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奈良・桜井の歴史と社会

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大神神社と「夏越し茅の輪」

大神神社に夏越しの茅の輪が架けられた。夏至の日からだろう。79日まで置かれる。

青々した杉、松、榊が掲げられた茅の輪をくぐってきた。

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「杉、松、榊の三木は神霊の宿り給う霊木である」と記されていたが、「なにゆえ茅の輪」

というのも知りたいものである。

これが、「なぜ日本人は神社にもお寺にも行くのか」島田裕巳著 双葉社に記されていた。

「このみわの明神は、社もなく、祭の日は、茅の輪をみつくりて、いはのうへにおきて、それをまつる也」と奥義抄(平安時代の歌学書)にあるとされる。

大神神社には、本殿も拝殿もない時代があり、その時代には、山を、そしてその岩を依り代として祀る時代があったと、これはみんなの共通認識だが、その祭りには「茅の輪を岩の上に置きて」祀ったとあるのである。

茅の輪は夏越しの祓にとどまらず、神を祀る基本的な姿であった模様である。

心してくぐらせていただいた。

「神社にもお寺にも行くのか」は、神社のこと、お寺との関係のことが極めて端的に示されている。今年の423日刊行であるので新刊書だが、僕は桜井市図書館でお世話になった。

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神社の古来の姿が解明されている。


今日は社殿のお話だけ紹介しよう。

出雲神社榜示図というのが残されている。出雲大社ではない出雲神社で、京都の亀岡市にいまも鎮まる。鎌倉時代の榜示図が残されている。領域を示す図であるが、ここには山があり鳥居が一本たっているだけだった。現在はこの鳥居のあたりには社殿が建てられている。

鎌倉時代には社殿がなかったことを意味している。

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大神神社の場合も詳しく紹介。大神神社は今も、拝殿はあるがご本殿はない。この拝殿は徳川家綱(四代目)が造営、1664年のことである。

歴史を見ると、1317年には、拝殿の修理という記録があるらしい。

1226年には、当社古来無宝殿。唯三個鳥居あるのみ」と記される(大三輪鎮座次第)。三つ鳥居のことである。

ここに、奥義抄(平安時代の歌学書)の紹介があり、「このみわの明神は、社もなて、祭の日は、茅の輪をみつくりて、いはのうへにおきて、それをまつる也」とある。

大神神社では、平安時代までは、鳥居もなく、(茅の輪をかかげた)岩のところで祭祀がおこなわれていて、鎌倉時代までには三ツ鳥居が建てられるようになり、拝殿は室町時代にならないと建てられなかったということになります。 (p65)

宗教学者の見解だが、激しく僕は共感したい。

大神神社にとどまらず、各地の神社で夏越の祓では、茅の輪くぐりがおこなわれるが、

これは大神神社からのしきたりということであり、

元々は人が通るものでなく、供え物であったり、神と人との仕切りの意味があったりしたものと思われる。

考えてみれば、鳥居も同じで三ツ鳥居や出雲神社(亀岡)の出雲神社などの例をみても、神域と人の世界の仕切りともいえるのであり、鳥居を抜けると神域であり、茅の輪をくぐるとやはり神域ということだろうか。

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鳥居も茅の輪も心を正して入らせていただくことにしなければ。


# by koza5555 | 2017-06-23 14:32 | 桜井・山の辺 | Comments(0)

『古建築を復元する』 山田寺に見ると・・・

建物の復元は各地の遺跡の大きな目玉である。
邪馬台国所在地論で言っても、吉野ケ里なら当時の建物を彷彿とさせる建物が林立している。一つ一つの建物はよく考察されて復元されているだろうが、時代を隔てた建物が直近に立ち並ぶのはいただけない。しかし、逆にその密集度が迫力をもって迫ってくる。

一方、纏向といえば、古墳は見学できるが、建物は埋め戻された空き地だけだ。桜井埋蔵文化財センターに行くと、ようやく模型を見ることができる。
遺跡の保存など、長い目で見ればどうかであるが、現実の「集客力」は確実に差がある。

建物の復元は大切だ。そこで、そんな建物の復元・・という本が今年の3月に出ている。

『古建築を復元する‐‐過去と現在の架け橋』。奈良文化財研究所の海野聡さんが書かれた。

「古建築を知る」、「建物の痕跡を見る」と読みすすむと、「山田寺の衝撃」とあった。

1982年、突如として地面の下から「建物」が現れた。まさに直前までたっていたかのような姿が白日の下に晒されたのである。山田寺回廊の出土部分の発見までは、建築史は7世紀唯一の現存建物である法隆寺に依拠してきたが、この発見により常識が覆されたのである

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山田寺、東面回廊。薬剤処理を施されて

山田寺は蘇我山田石川麻呂の発願による氏寺で、641年(舒明天皇13年)に寺地作成、643年(皇極天皇2年)金堂の建立、麻呂は謀反の疑いを受け死に至るが、685年(天武天皇14年)に金堂の丈六仏のご本尊の開眼供養が行われている。(上宮正徳法王帝説による)

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仏頭・飛鳥資料館にはレプリカが置かれている。写真撮影はできる

11世紀には回廊が倒壊、12世紀には金堂・塔・講堂が焼失した。

この東側の回廊が倒壊した状態のまま、土の下、さらにその瓦の下から出てきた・・出土したのである。
建築部材はすべて残っているという状態である。
柱は銅張り(エンタシス)があった。
組み物の特徴があった。
柱があり、その上に大斗、巻戸、肘木で平三斗(ひらみつど)で梁を支えるが、この形が法隆寺とは異なっていた。

法隆寺は柱と大斗の間に皿斗が入っている。奈良時代の建物には一般的には皿斗はなく、これは中世に中国から輸入(大仏様)されたもので、法隆寺は特殊な形を取っている(金堂・五重塔・中門にもついている)。

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これは僕が書いた 笑
山田寺には皿戸はない。

古い順にみれば、山田寺(なし)、法隆寺(あり)、薬師寺など(ない)、10世紀以降(あり)とのことである。
7世紀には日本の古建築の基礎ができていたことが示されたと海野聡先生は指摘するのである。
言い換えれば、法隆寺は別格という事だった。古代建築の代表、法隆寺はこの技術を、どう手に入れたか。興味は尽きない。

ほかにも平安神宮、第一次大極殿、朱雀門、四天王寺、登呂遺跡などが考察されている。
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『古建築を復元する――過去と現在の架け橋』 著作 海野聡  吉川弘文館
# by koza5555 | 2017-06-18 17:55 | 桜井市と安倍 | Comments(0)

桜井市立埋蔵文化財センター

毎日新聞の奈良版、木曜日の「ディスカバー奈良」は奈良まほろばソムリエの会が執筆している。執筆者を募ったところ、20名以上の方が手を挙げた。今週の当番は僕。「桜井市立埋蔵文化財センター」をとりあげた。地元ネタである。

「奈良時代や飛鳥時代のさまざまな遺跡を見学しました。もう一つ前の時代の遺跡を見たくなりまして桜井市にまいりました」と、埋蔵文化財センター前で東京から来られた方が話してくれました。

町じゅうが歴史博物館という桜井市。市内のあちこちで発掘された遺物がここに集められ、弥生時代の銅鐸、纒向遺跡から発見されたさまざまな遺物、古墳時代の埴輪などが、歴史の順に体系的に展示されています。
中でも、纏向遺跡で発見された邪馬台国時代の建物の柱跡にもとづき復元された大型建物の模型展示からは、邪馬台国の時代、日本の王権の幕開けを身近に 感じることができます。

古墳時代の盾持人物埴輪も目を引きます。盾を持った最古の人物埴輪として注目されていますが、なによりこの微笑みには誰もが引き込まれます。
こちらの展示室で古代の風景、古代の暮らしを楽しんでみませんか。
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メインを盾持ち埴輪にした


