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畑屋(大淀町)の道
『菅笠日記』に紹介される畑屋(大淀町)から壺阪寺(高取町)を歩く
吉野山を立った宣長一行は、六田で吉野川を渡ります。三月十日(旧暦、それも1772年)のことです。
吉野川沿いの土田を経て、畑屋から壺阪寺に向かいます。吉野から国中のルートは芦原峠でしょうが、このコースだと清水谷まで下り、折り返して壷阪寺へ登らなければなりません。吉野から壺阪寺に詣でるならば、畑屋を通るのが最適です。
この道が分かりません。
『大淀百年史』には、畑屋の紹介として「集落の成り立ちは古いとみられます。かつては街道沿いの村として賑わった様子がうかがえ」るとし、江戸時代には本居宣長が畑屋村を通って壺阪への山越えをしたとも紹介しています。
今は歩く人はいませんし、思わしい情報も手に入りません。
朝のトレーニングで、27日(水)に挑戦しました。
畑屋に車を停めて、畑屋川沿いに北上します。
ここはツナカケ行事を行っています。大淀町では唯一とのこと、桜の季節に撮ったことがありますが、ツナカケの場所もよく、立派なツナでした。
山越えは、二万五千分の一の地図が頼りです。
谷川沿いから、山へ入る場所は簡単に見つかりました。
しっかりした踏み分け道が残ります。現在の使途は不明です。
簡単に壺阪寺に到着かと思いきや、稜線の三差路で間違えました。直に進むべきでしたが、左に折れ、そのまま、高圧線にそう形で芦原トンネル(峠)の北口に下りることになりました。
間違えた、稜線の三叉路ですが、壺阪への道は倒木(伐採木)で入れないようにしてありました。
現場でも一瞬、乗り越えようかと思いましたが、山で「行くな」との意思表示があれば、それは行けません。
「畑屋越えは通行不可」。これが現在の状況です。
『菅笠日記』、寛政11年(1799年)版
これよりつぼ坂の観音にまうでんとす。たひらなる道をやゝゆきて、右の方に分れて山そひの道にいり、畑屋などいふ里を過て、のぼりゆく山路より、吉野の里も山々も、よくかへり見らるゝ所あり。
かへりみるよそめも今をかぎりにて 又もわかるゝみよしのゝ里
よしのゝ郡も此たむけをかぎり也とぞ。くだる方に成りては、大和の国中よく見わたさる。比叡の山、愛宕山なども見ゆる所也といへど、今は霞ふかくて、さる遠きところ迄は見えず。
さてくだりたる所、やがて壺坂寺なり。此寺は高取山の南の谷陰にて。土田より来し道は五十町とかや。
『菅笠日記』の講座、三回目は10月16日(月)
本居宣長は43歳の時、明和9年(1772年)3月5日から14日まで、吉野水分神社を訪れる旅をする。ほぼ250年前の事である。
同行者は松阪の勉強仲間、弟子である。「あひともなふ人は。覚性院の戒言法師。小泉の何がし(見庵)。いながけの棟隆。その子の茂穂。中里の常雄と。あはせて六人」
その袋に書かれた歌は
うけよ猶(なほ)花の錦にあく神も 心くだしき春のたむけは。
その時の旅行記を『菅笠日記』と題して、上下2巻で寛政7年(1795年)に出版する。
出版は20年も経てからの事であるが、宣長は旅を終えてから旅行記は早々と書き上げ、その年の6月4日には、友人(谷川士清)あての手紙で、「見せ奉りて賢評をうけ給りてん」と伝えている。
『菅笠日記』は、『記紀』(古事記・日本書紀)による宮跡、陵などの見分と合わせて、萬葉集から御詠歌に至るまで30首ほどの古歌を紹介し、自らの歌を50首ほど納めていた。
