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奈良・桜井の歴史と社会

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宇陀と北畠親房、新陽明院門墓

室生寺を訪れると本堂の西側に「伝北畠親房墓」という五輪の塔が置かれている。
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伝北畠親房の墓。(室町時代初期・国重文)

「本堂の手前西には、鎌倉時代末期の五輪塔(国重文)がある。『神皇正統記』(じんのうしょうとうき)の著者として知られる北畠親房の墓と伝えられ、大正時代(5年、1916年)に発掘調査が行われたが、墓の主は特定できなかった」(奈良県の歴史散歩下、山川出版社)。

北畠親房の墓・・・僕はこれに懐疑的である。
理由は簡単で、この五輪塔を北畠親房の墓と主張した北畠治房が好きではないからである。天誅組の生き残りの平岡鳩平、明治になってからの改名で北畠治房男爵のことである。
いわば、感情的な判断でもうしわけないが、「北畠親房の墓?」という質問を受けたことがあったが、軽くスルーしてきた。

その後も、宇陀郡一帯が北畠親房の領地とされたことがあると知ったり、福西(八咫烏神社の西である)にその墓地があるといわれていることも聞いたりする。どうも、北畠親房は避けて通れないテーマになってきた。

「北畠親房」(永峰清成著)という本があった。大和宇陀北畠親房公顕彰会が復刊した本である。この本を読んでみた。
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吉野山に行けば南朝の史跡は多い。ソムリエ試験の勉強としても必須で賀名生(あのう)皇居跡、吉野神宮、吉水神社、如意輪寺が大事だし、自天親王神社も訪れたことがる。
でも、畿内や伊勢とからめて歴史としてここらあたりが頭の中で十分、整理されていない。
良い勉強になった。

一つだけ書いておきたい。
桜井から東方を見ると、外鎌山(忍阪山)の先に大きく目立つ山が見える。少し見る場所を変えると長谷寺の南の山である。
山の名は「ダケ」という。固有名?と思って、地元の方に聞いてみたら、「笠間のダケ」、「安田のダケ」、「穴師のダケ」とのことで、ダケ登りの山だが、それぞれが登る場所に応じて、村の名をつけているだけだ。
この笠間のダケに上ったことがある。陵の横から上がっていく。
上がった当時は知らなかったが、この陵が「新陽明門院陵」である。
南朝、後醍醐天皇を継いだ後村上天皇(97代)の中宮顕子の陵とのことである。
この顕子は北畠親房の娘で、若くして天皇の元を去り長谷寺で出家、この地で亡くなったとのことである。
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この陵からは稲那佐山、そして福西が見渡される。著者の永峰さんはこの地に立って、その位置関係から福西の親房、笠間の顕子の墓所の所在の確信を得るのである。
ちなみに新陽明院門から笠間のダケを越えると、顕子が出家したという長谷寺である。
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by koza5555 | 2013-05-25 11:22 | 読書
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