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奈良・桜井の歴史と社会

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『土木技術の古代史』  青木敬

『土木技術の古代史』 (吉川弘文館) 青木 敬

古墳や仏教寺院・宮殿建築の発掘成果を土木技術の面から解明、技術の使われ方から古代の政治と暮らが解明される。

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はじめに古墳である。

古墳の製造技術を解明すると地域性、政治性、外交問題が復元できるとことである。


古墳の出現、ここからも土木技術が見えてくる。

弥生墳丘墓は墳丘周辺の土を盛り上げて作る。

古墳は巨大な墳丘のための採土、運搬、墳丘作製の技術レベルが上がる。


墳丘の作り方の工法で、東日本型、西日本型という差があるらしい。

東日本型は土を積み上げる。

これに比して西日本型は、まず土堤を築いて、内部に土を運びこむという差があるようだ。

本筋ではないが「前方後円墳は後円部を先に作る・・前方部を付け足すような構築順序がたしかにある」(吉田恵二先生 p26)などという考古学者の常識も紹介されていて、参考になる。


葺石の変遷もおもしろい。

古墳には木が茂っているが、もともとは石張り、葺石に覆われていたのが常態である。

るのがふつうである。

天皇陵が集中する佐紀盾列古墳群にも、葺石には発掘の成果があるのである。

それは市庭古墳(平城天皇陵)とウワナベ古墳である。市庭は古墳時代中期前半、ウワナベは中期後半とみられる。

市庭古墳は葺石の一重の基底石が並べられ、その上部に石が葺かれる。

ところがウワナベは基底石がなく、石は差し込まれるように置かれる。

「積み重ねる葺石」から、「埋め込む葺石」である。確実に市庭古墳がウワナベ古墳の前に作られた証拠である。

こんなところがとても興味深くて、面白い。

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土嚢や土の塊を敷きならべて、順々に積み上げるこ造成技術が紹介されていた。4世紀後半から始まるらしい。

土嚢や土の塊を列状に並べて積み重ね、間に土を入れながらという造成方法も紹介されている。これは5世紀以降で、5世紀の朝鮮半島の古墳、伽耶の古墳造成技術に類似するとされる。

この列状に土嚢や土の塊を積む技術が、日本で最初に使われたのが・・・藤井寺の津堂城山古墳の外堤とのことである。

大型古墳は4世紀後半に大和から河内(古市と百舌鳥古墳群)に移るとされるが、その初めの古墳と目されるのは津堂城山古墳と言わており、ここで使われたということである。

●しかしこの新技術はまず外堤で使われた。古墳本体ではなかった。その意味も考えなければならない。

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堤防のようなものを作りながら、そこへ土砂を運び込む古墳の作り方・・こんなことを考えるとため池造りなどの技術と古墳造りの技術が共通していることもわかるし、古代ヤマト王権はそんな技術者集団を擁して、領域を広げていったんだなあと・・

最後に寺院関係の紹介。

これはあれこれ読んでほしい。

僕には版築の技術が興味深かった。地域性、技術の歴史の考えると、当時の政治と外交が分るという分析である。

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# by koza5555 | 2017-11-29 18:10 | 読書 | Comments(0)

鎮魂祭(みたまふりのみまつり)石上神宮

1122日、新嘗祭の前夜に天理市の石上(いそのかみ)神宮で鎮魂祭(みたまふりのみまつり)が斎行された。

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鎮魂祭は午後5時から。修祓があり、初めに天神社の祭祀がおこなわれる(天神社は本殿・拝殿の向い側・出雲建雄神社の左手奥である)。祝詞では「みたまふりのみまつりを斎行する」ことの報告がされるところから見ると、この神を地主(産土 うぶすな)とされているのだろうか。

午後530分から御魂祭が斎行される。

「やない箱が神前」に出される・・・この箱が神事の中心で・・祭祀の後にはご本殿に収められる。饒速日命(にぎはやひのみこと)が、天神から授かった天璽十種瑞宝(あまつしるしとくさのみずのたから)が収められているのだろう。

神事は浄暗の儀式である。事前に「スマホは厳禁。撮影だけでなく電源を切れ」と繰り返し放送される。

宮司、禰宜がやない箱の前で、「ひと、ふた、み、よ、いつ、む、なな、や、ここ、たり」と十種の宝を読み上げる声、その合間にサラサラと鈴の音が鳴ることから、真榊が振られていると思われる。なにしろ・・闇の中である。

「もしいたむ(痛む)ところあらば、このとうのたから(十宝)をして、ひと、ふた、み、よ、いつ、む、なな、や、ここ、たりと言うて、ふるべ(布留部) ゆらゆらと ふるべ。かくなさば まかるひと(死人)も生き返らん」

こんな呪文である。天神から授かった十種の宝を、順々に数えての「みたまふり」である。

式典後の宮司のあいさつでは、「鎮魂祭は魂を若返らせるお祭り、元気を取り戻すお祭りです。魂を鎮めるお祭りというのは誤解です。今日、力を取りもどした真榊により、皆様は一年、若返りました」と解説されました。

若い方の参加が目立ちました。さまざまな神社、さまざまな神事を拝見しましたが、石上神宮の御魂祭は若さで一番でした。

寒い・・防寒対策は万全に。お昼間に2万歩のウォーキングをしましたので、座るのが堪えました。

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拝殿は宮中の神嘉殿(新嘗祭を行う)が移されたもので、国宝である





# by koza5555 | 2017-11-23 07:32 | 桜井・山の辺 | Comments(0)

神武天皇に関わる陵、丸山にこだわって

「神武天皇の即位」をテーマのツアーを案内する。

橿原神宮、神武天皇陵、綏靖天皇陵、等彌神社などを訪ねる。

そこで、神武天皇陵のことである。

幕末期には三か所が神武陵の候補に上がる。

それは

①「今日神武陵、一説には綏靖天皇陵(第二代)たり」の四条村の塚。

②「山本村神武田」(じぶでん)。旧塚と新塚の二つの「塚」がみえる。神武天皇陵と書かれず、「廟社の地」とされていた。

③「三番目は畝傍山手前の山である」。「この一丘は御陵また丸山、神武天皇畝傍山東北陵」とある。古事記にある神武天皇陵についての記述、そのままの文言である。

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その後の経過はどうなったか。

①の「今日神武陵」は、幕府の公認陵ということもあって推すものがなかった。

②の神武田を主張したのは谷森義臣である。天皇陵の研究家として文久の終陵では大きな影響力を発揮していた。

③の丸山を推したのは北浦定正で、尾上という古事記の記述をもとに主張した。

もともと、本居宣長はこちらの丸山を推していた。

「四条村といふあり。この四条村の一町ばかり東。うねび山よりは五六町もはなれて。丑寅のかたにあたれる田の中に。松一もと桜ひと本おひて。わづかに三四尺ばかりの高さなる。ちひさき塚のあるを。神武天皇の御陵と申つたへたり。さへどこれは。さらにみさゞきのさまとはみえず。又かの御陵は。かしの尾上と古事記にあるを。こゝははるかに山をばはなれて。さいふべき所にもあらぬうへに」(菅笠日記)

