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奈良・桜井の歴史と社会

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多武峰の参詣道と町石の道

談山神社の社報、第89号が発行された。本日、2月15日、桜井市の全紙の折り込みに入っている。
「談」の会の会員には、順次発送される。
僕は二面、一ページをいただいている。今回は「多武峰の参詣道と町石の道」をまとめてみた。
ずっと書きたいなと考えていたテーマで、それなりに納得のいくものが書けた。
紹介してみよう。

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一の鳥居から談山神社に至るまで一町ごとに、およそ100メートルを区切りにして町石が置かれている。呼び方は「ちょうせき」とも「ちょういし」とも言われている。

今回は、この町石に迫ってみた。

浅古の一の鳥居の脇には初町と刻まれた石塔があり、談山神社の入り口の摩尼輪塔(まにりんとう)の脇には第52町と刻まれた同型の石が立てられている。52基は順番に配置されていたことは明らかである。仏教では悟りに達するのには52の段階、修業が必要とされているが、それに対応して52基の町石が配置されているのである。修行は信心から始まり、念心、精進心というように進み、52番目の妙覚位は悟りを開いた境地とされている。

町石もこれにならい、一基ごとに「信心位 初町」、「念心位 二町」、と刻まれ、最後の52町石は「第五十二 妙覚位」とされている。町石を辿りながら参詣すれば、おのずから仏の境地に到達できるという道しるべとなっている。

桜井市史(昭和47年)に、この町石が紹介されている。また、12年ほど前に奈良国立博物館の研究紀要で『多武峰の町石』が取り上げられ、元興寺文化財研究所が県道拡幅工事に伴う調査を実施、『多武峰町石調査報告書』を、昨年に発表している。

町石には、40年前(桜井市史)、12年前(奈良国立博物館)、現在(元興寺文化財研究所)の資料があるわけで、これを比べてみると変遷は手に取るようにわかる。今日はそこらあたりを考えてみることにした。

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52基の町石は32本が現存している。町石には「承応3年(1654年)」の年号が刻まれていて、360年前のものであることは明確であるまた町石と対となっている摩尼輪塔はさらに古いもので、乾元二年(一三〇三年)、鎌倉時代の製作であることも判明している。
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摩尼輪塔は鎌倉時代、町石は江戸時代に作られた。作られた時期は大きく違うが、もともとは石製の摩尼輪塔と木製の卒塔婆という組み合わせとの論もあり、この卒塔婆を石製で修理したのが江戸時代だとのことである。
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屋形橋と東門の短い距離のところに第46町、第19町、それから第47町とあわせて3基おかれている。第19町は持ち込まれたものであるが、桜井市史によれば40年前は北音羽にあるとされている。12年前にはすでにこの位置に移動されたとされている。「どんな経過で移設したのか」と尋ねて回った。すると、「ここにあった。トラックに当てられ折れていた。道路拡張の時に置くところが無くなり神社が引き取っていった」とのお話を聞くことができた。「移設してから20年は経つよ」とのことである。

下区の大字内に置かれている第6町石に特別に注目したい。現在は完形ですくっと立っている。ところが12年前の調査では横倒しとなっていて、ワイヤーが掛けられ、いかにもどこからか引き上げてきた様子である。40年前の桜井市史によると、これは「亡失」となっている。江戸時代に立てられたものが40年前には無くて、12年前は横倒し、現在は立っているということである。この経過を下(しも)の前の区長さんにお聞きした。「昭和25年のジェーン台風で流されたと聞いている。川底から拾い上げた。それを平成22年に立て直した。再建の式典もおこなった」と言われるのである。

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江戸時代の初めから村人、旅人を見守ってきた町石、これはすごいが、同時にこれを守ってきた、そして今も大事にしている地域の人もすごいなということである。


一基、一基、よく見ていただきたい。文字が判読できるものもあちこちに残されている。
多武峰の町石は奈良県の指定文化財に、町石と対とみられる摩尼輪塔(まにりんとう)は、国の重要文化財に指定されている。

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ありがとうございました。

# by koza5555 | 2018-02-14 23:17 | 桜井・多武峰 | Comments(0)

飛鳥坐(あすかにいます)神社 おんだ(田植)祭

飛鳥坐(あすかにいます)神社 おんだ(田植)祭は 2月の第一日曜日。

この有名な行事、僕は初めてである。それなりに敬遠してきた(笑)。しかし、オンダを話そうと考えると、これは欠かせない。

祭祀と行事は午後2時からであるが、カメラポジションということもある。早めに行くことに。場所取り用に脚立も用意して万全である。

3時間前、午前11時に会場に到着するが、舞台前の最前列には脚立があり、立っている人もいて、もう入る余地がない。拝殿前の上段にかろうじて空き場所を見つけて脚立が置けた。

それから鳥居あたりに出てみると、もう翁と天狗がバシバシと人のお尻を叩いている。

先を裂いたササラと称する青竹である。

激しくたたく。ぶっ叩くという言葉以外にたとえようがない。

子どもを追い回す。

若い女性を叩く。

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若い男には容赦なく、力一杯だ。

僕も叩かれたが、若い男とは見てくれなかったようで、やさしい叩かれ方。

「叩くことにより厄が飛び散ると考えて」と宮司は解説する。なるほど、それなら強く叩かれるほど良いわけである。

まともにお尻を叩かれたときはさほどではないようであるが、腿に当たると、これは激痛である。

2時から祭祀。舞殿というんだろうか祭を行う場所と、拝殿・本殿の間に観客が入るという特殊な形である。

祭は本殿に向けて行うが、あたかも観客に向けて行われるような形でよく見ることができる。

神饌はコメ、豆、キビ。オンダに使う早苗(松葉)も供えられる。

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玉ぐし奉奠があり、撤饌、しばらく休憩である。

神事は二部制だった。

一部はオンダの所作。

二部が結婚の儀である。

一部は畔切り、マンガとお田植行事がすすみ、田植えは宮司が行い、終了後、早苗は天狗や翁、牛により客席に投げ入れられる。

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二部が結婚の儀である。

天狗とお多福は寄り添って登壇。

まずは天狗とお多福の婚礼の儀式が行われる。

お多福は山もりのご飯、「鼻つきめし」を宮司に給仕する。

天狗が股間に竹筒を構えて舞台を暴れまわる。

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それから「種付けの儀」となる。天狗がササラでお多福の尻を叩き、天狗とお多福の間で性交を模した所作が行われる。

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翁は「ふくの紙」を投げる(拭いた紙が投げられる。これは子宝に恵まれる福の紙である)

その後、お多福が天狗の尻を叩き、もう一度、性交を模した所作がある。初めはお多福が上に乗る。

なるほど、男女平等だ。

お多福が中心となり、「ふくの紙」を投げる。

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西日本、四大性神事とのこと。

他の3つのお祭りは、奈良県江包の網掛け祭り、愛知県三河(西尾市熱池)のてんてこ祭り 田縣神社(小牧市)豊年祭で、奈良と愛知とのことである。

ちなみに僕は愛知県に40年、奈良で12年なんだけど(笑)

飛鳥坐神社のおんだ神事、しょさは卑猥と言えば卑猥なんだけど、まあ、ユーモラスで楽しかった。

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# by koza5555 | 2018-02-04 22:43 | 橿原・明日香・御所・吉野 | Comments(0)

