女性の天皇といえば飯豊皇女。
葛城埴口丘陵(かずらきのはにくちのおかのみささぎ)である
「鬼道に事(つか)へ、能く衆を惑はす。年已(すで)に長大なるも、夫壻(ふせい)無く、男弟有り、佐(たす)けて国を治む」は、魏志倭人伝が語る卑弥呼の人物像である。
後世の人々を魅惑し、卑弥呼の人となりがいかなるものか、想像がかき立てられた。
さらに卑弥呼の後継は男王であるが、それを挟んで女王 台与が擁立される。
卑弥呼の時代に、なぜ女王が集中したのか、そしてその時代背景はいかなるものか。
卑弥呼は特殊な女王で、他には女王、女首長はいなかったか。
こんなことを考古学の立場で解明しようというというおもしろい本である。
「卑弥呼と女性首長」(学生社)清家章(高知大学)著
まずは遺跡からみた男性と女性の判別。
墳墓に残された骨で性別が分るとのことである。
頭蓋骨と骨盤の形で男女が判明できる。
骨盤の妊娠痕という調べ方もあるようで、妊娠により骨盤の靭帯が肥大して骨が圧迫された痕をみることから女性として特定できる。
副葬品から分かることも多い。刀や矢じりなら男性の可能性が高く、珠は男女五分五分とのことである。車輪石や 「いしくしろ」を腕に置く副葬品配置は女性の可能性が高いなどのデータも示される。
このように考古学の研究を土台にして考えると
弥生時代中期までは男王
後期から古墳時代の始めは女王、女首長も数々生まれた(比率的には男王が多い)
古墳時代中期から男王
こんな結論がでるらしい。
女系で王権を引き継ぐということは、どの時代もなかったとも示されている。
卑弥呼の場合も
「年已(すで)に長大なるも、夫壻(ふせい)無く」で、未婚、後継ぎを産まないことが女王に求められたとしている。
時代は少し下がるが飯豊皇女(いいとよのひめみこ)のことである。
雄略天皇の死後(5世紀末)に即位した清寧天皇が跡継ぎを残さないまま死去する。
それを引き継いだのが飯豊皇女である。
「臨朝秉政」(みかどのまつりごと)を行ったとされ、これは天皇に即位したという伝承である。
しかし、日本書紀にはすごいことも書かれている。
「角刺宮にてマグワイしたのだが、格別に大したことは無かったので、二度としなかった」と記されている。
この飯豊皇女は葛城に葬られた。それを葛城埴口丘陵(かずらきのはにくちのおかのみささぎ)である
即位の時点では配偶者は無く、子もいない。古代女性が即位後は独身を保つ、皇位継承者を作らないということで、卑弥呼の「夫壻(ふせい)無く」は大和王権にも引き継がれている。
清家先生は、日本の古代王朝には女系相続がなかったことを証明しているのである。
即位時の女王・女帝の婚姻状態
倭・大和には卑弥呼をはじめ数多くの女王、女首長がいた。
しかし高群逸枝(女性史研究家・娘時代、四国八十八カ寺巡礼のすばらしい道中記 -娘巡礼記― も記した)が描いたような 古代母系社会史は存在しなかったことを証明している。
清家さんは「女王・女首長は、例外ではないがあくまでも中継ぎであった」という結論を出している。
魏志倭人伝を振り返ってみよう。
其の国、本亦(もとまた)男子を以て王と為し、住(とど)まること七・八十年。倭国乱れ、相攻伐(あいこうばつ)すること歴年、乃(すなわ)ち共に一女子を立てて王と為す。名づけて卑弥呼と曰ふ。
更に男王を立てしも、国中服せず。更々(こもごも)相誅殺し、当時千余人を殺す。復た卑弥呼の宗女(そうじょ)壹(と)与(よ) 年十三なるを立てて王と為し、国中遂に定まる。