人気ブログランキング | 話題のタグを見る
ブログトップ

奈良・桜井の歴史と社会

koza5555.exblog.jp

都塚古墳・・大和のピラミッド

16日、お盆の最中に、明日香村で発掘の現地説明会が開かれた。

「明日香村教育委員会文化財課と関西大学文学部考古学研究室が協同して行ってきました都塚古墳範囲確認調査の現地説明会を下記日程により開催します。当日は普段施錠しております石室の内部も公開しますのでこの機会にぜひご参加ください。」明日香村HP

10時15分から並んだが、説明会場に到着したのは11時45分で・・・並んだ時間は1時間半だった。

都塚古墳・・大和のピラミッド_a0237937_1216778.jpg
開場頃に並び始めて、午後から雨の心配もあるという日だった。翌朝の新聞を読むと僕が並んだ時間は最長だったようである

マスコミが大きく取り上げた。
ポイントは二つである。
石積みが階段状、それも5段から8段くらいが想定されて、外見があたかもピラミッドのような形をしているということ。

大和王権における蘇我氏の立場を不動にした蘇我稲目(そがのいなめ・馬子の父、蝦夷のお祖父さん、入鹿の曽祖父である)の墳丘墓と推定されたこと。

都塚古墳は、金鳥塚(きんちょうつか)とも呼ばれ、横穴式石室に家形石棺を納めた、代表的な後期古墳である。墳丘は約30メートルの円墳あるいは方墳と推定されるが、確定していない。・・・・6世紀後半の頃の築造と考えられる」。明日香村教育委員会(現地に立てられている説明版)


都塚古墳・・大和のピラミッド_a0237937_1251687.jpg
鉄柵こしに石棺を覗く、これが都塚古墳の楽しみ方だった・・・都塚古墳は、石舞台の上(東方)にあり、横穴式古墳には石棺が残されている。明日香村の唯一の完形の石棺とされている


この古墳が、およそだが40メートル四方の方墳で、「大和のピラミッド」だったということである。

都塚古墳・・大和のピラミッド_a0237937_1262696.jpg
これが産経新聞の作った想定図(8月14日付朝刊)


場所がおもしろい。馬子の墓という石舞台の東方である。20メートルほどの高度差がある。
石舞台からみると県道桜井・明日香・吉野線を越えた山側である。
石舞台、島の庄と発掘はすすめられてきたが、地域の全貌が都塚古墳の発掘で鮮明となった。

被葬者は蘇我稲目、570年に死亡する。都塚古墳は6世紀後半と目されており、ピッタリで、
石舞台の被葬者は蘇我馬子、626年に亡くなる。これも石舞台古墳の築造は7世紀前半で、具合が良いのである。

飛鳥からみて「石の山、ピラミッド型の稲目の墓」を見上げる形であり、その下に、さらに大きく馬子の墓が造られたと想定された。形はどちらも方墳である。

この蘇我の墓の下には稲渕を経て、吉野に向かう道が通っていた。
この道は、大海人皇子が近江を逃れて吉野に入った道であり、持統天皇が皇女時代も合わせれば32回にもわたり吉野に通った道である。

当時の道の詳細は分からないが、もし、石舞台の北側を通っていたならば、左右に古墳を見て都を出る、
また、石舞台の南側に道があったならば、左手にピラピッド型の方墳を並べて見ながら都を出るということだった。

都塚古墳・・大和のピラミッド_a0237937_1285013.jpg
都塚古墳から県道、石舞台古墳を眺めて。今はすべてが緑の中である


by koza5555 | 2014-08-17 12:14 | 橿原・明日香・吉野
<< 日本史探訪 大佛勧進ものがたり 平岡定海 >>