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奈良・桜井の歴史と社会

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長谷寺、ダダ押しの印とは

長谷寺の歴史を考えるうえで、ポイントとなるビッグネームを考えた。

一人目は長谷寺を創建したという僧、道明である。法華説相図の解明から天武朝のころ686年に本長谷寺と呼ばれている西の丘に三重塔を建立したという。

二人目は十一面観音を作った徳道上人
続いて727年に徳道上人が東の丘に十一面観音像を祀って開山したという。
    
三人目は今の長谷寺の形を作り上げた専誉僧正(せんよしょうじょう)である。秀吉に滅ばされた根来寺の頭職だったが、豊臣秀長が初瀬に招いて300石の寺領を与えた。1587年のこと。長谷寺はその時に興福寺から離脱し、真言宗豊山派を唱えることなった。
徳川幕府もこれを庇護し、三代家光が観音堂、4代家綱が大講堂、5代綱吉は500石に加増したという。
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長谷の町と長谷寺

江戸時代を通して隆盛を重ね、1828年(文政11年)には、長谷寺には235人が居住し、その内訳は僧侶47人、侍10人、下男78人などとのことである。
その後も学問寺としての役割を弱めることなく現在も専修学院生が8名、僧職の資格がある研修生が8名、長谷寺で学んでいるのである。正午と午後8時にほら貝を吹いたり、咆哮する人たちはこの学生たちである。
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巳の刻とて貝吹き鐘つくなり、である、正午には今も毎日ほら貝が吹かれる

14日に迫ったダダ押しとの関連で徳道上人のことをもう少し触れてみたい。
徳道上人は亡くなってから、閻魔王に会った。
閻魔王は「ちかごろ極楽に行くもの少ない。地獄に来るものは多く、それは夕立の雨の如く」で忙しいと嘆いたとのことである。閻魔王に「もう一度戻ってキチンとしてきてくれ」と徳道上人が頼まれたという。
「浄土と地獄があることを教えよ」とのことで、徳道上人は現世に戻ることになるが「頼まれたという証拠をいただきたい」と告げると、閻魔王はこれが証拠と「宝印」を渡してくれたとのことである。ダダ押しのとき、「午王札に押す印はその印なり」である。
by koza5555 | 2013-02-06 22:41 | 桜井・初瀬
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