結論はつけるのは孝明天皇。天皇の名で「御沙汰書」が出される。「神武田で決めなさい、但し丸山も粗末にするな」という沙汰だった。

その後、明治11年に、①の「今日神武陵」の四条村の塚は第二代綏靖天皇陵として治定される。

問題は、「丸山も粗末にするな」の③である。

こちらを、奈良まほろばソムリエの会の木村三彦顧問の案内で見学してきた。神武天皇陵の一角にあるが、許可を求めることなく、立ち入ることはできるようである。

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参道というか‥、拝所目前の左への分かれ道・・石段がある。里道という感じである。

あとは道なりである。200メートルくらい。上り詰めていくと井戸がある。昔の洞村の共同井戸らしい。今も水は貯められている。

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丸山はその上である。

宮と刻まれた5本の石柱が置かれている。古墳のような様子は感じられない。

5本、踏み分け道はしっかりの残っていて・・人の出入りは多い様子である。

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神武天皇陵を正面に記念撮影。後列、真ん中が案内してくれた会の顧問の木村三彦さんである。

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御陵印ももらってきた。「神武天皇畝傍山東北陵」印

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畝傍陵墓監区事務所

御陵印というものがある。神武天皇陵の敷地に置かれている「畝傍陵墓監区事務所」で、推すことができる。神武天皇陵印だけではなく、奈良県の歴代天皇陵の30陵の御陵印が置かれている。

「丸山、粗末にできんなあ」である。


# by koza5555 | 2017-11-11 10:28 | 橿原・明日香・吉野 | Comments(0)

醸造安全祈願の酒まつり  毎日新聞奈良版

毎日新聞の奈良版(119日付け)、「ディスカバー奈良」大神神社の「醸造安全祈願の酒まつり」を紹介させていただいた。祭りは1114日である。

醸造祈願祭の前日、13日には「志るしの杉玉」の吊るし替え(大杉玉掛け替え)、祭礼当日には全国の銘酒が振舞われるという、とても楽しいお祭りである。

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奈良盆地のどこからでも仰ぎ見ることができる三輪山、このお山をご神体山とするのは大神神社です。数々のお祭りの中でも、参拝者の人気をとくに集めるのは、1114日の醸造安全祈願祭「酒まつり」です。

御ご祭神である大物主命の手助けにより美酒が醸造できたと古代から伝えられており、大神神社は酒造りの神として敬われるようになりました。神社は新酒が作り始められるこの時期に、酒まつりを行います。醸造の安全を祈り、参拝者には樽酒が振る舞われます。

 酒まつりに先立って、13日には拝殿・祈祷殿に吊るされた大杉玉の掛け替えがおこなわれます。重さは200㌕以上もあり、6人掛かりで運ばれます。大杉玉が掛け替えられ、酒まつりが終わると、新酒の印である「しるしの杉玉」は、全国の酒造会社と酒店の店先に吊るされます。

 さあ、いよいよおいしい新酒の季節が到来です。

(奈良まほろばソムリエの会理事 雑賀耕三郎)

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崇神天皇8年冬12月、今頃でしょうか。

崇神天皇が三輪の大神を太田田根子に祭らしめた日に、高橋活日が神酒を捧げて詠んだといいます。

この神酒は わが神酒ならず  倭なす 大物主の 醸みし神酒  幾久  幾久

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全国の醸造元から届けられた数々の酒は壮観です。

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大和の一之宮は桜井市の大神神社。奈良盆地のどこからでも仰ぎ見られる三輪山、このお山をご神体山とするのが大神神社である。

大神神社はあれこれすごい。

一つは、神社の創始、神社の始めが、『古事記』・『日本書紀』に記されているということだろう。大神神社が祭る大物主命の由緒やお姿が、日本の歴史書にきちんと記されていて、少なくとも1400年前から確実に信仰されてきたということがわかる。

二つめは神の依り代としてお山を仰ぎ見る信仰が特徴的である。神社に通常みられるご神体は大神神社には置かれていない。それを安置するご本殿、これが大神神社にはないのである。

この大神神社の在り方は、「神様をあがめる元々の姿」ともいわれる。日本の神さまは、八百万(やおろず)の神々といい、山の神、海の神、衣食住の神々などの幾多の神々が敬まわれている。山にも海にも様々な物々が生命体となり、霊魂を持つという考えかたである。江戸時代に、本居宣長がこんなことを解明している。

お山をご神体として祀り、ご本殿を持たない大神神社は「古来の神の祀り方」をしているとみられる。日本の最古の神社としての歴史、神社の形が大神神社には残っている。

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# by koza5555 | 2017-11-09 05:08 | 桜井・山の辺 | Comments(0)

修陵餘潤(よじゅん)の碑ー天皇陵の近代史

『天皇陵の近代史』。吉川弘文館から、外池昇著である。

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行燈山古墳ー崇神天皇陵  

「幕末から明治前期にかけての陵墓をめぐる動向について注目した」として、「文久の修陵をめぐる問題」と「明治政府の陵墓政策をめぐる問題」を解明したいとしている。

「皇室の祭祀体系の整備」の検討と合わせて、「地方の陵墓問題」の解明があり、「浄、穢の廟議」と「村落と陵墓」は引き込まれる。

陵墓は「浄か穢れ」かが問題とされている。

もともと荷前(のさき)使いは、「神事に似たり」(年中行事秘抄 858年)とされ、「浄」であるとされた。しかし、実質的には荷前使に赴いた貴族は正月行事に出仕できなかったりで「穢れ」という考えが続いてきていた。だから貴族は懈怠といって、荷前使を休んでしまう・・この使に立つと宮中の正月行事に出仕できなくなるのだから当然のサボタージュである。

明治元年の廟議には谷森義臣が出てくる。谷森の論は「本来的に神である天皇の陵が穢処であるはずがない」であり、その後は、それが貫かれている。

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陵墓に鳥居が立つ理由がわかるような気がする。

陵墓の発掘調査に宮内庁が反対する理由も、「墳墓だから」であり、さらに「神聖な場」だからということだろう。

こんな考えに立てば、考古学に基づく、治定、比定のやり直しなどは宮内庁は問題にもしないだろう。

良し悪しは別として、陵墓に対する宮内庁の考えがキチンと理解することができた。

村落と陵墓がとてもおもしろい。目からうろこがいっぱい落ちた。

一つは農地とか山林としての利用の問題

文久の修陵以前は、陵墓とされた古墳であっても後円部の墳頂だけが陵墓とされていた。だから古墳内の農地は普遍的な状態で、これは農民の勝手な耕作ではなく、年貢地となっていて、各藩の公的な耕地だったことが紹介されている。

びっくりですね。明治以降、立ち入りが禁止となり、地元民は陵丁などでかかわりを持って行った。

しばらくは、雑木、落ち葉の清掃などでのかかわりがあるが、明治30年代には古墳墳丘の植栽の変化などから、地元民は古墳から遠ざけられていくことになった。

今一つは、ため池としての役割である。

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こちらは利用が締め出されるのではなく、用水としての価値が高まったということである。

古代から通して、水のない周濠は普通の状態とのことである。水があれば常に浸食を受けるのであるが、その証拠がない。空堀とのことである。

今のような周濠の姿は文久の修陵以降のことらしい。もともと雨水だけを貯めるのだから、その量は限られ、灌漑用水としての値打ちはない。

崇神天皇陵(柳本行灯山古墳)はその典型である。古市古墳群なら安閑天皇陵(羽曳野市)である。

崇神天皇陵の文久の修陵の普請、柳本の全村挙げて取り組んだとされる。農業用水の確保である。同古墳近くの専行院には明治29年(1896年)2月に建てられた「修陵餘潤(よじゅん)の碑があるが、これは周濠の普請完成を記念したものである。