常設展は旧石器時代から飛鳥・奈良時代までが見学できる。桜井市から出土した資料だけで、日本の歴史を理解することが出来るわけで、これは桜井市民は自慢すべきである。
纒向遺跡コーナー、三輪祭祀のコーナーもあり、埴輪のコーナーもある。

纒向遺跡コーナーでは、尾張、北陸、中国、九州に至るまでの各地から運ばれてきた土器が展示されおり、この遺跡の全国的な中枢の役割が理解できるのである。
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纒向・発掘された大型建物の柱穴から復原された模型

埴輪の展示も充実している。盾持ち人埴輪の笑顔は特別である。2011年2月26日に「茅原大墓古墳」の現地見学会が開かれた。今度の記事は、あの時の感動をそのままの気持ちで書いたものである。

速報展は10月1日(日)まで開催されている。
大藤原京関連遺跡では上ノ庄から、弥生時代前期のほぼ完形な土器が出ているし、三輪遺跡では中世の池状の遺跡などが報告されている。
これはすでにブログに書いた。50センチ下の桜井 桜井埋蔵文化財センター

町じゅうが博物館の桜井、そのまん中の博物館が桜井市立埋蔵文化財センターだ。ぜひとも、おいでください。
歴史の認識が深まるにつれ、この展示室では次々と新たな発見をすることが出来る。場所はJR万葉まほろば線(桜井線)・三輪駅から徒歩10分、大鳥居の足元である。
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# by koza5555 | 2017-06-15 06:09 | 桜井・山の辺 | Comments(0)

鏡女王忍阪墓 談山神社

談山神社、6月第二日曜日は鏡女王祭である。今年は6月11日となる。
午前11時から東殿にて祭祀を行う。
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鏡女王祭


前日(土曜日)には、桜井市忍阪の生根会により鏡女王忍阪墓前祭がおこなわれた。
鏡女王忍阪墓は、生根会(忍阪区老人会)によって草刈りなどの日常的な管理が行われていて、談山神社とともに祭祀を行うのである。
祭は一年に一度、東井(ひがい)会長をはじめ、役員のみなさんの気合は十分である。
談山神社からは宮司と黒住さんが参加。
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神社と忍阪のみなさんで、天智天皇の妃、藤原鎌足の正妻、万葉歌人でもある鏡女王の生涯をしのんだ。
鏡女王の歌碑は鏡女王墓をしばし降りた、舒明天皇陵に差し掛かった川の中に置かれている。
「秋山の 木の下隠(このしたがく)り 行く水の 我れこそ益さめ 御(み)思ひよりは」で、天智天皇との思いを歌う歌である。犬養孝先生の揮毫である。桜井市は歌碑王国で60基以上の万葉歌碑を数えるが、犬養先生の揮毫はこれと大福の三十八柱神社だけである(そうですよね)(^^)。多数の識者に書いてもらうという趣旨で歌碑建設を進めてきた努力の結果でもあるが。

鏡女王忍阪墓
被葬者は額田王の姉で天智天皇の妃、のちに中臣鎌足の正室。万葉歌人の鏡女王の押坂墓とされている。談山神社が管理しており、忍坂の生根会が清掃奉仕をしている。
平安時代前期に編纂された「延喜諸陵式」には舒明天皇の陵域の東南と書かれている。
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鏡王女(かがみのおおきみ、生年不詳 - 天武天皇12年7月5日(683年8月2日))は、飛鳥時代の歌人。藤原鎌足の正妻。『万葉集』では鏡王女、『日本書紀』では鏡姫王と記されている。『興福寺縁起』・『延喜式』では鏡女王。『興福寺縁起』では藤原不比等の生母(後世の創作とする説もある)。また後述するが「鏡王女」と「鏡姫王」を別人とする説もある。(ウィキ)

忍坂【おしさか】
奈良県桜井市の東部,外鎌(とかま)山西麓の古代以来の地名。恩坂,押坂とも書き,〈おさか〉ともいう。遺称地である桜井市忍阪は〈おっさか〉。地名〈忍坂〉は《日本書紀》神武天皇即位前紀や垂仁天皇39年10月条にみえ,後者の記事によるとこのとき大刀1千口を新たに作らせ,〈忍坂邑〉に収蔵したのち石上(いそのかみ)神宮(現奈良県天理市)に移している。(百科事典マイペディアの解説)

これをFBでも紹介したら石亀嶽さんから昭和40年代の忍阪墓の写真が送られてきた。
「門だけ・・植わっているのは松」とのことである。犬養孝が「松の木が19本」と書いたとおりである。村人によると、「松は50年までにはすべて枯れた。杉を植えた」である。
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昭和40年代(石亀嶽さん提供)
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現在の墓。杉林
# by koza5555 | 2017-06-10 22:29 | 桜井・多武峰 | Comments(0)

ウォーナー博士 報恩供養の法要

6月9日、安陪文殊院でウォーナー博士の報恩供養法要が行われた。
桜井市仏教会の主催である。

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ウォーナー博士 報恩供養塔を前にしての法要


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報恩供養塔は「安陪清明公 天文観測地」に建立された。西の空が開けている。

ウォーナー博士 報恩供養塔について

ウォーナー博士は、1881年アメリカのニューイングランドに生まれ、ハーバード大学出身の東洋芸術史家で日本美術の偉大なる権威者です。第二次世界大戦において、日米の風雲急なるやその親友ハル国務長官を訪ねて戦争防止を進言されました。不幸開戦となるや、アメリカの政府と軍の上層部に辛抱強く奈良と京都をはじめとする古都の文化的価値の説得に成功されたおかげで、アメリカ軍の日本本土空襲の時にも空爆リストから外されました。この地に立つウォーナー報恩塔はこのウォーナー博士の功績に大変感動した桜井市の一市民であった中川伊太郎さんが、日本人が博士に寄せる感謝の気持ちを永久に残したいという気持ちから自費で建立されました。因みに中川さんは当事、失業対策事業で働く日雇い労務者という大変苦しい生活を送っていたにもかかわらず、こつこつと貯えた十万円の全財産を出して昭和34年5月に建立されたものです。この建立の相談を受けた当時の市長及び桜井市仏教協会と当山住職は、この美徳を称えたいとの思いから場所の提供をはじめてとして毎年6月9日のウォーナー博士の命日に報恩感謝の供養を厳修することとし、爾来桜井市仏教界主催によって6月9日の博士の命日に法要が行われています。

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ウォーナー博士の功績の否定論もさまざまである。
「ウォーナーリストは略奪品の返却の為につくられたもの」であるとか、ウォーナーリストに載せられながら空襲にあった各地の文化財を示して、ウォーナー博士の役割を否定するという論などである。

愛知県や名古屋市で60年間暮らしてきた僕から見れば、奈良や京都が大規模な空襲から逃れたことは驚異である。

安倍文殊院の植田ご住職は「奈良の文化財が守られたこと、それに感動して碑を建てようとした方がいたこと、その法要は誇るべきこと」と法要を締められた。
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# by koza5555 | 2017-06-09 18:11 | 桜井市と安倍 | Comments(0)

氏神さまと鎮守さま

神社とはなに?談山神社の氏子総代だったり、町の役員として阿部八幡社の祭祀に日頃から関わりを持っていても、「神社とは何?」という決め手は、恥ずかしながら勉強不足。

そんなとき、「氏神さまと鎮守さま・・神社の民俗史」という本を、桜井市の図書館の新刊コーナーで見かけた。国立民俗博物館で仕事をされ、現在は國學院大学の教授の新谷尚紀さんが書かれている。
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「稲の民俗学」からはじまる。田んぼの造成と稲作作業が、日本の統治のシステムや文化に大きな力を果たしている。
① 稲作(水田の造営)にはとてつもない労働力が必要とされた。採集、狩猟、漁労という自然環境のシステムで生きてきた人に灌漑労働と稲作労働は過酷なものであり、強制力が必要だった。
② 古墳の築造は巨大なシステマティックな労働力の把握とその動員力が不可欠だった。水田稲作における動員力が、その背景にあってこその古墳築造と考えられる。東北(仙台市、山形市を結ぶ以北)に古墳がないのは古墳造営の強制力が働かなかったのも一因だ。ここには水田、稲作労働がなかった。
③ 祭は新嘗祭、大嘗祭、広瀬大忌神祭(ひろせのおおいみのかみまつり)と龍田風神祭。稲作に関わるもので、これらの祭りの整備と定例化が、天武朝により始まる。


