聖林寺の国宝・十一面観音像の来歴を調べて、産経新聞(7月19日)奈良版、「奈良再発見」にそのことを書いた。
桜井市 聖林寺
和辻哲郎は、古寺巡礼で「この十一面観音像は神仏分離・廃仏毀釈の時期に、草むらに打ち捨てられていたのを、通りかかった聖林寺の住職が発見して寺に安置したという伝承」を語っている(大正8年)。
拝観してみればよく分るが、この十一面観音菩薩像が、草むらで雨露にさらされていたものでないことは明白である。
和辻は、廃仏毀釈の激しい嵐を形容するために、こんなふうに記したと・・僕はいつも解説してきたのである。
でも、「それだけだろうか」。「そんなヒントを、誰が和辻に与えたのだろうか」、これが気になっていたのである。
そんなことを考えていたころ、地元の吉田製材の社長が、「聖林寺の十一面観音は桜井の橋本にいたと言われている」と、教えてくれたのである。
「聖林寺の十一面観音は我が家におられた」という、橋本の米田さん宅を訪ねたのである。お話を聞き、資料を見せていただいた。
なにしろ国宝の来歴のことである。関係する方にもご意見をお聞きして、間違いなかろうという結論に到達することができた。
ここらあたりのことは、「再発見」に詳しく書き込んだ。
産経新聞。7月19日付、奈良版。上段だけであるが・・・
「聖林寺の十一面観音様は、一時期だが我が家におられた」と桜井市橋本の米田昌徳さんは話す。
「大御輪寺の住職は我が家から出た郭道さんだった。廃寺にあたり還俗(げんぞく)、十一面観音様とともに橋本に帰ってきた」と米田家では言い伝えられている。
郭道和尚は聖林寺で学び、廃寺となる大御輪寺の最後の住職だった。廃寺にあたっては、他の僧侶とは異なり大神神社の神官への道を求めず、十一面観音菩薩像と共に寺を去ったのである。
「我が家で観音様に毎日、経をあげ、給仕をしていた。寝仏という姿で別座敷に祀られていた」が、米田さんのおばあちゃんの言葉である。
郭道さんは明治二年七月に亡くなり、その後、観音様は聖林寺に移されたということだ。
桜井市橋本の米田家
「十一面観音菩薩は、大御輪寺を出られてから聖林寺に至るまでの一時期、どこにおられるか不明」だったのである。
和辻は、「廃仏毀釈の嵐」と合わせて、この話をきいて、「路端に捨て置かれた十一面観音像」のエピソードを、古寺巡礼に書いたのでなかろうか。
東大寺の造仏所で造られた十一面観音菩薩は、大和朝廷の故郷である三輪で長く祀られ、神仏分離令により三輪の大御輪寺を去ることとなったが、いまは聖林寺できらきらと光り輝いている。
観音様は人々の思いを受け止め、人々の心を救ってきたが、同時にたくさんの人々の篤い思いで守られてきた、そんな歴史を忘れてはならない。
聖林寺、十一地面観音菩薩像
以下は、この記事の全文である。桜井では間々、お聞きする話だが、全国紙での紹介はこれが初めと自負している。
十一面観音菩薩といえば、まずは桜井市の聖林寺の像が思い起こされる。
半ば閉じた目としっかり結んだ口、そしてふくよかな面相は神々しく、そして同時に人間らしい優しさと美しさに満ちあふれている。
造像されたのは奈良時代。以来、どれだけの人々がこのお顔を仰ぎ見てきたことだろうか。
どれだけの人々が悩みや思いのたけを語りかけたか、そして観音様はそのすべての願いを受け止め、数々の力を人々に授けてきたのである。
この十一面観音菩薩像は760年頃に、東大寺の造仏所で造られ、大神神社と一体であった大御輪寺(おおみわでら)のご本尊として祀られた。
木心乾漆の技法で作られた代表的な仏像である。大まかな形の木像を彫刻し、その上に木粉(きこな)と漆を練り合わせた木屎漆(こくそうるし)を盛り上げる木心乾漆の技法は、顔や身体の豊かな肉付き、柔らかみを表現する優れた技法であった。
明治元(慶応4)年の神仏分離令によって、この観音様は嵐の中に投げ込まれることとなった。大御輪寺が廃寺となり、ご本尊の観音居所がなくなり、やがて聖林寺に落ちつかれ、祀られるという数奇な運命をたどることになった。
「桜井を縦断して聖林寺まで、仏様を荷車で運んだ。坂道はみんなで押し上げた」と、廃仏の時勢の中でも、多くの篤志家(とくしか)が力を出し合った心温まる情景が伝えられている。
当時の聖林寺は学問寺で、聖林寺の住職と大御輪寺の住職が学僧仲間だった。そのつながりで聖林寺に移されたのは自然のなりゆきだった。
ところが、観音様が聖林寺に移されるにあたっては、もう一つ複雑な経過が桜井では語られている。
「聖林寺の十一面観音様は、一時期だが我が家におられた」と桜井市橋本の米田昌徳さんは話す。
「大御輪寺の住職は我が家から出た郭(かく)道(どう)さんだった。廃寺にあたり還俗(げんぞく)、十一面観音様とともに橋本に帰ってきた」と米田家では言い伝えられている。
郭道和尚は聖林寺で学び、廃寺となる大御輪寺の最後の住職だった。廃寺にあたっては、他の僧侶とは異なり神官への道を求めず、十一面観音菩薩像と共に寺を去ったのである。
「我が家で観音様に毎日、経をあげ、給仕をしていた。寝仏という姿で別座敷に祀られていた」が、米田さんのおばあちゃんの言葉である。郭道さんは明治二年七月に亡くなり、その後、観音様は聖林寺に移されたということだ。
米田家に明瞭に伝承されてきたこのエピソード、これは信じるべきであろう。
その後、聖林寺の仏像の調査に訪れたアメリカ人の哲学者アーネスト フェノロサが十一面観音菩薩像を激賞し、さらに和辻哲郎や白洲正子などの紹介もあって、その素晴らしさが広く知られるようになっていった。
東大寺の造仏所で造られた十一面観音菩薩は、大和朝廷の故郷である三輪で長く祀られ、神仏分離令により三輪の大御輪寺を去ることとなったが、いまは聖林寺できらきらと光り輝いている。
観音様は人々の思いを受け止め、人々の心を救ってきたが、同時にたくさんの人々の篤い思いで守られてきた、そんな歴史を忘れてはならない。
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