6月12日(土)と20日(日)は田原本ウォークである。
唐古池・復元 楼閣談山神社の祭典のさい、「藤原氏代表」として紹介される方がいる。
「本誓寺(ほんせいじ)住職、水谷川源昇(みやがわげんしょう)」氏という。
懇親会などでお話をすると、「田原本町で平野家の菩提寺」と聞いていた。
田原本町を巡るウォークを計画、2月頃に下見を行ったのである。
平野廟、なにげにお寺の表札を拝見すると、「水谷川源昇」とある。知らないということはお気軽というか、恐ろしいことである。
ウォークは6月12日(金)と20日(土)である。
平野廟のことがもう一つ分らない。そこでお尋ねしよう急きょの訪問だが、時間を取っていただくことが出来た。
平野廟
賤ヶ岳七本槍の一人として賞された平野権平長泰は豊臣秀吉により田原本を拝領し、教行寺に田原本に寺内町を築かせてその経営を委ねた。
その後、二代目長勝が入封し、寺内町の東の寺川沿いに陣屋を築造、教行寺は箸尾に退去させられ、跡地に円城寺(現在の津照寺)と本誓寺が置かれた。
住職にお聞きした。
本誓寺は平野家の菩提寺、平野廟が置かれている。二代目長勝と九代目長発の覆屋に守られた墓石(この形式を廟と言う。奈良県には筒井順慶 五輪塔覆堂と平野の二基のみである)が残されている。
「平野家は五千石で、大名格で大変だった」とも言われる。
同時に水運(寺川)、陸運(下ツ道・中街道)の交易集結地としての繁栄があり、はそれに依拠したこともよく分った。
どこの大名とも同じくして平野家は藩内の豪商からの借り入れで藩政を執り行った。
借金はどうするか。返さないのである。棒引きである。
これには、システムがあったことも分かった。
まずは感謝の印で、平野家の五瓜唐花(ごうりからばな)の紋を渡すのである。だから田原本の旧家の紋は、殿さまからいただく五瓜の紋と先祖代々の家紋を合体させた形が普通である。
紋を渡した後の借金棒引きは・・・「殿様と同じ菩提寺に」ということで本誓寺を菩提寺に認めるとかだったとお聞きした。
田原本藩の剣五瓜に唐花
平野は五千石という小身だったが、豊臣の子飼いの大名として江戸時代を生き抜いたという稀有な藩となった。寺川の水運と中街道沿いという好立地から大和中央部の物流拠点として繁栄したとみられます。
平野家は明治に入って一万石に加領され、明治四年には廃藩置県で東京へ移住し、その後、男爵の位を授けられている。
本誓寺は「五本灰筋塀」(ふつうは三本灰筋)が許されている。
これが五本灰筋塀これは親王の額がなければならないとのことである。
本誓寺は、「本覚院」という親王御額が残されており(1844年知恩院宮親王)、磯城郡では唯一の御額寺とである。
このウォーク、6月12日(金)は一般参加も可である。1200円ほど必要だが、ウォークでは日本聖公会の大岡司祭のお話と会堂内部の参観、今日のブログでご紹介した本誓寺の水谷川住職の講話を予定している。
10時、田原本駅西改札口集合、3時過ぎに同駅で解散。雨天決行で、食事は田原本のミュージアム内(弁当持参、レストラン有り)でいただく。
お値打ちツアーである。ブログへのコメント、カギコメで連絡ください。ご存知であれば、メールや電話でも結構です。
では