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奈良・桜井の歴史と社会

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宇陀市で古事記

今日は宇陀市宇賀志(穿)の兄うかし(エウカシ)と弟うかし(オトウカシ)の兄弟のことである。
カムヤマトイワレヒコ(神武天皇)の東征に大和で最初に対峙した兄弟の話である。
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始めに関係地図を見てほしい
菟田の高城はイワレヒコ東征軍の城、宇賀神社・血原橋は兄ウカシの無念の地、聖蹟碑はイワレヒコと弟ウカシの勝利の記念碑である

古事記・日本書紀によればカムヤマトヒワレヒコ(神武天皇)が宇陀に入り、菟田の高城を築き、初めに戦った相手は菟田の兄ウカシである。
県庁の谷垣裕子さんは「菟田野の宇賀神社は、侵入した神武天皇側に殺された兄ウカシを郷土の英雄として祀る」と講演された。二月のまほろばソムリエの会の学習会だった。ぼくは、この言葉がそれ以来、頭から離れない。

宇賀志の入り口には神武天皇の足跡として菟田穿邑(うだうがちむら)聖蹟碑がある。これは神武天皇に協力した弟ウカシの足跡でもある。
そして、宇賀神社は兄ウカシを祀るという。
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左は神武天皇菟田穿邑聖跡碑 右は宇賀神社。それぞれ弟ウカシ、兄ウカシを祀ってあると僕は勝手に考える

それは僕の想像だが、
実際、地元では兄ウカシと弟ウカシをそれぞれどのように祀っているだろうか?
その関係はどうだろうか?
そして皇国思想一筋の戦争前は「兄ウカシ」をどのように祀ったのだろうか?

僕は記紀(古事記・日本書紀のこと)も考えながら、現代の状態、今の人の受け止めも合わせて、「宇陀の神武東征の攻防」の話をしたいと思っているのだ。

そんな疑問で、まっしぐらに宇賀志(穿)に飛び込んだ。
宇賀神社の地元の中尾忠玄さん(菟田野のボランティアガイドの会長でもある)にお話が聞けた。

聞いてみると驚く事実がある。見る、聞くが大事である。
中尾さんはいう。「兄ウカシを祀る神社と新聞でも報道されたら、地元からお叱りが出た」。その方たちは戦前に「宇賀神社の祭神は弟ウカシであると学校で習った」とのことである。
中尾さんは「もともとは兄ウカシが祭神である」と言われる。文献的な裏付けはないが、侵略者に手を貸した弟ウカシを祀るはずがない」と言い切られていた。

あの神武天皇に関る聖蹟碑を全国で建てて回った時代に、兄ウカシを祀ることは確かに難しかったと思う。
聖蹟碑が宇賀神社と一㎞も離れて建てられた理由もいろいろと想像をかき立てられる。

神社から100mも行かないところに、兄ウカシが作ったという大殿(仕掛けつきの対談の殿)の跡という場所が掲示されていた。小山があり「ヲドノ」という小字が残っている。神話(?)と小字名などが混然一体となっているところがものすごい。

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大殿跡の伝承地
by koza5555 | 2012-09-13 00:02 | 宇陀
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