桜井市の駅前エルトで2年間、「おもしろ歴史講座」というカルチャーをやらせていただいた。
ところが、この秋からこのエルトが改装するとのことで、カルチャーはいったん中止することになった。
あと、何回かはやろうということになり、連休明けの5月5日(金・祭日)は、「中ツ道と今の道。条理と環濠集落」というテーマで、桜井市の西部を取り上げることにした。
古代の街道をやりたいのだが、今回は中ツ道に絞って考える。
この中ツ道は橘街道と言われた時代がある。
古代(7世紀)、奈良盆地を南北に結ぶ3つの街道が作られました。中ツ道は、その街道の一つで、平城京と橘寺を結んだことから、近世には「橘街道」とも呼ばれていました。奈良市街の中央部から、大和郡山市と天理市、桜井市と田原本町や橿原市等の境界を通っていたのですが、現在では街道の名残はほとんどなく、細い道が所々に残っています。
・・・この中ツ道に「橘」を植樹して、橘の並木道にしようという計画がすすんでいます。大和郡山市の石川町と白土町付近で、まず20本くらいの橘を昔の街道に沿って植える構想があります。奈良盆地を南北に通る「橘の並木道」が完成すると、将来は壮観な景観が生まれそうです。(大和郡山市石川町の掲示板から・記載者不明)
「左近の桜、右近の橘」の橘である。
垂仁天皇の時代、常世の国に「ときじくのみ」(非時香具菓)を求めて橘を持ちかえった田道間守(たじまもり)を引くまでもなく、古代の橘は樹木としても、果実としてもその位置は高いといえる。
横大路、桜井市西ノ宮の三輪神社から北上するのが中ツ道。今回は橘街道は中ツ道と割り切って考えてみる。
桜井市西ノ宮の氏神、三輪神社の南西側。中ツ道の始まりちなみにこちらは下ツ道(中街道)
これは上街道(上ツ道とは少しずれているが・・)。少しさびしそうだが、町つくり再建の意欲満々の交差点である。大和信用金庫の支店が戻ったり、喫茶店が間もなく開店する
横大路の交差点を、巷というか、辻というか、下ツ道、上ツ道と比べてみると中ツ道は相当趣きがことなることが分かっていただけるだろう。
今回は中ツ道である。北に向かうと、東竹田である。これは有名な大伴一族である。大伴氏の荘園、「竹田の原」である。
さらにその北には村屋坐弥富都比売神社である。
大海人皇子(天武天皇)軍と大友皇子軍が大和で対峙したのはこの地である。大伴吹負が総大将である。村屋で大伴が近江軍と戦うのは、大伴には領地的にも死活的な意味があるのだろうか。
村屋坐弥富都比売神社参道
県道51号を北上することとなり、そのまますすむと、天理市を抜けて、西名阪道をくぐって…
路地のような細道の入り口に…「橘街道」の看板が設置されている。「橘も植わっている」。
大和郡山市石川・・である。
橘の並木(木はまだ小さいが)
シャープの工場の東側を通り、・・県道754号線。こちらに道標があった。
右 高野山 左 なら道桜井市を中心にして、古代道路と条理を整理した。明治末年頃の地図に赤い線は僕が書き込んでみた
5月5日の「おもしろ歴史講座」、大伴氏も軸にして、面白い話になりそうである。