神社の発生と祭祀の始まりを連動させるのが新谷先生の論である。その歴史が、そのまま生かされたりするのも、神社と祭祀の特徴である。
祭祀の歴史である。順番に・・・
① 磐座(いわくら)祭祀
② 禁足地祭祀
③ 祭地への神籬(ひもろぎ)設置
④ 祭地への臨時的な社殿配置 
⑤ 常設の宮殿設営
磐座祭祀、禁足地祭祀という段階があって、それは、4世紀後半の三輪山祭祀遺跡や、4世紀後半からの遺跡が残る沖ノ島遺跡に示される。いまでも、磐坐があり、禁足地がある、その遺跡もある。
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大神神社の大鳥居

大神神社は地元だから、いつも注目しているが、沖ノ島の重要性に改めて勉強する。
4世紀、大和王権の力が巨大となり、博多湾(西新町 にしじん)を経由しない海路として、沖ノ島ルートが整備されたと読んだばかりである(海の向こうから見た倭国 講談社現代新書 高田寛太著)。
海路の新設と沖ノ島祭祀の遺跡の始まりが接近していて、「なぜ、沖ノ島に」という疑問が氷解する。
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沖ノ島あたりをめぐる歴史


三番目である。いまの神社の姿は、神道の歴史に関わりがあると新谷先生は説かれる。
磐座、禁足地、神籬、社殿という祭祀の歴史が神社には、混ぜ合わされた姿となっている。そう言われれば、それは心当たりがある。祭祀の歴史は過去の事じゃなく、いまの姿でもある。それは神社だけではなく、村や神社に民俗としても、伝承されている。

あわせて、日本の信仰動向の解明もある。日本の信仰の土台は土着と招来されたものが混淆している。
① 古代日本の神々への神話的信仰
② 中国から伝承された陰陽五行や道教の教え
③ インドで生まれ、中国で醸成された仏教信仰
新谷先生は、「三本混じりの奔流」があり、それを土台にして日本で独自に育った神仏(山岳信仰、神仏混淆の神々)が考えられるが、現代は、それをすべて取り込んで信仰の姿があると解説される。
日本の信仰状態は、この歴史を引き継いでいる。
ここが大事であるが、引き継ぎ方は融合ではなく、それぞれの特徴も生かされているとの解明がある。
結論的にいえば、形や中味がまじりあうのではなく、「たとえていえば、あくまでもミックスサラダの状態であり、ミックスジュースではないとのことである。

混淆しながらも基本的要素をしっかり保持、それが日本の神祇信仰の特徴で、神社祭祀の特徴である。
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こちらは阿部八幡神社

なるほどでした。
「宮座の形成と運営」という項目で、「大柳生の氏神祭祀」、「奈良豆比古神社」を取り上げていて、ルポルタージュとしても学ぶものが多い。
# by koza5555 | 2017-06-08 13:03 | 読書 | Comments(0)

鍵と今里の蛇巻き

田原本町のノガミを拝見した。鍵・今里のノガミ祭りである。
祭の所作から、それぞれの地域で、「鍵の蛇巻き」、「今里の蛇巻き」と呼称している。
期日は6月の第一日曜日(以前は旧暦の5月5日)に行われる。

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鍵の「蛇」の出発

鍵は八坂神社で、今里は杵築神社で蛇巻きの行事がおこなわれる。

国道24号線を郡山インターから南に向かうと左手(東)に有名な鍵・唐古遺跡の楼閣、右側は唐古の集落、その先が鍵の村である。今里はさらに西の寺川沿いにある。明治25年までは大和川の船着き場だったという。
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鍵の蛇巻きは午前7時30分に始まった。頭を作る・・・200㎏はあるとのことである。
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綱は芯に荒縄を巻き込み、横向きに綯っていく。藁と麦ワラの混合である。
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2時から祭祀が始まる。弁当箱のようなドサン箱も準備される。ミニチュアの農機具が入っている。竹竿をつけて、この先を各家に差し向けて、祝儀をいただく。
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神社を出て、村を北に、その後、南に戻り、ツナ場(北中学校の向かい)で、エノキの木に蛇をまきつける。
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一方、今里の蛇は 午後1時頃に集合、杵築神社にて蛇を作成する。


午後3時頃から午後5時30分まで、今里の大字全戸をまわり、神社に戻り、蛇を巻きつける。
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こちらは麦わらである。
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蛇にお酒を呑ませる。


参拝者に、藁の先にくくられた「わかめの味噌煮」が配られる。微妙に甘くておいしい。
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奈良県の民俗と言えば鹿谷勲さんだが、鹿谷先生も美味しそうにいただいている。「撮るよ」と言って撮らせてもらった。
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その後、中学生が蛇を持ち上げて、村の隅々までまわる。、各戸の頭を入れ、「おめでとう」と全員で声を張り上げる。
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さらにあちこちで、蛇体で人を巻き込む。巻かれた人も福があるとされるが、なかなか、一般の見学者を巻き込むことはない。
この巻き込みを見ていると、この行事は、ヨノミの木に巻き付けるから蛇巻きか、それとも町で人を巻き込むから蛇巻きというのだろうか。

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巻き込まれて歓声をあげる・・・

寺川もわたる。
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蛇巻きは、その構成員が男子であり、旧暦の5月5日に行われる端午の節句にちなんだ行事である。今里では、蛇の巻き付けられた大樹の根元の祠に、絵馬や農具のミニチュアが祭られることから、田植え時の降雨を祈願したものと考えられる(田原本観光協会HPから)


田原本町の鍵と今里の蛇巻き、6月の第一日曜日である。来年はぜひ、どうぞ
# by koza5555 | 2017-06-07 15:43 | 奈良 | Comments(0)

新沢千塚古墳や高井戸山古墳

「海の向こうから見た倭国」。高田寛太著。民俗博物館の研究部助教授である。
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古墳時代(3世紀前半から6世紀前半)の倭と百済。倭と新羅。倭と加耶の歴史を検討してみた。倭から見て、同時に朝鮮半島の国々から見てである。

古墳は葬られた人間の履歴書、だから古墳がふんだんに取り上げられている。

高田先生の整理にしたがって、日韓の歴史をみてみる。

弥生時代の後半。金梅(キメ)と北部九州の海路。この海路は3世紀後半に最も花開く。
3世紀後半に畿内に倭王権が誕生。金海との直接の交易を目指す。狗邪韓国との交易が魏志倭人伝にも取り上げられる。

4世紀になると大和王権の力は巨大となり、博多湾(西新町 にしじん)を経由しない、沖ノ島ルートが整備される。
一方、半島では高句麗が南部を攻めはじめる。百済は倭のつながりを求めて、直接の交易に乗りだす。高句麗に対して倭、加耶、百済の同盟ができた。

5世紀、高句麗はさらに南部を攻撃する。倭との窓口となっていた加耶は衰退して、新羅、大加耶(でかや)、百済との交易が広がった。
各地方が大加耶(でかや)などと交易するが、倭王権は吉備、北部九州(磐井)などを抑えにかかって、地方の政権の交易は縮小する。

