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奈良・桜井の歴史と社会

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『古代大和へ、考古学の旅人』  石野博信

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今朝の箸墓古墳。古墳時代の始まりはこの古墳からか

一月のおもしろ歴史講座(桜井駅前エルトの第4会議室・1月6日(金))のテーマは「桜井の古墳」である。どんなお話になるか、まだジタバタしている。

古墳時代ということを考えてみた。弥生時代のあと、古墳が盛んにつくられた古代のことである。大和を中心にして日本がまとまった、その時代である。同じような前方後円墳が全国で作られる。飛鳥・藤原、平城京の時代に古墳は終わりを告げる。

『古代大和へ、考古学の旅人』(雄山閣・石野博信)を読んでみた。
きっとおもしろい観点があると信じて読んだが、やはり石野先生は裏切らない。
「古墳時代は戦争のない時代」と言われる。

弥生時代の高地性集落という問題がある。邪馬台国論でもさんざん考えてきた。
さらに弥生時代は、九州も畿内にも大規模な、そして無数の環濠集落が生まれた。吉野ケ里のような厳しく深い環濠、100メートルにも及ぶ大幅な水濠(いく筋もの溝に分かれていた)が置かれた鍵・唐古のような形である。

「高地性集落というように呼んでおります。そういう村が盛んに作られるのが弥生時代の中頃から終わり頃です。その辺と環濠集落の動きというのは当然関係があるだろうと思います。環濠集落というのはやはり敵が襲ってくる時に備えて村を濠で囲んでしまう。山の高い所の村も敵が襲ってくるのに、備えて中世の逃げ城のように山の方へ村をつくる。」
「この高地性集落が盛んに作られるのは弥生時代中期の後半で、瀬戸内海の要所要所へ作られていきます。弥生時代の後期になると近畿地方大阪とか奈良を中心とする地域にたくさんできます。近畿地方では弥生時代後期が終わって・・・バッタリと高地性集落が無くなります。私は世の中が平和になったんだと、そして墓作りにエネルギーが集中できる時代になったんだと思っています」
(p125)

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奈良盆地の高地性集落と主要な遺跡(p71)


「環濠集落」も解説、評価がきわめて端的である。
「弥生時代でも日本列島に米づくりが入ってきた時期の村の遺跡が、福岡空港のある板付にありますが、その遺跡も大きな掘がめぐらされています。きんき地方でも、大阪でも、奈良でも、そういう村はたくさん残っています。ですから、弥生時代の村が掘で囲まれているというのはごく当たり前のことです。ただし、日本の歴史の中では、そういう村があるのは弥生と、鎌倉、室町時代から戦国時代にかけての二つの時期だけです。村を全部溝で囲まなければいけないほど、この二つの時代は戦争がはげしかったと言えると思います」(p154)

古墳が全国で作られていく時代は、この時代を経てからのことなのである、古墳の形、副葬品、祭祀のことなど古墳は話題は多いが、その前提は戦争のない時代だったということがある。
こんな社会の成立に、邪馬台国がその触媒になったかもしれないと僕は考えるのである。


古墳時代はすごい。
平和な日本があって古墳ありき。
そして保守的にならずに、古墳の築造の思想と技術はめまぐるしく向上・前進していく時代でもあった。

「古墳時代、戦争のない社会、すごいわ」、こんな思いを理解していただけるようなお話しにしたいものである。

『古代大和へ、考古学の旅人』(雄山閣・石野博信)
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# by koza5555 | 2016-12-03 10:04 | 読書 | Trackback | Comments(0)

川西町 光林寺と富貴寺と六県神社

11月30日の当尾ツアーの帰り道、川西町の川端さんから、「川西の保田(ほた)、うちの阿弥陀如来も見に来て」と声を掛けられた。
「参ります」。ちょっと確かめてみると、これは快慶の作で重要文化財とのことである。
「切れ長の眼、魅力的な口もとの笑みは快慶仏の魅力を十分に見せていて、円熟の境に浸った作風である」と『大和のかくれ仏』(清水俊明著)でも、しっかりと紹介されている。

電話をかけてみて初めて分かった。川端さんはこちら、光林寺(浄土真宗)の住職夫人だった。


そっそく、拝観させていただいた。
浄土真宗と阿弥陀如来、これは基本の形だが、快慶作ということで、「これは客仏か」とも考えたが、きっちりご本尊・・・
内陣からも拝観させていただいた。80センチほど、端正なお姿で衣のひだが写実的である。
お顔は清水さんが言われるように優しさ一杯だった。
「法眼 快慶」とのことで、これは快慶の晩年の位である。

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左側に榧(かや)の巨木。実も収穫してオカキに入れる・・とか


100メートルほど南には六県(むつがた)神社、そしてその神宮寺として富貴寺。

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境内右手に寄棟造りのご本堂。この建物が、重要文化財。
「1178年に初めに堂を建立、現在の堂は1388年の建立」と江戸時代に柱に墨書(1679年)されているとのことである。

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保田の宮座といい、宮座で六県(むつがた)神社と富貴寺が管理されていたようであるが、川西町史(平成12年)によれば、六つのカイトの代表による敬神講で運営されている様子。

釈迦如来坐像と地蔵菩薩立像は重要文化財に指定されている。
釈迦如来像(重文)は、高さ84センチの桧材による寄木造で平安時代後期。
本尊の向かって右に安置されている木造地蔵菩薩立像(重文)は、高さ96センチの桧材による寄木造で彫眼、古色の声聞形立像である。
 

最後に六県(むつがた)神社
延喜式に載せられている。
広瀬郡と城下郡の境目にある。

祭神は、六県命で、
高市命
葛木命
十市命
志貴命
山辺命
曾布命
で、式内社として存在していた大和の六御県(むつのみあがた)のすべてを祀る式内社である。
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2月11日(祭)に行われる「子出来おんだ祭」が有名である。豊穣と子孫繁栄を願う神事である。
# by koza5555 | 2016-12-01 23:41 | 奈良 | Trackback | Comments(0)

森浩一著作集 ① 古墳時代を考える

森浩一著作集が刊行されている。5巻までで、内容はどちらかといえば初期著作集だった。
僕ごときでは歯が立たないが、少しつづ、面白そうなところを。

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これは新沢線冢古墳、群衆墳。このご本とはあまり関係ないけど。

第一巻は「古墳時代を考える」である。「古墳時代の展開と終末」のうち、「古墳と古墳群」。1952年に古代学研究6に掲載されたものとのことである。
これがおもしろかった。古墳の在り方、とくに群集墳の検討から古代を探ろうという狙い。65年も前の論文で森先生も若かったと思う。

美濃波多古墳群が紹介されていた。三重県の名張にある。美濃波多古墳群は現在は美旗古墳群のことである。

ウィキペディアによれば
古墳時代の前期から後期にかけて、地域を支配した有力者によって築造され、伊賀地方で最大規模の古墳群が営まれている。現存しているのは、5基の前方後円墳と横穴式石室を持つ円墳1基、方墳1基で、カブト塚・矢羽塚・玉塚などの方墳と円墳の多くは消滅している。

森先生の古墳と古墳群では、こんな図面が用意されていた。
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古墳時代の史料化にあたっては古墳群の研究が必要とされて、初めに取り上げられたのが、美濃波多(美旗)古墳群だった。

前方後円墳の馬塚(うまづか) は盆地のどこからも見える。
問題は図面にある8基の古墳が「各期の代表的な形態を示していると言いえるほど、その相互間に顕著な相異をもっている」とし、地図の番号順に①殿塚、②女郎塚、③毘沙門塚、④馬冢、⑤玉塚、⑥王冢、⑦横穴石室の順で構築されたと論じられている。

古墳群を形成する8基の古墳は、築造時期が均等な時間で前後を持っている。
一時期に固まって築造されたのではなく、順次作られて古墳群になった。
40年ごとの築造・・という間の時間も明確にされて、一世代一墳、一氏族によって構築されたとするのである。

