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奈良・桜井の歴史と社会

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芝村騒動と龍門騒動

芝村騒動を上島秀友さんが書かれた。
上島さんは香芝市のお住まいで、10月に行われた「邪馬台国バトル」でお話しした折、石野博信先生のご紹介でお近づきになった。
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芝村騒動は、芝村藩の預かり地となっていた大和盆地南部の天領でおきた。
宝暦3年(1753)、十市郡の九ケ村が決起。京都町奉行所に箱訴した。箱訴は合法手段だったはずなのだが、村役人らが江戸の召し出され、吟味が開始された。吟味は過酷を極め、次々と犠牲者が出た。取り調べの対象は式上郡、式下郡の村役人にも拡大、40人以上が獄死した(
p4)

ぼくもこの芝村騒動のことをお話したことがある。僕なりに調べて、磐余・吉備のあたりのお話しの中での紹介だったが、知らずに話したことがたくさんあった。この本を読んで、芝村騒動の経過と全貌、本質が良く理解できた。

十市郡は広く幕府の天領となっていたが、その税収は芝村藩が代収していた。これを預かりというが、大名領などと比べても過酷な徴収が行われていたといわれる。
租税は五公五民、代理で徴収する(預かり)芝村藩は3%の手数料が入るという仕組みである。芝村藩は一万石、預かりが9万石ほどになっていたから、普通に徴収していても、一万三千石である。
しかし、検見と呼ばれる作柄の検査があり、これで税収が決めるが、百姓に有利な検見はないという状況が続いた。
「胡麻の油と百姓は絞れば絞るほどでるものなり」(本多利明『西域物語』)というのが施政者の考え方だから、この状況は全国共通である。
ところが、これに合わせて、芝村藩の預かり地には「別の複雑な事情が潜んでいました。」(p38)

それは、「畝詰り」にも年貢がかかったということである。
畝詰りとは「実際の面積が検地帳に記載された面積よりも少ない」状態で、検地帳を基準に課税されると、五公五民ではなく、畝詰りの具合では七公三民にも変わってしまうのである。
もともとは郡山藩が柳沢忠明の時代に、藩の格をあげるために12万石を15万石に変えたという歴史があった。農地は増えていないのに、郡山藩のすべての農地は台帳では二割五分増しの面積に変わっていた。郡山藩の時代はその事情が判っていて、割り増し分は無税だった。ところが、盆地南部の領地が天領に変わって問題が生じる。
芝村藩はこの二割五分にも課税したのである。

ここらあたりを僕は知らなかった。この仕組みで芝村藩、預かりの村々は八公二民というような重税にあえぐことになったのである。
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300人もの江戸への呼び出しや40人もの犠牲。後日談も上島さんの視点は暖かく丹念である。
お薦めしたい。

芝村騒動といえば、吉備区では、毎年9月15日、吉備薬師寺において、芝村騒動の犠牲者の慰霊祭を行っている。
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吉備村からは8名が呼び出され、
平兵衛(藤本)、甚治良(竹田)、平治良(岡橋)が牢死
長八(高井)、庄蔵(松井)、新五郎(森本)、又四郎(吉崎)、甚五郎(吉本)の5名が帰還できたとのことである。
帰村した5家のうち、2家が途絶えて森本家、吉崎家、吉本家で供養を行っているが、「当屋を決めて、法要を行い、慰霊碑を拝み会食」という、供養である。
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吉備区集会場、薬師堂


合わせて掲載されている上田龍司さん(故人)の『竜門騒動』、『天保ききん考』、『いのちのかて 昔の稲作の思い出』も読みごたえがある。
『芝村騒動と龍門騒動』。大和の百姓一揆  青垣双書(青垣出版)。1200円+税
by koza5555 | 2016-11-25 19:03 | 読書 | Comments(0)
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