五輪塔と 出雲の野見宿禰五輪塔

またまた、出雲の話題である。


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出雲には広々とした段々畑が

出雲の十二柱神社には野見宿禰を祀るという五輪塔が残されている。

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「南300mの出雲の塔ノ本に所在していたのを明治20年(1887年)、神社の手洗石の場所に移し、昭和30年に現在地に再移転した」とし、「長谷寺僧が弥勒仏下生の地を想定して造建したが、願主は20体の梵字仏に意匠を凝らしていて特殊な信仰をあらわすものと思われる。大きな岩から手造りした雅趣ある造作に風格がる。野見宿禰の墓という伝えは出雲に結び付いたものである」(桜井市史上p916


この石塔、「五輪四面に単独梵字仏20体をあらわす日本で唯一つの珍しい古塔」と太田古朴は『大和の石仏』で記している。


「一番下から

地輪(方形)は四天王。

水輪(円形)は金剛界四仏。

火輪(笠石)は薬師仏と釈迦、十一面観音と地蔵で

風輪(受花)は不動、弥勒、一字金輪、文殊

空輪(宝珠)は両界大日如来、観音、南面は宝篋印塔」との記述である。

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以上は『桜井市史』

「日本で唯一」とはただ事ではない。「普通の五輪塔とは何が違うのか」である。


五輪塔は『大日経』などに示される密教の思想の影響が強くて、下から「地(ア )、水(バ )、火(ラ)、風(カ )、空(キャ )」の梵字による五大種子(種字 しゅじ)が刻まれる。

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下から読むと、アビラオンケン(ソワカ)で、これは大日如来のご真言である。

五輪塔は、地・水・火・風・空で、宇宙と大地を司る大日如来と一体化を目指す塔だった。

こんな風に見ると、出雲の五輪塔との差が、なるほど、なるほど理解できた。出雲の五輪塔は大日如来の御真言ではないのである。


一方、この大日如来の梵字は出雲ではいつでも見ることができる。
出雲には庚申塔華の行事がある。庚申の日、願人は「奉 青面金剛童子 村内無事 家内安全、五穀豊穣、如意吉祥 修」と刻んだ樫の木を持ち寄り、僧侶に梵字の記入を受けてから法要が始まる。

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この樫の木の記されるのが大日如来のご真言、五大種字である。

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出雲の庚申塔華


出雲の五輪塔には、向きが違うとか、刻み間違いがあるなどの飛び切りの裏ネタもあるが、それはそれで触れ方が難しいし、その具体的な姿が示せれなくては反感が出るだけである。


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こんなダルマ落としみたいなブロックを作って、倒したり、回したりして考えている。


出雲の講演会。「出雲と初瀬谷  記紀万葉と今」は、出雲の十二柱神社境内、出雲農村集落センターにおいて、210日(土)午後130分からである。ぜひ、おいでください。参加費は無料です。



# by koza5555 | 2018-01-26 22:23 | 桜井・初瀬 | Comments(0)

ダンノダイラ(桜井市出雲)


出雲(桜井)には出雲人形、十二柱神社の五輪塔があり、長岳寺石工僧 善教の作とされるお地蔵さん(知福寺)など、興味深いものをあれこれ書いてきたが、今までに書いてないのは「ダンノダイラ」である。


ダンノダイラ、出雲から北の山を見上げる。三輪山から長谷山にかけての稜線のすぐ下に大きな平たん地があり、磐座があり、古代の生活と祭祀の遺跡が残されている場所である。



ここはちょっと避けてきたのであるが、出雲を語ろうとすると避けて通れないわけで・・・登ってきた。

ルートは二カ所。出雲の集落から歩いて登る方法がメインルート。健康的である。標高差は350mである。

あと一つは巻の内から車で奥不動院まで車で上がる方法である。道はちょっとすごい。会うことはほとんどないが、対向車があれば大変である。

今日は車で上がった。

奥不動院の駐車場に停める。

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奥不動院を抜けてそのまま三輪山から長谷山への稜線まで登る。稜線に上がったら左へ。ダンノダイラの看板はある。30mほどで二又に。右へ進む。そのまま200mくらいでダンノダイラに到着。

大きな平たん地。杉林である。右側はクヌギ林。「クヌギの林は山肌を崩さない」と、このクヌギの山主の西野さんは言われていた。

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初めに磐座に。

三段に分かれている。

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これが一段目。

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これは三段目である。

幅は5m以上。土の埋もれたところは判らないが、三段、全体の高さは15mくらいはあるだろうか。


素晴らしいの一語だ。

サークルストーンもある。

平たん地の真ん中あたりに割れ目。こんな頂上近くだが、水が今日も流れていて、しっかり浸食されていた。

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出雲村に残されてきた古い絵図には「段ノダイラ」とされている。


大昔の出雲村は”ダンノダイラ”にあった

明治の初め頃まで、毎年、年に一度、村中の者が『ダンノダイラ』へ行って、昔の祖先を偲んで、そこで弁当を食べたり、相撲をしたりして、一日中遊んだもんだー(村の山登りの行事は、嶽山でこれとは別)

それからその『ダンノダイラ』の東の方に、大きい岩があって、それを拝んだソーナ

出雲の氏神さんは本殿はなく、出雲村から真北の方向にある大岩――その岩を拝んだソーナ。年寄りからよく聞かされたモンだ
西脇翁からの聞き取り
    『大和出雲の新発見』(栄長増文著)より

出雲にとって、ダンノダイラは心の故郷というべきものなんだろう。



# by koza5555 | 2018-01-20 21:29 | 桜井・初瀬 | Comments(0)

出雲城跡 桜井市


26日(土)に出雲(桜井市)で講演する。出雲区の「相撲開祖 野見宿禰顕彰会」の主催である。

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十二柱神社、狛犬を支える力士像

初めに出雲城の縄張り図を見てほしい。城の前面からはとても坂がきつくて無理。尾根から下がってくる形(北から南へ)で城跡に入る。

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出雲の方に出雲の話をしようという無謀な企みである。ネタ作りに苦労しているのである。


そこで今日は、戦国の時代の出雲城跡にチャレンジ。ところが、行く方法がわからない。そこで先々代の出雲区長の西野さんと、先代の門脇区長に頼んで探索してきた。

十二柱神社から白河(しらが)へ行く、峠越しの道がある。出雲区の共同墓地をすぎて、ダンノダイラと白河への分岐点から、右の檜林にはいる。両人とも長くつ、草刈鎌で道を作りながらヒノキ林を進んでいく。

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150mほど南にすすむと初めの堀切。しっかり形が残っている。期待が高まる。

二つ目の堀切は深い。幅8m、深さが4mほどある様子である。

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ここを越えると、これが曲輪。最高点とのことである。標高は183m。村からの比高は60mである。

さらに堀切を渡ると平たんな空き地。400平米ほどで、これが主郭。背中に土塁を背負っていて、左右の前方には帯曲輪を設けている。

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まともに砦の姿、お城の姿が残っているのである。

400年以上も前の遺構である。新たな堀切、新たな曲輪を見るごとに感動の連続だった。

城跡は檜の林にあるが、これは50年ほど前に植林されたもので、もともとはクヌギの林だったとのこと。常緑樹の方が土壌は崩れれやすいとのこと、クヌギの林だったことが城跡に保存に力になったとのことである。

個人の持ち山である。所有者の意向を無視することはできないが、これは皆さんに見てもらいたいと思う。

共同墓地から城跡をのぞむ。一番高いところが曲輪、右が主郭、その先の山はダケである。

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帰り道、十二柱神社の狛犬を支える力士像をパチリ。

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元桜井市の教育委員化に在職された金松さんが詳細な報告を出されている。城の縄張図も金松さんの資料による。