美濃波多(美旗)盆地は300町歩(300ha)で、これがこの氏族の経済力である。
なるほど。古墳時代・・300年くらい、大和と伊勢・東国との交通路の要地で40年ごとに古墳を造っていた氏族の暮らしぶり・・・

森先生は群集墳問題でさらに三島野古墳群を取り上げる。
同じように10基ほどの古墳で古墳群が形成されている。

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三島古墳群も古墳の形態から一世代一墳とみられるが、⑨茶臼山、⑩今城冢と巨大前方後円墳が築かれる。
 もともと大きな富裕の地を支配した氏族が考えられるが、全長223メートルの茶臼山古墳、312メートルの今城冢古墳は大飛躍である。「氏族団体の占有地域は急速に拡大した」とみるべきとされる。氏族から地方レベルということだろうか。
この地方レベルに拡大されていく過程と合わせて、継体天皇が位置づけられるとしている。

森浩一の結論・・「継体天皇は三島野古墳群によって表される氏族団体から抜擢されたことが考えられるのであり、中期の茶臼山古墳の規模からみて、すでにそれにふさわしい実力を備えた強力な氏族団体となっているのである。


奈良盆地内にも巨大古墳と群集墳の存在している。行燈山古墳、渋谷向山古墳と竜王山古墳群、鳥屋ミサンザイ古墳と新沢千塚、室宮山古墳と巨勢山古墳群などであるが、これらは巨大古墳が先行するのであるから、三島野とは条件が全く異なっている。

大和の場合は、巨大古墳に葬られている盟主をしたって、付近の山・谷に大量の群集墳が設けられたとみるべきだろうか。

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新沢千塚古墳群と桝山(現 倭彦墓)・鳥屋ミサンザイ(現宣化天皇)古墳
『巨勢山古墳群と室宮山古墳』(歴史に憩う橿原博物館講演・・白石太一郎)より


森浩一 著作集第一巻。古墳時代を考える
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# by koza5555 | 2016-11-29 21:27 | 健康 | Trackback | Comments(0)

芝村騒動と龍門騒動

芝村騒動を上島秀友さんが書かれた。
上島さんは香芝市のお住まいで、10月に行われた「邪馬台国バトル」でお話しした折、石野博信先生のご紹介でお近づきになった。
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芝村騒動は、芝村藩の預かり地となっていた大和盆地南部の天領でおきた。
宝暦3年(1753)、十市郡の九ケ村が決起。京都町奉行所に箱訴した。箱訴は合法手段だったはずなのだが、村役人らが江戸の召し出され、吟味が開始された。吟味は過酷を極め、次々と犠牲者が出た。取り調べの対象は式上郡、式下郡の村役人にも拡大、40人以上が獄死した(
p4)

ぼくもこの芝村騒動のことをお話したことがある。僕なりに調べて、磐余・吉備のあたりのお話しの中での紹介だったが、知らずに話したことがたくさんあった。この本を読んで、芝村騒動の経過と全貌、本質が良く理解できた。

十市郡は広く幕府の天領となっていたが、その税収は芝村藩が代収していた。これを預かりというが、大名領などと比べても過酷な徴収が行われていたといわれる。
租税は五公五民、代理で徴収する(預かり)芝村藩は3%の手数料が入るという仕組みである。芝村藩は一万石、預かりが9万石ほどになっていたから、普通に徴収していても、一万三千石である。
しかし、検見と呼ばれる作柄の検査があり、これで税収が決めるが、百姓に有利な検見はないという状況が続いた。
「胡麻の油と百姓は絞れば絞るほどでるものなり」(本多利明『西域物語』)というのが施政者の考え方だから、この状況は全国共通である。
ところが、これに合わせて、芝村藩の預かり地には「別の複雑な事情が潜んでいました。」(p38)

それは、「畝詰り」にも年貢がかかったということである。
畝詰りとは「実際の面積が検地帳に記載された面積よりも少ない」状態で、検地帳を基準に課税されると、五公五民ではなく、畝詰りの具合では七公三民にも変わってしまうのである。
もともとは郡山藩が柳沢忠明の時代に、藩の格をあげるために12万石を15万石に変えたという歴史があった。農地は増えていないのに、郡山藩のすべての農地は台帳では二割五分増しの面積に変わっていた。郡山藩の時代はその事情が判っていて、割り増し分は無税だった。ところが、盆地南部の領地が天領に変わって問題が生じる。
芝村藩はこの二割五分にも課税したのである。

ここらあたりを僕は知らなかった。この仕組みで芝村藩、預かりの村々は八公二民というような重税にあえぐことになったのである。
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300人もの江戸への呼び出しや40人もの犠牲。後日談も上島さんの視点は暖かく丹念である。
お薦めしたい。

芝村騒動といえば、吉備区では、毎年9月15日、吉備薬師寺において、芝村騒動の犠牲者の慰霊祭を行っている。
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吉備村からは8名が呼び出され、
平兵衛(藤本)、甚治良(竹田)、平治良(岡橋)が牢死
長八(高井)、庄蔵(松井)、新五郎(森本)、又四郎(吉崎)、甚五郎(吉本)の5名が帰還できたとのことである。
帰村した5家のうち、2家が途絶えて森本家、吉崎家、吉本家で供養を行っているが、「当屋を決めて、法要を行い、慰霊碑を拝み会食」という、供養である。
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吉備区集会場、薬師堂


合わせて掲載されている上田龍司さん(故人)の『竜門騒動』、『天保ききん考』、『いのちのかて 昔の稲作の思い出』も読みごたえがある。
『芝村騒動と龍門騒動』。大和の百姓一揆  青垣双書(青垣出版)。1200円+税
# by koza5555 | 2016-11-25 19:03 | 読書 | Trackback | Comments(0)

えてこでもわかる  笑い飯 哲夫訳 般若心経

9月から桜井の広報大使は「笑い飯・哲夫」。
そういえば、「ムジークフェスト」で、僕がテレビに取り上げられた時のコメンテーターは、笑い飯哲夫やったな・・というようなことで、哲夫の本を読まさせてもらった。 

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 『般若心経』である。「えてこでもわかる笑い飯哲夫訳 般若心経」とあった。
 「お笑いの笑い飯が書いた般若心経か」とは思ったが、「広報大使やし、僕がテレビに出た時のコメンテーターやったし」と手に取ってみた。

これが、おもしろいし、考えさせられた。
あたりまえのことだけど、僕には書けん。「たとえ」が違うし、何よりも般若心経の理解度が僕とは全く違うレベルだった。

そして、「涅槃」を究竟(くきょう)しているわけですが、やっと出てきました。「涅槃」です。この世に存在する二字熟語で、一番好きなやつです。「涅槃」か「刹那」で迷ってたんですが、やっぱり「涅槃」が一位です。二位が「刹那です」。吉本興業の芸人プレフィールをみてもらったら、好きな言葉のところに、「涅槃」と書いてあると思います。社員さんに聞かれた時、そう答えました。この、かっこいい「涅槃」の意味はといいますと、「煩悩を滅ぼし尽くした悟りの境地。仏教の最終的な理想」とまた、意味もかっこいいんです。(p102)

般若心経、いよいよ終わりは
 「羯帝羯帝波羅羯帝(ぎゃていぎゃていはらぎゃてい) 波羅僧羯帝(はらそうぎゃてい)である。

哲夫はこんな訳を示してくれた。
全然意味わかりませんよね。これもサンスクリット語の音写なんです。・・・・意味は「ガンバッテーガンバッテー」ではないらしく、「往ける者よ往ける者よ彼岸に全く往ける者よ悟りよ幸いあれ」などとなるらしいんですが、なんのことや年、と化なるんで、個人的に「ガンバッテー」みたいな感じでいいと思います。個人的に「がんばってがんばってよくがんばってまさによくがんばって悟れよ幸いあれ」だと思います。(p128)

なるほど、結論もキチッとしてる。
「がんばってがんばってよくがんばってまさによくがんばって悟れよ幸いあれ」かあ。

では、さらにさらに僕もがんばろ やな
# by koza5555 | 2016-11-19 21:07 | 読書 | Trackback | Comments(0)

阿蘇ピンク石 兜塚古墳 慶運寺の石棺仏 金屋の石仏と石棺

石棺だけを論じた本である。少し古くて20年前の本である。
『石棺から古墳時代を考える』―型と材質が表す勢力分布―
真壁忠彦 著  同朋舎出版である。

目次は「石棺の石材」、「石材産出地」、「舟形石棺の世界」、「長持形石棺」、「家形石棺」。
いやんなりました?