「ことし明和の九年といふとし。いかなるよき年にかあるらむ。よき人のよく見て。よしといひおきける。吉野の花見にと思ひたつ。」
250年前のことだ。1772年11月に改元され安永元年である。10代将軍徳川家治 田沼時代でもある。
「明日たゝんとての日は。まだつとめてより。麻きざみそゝくりなど。いとまもなし。その袋(幣袋)にかきつけける哥。」
この『菅笠日記』を談山神社でお話しています。今回は壺阪寺~岡寺~飛鳥寺~大原寺~艸墓古墳、大福・吉備の行程を見て、考えます。
●日時は10月16日(月)午後1時 30 分から 90 分間。
●場所 談山神社 社務所二階大広間(机・椅子)
●参加費 1,000 円(神社入山料は別途必要)
●お問い合わせ・申し込みは、談山伝統文化観光協会。電話 0744-48-0076
注・申し込みが必要です。参加費は当日、会場でお支払いください。
ぜひ、おいでください。
『菅笠日記』、宣長一行は安倍から香具山へ
吉野への旅、7日目(十一日・西暦4月13日)
本居宣長一行の大和の旅は7日目、岡の里を朝立ち、飛鳥寺、飛鳥の神社、大原を経て安倍寺に至る。
「それより(安倍より)戒重といふ所にいづ。こゝは。八木といふ所より。桜井へかよふ大道なり。」
一行は戒重から横大路に入る。仁王堂(にょうどう)である。横大路を歩く旅人は、宣長とは逆に、ここから安倍文殊院に向かう。
すばらしい道標が立てられていた。正面は「右 はせいせ 左 たへま大坂」。「右側面は左たへまおか寺 よしのかうや山」。左側面は「右あべやま おか寺 みち」と刻まれている。
しかし、裏面には「寛政十」とあり、1798年の建立で、宣長一行は(1772年)これは見ていない。ここは、道標の建立以前の繁華を想像していただきたい。
また、この道標は、今は安倍文殊院境内に移設されており、みることができる。(桜井市史上p1130)
「横内などいふ里を過て。大福村などいふも。右の方にみゆ。すこしゆきて。ちまたなる所に。地蔵の堂あり。たゞさまにゆけば八木。北へわかるれば。三輪へゆく道。南は吉備村にて。香山(かぐやま)のかたへゆく道也けり。」
「ちまたなる所に地蔵の堂」と宣長は記したが、その堂はいまは現存しない。
しかし、お地蔵さまは大福村の大念寺(十字路を北に500mほどすすみ右側)に移されている。移るのは明治10年に移されたとのことである。お地蔵さまは、寺門前左側に安置されており、凝灰岩製、増高88センチ、光背裏面に元弘(1333年)三年の刻銘が残る。
お地蔵さまはかなり補修されているが、光背の頂上に阿弥陀如来、左右に3体づつ、6体のお地蔵様のレリーフが。それが特徴である。
お地蔵さま、その光背に六体の像が刻まれる。地獄、餓鬼、畜生、修羅、人間、天上の六界、六道が刻まれているのだろうか、いわば、「単独六体地蔵」ともいうべきであろうか。
さらにこの像は、泡子(あわこ)地蔵と呼ばれる。ひだがアワだつように彫られているからとか、光背仏がアワのように見えるとかの伝承があり、子どもが泡のようにどんどん生まれてくる・・ともいわれる。
毎年、7月14日が地蔵尊である。
さて、「今はその道につきて。吉備村にいる。村のなか道のかたはらに。塚ありて。五輪の石たてるは。吉備大臣(きびのおとど)のはかとぞいふ。石はふるくも見えず。又死人(しにびと)をやく所とてあるに。鳥居のたてるがあやしきてとへば。此国はなへてさなりといへり。」
「石はふるくもみえず」と宣長が指摘した五輪塔は、いまも蓮台寺(吉備)に残る。地輪には徳治二年(1307年)と彫られ、重要美術品の指定を受けている。
