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奈良・桜井の歴史と社会

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金峯神社

4月の「大和路を行く」は吉野山である。金峯神社から西行庵を拝見、奥千本の桜を見ようというウォークである。

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奥の桜は第三土曜日、間違いなく咲いているだろう


金峯山寺蔵王堂や竹林院を経て登るのであるが、金峯神社が気になるところである。

そんなことから、「吉野―悠久の風景」を読んでみた。上田正昭先生の編著で、 講談社から1990年に出ていた。25年前の本である。
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吉野山を古代から中世へ、そして近世・現代へと辿ってみたら…そんな本だった。

吉野には持統天皇 31回。文武天皇3回、元正天皇一回、聖武天皇2回の行幸があり、聖域吉野への大きな憧憬が感じられる。

天武天皇が歌ったように
「よき人のよしとよく見てよしと言いし 芳野よく見よ よき人よく見」(巻1―27)である。

吉野は南朝の舞台である。
1331年、後醍醐天皇は神器を奉じて京を抜け出し、8月24日に東大寺、8月26日笠置山に、こもったという。その後、隠岐に流された。
後醍醐天皇は復活するが、建武の新政は挫折する。後醍醐天皇は1336年、賀名生を経て28日は吉野に到着したという歴史をたどる。
吉野は後醍醐天皇、後村上天皇の時代、約11年間、行宮とされた。
吉野山といえば、陸続する寺社に特徴があるが、この寺社の立地と展開が極めて明快に解明されている。

さらに吉野の成り立ちの歴史に納得ができる。
「原・吉野」という言葉を知った。吉野川の北岸、世尊寺あたりの台地を指すという。それから宮滝へ、さらに吉野山という歴史である。

吉野の神の一つの軸となる水分神社は、もともと高城山の北東の広野にあり、金(かね)峯(だけ)の神として水分神社があったとされる。

宮滝から見て、「原・水分神社と金峰神社は見通された」というのである。
峯は重要だが、あくまでも宮滝から見てである。

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源・吉野の地図がしめされた「吉野という世界」地図。koza書き込み

吉野山には8社明神が置かれているが、そのうち勝手明神は吉野山口神社、子守明神は吉野水分神社、金精明神は金峰神社であり、この三社は式内社とされる。

金峰神社は852年に従三位(文徳実録)、水分神社は「馬を芳野水分峰の神に奉る。雨を祈ればなり」(続日本紀)とあり、これが698年のこととされる。役小角遠流(おんる)の一年前のことである。

これから見ると、698年に吉野水分神があらわれて、852年には三社がそろったと言える。

もともとは宮滝から見通される高城山の北東の広野に金 峯 神の水分神社が置かれたが、吉野山の稜線の持つ意味が変化、蔵王堂からみて山上への稜線が大切とされるようになり、水分神社は現地に移り、「芳野水分峯神」が、山口、水分、峰の三社に分かれ、稜線に沿って並び立った(足利健亮元京都大学教授)とされた。
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吉野山断面図

こうして考えてみると、金峯神社は吉野山の大本という感である。
奥千本と西行庵を訪れるツアーは、吉野山の大本の金峯神社を拝観するというツアーでもある。

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冬の金峯神社
by koza5555 | 2015-03-16 00:58 | 吉野
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