9月15日、桜井市の吉備薬師寺において、芝村騒動(宝暦3年~4年・1753年)の犠牲者の慰霊祭が行われた。
桜井市吉備区集会所(薬師寺)
宝暦3年(1753年)に芝村騒動とか十市騒動とか言われる「御箱訴訟」(箱訴)がおこなれた。
十市群は広く幕府の天領となっていたが、その税収は芝村藩が代理していた。これを預かりというが、大名領などと比べても過酷な徴収が行われていた。
宝暦3年はコメも綿作も不作であり、大きな減免の声が上がっていた。これに対する芝村藩の対処は冷酷なものがあり、これの是正を求める騒動、一揆がおこされた。
芝村藩の預かりの十市郡の内膳や下八釣、常盤や桜井の吉備などの九カ村の代表が、年貢の切り下げと芝村藩からの預かりの変更を求めて、天神山(耳成山)に集まり訴状を作成、常盤村の彦市を代表に京都町町奉行所に箱訴を行った。
箱訴は享保6年(1721年)に8代将軍、徳川綱吉により「民の声を直接に聞く」ということで始められた。「将軍がカギを開ける」という御箱訴訟である。
しかし、芝村藩預かりの村民の訴えには手ごたえがなく、そこで九か村は戦術をエスカレートさせ、「稲刈りをせず、捨ておく」という強硬策に出るのである。
これを見て、「箱訴は合法的な手段だが、稲刈りを怠り、徒党強訴に及んだのはおきてに反する」と幕府は、関係者を江戸に召喚するのである。
呼び出しは三度にわたり、宝暦4年の3月までには200名以上が江戸にいくことになった。
宝暦5年8月に至りて、徒党強訴の罪で常盤村の彦市は死罪、遠島4人、追放32名という厳しい処断となった。それとは別に牢死者は38名を数えた。死罪という彦市もすでに牢死していた。
吉備村からは8名が呼び出され、平兵衛(藤本)、甚治良(竹田)、平治良(岡橋)が牢死、長八(高井)、庄蔵(松井)、新五郎(森本)、又四郎(吉崎)、甚五郎(吉本)の5名が帰還したとのことである。
牢死した義民、供養の碑が吉備区集会所(薬師寺境内)に置かれている
供養は生還した5名の子孫で行われている。
前回のブログでは「牢死の3名と帰還した3名の子孫で慰霊する」と書いたが、それは間違いだった。
お詫びして訂正します。
この生還した子孫、5家全体の系図(過去帳)を一幅の掛け軸に書きつけ、阿弥陀如来像の軸と合わせて架けて、供養祭を行ってきたとのことである。
今では5家のうち、2家が途絶えて、森本家、吉崎家、吉本家で供養を行っている。
三家による慰霊碑、参拝
それに先立って吉備区は、芝村騒動犠牲者、大東亜戦争戦没者の慰霊祭を、区内の蓮台寺、明光寺の読経で執り行った。
僕も一緒に焼香させていただいた。
最後のこの箱訴を契機に、芝村藩の預かりは減らされ、その後の収賄寺kンなども問題となり、預かりは芝村藩の手を離れた。
以上、桜井市史を参照にした。吉備の副区長の吉崎さんにはいろいろとご教示をいただいた。