この五輪塔は、道路の向い側「死人をやく所」に、もともとは立てられていたという。
「村をはなれ。南へすこし行て。西にをれて。池尻村といふをすぎて。」
「かしはで(膳夫)村の南のかたはらに。森のあるをとへば。荒神(こうじん)の社といふ。北にむかへり。むかしは南むきなりしを。いとうたてある神にて。御前を馬にのりてとほるものあれば。かならずおちなどせしほどに。わづらはしくて。北むきにはなし奉りしとぞ。此社は。今物する道のすこし北にて。此わたり天の香ぐ山の北のふもと也。」
膳夫の氏神。三柱神社は今も北向きの本殿、拝殿、参道である。膳夫は室町時代からの環濠集落、集落の南限に置かれた三柱神社が北向きであることは自然である。
永正12(1515)の「多武峰領膳夫荘差図」に「ヤフ」、「ホリ」の注記があり、環濠の読みとられる。多武峰の領地であった膳夫荘の中心集落が膳夫である。『奈良県遺跡Web』より。
談山神社で『菅笠日記』の連続講座。吉野街道(旧)と東熊野街道
9月9日(土)、談山神社で『菅笠日記』をお話しする。
4回のシリーズで、第一回は8月5日(土)、今回は第二回目で9月9日(土)に開催する。
『菅笠日記』の全行程をコースに沿ってお話しする講座である。90分のお話を4回で完結させようとの目論見で、今回はその第二回で「吉野山(大滝・宮滝含む)」に限ってお話しする。
会場は談山神社境内の社務所(机・椅子の大広間)、主催は談山伝統文化観光協会である。
明和9年3月8日(新暦だと4月10日にあたる)、吉野山の「はこ屋の某」に宿泊した本居宣長一行は道案内を雇って、「今日は滝ども見めにものせんとて、例の道しるべ(案内人)先にたて。干飯(かれいひ)酒などもたせて、出で立つ。」
目指すは大滝と宮滝で、金峰神社、西行庵を拝観、見学して、「従是女人結界(これよりにょにんけっかい)」碑から、左に折れ西河、大滝に至った。
宣長一行は西河の村、大滝、せいめいが滝(蜻蛉の滝)を見学して、峠を越えて宮滝に向かう。
今回はこのコースを考えてみたい。
本居宣長一行は西行庵を見学した後、
「本の道を、安ぜんじ(廃仏毀釈で廃寺)の前の茶屋迄かへりて、御嶽へまうずる道にかゝり。三丁あまりもき(来)つらんと思ふ所に。しるべのいしぶみ(現在の女人結界石などのことか)立てる道を。左へ分れゆく。みたけの道へは。これより女はのぼらずとぞ。かの見えし青根が峯は。すなはち此山也けり。」
「すこし行て。東のかたの谷の底はるかに。夏箕の里見ゆ。ゆきゆきて又東北の谷に。見くださるゝ里をとへば。国栖とぞいふ。此わたり。うちはれたる山の背を。伝ひゆくほど、いと遠し(これは尾根道で旧吉野街道のことか)。」
さてくだる坂路のけはしさ。物にゝず(たとえようがない)。されどのぼるやうに、苦しくはあらず。此坂をくだりはつれば。西河(にしがわ にじこう)の里也。安ぜんじより。一里といひしかど。いととほく覚えき。」
西河に下り降りた一行は、大滝で筏下りを見つつ食事、せいめいが滝を見学して西河に戻った。
「かの里にかへりて。又今朝(けさ)くだりこし山路(五社道ではなく、その西の道)にかゝる。今朝はさしもあらざりしを。登るにはこよなく苦しくて。同じ道とも思はれず。さて登りはてて、右につきたる道(左に往くと吉野山)へ別れて。又しも のぼる山は佛が峯とかいひて、いみしうけはしき坂也(東熊野街道)。さてくだる道はなだらかなれど。あしつかれたるけにや、なおいと苦しくて。茶屋の有所に、しばしとてやすむ。」
