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奈良・桜井の歴史と社会

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八咫烏と雑賀一族

日本雑賀一族会の総会の案内ハガキが出てきた。
1972年8月だから40年前のもので、オヤジ(妻の父)が出席している。
榛原で総会を開き、八咫烏神社で記念撮影を行い、榛原に戻って宴とある。

ところで雑賀一族の家紋は八咫烏・・・
八咫烏と雑賀一族_a0237937_627565.jpg
雑賀一族会の画像をお借りしました

雑賀一族は紀州本宮の出とあり、和歌山の雑賀崎にて、国人(武人、商人、農民を兼ねて)として勢を為したと言われる。それで熊野権現を祀り、八咫烏を家紋にしたとのことである。
神武東征の道案内の八咫烏が家紋かあ。これは知らなかった。
日本サッカー協会のエンブレムは八咫烏だから、いわば家紋同じの同族だあ。

雑賀党、戦国時代は鈴木孫一に示される鉄砲衆であり、当時の先進技術者集団であった。根来寺において豊臣秀吉により、壊滅的打撃を受け、僧侶は長谷寺に移り、雑賀党は各地に散った。この雑賀党に目を付けたのが徳川家康で秀吉に隠れて、各地で雇い入れていった。それで松江や徳島には雑賀町があり、各地に雑賀さんがいることになる。
松江などの評判は、「雑賀さんは足軽だが、江戸時代から熱心に勉強して名を成した方が多い」と聞いた。

そこで日本雑賀一族会(いまは活動していない)である。

おやじ(妻の父親)は和歌山、海南市である。昭和10年に桜井に入り、製材を習い、小割というが、木工業を始めた。根来塗の材料つくりで、木地(木目のでたままの材料)を造り、和歌山に送ることが収益の柱だった。
父は生っ粋の雑賀党である。

八咫烏と雑賀一族_a0237937_6301099.jpg
雑賀崎から紀伊水道をみて。昨夏

紀国の雑賀の浦にいでみれば、あまのともしび 波の間に見ゆ
      (巻7-1144)   藤原卿 (麻呂を指すといわれる)
by koza5555 | 2012-09-18 00:13 | 桜井・初瀬
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