大加耶に日本と同じ前方後円墳が作られる。14基もあり、倭人か、その影響を受けた加耶の人の墓であろう。埋葬物も倭からの威信材、鎧などが含まれている。

このころから、新羅が大きな影響を与えはじめる。
新沢新塚古墳126号はその証拠で、埋葬物から見て新羅人である。大伴が連れてきたのだろうか。
耳飾り、腕輪、指輪などのアクセサリーはすべて新羅製。当時の新羅は金・銀・銅などのアクセサリーの組み合わせで身分をしめした。126号墳の被葬者は相当なレベルの人。
「質」と言われる、最高級交渉人か。

6世紀、562年に大加耶は新羅に併合される。倭は百済との関係かのを強める。新羅とむすびつく磐井を押さえる。吉備も大和王権の力に屈して、大形古墳は作られなくなる。

こんな歴史があるから、日本で出土する朝鮮半島系の副葬品にもそれに合わせての特徴がある。
4~5世紀は金官加耶、5世紀後半は大加耶。6世紀前半は百済系からの到来物が多い。朝鮮半島に於いても、日本系の文物はそれに対応する形で、交易は相互のものである。

「金官加耶と河内王権、大加耶と雄略朝、百済の再興と継体朝の成立」と半島の動きと大和王権の動向がタイアップしているとの韓国の学者の論も紹介されている。

新羅系の新沢千塚の126号墳と合わせて、百済系の特徴が顕著な古墳もある。
それは、大阪の高井田山古墳である。初期の横穴式古墳。板状の石材を使用した玄室で、5世紀後半のものとされて、そのころの百済の横穴式石室の影響を受けているとされる。熨斗とか金箔を挟んだガラス玉など精巧な遺物が発掘された。
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さらに橋本市の隅田八幡宮の鏡には「503年に武寧王が次の大王である継体天皇に使臣を送って(よしみ)好をつうじたとあり、百済との関係の深さが認められる。

弥生時代から古墳時代にかけて、倭から見た朝鮮半島の国々からの文化やさまざまな技術が伝えられた・・ある意味では一方的な交易が論じられてきた。

朝鮮半島の国々にとっては倭はどんな存在だったのだろう。
百済・新羅、高句麗・加耶は遠交近攻の激しい政治と軍事闘争に明け暮れていた。
倭国はすべての国にとって遠交近攻の遠交の対象となった。倭との交流は他国との関係でも誇示できる政治的活動だったのである。 一方的な交易が400年間も続くわけではないのである。

いま、次のツアーの準備で古市古墳群を歩いている。ついでではあるが、百済の影響があるという柏原市の高井田山古墳を見学してきた。榛原石の板石で作られた桜井の古墳にそっくり、百済の影響だったのか。

同じ場所で、100年くらい時代が下がってから、岩盤を掘った横穴式石室も見てきた。
安福寺古墳群も見学、これはこれですごいな・・・
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高井田横穴群

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安徳郡横穴群

# by koza5555 | 2017-06-03 22:28 | 大阪とか京都とか | Comments(0)

修験者の道 大淀町

大淀町に用があった。相談は早めに終わったので、大淀町を探索してみた。

吉野の入り口として大淀の役割は大きくなるばかりである。それは産業であり、医療であり、文化の継承である。今日はそんな難しい話ではなく、少し楽しく大淀の街道をか考えてみた。

大淀には、吉野川に沿っての東西の道があり、飛鳥から芋峠を越えてくる南北の道が知られているが、巨勢から入る修験者の道も良く知られている。今日は、これを歩いてきた(車で)。

修験者の道、吉野口から入ると、まずは今木(いまき)である。泉徳寺に接した蔵王権現堂。レリーフの蔵王権現が祀られているが、仁王門の金剛力士像がすごい。阿形、吽形で一対をなす3mほどの木像である。山門を守る金剛力士像は吉野郡では金峯山寺蔵王堂とこちらだけとのことである。
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ちなみにこちらの泉徳寺の門前には、高野山 役行者 一の行場と石碑が建てられていた。

今木がから車坂峠を上り詰めると(今は国道から500メートル以上の厳しい坂道を登る)石塚遺跡である。修験者たちが小石を一つ一つ持ち寄ったという伝承である。
石塚もツタが絡まり、青草が生い茂って、石塚には見えないけど・・・・
石を貼り付けたのではなく、石を積み上げたものらしい。
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吉野川沿いの鈴ヶ森行者堂。元の大淀病院の南にあたる。こちらの行場は石塚遺跡から移転してきたと言われた。6月1日は下渕行者講の護摩供養。解禁となる鮎の供養もするとのことで準備中だった。
こんなポスターで、「大峯登山一之行場」とあった。
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最後の柳の渡し・・・こちらも一之行場というか、靡(なびき)の最後、75番の靡とされる。
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一之行場があちこちにあったが、大淀は吉野川を前にして、「さあ、修行だよ」の場だからこそのことで、それぞれがそれぞれのいわれで、一番の資格があるんだろうとおもえる。
天工の具合で斜視は撮れなかったが、金峯山寺はあちこちから見えるのである。

最後に世尊寺跡(比曾寺)を訪れる。みやま大山レンゲ、季節的にはギリギリだったが、素晴らしい花をみることができた。八経ヶ岳、遠くになりにけるで、ここで楽しめた。
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大淀町の発行する、「歴史;文化遺産」、これは役立ちます。

# by koza5555 | 2017-06-01 22:26 | 橿原・明日香・吉野 | Comments(0)

うましうるわし奈良 談山神社

桜井市の多武峰、談山神社がJR東海の「うまし うるわし 奈良」キャンペーンに登場、名古屋以東で大々的にスポットライトを浴びている。
ポイントは世界唯一の「木造十三重塔(重要文化財)」と「青もみじ」。あわせて「如意輪観世音菩薩」(神廟拝所)や 国宝の「粟原寺三重塔伏鉢」の特別公開(拝殿)が行われている。

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拝殿の回廊にて


粟原寺三重塔伏鉢に注目したい。
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展示場の前には、訓読のパネルも示されている。

寺壱院の四至
東を限るは竹原谷の東の岑(みね)
南を限るは太岑
(西を)限るは樫村谷の西の岑
北を限るは忍坂川

此の粟原寺は、仲臣朝臣大嶋が持統天皇の時、草壁皇子の御為に、敬みて造れる伽藍なり故(かれ)、比賣朝臣額田、甲午の年を以て始め、和銅8年に至る合わせて廿二年中、敬みて以て三重の寶塔に七科の鑪盤(ろばん)を進上す仰ぎ願わくは、此の功徳により、皇太子の神霊、速やかに菩提の果を証せんことを

願わくは七世の先霊、共に彼岸に登らんことを
願わくは大嶋太夫、必ず仏果を得んことを
願わくは合識に及ぶまで正覚を成さんことを


草壁親王の追福の為に仲臣朝臣大嶋(中臣大嶋)が誓願し、甲午(694年)年に比賣朝臣額田の手で着工し、和銅8(715)年に伽藍が完成。伏鉢を三重宝塔の相輪の第7層にこしられたと記されている。

この伏鉢、通常は奈良国立博物館で展示されているが、現在は談山神社の拝殿に展示されている。「うましうるわしキャンペーン」中の7月31日までの展示である。

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大和国粟原寺三重塔伏鉢(和銅8年 715年と明示される)


近くで見られる、写真が撮れるで、こんな得難い機会はめったにない。
この夏、ぜひとも談山神社にお出かけください。

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如意輪観音像
6月25日(日)、午前11時から観音講祭が開催される。
多武峰、妙楽寺は明治初期の廃仏毀釈の嵐のなか、数多くの仏像がことごとく流出、廃棄されてしまったが、そのなかでも残された仏像が、神廟拝所に置かれている如意輪観世音菩薩である。残された経過が不明で、公開もされてこなかったが、今年は7月31日までは公開となっている。
談山神社はこれを公開して、現在は祭も行っている。第四日曜日の開催で、今年は25日となる。談山雅楽会の奏楽もあり、楽しみである。今年はうかがうこととしている。みなさんも、ぜひ、おいでください。