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天皇陵古墳の歴史も、おもしろい

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# by koza5555 | 2017-10-11 08:25 | 桜井・山の辺 | Comments(0)

演能 「野守」と春日野の池とは雪消ノ沢だろうか

10月9日、「田原本の能」で「野守」を鑑賞してきた。第17回、全国障害者芸術・文化祭なら大会(9月1日から11月30日)の企画である。

狂言「棒縛り」(ぼうしばり)、金春流 能「野守(のもり)」の演能の鑑賞が無料という破格の条件だった。
安易だが、いつものように『マンガ能百番』のコピーをもって出かける。場面ごとにあらすじをマンガで示してくれるので、とても役立つのである。

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さて、
出羽の羽黒山を(葛城大峰をめざして)出た山伏が、春日の里を訪れ、鏡のような美しい池を見つける。野守の翁が現れ、「池は朝も夕も野守の姿を映し、野守の鏡といわれる」と説明する。

真の野守の鏡は鬼神が持っていたもので、、昼は人になって野を守り、夜は鬼なって塚に住んだという。(田原本町パンフから)

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この池が気になった。

この池を春日の飛火野の「雪消ノ沢古蹟跡」に充てたい。理由はあるが、僕の独断である。

「雪消ノ沢」(ゆきげのさわ)は

「春日野の 雪消の沢に 袖垂れて 君がためにと 小芹をぞ摘む」(藤原仲実 (平安後期の公家,権大納言)『堀川百首』 春 71)と古歌にも歌われている名所なのである。

 を

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  雪消沢古蹟。春日大社参道を東にすすみ、バス通りを越えて
  右側、飛火野に入ると小さな池、池の中に石塔が立っている。

湧き水であること

春日野の飛火野にあること

近くには塚(春日山古墳群)が密集していること

などの状況証拠は、バッチリであるが。



今日は、狂言、能、楽しませて頂いた。

蛇足だが、野守は鏡がテーマ。狂言の棒縛りも杯が鏡となって映しだすがテーマで、今回のテーマは・・・鏡・・・でしたか。

今回の演能は田原本町町青垣歴史センターが会場だった。田原本には鏡作神社があり、鏡造りの長くて深い鏡の伝統がある。そんなことから鏡がテーマだった?と推測したりして楽しんだ。能もおもしろい・・・・・



# by koza5555 | 2017-10-09 20:01 | 奈良 | Comments(0)

山の辺の道―黒塚古墳と長岳寺。話題の「洋食Katsui」のランチ

10月の「大人学校」の参加を再度、募集いたします。

コース名は、山の辺の道黒塚古墳と長岳寺。話題の「洋食Katsui」のランチをいただくグルメウォーク

「洋食Katui」のお弁当をいただくウォーキングを計画しましたが、予定した参加人数の申し込みありませんでした。それで、コースは変えずに、「洋食Katui」のお弁当をやめて、ランチをいただくことにしました。料金も値下げいたしました。なにか、魅力度がそうとうアップいたしました。おいでになりませんか。

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「洋食Katui

日時は平成29年10月25日 ()。

行程はJRまほろば線柳本駅黒塚古墳見学崇神天皇陵昼食(洋食Katuiのランチ)長岳寺 →景行天皇陵 →神籬(ひもろぎ)→穴師坐兵主神社(相撲神社)→珠城山古墳→巻向駅

集  合:JRまほろば線 柳本駅改札口前 午前10時

解  散:JRまほろば線巻向駅

参 加 費:1,200円(拝観料350円、資料代他経費・講師料など)

食事はレストラン(洋食Katsui 山の辺の道を予定。各自払いで、ランチは1500円です)

持 参 品:飲み物・帽子・雨具をお持ちください。*歩きやすい靴でおいでください。

そ の 他:小雨は決行ですが、コース変更をする場合もあります。                   

歩行距離は約6km程度です。急坂はありません。

申し込みは 「大人の学校」の溝口博巳090-8986-8844、もしくは雜賀耕三郎、090-5069-8382

申し込みの締め切りは、平成29年10月18日(水)です。

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黒塚古墳
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景行天皇陵から大和三山をのぞむ
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これぞ、山の辺の道。三輪山を望む。額田王の歌碑も




# by koza5555 | 2017-10-01 19:30 | 桜井・山の辺 | Comments(0)

ヤマトタケルの能褒野墓、琴弾原白鳥陵

ヤマトタケルのツアーが迫ってきた。
白鳥伝説を真剣に考えねばならない。能褒野墓(のぼののはか)と大和と河内の白鳥陵も重大問題で、同じヤマトタケルを祀るのになんで陵と墓?、この問いにもこたえねばならなし。

今日は、倭建命(古事記)・日本武尊(日本書紀)の墓は「墓か陵か?」を考えてみた。

ヤマトタケルの墓・陵は次の三カ所とされている。

① 伊勢の能褒野墓(のぼののはか)。古事記・日本書紀に触れられている。

ヤマトタケルが亡くなり白鳥となって飛び去ったとされる。鈴鹿市の白鳥塚などの説があったが、明治12年(1879年)に宮内省により能褒野王塚古墳に改定された。


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② 大和の白鳥陵。日本書紀だけに記されている。

明治9年(1876年)に教部省により定められた。掖上鑵子塚(わきがみかんすづか)古墳(御所市柏原)に比定する説が根強い。

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こちらは掖上鑵子塚古墳

③ 河内の白鳥陵。古事記・日本書紀に記される。明治13年(1880年)に軽里大塚古墳に決められた。峯塚古墳、津堂城山古墳を推す研究者も多い。



能褒野は墓で大和と河内は陵となっている。天皇・皇后・太皇太后・皇太后の墓は陵、その他の皇族は墓となるが、ヤマトタケルは天皇に準ずるとされて陵と呼ばれたようである。すると「能褒野はなんで墓なのか」、この疑問は解消できない。

いろんな方に聞いたが明快な解説がない。「宮内庁に聞いたら」との声があり、問い合わせをしたが・・・これは無回答だった。

あれこれ読んでいると・・同志社大学の北康宏助教授が25年ほど前に、愛知県春日井市の「ヤマトタケル」というシンポジウムでお話をされていた(『ヤマトタケル』森浩一 門脇禎二 大功社)。

結論を先に書くと、「能褒野墓」は延喜式で記された固有名詞かな、ということである。

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こちらを見てみると

延喜式(延長5年 927年)には、陵73、墓47が指定されている。ヤマトタケルの陵墓は「能裒野墓」で、墓の分類である。

墓は47であるが、グル-プ分けがあり、以下の四基はグループとなっている。

能褒野墓は伊勢国鈴鹿郡で、ヤマトタケル。

竈山墓(かまやまのはか)は紀伊国名草郡で、イツセノミコトで神武天皇の兄。

宇度墓(うどのはか)は和泉国日根郡で、イニシキイリビコで景行天皇の兄。

宇治墓(うじのはか)はウジノワキイラツコで仁徳天皇の兄。

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この四基には共通項があるという。

①皇族であること、②継体天皇以前の皇統であること、③即位した天皇の兄弟であること、④軍人、または天皇の特別な庇護者であることが特徴である。

大宝2年(702年)には「震 倭建命墓。遣 使祭 之」(ヤマトタケルの墓、地震(落雷?)あり、使いを送り祭る)とあり、すでにこの時点で四墓は確定されていたとみられる。