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これが今日の話題の阿蘇ピンク石の兜冢古墳(桜井市朝古)

話は様々な角度があるが、今日は阿蘇ピンク石のことだけを紹介したい

桜井のピンク石は他にも

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箸中の慶運寺の石棺仏。ピンク石である


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金屋の石仏堂の床下に保管されている石棺。ピンク石だ


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少し時期が下がるし、天理市だが。東乗鞍古墳の石棺(現在は管理者によって石室内の入室が禁止されている)

著者の真壁さんは、当時は倉敷考古館の学芸員
岡山県の南東部、邑久郡長船町の築山古墳(p189)のピンクの凝灰岩のが石材の産地が不明だった。
産地は不明だが、次々と同じものが明らかとなる。
まずは畿内に多い。たとえば、京終の野神古墳であり、桜井市朝古の兜塚古墳、東乗鞍古墳などである。

そこで産地を探した。二上山に似ている石があった。さしづめ二上山ピンク石である。
ところが、1991年、九州でこの石をみることなった。宇土半島に露岩があった。ピッタリである。二上山ピンク石 改め 阿蘇ピンク石のはじまりである。

「阿蘇山は凝灰岩を何度も噴出。これは一般的な黒灰色の凝灰岩で・・・ところが数度の噴出のうちで、一度は、ピンクの凝灰岩の噴出となったという」(p191)

阿蘇から次々と運び出される。石材というよりも。加工されていた可能性も論じられる。
席棺の分布の中心は大和であって、佐紀古墳群や葛城古墳群とは外れたところに分布しているという。中心の氏ではないということである。

箸中の慶運寺、三輪の金屋の石棺も同じような場所である。
元々は大型古墳が多い地域だが、この時期は大古墳が見られなくなっているという地域である。

「中期の大古墳の世紀が終わろうとした時期に、畿内に新しく台頭してきた新勢力の動きをみることができるのであり、その勢力が、旧勢力を代表する棺であった長持形石棺とは形も石材(色も)も違った新しい棺を採用したのがピンク石家形石棺だったのである」(p194)

「そういう意味では吉備の築山古墳は畿内新興勢力の石棺と同形態、同石材であり、畿内の新勢力と同質ということを古墳が主張している。」

この新興集団は歴史にどう立ち向かうか。
古墳時代の後期の石棺に大きな影響を与えていることからみて、飛鳥の時代にかけて大きな影響力を持ったとみるべきと強調がある。
ピンク石の家形石棺は歴史のアダ花ではなく、石棺の時代の主流を歩んだ石と言えるのかも・・である。

最後に、これが阿蘇ピンク石。これは現代に切りだされた石材の破片である。
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# by koza5555 | 2016-11-16 22:19 | 読書 | Trackback | Comments(0)

『古墳は語る』 石部正志

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左側は岩屋山古墳(明日香村)、中がムネサカ一号墳(桜井)、右が峯冢古墳(天理市)。なんで、同じ形になるのだろう

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 『古墳は語る』。石部正志先生。丹念に初心者に古墳を教えてくれる本である。僕も勉強になった。かもがわ出版である。

箸中山古墳から古墳時代が始まる。古墳はそこからである。
吉備には楯築墳丘墓があり、ヤマトには突出部を持った円墳ができた。纒向の石塚や東田のことである。
その後、古墳の画期をなす箸中山古墳が作られる。
前方部が違うというのである。それまでの前方部(突出部)は出入り用の通路という。箸中山はそこが違う。前方部は急斜面、そして高い。前方部の先からは円丘が見られない、登れない。
この古墳の大きさ、姿は墳墓の形を一変させたもので、今までになかった王者が登場したことを物語るもの。(p39あたり)

箸中山古墳は石塚古墳などとは形も違い、入り口が違う、祭祀も違うといわれるのである。

さて、大古墳の造営地の移動が論じられる。時期と場所の検討である。
大王墓はオオヤマト古墳群に始まり、盆地北部の佐紀古墳群に移動し、4世紀の中期からは古市と百舌鳥古墳群に移っている。
その後は高槻の今城冢古墳を経て、太子町の磯長谷、飛鳥の地域が墓所となった。

ここでは、二つのことが問題となる。
①一つは大王位の継承のありかた
箸中山古墳に続いた大王墓は、西殿塚→桜井茶臼山→メスリ山→栁本行燈山(崇神陵)→渋谷向山(陵)と築かれたと推定され、いずれも三輪山に近い広義のオオヤマト古墳帯にありますが、造営地点がバラバラであることが気になります」(p171)と、場所があちこちに行ったり来たりすることに注目されている。
その後の奈良県北部への古墳群の移転、さらに大阪平野の百舌鳥・古市古墳群に移っていることも合わせて、これらの墳墓の場所のありかたは、「大王位直系親族世襲制の原則とは相いれない」(p171)と断言される。なるほどである。

②あと一つ、これらの地域が土師連(はじのむらじ)の勢力地域内であったと指摘があり、その上で、
「古墳時代の土師氏は、大古墳の造営と、古墳での祭祀の執行を仕事とした鞆造(とものみやっこ)系の大氏族でした」
また、箸中山墓古墳については、「箸墓ではなく土師墓(土橋寛論)ということ」だとして、「箸墓は土師史が古墳造営の主担者としての呼称に起源し、(土師氏の)始まりは箸中山古墳築造の時点、あるいは、さらに前に遡るかもしれません」とされるのである。
「首長のための厚葬墓の造営は、弥生時代後期頃から進みだしました。古墳祭祀の大きな要素の一つとして、築造企画に則った大墳丘の造営や埋葬施設の棺槨の構築と並んで、葬送儀礼用の特殊器台、特殊壺の製作と使用も大事な仕事だとすると、土師の仕事の始まりは吉備の楯築墳丘墓造営まで遡らせます」(p134)というのが、土師蓮の起源、役割についての石部先生の論だった。

土師(はじ)連はその後どうなるのかも解説がある。
「大古墳は6世紀末には終わり、火葬が普及する8世紀には高塚古墳が築かれなくなり、土師氏が墳墓のことで果たしてきた役割は無くなり、その後は菅原氏などに名前を替えて、学問の家として栄えていくことになります。」(p133)

なるほどなあ、「古墳を見れば作った人も見える」ということで、これは目からうろこである。
土師師は自らの仕事を文字で残さなかったが、この書の題名の通り(古墳は語る)古墳に語らせている。

僕なりに考えてきたことを少しだけ、あげてみよう。
たとえば桜井の艸墓古墳、竜山石の家形石棺が残されている。古墳の施主が播磨まで影響力を持っていたという論を聞いたことがある。

僕はこれがとても不思議だった。そんな論なら、「阿蘇ピンク石」の石棺に葬られた桜井市朝古の兜塚古墳の例、この方は九州まで影響力があったということになってしまう。

作る人のことを考えねばならない。それが土師連(はじのむらじ)で、「石材の入手も含めて広い地域に大きな力があったと考えるべきかな」と考えた。
あちこちの豪族が古墳造成と祭祀のノウハウを持つというより、大王家をはじめてして数多の豪族と結びついて古墳造成を進めたんではないか・・ということである。

羨道の入り口の天井の刻み。これは天井を伝う水滴を落とす仕組みという。

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左が岩屋山古墳(明日香村)、右が安倍文殊院西古墳(桜井市)
同じ人、同じ系列の人が考えたものであることは確実である。
# by koza5555 | 2016-11-15 15:08 | 読書 | Trackback | Comments(0)

醸造安全祈願祭 大神神社

大神神社は11月14日に「醸造安全祈願祭」を斎行する。

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枡酒の振る舞い
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併せて奈良県酒造組合の振る舞い酒も