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# by koza5555 | 2017-05-28 23:04 | 桜井・多武峰 | Comments(0)

筒城宮の家蚕、纒向遺跡の天蚕

継体天皇の足跡をたどって筒城宮跡(京田辺市の同志社大学)を訪ねる。
仁徳天皇と石之日賣命(磐之媛・イワノヒメ)をめぐる記紀の筒城(筒木)宮がダブってくる。

同志社大学の田辺校地には、宮跡を掲揚する石碑が二本、建てられている。

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左が、地元の筒城宮跡掲揚会が同志社国際高校に立て、その後、この地に移転した。
右は、三宅安兵衛さんが関係した「継体天皇皇居故跡」碑。多々羅に立てられた(1928年)が、同志社国際高校に移転(1960年)、その後、掲揚会の碑と合わせて、大学敷地に移転(1986年)されたと記されていた。

三宅安兵衛さんは、この地でもう一本、記念碑を立てていた。
「日本最初外国蚕飼育旧跡」という石碑である。大学から1キロメートルくらいの多々羅西平川原。オートバイの修理屋さんの前だった。
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仁徳天皇とイワノヒメに関わる家蚕のお話である。
天皇と矢田若郎女との仲を、「大(いた)く恨み怒りまして・・・堀江をさかのぼり、河のまにまに山代に上りいでましき」、「山代より廻りて奈良の山口に到」り、「暫し筒木の韓人、ヌリノミの家に入りましき」とある。
天皇からの使いにヌリノミたちは、「一度は這う虫になり、一度は殻(まゆ)になり、一度は飛ぶ鳥になって、三色に変わる珍しい虫を見に来ているだけ」と答える。
天皇は「しからば吾も見たい。見に行こう」と出かけてくるが、やはり首尾はうまくいかないというくだりである。
古事記には養蚕のことがこんなふうに描かれている。

百済から蚕が持ち込まれ、飼われたのが、筒城の地として、これを記念する碑が立てられている。
同志社大学(田辺校地)から1キロくらい、すぐそばであるが、「日本最初外国蚕飼育旧跡」と刻まれている。
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「碑隠 昭和三年春 京都三宅安兵衛依遺志建之
この碑は、昭和3(1928)年京都に住む篤志家により建立されたものである。 多々羅には百済からの帰化人たちが豪族の奴理能美(ぬりのみ)を中心に住み、養蚕と絹生産を営んでいた。「古事記」の仁徳天皇の条によると、仁徳天皇の皇后・磐之媛(いわのひめ)が、この地に住む奴理能美の邸宅を宮室として居住され、“一度は這う虫になり、一度は殻になり、一度は飛ぶ鳥になって、三色に変わる”という珍しい虫(蚕)を見たとの記述がある。 この物語を根拠として、外国から蚕が持ち込まれ初めて飼われたのが、筒城の地であり、それは古代から商業が栄えていた多々羅であると考えられている。」(
京田辺市観光協会)

ところで、魏志倭人伝に「蚕を桑で飼って絹を作る」というくだりがある。
「禾(か)稲(とう)・紵(ちょ)麻(ま)を種(う)え、蚕桑緝(さんそうしゅう)績(せき)し、細紵(さいちょ)・緜(けんめん)を出(い)だす。」

纒向の天蚕のことである。
先日、奈良まほろばソムリエの会で、桜井市の橋本輝彦さんのお話を聞く会があった。「桜井市の埋蔵文化財センターがどんな仕事をしているか」のようなお話しだったが、纒向遺跡に話が及ぶことは必定で、その一つとして「尾崎花地区の巾着状絹製品」(槇野内)を語られた。
これは珠城山古墳のすぐ北側から出土した。布留0式あたりの地相から出たもので、邪馬台国の時代のものである。橋本さんたちは、あれこれ苦労して、これは天蚕(やままゆ)から手繰った糸で作られた平織りの絹布、その巾着であることを突き止めた、そんなことを話してくれた。
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魏志倭人伝に書かれたのは家蚕(やさん)だろうか。天蚕の可能性はないのだろうか。
そして、纒向には天蚕の技術はあったが、家蚕の技術は無かったのだろうか。
# by koza5555 | 2017-05-16 10:52 | 邪馬台国(やまとこく) | Comments(0)

継体天皇 『北風に起つ』

5月27日(土)は継体天皇(男大迹王)の足跡をたどるツアーである。
講師は奈良まほろばソムリエの会顧問の木村光彦さんが務める。僕は、まあ、添乗員で、皆さんを安全に連れまわす役。

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継体天皇が眠る今城塚古墳。石室は完全に破壊、撤去されてしまっている


男大迹王(おほどのおうきみ)は507年に樟葉宮で即位、511年に筒城宮に遷し、518年に弟国宮(おとくにのみや)に遷し、526年に磐余玉穂宮に遷す(日本書紀による)とあり、531年に没して現在の高槻市(今城塚古墳)、(宮内庁は茨木市の太田茶臼山古墳を継体天皇陵として祀る)に葬られたとされる。

一日のツアーでは、全てを回る時間はない。それでポイントを回ることにした。
継体天皇陵とされる太田茶臼山古墳(茨木市)と今城塚古代歴史館と今城塚古墳(高槻市)は、はじめに訪れる。
続いて、即位したとされる樟葉宮跡(交野天神社 枚方市)、続いて筒城宮跡(同志社大学田辺校地 田辺市)を訪問するツアーである。

樟葉での即位は異常であるが、24年間の摂津・山背で続いた宮も不思議である。
この地図を見ていただきたい。
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樟葉から筒城だから、大和に近づくが、その後、今日の長岡京辺りまで遠ざかってしまうのである。ここ等あたりの機微が分らない。

そこで、「北風に起つ -継体戦争と蘇我稲目」(黒岩重吾)を読んでみた。「困ったときには記紀やろ」という言葉もあるが、黒岩重吾の世界もなかなかである。
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黒岩重吾は、「男大迹王については謎が多い」としつつ、妃の出自を丁寧に触れていく。これが男大迹王の歩んだ道、勢力圏ということだ・・・という具合である。

皇后は手白香皇女であるが、樟葉で即位する前までの妃の出自を次のとおりである。
尾張、近江の三尾、坂田。息長、河内の茨田(まむた)などである。いかにも北方系で、男大迹王は近江の国で勢いを増す、尾張との連合が力を強めたとみるのが自然である。

さらに、男大迹王の即位のために大伴連金村らに擁せられた経過、平群臣との戦いが紹介されている。
男大迹王は着々と力を蓄えていくが、問題は筒城宮から弟国への撤退である。

筒城の宮跡。同志社大学田辺校地
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男大迹王の大和入りは遠のいたのである。越や近江、それから大伴連金村の力では、それが成し遂げれなかったということだろうか。

弟国宮の時代に、蘇我稲目や物部尾輿の力で、男大迹王は大王として大和入りが成功するのである。稲目と尾興は九州で勃興する磐井との戦いのために大王が必要だったとの思惑も語られる。

金村が引き立て、稲目と尾輿が盛り立てた・・6世紀の歴史を考えると見ても、これが妥当だろう。

樟葉、筒城、弟国、今城塚、楽しいツアーになりそうである。
ここをきちんと押さえると蘇我や物部を正確に知ることもできて、ひいては飛鳥時代の始まりをきちんと認識することができるのである。
申し込みを募りたいとこだが、バスは満席、40名の募集で42名もお客様を取ってしまって…オーバーブッキング状態であしからずである。

終りに継体天皇が即位したとされる樟葉宮跡。交野氏である。
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# by koza5555 | 2017-05-13 11:03 | 大阪とか京都とか | Comments(0)