出雲城

 桜井市出雲字城山に所在する。標高183m、比高60m、出雲集落北東の尾根先端付近に立地する。眼下に伊勢街道、西側には白河集落に続く山道がある。 

 主郭は47m×25mを測る。北端には高さ3,5mの櫓台状の土塁が設けられ、東西に傾斜している。西辺は北辺土塁から続く高さ約0,6mの土塁ラインが設けられ、南西端で東に折れる。東辺には土塁がみられない。主郭東側と西側には帯曲輪を排している。

主郭南西端は二重堀切で城域を画す。そして、主郭北側は三重の断面薬研状の堀切で城域を画す。堀切の規模は北からそれぞれ幅約9m・深さ約4m、幅約8m・深さ約3m、幅約9m・深さ約3mを測る。北から2・3本目の堀切間は曲輪となっている。

出雲城周辺の動向として注目できるのは、永禄3年(156011月、当時大和支配を進めようとしていた松永久秀方による、初瀬・宇陀攻めである。すなわち、1118日に(『細川両家記』)。この、軍地的緊張が出雲白築城の契機となった可能性が想定されよう。

築城主体としては、当地との関係を持つとされる国人慈恩寺氏などの在地勢力ではなく、より広域な勢力を想定するのが妥当でいえよう。(『出雲区における講座資料から』金松誠 三木市教育員会)


# by koza5555 | 2018-01-19 22:33 | 桜井・初瀬 | Comments(0)

陀々堂の鬼はしり

奈良県の重要無形民俗文化財の指定は7件。

指定順ではなく、年の初めから見てみると一番は「陀々堂の鬼はしり」(19951226日 五條市 念佛寺鬼はしり保存会)である。

念佛寺、修正会の結願として毎年1月14日に行われる。

五條市の念仏寺で開催される。

14日の午後4時から、昼の鬼はしりが始まる。これは無灯火だが、鬼はしりと同じ所作が行われる。続いて子供鬼走りである。

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その後、御供まきも行われる。

鬼はしりは夜間だが、初めて行かれるなら昼の鬼はしりもおすすめである。

午後9時,鬼走りの行者は迎えの小たいまつに続いて入堂する。

父鬼は赤、母鬼は青、子鬼は茶の麻の衣装である。手や足にはカンジョーリという紙縄で衣服を縛る。

鐘を合図に、須弥壇の裏をカタン,カタンと樫の棒(板)でたたく音が響く。乱声乱打(らんじょうらんだ・・こちらでは「らんせい」と言われていた)である。

はじめに火天(カッテ)役による「火伏の行(ひぶせのぎょう)」。桶にはめ込まれた大きなたいまつを空に向かって水の字を書く。最後にそれを天井高く差し上げた。

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鬼走りが始まる。たいまつは佐役(スケ)が持ち上げる。斧を持った赤鬼がともに現れ、スケから松明を受け取る。

片腕,片膝でたいまつを受け取った赤鬼は,天空に向かって斧を構えて静止し,火の粉を振りまきながら正面戸口に歩を進める。

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続いて青鬼。さらに茶鬼である。そろって静止した後は順次下がって、堂内を阿弥陀如来を廻る形で周回して、あらためて右手から登場する。こうして堂内を三周して、行は終わりである。

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残されたお面の裏には文明18年(1486年)の文字が残されていることや、安永2年(1773年)の村鑑明細帳には、現在と同じ所作が記されているとのことで、行事の歴史の裏付けもあるのである。

道路事情が劇的改善で、奈良盆地から五條へはとても早くなった。五條西インターチェンジから降りて、一キロもいかない上野公園の駐車場が公的駐車場で、こちらからはマイクロバスのピストン運行である。お昼過ぎから完全に終了するまで随時に運行されていて、とても便利である。混雑するお寺の駐車場に入る必要はない。地図を参照。

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奈良県下で、国が指定した重要無形民俗文化財は以下のとおりである。

題目立
春日若宮おん祭の神事芸能
十津川の大踊
陀々堂の鬼はしり
奈良豆比古神社の翁舞
吉野の樽丸製作技術
江包・大西の御綱(以上、指定順)

大和の神々』(奈良新聞社1996年)参照




# by koza5555 | 2018-01-15 14:43 | 橿原・明日香・御所・吉野 | Comments(0)

奈良で一番早い  植槻神社(大和郡山市植槻町)のオンダ

植槻八幡神社

平城京地鎮の古社。創建年不詳。伝承では藤原不比等ゆかりの幻の古刹・殖槻(建法)寺の鎮守社で、平城京の裏鬼門(西南)にあたる宇惠都支(植槻)の地に勧請された。清少納言『枕草子』の「森は(106・195)」に「うゑ(へ)つきの森」の記述がある。毎17日斎行の『植槻おん田祭』は古くから大和三大奇祭の1つ。 植槻神社ツィター


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大和郡山城のすぐ北である

例年は「午前10時に斎行」とのことで訪れたが、シーンとしている。オンダは午後4時から、10時からおぜんざいの接待はいたしますとのことである。大和郡山はちょっと遠いのであるが、出直しである。

ポイントは植槻神社の公式ツイッターにあるように、この神社の前身は平城京の裏鬼門備えのお寺と神社とのことである。九条三坊という条坊からみて、それは認められるとの見解が大和郡山市史に記されている。

さらにポイント。こちらのオンダは、奈良では年明け一番のオンダ祭であるということがある。

オンダは僕の今年のテーマであり、これは見逃せなかった。

神主を先頭に、牛の鼻持ち、牛役、牛追いと拝殿に上る。拝殿の中での行事に今年から変わったとのことである。

鼻持ちは翁の面をかぶり、朗々と口上を述べる。お面をかぶっての口上だが、セリフの内容、声量が氏子のレベルを超えている。そのあとは鼻持ちが鍬をもって、セリフをしゃべりながら、田を耕す(畔を作る?)。

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牛の出番である。牛はカラスキ(唐鋤)を付けて3周、その次にはマンガ(馬鍬)に代えて3周である。

種まきは鼻持ちがして、早苗(松葉)が育ち、田植えとなる。

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こちらの神社には、オンダ祭りに使う鍬(くわ)には、天保10年〈1839〉の墨書銘が残されているのとのことであるが、写真の鍬がそれかどうかは確かめ損ねた。

奈良一番のオンダは17日の植槻神社、奈良で一番終わりのオンダが石上神宮、630日の神剣渡御祭(でんでん祭り)の神田神社で行われるオンダである。

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こちらは石上神宮である。この日は雨で神剣渡御祭が中止。オンダだけ石上神宮の拝殿で実施された




# by koza5555 | 2018-01-07 22:38 | 奈良 | Comments(0)

東大寺勧進所の赤門と公慶上人

東大寺の勧進所の門は赤門である。おなじような赤門を法華寺にみることができ、室生寺にも赤門が残されている。

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            東大寺勧進所の赤門


4月だったか、菅谷文則先生の「歴史と色」という講義を受けた。色は身分を示したり、生死を分ける印であったりということを令義解(りょうぎげ・平安時代の法律の解説書みたいなもの)からの解説だった。