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出仕する祭員

酒造りの神様と仰がれるご祭神の神徳を称えて、新酒の醸造の安全を祈る祭典で、全国の酒造家・杜氏・酒造関係者が参列します。祭典後から醸造安全の赤い御幣と酒屋のシンボル「しるしの杉玉」が全国の酒造家・醸造元に授与されます。(大神神社HPより)

祭典は大神神社拝殿で参拝、続いて大物主の力で醸された神酒を崇神天皇に献酒した高橋活日(たかはしのいくひ)を祀る、活日神社にて玉串奉奠という祭祀である。

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いつもは森閑とした活日神社もこの日ばかりは


境内では全国から寄せられた銘酒の振る舞いがある。いわば、吟味し放題と言いたいが、いっぱいまでとの但し書きも。

大神神社の「しるしの杉玉」のことである。
醸造祈願祭の前日、11月13日には、吊るし替え(大杉玉掛け替え)が行われる。

「しるしの杉玉」は、拝殿と祈祷殿に吊るされるが、すべて人の手によってはこばれた。

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これは昨年の吊るし替え

昔の駕籠のように6人掛かりで運搬、どんな具合ですかとお聞きすると、「今年は230㎏です」と汗を拭き拭き、説明していただいた。神社の大杉玉が吊るし替えられ、祭りの準備が整えられます。

この醸造祈願祭、酒まつりを終えると、作り酒屋の紋章もともいえる「しるしの杉玉」は、「新酒の印」として全国の酒屋の店先に吊るされる。

この神酒は わが神酒ならず  倭なす 大物主の 醸みし神酒  幾久  幾久

崇神天皇8年冬12月、今頃だろうか。
崇神天皇が三輪の大神を太田田根子に祭らしめた日に、高橋活日が神酒を捧げて詠んだという。
全国の醸造元から届けられた数々の酒は壮観です。


大神神社、拝殿は寛文四年(一六六四)に徳川四代将軍家綱が再建したもので、重要文化財に指定されている。
また拝殿の奥正面にある三ツ鳥居は、三輪鳥居とも呼ばれ古来当社の特色の一つとされる。三つの明神型鳥居を一体に組合せた形式であり、重要文化財である。


以下は大神神社HPより
『日本書紀』の崇神天皇条には、高橋活日命(たかはしのいくひのみこと)が天皇に神酒を献じた時に「この神酒(みき)は 我が神酒ならず 倭なす 大物主の 醸(か)みし神酒 幾久(いくひさ) 幾久」と歌ったとあり、大物主神のご神助により、会心の美酒を造ることが出来たことが記されています。このことからご祭神が酒造りの神として敬われることとなったのです。祭典では活日命の和歌で作られた神楽「うま酒みわの舞」が四人の巫女により舞われます。そして、境内では各地から奉献された銘柄を展示する全国銘酒展が催され、樽酒の振る舞いも行われます。

また、祭典前日には拝殿と祈祷殿に取り付けられている直径1.5m重さ250kgもある「大杉玉」が青々としたものに掛け替えられます。

# by koza5555 | 2016-11-14 13:48 | 桜井・山の辺 | Trackback | Comments(0)

国号地名。桜井市出雲、吉備、豊前、長門

島根県の方からお手紙をいただいた。「出雲とか、さらには吉備、豊前、備前など、こんな地名が桜井市周辺にたくさんあると聞きました。なんで」との質問だった。

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こんな地名が分からんということだ。ご返事を差し上げた
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 桜井市にとどまらず奈良県には、昔の国名を地名とする村名は数多く存在します。
桜井市でいえば出雲、吉備、豊前があり、安倍には長門もあります。桜井市jの近在の三宅町(但馬、三河)、天理市(丹波市、備前、上総)、橿原市(飛騨、大隅)、高取町(土佐、薩摩)などが知られており、県下全体では大字、中字で55ほどの村名が数えられております
 近畿地方には旧国号村名は、京都府で10カ所、大阪府でも6カ所などが知られていますが、奈良県の地名は発生が古いこと、数が多いことから特別の位置づけがなされています。
 古文書によると(大乗院雑事記、和名抄)、国名地名は東北地方の国名が無いこと、西日本の国名が多いこと、畿内は少ないこと、旧磯城郡・山の辺郡・十市郡(これらは奈良盆地の南部にあたります)に多いことを特徴としています。
 また、藤原京(奈良盆地の最南部)の造成(694年~710年)にあたっての貢進国が国名地名となっていることが多いことなどが指摘されています。藤原京造営時に生まれたとの見方もあります。
藤原京造営時、藤原京造営の貢進には人的なものも含められており、造営協力の各国(旧国)の出張所(宿泊所を含む)などが置かれた場所が、その後の村名になっていったとの見方が多いようです。
したがいまして、古文書による(現在も数多くが残っている)旧国名は大和平野の中央部と南部、藤原京跡周辺に集中しており、他は中ツ道、下ツ道、太子道、巨勢(こせ)街道などの当時の街道筋、交通路に集中していることが特徴です。
  『奈良県史14 地名』などを参照に返事を書いた。


桜井市の出雲はさらに面白い。こちらの出雲も「旧貢進国」論で解説できると考えているが、地元の伝承、信念はもう一つ、複雑である。
 
地元の伝承ではもともと出雲は桜井市だというのである。
日本書紀によると垂仁天皇の時代に、国内で初めて天皇の前で相撲が行われたとされている。
当麻蹶速(たいまのけはや)という力自慢が「自分より強いものがいるならぜひ戦ってみたい」と豪語しており、それを耳にした天皇が対抗できる力自慢を探させ、呼び寄せたのがこちらの出雲の野見宿禰(のみのすくね)だということである。

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出雲十二柱神社

出雲国より「即日に招集」したという記述が日本書紀にあることから、「島根(出雲)から奈良まで即日に招集できたのか?」と考え、実は山陰の出雲ではなく、桜井の出雲から呼び寄せたというのである。

そんなことから桜井市出雲には野見宿禰に関する伝承が多く残されている。

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狛犬を支える相撲人形

十二柱(じゅうにはしら)神社には巨大な五輪塔が残されていて、これは近くの野見宿禰塚から移されたもの(現在は取り壊されている)であり、また神社のこま犬を支えるのは相撲人形で、野見宿禰の顕彰の力が入っている。


歴史の深さ、長さ、出雲の方の村名に対する誇りは、ひとしおである。
# by koza5555 | 2016-11-13 20:23 | 奈良 | Trackback | Comments(0)

高畑町裁判所跡地の庭園遺構

「高畑町裁判所跡地の庭園遺構について」という発掘と現況の説明会に参加してきた。
「えー、報道されたの?」と驚かれるだろうが、20名くらいのグループ(アカダマ会)に対して、発掘を担当した大学教授と奈良県が特別に開いてくれた現地調査だった。

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裁判所跡庭園遺構内。石造宝塔(仏塔)これは古いものらしい。こんなものも拝見できた


一か月ほど前に元アカダマの大槻さんから、勉強会のお誘いのメールが届いた。
「高畑町の旧裁判所跡地に大正時代の庭園遺構が残されていることが判った。発掘を担当した京都造形美術大学の仲教授の話と現地見学だが」ということである。
9月・10月の土・日だったら無理だったが、良い具合に空いていた。

現地に行く前に、遺構地の歴史、遺構の現状を一時間もかけての解説を受ける。

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場所はここ。浮見堂の南、奈良市観光駐車場の西である


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東から見ると外見はこんな感じで・・

この中に庭園遺構が隠されていた。

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北側から入る。建物は一切残されていない。

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苔むした礎石。さっそく松田さんが確かめると・・・「これ、コンクリートです」(笑)
元々は室町時代に遡る興福寺の支院、松林院の庭園であるが、大正時代に大改変されており、庭園としては松林院時代へは遡れなさそうである。

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橋。切込みを入れてつなぐ。細工は細かい

仲教授によれば、「素晴らしい庭園が、まだまだたくさん残されている。その中でもこの庭園遺構は地形も利用されており、すばらしい。修復して公開するべきだろう」とのまとめだった。

