    隣接の能褒野神社。明治18年(神社境内説明看板による)
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  • 白鳥陵(しらとりのみささぎ)御所市富田。琴弾原古墳。幅約28メートル×約45メートルの長方丘とされる。
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  • 白鳥陵(しらとりのみささぎ)大阪府羽曳野市。考古学名は「軽里大塚古墳」







  • # by koza5555 | 2017-07-11 20:12 | 奈良 | Comments(0)

    龍田大社 風鎮大祭

    龍田大社(生駒郡三郷町立野(たつの))の風鎮大祭を拝見した。七月の第一日曜日である。

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    奉納される風神花火(手筒花火)

    太鼓や河内音頭の神振りの奉納の後、風神花火で神様に火のごちそうをお供えするという祭である。四月の風神祭とならんで、五穀豊穣の例大祭の位置づけである。付け加えれば10月の秋季大祭は収穫感謝の祭となる。


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    風神太鼓の奉納と河内音頭で神賑わい

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    風神花火

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    フィナーレ ナイヤガラの滝とか・・・


    こちら三郷町の龍田大社は大和川の右岸、河合町の廣瀬神社は左岸に位置して、その立地は対であるが、古くからの祭祀、神社の在り方も対とされている。


    これを引き継いでいる両社の祭も対で、龍田は風鎮、広瀬の砂かけは雨・水の祈願である。

    雨を降らせ、風を抑える、これは農業、稲作の根源の祭祀といえよう。


    平安時代(延喜式)には、宮廷の四時祭(四季節の祭)の一つで,広瀬神社の大忌祭、龍田大社の風神祭は4月,7月の4日に祭りが営まれたとされている。

    しかもこれが『日本書記』に記されている、天武天皇の時代からの祭というのがすごい。

    「天武天皇4年(675年)410日に勅使を遣わして風神を龍田立野に祀り、大忌神を広瀬河曲に祀った」、これが、龍田と広瀬の始まりである。

    「我が宮(広瀬の河合に奉る水の神)は朝日の日向の所、夕日の日隠(ひかぐる)る所の龍田の立野に、吾が宮(龍田の神、風の神を)を定め奉」れば、公民の暮らしは成り立つ(延喜式)。

    また『延喜式』に記された祝詞、「龍田風神祭祝詞」によれば、

    「崇神天皇の時代、数年に渡って凶作が続き疫病が流行したため、天皇自ら天神地祇を祀って祈願したところ、夢で天御柱命・国御柱命の二柱の神を龍田山に祀れというお告げがあり、これによって創建された」とも記される。

    天照大御神はニニギの尊に稲と稲作の力を持たせて降臨させたというのが、古事記・日本書紀に記されている。稲作は神の教え、稲作は神そのものをたたえる行為とされているのである。風鎮大祭の根源は深いものがある。



    # by koza5555 | 2017-07-03 09:36 | 奈良 | Comments(0)

    古事記完全講義

    竹田恒泰著、『古事記完全講義』。学研である。500ページはあるんだけど、面白い。三日がかりだった。

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    今日は、「稗田阿礼と太安万侶の最強ペア」のことを紹介したい。

    こちらは、すべて型破りの古事記解説であるが、稗田阿礼と太安万侶の紹介は極めて興味深い。

    お手本にしたい四方八方を丸くおさめる歴史書の書き方

    公式の歴史書だから、各地方からのクレームがつくことは予想される。

    「確かに出雲も、南九州も、熱田も大和も、みんな「ふむふむ」と大方納得する歴史書になったんです。

    稗田阿礼も太安万侶も天才ですから、言葉一つひとつにものすごい神経を尖らせているんです。状況設定も非常に細かい、ありとあらゆるところが、これまでに書かれた着たあらゆる文言と文章が、国譲りの正当性を担保するような書き方になっているんです。そこまでして初めて、国を譲った側、譲られた側、両方が納得できる歴史書になっているわけです。