北先生はさらに四墓は大和を守る特別の配置になっていると指摘されるのである。

東、南、西、北と記載する順序は古代の四至記載の基本とされ、宮を中心に四方の守護神とを配したとみるべきである。

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能褒野墓は固有名詞というべきものであろう。

明治の治定では、日本書紀を参考にヤマトタケルの3陵を定めたが、「能褒野墓」については、「墓」と定めた延喜式の記載を尊重したと思われる。

重ねてであるが、「能褒野墓」は、都宮の四周を守る特別の墓の筆頭に挙げられていて、陵と記した古事記・日本書紀との整合性を現代的(明治の治定)に考えれば、「能褒野墓の陵」ともいえるのではなかろうか。


能褒野墓 伊勢国鈴鹿郡の所在で、兆域は東西2町・南北2町で守戸3烟を付すとしたうえで、遠墓に分類する(伊勢国では唯一の陵墓)である。


# by koza5555 | 2017-09-27 08:50 | 万葉の旅 | Comments(0)

神野山となべくら渓

なべくら渓という奇勝がある。奈良県の一番東、山添村の神野山(こうのやま)の東の谷である。


大小の黒々とした岩石がるいるいと重なりあい、長さ600mに渡って、「岩の川」という様相を見ることができる。


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この岩は角閃斑糲岩(かくせんせきはんれいがん)という深成岩(火成岩の一種)で、岩質が非常に堅いために侵蝕にたえてこの山をかたちづくったと考えられている。

かたい岩は角閃斑糲岩のかけらで、谷底に転げ落ち、滑り落ちて集まり、あたかも「岩の川」と見間違える・・地元の方は「天の川」と言われるような姿で堆積、今の姿となったされている。だから、水は・岩の下を流れていて、耳をすませば水流が聞こえるともいわれている。

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岩の流れ(天の川)の中流には竜王岩。しめ縄も張られていて、神体として祀られている。

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なべくら渓は「伊賀の天狗と神野山の天狗がけんかをして投げあった岩だという伝説」もあり、天狗がキーワード。


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最上流には天狗石

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神野山の裏山(南側)には神野寺(高野山真言宗一心印)には巨大な杉が残されている。神野山の天狗伝承の中心として住民に崇敬されてきた天狗杉である。これは二代目とのことだが、山添村の天然記念物だ。

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 神野山、山頂付近まで、素晴らしいお茶畑。大和かぶせ茶というらしい。初摘み一番茶のみ限定使用で「玉露の旨みと、煎茶の爽やかさ」が自慢のお茶は「千の露」。海抜600メートルの見事な環境で生育したお茶である。

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神野山、618メートル、全周が見渡される頂上はつつじの名所でもある。

山を下りたら、森林科学館には農産物の直売所のみどり屋で野菜が。そして映山紅(えいざんこう)で食事がとれる。

「茶がゆ」「茶まぶし」がおすすめらしいが、僕は、山里の食材を生かしたうどん定食。キツネうどんにおにぎり二個で860円。おいしくいただいた。

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なべくら渓、いつでも素晴らしいが、つつじのきれいな5月に、ぜひ訪れたいものである。



# by koza5555 | 2017-09-22 20:23 | 奈良 | Comments(0)

丹生川上神社と神武東征

クラブツーリズム関西で、『古事記』でたどる大和の旅というシリーズツアーを奈良まほろばソムリエの会で引き受けている。

第1回(9月20日・水)は「神武東征ゆかりの地めぐり」。

第2回(10月18日・水)は「大和青垣にヤマトタケルをしのぶ」

第3回(11月15日・水)は「稗田阿礼・太安万侶ゆかりの地めぐり」

第4回(12月6日・水)は「神武天皇の即位~橿原神宮を訪ねて」

四回シリーズとなり、11月までは催行、出発が確定している。

7月から、ポツポツと準備してきたが、いよいよ明日が第一回目である。

ツアーは新大阪発、天王寺を経て丹生川上神社から始まる。

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こちらは神武天皇の誓約(うけい)がテーマ。天香具山の社の土を持て、平瓫80枚、厳瓫を作り天神地祇を祀れという夢のお告げが下され、シイネツヅコが老父(おきな)、オトウガシがおみなの服装にて宇陀を出発する。

見事はに土を手に入れ、80枚の平瓫、厳瓫を作り、丹生川の川上に上りて、天神地祇を祀った。

丹生川上(にぶのかはかみ)顕彰碑文

イツベ最中。東吉野村小川の西善

即位式に使われる万歳幡の上部にはイツベと鮎の刺繍が入っている「神武天皇戊午年(つちのえうまのとし)九月天下平定の為平瓮(ひらか)及び厳瓮(いつべ)を造り給い丹生川上に陟(のぼ)りて天神地祇を祭られ又丹生之川に厳瓮を沈めて祈り給えり聖蹟は此の地付近なり」。

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「厳瓮を丹生川に沈めよう。もし魚が大小となく全部酔って流れるのが真木の葉の浮き流れるようであれば自分はきっとこの國を平定するだろう」(東吉野村掲示板)

夢淵に沈められた。日下宮司によると「これは斎淵(いめぶち)。潔斎したした場所だ。なまって夢淵といわれるようになった」とのことである。

魚はみな浮き上がって口をパクパク開くのである。

この厳瓫のかたどったお菓子(最中)が東吉野村小川の「西善」で製造・販売されている。

最中の皮はちょっと集め、粒あんがしっかり詰まった食べ応えがある最中である。

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こじつけでなく、急ごしらえでもないテーマにぴったり合うお菓子はそんなにあるわけでもない。これは喜んでもらえそうである。

相談してみると、5個入りで725円ということである。パネルも作った。しっかり紹介して販売することにした。

新年の儀式、即位の儀式に当たっては、三本足のカラスの像の烏形幢(うぎょうどう)・日月幢を飾り、その両側に朱雀・青竜・白虎・玄武の四神幡というのは知っていたが、即位の時は「万歳幡」というものがあるとのことである。この幡を近衛が振って「万歳と叫けんだ」とのことである。この旗に、厳瓫と5匹の鮎が刺しゅうされているとのことである。

ネットで探したが、見当たらない。探していると「石上神宮にある」ことが分かった、こんな旗だった。確かに厳瓫があり、5匹の鮎が記されている。

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即位の度に立てられたこの旗の厳瓫を見ると、日本書紀の古代帰属への影響力、神武天皇の丹生の川上の故事をしのぶ行為にもあらわされている。

最後である。

丹生川上神社の初めの鳥居の傍らに2つの石が建てられている。ジジババ石という。この下の河原がいかだを流すための仮堰が作られた場所でと記されている。ジジババは道中の安全を願う信仰のあらわしたものとも記されている。

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僕は、この神社に、この入り口ジジババと名付けられた石が置かれたことの意味を考えた。