この中で東大寺の勧進所の赤門と東京大学の赤門を話題とされた。少し、時間も経っているが、最近、東大の写真も撮ってきたので、これを僕なりに考えてみた。


東大寺勧進所の門は赤門である。公慶は貞享3年(1686年)、大仏修復勧進を本格的にするため、東大寺の穀屋の地に龍松院(勧進所)を建てる。勧進をすすめて、元禄元年(1688年)には、東山天皇から上人号が勅許された。公慶の個人の評価だけではなく、大仏復興事業を朝廷が認めたということだった。


さて、赤門は門跡寺院(皇族が所属する)などに許されるものである。また江戸時代の大名屋敷などからみてみると、三位以上の官位を受けた者だけに許される門だった。その意味から見ると、公慶上人は三位相当ということなのだろうか。

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      法華寺の赤門。門跡寺院である。

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室生寺の赤門。太鼓橋を渡ると道なりにすぎ左手に見える。開かずの門である。この赤門の設置理由は不明である。


赤門といえば、東京大学である。

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文政10年(1827)加賀藩主 前田家斉にとついだ11代将軍徳川家斉の息女溶姫のために建てられた朱塗りの御守殿(ごしゅでん)門であり、重要文化財に指定されています。(掲示板)

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江戸時代、大名家に嫁した将軍家の子女が居住する奥御殿は御守殿という。これは三位以上の大名であり、この場合は御守殿門が赤門とされた。四位以下の場合は 御住居(おすまい)と称して朱塗りにはされないとのことである。


第13代加賀藩主、前田斉泰は将軍家斉の娘の溶姫を迎えることにより、従三位に昇進したとされる。

この頃(幕末)になると、三位で御守殿、四位のままで御住居という選択は、台所の事情により藩の意向も反映する時代となったと聞く。もちろん、加賀藩は大藩だる。当然、従三位の昇進を求めて、溶姫を迎え、御守殿、赤門を用意したという論もある。

こんな歴史も経て赤門は作られて200年となる。加賀藩の赤門よりもはるかに長い時間を東京大学の赤門として、いまも役割を果たしているのである。


最後に勧進所の赤門と公慶上人に戻りたい。公慶上人はどんなふうに赤門を通っていたのかなである。ところが「公慶上人は赤門を通らなかった」という見方もできるのではと考えた。

上人と勅許されるのは1688年である。

東大寺には「大仏開眼供養図」という屏風が残されている。1692年の会式の図である。この絵に勧進所の赤門が描かれていない。

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話はそれだけである。赤門が作られたのは公慶上人が亡くなってから(1705年)のことかもしれないというのが、僕の問題意識である。
そして、公慶上人の偉業を改めて勉強できたのは、付録の喜びだった。


公慶上人は大仏の修復に成功した。大仏殿の再建の道筋はきちんとつけて亡くなった。

開眼会に参加した僧は一万人以上、俗人が20万人という。当時の奈良市民の10倍以上とのことである。

「公慶はプロデューサーの優れた能力があったように思われる。どのようにすれば人が集まるか、どのようにすれば人が喜ぶか、とてもよくわかっている.企画が優れ、段取りがよく、工夫がみられ、配慮がある。学僧でありながら勧進にも才能を発揮し、何よりも燃え滾る宗教的情熱がある。(西山厚)

参考文献  『近世の奈良 東大寺』 公慶上人の生涯  西山厚 



# by koza5555 | 2017-12-29 06:40 | 奈良 | Comments(0)

嶽山(だけやま)古墳

宇陀市榛原安田の山中である。

嶽山から安田に下る尾根に真南に開口する横口式石槨墳である。見た目では横穴式石室の奥に石槨が取り付けたという形で、複雑で不思議な構造となっている。


桜井市の中心部から東を見るとまずは外鎌山だが、実はその奥に大きな山を見ることができる。

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こんな形で堂々としている。ちょっとカマボコ型で東西に長いから、きたの初瀬から見ると台形に見える。この山の南側は笠間、安田、雨師(いずれも宇陀市榛原)と西から東に並んでいる。

国土地理院の地図には526mと記されるが、山名が記されていない。登山道は笠間の新陽明院陵の横から登っていくとNHKの中継塔が設置されている頂上に到着する。

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            新陽明門院陵

笠間の方に山名をお聞きしたことがある。「ダケだ」とのことである。「いや、山の名は」と重ねて聞くと「ダケ」。

違う機会に雨師の方に聞いたら、「ダケ」、しいて言えば「雨師のダケ」。

「ダケ」だけという山名、村にとっては大事な山だったんだなと思われる。

この名前の古墳があることに、今更ながらだが、最近気が付いた。それは「嶽山(ダケヤマ)古墳」という名である。「ああ、ダケは岳じゃなく、嶽なのね」、という感じである。

明治26年に調査されたという野淵龍潜の調査でも286番として記録がある。

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これをさがした。なかなか見つからなかった何とか到着できた。

安田区の農事集積所をまっすぐ西に上がる。左手に「嶽山古墳150m」の看板がある。

そのまま上ると右に電柵が張られた道が見える。そのまま20mも上がると車が停められる。電柵のフックを外して山に入る。すぐに左に分かれる道があり、それを登る。100mほど登ると右手に看板、右へ行けである。ブッシュをかき分けながら右に入ると尾根の真ん

中に大右があり、到達できた。

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入口見る、狭い。先も見えない。これは絶対に無理である。

墳丘の上に上ると、僥倖、カメラが入る穴があった。横穴古墳かと考えたが、一番おくに石槨が築かれている。

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玄室の奥に石槨があるとはと驚くが、これは大阪府羽曳野市の飛鳥千塚古墳群、奈良では桜井(この古墳と近接)の花山西塚古墳(国史跡)位のものらしい。

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「村の西方帰山の峰にあり。石窟ありといえども・・・入りえず」と龍潜は記した。ほかにも「石槨は見ることができない」とされていたが、最近、羨道の合間に口が開いたと思われる。だから、カメラは入る、滑りこめば入れると思うが、出てくるのが至難の業。それは現場で判断してください(笑)。

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# by koza5555 | 2017-12-27 21:41 | 宇陀 | Comments(0)

谷(桜井市)の綱かけ

12月23日は、桜井市谷の綱かけ行事が行われた。
昭和19年の『和州祭礼記』(辻本好孝著)には、写真入りで紹介されている。
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谷の氏神様である磐余若桜神社で15メートルほどの綱を綯う。この綱作りは若桜神社の境内で行うが、事前に作られていて、23日は綱かけと神事だけである。

9時くらいから古い綱を外す。
さっそく綱掛が始まる。谷は市街化がすすんだ地域で、「どうしてここが綱掛け場?」とも思えるが、古くはここが村の入り口だった。参加されている最長老が「谷本町は28軒、純粋な農村だった」と言われるが、その雰囲気はあまりない。

頭部が三つに分かれた龍頭があり、それは東のエノキに取り付けられる。西には樹木は無く綱掛け用のポールが建てられている。
エノキに取り付けられた龍頭はアキの方向、来年は南南東に向けられる。

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ちなみにご幣は北向きで谷本町という村から見ると下流向きである。
「邪気に対してはツナ、エノキに取り付けられた龍頭が農神を迎える」と、説明される。

もともと谷の村、特に谷本町(若桜神社周辺の家々)で綱掛行事が行われてきたが、平成に入ってからは「大昭会」(大正・昭和世代で)という講のようなものを設立、そのうちの若手を「二期会」と称して未来に続く組織づくりをされている。
綱を作るのは大昭会と二期会、ツナを掛けるのは谷本町という分担である。
玉串奉奠を見ていると、谷区長、谷本町総代、磐余若桜神社総代、大昭会、二期会の代表の5人だった。
神事、行事が継続できる体制ができている。

