多聞城跡、若草中学に行ってきた。まだ夏休みの頃である。
多聞城の棟上げは永禄5年(
1562年)
8月
12日
5時。奈良中がこれを見物。久秀はその年の
12月に大和、山城に徳政を出している。
得意の絶頂だっただろう。大仏殿が焼かれたのは1567年、その5年前である。
近世の城郭の始まりと言われる多聞城、それを築いた松永久秀を考えてみた。
信貴山城で爆死したといわれる松永久秀。将軍を殺し、主君の三好を殺し、東大寺の大仏を焼いたとされた松永久秀である。
『松永久秀』、「シリーズ 実像に迫る」。著者は金松誠、戎光祥出版(えびすこうしょうしゅっぱん)である。
松永久秀の略歴である。金松誠さんがまとめている。
永正5年(1508年)誕生
天文9年(1540年)三好長慶の家臣
天文19年(1549年)三好長慶上洛、久秀は「内者」(ないじゃ 守護の直属の家臣)として現れる。
永禄2年(1559年)久秀、超昇寺氏を案内者として大和に侵入、筒井城を攻め落とす。筒井順慶、椿尾上城に逃げる。
永禄3年(1560年)久秀、足利義輝の御供衆に召し上げられる。久秀、この年に一国を治めて、信貴山城を居城とする。
永禄4年(1561年)久秀、眉間寺を移動させて、多聞城を築く
永禄5年(1562年)8月12日5時に多聞城を棟上げ。奈良中がこれを見物。12月に大和、山城に徳政を出す。
永禄8年(1565年)5月19日 久通(久秀長男)ら、将軍御所に乱入。足利義輝は自害。 三好三人衆との軋轢強まる。
永禄9年(1566年)5月30日、堺で三好三人衆と戦い、敗北。逐電(堺に匿われた)する。
永禄10年(1567年)4月6日 堺を出て信貴山城に入る。織田信長の配下に。 10月10日、東大寺に三好三人衆を攻め、大仏殿、兵火にかかる。
永禄11年(1568年)久秀、大和の支配を信長に認められる。
天正元年(1573年)久秀、2月より信長に叛旗。敗れて12月には人質を入れて屈服12月に多聞城を明け渡す。
天正4年(1576年)筒井順慶、「和州一国一円」の支配を信長から任せられる。
天正5年(1577年)閏7月26日、信長の命で、松永久通が奉行となり多聞城の破城を行う。8月17日、久秀、久通、信長に叛旗。10月10日、久秀、信貴山城で自害する。
久秀、波乱多きの70歳だった。1567年10月10日に大仏を焼き、その10年後の10月10日に自害している。鎌倉時代の大仏と久秀の命日は同じである。
「将軍を殺し、主君の三好を殺し、東大寺の大仏を焼いた久秀」。金松さんは、それを否定して「久秀は手を下したわけではない」と力説されるが、「久秀の意思なしではどの事件も起きなかった」というのが僕の感想である。
年表を整理しただけのblogとなった。
織豊時代の奈良の町の姿だそうだ。