天香具山にはに土を求めに行った時の姿は、シイネツヅコが老父(おきな)、オトウガシがおみなだった。はに土は、無事、丹生の川上に収められたが…そのジジババ・・この石に託されて名前が残った・・・これは僕の妄想だが、面白い話にできそうである。

明日は『古事記』をたどる大和の旅の始まり、緊張して成功させよう。

ツアー、初めの鍵は「厳瓫最中」、「万歳幡」、「シイネツヒコとオトウカシの翁と媼」である。



# by koza5555 | 2017-09-19 20:06 | 万葉の旅 | Comments(0)

ヤマトタケルと白鳥

10月の「クラツウ古事記」はヤマトタケルである。

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ヤマトタケルのイメージ。天理参考館の盛装男子像と武人の埴輪。

ヤマトタケルの最後である。

伊吹山の神に内惑わされたヤマトタケルは、大和を目指す。

(古事記)能煩野(三重県亀山市)に到った倭建命は「倭は国のまほろば たたなづく 青垣 山隠れる 倭し麗し」から、「乙女の床のべに 我が置きし 剣の大刀 その大刀はや」に至る4首の国偲び歌を詠って亡くなるのである。


倭建命の死の知らせを聞いて、大和から訪れたのは后や御子たちであった。彼らは陵墓を築いて周囲を這い回り、歌を詠った。すると倭建命は八尋白智鳥となって飛んでゆく。

(日本書記)白鳥の飛行ルートが能褒野→大和琴弾原(奈良県御所市)→河内古市(大阪府羽曳野市)とされ、その3箇所に陵墓を作ったとする。こうして白鳥は天に昇った。以上はウィキペディア


ヤマトタケルは死んだ後に、なぜ白鳥になったか。それが大問題である。
あれこれ調べてみると、

『ヤマトタケル伝説と日本古代国家』(石渡信一郎。三一書房)に書かれていた。ヤマトタケル=白鳥の謎である。(p106)

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全体の記述は同意しにくい。

箸墓古墳の作成年代は393年。

天武天皇は天智天皇の異母兄である古人大兄皇子と同一人物。

応神天皇と継体天皇は兄弟。
相当…違いますね‥


ヤマトタケルと白鳥・・これはうならされた。


①ヤマトタケルは建国神とみて、これが白鳥神とされたのでは。古代では白鳥が穀霊神・農耕神とみられた。『豊後国風土記』速見条。富裕な農夫が餅を的に射ると、餅は白鳥になって飛び去りのうちは乱れた。

『山城国風土記』逸文には、泰氏の先祖が餅を的に射ると、やはり白い鳥となって飛び去り、山の峰で稲になった。

②ホムツワケ(垂仁天皇皇子)は白いひげが生えても話せなかった。出雲まで追いかけて白鳥を捕らえて連れ戻り、ホムツワケがモノが言えるようになった。『出雲国造神賀詞』(かんのよごと)には、国造が生きた白鳥を天皇に献上するとあるのも、最も大事なものを献上して忠誠を誓うという行為である。

③古代の白鳥の位置づけは高い。古市の津堂城山古墳の周濠からは、埴輪の水鳥が3つ出土している。

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奈良県の馬見が丘古墳群の巣山古墳からも同じものが出土。

白鳥が橿原神宮の深田池に夏もいるとの情報があって、写真を撮りに・・・
サギがいた‥カワウもいる。白鳥はいない・・
今日はサギで‥すいません。

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建国の英雄、ヤマトタケルは、農耕の最高神ともいえる白鳥神として旅立つ・・古事記・日本書紀・・はすごい。
石渡信一郎さん、ありがとごうざいます。ちなみに2017年に死去されている。



# by koza5555 | 2017-09-10 23:28 | 万葉の旅 | Comments(0)

松永久秀と多聞城

多聞城跡、若草中学に行ってきた。まだ夏休みの頃である。

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多聞城の棟上げは永禄5年(1562年)8125時。奈良中がこれを見物。久秀はその年の12月に大和、山城に徳政を出している。

得意の絶頂だっただろう。大仏殿が焼かれたのは1567年、その5年前である。

近世の城郭の始まりと言われる多聞城、それを築いた松永久秀を考えてみた。


信貴山城で爆死したといわれる松永久秀。将軍を殺し、主君の三好を殺し、東大寺の大仏を焼いたとされた松永久秀である。


松永久秀』、「シリーズ 実像に迫る」。著者は金松誠、戎光祥出版(えびすこうしょうしゅっぱん)である。

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松永久秀の略歴である。金松誠さんがまとめている。

永正5年(1508年)誕生

天文9年(1540年)三好長慶の家臣

天文19年(1549年)三好長慶上洛、久秀は「内者」(ないじゃ 守護の直属の家臣)として現れる。

永禄2年(1559年)久秀、超昇寺氏を案内者として大和に侵入、筒井城を攻め落とす。筒井順慶、椿尾上城に逃げる。

永禄3年(1560年)久秀、足利義輝の御供衆に召し上げられる。久秀、この年に一国を治めて、信貴山城を居城とする。

永禄4年(1561年)久秀、眉間寺を移動させて、多聞城を築く

永禄5年(1562年)8125時に多聞城を棟上げ。奈良中がこれを見物。12月に大和、山城に徳政を出す。  

永禄8年(1565年)519日 久通(久秀長男)ら、将軍御所に乱入。足利義輝は自害。              三好三人衆との軋轢強まる。

永禄9年(1566年)530日、堺で三好三人衆と戦い、敗北。逐電(堺に匿われた)する。

永禄10年(1567年)46日 堺を出て信貴山城に入る。織田信長の配下に。         1010日、東大寺に三好三人衆を攻め、大仏殿、兵火にかかる。

永禄11年(1568年)久秀、大和の支配を信長に認められる。

天正元年(1573年)久秀、2月より信長に叛旗。敗れて12月には人質を入れて屈服12月に多聞城を明け渡す。

天正4年(1576年)筒井順慶、「和州一国一円」の支配を信長から任せられる。

天正5年(1577年)閏726日、信長の命で、松永久通が奉行となり多聞城の破城を行う。817日、久秀、久通、信長に叛旗。1010日、久秀、信貴山城で自害する。

久秀、波乱多きの70歳だった。15671010日に大仏を焼き、その10年後の1010日に自害している。鎌倉時代の大仏と久秀の命日は同じである。

「将軍を殺し、主君の三好を殺し、東大寺の大仏を焼いた久秀」。金松さんは、それを否定して「久秀は手を下したわけではない」と力説されるが、「久秀の意思なしではどの事件も起きなかった」というのが僕の感想である。

年表を整理しただけのblogとなった。

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織豊時代の奈良の町の姿だそうだ。


# by koza5555 | 2017-09-07 22:04 | 奈良 | Comments(0)

古事記と小泉八雲

『古事記と小泉八雲』(かまくら春秋社)。『神話と美術』(真住貴子著)が面白い。

神話の世界が絵画などに表現されるには、文字で記録した媒体が必要で、かつその内容が多くの人々に周知されていないと、作品として制作されません。

『古事記』『日本書紀』といった記紀神話は、歴史上、明治期に集中して描かれた。明治期から戦中にかけて、記紀が人々に広く知られたことを反映しています。

例えば、オロチ退治を、絵本の挿絵のように図示する作品が登場するのは明治期になってからです。それまでは神「話」ではなく、信仰の対象として「神」を表すた作品が存在します。