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宮司は等彌神社の佐藤宮司である

祭典の最後には、神職を先頭に土地の神、ツナの神をたたえて参列者全員が祭祀場(道路であるが)を三周するという所作がある。
ツナの下を出て、ツナの下から入る、これを黙々と3回である。祭のあとに、たき火の廻りを「ええと、かいと」、「ええと、かいと」と唱えられながら回る儀式を八咫烏神社(宇陀市」の秋祭りで拝見して衝撃を受けたことがあるが、同じ形の行事である。何か、古式に則っているのだろうか。

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先日、東京で勧請綱を講演した時、「それにしても奈良って、本当にすぐそこに神様がいるんだなあ……と思ったりしました」という感想をいただいたが、僕も今日、それを感じた。
谷の綱かけ行事、毎年12月23日、午前10時(9時くらいには来てほしい)からである。
# by koza5555 | 2017-12-23 21:54 | 桜井市と安倍 | Comments(0)

かぎろひを観る会 大宇陀の万葉公園

12月21日付の『毎日新聞』の奈良版、ディスカバー奈良に、大宇陀万葉公園の「かぎろひを観る会」を書いた。

例年、歳末に行われる「かぎろひを観る会」は、今年は年明けの1月3日に実施される。
「かぎろひ」とは、日の出前に東の空が赤紫色に染まる現象というのが大宇陀の観光協会の「公式見解」である。東の空が赤紫色に染まる、かぎろひである。振り返れば西の空に月が見える、これが旧暦の11月17日に見られる現象だろうという事である。今年は、この日が新年の正月月3日ということである。

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この写真は現地では、「かぎろひ」とは認定してもらえないものであるが、僕が撮った最近の写真だ。曙光をバックに高見山が浮かび上がるすばらしい絵となった。

阿騎の野に 宿る旅人 うちなびき 眠(い)も寝らめやも 古(いにしえ) 思ふに
(巻1―46)阿紀神社に歌碑

東の 野にかぎろひの 立つみえて かへり見すれば 月傾きぬ 
    (巻1―48)    かぎろひの丘

これらの一連の万葉歌は秋の気配を示していて、柿本人麻呂の歌が旧暦11月17日とということを示しているのではと僕は考える。

こんなことを考えながら、毎日新聞のディスカバー奈良で、「かぎろひを観る会」を紹介させていただいた。

1月3日。午前4時から7時まである。
たき火を囲んでの講演や演奏が行われる。今年は元天理大学の谷山正道先生が、「宇陀の歴史と薬草」
というテーマで語られる。

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大宇陀、阿紀野は600年代から日本書紀に記され、万葉集に詠われた歴史に名を留める名所である。
①推古天皇19年(611年)5月5日に、菟田野で薬猟が行われている。
また、壬申の乱(672年)、天武天皇(大海子皇子)の東国発ちでは、吉野から東国へ向かう時、この宇陀・阿騎野を越えたことが記されている。

「その日に菟田の吾城に到る。大伴連馬來田・黃書造(きふみのみやっこ)大伴、吉野宮(よしののみや)より追ひて至けり。この時に、屯田司の舍人土師連馬手、從駕(おほみともにつかえまつる)者の食を供る。
甘羅(かむらの)村を過ぎ、獵者(かりびと)二十余人有り。ことごとくに喚して、ともにつかえまつらしむ。

その後は柿本人麻呂人麻呂が随行して、歌を歌った持統天皇6年(692年)、草壁皇子の遺児である軽皇子(後の文武天皇)の狩である。

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②古代、宇陀の地は丹の生産地だった。弥生時代から古墳時代、藤原・奈良の時代を通して、宇陀の赤土には丹が含まれていることが知られ、産地として知られている
丹(水銀)は不老不死の薬だと思われたが、食べることができなかった。そこで、丹を草木から採れると考え、菟田のキノコを食べた人が長命を保ったと日本書紀には記されている。

この地に、中山正實画伯が描いた『阿騎野の朝』が橿原から、移されたことも貴重である。
この壁画は、大宇陀の公民館(万葉公園に隣接)に壁画として展示されている。

今シーズンは正月3日である。お正月休み中で、チャンスと考えて、ぜひともお出かけください。
そんな思いで紹介させていただいた。

写真はすべて僕が撮影したものである。

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これが当日の地図、駐車場である。

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# by koza5555 | 2017-12-21 05:37 | 宇陀 | Comments(2)

『土木技術の古代史』  青木敬

『土木技術の古代史』 (吉川弘文館) 青木 敬

古墳や仏教寺院・宮殿建築の発掘成果を土木技術の面から解明、技術の使われ方から古代の政治と暮らが解明される。

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はじめに古墳である。

古墳の製造技術を解明すると地域性、政治性、外交問題が復元できるとことである。


古墳の出現、ここからも土木技術が見えてくる。

弥生墳丘墓は墳丘周辺の土を盛り上げて作る。

古墳は巨大な墳丘のための採土、運搬、墳丘作製の技術レベルが上がる。


墳丘の作り方の工法で、東日本型、西日本型という差があるらしい。

東日本型は土を積み上げる。

これに比して西日本型は、まず土堤を築いて、内部に土を運びこむという差があるようだ。

本筋ではないが「前方後円墳は後円部を先に作る・・前方部を付け足すような構築順序がたしかにある」(吉田恵二先生 p26)などという考古学者の常識も紹介されていて、参考になる。


葺石の変遷もおもしろい。

古墳には木が茂っているが、もともとは石張り、葺石に覆われていたのが常態である。

るのがふつうである。

天皇陵が集中する佐紀盾列古墳群にも、葺石には発掘の成果があるのである。

それは市庭古墳(平城天皇陵)とウワナベ古墳である。市庭は古墳時代中期前半、ウワナベは中期後半とみられる。

市庭古墳は葺石の一重の基底石が並べられ、その上部に石が葺かれる。

ところがウワナベは基底石がなく、石は差し込まれるように置かれる。

「積み重ねる葺石」から、「埋め込む葺石」である。確実に市庭古墳がウワナベ古墳の前に作られた証拠である。

こんなところがとても興味深くて、面白い。

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土嚢や土の塊を敷きならべて、順々に積み上げるこ造成技術が紹介されていた。4世紀後半から始まるらしい。

土嚢や土の塊を列状に並べて積み重ね、間に土を入れながらという造成方法も紹介されている。これは5世紀以降で、5世紀の朝鮮半島の古墳、伽耶の古墳造成技術に類似するとされる。

この列状に土嚢や土の塊を積む技術が、日本で最初に使われたのが・・・藤井寺の津堂城山古墳の外堤とのことである。

大型古墳は4世紀後半に大和から河内(古市と百舌鳥古墳群)に移るとされるが、その初めの古墳と目されるのは津堂城山古墳と言わており、ここで使われたということである。

●しかしこの新技術はまず外堤で使われた。古墳本体ではなかった。その意味も考えなければならない。

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堤防のようなものを作りながら、そこへ土砂を運び込む古墳の作り方・・こんなことを考えるとため池造りなどの技術と古墳造りの技術が共通していることもわかるし、古代ヤマト王権はそんな技術者集団を擁して、領域を広げていったんだなあと・・

最後に寺院関係の紹介。

これはあれこれ読んでほしい。

僕には版築の技術が興味深かった。地域性、技術の歴史の考えると、当時の政治と外交が分るという分析である。

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# by koza5555 | 2017-11-29 18:10 | 読書 | Comments(0)