     やっぱり日本人って和の精神なんですね。「俺たちの正義を押し付ける」じゃなしに、どうしたらみんなが納得できるか、ということを探求して、こういうものをつくり上げてきた。これは、本当に天才の成せる作業だと思います。(p311)

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    太安万侶・・いないという論もあったのだが、お墓が出て墓誌が出て・・・・

    天孫降臨が見事である。神から人へのエピソードをきわめてクリアに示されている。

    天下ったニニギノミコトは木花佐久夜ひめと結びつく。親が大山祇という設定がすごい。追わば国ツ神の代表である。

    さらに、「姉の石長ひめを帰してしまって、そこから寿命が与えられた」となっている。寿命ができるということは、神から人への移行で、これもとても自然の流れとなっている。

    さらに、その子供のホデリの命、山幸彦である。こちらは綿津見神の娘と結婚する。綿津見神は海神である。国ツ神である。

    こちらから、ウカヤフキアエズノミコが生まれ、その子たちが五瀬命やカムヤマトイワレビコである。東征が始まるということだ。


    神から人となり、山の神、海の神の娘たちと結びつくという展開は見事で、天照大神の神勅を前提としつつも、実質的な地上の支配の体制を築き上げていくのである。

    稗田阿礼、太安万侶の構想力、文筆がさえわたるところである。

    古事記は二人の天才の手により完成した。長く埋もれることとなったが、本居宣長によってその全貌が解明されるのである。


    古事記完全講義(竹田恒泰著)は古事記のすごさと面白さを際立たせる素晴らしい講義となっている。

    この本、僕には認めにくいところも多々あるが、それを差し引いても読むべき価値がドーンと上回った。ぜひ、お勧めしたい。

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    # by koza5555 | 2017-07-01 22:15 | Comments(0)

    阿部八幡神社で伐採…樫の木が5本くらい切られてしまう

    阿部区の氏神は八幡神社。元々は山の中、そして谷首古墳の墳頂に鎮座する。

    檜などの針葉樹、樫などの常緑樹が茂り、阿部文珠院の南側、鎮守の森としてひときわ目立つ大きな森として威容を誇ってきた。

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    阿部の村から見ると東の山の奥にあったのであるが、この20年ですっかり様変わりである。僕が神社に奉仕することになってからの6年の間でも、宅地化、都市化の進行が激しくて大きな鎮守の森が・・問題となってきている。

    6年前に10本くらい切った。南側が中心だった。本殿の周りの桜なども、佐藤宮司の「ふさわしくない」との指摘で処分した。

    クレーンが入り、森林組合が入るという伐採、だけど売れるような木はなく阿部連合区の負担である。

    その後、北側、東側が問題となった。落ち葉、枝落ち出が問題で、倒れたりの危険も木もできる。立ち枯れの木もある。

    週明けから本格的な伐採となり・・・神様に伐採の報告、作業の安全祈願祭を斎行することとなった。

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    わが社の宮司は神職一級の佐藤さんである。

    祝詞を聞きながら考えた。

    大山祇の神と大神に伐採を報告された。「やむを得ないんだ」という祝詞である。いわば国ツ神に報告された。

    今回も10本ほどの伐採だが、ほとんどは樫の木である。

    四季を通じて常に緑葉を保っている樫の木。次々と葉が出て、更新する樫の木は、尽きることのない生命の泉というニュアンスである。

    古事記にヤマトタケルの辞世の歌がある。「倭は国のまほろば」であるが、さらに「命の 全(また)けむ人は たたみこも 平群の山のくま白梼(かし)が葉を 髺頭に刺せ その子」である。

    さらに神武天皇は「辛酉の歳(神武天皇元年)の正月、52歳を迎えた磐余彦は橿原宮で践祚(即位)し、始馭天下之天皇(はつくにしらすすめらみこと)と称した」とある。

    畝傍山のふもとには樫の木が多かったのかな、なんて気楽に考えていてはいけない。

    樫の木のように、常に、永遠の力・・・の場所、宮ということなんだろう。

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    阿部八幡神社の臨時祭祀は拝殿での祭りを終えた後、境内の周囲を一周(周囲が一周できるようになってしまったのである)して、要所、要所で祈りの儀式。

