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奈良・桜井の歴史と社会

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纒向遺跡の大型建物

纒向遺跡の大型建物(トリイノ前)を、「今、古代大和は」(石野博信)で考えた。

5月6日(午後7時から、駅前エルトの2階)、桜井のカルチャーで「邪馬台国」の続編をお話しする。
前篇は「邪馬台国は大和」論で楽しく語らせていただいたが、今回の後篇は①纒向遺跡、②古墳、③女帝論を丁寧に具体的に語りたい。

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トリイノ前大型建物、復元模型

「今、古代大和は」(石野博信)が生々しいエピソード満載で、こんな話のためには強い味方である。

1971年に桜井市辻にアパートが建つことになり、続いて県営団地や纏向小学校が予定されて以来、五年間、纏向遺跡の調査が続きました。その結果、纏向遺跡は以前から有名なオオヤマト古墳地帯の、2・3世紀の大規模な「都市」と墳墓であることが判り、邪馬台国所在地論と重なって注目され、ついに調査開始から38年目の2009年(平成21年)に東西に一直線に並ぶ3世紀の大型建物群が桜井市埋蔵文化財センターの調査で出現しました(あとがき)。

桜井市の橋本さんからお聞きしたことがあった。
「纏向遺跡の中枢施設として可能性がある場所は二ヶ所考えてきていた。それは珠城山古墳の北方とツジトリイ前地域だった。珠城山古墳の北側は開発の規制がかかっていて急がなかったが、巻向駅の西方のトリイ前は宅地開発の話が出てきたので、こちらが急がれた」(橋本輝彦氏談)。

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トリイノ前、大型建物の発掘図というか、パワーポイントの出だし

 2009年2月から桜井市埋蔵文化財センターは、初めて纏向遺跡の中枢地を探す学術調査を開始した。纏向遺跡は二世紀末に突然現れ、四世紀中ごろに突然消える人工的集落でその規模は4万平方メートル(原文ママ)と巨大だ。しかし、160回をこえる発掘調査によっても中枢地と思われる建物群は見つからず、古墳を造るための労働者のキャンプ説が登場するほどであった。
 3月18日、ついに小さな祭殿の周囲に大きな建物群と柵囲いの一端が現れた。時期は三世紀前半、まさに邪馬台国と女王・卑弥呼が都を定めた時である。建物群は方位と柱筋を揃えて、整然と並んでおり、まるで飛鳥時代以降の宮殿のようだ。(二上山博物館広報 2009年4月号)

11月10日、桜井市纏向遺跡で「3世紀前半の大型建物が見つかった」と発表された。3世紀前半は倭国の女王ヒミコが都とした邪馬台国の時代である。一気に邪馬台国大和説が盛り上がり、あたかも決着したかのような雰囲気になった。
 それは三世紀前半の全国最大規模の建物であるだけでなく、前回の調査で分かっていた3棟の建物の中心と一直線に並ぶという計画的建物群であることが根拠の一つである。4~6世紀ヤマト王権の時代、つまり、古墳時代の全期間でも、これほど計画的な建物配置はない。(二上山博物館広報2009年11月号)

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今、古代大和は

by koza5555 | 2016-04-24 16:02 | 邪馬台国(やまとこく)
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