「こゝにて鹿塩神社の御事をたづねたれば。そは樫尾西河大滝と。三村の神にて。西河と樫尾との合わいなる山中に。今は大蔵明神と申て。おはするよしかたる。この道よりは。ほど遠しときけば。えまうでず。なほ坂路をくだりゆくほど。右のかたを見おろせば。山のこしをめぐりて、吉野川ながれたり。国栖夏箕なども。川べにそひて、こゝよりは近く見ゆ。」とある、
「さて降り(くだり)はてたる所の里を。樋口といひ。その向かいの山本なる里は宮滝にて。よしのゝ川は。此ふた里のあひだをなん流れたる。西河よりこゝ迄は。一里あまりも有ぬべし。かの国栖なつみなどは。此すこし川上也。」
ポイント① 尾根スジを歩く吉野街道(旧)、東熊野街道は廃道となっている。但し、峰々には喜佐谷四等三角点や西川三等三角点があり、登山道として残されている。
ポイント② 土倉庄三郎の五社道は、明治16年(1883)の完成である。五社道を登り切った辺りにある川上鹿塩神社は、「樫尾西河大滝と三村の神にて、西河と樫尾との合わいなる山中に」とのことであり、参拝道があったと思われる。東熊野街道の茶店よりははるかである。
ポイント③
『菅笠日記』は街道日記で、宣長一行は数多くの峠を越えている。往路の峠だけでも阿保の山路、七見峠、けはい坂、峠の茶屋(龍在峠)が列挙される。
この日は稜線を歩いた。街道からは夏箕の里、国栖を遠望し、宮滝への山越えでは、吉野川の流れを見て、国栖夏箕なども見ている。晴れ晴れとして景色、遠望で宣長の書きぶりも軽やかである。。
ここは見に行かねばならない。年内にでも山歩きの達人なども誘って、歩きたいものである。
さて、『菅笠日記』の連続講座、次は令和5年の9月9日(土)で、要領は下記の通りです。ぜひおいでください。
卑弥呼とヤマト王権 寺沢薫
『卑弥呼とヤマト王権』寺沢薫著。併せて、「卑弥呼とヤマト王権・・『邪馬台国』論争からの脱却」講演会(2023年7月22日桜井市図書館ホール)
7月22日、桜井市図書館
2009年11月、纒向遺跡大型建物跡、現場見学会。説明員は若かりし橋本輝彦氏
この書と講演で、「邪馬台国論争にも一つの区切りをつけたい」と、寺沢薫氏は宣言される。
「倭人は帯方の東南大海の中に在り、山島に依りて国邑(こくゆう)を為す。旧(もと)百余国。漢の時 朝見する者有り。今、使訳(しやく)通ずる所三十国。」
魏志倭人伝は、冒頭に倭国を紹介し、倭国の女王の都する所への行程を示している。道筋は韓国から、対馬、壱岐を経て、末盧(まつろ)国、伊都(いと)国に到る。伊都国は「女王国に属する」と明記し、その後、奴(な)国に至り、不弥(ふみ)国に経て、水行二十日にて投馬(とうま)国に至る。その後、「邪馬壹国に至る、女王の都する所、水行十日陸行一月」とある。
卑弥呼が都する邪馬台国の所在地は、「考古学手法(遺跡・遺物)による2~3世紀の社会の姿」と「文献(魏志倭人伝)との突合せ」が前提と寺沢氏は主張する。
さらに「時系列」(土器などによる編年)と「空間軸」(イト国・出雲・吉備・近畿・尾張)が比較検討される事が大切とされる。
「旧(もと)百余国。漢の時朝見する者有り(2世紀)。今(3世紀)、使訳(しやく)通ずる所三十国。」
2世紀から3世紀に、倭の都はイト国から大和(纒向)に移行する。
九州圏と吉備・出雲・近畿連合軍が戦って・・都が大和の移されたとの論があるが、寺沢氏は、激しい戦いは無く「すべての倭国の話し合い・盟約により実現」したと言われる。
それは、考古学的発見によって検証される。
首長霊継承(施設・呪具)や威信財(鏡・鉄器埋葬)はイト国の影響
