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奈良・桜井の歴史と社会

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神武東征の道を行く

4月9日(土)に「神武東征の道を行く」のツアーを案内する。前日の9日(土)、岡本彰夫先生の「誰も知らないやまとの神話」の講座(春日野国際フォーラム甍)と連携したツアーである。
ツアーは丹生川上神社中社、宇賀神社(オドノや血原橋も)、八咫烏神社、等彌神社を訪れて神武東征に思いを馳せようというツアーである。同時に岡本先生の「やまとの神話」の雰囲気を現地で味わっていただこうという趣旨のツアーだから、ちょっと緊張、気合を入れて準備したい。

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八咫烏神社から伊那佐山をのぞむ

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「初代天皇 神武天皇が日向から大和へと至る神話、神武東征。神話が神代から現代に至るまで、途切れることなく語り継がれてきた大和の地には、神武東征にゆかりのある場所が数多く伝わっています。
巌瓮(いつべ)と言われる瓶を用いて国の平定を占った東吉野村「丹生川上」。
神武天皇一行を熊野より導いた八咫烏ゆかりの宇陀市榛原八咫烏神社。日本で最初に大嘗祭が行われた建国の聖地 鳥見山に鎮座する桜井市 等彌神社など。一味違う奥深い大和を満喫していただきます。」
やまとびとツアー募集HPより

このツアーは昼食もすごい。大宇陀の蔵元、久保本家酒造の酒蔵を改装したレストラン「久保本家酒蔵 酒蔵カフェ」のランチ、ここはいま、注目されてきている。さらに、大宇陀、重伝建の松山の町並みも楽しもうという欲ばりツアーでもある。

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久保本家酒造

こんなコースの案内が僕のところに回ってきた。素晴らしいコースで、こんなツアーの案内、これこそガイド冥利というものだ。

   ツアーの詳細は  やまとびとツアーズ


4月9日(日)お一人さま 9800円。昼食付きバスツアー。
9時30分近鉄榛原駅出発、各地を見学、拝観して16時40分にJR・近鉄桜井駅解散


会員制のフリーペーパー、『やまとびと』をおすすめしたい。
桜井市の共栄印刷はフリーペーパー、『やまとびと』を発行してきたが、昨年の9月から「会員制フリーペーパー」に移行している。年会費1000円で、年に4回『やまとびと』が送られてくる。奈良を幅広く、さらにはディープに紹介する魅力的なパンフである。
 
 ツアーは4月9日、東吉野と宇陀の山々には桜は残っているだろう。この桜と共に、みなさんをお待ちしたい。
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# by koza5555 | 2017-02-20 21:00 | 宇陀 | Comments(0)

六県神社の子出来おんだ

磯城(しき)郡川西町保田(ほた)の六県(むつがた)神社のおんだ祭

2月11日に行われる。もともとは旧正月14日、その後は2月14日、現在は2月11日の行事となっている。
おんだ祭では、飛鳥坐神社の祭のように夫婦和合の所作でもって繁殖・豊作を表わされることが多いが、こちらは出産の所作で示されるのが独特である。
太鼓をお腹に入れた妊婦の姿、出産のありさまなどから、「子出来おんだ」と呼ばれている。

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六県神社、境内のオンダ祭。妊婦の弁当届け

17時から神事。境内の一角で一斗釜で湯を沸かす。巫女が着座する。笹も用意されているから湯立の神事かと思うが・・どうもこれが産湯とのことらしい。
東の天照大神、南の多武峰大権現、西の住吉明神、北の春日の若宮神にお断りして神事が始まる。

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産湯の前で
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それから拝殿での剣の舞

拝殿の配置を変えて18時から「おんだ」が始まる。

水見回り、牛使い、肥おき(施肥)、土こなげ、田植、螺(たにし)拾いと稲作が順序良く示される。
牛は必ずいるなあ・・・

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肥おき・・は竹筒の両端に椿の葉っぱをぶら下げて…昔の肥樽運びをイメージできる。ちぎってはおく・・
肥おき、田植え、螺拾い、全ての行事が椿の葉で行われるのが特徴

農作業の区切りごとに、「はい、ボチボチやで」、「それいけ」の合図で、拝殿に座った子供たちが演者に殺到する。これは風とのことだが、雨ではなかろうか。すぐ北の広瀬神社は砂を雨に見立ててオンダが進められるが、こちらは砂の代わりは子どもだろうか。
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その後、弁当を田に届ける妊婦が現れて、神主役の長老ととぼけたやり取りがあり、田んぼを回ってから出産するという運びである。
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最後に種まき神事が行われる。農夫が種まき唄を歌いながら、拝殿を回り、豪快に種を巻く。
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「宇陀の郡を通れば 一森長者に行き合うたら
行き合うたるところなら このところに蒔こうよ」

(一同)「よんなか(世の中)よけれども福の種 蒔こうよ」

「大和48万石、保田の明神蒔き納め」で、桶を空にした・・・

オンダの苗は椿(普通は松葉、御所の御歳神社は杉、石上神宮はホンマの早苗やった)というのが特徴。子どもが風(雨)というのが面白い。17時からの神事も必見。寒いから温かくして出かけるように。
出産の所作で、繁栄、豊作を祈念するのが最大の特徴的である。

よんなか(世の中)よけれども福の種 蒔こうよ


境内に以下の掲示がある。
川西町の歴史遺産を訪ねて
県指定/無形文化財 六県神社子出来おんだ祭り

六県神社は村社で、祭神は大和の六県神「高市命」「葛木命」「十市命」「志貴命」「山辺命」「曽布命」を祀る。 「神社明細帳(明治24年・1981)記載
 
 子出来おんだ祭りはこの六県神社の拝殿で毎年2月11日(以前は2月14日)の夜に演じられる御田植祭。妊婦の出産の所作を伴うことから、「子出来おんだ」とも呼ばれる。この行事の始まりは、境内富貴寺の創建時の平安時代と伝えるが、明確でない。

 所作は、水見回り⇒ 牛使い ⇒ 施肥 ⇒ 土こなげ ⇒ 田植 ⇒ 螺拾い ⇒ 妊婦の弁当運びと安産の神事及び種まきの所作と掛合い言葉の順に演じられる。
螺(たにし)拾いまでの所作では子供が風の役割を持ち、各所作の最後の演者はその場にうずくまり、風役の子供はその上に覆いかぶさる。
 妊婦の弁当運びと安産の神事では、本役の男子が太鼓を腹に忍ばせ妊婦に扮して弁当を夫(長老の神主役)の元に運ぶ所作を行った後、神主と妊婦が問答を行い、その後、問答を行い、その後、妊婦の陣痛が始まり、腹に忍ばせていた太鼓を放り出し、それを取り上げた神主が「ぼんできた、ぼんできた」と言いながら太鼓をたたく。
 最後の種蒔神事では、台詞と歌を歌いながら種をまく。この時の台詞や歌の掛合いも含めて全体的に古風な芸能所作が残っている。

# by koza5555 | 2017-02-12 09:25 | 奈良 | Comments(0)

浄見原神社 国栖と国栖奏

国栖奏は、毎年旧正月十四日に、吉野町南国栖の天武天皇を祭る浄見原神社で古式ゆかしく行われます。
早朝から精進潔斎をした筋目といわれる家筋の男性、舞翁二人、笛翁四人、鼓翁一人、歌翁五人が神官に導 かれて舞殿に登場し、朗々とした歌翁の声とともに、舞翁の振る鈴の音が冷えきった空気にこだまして、参拝の 人たちの胸に古代の息吹をよみがえらせてくれます。(吉野町HPより)

今年は、今日が旧の正月十四日、天武天皇を祭祀する浄見原神社において、国栖奏が執り行われた。

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舞翁の舞、「正月 エンエイ」の囃し言葉に合わせて、静かだが、軽やかな舞である