良いものを見せていただきました。
修復、公開を待ちたいと思います。


こちらの庭園は室町時代、興福寺の松林院に始まるとのことである。支院では一番の上流、一番東にあるようである。松林院は一乗院、大乗院の二門跡に次ぐ四院家(松林院、修南院、喜多院、東北院)の一つである。

廃仏毀釈で松林院は廃止となり、所有者は松林為成、梅田春保を経て山口謙四郎(山口財閥)が所有し、別荘として使われることになった。
戦後、所有は裁判所に代わり家庭裁判所、官舎として使われ、平成17年に奈良県に所有が移された。
# by koza5555 | 2016-11-12 22:06 | 奈良 | Trackback | Comments(0)

稲部(いなべ)遺跡発掘調査現地説明会

滋賀県彦根市の稲部町・彦富町の発掘調査現地説明会が実施された。

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会場は超満員。正面は荒神山。山の向うは琵琶湖で荒神山古墳(120メートル)は琵琶湖側の中腹にある。説明は彦根市教育委員会の戸塚洋輔さん。
資料は600枚用意されたそうだが、瞬くまになくなった。参加者は千名程度か。

場所はこんな感じである。稲枝駅近くの赤の四角が遺跡である。
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僕にとっては異例の遠征である。
キーワードは「邪馬台国時代の大型建物」と「6㎏も鉄製品や鉄片」である。

稲部遺跡。2世紀から5世紀にかけての遺跡である。
3世紀、邪馬台国の時代に180平米の超大型建物の柱穴を発掘、大量の鉄の残滓、鉄鏃(鉄の矢じり)などが発掘された。
竪穴住居が180以上、大型建物も時代はまたがるが5棟は発見されている。
ムラというよりクニと言える遺跡で、それが4世紀・5世紀につながる(滋賀県では有数の荒神山古墳)遺跡も残されているという具合だ。

発掘された土器から大和、伯耆、越前、美濃、尾張、伊勢、三河・遠江、駿河に至るつながりが確かめられた。韓式の壺もあり、国際的な交流も指摘されている。

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展示品の鉄鏃。鉄滓も展示されていた。

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桃のタネ…祭祀に使ったか?

邪馬台国時代、「畿内のクニグニの経済力や鉄の生産力、建物や人口がどうだったか」、そこに僕は関心があるが、期待以上の遺跡が出て、邪馬台国、畿内論の一つの軸柱となるよな遺跡である。


彦根市教育委員会のHPによれば、遺跡の現地見学会の案内は以下の通りである。

彦根市教育委員会では、市道芹橋彦富線・稲部本庄線道路改良工事に伴う発掘調査を実施しています。
平成25年度から実施された調査で発見されたのは、2世紀から4世紀(弥生時代後期中葉から古墳時代前期)の大規模な集落跡です。
稲部遺跡が最も栄えた時代は、3世紀前半、弥生時代から古墳時代へ移り変わる時代、つまり、邪馬台国と同じ時期にあたります。

中国の歴史書「魏志倭人伝」には、このころ、倭(=日本)には、魏もしくは出先の帯方群と外交している国が30ヶ国あったとあります。おそらく、稲部遺跡も、この国々の一つの中枢部だったと思われます。

稲部遺跡からは、180棟以上の竪穴建物に加え、王が居住するにふさわしい大型建物、独立棟持柱建物が発見され、当時、保持することが勢力に大きな影響を与えた鉄器の生産が行われた鍛冶工房群、青銅器の鋳造工房も発見されています。祭祀都市・政治都市であるうえ、工業都市でもあった稲部遺跡は、ヤマト政権成立期における近江の巨大勢力の存在を物語る大集落です。

現地説明会では、この「イナベのクニ」とでも呼ぶべき遺跡の内容と、近隣にそびえる国指定史跡荒神山古墳へのつながりについても、調査担当者がお話しします彦根市が誇るべき、大遺跡の調査を体感できる貴重な機会です。ぜひ、ご参加ください!。



年表なども入っていて、とても丁寧な説明会と資料だった。発掘の説明会の機会が少ないのかもしれないが、若い人の参加が目立つ現地説明会だった。
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# by koza5555 | 2016-10-23 16:32 | 邪馬台国(やまとこく) | Trackback | Comments(0)

第68回正倉院展

第68回正倉院展は10月22日~11月7日(月)の会期で始まった。
開幕に先立ち、21日、招待客に交じり、内覧会で拝見させていただいた。
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人気の中心は、まずはこれ・・・漆胡瓶(しっこへい)。ペルシャ風の水差し。「胡は中国より見て西方の国や民族を意味し、下ぶくれの胴部と把手を有する水瓶はササン朝ペルシアで多く作られ、その影響で中国でも流行したため胡瓶と呼ばれた」(図録)。
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「こんな水差しで生活するって人、誰」と、現代でもなかなか想像しにくのである。
人の生活やそれに関わる家具什器の完成度、到達点は奈良時代や卑弥呼の時代と現代は同じレベルかもしれない、と考えさせられる。


幡がテーマだった。大幡・・15メートルもあったとのことである。「脚部の辺りはこれ」と、あれこれの部分も残っている。残欠などと言うレベルではないのである。色も鮮やかだった。

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大量の鈴が展示されている。幢幡には鈴が大量についていたようである。
風にあたれば、サラサラワヤワヤと鈴が鳴るんだ・・・
これは僕には新発見。朝堂院などに立てられる幢も同じように鈴がついたのだろうか。


古文書は戸籍にビックリ。
御野国加毛郡半布里戸籍、これは岐阜県の美濃加茂郡、富加村(僕の子供の頃の村名)のことだそうだ。
富加(とみか)村。僕は岐阜で生まれ育った。富加村はよく知っているが、まあ、あそこは山間の村。
今年、考えたのは、「あんなところまで、国で戸籍を管理したのか。村役場みたいなことも中央政権がやっていたのか」、そんなことである。
そこら辺りはどんな具合なんだろうか。


写経師解案(しゃきょうしげあん)。写経師の下書き・・みたいなものか。
待遇改善要求書の下書き・・・
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服が汚いので交換してください。洗っても匂いが取れないほど汚れた
食事の悪い。「中品精食」に改めてほしい
机に向かって長く働き、足がしびれるので、薬分として酒を支給してほしい

正倉院展、今年も面白い。


奈良市で、この時期に僕が見たいのは
平城京跡資料館の「地下の正倉院展」と
元興寺の「版木ー刻み込まれた信仰世界」
である。
# by koza5555 | 2016-10-22 07:07 | 奈良 | Trackback | Comments(0)

石上神宮のご例祭(ふるまつり)

10月15日(土)は石上神宮のご例祭。祭は10月1日の榜示浚から始まる。

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お旅所、田町(たちょう)の榜示立

10月15日、まつりの日に石上神宮へお客様をお連れすることになった。「お祭りの日に神社」、良さそうに見えてこれがなかなかのクセモノである。
お祭りを楽しみながら、そして巻き込まれないようにである。


石上神宮のご例祭である。
平安時代、白河天皇の永保元年(1081年)に勅使が御参向(ごさんこう)となり、走馬十列(そうまじゅうれつ)を奉納された故事に始まるとされる。渡御は大和の秋祭の中でも随一という壮麗さで、「ふるまつり」とも「田村渡り」とも称された。
① 御旅所の田町(たちょう)より、稚児が騎馬にて御幣を奉持して社参(午前8時半)。
② 午前10時から昇殿、献饌、普通神饌と合わせて稚児より荷前(穂のついたままの稲株)が奉じられ、幣帛が奉じられる。
③ 祝詞奏上、氏子献幣使祭詞奏上、舞楽、玉串拝礼があり、稚児に御幣が授与されて祭典は終了する。
④御魂代を御ほうれん(神輿)に遷御する。
⑤ 午後一時からお渡り。田村町までの4キロを渡御する。

