4月9日、天理市豊田狐冢古墳、発掘調査 現地説明会が開かれた。
横穴古墳、天定石が抜き取られている
奥壁から羨道部をみて。両袖式石室である
けっこうな人気で「1500人はいくのでは」と天理市職員
解説は天理市教育委員会文化財課の石田大輔主査。晴れ舞台
「天理の古墳100」は、「布留・杣之内周辺」というくくりで、北の東大寺山古墳から南端は東西乗鞍古墳と記している。
真ん中に布留遺跡があり、その南北という形である。
今回はその北側、豊田の丘陵、布留遺跡(天理教本部や天理市の市街地)を見下ろす古墳の発掘だった。
「布留遺跡は旧石器時代から現代にいたるまで連綿と続く大規模は複合遺跡で、古墳時代中期~後期に最も繁栄を遂げます。首長居館や工房が見つかっており、有力豪族物部氏の本拠地であった可能性が考えられています。また、布留遺跡の南方には塚穴山古墳や峯塚古墳など終末期古墳を擁する杣之内古墳群が広がっています。」現地説明会資料から
「布留遺跡の北方には石上・豊田古墳群があり、二基の大型前方後円墳群のほか150~200基ほどの円墳が群集しています」。今回発掘された豊田狐塚古墳(昨年紹介された豊田トンド山古墳と並んで)は、その一番南の丘に位置していた。布留の中心集落を見下ろす場所である。
この古墳には3基の木棺が安置されていたと推定され、出土遺物は6世紀中葉から後期に至って埋葬されたとされている。
物部守屋が敗退するのは587年、急速に影響力を落とすとみて、政権最終段階の古墳と見たいのである。
この地域には、中期から後期まで営々と古墳が築かれた。が、不思議なことに終末期古墳は残されていない。
その理由は何だろう。
王宮や神域として使われることなり、墓域でなくなる。
氏族の墓域が移動した。
氏族が没落した。
布留は物部氏の支配地域、石上・豊田地域、杣之内では終末期の古墳(横穴式石槨)を見ることができない。物部氏の光芒、没落を常に考えながら、この地域の古墳は考えたいものである。
「豊田狐塚古墳は石上神宮や布留遺跡を見下ろす高所にあり、これらを強く意識した立地といえます。墳丘や横穴式石室の規模、副葬品の質・量からみても、首長層を支えた有力者の墓である可能性が高いと考えられます。」
古墳時代、古墳を造る熱情のすさまじさ、改めて感ずることしきりである。
市道の新設工事に当たり、影響を受けるとみられる古墳として発掘調査された。
古墳玄室は道路の下敷きということでは無いようであるが、豊田トンド山古墳と同じように埋め戻されるとのことである。今日の現場説明会が見学できる最後のチャンスということだった。