神官の先導に従って参進の笛を奏しながら舞殿に進み、まず楽器を神前に供え、一同十二人は着座し、神官の祝詞奏上に続いて一歌二歌を奏します。次に神饌台から楽器を下げて笛にあわせて三歌を唱和し、舞に移る。舞は舞翁が鈴と榊を持ち、歌翁の一人が(エンエイ)と囃し正月より十二月まで舞納め、四歌を奏して、最後に氏子と奉賛者の名前を読み上げ(御巡楽――おじゅんらくという)、素朴ながらも典雅な舞楽は終わります。(国栖奏保存会パンフレットより)


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舞翁、歌翁に続いて笛翁の参進


御巡楽では、奉賛者一人一人の名の読み上げに合わせて、間に「エンエイ」の唱和がある。エンエイとは遠栄(ウィキペディア)とも、延栄(『大和の祭りと芸能』)とも紹介されているが、長く栄よという意味だろう。

神社入り口に奉賛者の受付があり、僕も申し込み、名前を紹介していただいた。
最後の方で、「さいがこうざぶろう・・エンエイー・・・シャンシャン」で、とても幸せな気分に、思わず頭を下がる。

新撰は特殊である。
栗、一夜酒、うぐい、根せり、赤ガエルの特殊神饌が供えられる。壬申の乱の前、吉野に身を隠した大海人皇子(天武天皇)に捧げたものを模したものであろうか。
楽器が供えられるのもきわめて特殊で、そのいわれを知りたいものである。

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国栖奏の始まる前頃に吉野は激しい雪。またまたタイヤチェーンを巻く羽目に。この雪にも関わらず、参列者、参観者は多数。前には出れず


橿原神宮でも4月3日に奉納されるとのことである。国栖奏と久米舞でちょっとした話ができないやろうか・・・・
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# by koza5555 | 2017-02-10 18:24 | 橿原・明日香・吉野 | Comments(0)

南朝 戒重西阿と良円

外鎌山に登ると「南朝忠臣 西阿公之墓」という碑がある。
しばらく前から倒壊していて、こんなふうに寝かされている。
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桜井市の全域で南北朝が激しく闘った史実が残されている。
南朝軍の西阿、子息の良円などが戒重と河合に城を築き、外鎌山、鵄(とび・鳥見山のことか)、赤尾の山城・砦の記録がある。
一方、北朝軍は釜口(天理)に進駐し、さらに細川顕氏は阿部山に陣をしき、南北朝は入り乱れて(阿部山は戒重・河合の南方に当たり、いわば吉野との連絡路が閉じられる形)桜井市全域が戦場となったことが分る。

1337年に三輪西阿は櫟本(天理)にて北朝軍とたたかう。
1340年には北朝軍は開住(かいじゅう)西阿を討つために出兵。西阿は大仏供庄(大福)の年貢を横領。
1341年2月、幕府は西阿追討軍。釜口を奪い、阿部山に陣をしいた
     4月に河合城陥落、7月2日戒重城陥落、西阿らは外鎌山城に移り抵抗したが3日に陥落。
1347年、楠正行らは、出陣の前に後村上天皇に面会、西阿も同席している。「・・・楠将監西阿子息開地良円以下・・・」と太平記巻10に記されているのである。
同年、親子ともども 四条畷戦死した。

西阿を祀った碑は外鎌山に立てられたが、それは昭和45年のことである。

桜井市の粟殿(おうどの)の墓地には、西阿の子息、良円を祀る五輪の塔が建てられているのである。桜井市史の上巻942ページ
「為菩提亡父良円房・・・・・・・正平3年(1348年) 正月五日  願主尼良妙」
とあるらしい。(僕には全然読めなかったが・・・)

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良円を祀るという五輪塔


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戒重城の濠の跡。戒重城は江戸時代の前期に140年くらい織田藩が陣屋として使用、織田藩が芝村に移って廃城。しかし河合城、戒重城ともども明治20年頃までは大規模に濠が残っていたらしい


こうして考えてみると、南朝を助けた桜井(現在)の関係者は多かった。多武峰は無論のこと、三輪、長谷寺なども含めて多くの国民、地侍もその戦いに巻き込まれていったのである。
# by koza5555 | 2017-02-03 00:05 | 桜井・多武峰 | Comments(0)

2月のウォーキングは忍坂(忍阪)

「忍坂山(外鎌山)からの眺望を楽しみ、王家の谷を歩いてみよう」をテーマに、2月22日(水)にウォーキングを案内します。

外鎌山に登ります。奈良盆地南部の素晴らしい眺望が楽しめます。標高は292メートルですが麓からの標高差は150メートルです。

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2月1日の忍坂の山からの眺望。大和三山、二上山、奈良盆地南部が一望できる

「こもりくの 泊瀬(はつせ)の山 青旗の 忍坂の山は 走出のよろしき山の 出立の くはしき山ぞ あたらしき山の 荒れまくおしも」(巻13-3331)と万葉集にも歌われた忍坂の山(外鎌山)に登ってみましょう。

石位寺で白鳳時代の薬師三尊仏(重要文化財)を拝観します。
また、舒明天皇陵、鏡王女墓(談山神社)を見学し、大王級の赤坂天王山古墳の横穴式石室を体験します。
最後の忍坂坐山口神社を参拝、境内の楠の巨樹に力をいただくというマルチのウォークです。ぜひぜひ、おいでください。

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忍坂坐山口神社の大くすのき

■実施日    平成29月2月22日(水)雨天決行
■集合時間午前10時 
■集合場所   近鉄大阪線大和朝倉駅 改札前
■コース(歩く距離約8km程度。小さな山ですが山登りもします)
朝倉台駅(集合10:00)w.c.→11:00 外鎌山頂上 → 11:30 鏡女王墓 → 舒明天皇陵→ 神籠石 → 12:00 石位寺w.c(昼食)→ 14:00 赤阪天王山古墳.→ 14:40玉津島明神 → 15:00 忍阪山口神社 → 15:30 朝倉台駅(解散)
■持ち物  弁当、水筒、帽子、雨具をお持ちください。小雨は決行ですが、コース変更をする場合もあります。※歩きやすい靴でおいでください。
 大和朝倉駅前(集合場所)では、弁当を買うお店はありません。必ず事前にお弁当を用意してください。

■参加費  1200円【拝観料300円(石位寺)、資料代含む】

申し込みは 大人の学校の溝口さん(メール)まで hiromi-03.30@kym.biglobe.ne.jp
もしくは   kozaburo@cg8.os-net.ne.jp

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赤坂天王山古墳、このウォークは横穴式石室に入ります。汚れます。覚悟してスラックスやジーンズを用意してください。
今日は一人で入りましたので、自撮りです(笑)
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# by koza5555 | 2017-02-02 00:05 | 桜井・多武峰 | Comments(0)

サッカーのルーツは蹴鞠

談山神社の社報は「談(かたらい)」という。A4の4ページ。
長岡千尋宮司から、「雑賀さん、かたらいに書いて。一ページまるまる」と昨年の夏ごろに話があった。

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今回の「談(かたらい)」のトップ

最近は一年に2回の発行だが、発行部数が2万5千以上で、これはやりがいがありそうである。
第一回目は、蹴鞠を書くことにした。昨年の9月には東京での講演のおり、お茶の水の日本サッカーミュージアムも見学しており、準備はバッチリである。

こんな文章となった。

談山神社は春と秋、けまり祭を行う。境内の一角に青竹を四隅に立てた鞠(まり)庭でけまりを奉納する祭である。

鞠(まり)を順次蹴り上げ、地面に鞠が落ちると中断となる。演技の連続が面白みで、ラリーが続くと歓声や手拍子の応援も出て、静寂な談山神社はいつになく沸き立つ。一つの鞠を落とさぬように、鞠庭にいる全員が心技を一体にして蹴り続ける。背筋を伸ばした優雅な姿勢で蹴り続けて勝負を競わず、相手が受けやすい鞠を打ち続けることが上手と言われている。
演者の男女は平安時代の貴族のような装束に身を包み、「アリ」「ヤア」「オウ」の三声を掛けあいながら蹴り回す。青壮年は若さの力、老境は円熟の面白みで、年齢、性別に関係なく楽しめる。

