談山神社、一の鳥居を出て三本目の丁石を越えたところに穏やかなお顔の釈迦石仏が座られている。聖林寺の下である。
先日、ガイドした名古屋のSさんと聖林寺を訪ねた。
少人数であったから、日程はハードに組んだ。天理で会い、崇神天皇陵、食事は寿司政のランチ、宇太水分神社、艸墓古墳、安倍文殊院、聖林寺である。
ちょっと順序がおかしい所があるが、それはそれなりの理由はあった。
今日は聖林寺の子安延命地蔵とその周辺のことを書きたい。
聖林寺と言えば、フェノロサ、和辻哲郎、會津八一、白洲正子とすべて十一面観音である。天平時代の木芯乾漆像であるからそこに注目が行くのは当たり前である。
しかし、「待ってね」である。本堂、正面は子安延命地蔵である。
僕が始めに拝観した時は十一面観音はすでに現在の観音堂だった。30年くらい前だと思うが。お堂に入ると、まずは本尊の子安地蔵である。そのときの驚きは今も鮮明である。「この石像は?」である。
聖林寺。山門から。一幅の絵である
今日はこの子安延命地蔵である。
奈良に来てから勉強した。聖林寺のパンフレットも簡明である。「本尊は、元禄時代に造られた丈六の大石仏。安産・子授けの祈願として有名です。左右の掌善・掌悪童子と共に地蔵三尊の形式をとっています。」とある。
「江戸時代は元禄(1688年~1704年)の末に・・石工―但馬の佐助に命じ巨大な地蔵石仏をつくり本尊として安置し、享保20年(1735年)本堂を改築した。明治維新まで妙楽寺の末寺だった」(桜井市史)とある。
この子安地蔵の兄弟が多武峰街道にお座りになっているという話が今日のテーマである。
談山神社の一の鳥居は桜井市浅古にある。
ウォーキングのガイドの下見の時、「一の鳥居からしばらくの所に大仏石像がある。大らかで素晴らしい仏だ。由緒が知りたい」とのことである。
下(しも)との境の浅古(あさご)に迦石仏がある。八講堂のひとつ、大日寺が関係しており、街道の東側にお座りになっている。「仏身体の左右の後背に彫った銘文から」宝永7年(1710年)の作である(桜井市史)。
聖林寺子安地蔵は1704年までに作られ、この釈迦石仏は1710年作とのことである。
地元では「この釈迦石仏は聖林寺の子安地蔵のあまり石で作った」と言われている。
どう思われますか。
子安地蔵の画像はないけれど、想像力を働かせて考えてみてください。
聖林寺本堂前
名古屋のSさんにはとっても、喜んでいただけた。
古墳に入れたこと、念願の宇太水分神社を見学できたこと、文殊菩薩を誉め、聖林寺のたたずまいすべてに感激されていた。こんな感想をいただくと、ガイド冥利につきる。