真住さんはその例として、松江の八重垣神社に伝わる重要文化財 <板絵著色神像  >を紹介している。スサノヲを描いた絵画の中では古い作例とのことである。

それは
平安時代の絵とのことで、服装が女性は十二単、男性は衣冠束帯姿、これは平安朝の風俗で描かれているのである。説明がなければ、スサノヲとクシナダヒメということがわからない。

20日に丹生川上神社にツアーで訪れるが、こちらに残されたイザナギ・イザナミのご神像(平安時代)も説明がなければ、イザナギ、どこさしてというしかないのである。

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丹生川上神社中社所蔵のご神像。大古事記展(2016年奈良県立博物館)の図録から拝借した。


明治になって、神像から神話をモチーフに描かられるようになり、イメージが変わる、表現方法が激変するのである。

明治政府は、天皇中心の国、天皇が国を統治する正当性を国民に教育するために力を入れた。そこで、活躍するのは記紀だった。公教育の中に持ち込まれ、記紀神話が図入りで教育された。

明治元年の神武天皇は、皮のマントを羽織、髪はザンバラ、装飾具を持たない。

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明治23年の神武天皇は、髪はミズラ、ネックレスといくつかのペンダント、直刀を持つ姿に変わっている。

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明治の初期に『前賢故実』(菊池容さい)で、神武天皇から後亀山天皇までの500人くらい忠臣を肖像画と略伝で紹介している。

その後に、東京博物館の学芸部長だった(のような役職)黒川真頼が、古墳などから発掘された装飾具などを紹介した。これにより、古墳時代の服装が明らかになっていくのである。それが早速絵に絵に取り入れられ、肖像画の姿も変えていった。



描かれた神話・描かれなかった神話という問題もある。
神武天皇、天の岩戸、ヤマトタケル、イザナギ・イザナミの国生み神話は書かれたが、大国主命など、出雲系の神話があまり書かれなかった。「この時代は、解説、神話は日本書記に基づいて書かれていた」。

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もちろん異端児もいる。異端児の青木繁の業績は光る。海の幸の青木繁である。青木は古事記に基づいて絵を描いた。オオナムチとかヨモツヒラサカである。勝手の奈良の大古事記展には、『ヨモツヒラサカ』が出陳されていた。

神話は見る者のイメージが共通になっていないと、絵にも描かれないということで芸術性よりも啓もう的な絵がはびこる。そんな中だからこそ、青木繁の絵は際立ったのである。

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# by koza5555 | 2017-09-06 17:30 | 読書 | Comments(0)

源信 地獄 極楽への扉 国立奈良博物館

源信 地獄 極楽への扉。源信1000年忌特別展である。

会期は9月3日(日)まで、バタバタと拝見してきた。


恵心僧都源信(えしんそうずげんしん)(9421017)は奈良で生まれ、比叡山で修行を積んだ平安時代の僧侶です。源信は死後阿弥陀如来の来迎を受けて、極楽浄土へ生まれることを願う、浄土信仰を広めた僧として知られます。『往生要集』(おうじょうようしゅう)などにより源信が示した具体的な死後の世界のイメージは、後世へも多大な影響を及ぼしました。

 本展では地獄絵を含む六道絵(ろくどうえ)や阿弥陀来迎図(あみだらいごうず)といった源信の影響下で生まれた名品が一堂に会します。死後の世界へのイマジネーションを体感していただくとともに、真摯に死と向き合った名僧の足跡をご紹介いたします。(奈良国立博物館HP)

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当麻寺、浄瑠璃寺、宇治の平等院の「迎講」や「阿弥陀来迎図」が源信からとは知っていたが、深く考えが及んでいなかった。極楽とか、極楽への道ということであるが、それを望むが、まずは地獄を徹底してみせるのが『往生要集』である。

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展示は源信、比叡山横川、地獄絵、来迎と極楽という構成で、『往生要集』が絵として示されている。

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阿鼻地獄。熱鉄の地の上に仰むきに寝かせ、 鉗かなばさみで口を挟んで開かせ、 焼けた鉄丸を、 その口の中に入れられる。口・咽喉のどを焼き、 内臓を通って下から出る。七つの大地獄とならびにそれに付属した別の地獄のあらゆる苦しみを一分とすると、 阿鼻地獄の苦しみは、 これらに勝ること一千倍である。 (往生要集現代語訳)

強烈な地獄と極楽を、儀式や絵画で強烈に対比させながらの浄土信仰のありようを『往生要集』をまとめた源信の影響の大きさが存分に感ずることができた。

でも、現世で痛めつけられ、傷つけられる衆生が、何かあの世でも苦しむみたいで・・

これは考えすぎかな・・・それにしても、僕はこちらで阿鼻叫喚する側だろうなあ


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会期は9月3日(日)まで。ぜひぜひ、どうぞ



# by koza5555 | 2017-08-27 10:22 | 奈良 | Comments(0)

「近つ飛鳥と古市古墳群をめぐる」バスツアー

12月3日(日)に「奈良まほろばソムリエの会」はNPO法人化の5周年記念バスツアーを行う。

今回のテーマは「近つ飛鳥と古市古墳群をめぐる」。「湖北観音巡礼」、「継体天皇の足跡を辿って」の県外研修に続く、第三弾の県外研修バスツアーは大阪府である。

叡福寺(聖徳太子墓)、近つ飛鳥博物館を拝観・見学、そして誉田八幡宮宝物館を訪れる。

さらに世界遺産への登録を目指して推薦が決まったばかりの百舌鳥・古市古墳群のうち、応神天皇陵古墳、大鳥塚古墳、津堂城山古墳などのホットコーナーをめぐるコースを設定した。

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叡福寺。聖徳太子磯長墓

ご案内は天野末喜先生(奈良大学講師・関西学院大学元講師)。藤井寺市の教育委員会に長く勤務され、当地の遺跡・古墳の発掘・研究に直接タッチされてきた方である。今回のツアーには同行して現地を訪れ、古代日本の文化や技術を探り、日本の歴史を存分に語っていただく。今回も「ソムリエの会ならでは」の充実の特別企画、自信を持ってお勧めする。

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応神陵、航空写真。スマホをかざせば、空からの写真をみせてくれる

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津堂城山古墳、石棺のレプリカ。天野先生のホームグランドである

天野先生と相談して、このコース作りを担当、僕の自信作である。
ぜひ、ご一緒にお出かけいたしませんか。

    

■ 実施日 平成29年12月3日(日)

■ 集合場所と時間

近鉄奈良駅(春日ホテル前)

午前800

JR奈良駅(西口・ホテル日航前)

午前810

■解散時間 近鉄奈良駅にて

1830分頃 

■参加費  昼食つき

会員   7,000

会員以外 8,000

■お申し込みはメールにて

メールアドレス  kozaburo@cg8.so-net.ne.jp

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# by koza5555 | 2017-08-18 11:14 | 大阪とか京都とか | Comments(0)

十津川 小原の大踊り

13日は十津川の大踊り。朝から十津川に入り、谷瀬の吊り橋、玉置神社、玉置山登山、果無(はてなし)を見学して、夕方から小原の盆踊りがおこなわれる第一小学校を訪れてきた。