今日は蹴鞠の鞠のことを紹介したい。鞠は白く塗り上げられた鹿革製で、中空となっていて、重さはサッカーボールの三分の一ほど、120g程度で整えられている。


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蹴鞠のマリ

この鞠作りをする人に、桜井市の藤田久沙夫さんがいる。
藤田さんは「鞠は二枚の鹿革で作ります。つなぎ合わせた革袋の中に麦を詰めて形を整え、白く塗り、穴から麦を抜きとって中空の鞠に仕上げます」と作り方を説明される。さらに「10年がかりの試行錯誤の末、やっと納得のいくものができました」と古典芸能を支える鞠が作れたこと喜びを語ってくれた。

 藤田さんの作った鞠は、談山神社により、日本サッカー協会に贈られて、東京の「日本サッカーミュージアム」(東京都文京区本郷)、「ボールゲームの歴史」コーナーの一番初めに展示されていて、「寄贈 談山神社 桜井市多武峰」と記されている。
 解説では「古代中国の周の時代(紀元前1100年頃~紀元前256年頃)には、皮を繋ぎ合わせ 毛をつめたボールを使った球技がありました。
この球技はのちに日本にも「蹴鞠」として伝えられ、主に貴族の社交上の遊びとして楽しまれました。蹴鞠とは、革製の鞠を蹴り上げ、地面に落とすことなく蹴る回数を競う遊戯です」と紹介されていて、FIFA(国際サッカー連盟)のプラッター会長が、世界のサッカーの発祥はこの蹴鞠だと宣言したことが紹介されている。

 「蹴鞠がサッカーの始まり」、サッカー協会はそんな展示をしているのである。


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展示の説明。右下に談山神社寄贈の実物のマリが展示されている


『日本書紀』は、「中臣(藤原)鎌足は専横を極める蘇我蝦夷、入鹿の親子の打倒を考え、中大兄皇子(天智天皇)に近づこうと考えた。法興寺(飛鳥寺)の槻の樹の下で皇子が鞠を打つ、そのとき沓が抜け落ち、鎌足が拾った。ひざまずいて差し出す、皇子もひざまずいて受け取った、と記している。
鞠を打つという言い方は微妙だが、「鞠を打つ、沓が抜け落ちる、拾う、差し出す」という一連の動作からは、現在の蹴鞠の姿を感じ取ることができるのではなかろうか。

談山神社の春のけまり祭は4月29日(昭和の日)、秋のけまり祭は11月3日(文化の日)、いずれも神廟拝所西の「けまりの庭」で行われる。

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年に3000円の会費で「談の会」の会員になっていただけると、こんな社報が届き、同伴2名までは入山が無料になるという、年間パスがいただける。とてもお値打ちで、入会をおすすめしたい。
お問い合わせは、談山神社、電話は0744 49 0001である。

# by koza5555 | 2017-02-01 00:09 | 桜井・多武峰 | Comments(0)

桜井市広報 わかざくら

桜井市の「広報 わかざくら」、2月号で僕を取り上げてくれた。
「桜井をつなぐ人」というコーナーでA4一ページ全部という破格のコーナーである。

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取材では、奈良と桜井の自然と歴史のすばらしさを語った。「奈良まほろばソムリエ試験」で、この地の魅力を深く知ることが出来たことを紹介した。民生委員や区長の仕事を通して身近な皆さんと結びつき、学んだことを活かしてきたこともお話しさせていただいた。
広報紙の編集担当者は、僕のお話をとてもうまくまとめてくれた。

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写真もすばらしいが、使われたのはこれではない(笑)


記事の全文を紹介したい。

 縁あって11年前に愛知県から桜井市へ引っ越して来たという雜賀さん。当時は身内以外に知り合いがなく、奈良についての知識もほとんどなかった。ところが、「県内の歴史や文化のことを聞くなら雜賀さんに」と今では多くの人から言われるほどの存在だ。
 山登りが好きだった雜賀さんは妻と一緒に、外鎌山、鳥見山、大和三山と近所から順に登った。登るに連れて「奈良っていいところだな」という思いが芽生える。井寺池のそばに建つ万葉歌碑『やまとはくにのまほろば たたなづく 青がき 山ごもれる 大和しうるはし』の意は、大和の良さを詠んだものであるが、後半の『幾重にもかさなりあった青い垣根のような山々に囲まれた大和は本当にうるわしいところだ』という一文がそれを物語っているという。
 もともと歴史には興味があった。正倉院展を訪れた帰りに、本屋で一冊の本を手に取る。奈良まほろばソムリエ検定のテキスト本だ。その日からテキストを読み込み、2級に合格。1級に一度落ちるも奈良県中をまわってさらに勉強し、最難関のソムリエには一発合格した。合格する前から遠方の友人を奈良に呼んでは各地を案内していたといい、それが自分の勉強にもつながっていったのだ。
 解説がわかりやすく楽しいと口コミで広がり、まほろばセンターの歴史文化講座をはじめ、あらゆるところから講師の依頼がくる。「ツアーガイドも講演も有料でやってるんです。付加価値をつけ、お金をいただいてもそれに見合った恥ずかしくない内容を伝えたいから。そのためには真剣に勉強や準備をしますし、資料作りもしっかりやります」。自作資料に向けられた目が鋭くなった。
 地域で生活するのに大事なことは、自らまわりとつながっていくこと。民生委員や区長の役職を引き受けたことで地域に溶け込み、友人や信頼が増していった。ガイドをするにも、まずはそこに住む人たちに地域のことをひるまず話す。地元で通用しないものが、都会から来た人に受けることなどない。地元の良さを知ると、みな誇らしげに「うちの村のこと、うまいこと話してや」と頼んでくる。
 「桜井はやはりおもしろい。このおもしろさをもっと多くの人に伝えていきたいね」。雜賀さんの笑顔が、地元の良さを広げていく。


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# by koza5555 | 2017-01-27 12:18 | 桜井市と安倍 | Comments(0)

三輪の初えびす

毎日新聞の奈良版で今年から「ディスカバー!奈良」という連載が始まった。毎週、木曜日の朝刊である。奈良まほろばソムリエの会がこの連載を担当する。昨年から執筆者会議なども開きながら準備してきており、新年から順調な滑り出しとなった。
今日がその3回目、僕の番になったので、手始めに三輪の初えびすを紹介することにした。

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御湯の神事

文章は300字、これでは行事の紹介で終わりである。三輪の初えびす全体の紹介はムリだから、7日の「御湯の神事」を軸に取り上げた。背景とか、使われる釜とかはかってブログで紹介させていただいたことがあるが、今回はそれも割愛である。

三輪恵比須神社は、2月5日~7日「初えびす」を執り行います。万葉集でも歌われた古代の市場、海石榴市(つばいち)の伝統を引き継ぐ土地柄でもあり、大きなにぎわいとなります。
最終日の7日、午後2時から行われる御湯(みゆ)の神事が見逃せません。八つの大釜で湯を煮えたぎらせます。巫女はそれぞれの釜に米、塩、神酒を入れ笹の葉に浸して参列者に降りかけます。この飛び散る湯滴を受けると無病息災、商売繁盛につながるとされ、参列者は身を乗り出してこの湯滴を受けるのです。
三輪素麺の相場を占い、それを報告するという神事も行われます。三輪の町を練り歩く華やかな「鯛引き行列」も祭を盛り上げます。(奈良まほろばソムリエの会 理事・雑賀耕三郎)
メモ JR桜井線(万葉まほろば線)三輪駅から徒歩5分。 近鉄桜井駅下車(バス便あり)


