12月23日は、桜井市谷の綱かけ行事が行われた。
昭和19年の『和州祭礼記』(辻本好孝著)には、写真入りで紹介されている。
谷の氏神様である磐余若桜神社で15メートルほどの綱を綯う。この綱作りは若桜神社の境内で行うが、事前に作られていて、23日は綱かけと神事だけである。
9時くらいから古い綱を外す。
さっそく綱掛が始まる。谷は市街化がすすんだ地域で、「どうしてここが綱掛け場?」とも思えるが、古くはここが村の入り口だった。参加されている最長老が「谷本町は28軒、純粋な農村だった」と言われるが、その雰囲気はあまりない。
頭部が三つに分かれた龍頭があり、それは東のエノキに取り付けられる。西には樹木は無く綱掛け用のポールが建てられている。
エノキに取り付けられた龍頭はアキの方向、来年は南南東に向けられる。
ちなみにご幣は北向きで谷本町という村から見ると下流向きである。
「邪気に対してはツナ、エノキに取り付けられた龍頭が農神を迎える」と、説明される。
もともと谷の村、特に谷本町(若桜神社周辺の家々)で綱掛行事が行われてきたが、平成に入ってからは「大昭会」(大正・昭和世代で)という講のようなものを設立、そのうちの若手を「二期会」と称して未来に続く組織づくりをされている。
綱を作るのは大昭会と二期会、ツナを掛けるのは谷本町という分担である。
玉串奉奠を見ていると、谷区長、谷本町総代、磐余若桜神社総代、大昭会、二期会の代表の5人だった。
神事、行事が継続できる体制ができている。
宮司は等彌神社の佐藤宮司である祭典の最後には、神職を先頭に土地の神、ツナの神をたたえて参列者全員が祭祀場(道路であるが)を三周するという所作がある。
ツナの下を出て、ツナの下から入る、これを黙々と3回である。祭のあとに、たき火の廻りを「ええと、かいと」、「ええと、かいと」と唱えられながら回る儀式を八咫烏神社(宇陀市」の秋祭りで拝見して衝撃を受けたことがあるが、同じ形の行事である。何か、古式に則っているのだろうか。
先日、東京で勧請綱を講演した時、「それにしても奈良って、本当にすぐそこに神様がいるんだなあ……と思ったりしました」という感想をいただいたが、僕も今日、それを感じた。
谷の綱かけ行事、毎年12月23日、午前10時(9時くらいには来てほしい)からである。