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奈良・桜井の歴史と社会

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銅鐸の絵を読み解く

一週間ほど入院していた。病院で読んだ本などをアップしておこう。

始めは銅鐸の本(「銅鐸の絵を読み解く」)である。
銅鐸の絵はいままで、考えもしなかった。
そんなツアーは無いし、奈良はやはり古墳時代、そして律令の時代を歩く機会が多いが、邪馬台国を手がけて、視点が変わった。弥生時代と古墳時代のハザマを考えねばならない。

銅鐸を読んでみた。奈良まほろばソムリエのメンバーで銅鐸を話す人を今まで見たことがなかった。
銅鐸は東海から近畿、中国四国までで430個ほど発掘、そのうち画が書かれているのは55個(1997年当時)だという。銅鐸とは腺ばかりひかれているというのだ。
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こんな感じ

銅鐸は紀元前二世紀に登場、紀元二世紀の終わり頃が最後の銅鐸。中国・韓国から到来する、羊の鈴みたいなものだが、日本は独自の発達を遂げた。
そして、古墳時代にはなくなるのである。


トンボの話がおもしろい。
銅鐸のトンボは常に上段に書かれるとのことである。
「多くの銅鐸で蜻蛉が上の方に書かれるのは蜻蛉はいつも高いところを飛んでいるからだ」(佐原真)と思っていたら、これには異論があった。

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トンボの絵

トンボを研究している三重県の石田さんは、「トンボは「田の神」だったから特別視するとのことである。ヤゴの時は田んぼでボウフラを食べ、成虫になるとウンカ・ヨコバイなど食べて豊作に貢献する」として、

古代、畿内は秋津洲(あきつしま)と呼ばれたことがある。神武天皇は山々の連なりを見てトンボの交尾を思い、雄略天皇はアブに刺されかかられる時、トンボに助けられることが日本書紀には記されるが、トンボは本来、「田の神」であるという共通認識が基礎にあるから成り立つとのことである。

僕もいつも思っていた。なんでトンボ、誰も教えてくれなかったが、こんなことなんだ。


弥生の絵の特徴の解明がされる。
多視点画とのことで、遠近法はない、モノの後ろの人や物も書いてしまう、唐古鍵の三階建建物の一階は吹き抜きとなっているが、これは実はレントゲン画で、一階にも壁があったのではないかとか、ビックリである。

重なり合う人々が書かれた(後ろの人が前の人に隠される)のは唐の時代が始まりで、高松塚はそれがすぐ採り入れられたものだそうだ。
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圧倒的に銅鐸には鹿が描かれるが、弥生時代の狩猟の中心は猪だったとのことである。
しかも銅鐸のシカには角が無い・・
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角のない鹿

鹿の角は春に生え始めて秋には立派な角になるが冬を越して春にポロッと落ちてしまう。
弥生人の中でこれに似たものは何か。それはコメの成長である。春の籾を撒き、秋に収穫、つまり鹿の角の成長と稲の成長を重ねて考えた。
稲作は弥生時代のシンボル、鹿もその意味ではシンボルと言う。収穫祭りに使われた銅鐸には角のない鹿が描かれた。子を産むメスを書いたという見方もあるが、角を落とした鹿を描き収穫の終わりを祝ったという見方もあるかもしれない。

こんな話が次々と続く面白い本である。

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銅鐸を読み解く。国立歴史博物館編 構成 佐原真
by koza5555 | 2016-02-20 23:35 | 読書 | Comments(0)
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