50cm下の桜井  桜井市埋蔵文化財センター

桜井市埋蔵文化財センターの「50センチ下の桜井」は23回目。4月19日から10月1日(日)までの予定である。

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桜井市埋蔵文化財センター

さっそく拝見してきた。
「今回の速報展では、平成28年度におこなわれた発掘調査の成果を紹介します。昨年度は12件の調査を行い、大藤原京関連遺跡では弥生時代前期の土坑よりほぼ完形の土器が、三輪遺跡では中世の池状の遺構が確認されるなど、桜井市の歴史を読み解く上で重要な発見がありました。このように50cm下に広がる桜井市の新たな発見を速報として皆さんにお届けします。」(埋蔵文化財センター展示解説書より)

「大藤原京関連遺跡」が僕には興味深かった。場所は桜井ジャスコのすぐ西、上之庄である。この発掘の現場は、僕が夜のウォーキングでいつも通っているあぜ道沿いだったことから、「何が出たのか」と関心があった。
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こんな場所である

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発掘されたのは、弥生時代中期のほぼ完形の土器(土坑から)とか、弥生時代前期の多数の土器が発見されたのである。

弥生時代の上之庄の集落はすごかった。こんな時期、形の上之庄の集落は、西方の坪井・大福遺跡に連なる遺跡だろうか。
良く考えると、坪井・大福遺跡に先行する遺跡にも思えて、興味深いところである。

桜井市は大藤原京の東五条条間路推定値として、道路を見つけかったのだが・・・それはそれで、この土器も弥生時代後期の素晴らしい発見だぅった。


大福遺跡から発掘された銅鐸、纒向遺跡から出た大型建物、茅原大墓古墳から出た盾持埴輪に象徴される貴重な発見、発掘物も健在、展示されている。
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# by koza5555 | 2017-05-03 23:29 | 桜井・山の辺 | Comments(0)

中ツ道と橘街道・・ほうりうじみちとか小中ツ道

5月5日(金)午後7時から、桜井駅前のエルトの二階で「おもしろ歴史講座」でお話しする。
「中ツ道と橘街道」と題して、大福や東新堂などを集中的に考えてみた。この講座では、纒向、三輪、初瀬、多武峰などを繰り返して語ってきたが、桜井の西部の田園地帯を語っていないのである。

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中ツ道と橘街道

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今日は「小中ツ道」と「法隆寺みち」を紹介したい。

法隆寺道、法隆寺から三輪に行くのか・・・法隆寺・王寺・田原本、守屋、大西を経る道である。

こんなふうに「法りう寺みち」という石碑も残されている。

さらに三輪に向かわずまっすぐ南下、大福に至りそのまま、生田(おいだ)、上之宮を経る道は「小中ツ道」というらしい。
「大和国高瀬道常年代記」という日記を生田の高瀬さんが書いている。江戸時代のことだが、この中では、「ええじゃないか」とか「おかげまいり」が触れられており、生田がメーンストリートという感じで、どこからどこの道かなと考えていたら、法隆寺からやってくるこの「小中ツ道」が生田をぴったり通る。

こんな話をしようと思う。
地図もいっぱい作って・・・
ゴトゴトした話のようだが、これがとてもおもしろい話に出来上がった。

蔵堂の道標。村屋弥富都比売神社の南口に
西面  右 こうや道
西面  左 みわはせ道
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大西の中央、火の見やぐらにある。「中央の曲り角東側のもの」。現在地の道路を挟んだ南にあった。
西面 右 たった 法りう寺
南面 左 みわ はせ
北面 弘化三年午歳 五月吉(1846年)
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こんな小中ツ道(橘街道)はなぜできたか。それも興味深い。
「大福付近の古老も明治時代においても大福より下流地域の水漬きの状況・・。したがって村屋から比較的水害の少ない東の大泉・大福経由の道も多く利用された」(桜井市史下p475)
 米川や寺川の氾濫地域。最短の道ではないが、東側の高地(環濠集落が点在した大西、大泉、新屋敷、東新堂、大福)を通る道に変わっていったとみるのが自然である。

大福や東新堂のこと。弥生時代の坪井・大福遺跡。古代の壬申の乱。中世では南北朝のたたかいで、近世は芝村騒動と切り口が多い。話す僕もたのしみの講演が出来上がった。
 
5月5日(金)、出にくいこどもの日だが、午後夜7時、お待ちしています。
# by koza5555 | 2017-05-01 23:04 | 桜井市と安倍 | Comments(0)

弥生絵画 -人・動物・風景 橿原考古学研究所博物館

橿原考古学研究所の博物館は4月22日から6月18日の会期で「弥生絵画 -人・動物・風景」展を開催している。早速、拝見してきた。

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橿原考古学研究所付属博物館


はじめの展示は「弥生土器は梅原末治と森本六爾によって幕開け」がなされたとある。

森本六爾は大正13年(1924)に「原始的絵畫(かいが)を有する弥生式土器について」のなかで、…この土器を「日本で最古の自由絵畫、若しくは其の一つとして明らかな価値を有している」とし、描かれた鹿に対して「明確に且つ正確に特徴をあらわしていることに於いて一段と興味が深い」と評価しています。・・・・鹿が左向きに描かれていることから作者を「右利き」と想定したことや「日本芸術史上の最も興味ある序曲を形造るもの」と捉えたことは、弥生絵画研究の基礎となりました。
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左向きの鹿の写真。これは森本六爾が撮影したもの。あれこれの書き込みは僕がしました(笑)


森本六爾の野帳もすごい。これは、見入ってしまった。1927年頃の野帳とのことである。
絵画土器をスケッチして、そのイメージを絵にしている。左下の絵が土器のスケッチ。それを船の舳先とみて、船頭を描き、左右の団扇をオールとみて漕ぎ手も描くという洞察力を発揮している。
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森本六爾…すごすぎ

清水風遺跡(天理市・鍵唐古遺跡の北方)から、出た絵画土器に圧倒される。僕は全く分かっていないんだが、「鍵唐古からでました」と普通考えている絵画が、けっこう清水風からも出ているのである。
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坪井・大福からも鳥装の巫女の展示が出ている。鳥の羽を身につけ、両手を挙げる巫女の姿である。「坪井・大福遺跡は、桜井市側にすごいのがまだまだ埋まっているのでは」である。

展示品は270点、あれこれ関心のもちようで、それに合わせたあれこれのお宝がいっぱいだ。
弥生時代を絵画で見ることが出来る、「新作発見!弥生絵画」、ぜひご覧してください。図録も垂涎写真が満載である。

注意は二点。
展示品はほとんどが撮影できる。
いつもは65才以上は無料だが、この展示は800円の有料である。
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# by koza5555 | 2017-04-26 21:36 | 奈良 | Comments(0)

桜井市の環濠集落

桜井市の環濠集落を考えた。
桜井市の西部、北部には環濠集落が点在する。初瀬川、粟殿川、寺川に沿ってである。海抜でいえば80mくらいまでである。

奈良盆地の土地利用と河川の歴史を見てみると。
●奈良盆地は古代から肥沃な水田地帯と思われているが実態は違っていた。水田は3割、残りは荒れ地であり、畑として、あるいは沼地であった。川が管理できない、水が確保できないということだろうか。
●伏流水化を防ぐ河川の付け替え、水漬の農村の排水をすすめ(池の掘削、環濠の建築)、集村化(村への移住)がすすんだ。この営みにより、奈良盆地の水田の利用率は3割から9割まで上昇することとなった。

「壬申の乱」(672年)では、近江方の廬井鯨(いおい の くじら)が中ツ道を攻め下るという戦いが日本書記に記されている。大友皇子(弘文天皇)側の別将であるが、中ツ道で戦って 敗れた。
このクジラが敗走するとき、馬が深田に落ち進退が窮まったとあり、中ツ道周辺は低湿地状態であることもわかる。


