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奈良・桜井の歴史と社会

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邪馬台国と卑弥呼 「研究最前線 邪馬台国」 

今日は邪馬台国と纏向遺跡のことである。

平成21年11月14日に桜井市のJR巻向駅の西側で、大賀建物群の跡を発掘したとの現地説明会があった。
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平成22年に「いま、なぜ邪馬台国か」というシンポジウムを文化庁と東京江戸川博物館の共催で行われていて、これをまとめた本がある。題して「研究最前線 邪馬台国」(朝日新聞)という。
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纒向遺跡で東西に基軸を持つ大型建物群が発掘され、2009年11月にこの現地説明会が開かれたが、その直後のシンポだった。

始めに文化庁の禰宜田佳男氏が邪馬台国説の論争史を紹介した。

その概要を紹介すると、、
大正13年に笠井新也が、卑弥呼の時代は崇神の時代で、崇神の姑(おば)であるヤマトトトヒモモソヒメが卑弥呼とみなし、箸塚古墳が卑弥呼の墓と考えた。

邪馬台国の研究は戦時中は途絶えるが、昭和22年に榎一雄が、伊都国を起点に放射状に行程を読み、邪馬台国は筑紫平野と考えた。

昭和36年、小林行雄が論争を総括していて、
①古墳から出土する銅鏡に摩耗しているものがあることから、弥生期から機内には道鏡があり、伝えられてきていた。
②古墳から出土する三角縁神獣鏡が「銅鏡百枚」に当たるとして邪馬台国は畿内とした。

論争は、鉄器がその後に問題となり、
「七、八十年、倭国乱れ、相攻伐すること歴年、すなわち一女子を共立して王と為す。名は卑弥呼と曰う」の「倭国の乱」が取り上げられる。
この乱を契機に、倭国の中心が北部九州から畿内に移動し、鉄器もその技術も畿内に移動するという論である。

その後も論争は続き、冢(ちょう)も課題となった。
「卑弥呼、以に死し、大いに冢作る。径は百余歩」、とあり、北部九州にはこれに当たるものがない。

邪馬台国東遷説も紹介されている。
北部九州の邪馬台国が畿内に移動したとの論とか、現在では、北部九州勢力が畿内に移ったことを含めて議論されているとのことだった。


パネラーは4名で、
九州派は高島忠平、
大和派は石野博信、西谷正、
それから歴史学者として吉村武彦である。

邪馬台国、九州説論者の本は最近は読む機会がなかったので、高島忠平さんの論文は興味深く読んだ。

高島さんの論拠は4点で
①鏡は後漢鏡のもので、九州から多く発掘されてといる。
②魏志倭人伝にいう楼閣などの記述が北部九州の環濠集落に一致していること。
③中国との交流を示す遺跡が北部九州に数多くあること。
④鉄の流通は九州に集中していること。

そして候補地は特定しないまま、邪馬台国が九州と論じているのである。
高島さんの結論もおもしろい。
「一系的な政治権力で日本列島の国家が成立してくるとは考えにくい。いわば東遷説、近畿説もそうですが、どこかに一元的に政治権力が発生したというわけではない。しかし、最終的にヤマト王権が各地に発生した王権との抗争を経て六世紀には統一国家の成立の覇権を握った」とし、「一系的に国が出来上がると見たくない」とのことである。
高島先生は「邪馬台国は近畿になければそれでいい、ほかにどこにあってもいい」というほどの、一系的国家、一元的政治権力論に反対されていた。

僕の名古屋時代の友達は、強烈な邪馬台国九州論者であり、「飛鳥時代以前の大和の歴史はすべて作り事」と言うのであるが、大本はこんな形だったのかとよく分った。
「統一国家の覇権を握ったのは六世紀」・・・継体天皇の時代以降のことを言っているんだろうか。

なるほど、これもおもしろい話ではあるが、奈良に住み、奈良を勉強し、奈良をガイドすると、それはそれで、ちょっと違うと思えるのである。

それ以前の奈良の歴史をどう考えるか。日本と大和の関係をどう見るかという問題である。
たとえば奈良盆地に集中している巨大古墳群、そしてそれに似せた古墳が関東から九州にまで広がる前方後円墳の訳を聞きたいものである。
やはり、邪馬台国の前後の時代に、共立とはいえ倭一国に号令できるような大和の王権が誕生していたとみるのが自然である。

箸墓とか、崇神天皇陵・景行天皇陵とされる山の辺の道の陵の前に立てば、これが国家的事業であることは明白である。
大和の政権がこれを大和に作った・・北九州にあった政権が、わざわざ古墳、奥津城を大和に作ったなどと言うことはあり得ない。

さて、話を本(ほん)の方に戻して・・・パネルディスカッションが始まり、初めに邪馬台国以前の北部九州と大和が議論となる。
九州なら伊都国・奴国で、大和は唐古・鍵遺跡である。

論点の二つ目は「倭国の乱」で、

三点目は「なぜ卑弥呼は王に立てられたのか」

「卑弥呼の墓」が四点目となっていて、それぞれ攻防がある。

それぞれの問題で、大和派、九州派のポイントや弱点もあり、僕も、これで決まりという感じがしないのである。
やはり、論争最前線というところか。

本の最後は、桜井市教育委員会の橋本輝彦氏が、纏向の発掘、前年の11月に現地説明を行った大型建物などについて触れている。

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  柱の抜き跡から想定される大型建物群


読後感で言えば、「倭国の乱」を契機に、倭国の中心が北部九州から畿内に移動したという東征・東遷説が魅力的である。

文化庁の禰宜田佳男からは、「邪馬台国の候補地・・・遺跡で史跡になっていない遺跡があることも事実です。そうした遺跡を将来にわたって保存することは重要です。そうしなければ、邪馬台国所在地論争を考古学的に決着させる可能性のある芽を、完全に摘み取ってしまうことになるからです。」とあった。
その後、纏向遺跡が2013.10.17(平成25.10.17)に、「史跡名勝天然記念物」として史跡に指定されたことはご承知の通りで、種別は「弥生後期、古墳時代前期」、それから地図の指定がない(範囲の指定がないということ)ことが大きな特徴である。


「おもしろ歴史講座」を桜井市で続けている。全6回の講座であるが、来春には纒向遺跡とか大神神社を取り上げる予定である。
今日もブログでここらあたりを書いてみた。
それにしても「邪馬台国と纏向遺跡」、もう少し勉強しないと「おもしろい」話になりそうもなく、僕も悩みが深い。
by koza5555 | 2015-06-18 21:55 | 邪馬台国(やまとこく)
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