この祭りに先立って、10月1日に執り行われる榜示浚神事が神社の性格を表し興味深い。
榜示とは中世荘園の成立の折、四至榜示を明記したとされる。そこに杭を打ち、石を置いたとのことで、それが今も地名として残る例も見られる。(たとえば生駒市高山)
祭祀に当たり、境内に榜示杭を立てる場合(鳥居もその一つか)と、石上神宮のように広く氏子地域に立てる場合もその役割は変わらない。
石上神宮の場合は、北郷、南郷で八カ所。中ツ道まで領域として、南西は備前橋(神社から8キロほど離れている)に立てるのである。

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備前橋の榜示立て
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ちなみに北郷は ①石上市神社、②岩上神社、③八釼神社(田井庄町)。④三十八神社(南六条)
南郷は ①春日神社(内馬場町) ②神明神社(川原城町) ③備前町南端、④田町、厳島神社となっている。(以上は石上大神の祭祀と信仰  白井伊佐牟著参照)

こんなことを話しながら、それから石上神宮の神剣のことを話しながら、ツアーを行う。
それにしても、さすがに軍事氏族の物部が奉じた神社である。神話に出てくる主要な刀が勢ぞろいだ。
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これが僕が考えた石上神宮の神剣の数々



このパネルで・・で、どんなふうに語るか。
いずれにしても、物部おそるべし・・かな
# by koza5555 | 2016-10-12 22:03 | 桜井・山の辺 | Trackback | Comments(0)

「邪馬台国はどこだ」。歴史バトルに参加しました

10月9日、インターネット回線で、吉野ケ里と奈良の万葉文化館を結んで、歴史バトル「邪馬台国はどこだ」(奈良新聞社など)が開催されました。
今年の趣向は市民代表の参加で、その一員として10分ばかりの時間をいただきました。

8月のある日に、纒向遺跡の名付け親、石野博信先生から電話をいただきました。
「邪馬台国の取り合いをする。あなた出てもらえますか」と、突然の電話が入った。まあ、それなりに快諾である。9月から10月にかけては「おとなび」で「卑弥呼の大和」ツアーを受けていたので、合わせての準備だった。

会場風景である。
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僕は、こんなような話をしたのである。
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はじめに纏向遺跡を見渡します。
箸墓古墳、ホケノ山古墳、こちらが纒向石塚古墳。
ここが遺跡の中枢部、ここに大型建物跡が出現しました。

この遺跡の特徴は
●まずは大きい、広い。300haあります。
●各地方からの多数の搬入土器。吉備、東海、北陸、出雲、さらには九州から関東まで、纏向が広範囲なつながりを持っていた。
●土木工事用の工具が多く、農耕具が少ない。クワは無くて、スコップが出る・・一般的な環濠集落とは異なっていた
●箸墓古墳をはじめ、出現期の古墳が集中。古墳が多いところ、前方後円墳の始まりの地とされていますが

地下から出てきた膨大な遺物、地下構造物のあり方から、ここは日本の都市の始まり、都・宮の始まりではないか、具体的に言えば、ここはヤマト王権発祥の地、さらには邪馬台国畿内説の候補地として注目されるようになりました。

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① 桜井市は平成21年、7年前の11月に「纏向遺跡第166次調査現地説明会」。
この時の配布資料は、ネットで「纏向166次」と打ち込むと、今日でも、当時のままでプリントアウトできる。
桜井市のベストセラー、ベストヒットです。
 
纒向遺跡の名づけ親、初めからここを掘ってきた、こちらにみえる石野先生でさえ、
「纒向からは(太い柱は)出ない。無かったか、細い柱で大きな建物を建てる技術革新があったのか」などと書かれた直後。

② 幅20メートルで奥行きが12,4メートル。250平方メートルもあった。
発掘された柱穴(ちゅうけつ)から、柱の太さは32センチと15センチとされた。
32㎝の柱、東西・南北に一直線。南北でみると柱穴列は5本、その間隔が約5メートル。
その柱列(ちゅうれつ)の真ん中に15センチの柱がたち、これも東西に一直線である。
太い柱が一直線、その間に細い柱が一直線。太いの、細いの、太いの、細いのである。
太い柱は屋根を支える、細い柱は床を支える束柱とみることができる。

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① BCDが一直線。しかも建物は方形である。
●まずは建物B 一辺が5メートル。
●そして建物C。南北8メートル、東西が5、2メートル。北の壁と南の壁の外側に柱穴がある。
棟持柱穴(むなもちばしら)と判断された。
屋根の一番高いところに棟木が通る、それを支える柱である。
●Dである。一番東から出てきた。
南北が20メートル、東西は12、4メートルである。
② B、C、Dは庄内式前半、三世紀初めの土器を含む整地層を掘りこんで柱が建てられている。だから建物は 3世紀前半には建っていたのである。

さらにこの遺跡には重要な特徴があった。
● 建物の隅の柱穴を切った溝 この溝からは庄内3式 250年
● 更に複数の柱穴を破壊する溝 これは布留0式の壺が。260年以降だ
つまり、この大型建物は 西暦200年から250年の間だけ存在した宮殿なのである。始まりが判り、終わりの時期が判っている。すごい発見である。

一直線に中軸線をとおす方形の建物で時期が明確。
200年~250年の頃。誰がいましたか、何がありましたか。この国に。
180年に卑弥呼共立、247年に卑弥呼以て死す。大いに冢をつくる。

それは邪馬台国であり、卑弥呼だと言いたいのです。この宮殿こそ卑弥呼が、「鬼道に事(つか)へ、能く衆を惑」わした場所だったのでないでしょうか。

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① 黒塚古墳、纏向遺跡のすぐ近くです。
盗掘や開発によって、原型を留めていない古墳も多いなかで、この黒塚古墳はまるでタイムカプセルのように、埋葬当時の状態で発見された。中世・近世は砦、お城として使われた歴史もある。
130メートルほどの前方後円墳で、3世紀から4世紀にまたぐものである。

② 棺の外側に33枚の三角縁神獣鏡、棺の頭の前に画文帯神獣鏡が置かれた。
● その北側に不思議な「Ù字形鉄製品」。石室の大事な場所です。こんな所である。
● これが拡大図。二本のパイプは、叩いて丸めて作られた鍛造の鉄、正確な細工が施されており、弥生時代、古墳時代のものではきわめて特殊なもの。
● パイプには布の破片も付いていた。
● このÙ字形鉄製品は、魏書に記された黄幢(こうどう)との指摘がある。
「其の六年(245年)、詔して倭の難升米に黄幢を賜ひ、郡に付して仮授せしむ」です。

このÙ字形鉄製品こそ、魏書に記された黄幢。
黄幢とは、黄色い吹き流しのような軍旗。
この絵です。同時期の遼陽の壁画(北薗壁画墓)に黄幢とみられるものが描かれていた。

さて、このU字形鉄製品、これが黄幢となると、黒塚古墳は、難升米のお墓の可能性が高まります。どうでしょうか。


考古学という学問を信じて、掘り出されたモノを信じれば、僕たちはその時代にたつことができる。
言い換えれば、到達した科学的な知見を信じてその道をたどれば、邪馬台国は畿内、ピンポイントで纒向に行きつくだろう。           


長々と読んでいただき、ありがとうございました。

飛鳥会場は350名もの入場。会場いっぱいの皆さんから暖かく、力強い反応がいただけました。
バトルの勝敗は?僕の心の中では圧勝だが、まあ、これは当事者の自己採点ということで(笑)
邪馬台国は、これからも勉強しながら、おりおり企画も作っていきたいとと考えております。




     
# by koza5555 | 2016-10-10 10:22 | 邪馬台国(やまとこく) | Trackback | Comments(0)

黒塚古墳と黄幢

昨日は藤原宮の現場見学会で、藤原京の時代の「幢幡」を勉強してきた。

ついつい、「其の六年(245年)、詔して倭の難升米に黄幢を賜ひ、郡に付して仮授せしむ」(魏志倭人伝)を思い出してしまった。

今日は黄幢と黒塚古墳のことである。

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黒塚古墳・後円部をみる
天理の柳本である。古墳は整備されており、展示館もきわめて充実している。

