今週の土曜日に奈良交通の9月の万葉ツアー(宇陀コース)の下見を行う。奈良交通に合わせて2人のサブ、2名のオブザーバーなどでけっこうな人数の下見となった。
コースは八木から榛原、西峠を経て阿騎野に入る。
初めが吉隠である。
これが元の吉隠小学校である
今日は廃校となっている吉隠小学校をまず紹介する。
明治7年に創立、日進館といったとのことである。明治16年にこの地に移り、現在も残されている校舎は明治17年に新築、明治41年、昭和35年に改築したという記録が残されている。昭和40年に廃校、初瀬小学校に統合された(桜井市史より)。
記録の範囲では、この校舎の大本は明治17年に建てられたものとのことである。
さて、ツアーのことである。
八木を出て、宇陀のことや万葉集のことを語りながら初瀬に差し掛かる。
出雲から穂積皇子と但馬皇女の愛、その喜びと悲しみを語る。
初瀬谷には多くの歌碑があるが、今日は2つの歌碑である。
まず出雲に但馬皇女の歌碑がある。
「人言を繁み言痛み 己が世に いまだ渡らぬ 朝川渡る」 巻2―116
(人の噂がうるさく身に突き刺さるが・・・・生まれてからまだ渡ったことのない朝の川を渡る)但馬皇女、708年没。母はヒガミの大刀自で鎌足の孫ということなる。
朝川渡る、これは事件だ。皇女が朝、川を渡って帰る、もしくは会いに行く。当時の婚姻の形態からはありえない話である。
生きている時には、この愛の歌の返し歌を但馬皇女は受け取れなかった。
誰に送られた歌か。それ穂積皇子である。
但馬皇女が亡くなってから・・
「降る雪は あはにな降りそ 吉隠の 猪養(いかい)の岡の寒からまくに」 (巻2-203)と歌った。
これがその歌碑である
吉隠というところは今でも雪がきつい所で、雪よ降るなという歌である。
出雲から長谷寺をこえた吉隠にその歌碑があり、但馬皇女墓は吉隠、猪養にあったと言われる。。
万葉集も、歌碑もまわりをよく見まわして、セットで語る、セットで楽しむことが大事である。