ここで環濠集落である。作られた時代の背景や、土地制度の変遷と農耕の発達、集落の発生と発達、集落を取り巻く自然環境と深い関係を持っている。
始めに紹介したように、奈良盆地の集落は河川の流域に沿って作られた低湿地の集落が多く、環濠集落の起源の一つして、排水や導水など水利の面にその起源があるという論がある。
環濠は何となく、戦に向いていそうだが、まずは低湿地状態への対応が一番との見方である。

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桜井市東新堂の環濠集落の名残が鮮明である

その上に、それぞれの時代によって境界や水の争いがあったり、士豪の抗争などで、集落を自衛するために、村を掘りや竹藪、・堤防で囲むようになった。このような防御的な環濠集落は戦国の動乱の時期に発達した。
南北朝の戒重西阿の戦い、依拠した戒重や川井は環濠集落ではなく、とりでという見方である。

こんなことだから、桜井の環濠集落を無理無理分ければ、
防御的なもの  戒重、河合

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これが戒重陣屋(江戸時代だよ)と現在の戒重

防御と自然環境の両面  大福、上之庄、東新堂、大西、江包、太田、大豆越などがあげられる。

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東新堂

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上之庄

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大西

桜井の環濠集落の形態をまとめてみると
 東西南北の方向を示している(条里制に規制されている)
 道路割は袋小路とかT字形の交差点、
 東西南北の出入り口は一カ所、木戸口という。
 藪や樹木で覆われて見通しが効かない。
 周囲は堀、濠で取り囲み、内側は土塁、竹やぶなどで囲われていた。
 氏神は村の要の場所にある(砦的な役割を果たす場合も多い)


『桜井の古文化財 その3環濠集落』(桜井市教育委員会)から環濠の地図を借用した



# by koza5555 | 2017-04-22 10:24 | 桜井市と安倍 | Comments(0)

吉備と大福の芝村騒動

桜井の西部、大仏供庄(現在の大福、東新堂、上ノ庄)とか吉備、戒重を考えている。5月のカルチャーのテーマである。
ここらあたりは古墳もないし、有名寺院もないけど、古代から横大路、中ツ道という超一級の幹線道路が抜けていて、ざわめく史実がある。

今日は近代である。吉備の芝村騒動をもう一度、考えた。近隣の大福とか東新堂、阿部、谷とも合わせてである。

宝暦3年(1753)、十市郡の十市郡の九ケ村で、京都町奉行所に箱訴した。
箱訴は合法手段だったが、訴えが認められるまでは刈り入れをしないという戦術で、そこが幕府の逆鱗に触れた。
十市郡、式下郡、葛下郡の村役人にも取調べが広がり、江戸に呼び出されたもの221名、厳しい取り調べの中で獄死したもの40人以上という惨状を示した。

この地域の吉備村からは8名が呼び出され、
平兵衛(藤本)、甚治良(竹田)、平治良(岡橋)が牢死
長八(高井)、庄蔵(松井)、新五郎(森本)、又四郎(吉崎)、甚五郎(吉本)の5名が帰還している。
吉備の森本家、吉崎家、吉本家は帰村したご子孫である。

幕府の天領となっていた十市郡、こちらを芝村藩が年貢を代収していたが、この取り立てが苛烈を極めたこと、それを訴えたことに芝村騒動は始まった。
江戸時代の年貢の取り立ては一般的にも厳しいものではあったが、十市郡はと複雑な事情をはらんでおり、特別に厳しい取り立てが行われていた。

検地のさいに実際の面積以上の年貢がかかっていたのが十市郡の村々である。実際の農地の広さ以上の年貢がかけられたという。いわゆる「畝詰り」といい、見地台帳が課題なのである。

これには経過があった。
郡山藩が柳沢忠明の時代(1619年~1639年)に、藩の格をあげるためだけで12万石を15万石に変えた(15万石以上が大藩とされた)という歴史があった。農地は増えていないのに、郡山藩のすべての農地は台帳では2割5分増しの面積に変えられた。郡山藩の時代はその事情が判っていて、割り増し分には無税だったが、郡山藩が8万石に減らされ(1679年)盆地南部の領地が天領に変わってから、これが問題を引き起こした。旗本はこの2割5分増しの年貢を要求したし、代収の芝村藩はこの2割5分からも徴収したのである。

この表を見ていただきたい。
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1620年ころ。吉備は2割5分は課税されていない。ところが天領となり、芝村藩預かりになった時に、これが頭を持ち上げた。
吉備村は651石770だったが、突然、814石713に変わった。土地が広くなったわけではなく、収穫が増えたわけではない。
大福村・新堂村と比べれば、よく分かる。江戸時代の石高、年貢というのは耕地の変化、作の変化には関係なく、村にかかる税金である。

吉備村は、五公五民なら325石の年貢。ところが2割5分増しだと407石の年貢で、村の取り分が244石。62%の年貢である。それ以外にも二毛作の麦や菜種にも税はかかるのである。村は行き詰まり、自立の農民の没落が始まるのである。

これは、大福や東新堂には見られない状態だった。この表には欠落しているが、東新堂の多賀領は140石が途中から3石に減ってしまうということさえあるのである。天領、芝村藩預かりの吉備村の苦しさに思いを寄せたい。

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吉備村(吉備区)は今でも、毎年、供養祭を行っているのである


『芝村騒動と龍門騒動』(上島秀友著)と『郷土』(広吉寿彦著)を参考にしました。
# by koza5555 | 2017-04-20 22:00 | 桜井市と安倍 | Comments(0)

倭文、加守神社のオンダ

二上山の登山には、近鉄の南大阪線の二上山口駅が一番の近道。駅から二上山の雄岳に一気に登る道がある。
その登山口に、倭文(しとり)神社が鎮座する。相殿には加守(かもり)神社と二上神社がおかれる。

加守地区の氏神さんである(氏子地域は広くて加守、畑、狐井など9ヶ村の郷社ではあるが)。

こちらのオンダ祭が珍しい所作、行事で有名である。内容はおいおい紹介するが、祭は4月15日の直前の土曜日に行われる。今年はそれが15日(土)ということになった。

オンダ祭とは農耕作業の所作を行い、天地に今年の豊作を祈る行事である。
畔をつくり、田をおこして、田んぼに水を入れて、籾をまき、田植えをするという所作が順々に行われる。オンダには稲刈りはなく、所作は田植までである。
牛が元気に働きますように、水がありますようにという行事である。

所作にはそれぞれの特徴があり、広瀬神社は「よく雨が降るようにと、雨に見立てて砂をまく」ことで有名。その直近の川西町の六県神社のオンダは「よく雨が降るように」と雨に見立てて、こちらは子供がまかれる。正確には、所作のたびごとに子供が大人にのしかかる(雨と風)という行事だ。
オンダの行事は、真剣さ、おかしさで、どちらの社も工夫は切実だ。稲作のために一番大事な播種と田植えの無事を祈る行事だからだろう。

午後一時から祭典。こちらのオンダの珍しいことは、小学生が行事の主役で参加すること。加守の6年生から選ばれるということで、今年はA君とY君がその役割を担った。

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玉串奉奠を行う小学生

2時ころからオンダ行事が始まる。

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境内に竹を立てて仕切ったオンダの場に牛、農器具を降ろす

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畔造り

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牛が鋤を引く

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田植だ

このあとに牛が出産するという所作がある。これが独特である
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産まれた子牛はすぐに飛び回る

オンダ祭りの子牛役を地元の小学生(宮本の加守の男の子)が演ずる。生涯に一度の子牛役だが、練習は一回だけである。

オンダに牛はつきものだが、その牛が子供を産むというのは、全国的に珍しいとのことである。産婆の助けもいる。獣医です。これも、実はこちらの神社の祭神に関わる祭らしい。