    「紙と大麻」を宮司が「さゆうさ」(左右左)でまき、5人ほどの役員がお米、酒、塩を 左右左である。

    山の神、血の神に鎮まっていただき、足の曲がり、手の曲がりなきよう祈って、阿部八幡神社の伐採は7月3日からである。

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    大きな木を切るのである。しかし、切り倒すというやり方ではなくクレーンで吊りながらの伐採。だから葺石とかハニワなどは掘り起こされないようだろうけど、あったら、拾っておこうかな(笑)、桜井市の埋文などには連絡は必要ないのだろうかなあ。




    # by koza5555 | 2017-07-01 14:36 | 桜井市と安倍 | Comments(0)

    外山(とび)不動院不動明王

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    6月28日は外山不動院の大祭である。外山不動院は毎月28日に「護摩祈祷会」を厳修されているが、一年に一度の大祭は6月である。外山中筋町は子供会も含めて、町挙げての行事でもある。「和の一と」の和太鼓の演奏があり、護摩法要が行われる。
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    真言宗である。国道を挟んでしまったので見えにくいが、宗像神社の参道に西面している。

    宝形造本瓦葺きのお堂があり、古くからの由緒も感じさせられる。
    元々は外山にいた長谷川党が建てたという長谷ケ堂の名残のとのことで、付近には経蔵山・ハセガ堂の地名が残っていると聞いた。

    ご本尊は不動明王坐像で、国により重要文化財に指定(昭和633月)されている。


    像高85㎝。左目を閉じ、頭頂に沙髻(しゃけい)を表す平安後期の不動明王の姿である。檜材を用いた寄木造で、現状はほぼ古色を呈しているが、当初の華麗な彩色をとどめており、条帛の背面部や裳の一部にに切金文様が認められる。二重円相を透かした火炎光背と、七重の瑟々座が揃う王朝様不動明王像の本格作は、奈良県下でも珍しい。(境内桜井市教育委員会掲示)


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    左目を閉じている。不動明王で、左眼を閉じ右眼を開けて睨むのを「阿遮一睨(あしゃいちげい)」と言うそうである。「すべてを見通すぞ」という感じですごみがある。


    今日はそうめんのお接待が (具が乱れているのは、少し食べたから)

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    毎月28日の午後2時から護摩を焚いており、地元をはじめ遠方からの信者も熱心に参拝されているとのことである。

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    # by koza5555 | 2017-06-28 21:06 | 桜井・多武峰 | Comments(0)

    大神神社と「夏越し茅の輪」

    大神神社に夏越しの茅の輪が架けられた。夏至の日からだろう。79日まで置かれる。

    青々した杉、松、榊が掲げられた茅の輪をくぐってきた。

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    「杉、松、榊の三木は神霊の宿り給う霊木である」と記されていたが、「なにゆえ茅の輪」

    というのも知りたいものである。

    これが、「なぜ日本人は神社にもお寺にも行くのか」島田裕巳著 双葉社に記されていた。

    「このみわの明神は、社もなく、祭の日は、茅の輪をみつくりて、いはのうへにおきて、それをまつる也」と奥義抄(平安時代の歌学書)にあるとされる。

    大神神社には、本殿も拝殿もない時代があり、その時代には、山を、そしてその岩を依り代として祀る時代があったと、これはみんなの共通認識だが、その祭りには「茅の輪を岩の上に置きて」祀ったとあるのである。

    茅の輪は夏越しの祓にとどまらず、神を祀る基本的な姿であった模様である。

    心してくぐらせていただいた。

    「神社にもお寺にも行くのか」は、神社のこと、お寺との関係のことが極めて端的に示されている。今年の423日刊行であるので新刊書だが、僕は桜井市図書館でお世話になった。