僕の邪馬台国ツアーは黒塚古墳も必ず行きたい。
黒塚古墳、纏向遺跡から北に2キロほどの天理市だ。
盗掘や開発によって古墳の原型を留めていない古墳も多いなかで、この黒塚古墳はまるでタイムカプセルのように、埋葬当時の状態で発見された。
1998年の現地見学会のものすごかったと、今でも古い考古学ファンは語るのである。

ちなみに、その頃の僕は名古屋で暮らしていた。正倉院展に来たり、長谷寺や談山神社を訪れても、古墳は・・関心がなかった。

黒塚古墳、33面の三角縁神獣鏡、頭の上に置かれた画文帯神獣鏡で有名である。丹塗りの竪穴古墳。
しかし、今日は黄幢(こうどう)をお話ししたい。

黒塚古墳は、崇神天皇陵(行燈山古墳)や景行天皇陵(渋谷向山古墳)を盟主とする柳本古墳群に含まれる、全長約130mの前方後円墳で、築造された時代は、3世紀後半~4世紀の前半とされている。

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石室が展示館に復元されている

棺の外側に33枚の三角縁神獣鏡があり、頭の前には一つだけ、小ぶりな画文帯神獣鏡が置かれている。北枕のご遺体の頭の上に置かれているのだ。

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その横に、不思議な「Ù字形鉄製品」という、用途不明なものが納められている。
北枕の、その先の墳墓の中の一番北側に大事に収められているのだ。

これは「黄幢」ではないか、それを主張する研究者(東潮氏など)がいる。

黄幢とは、黄色い吹き流しのような軍旗。これによって、卑弥呼には魏の後ろ盾があることを敵国である狗奴国に示したといわれる。
「其の六年(245年)、詔して倭の難升米に黄幢を賜ひ、郡に付して仮授せしむ」である。

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このU字形鉄製品は黄幢ではないか、東潮氏は次のようの論証する。
① 鉄パイプは鍛造の鉄だが、きわめて正確な造作で弥生時代、古墳時代の始まりには倭の技術ではむつしい細工がある。
② パイプには布の破片が付いていた。U字形鉄製品のパイプには布片が付着していた
③ 同時期の遼陽壁画(北薗壁画墓)に黄幢とみられるものが書かれている。
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④ 極めて重要な空間・・画文帯神獣鏡とU字形鉄製品が同じ場所に置かれた。

このU字形鉄製品こそが、魏書に書かれた黄幢だとすれば、黒塚古墳は卑弥呼の大夫、難升米のお墓、古墳と言う説も、まんざらではないと思えるだろう。

こんな話は「邪馬台国の考古学」(東潮著)角川選書  に詳しい
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# by koza5555 | 2016-10-03 16:48 | 邪馬台国(やまとこく) | Trackback | Comments(0)

邪馬台国はどこだ?公開討論会に出ます

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これに出ます。10月9日(月)に、邪馬台国をめぐる公開討論会に出場します。


「邪馬台国は大和や」というお話をするのである。「邪馬台国は奈良・纒向だ」というお話は何度もしてきたが、今回は事情は大違い。

奈良と佐賀で、それぞれ300人ほどの会場をつくり、2人の奈良代表が15分づつ、佐賀の2人も15分づつで主張、両会場はテレビ中継を通じて結ばれている。主張の後は、さらに討論をしようという企画である。奈良側に石野博信先生、九州側に高島忠平先生が後見・応援するという豪華討論会。

8月に電話がかった。「邪馬台国で公開討論会をするんです。あなた、出てください」と。
僕も「おとなび」で「邪馬台国九州論、畿内論」というツアーを受けてる。九州側の講師は高島先生で、僕は高島先生の向うを張って「大和論」を案内している。「ここは引くことはできんなあ」と引き受けたのである。

纒向遺跡や周辺のことを語ろうと考えている。

古墳が密集していて、纏向で前方後円墳が発生したと言われている。
纒向・三輪は前方後円墳の故郷だが、纒向は日本の始めて都市、宮・都ということも明らかになりつつある・・・そんなことをお話ししてみたい。

1971年(45年前)以降、 纒向の発掘は継続的にすすめられてきている。
この発掘が進むにつれて、纒向は大和政権発祥の地として、または邪馬台国畿内説候補地と知られるようになった。発掘はさらに続いており、現在では180次を越える規模、期間の長さである。

纒向遺跡は
●まずは大きい、広い。段階がありますが、最後は南北約1.5km、東西約2km。300ha
●よそからの搬入土器の出土比率が15%。吉備、東海を中心に九州から関東にいたる広範囲な地域とつながっている。
●箸墓古墳からはじまり、纒向石塚古墳(国史)など、初期の前方後円型の墳墓が集中した。

こんな時にトリイノマエにて中軸線が一直線、方形の大型建物跡が発掘された。
ここから、纒向は「日本最初の邪馬台国の都市」、あるいは初期ヤマト政権最初の「都で宮」といわれるようになっていく。


9月30日の奈良新聞に折り込まれた「奈良観光タブロイド」・「ことなら」参照
会場はすでに満席である。

僕はがんばる。また、続報いたします。よろしくお願いいたします。
# by koza5555 | 2016-09-30 22:59 | 奈良 | Trackback | Comments(0)

国のはじまり、大和の中の大和を歩く(天理市南部の古代と近世の歴史)10月26日(水)

10月の「大人の学校」(代表 溝口博己)の企画は天理市南部にこだわった歴史ウォークにした。
天理駅東口の集合は午前10時で長柄駅を3時すぎに解散する。

ツアーのテーマは西山古墳
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はじめに丹波市。旧山添郡のダウンタウン。こちらの市座神社を拝観、そのまま西山古墳、峯塚古墳、石上神宮まで東上する。午後は内山永久寺跡、夜都岐神社、竹之内環濠集落、大和神社という行程である。いつものように「ウォーキングは早めの昼食」を心がけているから、お弁当は石上神宮である。

丹波市のとっておきのテーマは青石橋。
地元ではこの橋を「あお」と呼んでいたとのことである。もともとは古墳由来の青い石板が敷かれていたことからそう呼ばれた。
この板が市座神社に置かれている。それは見学できるのだが、説明版では青板がもう一枚、民家に残っているとのことであるが・・・先日、その場所を教えてくれた方がいた。さらに「天理大学の近江先生のお話しでは、石棺の蓋ではなく西山古墳の立石」とも。
これはすごい。市座神社と西山古墳が道として話としてつながった。

石上神宮では、神剣の数々を考える。
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夜都岐神社が格別の面白い。拝殿の藁ぶき屋根の葺き直しもすごいが春日大社との関連を考えたい。
この神社と春日大社は特別の関係がある。「蓮の御供え」という神饌を毎年春日大社に献供、春日大社からは神殿、鳥居が下げられるのが例となっていた。江戸時代までのことである。
どの本にも、また境内の掲示にも「蓮の御供え」は記されているのだが、この「蓮の御供え」とは、何かが判らない。
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葺き替えられた夜都岐神社

さらに大和神社、おくの深い「ちゃんちゃん祭り」も語ってみよう。来年の4月1日のちゃんちゃん祭り、絶対に大和神社を訪れたくなる秘話もある。
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山の辺の道(国のはじまり、大和の中の大和を歩く)
■10月26日(水)
集合 午前10時  JR(近鉄) 天理駅東口
解散 午後3時ころ JR長柄駅
■コース(歩く距離 8km程度)
JR(近鉄)天理駅東口 → 丹波市 → 西山古墳 → 昼食(石上神宮)→ 内山永久寺跡
 → 西乗鞍古墳 → 夜都伎神社 → 竹之内環濠集落 → 大和神社 → 長柄駅(解散)
■参加費 800円(学校経費、資料代など)
■持ち物:弁当・飲み物・雨具・歩きやすい履物で

■ お申込み・お問い合わせは
このブログのコメント欄(カギコメでも)か

「大人の学校」代表溝口博己さんまで
hiromi-03.30@kym.biglobe.ne.jp
090-8986-8844   FAX  0743-53-2769でお申込みください