こちらの祭神は「葛木倭文座天羽雷命(かつらきしとりにいますあめのはいかづちのみこと)」である。加守神社が相殿で、こちらの名前は地名になっているので、加守神社の方が名は通っている。
倭文神社は、天照大神の御衣を織った天羽雷(あめのはいかづち)命を祀っている。織物の神で、斎部広成(ひろなり)が書いた『古語拾遺』にきちんと紹介されている。

相殿の加守神社は、神武天皇の父の生誕時に産室を掃き清めたという天忍人命(あめのおしひとのみこと)を祀っている。掃除というより産婆の役割を果たしたともいわれる。

こんな風に産婆の神としての石碑も立てられていた。牛が生まれる、産婆がいる・・オンダにその姿をあらわしている。
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産婆石塚氏の碑と記されている。神社の門前に立てられている

# by koza5555 | 2017-04-19 20:19 | 橿原・明日香・吉野 | Comments(0)

大伴一族(とくに吹負)と中ツ道

5月5日(金)の午後7時から、桜井駅前エルトで、「中ツ道」をお話しする。
壬申の乱の頃の中ツ道。
南北朝のころ、戒重西阿の中ツ道。
近代、近世の中ツ道をお話ししたい。

始めに道の起源、そして壬申の乱の頃の中ツ道である。
『道が語る日本の古代史』。近江俊英さん。これがむちゃくちゃに面白い。
まずは大伴氏族を考えねばならない。中ツ道はそうなのである。

大伴氏というと、大伴旅人や家持といった歌人が著名である。しかし、本来、大伴一族は軍事を司り、武烈天皇の時代には、大伴金村といった著名な将軍も輩出している。
それにしても大伴氏ほど、浮き沈みの激しい一族も珍しい。
欽明天皇の時代、大伴氏は天皇家の家臣の中では筆頭の位である大連を出す家柄であったのに、大伴金村が朝鮮半島政策で失敗したことにより失脚。蘇我、物部の争乱のさいには、蘇我方につき再び力を得るが、天智天皇の時代にはさほど用いられた形跡はない。天智天皇の近江遷都にも、大伴一族の代表者であった大伴馬来田、吹負兄弟は、大和に残留したいたようである。
そこで乱が勃発した。兄弟は一族の浮沈を賭けて、大海人皇子側に味方する。
『道が語る日本古代史』(近江俊英)

「神武東征」での大伴の活躍を引くまでもなく、近江さんは有史の範囲で、とても上手くまとめられている。
かくして壬申の乱、大和での戦いは幕を切って落とされたが・・・・大伴吹負は負ける。

戦った道は、稗田 →乃楽山 →墨坂 →金綱井 →当麻衢(ちまた)
金綱井で神託が届けられるのが契機となる。
実質は大和から宇陀の墨坂まで逃げ出すが、そこで東国からの援軍、兎(おきそみめのむらじ うさぎ)軍と出会うことが勝利の土台、勝利の出発ではあるが。

大伴吹負は3人の神の予言を受ける。
神は許梅(しこめ)に憑依する。
高市社(橿原市雲梯 うなて の河俣神社)と
牟佐坐神社(橿原市見瀬)の神からの神託である。 
許梅には、神武天皇陵に馬と兵器を奉納するように命じた。

もう一人の神は村屋神(田原本町蔵堂)に、こちらは神官に憑依した。

それぞれ西から来襲する、あるいは中ツ道を攻めてくるという託宣である。


こんな図である。すべてが一目瞭然である(『道が語る日本古代史』p80)。
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すごい地図である。全部入っている。赤丸と赤字は僕が記入した


神社とか、碑を見てきた。

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金綱井は横大路沿いと考えて、小網町の入鹿神社付近と考えた。こちらは境内の大日堂だ


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高市神社は雲梯の川俣神社


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牟佐坐神社

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牟佐坐神社境内は孝元天皇の軽境原宮址とされ、碑が建てられていた

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神武天皇陵・・天武天皇の時代は、「神武天皇陵はここ」と決まっていたんだな。託宣があれば、大伴吹負はすぐ祀に出かけられたのだ。その場所はこちらだったんだろうか・・・

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大伴の竹田庄は、中ツ道沿い。これなら、大伴の村屋のたたかいはホントの地元の戦いだったんだ・・・こちらは村屋坐弥富都比売神社

中ツ道、これは大伴の決断を考え、大伴の飛躍を考える道なんだな…面白そうである。
中ツ道、こんなテーマでも面白くなりそうである。
5月5日、桜井駅前、エルト・・第4研修室、期待してください。
# by koza5555 | 2017-04-14 23:01 | 橿原・明日香・吉野 | Comments(0)

「桜井の古墳」桜井東ふれあいセンター  

「桜井東ふれあいセンター」(初瀬寺駅の付近)で、4月18日(火)午後7時から、「桜井の古墳」をお話しいたします。


こちらのセンターは毎月、「地域ふれあいセミナー」を開催していますが、2017年度の第一回目に僕を選んでいただいた。「わかりやすい解説で楽しいお話し」だからと、毎年、呼んでいただいている。

今回は、桜井の古墳を丹念にたどりながら、「古墳を作った人」、「作らせた人」、「その時代に思いを寄せる」、こんなお話をしようと考えた。

これは桜井じゃないけど…奈良の野神古墳。今度のテーマで「阿蘇ピンク石」を取り上げるが、そのうちの一つである。大安寺の近くで・・・京終とか、大安寺に行かれたら、ぜひ、どうぞとおすすめしたい。
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奈良市京終の野神古墳、石棺

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掲示もじっくりみてほしい
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いまは、こんな街中だ。先は高円山


今回は、僕が見学してきた桜井を中心にした(天理や奈良もすこし)古墳を、丹念に紹介する。
ポイントは立地とか、形とか、横穴石室であれば作り方とか、そして、今回は石にもこだわった。
たとえば阿蘇ピンク石である。浅古の兜冢古墳は有名だが・・・・
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阿蘇ピンク石。桜井と天理には特殊に多い。この石の産地は始めは二上山とみられ多らしい。「二上山ピンク石」と言われたりした時期もあると知った。1991年、九州の宇土半島の石がピンク石と分り、阿蘇ピンク石と言われるようになったとのことである。
僕などは、深く考えることもなく、赤っぽい石棺を見ても、「水銀朱を塗ってあるんだろうか」・・くらいだったが(笑)。

こんなことを究明したのは倉敷の真壁忠彦さん。『石棺から古墳時代を考える―型と材質が表す勢力分布―』という本がある。あちこちの古墳で使われたピンク石の産地は熊本県の宇土半島だと証明された。


三輪にもピンク石の石棺石が残されている。
有名なのは箸中の慶運寺の石棺仏。金屋の石仏堂の床下のピンク石もおもしおろい。山の辺の道の金屋の石仏は石棺の蓋(泥岩)に釈迦如来と阿弥陀如来が彫られていて有名である。重文指定で評価も高いが、そのお堂の床下にも、石棺の残されていて…それが阿蘇ピンク石。
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床下もみて

そのまま、石室の中に残されているのは、東乗鞍古墳 (天理市杣之内町)で、くり抜式家形の石棺が残されている。

奈良にもある。野神古墳というが、これは佐紀盾列古墳群じゃなく、大安寺の近くの南京終である。
高槻の今城塚古墳歴史館に展示されている、見つけてきたばかりの石棺の残石・・・・も昨年、報道されたばかりである。
阿蘇ピンク石ばかり、辿ってもなかなかjのものである。

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看板通り、わかりやすく、楽しくおもしろい、こんなお話である。
入場は無料で、30名ほどの会場。残席はわずかだが、おいでになりませんか。
突然でも対応できますが、資料の印刷もありますので、お電話をいただけると助かります。
連絡先は0744-47-7026(東ふれあいセンター)まで
# by koza5555 | 2017-04-13 09:17 | 桜井・初瀬 | Comments(0)