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タイ引き行事の巨大タイ

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今年の行事のポスター。ぜひ、おいでください。

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# by koza5555 | 2017-01-26 13:19 | 桜井・山の辺 | Comments(0)

惣谷狂言と篠原踊り

1月25日に五條市大塔の惣谷は狂言を、篠原は踊りをそれぞれ氏神に奉納する。

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惣谷狂言、8曲のうちの一曲、かなぼうし。2017年1月25日

22日(日)ころから全国的に激しい寒波、吉野もその例をまぬかれず相当な積雪となった。
惣谷や篠原に入るには国道168号を経て、宇井から県道に入る。道が思いやられたが、今年の僕のテーマは「吉野の祭り」。これは外すわけにはいかないのである。

篠原踊り、惣谷狂言というが、もともとは両村とも踊りがあり間に狂言という形だったらしい。それがいまでは篠原は踊り、惣谷は狂言が残るということである。

25日は、惣谷狂言を見学した。県道に沿って登ると集落の上に天神社がある。この境内、舞台は拝殿というか、そんなところを開け放ち、カーテンを吊る。舞台の飾りは注連縄と「餅花」である

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注連縄と餅花


五条市のHPによれば
奈良県の無形民俗文化財に指定されている「惣谷狂言」は、古くから惣谷地区で正月の神事初めに氏神の天神社と円満寺の境内で奉納のために行なわれてきました。以前は篠原踊りと同様の踊りも奉納されてきましたが、現在は狂言のみが天神社に奉納されています。
惣谷狂言は明治40年頃から演じられなくなり、大正天皇即位の大典で大正4年に演じられて以来途絶えていましたが、大塔村史編纂を機に復活の気運が高まり、昭和33年に復活されました。以来保存会によって「鬼狂言」「狐つり」「舟漕ぎ」「万才」「壺負い」「鳥さし」「鐘引き」「かなぼうし」の8曲が伝えられており、毎年この内の1~2曲が1月25日に天神社で奉納されています。


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こんなパンフレットも配られた。惣谷の村の自前である


今年は「かなぼうし」が演じられた。
かなぼうしとはかわいい子という意味らしいが、かわいい子は出てこない。
和尚さんに寺を譲られた小坊主が村人にとんちんかんな対応をくりかえし、和尚さんが叱り飛ばすという筋書きである。かといって小坊主は、和尚さんの弱点もしっかり見ている、これがオチでもある。
せりふだけ・・・ことさらな演技はしないが味はある。

惣谷、たかだが10軒あまりの村である。この小さな村に在住する5名の方が演じられていた。

たき火に当たりながらの話ではあったが、「惣谷狂言と篠原踊りを一緒に演じられないか」などという話もされていた。「2回はできない」とか「隔年で順番に場所を替えて」とか、「それだったら神さまへの奉納ではなくなり、意味が変わる」などと意見が交わされていた。

惣谷でも継続にはそれなりの困難さがつきまとう。「よその応援を得るような延命はダメ。できなくなったら終りでよい」と言い切る人もいたりしていた。

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惣谷狂言の日程は午後一時から天神社の神事。その後、着替えなどの支度があり1時50分ほどから8分間くらい演じられた。
その後、するめとお酒の直会、さらには餅まきである。僕も福をたくさんいただいた。

さて、篠原踊りは・・?
篠原踊りは雪のため今年は中止となった。「踊り手が上がってこれない」とのことだった。これはこれで、こんなこともあるだろう。

こんな雪だった・・・・写真は・・・・

篠原踊り、惣谷狂言は奈良県指定無形民俗文化財に指定されている。

途中で撮った賀名生の皇居跡。堀家である
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# by koza5555 | 2017-01-25 22:22 | 橿原・明日香・吉野 | Comments(0)

アンコールワット

寒い日本の冬を避けて、アンコールワットに行ってきた。
「どこか行こう」と、あっちゃんから誘いがあった。トラピックスのコースをみてみるとアンコールワットを目玉とする「ベトナム・カンボジア」というツアーがあり、これで即決である。

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アンコールワット

「アンコールワットは古代寺院だろう」と漠然と思えたが、実は10世紀から13世紀の頃のもの、年代的には古代とはいえないかもしれない。平安時代の後期から鎌倉時代にかけての遺跡である。
また、遺跡の数も膨大で、それぞれの遺跡の性格もさまざまだった。
代表的なアンコールワットはヒンズー教の影響が強く、アンコールトムは大乗仏教の影響が強いというように。

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アンコールワットの壁画の一つ。ヒンズーの神と阿修羅の戦いが様々に描かれている

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アンコールトム。文字通り石仏、仏頭である。これが49柱もあるのである。それぞれの柱に4仏である

遺跡保存館も訪れた。遺跡から移されたヒンズーの神像、仏像、碑文石などが展示されている。保守のための最低限の移動とのことである

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阿修羅。ヒンズー教では神の最大の敵である

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ガルラ(ガルーダ)も置かれていた

ガルダは鷲をイメージした鳥でヒンズー教の三大神のヴィシュヌの乗り物とされる。ヴィシュヌは太陽神でもあることから、それを守り乗せるガルダは像としても図としてもさまざまに表されている。ガルーダインドネシアの語源である。像を眺めると・・・「興福寺の八部衆にある」。調べてみるとその名は迦楼羅(かるら)。「かるら」とは「ガルダ」からきた言葉なんだあ・・・
インド起源の仏教とヒンズー、日本まできちゃうと渾然一体・・


アンコールの王宮は15世紀頃に放棄され、メコン川沿いにプノンペンに移動していった。熱帯樹林帯である。遺跡となると一気に密林に埋もれていくことになる。

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巨樹を取り除かず、復元前の姿を示す、そんな遺跡もあった


「19世紀にフランス人が発見した」とされるが、ガイドの主張は少し違う。
「仏教徒が住み修行した。住民も遺跡を活用していた」とのことである。そんな証拠にたとえば江戸時代の初期に日本人が個々に仏像を持ち込んだという解説もあった。タイを目指したようであるが、この地に仏像を収めたようで、その顛末がこの柱に書かれているという。遺跡となって500年,そんな時期にも仏教徒が住み、活動していた。

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漢字で書かれた日本人の壁書を示すガイドのブンさん

遺跡の復原は途上である。どの遺跡にも使い道が判らない石材が大量に積み上げられている。日本の上智大学とかも復元に参加しているとの紹介があった。

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ベトナムとカンボジアのことである。若々しい国だった。ベトナムは20歳代が人口の4割を占めるという。カンボジアはさらに子供の数が多いだろう。
バイクの大波がすごい。そして両国とも庶民の食事はすべて外食とのことである。学校に行く前に開け放たれたテーブルと椅子だけの食堂で小学生、中学生が食事(コメの麺)をしているのが興味深かった。校舎が不足しているので学校は午前と午後の二部制である。


「感動のアンコールワットと憧れのベトナム二都物語7日間」(トラピックスの)というツアーだった。どの会社でも似たようなツアーを持っているようである。ベトナムやカンボジアもおもしろいものである。

# by koza5555 | 2017-01-23 21:09 | 旅行 | Comments(0)

栢森の綱掛神事 稲渕も少し

あけましておめでとうございます。

今年の一番はツナカケ神事。
今年は1月11日に「栢森(明日香村)の綱掛神事」が行われた。

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飛鳥川に掛けられた栢森の女綱

「綱掛神事は、栢森と稲渕両大字に伝わる神事で、毎年正月11日に行われる。カンジョ掛神事ともいう。
 子孫繁栄と五穀豊穣を祈るとともに、悪疫などこの道と川を通って侵入するものを押し止め、住民を守護するための神事といわれている。
 栢森大字の神事の特徴は、全体を仏式で行うことである。福石(陰物ともいう。)と呼ばれる石の上に祭壇を設け、僧侶の法要の後、飛鳥川の上に陰物を形どった「女綱」を掛け渡す。一方、飛鳥川下流の稲渕大字の神事は神式で行うことが特徴で、「男綱」を飛鳥川に掛け渡しをする。  (明日香村大字栢森です)
 こんな掲示版が栢森の綱掛け場に設置されていた。

