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奈良・桜井の歴史と社会

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前川佐美雄

万葉集のツアーの準備で檜原神社に何回も通った。
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崇神天皇の時代、天照大御神を笠縫邑に祀ったという。これが檜原神社で伊勢への遷座後も祀り、「元伊勢」と今も呼ばれる。大神神社と同じくご神体を三輪山として、三ツ鳥居で禁足地を区切っている。万葉集では「三輪の桧原」と詠まれ、山辺の道の歌枕になっている。

この檜原神社の境内に誰しもが目につく形で大きな歌碑が置かれている。
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「春がすみいよゝ濃くなるまひる間の 何も見えねば大和と思へ」前川佐美雄である。

ツアーでは簡単に歌意を紹介しようと考えた。
「前川佐美雄って、何か知ってるの?オレ」と僕の奥深くから意地悪そうな質問が浮かび上がってきた。
こうなるともうダメだ。いろいろさがして、「歌の鬼・前川佐美雄」という本を見つけた。小高根二郎(おだがねじろう)という方が30年ほど前に書いている。
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佐美雄は明治36年(1903年)、南葛城郡忍海(おしみ)村(現葛城市)の広大な山林と田畑を有する素封家の長男として生まれ育った。林業の将来を見込んで祖父は佐美雄を吉野林業公学校に学ばせたが、その方向には佐美雄は進まなかった。しかし、植物への深い知識はこの学校時代に培われたことは確実である。

志貴皇子に共感する青年時代、佐々木信綱に師事し、大和に関わる数多くの歌も書き連ねた。
佐々木信綱は「大和の国は万葉歌人の故郷であるが、万葉以後大和に歌人の出ないのは不思議な現象だ」と薬師寺で講演したという。佐美雄はこの講演の速記をしている。速記をしながら佐美雄は恥辱にわなないたとされる。
もちろん大和の歌人といえば、「南山踏雲録」の伴林光平もいる。しかし彼は河内の人であり、大和の人とは言い難いとのことである。

佐美雄の生涯はこの言葉への兆戦で、歌人として歩むことを生涯の目的として生きた。これが小高根の論である。

佐美雄は役小角に共感したり、折からのプロレタリア芸術運動に参加する時期もあったがそれは一時期だった。

「春がすみいよゝ濃くなるまひる間の 何も見えねば大和と思へ」(昭和15年)

朝日の登場とともに、霞の内から山容を現す大和三山。その山影はやがて真昼間の盆地が吐き出す濃い霞に呑まれて、消えていくと歌である。
小高根は、「これが歌の覚知だ」という。佐々木信綱は薬師寺の塔、會津八一は唐招提寺の柱をへて大和を描いた。佐美雄は非具象の霞で大和を描き、「万葉以後大和に歌人なし・・」という佐々木信綱の指摘に応えたとされた。

伝記一冊読んだだけであるが、前川佐美雄、とても身近になった。
by koza5555 | 2013-04-13 00:27 | 読書 | Comments(2)
Commented by 鹿鳴人 at 2013-04-13 10:30 x
kozaさん。前川佐美雄さんを早速研究されてさすがですね。
前川佐美雄さんは奈良市坊屋敷町、奈良女子大学の南門のすぐ近くに長らく住んでおられました。(晩年関東へ行かれました)
息子さんも今歌人ですね。
Commented by koza5555 at 2013-04-13 23:20
鹿鳴人さん、ありがとうございます。坊屋敷のお宅は母方の実家の資産だったとあります。佐美雄自身が忍海に暮らすのが嫌だったこと、すでに戦前の段階で家計が成りたち難い状況が生まれ、奈良に移った模様です。不在地主化して農地解放の影響を強く受けることになりまし
た。坊屋敷が奈良女の当たりだとは知りませんでした。
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