和田萃先生の編で「大神(おおみわ)と石上(いそのかみ)」という本がある。「神体山と禁足地」がテーマである。
石上神宮を考えてみた。
拝殿・国宝に指定されている
ご祭神は武甕槌(たけみかづち)神が出雲遠征で帯びていた神剣である。神武天皇東征の折、武甕槌神が熊野の高倉下命に降して邪神の毒気にあった神武天皇を蘇らせた霊剣でもある。これを崇神天皇七年に宮中より現地、石上布留高庭に移し、土中深く鎮め石上大神と称え祀ったのが当宮の創めと伝えられ、以後代々、物部氏が祭祀をした。
この布留高庭が「禁足地」とされている。
明治7年、宮司の管正友がここを発掘した。
社伝の通り神剣が埋められているか。発見できれば正殿に祀ろう。
そして盗掘対策である。放置して盗掘に任せていいのか。被害は出ているのである。
発掘は成功で神剣は出たのである。
天理参考館に勤務されていた置田雅昭さんが、「禁足地の成立」でここらあたりの事情を書かれている。
発掘の状況である。
30センチ掘ると瓦が敷き詰めてあった。これを取り除いて下を掘ると石囲いがあった。
地表下90センチの所に剣、勾玉、管玉などを発見した。
側壁は「一尺或いは尺余の石を積み重ね」とあるから、二段以上積んだ石室のようなものだろう。石室の壁が板石を積んだものか、円礫であったのかはわからない。所伝はないが、発掘地の標柱が石室材の転用とすれば、花崗岩の円礫である。
石室の構造、遺物の構成などが、古墳時代の竪穴式石室、横穴式石室と共通する部分がある。花崗岩を用いた竪穴系の特異な構造を推測させる。
この古墳は出土品からみて 古墳時代中期前半である。布留社と示された禁足地瑞垣
境内の造成にも触れている。
境内は斜面に造成された一辺が120メートルの方形平坦地にある。北から見ると10メートルの段があり、この段を取り巻くようにいくつかのため池、空き地が残されている。ため池はもともと濠のように段をコの字に巡っていた名残の用である。すなわち段もまた人工的に造成したことがわかる。 と置田さんは言われるのである。
境内図これは神社東側の周濠だったかもとされるため池
境内や東側ため池からは古墳時代中期後半の土器(土師器)が発掘されている。神宮の境内で古墳中期後半の祭りが行われたことを示唆する出土品である。
一辺120メートルの方形古墳が、石室、墳丘も合わせて、神宮に転用されていったという論であろうか。
境内を闊歩するニワトリ
大神と石上(筑摩書房)7月1日に、桜井カルチャーで、「山の辺の道」を講演。これはとっておきの話題だろう。