稲渕と柏森のオツナカケである。
行事は古くて(300年前の)1751年の「古跡略考」でも、カンジョウの松とかカンジョ橋というのが記されており、オツナカケが行われていたことが判る。

日時は正月11日である。稲渕と柏森、初仕事、クワハジメの行う。
今年は稲渕はどんな具合か、9日(成人の日)に実施、栢森は古式に従い11日の実施だった。
    
稲渕は9日、三つ編み方式で80メートルの綱を綯った。その後に陽物(男性器をかたどったもの)を作り、ご幣を取り付けて綱に固定、綱は檜と柿の木に間に張られた。
陽物が川の中心にまっすぐ立つことが大事なようであるが、これがなかなか難しく、毎年苦労されている様子である。

柏森は11日の午後、大字の農作物出荷所に集合する。宮役と三グループの宮座(のようなもの)から当番が参加する。黙々と80メートルの綱を綯う。桜井の山村のオツナカケのような掛け声はなく、卑猥な戯言などもなく黙々と綯われていく。

併せて、陰物(玉ねぎのようなもの)も作られる。女性をかたどったものだがリアルには作らない。柏森の龍福寺の住職が供養を行う。

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綱打ち場


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出来上がった陰物


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綱打ち場から500メートルほどは、僧侶を先頭に綱掛け場に移動


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福石での仏事。般若心経を唱えられる


栢森のご幣は上流に向かっている。ご幣の向きは綱の道きりの意図が示されていると思うが、・・これはどうしたことだろうか。

『飛鳥の祭りと伝承』(古典と民俗学叢書)で上野誠が面白い論を述べていた。
稲渕と栢森の境目には「飛鳥川上坐宇須多岐比賣命神社(あすかかわかみにいますうすたきひめみこと)」が鎮座、稲渕、栢森、入谷、畑の人々が守る社であり、稲渕川水系の村々を統合する社でもあるという。
この社の前に南淵(なぶち)があり、大イデ(取水口)があり、この社ではかっては名も出踊りが踊られ、オンダが行われていたという。
オツナはこの祭、このミヤヤマを守るものとの見解とみることもできる、これが上野誠論である。

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こんな地図も書いてみた

皇極天皇が雨乞いをした飛鳥川上の神奈備の神の場とされており由緒は古い。「元飛鳥」との論もあり飛鳥坐神社の元の姿ともいう場でもある。

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神社の門前の飛鳥川。タギツであり、大イデも

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190段ほどのキツイ石段を登ると拝殿。拝殿の横に回るとお山がご本殿のような祀られ方である

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陰陽の石も境内に。石は倒れていたが

稲渕と柏の森の男女の勧請綱は、会うことが無く、結びつくことも無い。
それぞれ場で、それぞれの役割を果たすことを村人に期待されている。
# by koza5555 | 2017-01-12 19:37 | 橿原・明日香・吉野 | Comments(0)

邪馬台国はどこだ バトルに出演

本日、12月29日の奈良新聞に4ページにわたり「第五回おもしろ歴史フェスティバル」が報道された。

第5回おもしろ歴史フェスティバル「歴史を愉しむ」(同実行委員会主催、奈良新聞社・国営飛鳥歴史公園・国営吉野ヶ里歴史公園共催、飛鳥京観光協会・県立万葉文化館・NTT西日本奈良支店協力)が去る10月9日、明日香村の県立万葉文化館と佐賀県吉野ヶ里歴史公園で開かれ、インターネット回線で結んで実況中継された。奈良会場は約350人、佐賀会場には約200人の歴史ファンが参加した。
第1部は、昨年9月に続く2回目の歴史バトル「邪馬台国はどこだ?」を開催。邪馬台国の所在地を巡り、研究者や歴史愛好家が論争を繰り広げた。
(奈良新聞から)

この歴史バトルに出演の依頼があり、10分間ではあったが、「邪馬台国=纒向」論をお話しする機会を得た。

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僕の発言も紙面で紹介されている
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纏向遺跡は広さが約300㌶あり、箸墓古墳やホノケ山古墳が含まれています。出土した土器は地の地域からの搬入土器が多く、農工具はほとんど出土しなくて、土木用の多くの工具が出土しました。
纏向遺跡は計画的に造られた最初の都市と考えます。この地は、ヤマト王権発祥の地であり、さらには邪馬台国が存在したとしても不思議ではありません。
 纏向遺跡から出土した大型建物が注目されます。直径32㌢㍍の太い柱が5㍍間隔で5本並び、間口が20メートルもありました。当時の最大の建物です。さらにこの大型建物と合わせて、3棟のたてものが中軸線を一直線にして並んでいました。また、建てられた年代は200年代初めで、250年くらいまで建っていたと推定されています。卑弥呼が即位したのが180年ごろ、亡くなったのが247年とされていますので、卑弥呼の宮殿だったと考えることもできます。
 近くにある黒塚古墳からは、三角縁神獣鏡が33枚、画紋帯神獣鏡が一枚出土されており卑弥呼が受け取ったとされる鏡が含まれていると考えられます。また古墳の石室の北側から出土したU字型鉄製品は魏から届けられた黄幢との見方もあります。
纒向遺跡を邪馬台国としてみることができる地下からの証拠が出ており、総合的に考えると、邪馬台国は現在の纒向遺跡のちにあったと考えます。


来年も邪馬台国、そして奈良の魅力、もっともっと発信していきたいものである。
# by koza5555 | 2016-12-29 08:05 | 邪馬台国(やまとこく) | Comments(0)

古墳時代の終焉

先日、古墳の始まりということをブログに書いた。
「倭国大乱」という弥生時代後期の2世紀後半の争乱を収めて、邪馬台国の成立、古墳時代が始まるという見方が順当である。
倭国が平和となってはじめて、戦には役に立たない大規模な古墳の造成が始まるのである。

古墳時代の始まりは書いたが、今日は古墳の終末、古墳はどんな形でなくなるかを考えたみたい。
7世紀後半、壬申の乱(672年)以降には豪族の古墳は急速に作られなくなる。
その後は大王家の八角形墳などが作られるが、8世紀にかけてそれも消滅する。

古墳の造成の停止、古墳時代の終焉というのも一気に来るわけでもない。
まずは6世紀末から7世紀初頭に前方後円墳の造営が停止されるところから古墳の終末が始まるとされる。
見瀬丸山古墳(欽明天皇の陵か?)や今城塚古墳(継体天皇陵)は前方後円墳の最期を飾る大型古墳と言われる。

同じ時代か、さらにさらに下がる前方後円墳が桜井にあることを知った。
前方後円墳の最後に近い、あるいは最後のグループといえるような古墳である。
こうぜ一号墳という。桜井中学校の真北、浅古である。これが6世紀末の古墳とされる。

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下から見たら、こんな感じだ


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号墳には二つの横穴式石室。これは東石室入り口


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これが西石室。規模はこちらが大きい。


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石室に入ると

壬申の乱(672年)以降、天武天皇の王権が確立したのちは、有力豪族の古墳は消滅する。単に墓・・ということである。たとえば宇陀の文祢麻呂(ふみのねまろ)の墓・・舎人といえでも壬申の乱の有数な将軍だが、古墳ではなく、墓地である。

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榛原八滝、稲佐山の麓。文祢麻呂墓

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同じころの明日香村の飛鳥の天武・持統天皇陵とされる野口王墓