祭祀の場所・墳丘は出雲や吉備の影響
墳丘の立地や供献土器などは近畿の在り方
等から見て、纒向(大和)に各地の力が寄せ集まった。
講演で示されたppの資料では、この時代の背景、特徴的な出来事が時系列で示される。
そして、「卑弥呼の邪馬台国(倭国)が、崇神天皇を経て直接にヤマト王権につながっていく」との論が、寺沢氏の主張である。
卑弥呼の墳丘は纒向石塚古墳(纒向型前方後円墳)が想定され、箸墓古墳(定形型前方後円墳)は崇神の陵墓とされ、倭国(邪馬台国)とヤマト王権は連続的である。
大筋として、以上の寺沢論に共感できる。
さらに、ここで僕の着眼点、疑問も何点か紹介しておきたい。
「其の国、本(もと)亦(また)男子を以て王と為し、住(とど)まること七・八十年。倭国乱れ、相攻伐(あいこうばつ)すること歴年、乃(すなわ)ち共に一女子を立てて王と為す。名づけて卑弥呼と曰ふ。」
イト倭国の時代の後、「相攻伐(あいこうばつ)すること歴年」というくだりがある。
従来は近畿・吉備・出雲連合と北九州連合の戦いと、これは理解されてきたが、「これが違う」と寺沢氏は述べる。後漢朝の凋落後、窓口であったイト倭国の権威が下がり、倭国の中国(後漢朝・公孫氏)への窓口が無くなっただけで、何十年も戦争が続いたわけではないとされる。
その後、「共に一女子を立てて王と為す」とある。「共に」とあり、勝敗は罹れていない。話し合いだ。その「会盟」を誰がリードしたかという事である。
それはイト国であり、吉備であり、出雲であるとされる。
大和・近畿はどうか、大和は場所(纒向の地)を貸しただけ…と言い切られる。これは奈良県人はちょっとガッカリ、とくに唐古・鍵遺跡からの連続性などはあり得ないとされるのだから、寺沢先生は田原本町では無事に歩けないかも(笑)。
狗奴(くな)国問題も、いつも話題となる。
「其の南に狗奴(くな)国有り、男子を王と為す。其の官に狗古智卑狗(くこちひこ)有り。女王に属せず」と書かれるところだ。
これを具体的な国に当てはめて、「狗奴国は尾張だとか熊襲だとか」と論じてきたが、「これは特定の国ではない。従わない国の総称」と断じられた。「ああ、そうか」である。しかし、ツアーや講演で話してきた僕から見ると、「それが無難やな・・」とは思えるのだ。
後、気になる所。イト国を始め北九州の国々の関わりを大きくみられている。
僕の意見だが。卑弥呼の倭国がヤマト王権に直結しているとすれば、ヤマト王権の歴史書である『記紀』に、北九州の故事・歴史をもう少し書き込んでも良いのでは、との感想だ。『記紀』の出雲や吉備の扱いは、質量ともに重厚で政権の故郷の思いが込められていると僕には思える。
寺沢氏の記述でも「玄界灘に浮かぶ沖ノ島遺跡では、祭祀は10世紀前半までつづいた。ヤマト王権は本格的に朝鮮半島の部族的国家群との外交に乗り出すために、かっての対馬、壱岐、伊都ルートを廃して、ヤマトから瀬戸内海と関門海峡をへて朝鮮半島へ直行するルートを新たなに開拓した。そのコース上に浮かぶ孤島が、国家的祭祀の場として選ばれたのである。」(p-407)
イト国の歴史を引き継ぐヤマト王権とするならば、イト国を避けるかのような航路、行程を選択したであろうか‥、これは疑問である。
さて、『卑弥呼とヤマト王権』、寺沢氏の言説とは異なり、論争は一区切りでなく、また新たな論争の始まりとも思える。
邪馬台国は、学者の論説や思いとは異なり、ひきつづき永遠のロマンである・・・
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