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    神社の古来の姿が解明されている。


    今日は社殿のお話だけ紹介しよう。

    出雲神社榜示図というのが残されている。出雲大社ではない出雲神社で、京都の亀岡市にいまも鎮まる。鎌倉時代の榜示図が残されている。領域を示す図であるが、ここには山があり鳥居が一本たっているだけだった。現在はこの鳥居のあたりには社殿が建てられている。

    鎌倉時代には社殿がなかったことを意味している。

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    大神神社の場合も詳しく紹介。大神神社は今も、拝殿はあるがご本殿はない。この拝殿は徳川家綱(四代目)が造営、1664年のことである。

    歴史を見ると、1317年には、拝殿の修理という記録があるらしい。

    1226年には、当社古来無宝殿。唯三個鳥居あるのみ」と記される(大三輪鎮座次第)。三つ鳥居のことである。

    ここに、奥義抄(平安時代の歌学書)の紹介があり、「このみわの明神は、社もなて、祭の日は、茅の輪をみつくりて、いはのうへにおきて、それをまつる也」とある。

    大神神社では、平安時代までは、鳥居もなく、(茅の輪をかかげた)岩のところで祭祀がおこなわれていて、鎌倉時代までには三ツ鳥居が建てられるようになり、拝殿は室町時代にならないと建てられなかったということになります。 (p65)

    宗教学者の見解だが、激しく僕は共感したい。

    大神神社にとどまらず、各地の神社で夏越の祓では、茅の輪くぐりがおこなわれるが、

    これは大神神社からのしきたりということであり、

    元々は人が通るものでなく、供え物であったり、神と人との仕切りの意味があったりしたものと思われる。

    考えてみれば、鳥居も同じで三ツ鳥居や出雲神社(亀岡)の出雲神社などの例をみても、神域と人の世界の仕切りともいえるのであり、鳥居を抜けると神域であり、茅の輪をくぐるとやはり神域ということだろうか。

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    鳥居も茅の輪も心を正して入らせていただくことにしなければ。


    # by koza5555 | 2017-06-23 14:32 | 桜井・山の辺 | Comments(0)

    『古建築を復元する』 山田寺に見ると・・・

    建物の復元は各地の遺跡の大きな目玉である。
    邪馬台国所在地論で言っても、吉野ケ里なら当時の建物を彷彿とさせる建物が林立している。一つ一つの建物はよく考察されて復元されているだろうが、時代を隔てた建物が直近に立ち並ぶのはいただけない。しかし、逆にその密集度が迫力をもって迫ってくる。

    一方、纏向といえば、古墳は見学できるが、建物は埋め戻された空き地だけだ。桜井埋蔵文化財センターに行くと、ようやく模型を見ることができる。
    遺跡の保存など、長い目で見ればどうかであるが、現実の「集客力」は確実に差がある。

    建物の復元は大切だ。そこで、そんな建物の復元・・という本が今年の3月に出ている。

    『古建築を復元する‐‐過去と現在の架け橋』。奈良文化財研究所の海野聡さんが書かれた。

    「古建築を知る」、「建物の痕跡を見る」と読みすすむと、「山田寺の衝撃」とあった。

    1982年、突如として地面の下から「建物」が現れた。まさに直前までたっていたかのような姿が白日の下に晒されたのである。山田寺回廊の出土部分の発見までは、建築史は7世紀唯一の現存建物である法隆寺に依拠してきたが、この発見により常識が覆されたのである

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    山田寺、東面回廊。薬剤処理を施されて

    山田寺は蘇我山田石川麻呂の発願による氏寺で、641年(舒明天皇13年)に寺地作成、643年(皇極天皇2年)金堂の建立、麻呂は謀反の疑いを受け死に至るが、685年(天武天皇14年)に金堂の丈六仏のご本尊の開眼供養が行われている。(上宮正徳法王帝説による)