古墳は作られなくなっていく。
古墳がつくられなくなる過程は、新しい大王を中心とする集権的な古代国家の形成過程に対応するのである。


古墳の終末の過程として、まず六世紀末葉ないし7世紀初頭に前方後円墳の造営が停止されます。それもたんに前方後円墳の造営が停止されるだけではなくて、それまで前方後円墳を作っていた有力な政治的支配者層の大部分が大型古墳をつくらなくなるのが推古朝ぐらいのできごとです。推古朝ごろに古墳の造営に関するきわめて強い規制がまず出されて、多くの有力な豪族が大規模な古墳をつくらなくなります。ただ。それでもなお地方の国造という位置につけられたような限られた有力な豪族層は大型の方墳や円墳を作りつづけますし、畿内の有力豪族層も前方後円墳に替えて大型の方墳や円墳をつくります。
 7世紀の中葉になると、即位した大王に限って八角墳をつくりだしますが、その背後には大王の地位を一般の豪族から超越した存在にしようという強い政治的な意図が認められます
(『古墳時代の考古学』白石 P271)
# by koza5555 | 2016-12-19 21:01 | 読書 | Comments(0)

塼積式古墳 舞谷と花山塚古墳

舞谷古墳群。浅古の交差点から桜井グリーンパークへの道、鳥見山から張り出した小さい稜線に舞谷古墳群という古墳が残されている。『桜井の横穴石室を訪ねて』によれば一号から五号までとのことであるが、見ることが出来るのは2号だけである。

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こんな古墳である。

いつもは笹でふさがれている道だが、桜井市(観光協会?)が最近のイベントのために切り払った。来年の春までは快適に見学ができる。
墳丘は横に長い長方形の方墳で、榛原石を磚状に加工した石材を用いて構築された磚積式の石室を内部主体にするという特徴がある。『桜井の横穴式石室を訪ねて』

こんな特異な形の石室は桜井でもここだけではなく女寄峠に残されている。
5年も前だが、こちらを探すのは大変だった。送電線を見上げながら、一万分の一の地図を見ながら4回目でやっと到達である。奈良まほろば検定の公式テキストに掲載されているのである。
花山西塚・東塚古墳という。

道順だが、昔(トンネルができる前)の、夏のバス停から林道を北に歩く。100メートル位行くと谷川の三叉路。そこを北からの尾根に登っていく。最近はテープが残されている。突き当りまで登った所から左にまくと右手に東塚が見えてくる。磚槨墳である。奥室はなく、羨道部は損壊している。

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こんなものかとさらに50メートル。

西古墳に到着。尾根の斜面を削って築かれた古墳で、円墳である。西古墳は玄室と奥室があり、境には石扉が設けられていた。壁石材に煉瓦状に加工した石材を用いており、磚槨墳と呼ばれている。
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鉄の柵が作られているが、天井から蓋をあけると中に入れる。ただし、年齢、体力、肥満度、よく注意して入るように(笑)。一人で行って猪のように捕まらないように。携帯の電波は届いていなし。


舞谷古墳群は榛原石を使用した磚積式の石室を採用し、同一集団によるものであることはまちんがいない。古墳の築造時期も7世紀中葉を前後する短期間で行われたと考えられている。舞谷古墳群の被葬者は.前代にすぐ西の尾根に築かれた古墳であるこうぜ古墳群や秋殿古墳群の後継者なのか、それとも埋葬施設が全く異なる構造をしていることから異なる集団なのか。(桜井の横穴式石室をたずねて)
これは花山西塚・東塚も同じことが問題となろう。

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一番近くで一番近い時期のこうぜ一号墳、西石室の内部。全く違うことは一目瞭然

「では、だれが、どんな氏族が」と、考えるのは自然の道理。

天理参考館には3~4世紀の磚積式の石室が展示されている。レンガの積み方の形は違うのだが、武寧王の副室などをみてみると、ドンドン横に磚を積み上げていく、桜井の古墳と同じ形も見られる。レンガを榛原石に変えれば同じ形となる。渡来氏族が墳墓を作るにあたり、百済の経験を活かしたと考えるのは、飛躍だろうか。
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最後に、桜井の古墳を回るためには必須の資料は埋蔵文化財センター発行の『桜井の横穴式石室を訪ねて』である。三輪の埋蔵文化財センターで発売、1000円
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# by koza5555 | 2016-12-18 23:12 | Comments(0)

継体天皇と阿蘇ピンク石

継体天皇の真の陵とされる今城塚古墳に関わって阿蘇ピンク石が発見されたと報道されている。
「石橋の材料  実は継体天皇の石棺  高槻古墳から破片流出」という記事が、11月11日に各紙(産経新聞、奈良新聞など)に報道されている。長さ110センチのピンク石、石橋で使われていたが付近の寺跡に置かれていたとのことだった。
「この石棺は無かったのではないか、破片しか出てこないじゃないか」と聞いたことがあるが、逆転の見事な発見である。

阿蘇ピンク石、これを考えてみた。
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東乗鞍古墳の阿蘇ピンク石石棺(今年の3月に撮影。今は石室に入れない状態である)

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奈良新聞11月11日付


継体天皇の石棺。
天理の東乗鞍古墳に阿蘇ピンク石。
桜井にはあちこちにある。
北の方から言うと慶運寺(箸中)の石棺仏。慶運寺古墳に置かれていたのだろうか。
三輪の金屋の石仏の縁の下にも見事な家型石棺の蓋石がある。
浅古の兜冢のピンク石のくりぬき式の家型石棺

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金屋の石仏の縁の下

『古墳時代の考古学』(白石太一郎司会の討論会 1998年)にその解明があった。
竜山石の長持形石棺は葛城氏の影響下につくられて、葛城氏の没落と共に消滅していくのだという倉敷考古館の間壁さんたちの研究があります。ところがその竜山石製長持石棺を用いなくなった段階ぐらいから、近畿で家形石棺がつくられ始めますので、その間のつなぎはどうも阿蘇石製石棺なのです。極端にいえば、葛城氏が大王家支えていた段階は竜山石で、葛城氏が没落すると同時に阿蘇の石がはいっているとすると、大王墓にもひょっとしたら阿蘇石が使われているのではないかということも考えられます。葛城氏にかわって胎動してくる大伴・物部氏など、大王を支える人たちの古墳がある桜井市や天理市にピンク石石棺がはいっているということも、付随した問題としてあるのではないでしょうか。(高木恭二 熊本学園大学講師 1998年当時)

大王家と大伴はこのピンク石石棺を作った宇土の地と、この地方の豪族を、とても重視していていたとの論である。

ピンク石の宇土半島の近くには菊水町、現在の和水(なごみ)j町がある。あの江田船山古墳の地で、5世紀末の遺物で文字が書かれた鉄刀が出た町である。埼玉の稲荷山古墳の鉄剣と合わせてワカタケルの文字が刻まれていた刀である。
中央で作ったか、地元で作られたかの論はあるようだが、中央直結の地であったことは十分示されている。

有明海沿岸は交易や外交に活躍した土地でもあった。
日本書紀によると百済に使えた日羅という人が出てきますが、これは火葦北国造(ひのあしのくにのみやっこ)の子どもです。葦北というのは八代の近くですね。 (白石)

こんな解説もあり、5世紀の有明海沿岸の力が浮き彫りにされている。
阿蘇ピンク石は、葛城から大伴への権力移行期の石棺で、外交戦略にたけた大伴と有明海沿岸のピンク石の石棺を作りだしていた諸豪族の力が結びついた特別な時代の産物だということだが、いかがだろうか。

政権の安定に伴い、二上山石の家形石棺、竜山石の家形石棺などが大王家、しょごうぞくの石棺の軸になっていくのであるけど。

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これは兜塚古墳、石棺
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# by koza5555 | 2016-12-17 23:27 | 読書 | Comments(0)

