ブログトップ

奈良・桜井の歴史と社会

koza5555.exblog.jp

筒城宮の家蚕、纒向遺跡の天蚕

継体天皇の足跡をたどって筒城宮跡(京田辺市の同志社大学)を訪ねる。
仁徳天皇と石之日賣命(磐之媛・イワノヒメ)をめぐる記紀の筒城(筒木)宮がダブってくる。

同志社大学の田辺校地には、宮跡を掲揚する石碑が二本、建てられている。

a0237937_10312750.jpg
左が、地元の筒城宮跡掲揚会が同志社国際高校に立て、その後、この地に移転した。
右は、三宅安兵衛さんが関係した「継体天皇皇居故跡」碑。多々羅に立てられた(1928年)が、同志社国際高校に移転(1960年)、その後、掲揚会の碑と合わせて、大学敷地に移転(1986年)されたと記されていた。

三宅安兵衛さんは、この地でもう一本、記念碑を立てていた。
「日本最初外国蚕飼育旧跡」という石碑である。大学から1キロメートルくらいの多々羅西平川原。オートバイの修理屋さんの前だった。
a0237937_10323853.jpg


仁徳天皇とイワノヒメに関わる家蚕のお話である。
天皇と矢田若郎女との仲を、「大(いた)く恨み怒りまして・・・堀江をさかのぼり、河のまにまに山代に上りいでましき」、「山代より廻りて奈良の山口に到」り、「暫し筒木の韓人、ヌリノミの家に入りましき」とある。
天皇からの使いにヌリノミたちは、「一度は這う虫になり、一度は殻(まゆ)になり、一度は飛ぶ鳥になって、三色に変わる珍しい虫を見に来ているだけ」と答える。
天皇は「しからば吾も見たい。見に行こう」と出かけてくるが、やはり首尾はうまくいかないというくだりである。
古事記には養蚕のことがこんなふうに描かれている。

百済から蚕が持ち込まれ、飼われたのが、筒城の地として、これを記念する碑が立てられている。
同志社大学(田辺校地)から1キロくらい、すぐそばであるが、「日本最初外国蚕飼育旧跡」と刻まれている。
a0237937_10345267.jpg


「碑隠 昭和三年春 京都三宅安兵衛依遺志建之
この碑は、昭和3(1928)年京都に住む篤志家により建立されたものである。 多々羅には百済からの帰化人たちが豪族の奴理能美(ぬりのみ)を中心に住み、養蚕と絹生産を営んでいた。「古事記」の仁徳天皇の条によると、仁徳天皇の皇后・磐之媛(いわのひめ)が、この地に住む奴理能美の邸宅を宮室として居住され、“一度は這う虫になり、一度は殻になり、一度は飛ぶ鳥になって、三色に変わる”という珍しい虫(蚕)を見たとの記述がある。 この物語を根拠として、外国から蚕が持ち込まれ初めて飼われたのが、筒城の地であり、それは古代から商業が栄えていた多々羅であると考えられている。」(
京田辺市観光協会)

ところで、魏志倭人伝に「蚕を桑で飼って絹を作る」というくだりがある。
「禾(か)稲(とう)・紵(ちょ)麻(ま)を種(う)え、蚕桑緝(さんそうしゅう)績(せき)し、細紵(さいちょ)・緜(けんめん)を出(い)だす。」

纒向の天蚕のことである。
先日、奈良まほろばソムリエの会で、桜井市の橋本輝彦さんのお話を聞く会があった。「桜井市の埋蔵文化財センターがどんな仕事をしているか」のようなお話しだったが、纒向遺跡に話が及ぶことは必定で、その一つとして「尾崎花地区の巾着状絹製品」(槇野内)を語られた。
これは珠城山古墳のすぐ北側から出土した。布留0式あたりの地相から出たもので、邪馬台国の時代のものである。橋本さんたちは、あれこれ苦労して、これは天蚕(やままゆ)から手繰った糸で作られた平織りの絹布、その巾着であることを突き止めた、そんなことを話してくれた。
a0237937_1037340.jpg



魏志倭人伝に書かれたのは家蚕(やさん)だろうか。天蚕の可能性はないのだろうか。
そして、纒向には天蚕の技術はあったが、家蚕の技術は無かったのだろうか。
by koza5555 | 2017-05-16 10:52 | 邪馬台国(やまとこく) | Comments(0)
<< うましうるわし奈良 談山神社 継体天皇 『北風に起つ』 >>