鎮魂祭(みたまふりのみまつり)石上神宮

1122日、新嘗祭の前夜に天理市の石上(いそのかみ)神宮で鎮魂祭(みたまふりのみまつり)が斎行された。

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鎮魂祭は午後5時から。修祓があり、初めに天神社の祭祀がおこなわれる(天神社は本殿・拝殿の向い側・出雲建雄神社の左手奥である)。祝詞では「みたまふりのみまつりを斎行する」ことの報告がされるところから見ると、この神を地主(産土 うぶすな)とされているのだろうか。

午後530分から御魂祭が斎行される。

「やない箱が神前」に出される・・・この箱が神事の中心で・・祭祀の後にはご本殿に収められる。饒速日命(にぎはやひのみこと)が、天神から授かった天璽十種瑞宝(あまつしるしとくさのみずのたから)が収められているのだろう。

神事は浄暗の儀式である。事前に「スマホは厳禁。撮影だけでなく電源を切れ」と繰り返し放送される。

宮司、禰宜がやない箱の前で、「ひと、ふた、み、よ、いつ、む、なな、や、ここ、たり」と十種の宝を読み上げる声、その合間にサラサラと鈴の音が鳴ることから、真榊が振られていると思われる。なにしろ・・闇の中である。

「もしいたむ(痛む)ところあらば、このとうのたから(十宝)をして、ひと、ふた、み、よ、いつ、む、なな、や、ここ、たりと言うて、ふるべ(布留部) ゆらゆらと ふるべ。かくなさば まかるひと(死人)も生き返らん」

こんな呪文である。天神から授かった十種の宝を、順々に数えての「みたまふり」である。

式典後の宮司のあいさつでは、「鎮魂祭は魂を若返らせるお祭り、元気を取り戻すお祭りです。魂を鎮めるお祭りというのは誤解です。今日、力を取りもどした真榊により、皆様は一年、若返りました」と解説されました。

若い方の参加が目立ちました。さまざまな神社、さまざまな神事を拝見しましたが、石上神宮の御魂祭は若さで一番でした。

寒い・・防寒対策は万全に。お昼間に2万歩のウォーキングをしましたので、座るのが堪えました。

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拝殿は宮中の神嘉殿(新嘗祭を行う)が移されたもので、国宝である





# by koza5555 | 2017-11-23 07:32 | 桜井・山の辺 | Comments(0)

神武天皇に関わる陵、丸山にこだわって

「神武天皇の即位」をテーマのツアーを案内する。

橿原神宮、神武天皇陵、綏靖天皇陵、等彌神社などを訪ねる。

そこで、神武天皇陵のことである。

幕末期には三か所が神武陵の候補に上がる。

それは

①「今日神武陵、一説には綏靖天皇陵(第二代)たり」の四条村の塚。

②「山本村神武田」(じぶでん)。旧塚と新塚の二つの「塚」がみえる。神武天皇陵と書かれず、「廟社の地」とされていた。

③「三番目は畝傍山手前の山である」。「この一丘は御陵また丸山、神武天皇畝傍山東北陵」とある。古事記にある神武天皇陵についての記述、そのままの文言である。

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その後の経過はどうなったか。

①の「今日神武陵」は、幕府の公認陵ということもあって推すものがなかった。

②の神武田を主張したのは谷森義臣である。天皇陵の研究家として文久の終陵では大きな影響力を発揮していた。

③の丸山を推したのは北浦定正で、尾上という古事記の記述をもとに主張した。

もともと、本居宣長はこちらの丸山を推していた。

「四条村といふあり。この四条村の一町ばかり東。うねび山よりは五六町もはなれて。丑寅のかたにあたれる田の中に。松一もと桜ひと本おひて。わづかに三四尺ばかりの高さなる。ちひさき塚のあるを。神武天皇の御陵と申つたへたり。さへどこれは。さらにみさゞきのさまとはみえず。又かの御陵は。かしの尾上と古事記にあるを。こゝははるかに山をばはなれて。さいふべき所にもあらぬうへに」(菅笠日記)

結論はつけるのは孝明天皇。天皇の名で「御沙汰書」が出される。「神武田で決めなさい、但し丸山も粗末にするな」という沙汰だった。

その後、明治11年に、①の「今日神武陵」の四条村の塚は第二代綏靖天皇陵として治定される。

問題は、「丸山も粗末にするな」の③である。

こちらを、奈良まほろばソムリエの会の木村三彦顧問の案内で見学してきた。神武天皇陵の一角にあるが、許可を求めることなく、立ち入ることはできるようである。

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参道というか‥、拝所目前の左への分かれ道・・石段がある。里道という感じである。

あとは道なりである。200メートルくらい。上り詰めていくと井戸がある。昔の洞村の共同井戸らしい。今も水は貯められている。

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丸山はその上である。

宮と刻まれた5本の石柱が置かれている。古墳のような様子は感じられない。

5本、踏み分け道はしっかりの残っていて・・人の出入りは多い様子である。

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神武天皇陵を正面に記念撮影。後列、真ん中が案内してくれた会の顧問の木村三彦さんである。

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御陵印ももらってきた。「神武天皇畝傍山東北陵」印

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畝傍陵墓監区事務所

御陵印というものがある。神武天皇陵の敷地に置かれている「畝傍陵墓監区事務所」で、推すことができる。神武天皇陵印だけではなく、奈良県の歴代天皇陵の30陵の御陵印が置かれている。

「丸山、粗末にできんなあ」である。


# by koza5555 | 2017-11-11 10:28 | 橿原・明日香・御所・吉野 | Comments(0)

醸造安全祈願の酒まつり  毎日新聞奈良版

毎日新聞の奈良版(119日付け)、「ディスカバー奈良」大神神社の「醸造安全祈願の酒まつり」を紹介させていただいた。祭りは1114日である。

醸造祈願祭の前日、13日には「志るしの杉玉」の吊るし替え(大杉玉掛け替え)、祭礼当日には全国の銘酒が振舞われるという、とても楽しいお祭りである。

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奈良盆地のどこからでも仰ぎ見ることができる三輪山、このお山をご神体山とするのは大神神社です。数々のお祭りの中でも、参拝者の人気をとくに集めるのは、1114日の醸造安全祈願祭「酒まつり」です。

御ご祭神である大物主命の手助けにより美酒が醸造できたと古代から伝えられており、大神神社は酒造りの神として敬われるようになりました。神社は新酒が作り始められるこの時期に、酒まつりを行います。醸造の安全を祈り、参拝者には樽酒が振る舞われます。

 酒まつりに先立って、13日には拝殿・祈祷殿に吊るされた大杉玉の掛け替えがおこなわれます。重さは200㌕以上もあり、6人掛かりで運ばれます。大杉玉が掛け替えられ、酒まつりが終わると、新酒の印である「しるしの杉玉」は、全国の酒造会社と酒店の店先に吊るされます。

 さあ、いよいよおいしい新酒の季節が到来です。

(奈良まほろばソムリエの会理事 雑賀耕三郎)

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崇神天皇8年冬12月、今頃でしょうか。

崇神天皇が三輪の大神を太田田根子に祭らしめた日に、高橋活日が神酒を捧げて詠んだといいます。

この神酒は わが神酒ならず  倭なす 大物主の 醸みし神酒  幾久  幾久

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全国の醸造元から届けられた数々の酒は壮観です。

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大和の一之宮は桜井市の大神神社。奈良盆地のどこからでも仰ぎ見られる三輪山、このお山をご神体山とするのが大神神社である。

