2月6日(土)に出雲(桜井市)で講演する。出雲区の「相撲開祖 野見宿禰顕彰会」の主催である。
十二柱神社、狛犬を支える力士像
初めに出雲城の縄張り図を見てほしい。城の前面からはとても坂がきつくて無理。尾根から下がってくる形(北から南へ)で城跡に入る。
出雲の方に出雲の話をしようという無謀な企みである。ネタ作りに苦労しているのである。
そこで今日は、戦国の時代の出雲城跡にチャレンジ。ところが、行く方法がわからない。そこで先々代の出雲区長の西野さんと、先代の門脇区長に頼んで探索してきた。
十二柱神社から白河(しらが)へ行く、峠越しの道がある。出雲区の共同墓地をすぎて、ダンノダイラと白河への分岐点から、右の檜林にはいる。両人とも長くつ、草刈鎌で道を作りながらヒノキ林を進んでいく。
150mほど南にすすむと初めの堀切。しっかり形が残っている。期待が高まる。
二つ目の堀切は深い。幅8m、深さが4mほどある様子である。
ここを越えると、これが曲輪。最高点とのことである。標高は183m。村からの比高は60mである。
さらに堀切を渡ると平たんな空き地。400平米ほどで、これが主郭。背中に土塁を背負っていて、左右の前方には帯曲輪を設けている。
まともに砦の姿、お城の姿が残っているのである。
400年以上も前の遺構である。新たな堀切、新たな曲輪を見るごとに感動の連続だった。
城跡は檜の林にあるが、これは50年ほど前に植林されたもので、もともとはクヌギの林だったとのこと。常緑樹の方が土壌は崩れれやすいとのこと、クヌギの林だったことが城跡に保存に力になったとのことである。
個人の持ち山である。所有者の意向を無視することはできないが、これは皆さんに見てもらいたいと思う。
共同墓地から城跡をのぞむ。一番高いところが曲輪、右が主郭、その先の山はダケである。
帰り道、十二柱神社の狛犬を支える力士像をパチリ。
元桜井市の教育委員化に在職された金松さんが詳細な報告を出されている。城の縄張図も金松さんの資料による。
出雲城
桜井市出雲字城山に所在する。標高183m、比高60m、出雲集落北東の尾根先端付近に立地する。眼下に伊勢街道、西側には白河集落に続く山道がある。
主郭は47m×25mを測る。北端には高さ3,5mの櫓台状の土塁が設けられ、東西に傾斜している。西辺は北辺土塁から続く高さ約0,6mの土塁ラインが設けられ、南西端で東に折れる。東辺には土塁がみられない。主郭東側と西側には帯曲輪を排している。
主郭南西端は二重堀切で城域を画す。そして、主郭北側は三重の断面薬研状の堀切で城域を画す。堀切の規模は北からそれぞれ幅約9m・深さ約4m、幅約8m・深さ約3m、幅約9m・深さ約3mを測る。北から2・3本目の堀切間は曲輪となっている。
出雲城周辺の動向として注目できるのは、永禄3年(1560)11月、当時大和支配を進めようとしていた松永久秀方による、初瀬・宇陀攻めである。すなわち、11月18日に(『細川両家記』)。この、軍地的緊張が出雲白築城の契機となった可能性が想定されよう。
築城主体としては、当地との関係を持つとされる国人慈恩寺氏などの在地勢力ではなく、より広域な勢力を想定するのが妥当でいえよう。(『出雲区における講座資料から』金松誠 三木市教育員会)