「国家誕生の地、桜井を語る」 〜マキムクからイワレヘ、大王の歩んだ道〜

「国家誕生の地、桜井を語る」〜マキムクからイワレヘ、大王の歩んだ道〜という講演会・シンポジウムが12月11日(日)桜井市民会館で開催された。

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大きな会場だが、良く入った、

石野博信氏(二上山博物館名誉館長)の記念講演、橋本輝彦(桜井市)さん、岸本直文(大阪市立大学教授)さん、千田稔(県図書館長)さんが基調講演、寺沢薫さんが司会だった。

石野さんは纏向王宮以後の大王宮というテーマで脇本遺跡を話された。
橋本さんは古墳時代のオオヤマト・イワレ地域の古墳と集落。
岸本さんは弥生時代の後期から邪馬台国(やまとこく)にかけての年代論。そしてオオヤマト古墳論の被葬者論を論じられた。
千田さんは、持論の「アメノヒボコが邪馬台国に影響を与えている論」だった。

今回の衝撃は岸本先生の弥生時代から古墳時代への移行時の年代論だった。

まずは、ヤマト国(邪馬台国)は一世紀に形成された畿内政権と言われる。「ビックリしましたか」と言われるが、ハッキリ言ってビックリである。
岸本論によれば、漢委奴国王印(かんのわのなのこくおういん)は奴の国のことだろうが(西暦57年)、魏志倭人伝にいう倭国王 師升の107年の朝貢は、ヤマトを中心に統一された倭国に寄ったとの論である。倭国はこの段階ではヤマトを中心に統一されていたとの論である。
漢鏡の製造時期は明らかだから、それと出土の土器を合わせて行けば年代論はこれで決着といわれる。C14の示す年代でそれが補強されるとのことである。
さらに魏志倭人伝に記された「倭国乱れる」は、その後の事件で、統一政権の対する反動、揺り戻しという論だった。岸本論によれば、卑弥呼はその中で共立されるのである。

ほんまにビックリである。岸本先生の本、僕も読んだ記憶あるけど・・・・

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シンポジウムの写真はピンボケで

石野、橋本、寺沢司会からの激しい批判となるのは当然である。
ヤマト国(邪馬台国)を100年も繰り上げるためには、出土の土器が合わないとの指摘である。
また、中国製鏡との整合性を言うが、製造時期と埋没時期はタイムラグがあるのは当然という石野先生の指摘もあった。

いかが思いますか。これは、もう邪馬台国が大和だ九州だなどというレベルは論ずるまでもないということだった。


岸本さんが提起された問題を、もう一点だけ紹介したい。
オオヤマトの大王級古墳の被葬者を考えると箸墓、西殿冢、崇神、景行、茶臼山、メスリ山の六基の前方後円墳が問題になるが、これは二系統で考えるべきとの論である。

塚口先生の講演を聞いたことがある、豊岡卓之・橿考研企画部長の講演も同じ論旨であった。
塚口先生は茶臼山、メスリ山は四道将軍などの墳墓と言われる。
豊岡さんは被葬者論には及んでいないが、墳丘の解説を明確にされ、黒塚などにも論が及んでいる。

岸本さんは、箸墓は卑弥呼、西殿冢は台与、行燈山(崇神)は男王で、聖俗の聖王との解説される。
茶臼山、メスリ山、渋谷向山は聖俗と俗との断定である。墳丘が画鏡形で円と方が断続している。

聖俗、誰が王かという悩ましい問題も残るが、魏志倭人では卑弥呼を王としている。

シンポジウムは意見が分かれた。考古学に命かけてる、邪馬台国は大和や・・ぐらいしか一致点がないようなスリリングな討論で、僕も解決したり、課題ができたりであった。

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発言要旨集は500円。桜井市の埋蔵文化財センターで手に入る。

# by koza5555 | 2016-12-11 21:12 | 邪馬台国(やまとこく) | Comments(0)

『未盗掘古墳と天皇陵古墳』

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桜井茶臼山古墳。こちらは未盗掘古墳じゃないけど、僕の古墳、お宝画像だ

未盗掘問題を論ずるためには、発掘とは何か、盗掘とは何が違うかを明らかにしなければならない。

考古学者が行う発掘の最大の目的は、遺物を掘りだすことではなく、遺物と遺構の関係を情報を入手することだ。
…これに対して盗掘は、このような情報に何の注意を払うことなく、もちろん記録を行うこともなく、それを暴力的にこわして遺物だけを取る行為にすぎない。
情報はその、その遺構を作って遺物を置いた過去の人々の行為を読み取るための、唯一無二の鍵となる。
(p18)

松木先生は、二つの未盗掘古墳の発掘を手掛けた。考古学者としては幸運な方というべきでしょうか。
一つは大阪大学当時の雪野山古墳。安土城跡の近くらしい。
今一つは、松木さんが中心となって岡山大学が発掘した勝負砂(しょうぶざこ)古墳である。
いずれも詳細な説明があるが今日は省く。

この発掘の経験と合わせて、発掘が中止された古墳の紹介がある。
羽曳野市の峰ヶ塚古墳の例である。
盗掘穴がある古墳だったが、掘りすすめると多くの副葬品が残された石室に至った。
遺物のなかでは魚佩(ぎょはい)といわれる(二匹の魚を腹側で向かい合せた形の金具、ベルトや刀の垂れ飾りか)が注目された。
藤の木古墳などの6世紀後半の古墳からは出土する。しかしこの古墳は5世紀後半で100年の差がある。その解明が待たれたが、「これほどまでの貴重な古墳の調査は、拙速を避けて未来にゆだねるべきだという判断が勝」ち、埋め戻されてしまった。
年代の差も不明、さらには竪穴式か横穴式かも不明である。

大王墓群のただなかにあって、それが竪穴式から横穴式へと移り変わっていくターニングポイントをなす古墳として、未盗掘ではないけれど、副葬品の残り具合も十分で、はかりしれない歴史的価値をを持っている峯ヶ塚。発掘中止崖冢として正しかったか、誤っていたいたかはだれにもわからない。・・・だが、それを解き明かす営みが、未来に向けての保存という理由のもとに、中途のままペンディングになっていること惜しむ声は少くない  (p211)

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最近入った横穴式石室。桜井の越塚古墳。石棺の器台が残っていた。

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これも最近入った桜井市のこうぜ一号墳西石室。ここは準ほふく前進である


日本の古墳に墓主の名前が入らないことの解説がありよく理解できた。
墓の主の名前がそこに残されていた事例は、日本の古墳にはない。だが中国には古くからそういう風習があった。神から墓地を買い取る「買地券」として、墓主の名を石に刻んだりすることはその典型
この風習は朝鮮半島までは伝わったが、日本には及ばなかった。
「誰それのが眠る墓」という意識よりも、巨同体のまつりの場として長の墳墓を築くという宗教的土俗性に遅くまでおおわれていた日本列島の古墳には伝わる由もなかった。


また、百済と日本の強固なつながりも触れている。
523年に亡くなった百済の武寧王の棺はコウヤマキだったことが判った。コウヤマキははモンスーンの卓越する日本でしか育たないもので、この棺の材料は日本から運ばれたものである。(p45)
西暦500年に対馬海峡を渡っていく巨大なコウヤマキ。古墳時代の英知と力は素晴らしいものである。


『未盗掘古墳と天皇陵古墳』 松本武彦(岡山大学教授) 小学館
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何を発掘したか、ではなく、発掘の考えかたを考えさせられる面白い本だった。
僕は図書館で借りたが、まだ3年ほど前の本である。
# by koza5555 | 2016-12-08 14:26 | 読書 | Comments(0)