大神神社はあれこれすごい。

一つは、神社の創始、神社の始めが、『古事記』・『日本書紀』に記されているということだろう。大神神社が祭る大物主命の由緒やお姿が、日本の歴史書にきちんと記されていて、少なくとも1400年前から確実に信仰されてきたということがわかる。

二つめは神の依り代としてお山を仰ぎ見る信仰が特徴的である。神社に通常みられるご神体は大神神社には置かれていない。それを安置するご本殿、これが大神神社にはないのである。

この大神神社の在り方は、「神様をあがめる元々の姿」ともいわれる。日本の神さまは、八百万(やおろず)の神々といい、山の神、海の神、衣食住の神々などの幾多の神々が敬まわれている。山にも海にも様々な物々が生命体となり、霊魂を持つという考えかたである。江戸時代に、本居宣長がこんなことを解明している。

お山をご神体として祀り、ご本殿を持たない大神神社は「古来の神の祀り方」をしているとみられる。日本の最古の神社としての歴史、神社の形が大神神社には残っている。

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# by koza5555 | 2017-11-09 05:08 | 桜井・山の辺 | Comments(0)

修陵餘潤(よじゅん)の碑ー天皇陵の近代史

『天皇陵の近代史』。吉川弘文館から、外池昇著である。

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行燈山古墳ー崇神天皇陵  

「幕末から明治前期にかけての陵墓をめぐる動向について注目した」として、「文久の修陵をめぐる問題」と「明治政府の陵墓政策をめぐる問題」を解明したいとしている。

「皇室の祭祀体系の整備」の検討と合わせて、「地方の陵墓問題」の解明があり、「浄、穢の廟議」と「村落と陵墓」は引き込まれる。

陵墓は「浄か穢れ」かが問題とされている。

もともと荷前(のさき)使いは、「神事に似たり」(年中行事秘抄 858年)とされ、「浄」であるとされた。しかし、実質的には荷前使に赴いた貴族は正月行事に出仕できなかったりで「穢れ」という考えが続いてきていた。だから貴族は懈怠といって、荷前使を休んでしまう・・この使に立つと宮中の正月行事に出仕できなくなるのだから当然のサボタージュである。

明治元年の廟議には谷森義臣が出てくる。谷森の論は「本来的に神である天皇の陵が穢処であるはずがない」であり、その後は、それが貫かれている。

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陵墓に鳥居が立つ理由がわかるような気がする。

陵墓の発掘調査に宮内庁が反対する理由も、「墳墓だから」であり、さらに「神聖な場」だからということだろう。

こんな考えに立てば、考古学に基づく、治定、比定のやり直しなどは宮内庁は問題にもしないだろう。

良し悪しは別として、陵墓に対する宮内庁の考えがキチンと理解することができた。

村落と陵墓がとてもおもしろい。目からうろこがいっぱい落ちた。

一つは農地とか山林としての利用の問題

文久の修陵以前は、陵墓とされた古墳であっても後円部の墳頂だけが陵墓とされていた。だから古墳内の農地は普遍的な状態で、これは農民の勝手な耕作ではなく、年貢地となっていて、各藩の公的な耕地だったことが紹介されている。

びっくりですね。明治以降、立ち入りが禁止となり、地元民は陵丁などでかかわりを持って行った。

しばらくは、雑木、落ち葉の清掃などでのかかわりがあるが、明治30年代には古墳墳丘の植栽の変化などから、地元民は古墳から遠ざけられていくことになった。

今一つは、ため池としての役割である。

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こちらは利用が締め出されるのではなく、用水としての価値が高まったということである。

古代から通して、水のない周濠は普通の状態とのことである。水があれば常に浸食を受けるのであるが、その証拠がない。空堀とのことである。

今のような周濠の姿は文久の修陵以降のことらしい。もともと雨水だけを貯めるのだから、その量は限られ、灌漑用水としての値打ちはない。

崇神天皇陵(柳本行灯山古墳)はその典型である。古市古墳群なら安閑天皇陵(羽曳野市)である。

崇神天皇陵の文久の修陵の普請、柳本の全村挙げて取り組んだとされる。農業用水の確保である。同古墳近くの専行院には明治29年(1896年)2月に建てられた「修陵餘潤(よじゅん)の碑があるが、これは周濠の普請完成を記念したものである。

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天皇陵古墳の歴史も、おもしろい

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# by koza5555 | 2017-10-11 08:25 | 桜井・山の辺 | Comments(0)

演能 「野守」と春日野の池とは雪消ノ沢だろうか

10月9日、「田原本の能」で「野守」を鑑賞してきた。第17回、全国障害者芸術・文化祭なら大会(9月1日から11月30日)の企画である。

狂言「棒縛り」(ぼうしばり)、金春流 能「野守(のもり)」の演能の鑑賞が無料という破格の条件だった。
安易だが、いつものように『マンガ能百番』のコピーをもって出かける。場面ごとにあらすじをマンガで示してくれるので、とても役立つのである。

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さて、
出羽の羽黒山を(葛城大峰をめざして)出た山伏が、春日の里を訪れ、鏡のような美しい池を見つける。野守の翁が現れ、「池は朝も夕も野守の姿を映し、野守の鏡といわれる」と説明する。

真の野守の鏡は鬼神が持っていたもので、、昼は人になって野を守り、夜は鬼なって塚に住んだという。(田原本町パンフから)

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この池が気になった。

この池を春日の飛火野の「雪消ノ沢古蹟跡」に充てたい。理由はあるが、僕の独断である。

「雪消ノ沢」(ゆきげのさわ)は

「春日野の 雪消の沢に 袖垂れて 君がためにと 小芹をぞ摘む」(藤原仲実 (平安後期の公家,権大納言)『堀川百首』 春 71)と古歌にも歌われている名所なのである。

 を

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  雪消沢古蹟。春日大社参道を東にすすみ、バス通りを越えて
  右側、飛火野に入ると小さな池、池の中に石塔が立っている。

湧き水であること

春日野の飛火野にあること

近くには塚(春日山古墳群)が密集していること

などの状況証拠は、バッチリであるが。



今日は、狂言、能、楽しませて頂いた。

蛇足だが、野守は鏡がテーマ。狂言の棒縛りも杯が鏡となって映しだすがテーマで、今回のテーマは・・・鏡・・・でしたか。

今回の演能は田原本町町青垣歴史センターが会場だった。田原本には鏡作神社があり、鏡造りの長くて深い鏡の伝統がある。そんなことから鏡がテーマだった?と推測したりして楽しんだ。能もおもしろい・・・・・



# by koza5555 | 2017-10-09 20:01 | 奈良 | Comments(0)

山の辺の道―黒塚古墳と長岳寺。話題の「洋食Katsui」のランチ

10月の「大人学校」の参加を再度、募集いたします。

コース名は、山の辺の道黒塚古墳と長岳寺。話題の「洋食Katsui」のランチをいただくグルメウォーク

「洋食Katui」のお弁当をいただくウォーキングを計画しましたが、予定した参加人数の申し込みありませんでした。それで、コースは変えずに、「洋食Katui」のお弁当をやめて、ランチをいただくことにしました。料金も値下げいたしました。なにか、魅力度がそうとうアップいたしました。おいでになりませんか。