小原の盆踊りは午後8時から12時まで。桜井からは2時間30分以上かかる。最後まで拝見して、帰れば午前3時・・

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十津川の大踊りは、1974年(昭和49年)に「無形の民俗文化財」の指定を受けた。

十津川は村々で盆踊りがおこなわれているが、小原地区、武蔵地区、西川地区の大踊りが指定されている。

曜日に関係なく、13日は小原、14日は武蔵、15日は西川である。

ヤグラには音頭取り、音は締め太鼓だけで、調子を取っていくようである。

今年も木曽節で始まる。十津川の盆踊りはほとんどが扇子踊りであるが、これは手踊り。

その後は串本節とかの民謡をもとにした「馬鹿踊り」、お杉口説、たばこ口説、天誅おどりなどの「口説き」の踊りが続けらる。

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これは天誅おどり。天誅組に絡んだ十津川の物語。少女のお話である。二人で向かい合った珍しい踊り。男女のことか、あるいは切り違えの姿か

10時、過ぎに「次は大踊り」と告げられ休憩に。

ヤグラに向かって太鼓を持ち、ばちを持った男たち。その後ろには女性が扇をもって並び、竹笹の吊り灯篭が4本(白赤緑の3色の紙を切った美しいもの)並ぶ。

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初めはゆったりと足踏みするような踊りである。「元歌」といわれる。

太鼓うちは、白・赤・緑の房の付いたバチで抱えた締め太鼓をたたく。


後半はヤグラの周りが一転する。太鼓は太鼓持ちがもち、激しく太鼓が叩かれる。

踊り子はヤグラを取り囲み、頭上で扇を振り、灯篭もちが外周を走り回る。

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民謡や口説きの時とは、ガラッと異なる激しい乱舞である。

これが大踊り、これが無形文化財に指定されている。

風流踊りの流れを引くといわれる。美しい大きな灯篭を作り、みんなが飾り立て、激しく太鼓をたたき、音頭取りもここぞとばかりに歌い上げていく。

素晴らしいの一言に尽きる。糸井神社のなもで踊りの絵馬を見たばかりだが、あの絵が彩色されて、音付きの動画に代わったとみても、言い過ぎではないだろう。

近世、盆地内で廃れた風流踊りは、こんな形で十津川に残っているんだろうなと感動する。


盆踊りは大踊りの後、数曲を踊って、最後はお決まりの「伊勢音頭」で、終了した。

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小原盆踊り、8月になると奇数日に練習、7日盆は休んで8日にからは毎日練習、12日に休んで13日に開催という日程とのこと。

今日、15日は武蔵、明日の16日は西川で開催される。

実施の主体はそれぞれ、小原踊保存会、武蔵踊保存会、西川大踊保存会となっている。

朝から十津川を訪れた。はじめは谷瀬

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谷瀬の吊り橋。高さ54m、長さ297m。

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世界文化遺産、中辺路・・果無の集落
「雲を踏み嵐を攀て御熊野の果無し山の果も見しかな」『 南山踏雲録』伴林光平である



# by koza5555 | 2017-08-14 14:48 | 奈良 | Comments(0)

上ツ道・上街道を歩いてみよう

上つ道・上街道 (丹波市から桜井の札ノ辻まで)というテーマでお話をする。3年目に入ったエルトのカルチャーセンタ―、「おもしろ歴史講座」である。

エルトの改装で、このカルチャーもあと二回だけ。

今回は「上街道」、最終回は「山の辺の道」と決めている。

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9月1日(金)は、上街道、桜井の札ノ辻から話を始める。

桜井は中世から有数の交通の要衝地。全国的な経済人を輩出していることからお話を始めたい。

江戸の魚河岸は日本橋である。大正12年に築地に魚市場が移るまで、こちらが江戸と東京の魚市場だった。この魚市場は「和州桜井村の大和屋助五郎が魚商として市場を開いた(生け簀が人気に)」と『東京市史稿』に紹介されているのである。

「種々活鯛場を設け、広くこの地方(静岡県)の魚類を引き受け、売りさばきしが、ついで問屋の業を営む者を増やし、ついに本船町横店安針町に市場を開くに至り・・」で、これが元和2年(1616年のこと)とのことである。大阪夏の陣の直後である。


さらに同じころに江戸に入った桜井の車力がおり、その4代後の子孫が、江戸の豪商、奈良屋茂左衛門(もざえもん)。(?~1714)であるとされている。紀伊国屋文左衛門と張り合った豪商である。

太和屋助五郎は魚、奈良屋茂左衛門は材木、桜井が生んだ、痛快な偉人だろう。

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     桜井の札ノ辻跡、魚市場跡でもある

んな話から始めて、

桜井市札ノ辻、粟殿、三輪恵比須神社、三輪宿、桜井埋蔵文化財センター、芝村の織田藩、箸中と箸墓古墳、五智堂、大和神社のちゃんちゃん祭り、朝日観音と隔夜僧、青板橋と丹波市の市座神社などをお話しする。

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   長岳寺五智堂 。昔は板が張られており、旅人が休めたようである。

確実に楽しんでいただける。おいでいただきたい。

午後7時から、桜井市の駅前、南都銀行の二階のエルトにて。参加希望の方はメール、メッセンジャーで、直接ご連絡お願いします。

  メールアドレスは   kozaburo@cg8.so-net.ne.jp

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    こんなお話もいたします。芝村ですもの、織田藩です。


# by koza5555 | 2017-08-10 20:11 | 桜井・山の辺 | Comments(0)

山田寺跡

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山田寺の遺跡の草はきれいに刈られている。山田の大字の区長さんに聞いたら、「国に頼まれて刈っている。一年に何度も刈るよ」と言われた。「平らなところも多いので、四輪の芝刈り機も買った」とのことである。
それを小学校の孫が聞いて、「遺跡を守るために、みんなががんばっているんだ」と山田寺の遺跡を壁新聞に書くことを思いついた。

山田寺の跡地からは五重塔と金堂の跡が発掘されている。金銅の風招(大きな鈴)や鴟尾(しび)が発見されている。

さらにその後の調査で、回廊が土に埋もれた昔のままの状態で残っていることが分かり、古代建築の貴重な資料となった。

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東回廊は屋根付きの廊下で、87mもあり、中央には扉口もあった。この一部が東から西に向かって倒れ、土の下に埋まっていた。このため部材の保存状態はとても良かった。部材は柱、連子(れんじ)、大斗などが、完全に近い状態で発見された。日本で一番古い建物の姿がわかる世紀の大発見である。


山田寺の建物の配置は南から、南大門、五重塔、金堂、講堂となっている。そして五重塔と金堂は回廊というものに守られている。講堂は回廊の北側で回廊の外にある。

そして
金堂の中には丈六の仏像が祀られていた。白鳳時代に作られた、この仏像は奈良の興福寺に移されて、その後火事で体が溶けてしまった。残った頭部は布に包まれて500年もお堂の下に保管されていた。それが近代に発見されて、いまは国宝になって大事にされている。
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飛鳥資料館にもそのレプリカが展示されている。