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    仏頭・飛鳥資料館にはレプリカが置かれている。写真撮影はできる

    11世紀には回廊が倒壊、12世紀には金堂・塔・講堂が焼失した。

    この東側の回廊が倒壊した状態のまま、土の下、さらにその瓦の下から出てきた・・出土したのである。
    建築部材はすべて残っているという状態である。
    柱は銅張り(エンタシス)があった。
    組み物の特徴があった。
    柱があり、その上に大斗、巻戸、肘木で平三斗(ひらみつど)で梁を支えるが、この形が法隆寺とは異なっていた。

    法隆寺は柱と大斗の間に皿斗が入っている。奈良時代の建物には一般的には皿斗はなく、これは中世に中国から輸入(大仏様)されたもので、法隆寺は特殊な形を取っている(金堂・五重塔・中門にもついている)。

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    これは僕が書いた 笑
    山田寺には皿戸はない。

    古い順にみれば、山田寺(なし)、法隆寺(あり)、薬師寺など(ない)、10世紀以降(あり)とのことである。
    7世紀には日本の古建築の基礎ができていたことが示されたと海野聡先生は指摘するのである。
    言い換えれば、法隆寺は別格という事だった。古代建築の代表、法隆寺はこの技術を、どう手に入れたか。興味は尽きない。

    ほかにも平安神宮、第一次大極殿、朱雀門、四天王寺、登呂遺跡などが考察されている。
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    『古建築を復元する――過去と現在の架け橋』 著作 海野聡  吉川弘文館
    # by koza5555 | 2017-06-18 17:55 | 桜井市と安倍 | Comments(0)

    桜井市立埋蔵文化財センター

    毎日新聞の奈良版、木曜日の「ディスカバー奈良」は奈良まほろばソムリエの会が執筆している。執筆者を募ったところ、20名以上の方が手を挙げた。今週の当番は僕。「桜井市立埋蔵文化財センター」をとりあげた。地元ネタである。

    「奈良時代や飛鳥時代のさまざまな遺跡を見学しました。もう一つ前の時代の遺跡を見たくなりまして桜井市にまいりました」と、埋蔵文化財センター前で東京から来られた方が話してくれました。

    町じゅうが歴史博物館という桜井市。市内のあちこちで発掘された遺物がここに集められ、弥生時代の銅鐸、纒向遺跡から発見されたさまざまな遺物、古墳時代の埴輪などが、歴史の順に体系的に展示されています。
    中でも、纏向遺跡で発見された邪馬台国時代の建物の柱跡にもとづき復元された大型建物の模型展示からは、邪馬台国の時代、日本の王権の幕開けを身近に 感じることができます。

    古墳時代の盾持人物埴輪も目を引きます。盾を持った最古の人物埴輪として注目されていますが、なによりこの微笑みには誰もが引き込まれます。
    こちらの展示室で古代の風景、古代の暮らしを楽しんでみませんか。
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    メインを盾持ち埴輪にした


    常設展は旧石器時代から飛鳥・奈良時代までが見学できる。桜井市から出土した資料だけで、日本の歴史を理解することが出来るわけで、これは桜井市民は自慢すべきである。
    纒向遺跡コーナー、三輪祭祀のコーナーもあり、埴輪のコーナーもある。

    纒向遺跡コーナーでは、尾張、北陸、中国、九州に至るまでの各地から運ばれてきた土器が展示されおり、この遺跡の全国的な中枢の役割が理解できるのである。
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    纒向・発掘された大型建物の柱穴から復原された模型

    埴輪の展示も充実している。盾持ち人埴輪の笑顔は特別である。2011年2月26日に「茅原大墓古墳」の現地見学会が開かれた。今度の記事は、あの時の感動をそのままの気持ちで書いたものである。

    速報展は10月1日(日)まで開催されている。
    大藤原京関連遺跡では上ノ庄から、弥生時代前期のほぼ完形な土器が出ているし、三輪遺跡では中世の池状の遺跡などが報告されている。
    これはすでにブログに書いた。50センチ下の桜井 桜井埋蔵文化財センター