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「洋食Katui

日時は平成29年10月25日 ()。

行程はJRまほろば線柳本駅黒塚古墳見学崇神天皇陵昼食(洋食Katuiのランチ)長岳寺 →景行天皇陵 →神籬(ひもろぎ)→穴師坐兵主神社(相撲神社)→珠城山古墳→巻向駅

集  合:JRまほろば線 柳本駅改札口前 午前10時

解  散:JRまほろば線巻向駅

参 加 費:1,200円(拝観料350円、資料代他経費・講師料など)

食事はレストラン(洋食Katsui 山の辺の道を予定。各自払いで、ランチは1500円です)

持 参 品:飲み物・帽子・雨具をお持ちください。*歩きやすい靴でおいでください。

そ の 他:小雨は決行ですが、コース変更をする場合もあります。                   

歩行距離は約6km程度です。急坂はありません。

申し込みは 「大人の学校」の溝口博巳090-8986-8844、もしくは雜賀耕三郎、090-5069-8382

申し込みの締め切りは、平成29年10月18日(水)です。

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黒塚古墳
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景行天皇陵から大和三山をのぞむ
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これぞ、山の辺の道。三輪山を望む。額田王の歌碑も




# by koza5555 | 2017-10-01 19:30 | 桜井・山の辺 | Comments(0)

ヤマトタケルの能褒野墓、琴弾原白鳥陵

ヤマトタケルのツアーが迫ってきた。
白鳥伝説を真剣に考えねばならない。能褒野墓(のぼののはか)と大和と河内の白鳥陵も重大問題で、同じヤマトタケルを祀るのになんで陵と墓?、この問いにもこたえねばならなし。

今日は、倭建命(古事記)・日本武尊(日本書紀)の墓は「墓か陵か?」を考えてみた。

ヤマトタケルの墓・陵は次の三カ所とされている。

① 伊勢の能褒野墓(のぼののはか)。古事記・日本書紀に触れられている。

ヤマトタケルが亡くなり白鳥となって飛び去ったとされる。鈴鹿市の白鳥塚などの説があったが、明治12年(1879年)に宮内省により能褒野王塚古墳に改定された。


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② 大和の白鳥陵。日本書紀だけに記されている。

明治9年(1876年)に教部省により定められた。掖上鑵子塚(わきがみかんすづか)古墳(御所市柏原)に比定する説が根強い。

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こちらは掖上鑵子塚古墳

③ 河内の白鳥陵。古事記・日本書紀に記される。明治13年(1880年)に軽里大塚古墳に決められた。峯塚古墳、津堂城山古墳を推す研究者も多い。



能褒野は墓で大和と河内は陵となっている。天皇・皇后・太皇太后・皇太后の墓は陵、その他の皇族は墓となるが、ヤマトタケルは天皇に準ずるとされて陵と呼ばれたようである。すると「能褒野はなんで墓なのか」、この疑問は解消できない。

いろんな方に聞いたが明快な解説がない。「宮内庁に聞いたら」との声があり、問い合わせをしたが・・・これは無回答だった。

あれこれ読んでいると・・同志社大学の北康宏助教授が25年ほど前に、愛知県春日井市の「ヤマトタケル」というシンポジウムでお話をされていた(『ヤマトタケル』森浩一 門脇禎二 大功社)。

結論を先に書くと、「能褒野墓」は延喜式で記された固有名詞かな、ということである。

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こちらを見てみると

延喜式(延長5年 927年)には、陵73、墓47が指定されている。ヤマトタケルの陵墓は「能裒野墓」で、墓の分類である。

墓は47であるが、グル-プ分けがあり、以下の四基はグループとなっている。

能褒野墓は伊勢国鈴鹿郡で、ヤマトタケル。

竈山墓(かまやまのはか)は紀伊国名草郡で、イツセノミコトで神武天皇の兄。

宇度墓(うどのはか)は和泉国日根郡で、イニシキイリビコで景行天皇の兄。

宇治墓(うじのはか)はウジノワキイラツコで仁徳天皇の兄。

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この四基には共通項があるという。

①皇族であること、②継体天皇以前の皇統であること、③即位した天皇の兄弟であること、④軍人、または天皇の特別な庇護者であることが特徴である。

大宝2年(702年)には「震 倭建命墓。遣 使祭 之」(ヤマトタケルの墓、地震(落雷?)あり、使いを送り祭る)とあり、すでにこの時点で四墓は確定されていたとみられる。

北先生はさらに四墓は大和を守る特別の配置になっていると指摘されるのである。

東、南、西、北と記載する順序は古代の四至記載の基本とされ、宮を中心に四方の守護神とを配したとみるべきである。

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能褒野墓は固有名詞というべきものであろう。

明治の治定では、日本書紀を参考にヤマトタケルの3陵を定めたが、「能褒野墓」については、「墓」と定めた延喜式の記載を尊重したと思われる。

重ねてであるが、「能褒野墓」は、都宮の四周を守る特別の墓の筆頭に挙げられていて、陵と記した古事記・日本書紀との整合性を現代的(明治の治定)に考えれば、「能褒野墓の陵」ともいえるのではなかろうか。


能褒野墓 伊勢国鈴鹿郡の所在で、兆域は東西2町・南北2町で守戸3烟を付すとしたうえで、遠墓に分類する(伊勢国では唯一の陵墓)である。


# by koza5555 | 2017-09-27 08:50 | 万葉の旅 | Comments(0)

神野山となべくら渓

なべくら渓という奇勝がある。奈良県の一番東、山添村の神野山(こうのやま)の東の谷である。


大小の黒々とした岩石がるいるいと重なりあい、長さ600mに渡って、「岩の川」という様相を見ることができる。


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この岩は角閃斑糲岩(かくせんせきはんれいがん)という深成岩(火成岩の一種)で、岩質が非常に堅いために侵蝕にたえてこの山をかたちづくったと考えられている。

かたい岩は角閃斑糲岩のかけらで、谷底に転げ落ち、滑り落ちて集まり、あたかも「岩の川」と見間違える・・地元の方は「天の川」と言われるような姿で堆積、今の姿となったされている。だから、水は・岩の下を流れていて、耳をすませば水流が聞こえるともいわれている。

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岩の流れ(天の川)の中流には竜王岩。しめ縄も張られていて、神体として祀られている。

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なべくら渓は「伊賀の天狗と神野山の天狗がけんかをして投げあった岩だという伝説」もあり、天狗がキーワード。


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最上流には天狗石

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神野山の裏山(南側)には神野寺(高野山真言宗一心印)には巨大な杉が残されている。神野山の天狗伝承の中心として住民に崇敬されてきた天狗杉である。これは二代目とのことだが、山添村の天然記念物だ。

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 神野山、山頂付近まで、素晴らしいお茶畑。大和かぶせ茶というらしい。初摘み一番茶のみ限定使用で「玉露の旨みと、煎茶の爽やかさ」が自慢のお茶は「千の露」。海抜600メートルの見事な環境で生育したお茶である。

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神野山、618メートル、全周が見渡される頂上はつつじの名所でもある。

山を下りたら、森林科学館には農産物の直売所のみどり屋で野菜が。そして映山紅(えいざんこう)で食事がとれる。

「茶がゆ」「茶まぶし」がおすすめらしいが、僕は、山里の食材を生かしたうどん定食。キツネうどんにおにぎり二個で860円。おいしくいただいた。

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なべくら渓、いつでも素晴らしいが、つつじのきれいな5月に、ぜひ訪れたいものである。



# by koza5555 | 2017-09-22 20:23 | 奈良 | Comments(0)