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奈良・桜井の歴史と社会

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大佛勧進ものがたり 平岡定海

奈良と言えば東大寺の大仏、そして大仏殿である。
あれこれ言っても鋳造物としても世界一、木造建築物としても世界一。
過去、1200年、大仏なくして奈良(の観光)は成り立たなかった。

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これは、8月7日のお身拭いである。3年前の写真である。お身拭いは朝の9時には終わる。7時には到着すること、だれでも拝観料だけで早朝の堂内に入れる


現在の大仏殿は江戸時代につくられてもので、7間(ま)四方の大きさである。
この大きさにも歴史がある。天平の大仏殿は12間だったが江戸時代の大仏殿再建でこの大きさに切り縮められた。
幕府は間口は7間、奥行は5間という案が出したが、公慶上人は「5間では大仏の蓮弁の上に柱を立てなければならない」と抵抗し抜いて、今の大きさを確保したという。

今の大仏殿の姿は公慶上人の頑張りのおかげである。

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 「大仏勧進ものがたり」を読んだ。8月1日の新刊本である

東大寺の平岡定海師が昭和52年に出された本の復刊本で、吉川弘文館の「読みなおす日本史」シリーズから出た。

大仏の歴史である。行基・重源・公慶上人ら各時代の勧進僧の姿が描かれている。

まずは大仏造像のいきさつである。
聖武天皇は悩みが多かった。
「今金明経は護国祈願のための経典」で、これを僧侶に読ませた。さらに「今金明最勝王経(こんこうみょうさいしょうおうきょう)は義浄三蔵(いわゆる三蔵法師の後輩)が伝えた新訳」で、この経典を読み悪事をのぞくことに熱心であった。

さらに、読ませるだけ消極的として、「諸国にこの経典をよむ道場を築きたい」と事業をすすめて、国分寺と国分尼寺の建立をすすめたのである。

そして、2年後にこれが華厳経の毘盧遮那仏におき替えられ(ここらあたりの説明は難しい)、大仏の造像につながっていったとされる。
良弁はその教学の師、行基が庶民に説く係として役割分担された。

始まりは、こんなで難しいが、「第三章 江戸期の大佛」がおもしろい。
永禄10年(1567年)、東大寺大仏殿などに陣をとった三好三人衆を松永久秀が攻める。10月10日から11日にかけて大仏殿は焼け落ちる。奈良の大仏はその時、露座となった。

公慶上人が1685年から、大仏の修復と大仏殿の復活を目指して江戸で活動を始める。
1692年1万1千両余で修復開眼、公慶上人44歳の時である。
当時の44歳はけっこうな高齢と思えるが、公慶上人はそこからがすごい。

大仏での修復に命を傾けたのである。
協力者は護持院隆光である。隆光僧正の影響力が発揮されて、桂昌院が動いた。

勧進は資金であるが、諸大名の勧化金を桂昌院の指示で幕府は厳しく定めている。
「大名領についても、幕府の天領と同様、高百石につき大名領については金一分」との定めである。今のお金なら4万円(一両を15万から20万円くらいと見て)くらいで、一万石の大名だと400万円だよという感じである。ちょっと寄付としては多額だ。

幕府はこれで12万両を集めた。公慶上人が集めたものは10年で1万2千両だから、大仏殿の再建のためには、隆光僧正・桂昌院の役割は重大だった。

公慶上人は1705年に江戸にて死去、奈良に戻り、東大寺の外の五劫院に葬られる。大仏殿は1709年3月に落慶法要されており、公慶上人は見ることがなかった。
by koza5555 | 2014-08-15 15:13 | 読書
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