    町じゅうが博物館の桜井、そのまん中の博物館が桜井市立埋蔵文化財センターだ。ぜひとも、おいでください。
    歴史の認識が深まるにつれ、この展示室では次々と新たな発見をすることが出来る。場所はJR万葉まほろば線(桜井線)・三輪駅から徒歩10分、大鳥居の足元である。
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    # by koza5555 | 2017-06-15 06:09 | 桜井・山の辺 | Comments(0)

    鏡女王忍阪墓 談山神社

    談山神社、6月第二日曜日は鏡女王祭である。今年は6月11日となる。
    午前11時から東殿にて祭祀を行う。
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    鏡女王祭


    前日(土曜日)には、桜井市忍阪の生根会により鏡女王忍阪墓前祭がおこなわれた。
    鏡女王忍阪墓は、生根会(忍阪区老人会)によって草刈りなどの日常的な管理が行われていて、談山神社とともに祭祀を行うのである。
    祭は一年に一度、東井(ひがい)会長をはじめ、役員のみなさんの気合は十分である。
    談山神社からは宮司と黒住さんが参加。
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    神社と忍阪のみなさんで、天智天皇の妃、藤原鎌足の正妻、万葉歌人でもある鏡女王の生涯をしのんだ。
    鏡女王の歌碑は鏡女王墓をしばし降りた、舒明天皇陵に差し掛かった川の中に置かれている。
    「秋山の 木の下隠(このしたがく)り 行く水の 我れこそ益さめ 御(み)思ひよりは」で、天智天皇との思いを歌う歌である。犬養孝先生の揮毫である。桜井市は歌碑王国で60基以上の万葉歌碑を数えるが、犬養先生の揮毫はこれと大福の三十八柱神社だけである(そうですよね)(^^)。多数の識者に書いてもらうという趣旨で歌碑建設を進めてきた努力の結果でもあるが。

    鏡女王忍阪墓
    被葬者は額田王の姉で天智天皇の妃、のちに中臣鎌足の正室。万葉歌人の鏡女王の押坂墓とされている。談山神社が管理しており、忍坂の生根会が清掃奉仕をしている。
    平安時代前期に編纂された「延喜諸陵式」には舒明天皇の陵域の東南と書かれている。
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    鏡王女(かがみのおおきみ、生年不詳 - 天武天皇12年7月5日(683年8月2日))は、飛鳥時代の歌人。藤原鎌足の正妻。『万葉集』では鏡王女、『日本書紀』では鏡姫王と記されている。『興福寺縁起』・『延喜式』では鏡女王。『興福寺縁起』では藤原不比等の生母(後世の創作とする説もある)。また後述するが「鏡王女」と「鏡姫王」を別人とする説もある。(ウィキ)

    忍坂【おしさか】
    奈良県桜井市の東部,外鎌(とかま)山西麓の古代以来の地名。恩坂,押坂とも書き,〈おさか〉ともいう。遺称地である桜井市忍阪は〈おっさか〉。地名〈忍坂〉は《日本書紀》神武天皇即位前紀や垂仁天皇39年10月条にみえ,後者の記事によるとこのとき大刀1千口を新たに作らせ,〈忍坂邑〉に収蔵したのち石上(いそのかみ)神宮(現奈良県天理市)に移している。(百科事典マイペディアの解説)

    これをFBでも紹介したら石亀嶽さんから昭和40年代の忍阪墓の写真が送られてきた。
    「門だけ・・植わっているのは松」とのことである。犬養孝が「松の木が19本」と書いたとおりである。村人によると、「松は50年までにはすべて枯れた。杉を植えた」である。
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    昭和40年代(石亀嶽さん提供)
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    現在の墓。杉林
    # by koza5555 | 2017-06-10 22:29 | 桜井・多武峰 | Comments(0)