明日香村が2月2日、飛鳥寺西方遺跡の発掘現場見学会を開いた。
飛鳥寺の西方、甘樫の丘の間である。いわゆる入鹿の首塚という五輪の塔の足元から西に掘られていた。
遠方は甘樫の丘、手前が五輪塔の塔370平方メートルの発掘だが、過去最大の広さの石敷きが見つかったとのことである。
この地域は、「飛鳥寺西槻」として日本書紀にも登場する。
「斉明天皇の時代には、飛鳥寺に西に須弥山の像をおいたと記されています。その後、壬申の乱の時には飛鳥寺西の槻の樹の下で飛鳥を守るための軍営が置かれたとあります。天武・持統天皇の時代になると、蝦夷や隼人・・辺境の人々を飛鳥寺西槻の下に大勢招いて饗宴を催した場所としても描かれています・・・これらの記事から飛鳥寺の西には槻の樹があり、大勢の人が集まる『槻樹の広場』があったと考えられています」(明日香村、報告会パンフレット)。
見逃せない発掘現場報告会である。
明日香村パンフレット明日香村、教育委員会の長谷川透さん。軽いステップで報告する。今日は主人公、晴れ舞台である小石が敷き詰められている。一部に大きめの石(約20センチ程度)を敷いた部分もあるが、そこには直径約1・5メートル、深さ約40センチの穴が掘られている。用途は不明で、その時代、もしくは後世に掘られたものとのことである。
橿原考古学研究所の発掘と合わせてみると、広場は飛鳥寺の西側、南北約200メートル、東西約120メートルの広さである。
談山神社の蹴鞠のことも考えた。
日本書紀には、「中臣(藤原)鎌足は専横を極める蘇我蝦夷、入鹿の親子の打倒を考え、中大兄皇子(天智天皇)と近づきになることを考えていた。そのチャンスは法興寺(飛鳥寺)の槻の樹のもとだった。中大兄皇子が鞠を打つ、そのとき沓が抜け落ち、鎌足が拾う。ひざまずき差し出すと中大兄皇子もひざまずき受け取った」(意訳)と記されている。
この槻の樹の広場は間違いなく存在していたのだ。