# by koza5555 | 2016-09-22 10:14 | 桜井・山の辺 | Trackback | Comments(0)

丹波市の青石橋…青石は現存

天理の丹波市にすごいものが残されていた。

一つは市の跡。
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今、一つは市坐神社に置かれた「青石」
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燈籠もすごい。1830年制である。おかけ接待所と掘り込まれている。
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天理のアーケードから丹波市にむかう旧道(上街道)をすすむと布留川にさしかかる。
小さな川、小さな橋であるが、ダム放水時の警報の出し方などの掲示がしっかりとされており、上流にはダムがあることがよく判る。
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この橋のことは、伊勢街道ぶらりぶらり(林憲次さん)でも紹介されており、近くの「お婆さんに橋の名前を尋ねてみると、一人から『あお橋』という答えが返ってきた。『あお』とは『青』なのかとさらに尋ねたみたがわからなかった」とのことである。


丹波市の市座神社の境内には素晴らしい青い石板が展示されていた。掲示は長いが全文を紹介する。

青石橋の由来
 上街道の布留川南流に架せる橋にして大なる青石を以てす。故にその名を得たり、石棺の蓋である。青石はその両側に添え石をつけて縦に掛けられていたが、明治40年前後に橋がかけかえられ、不要なった青石は百メートルばかり南のこの神社境内に移された。

青石には一方の端近くに二つの穴がある。地元では「馬が踏み抜いたあとだ」などと言う言い伝えも残っているが、おそらく運搬用の綱を通すための穴だろう。
面白いのはその穴のあけ方で、一方が口径30センチもあるのに、裏側では10センチくらい、ちょうど漏斗形に穴があけられている。こうした穴のあけ方は古墳時代に石や玉によくみられるものだという。

ここより東へ700メートルに西山古墳、同じく鑵子山古墳があるが、それらの古墳から運び出されたものか数知れぬらぬは、定かではありません。

このような穴のあいた板石は、近くの民家にも残っているらしい。

通り昔、小高い墳丘の上で大和国原を見下ろしていたたであろう青石は、何百年かの後、布留川の流れの上に箸として、その身を横たえ数知れぬ人馬に奉仕した、石であります。

                                   丹波市町    



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上街道は丹波市で道幅が二倍になった場所が残っている。屋根があり川は暗渠に。ここが市で、さらに市座神社が残されている。


市座神社に200年以上前の常夜灯が残されている。
南 太神宮 西 常夜灯 北 天保元年庚寅(かのえとら)(1830年)
東 おかけ接待所
木の加減で写真が撮りにくいが、この「おかけ接待所」の写真が撮りたかったのである。


天理の歴史を語る上で上街道は欠かせない。この丹波市を13日の奈良の布陣講座で紹介、10月の大人の学校ツアーでは、訪れてしっかり語ってみよう。
# by koza5555 | 2016-09-06 23:09 | 桜井・山の辺 | Trackback | Comments(0)

「大和の卑弥呼」 東京の奈良まほろば館

奈良まほろば館(東京・日本橋)で「大和の卑弥呼」という講演を行う。9月17日(土)午後2時から一時間半である。まほろば館は4回目で、今回は邪馬台国をテーマに選んだ。

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パワーポイント、タイトル

奈良まほろぼ館の講座案内は
「邪馬台国はここだ!」という証拠が、桜井市の纏向遺跡で次々と発見されています。纏向の大型建物群跡や石塚古墳の前で邪馬台国の時代の風景を実感していただきます。
さらに卑弥呼の墓ともいわれる箸墓古墳を前にして「卑弥呼の姿と人となり」を共に考えてみましょう。

こんな形で紹介されている。


1800年前の纏向と箸墓を案内する。東京、関東の皆さんに卑弥呼と共に纒向に立っていただくという語りをしたいのである。

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纏向遺跡を語る。2011年の大型建物説明会


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箸墓古墳を話します

卑弥呼は祭司者か、それとも権力を持つ施政者か・・こんな話しをしてみたいのである
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纏向遺跡をかかえた桜井に住んでいて、そして邪馬台国ツアーを案内しながら考えている。
僕の身の回りの人は邪馬台国への関心がイマイチだが、纏向を見る日本の歴史ファンの思いの熱さは格別ということを。
西日本一円からお客様を集めた「邪馬台国畿内論ツアー」(おとなび)を案内して、そのことを目の当たりにした。邪馬台国ファンは勉強している。その思いには熱さと深みがある。中途半端の勉強では広島や島根、北陸からやってくる邪馬台国ファンには太刀打ちできない。

邪馬台国と卑弥呼は古代史のハイライト。「邪馬台国がきちんと語れるガイドになってこそ、奈良や桜井のガイドだ」と痛感することしきりである。今回は、それを東京で語ってみよう。

9月17日(日)日本橋、まほろば館でお待ちしています。

「大和の卑弥呼」
1.日  時:平成28年9月17日(土)14時00分~(1時間半程度)
2.講  師:雜賀耕三郎 氏
        談山神社氏子総代。NPO法人奈良まほろばソムリエの会 理事

3.申し込みは   奈良まほろば館に




# by koza5555 | 2016-08-16 09:38 | 邪馬台国(やまとこく) | Trackback | Comments(0)

石上神宮。神主、忌火(いんび)

石上神宮の勉強をしている。
10月のことだが、石上、大神というツアーを引き受けた。
軽めに考えていたが、募集要項を見て、あわくった。レベルが高いのである。

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石上神宮。この入口は現代にできたもの

まずは、石上神宮の元禰宜、白井伊佐牟(いさむ)さんの『石上大神の祭祀と信仰』が面白しそうである。

この本、「忌火職」から始まる。
石上神宮は長官職を神主とも忌火とも呼ばれたとされる。神主としての斎戒の要は、「忌火飯食忌慎」とされ、浄化されるため浄火、それによってかしがれる飯を食することが求められた。
「火鑽(ひきり)によって得た神聖な火にて煮炊きする」、これが忌火である。
さらに清浄を保つために「社の境内から出ない」ことが求められた。

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この境内だけの生涯かあ・・・僕にはできんなあ


これは石上にとどまらず出雲大社、三輪社、近江国三上社(祝など)などにも忌火の職号があり、他人と同火せず、常に清浄を求める生活が続けられたという。

お聞きしたところだが、石上神宮には忌火という制度は残されていないとのことではあるが。

「火鑽(ひきり)によって得た神聖な火にて煮炊き」という枠には当たらないが、神に伝えるということでは、様々な連想が成り立つ。

當屋が一年間の潔斎、祭の前夜からの儀式で絶食で神がかりに至るという美保神社(出雲)の祭とか、
百日行という厳しい潔斎を行う出羽三山の冬の峰の松聖の神への仕えかたなど・・・
今も残る長期の潔斎を経ての祭を取りおこなう神主の姿は、どの神社でも共通して行われていたと理解することができるのである。


時代は遡るが、あとは持衰(じさい)のことである。
魏志倭人伝は、航海の安全を祈る神主、持衰を紹介している。

「其の行来・渡海、中国に詣(いた)るには、恒(つね)に一人をして頭を梳(くしけず)らず、蝨(きしつ)を去らず、衣服垢汚(こうお)、肉を食さず、婦人を近づけず、喪人(そうじん)の如くせしむ。之を名づけて持衰(じさい)と為す。若し行く者吉善(きちぜん)なれば、共に其の生口(せいこう)・財物を顧(こ)し、若し疾病有り、暴害に遭へば、便(すなわち)ち之を殺さんと欲す。其の持衰謹(つつし)まずと謂(い)へばなり。

忌火は持衰か、あるいは持衰の末裔が忌火とみるのか。
でも、航海に持衰が必要ならば、王権の神祭りにも忌火は置かれていたとみるべきだろうか

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最後も石上神宮・本殿も拝殿も

# by koza5555 | 2016-08-04 00:27 | 桜井・山の辺 | Trackback | Comments(0)