上之郷 小夫の綱掛祭

12月と2月は小夫(桜井市上之郷)の綱掛祭である。
長谷寺から針のインターに抜ける県道を通るとき、この綱が目に入る。

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出来上がった綱を参道ころがし

12月4日(日)、午後1時からこの祭が執り行われた。
綱かけは桜井市でも各地で行われるが、シーズン入りという言葉を使ってよければ、小夫の綱掛は、綱掛シーズンの初めの祭である。今年は上之郷の三谷が3日に行われたと聞いたが、その規模、本格さでは小夫に敵わない。

午後1時に「当番となった垣内」のすべてのお家から、一人ワラ三把を持って集まってくる。
「当番となった垣内」も解説が必要である。小夫には4垣内(桑・上・馬場・東という)あり、一年ごとに祭当屋が回ってくる。この綱かけは「先廻り」といい、来年の当屋垣内の初めの仕事である。平たく言えば4年に一回当屋が回ってくる、そのまえに綱掛祭も回ってくるのである。。4年に一回だから、初めは作業のすすめかたに議論百出である。忘れたこともままありである。

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25メートルほどの大綱がなわれる。それと合わせて100メートル以上の細縄がつけられる。

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すだれを4枚。実は綱掛は3カ所になるので合わせて12枚。

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すだれの間は、こんなものがぶら下げられる。合わせて9本である。

お祓いを受けた後は、縄掛けに。
青竹の筒笛をブーブーと吹き鳴らす。単なる青竹、しかし、音はほら貝、顔負けである。

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綱掛は村の入り口の山と墓地の榧の樹の間に渡される。


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これは県道の綱


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これは初瀬川の上に掛けられた綱



小夫の綱は悪霊、疾病を絶対に村に入れないという毅然とした綱で、①川ずじ ②旧道、③新道である県道に至るまで、張り巡らすことが特徴だった。


小夫の綱掛は一年に2回である。同じ垣内が取り組み、12月のすだれは松、2月は榊と違えるのが特徴である。
# by koza5555 | 2016-12-04 23:00 | 桜井・初瀬 | Comments(0)

『古代大和へ、考古学の旅人』  石野博信

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今朝の箸墓古墳。古墳時代の始まりはこの古墳からか

一月のおもしろ歴史講座(桜井駅前エルトの第4会議室・1月6日(金))のテーマは「桜井の古墳」である。どんなお話になるか、まだジタバタしている。

古墳時代ということを考えてみた。弥生時代のあと、古墳が盛んにつくられた古代のことである。大和を中心にして日本がまとまった、その時代である。同じような前方後円墳が全国で作られる。飛鳥・藤原、平城京の時代に古墳は終わりを告げる。

『古代大和へ、考古学の旅人』(雄山閣・石野博信)を読んでみた。
きっとおもしろい観点があると信じて読んだが、やはり石野先生は裏切らない。
「古墳時代は戦争のない時代」と言われる。

弥生時代の高地性集落という問題がある。邪馬台国論でもさんざん考えてきた。
さらに弥生時代は、九州も畿内にも大規模な、そして無数の環濠集落が生まれた。吉野ケ里のような厳しく深い環濠、100メートルにも及ぶ大幅な水濠(いく筋もの溝に分かれていた)が置かれた鍵・唐古のような形である。

「高地性集落というように呼んでおります。そういう村が盛んに作られるのが弥生時代の中頃から終わり頃です。その辺と環濠集落の動きというのは当然関係があるだろうと思います。環濠集落というのはやはり敵が襲ってくる時に備えて村を濠で囲んでしまう。山の高い所の村も敵が襲ってくるのに、備えて中世の逃げ城のように山の方へ村をつくる。」
「この高地性集落が盛んに作られるのは弥生時代中期の後半で、瀬戸内海の要所要所へ作られていきます。弥生時代の後期になると近畿地方大阪とか奈良を中心とする地域にたくさんできます。近畿地方では弥生時代後期が終わって・・・バッタリと高地性集落が無くなります。私は世の中が平和になったんだと、そして墓作りにエネルギーが集中できる時代になったんだと思っています」
(p125)

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奈良盆地の高地性集落と主要な遺跡(p71)


「環濠集落」も解説、評価がきわめて端的である。
「弥生時代でも日本列島に米づくりが入ってきた時期の村の遺跡が、福岡空港のある板付にありますが、その遺跡も大きな掘がめぐらされています。きんき地方でも、大阪でも、奈良でも、そういう村はたくさん残っています。ですから、弥生時代の村が掘で囲まれているというのはごく当たり前のことです。ただし、日本の歴史の中では、そういう村があるのは弥生と、鎌倉、室町時代から戦国時代にかけての二つの時期だけです。村を全部溝で囲まなければいけないほど、この二つの時代は戦争がはげしかったと言えると思います」(p154)

古墳が全国で作られていく時代は、この時代を経てからのことなのである、古墳の形、副葬品、祭祀のことなど古墳は話題は多いが、その前提は戦争のない時代だったということがある。
こんな社会の成立に、邪馬台国がその触媒になったかもしれないと僕は考えるのである。


古墳時代はすごい。
平和な日本があって古墳ありき。
そして保守的にならずに、古墳の築造の思想と技術はめまぐるしく向上・前進していく時代でもあった。

「古墳時代、戦争のない社会、すごいわ」、こんな思いを理解していただけるようなお話しにしたいものである。

『古代大和へ、考古学の旅人』(雄山閣・石野博信)
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# by koza5555 | 2016-12-03 10:04 | 読書 | Comments(0)

川西町 光林寺と富貴寺と六県神社

11月30日の当尾ツアーの帰り道、川西町の川端さんから、「川西の保田(ほた)、うちの阿弥陀如来も見に来て」と声を掛けられた。
「参ります」。ちょっと確かめてみると、これは快慶の作で重要文化財とのことである。
「切れ長の眼、魅力的な口もとの笑みは快慶仏の魅力を十分に見せていて、円熟の境に浸った作風である」と『大和のかくれ仏』(清水俊明著)でも、しっかりと紹介されている。

電話をかけてみて初めて分かった。川端さんはこちら、光林寺(浄土真宗)の住職夫人だった。


そっそく、拝観させていただいた。
浄土真宗と阿弥陀如来、これは基本の形だが、快慶作ということで、「これは客仏か」とも考えたが、きっちりご本尊・・・
内陣からも拝観させていただいた。80センチほど、端正なお姿で衣のひだが写実的である。
お顔は清水さんが言われるように優しさ一杯だった。
「法眼 快慶」とのことで、これは快慶の晩年の位である。

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左側に榧(かや)の巨木。実も収穫してオカキに入れる・・とか


100メートルほど南には六県(むつがた)神社、そしてその神宮寺として富貴寺。

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境内右手に寄棟造りのご本堂。この建物が、重要文化財。
「1178年に初めに堂を建立、現在の堂は1388年の建立」と江戸時代に柱に墨書(1679年)されているとのことである。

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保田の宮座といい、宮座で六県(むつがた)神社と富貴寺が管理されていたようであるが、川西町史(平成12年)によれば、六つのカイトの代表による敬神講で運営されている様子。

釈迦如来坐像と地蔵菩薩立像は重要文化財に指定されている。
釈迦如来像(重文)は、高さ84センチの桧材による寄木造で平安時代後期。
本尊の向かって右に安置されている木造地蔵菩薩立像(重文)は、高さ96センチの桧材による寄木造で彫眼、古色の声聞形立像である。
 

最後に六県(むつがた)神社
延喜式に載せられている。
広瀬郡と城下郡の境目にある。

祭神は、六県命で、
高市命
葛木命
十市命
志貴命
山辺命
曾布命
で、式内社として存在していた大和の六御県(むつのみあがた)のすべてを祀る式内社である。
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2月11日(祭)に行われる「子出来おんだ祭」が有名である。豊穣と子孫繁栄を願う神事である。
# by koza5555 | 2016-12-01 23:41 | 奈良 | Comments(0)