山田寺は大化の改新に参加した石川麻呂が建て始めた寺院である。このころ各豪族がさかんに立てはじめ氏寺という寺院である。石川麻呂は曽我入鹿のいとこだが、曽我入鹿を殺害したクーデターに加わり、右大臣委任ぜられたが、その後、反乱の疑いが晴れ、皇室の援助で造営が続けられ、7世紀後半に完成したている。


こんなことを小学生のユキト君が一所懸命書いている。僕は遠くから見学するだけだ。
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最後の付録に山田の村で見かけたかんぴょう干し・・おいしいだろうなあ
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# by koza5555 | 2017-08-08 15:34 | 桜井市と安倍 | Comments(0)

大碓命と猿投神社

猿投神社(愛知県豊田市)に参拝。古事記ツアーの成功を祈ってきた。

御祭神は大碓命である。景行天皇の第一皇子で小碓命と双生児の兄である。

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①古事記によると、大碓命は小碓命(ヤマトタケル)にみじめに殺されてしまう。

②日本書紀の話はそれと異なる。東国攻めを命令されたが、恐れて従わなかったため、美濃国を任地とされ、美濃に下らされたとされる。

③皇后である播磨イナビ(印南)ノオオイラツメを母として、大碓、小碓は双子として生まれた。双生児は兄を育てないという慣習があったが、イラツメが大碓を隠して守り育てたという説話が残されている。大碓命を殺したとか、美濃に追いやったという話は、この双生児に絡んでの説話かとも思える。

併せて、双生児はどちらかが左利きという伝承も残されている。

この、大碓命の生涯がとても気になるのである。

この大碓命を祭神とする猿投神社が、愛知県豊田市猿投(昔は西加茂郡猿投町)に鎮座することを初めて知った。

40年も前に猿投神社経由で猿投山に登ったことがある。その猿投神社である。

大碓命は東征の命に服さなかった為に、美濃国に封ぜられる。命は三野国造の祖神の二人の娘を妃とせられ、二皇子(押黒兄彦王、押黒弟彦王)をもうけられたとされる。

ちなみにこの押黒彦王が牟宣都君(むげつのきみ 武儀郡)の祖先となった。

猿投神社の社殿によれば、大碓命は「猿投山山中にて蛇毒のために薨(こう)ずる。すなわち山中に斂葬(れんそう)し奉る」とされている。

古事記には記された、「兄の手足を切り、コモにくるんで投げ捨てた」と答えたヤマトタケルの乱暴ぶりは無かったと考えようという論も古代からあったということである。

猿投神社には絵馬のように鎌がいっぱい掛けられていた。大きな、そしてそれが鉄製などで、「左鎌」とあった。

古来より左鎌を奉納して祈願する特殊な信仰がある。その由来については記録がないので判然としないが、古老の言い伝えによれば、双生児は一方が左遣い(左利き)の名手であると言う。祭神・大碓命は小碓命(日本武尊)とは双生児であるので人々が命(大碓命)左遣いであらせられ、当時左鎌を用いてこの地方を開拓せられた神徳を慕って所願の成就を祈るときに左鎌を奉納する。

職場安全・交通祈願を会社関係者に祈られおり、そのときに左鎌が奉納されるようになったという。

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奉納された左鎌。さすが豊田市、トヨタをはじめトヨタ系列会社や職場のオンパレードである。ペラペラなブリキ板みたいなものではない厚くて重い鉄製・・である。

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拝殿前の欄干には親子猿の彫り物・・猿投神社である

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神社から歩いて70分。西宮

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大碓命墓。宮内庁の管理であるが、「朝一番に参られた方は、下のペットボトルの水を花差しに注いでください」とある。僕も注がせていただいた。

大碓命はヤマトタケルの陰に隠れてしまうけど、なかなかいい男なんだ…

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素晴らしい境内、猿投神社



# by koza5555 | 2017-08-04 12:28 | 万葉の旅 | Comments(0)

幕末に成った神武天皇陵

「神武天皇の即位」というツアーである。

実在性はともかく、神武天皇のゆかりの地が残されている。

これを勉強して、組み立てて案内する。これはガイドのだいご味である。

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神武天皇陵

『天皇陵の誕生』(祥伝社新書 外池昇)が適切な解説本か。

「第二章 蒲生君平が求めたもの――『山稜史』を読み直す」・・これが面白いが、今日はここをスルーして、「三章 幕末に成った神武天皇陵――聖域に群がる人びと」を紹介したい。

神武天皇は初代の天皇である。その陵であれば、はるか太古の時代に成ったもののはずである。だが私は、本章のタイトルに「幕末に成った神武天皇陵と書いた」。太古の時代のはずの神武天皇陵が「幕末に成った」とは、いったいどういうことなのだろうか。

初代が神武天皇である。…今日積極的に取り上げられる機会が少ないというのは、ご承知の通り、今日では実在した人物とは考えられていないからである。

実在したとは考えられていないのではあるが、『古事記』にも『日本書紀』にも、その所在地について、具体的な記述がある。

『古事記』  「畝火山北方白檮尾上」

『日本書紀』 「畝傍山東北(うしとら)陵」


そして、

幕末期には神武陵は三か所。『聖蹟図志』に示されていて、

①「今日神武陵、一説には綏靖天皇陵(第二代)たり」と四条村の塚。

②「山本村神武田」(じぶでん)。旧塚と新塚の二つの「塚」がみえる。神武天皇陵と書かれず、「廟社の地」とされていた。

③「三番目は畝傍山手前の山である」。「この一丘は御陵また丸山、神武天皇畝傍山東北陵」とある。日本書紀にある神武天皇陵についての記述のままの文言である。

時は幕末、文久の修陵というさなかである。

②の神武田を主張したのは谷森義臣である。天皇陵の研究家して文久の終陵では大きな影響力を発揮していた。

③の丸山を推したのは北浦定正で、尾上という古事記の記述をもとに主張した。

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   丸山はこちらである。「御陵又丸山」と今も記されている

①の四条村の塚は、幕府の公認陵ということもあり、推すものがなかったという。

この論争の結論はつけたのは孝明天皇。「御沙汰書」が出された。「神武田で決めなさい、但し丸山も粗末にするな」という沙汰だった。



明治11年には、四条村の塚は第二代綏靖天皇陵として治定されている。

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これが綏靖天皇陵


文久の修陵の当時は、神武天皇陵としての陵域が確定されたことがよくわかった。


文久山稜図  荒蕪

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文久山稜図  成功

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神武天皇陵御陵真景(明治34年 奥野陣七による)では、以上の二つの塚が示されていたが、

神武天皇畝傍山東北陵の図(大正15年)では、方墳、中心に円墳が一つとなった。


以上のような解説をしても、「なぜ、この地に三カ所の神武天皇陵の候補地ができたのか?」、言い換えれば、古事記・日本書紀は、この地になぜ初代天皇の陵を考えたのかという疑問は残るだろう。

古事記・日本書紀が準備された時期には、「藤原京の近くに初代天皇陵を求めた」という論を展開する学者もいるのである。

前橿考研の今尾文明さんなどは、それを解明して「都市陵墓」としての神武陵などという論も書かれている(『明日香風』122号 平成24年1月号)。説得力のある論で、これはこれとして又の機会に紹介したい。

「神武即位」をテーマにしたツアーは12月6日(水)に、予定している。


# by koza5555 | 2017-07-31 14:02 | 橿原・明日香・吉野 | Comments(0)