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奈良・桜井の歴史と社会

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神野山(こうのさん)となべくら渓

奈良県東部になべくら渓という奇勝がある。


大小の黒々とした岩石がるいるいと重なりあい、長さ600mに渡って、「岩の川」という様相を見ることができる。


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この岩は角閃斑糲岩(かくせんせきはんれいがん)という深成岩(火成岩の一種)で、岩質が非常に堅いために侵蝕にたえてこの山をかたちづくったと考えられている。

かたい岩は角閃斑糲岩のかけらで、谷底に転げ落ち、滑り落ちて集まり、あたかも「岩の川」と見間違える・・地元の方は「天の川」と言われるような姿で堆積、今の姿となったされている。だから、水は・岩の下を流れていて、耳をすませば水流が聞こえるともいわれている。

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岩の流れ(天の川)の中流には竜王岩。しめ縄も張られていて、神体として祀られている。

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なべくら渓は「伊賀の天狗と神野山の天狗がけんかをして投げあった岩だという伝説」もあり、天狗がキーワード。


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最上流には天狗石

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神野山の裏山(南側)には神野寺(高野山真言宗一心印)には巨大な杉が残されている。神野山の天狗伝承の中心として住民に崇敬されてきた天狗杉である。これは二代目とのことだが、山添村の天然記念物だ。

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 神野山、山頂付近まで、素晴らしいお茶畑。大和かぶせ茶というらしい。初摘み一番茶のみ限定使用で「玉露の旨みと、煎茶の爽やかさ」が自慢のお茶は「千の露」。海抜600メートルの見事な環境で生育したお茶である。

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神野山、618メートル、全周が見渡される頂上はつつじの名所でもある。

山を下りたら、森林科学館には農産物の直売所のみどり屋で野菜が。そして映山紅(えいざんこう)で食事がとれる。

「茶がゆ」「茶まぶし」がおすすめらしいが、僕は、山里の食材を生かしたうどん定食。キツネうどんにおにぎり二個で860円。おいしくいただいた。

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なべくら渓、いつでも素晴らしいが、つつじのきれいな5月に、ぜひ訪れたいものである。



# by koza5555 | 2017-09-22 20:23 | 奈良 | Comments(0)

丹生川上神社と神武東征

クラブツーリズム関西で、『古事記』でたどる大和の旅というシリーズツアーを奈良まほろばソムリエの会で引き受けている。

第1回(9月20日・水)は「神武東征ゆかりの地めぐり」。

第2回(10月18日・水)は「大和青垣にヤマトタケルをしのぶ」

第3回(11月15日・水)は「稗田阿礼・太安万侶ゆかりの地めぐり」

第4回(12月6日・水)は「神武天皇の即位~橿原神宮を訪ねて」

四回シリーズとなり、11月までは催行、出発が確定している。

7月から、ポツポツと準備してきたが、いよいよ明日が第一回目である。

ツアーは新大阪発、天王寺を経て丹生川上神社から始まる。

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こちらは神武天皇の誓約(うけい)がテーマ。天香具山の社の土を持て、平瓫80枚、厳瓫を作り天神地祇を祀れという夢のお告げが下され、シイネツヅコが老父(おきな)、オトウガシがおみなの服装にて宇陀を出発する。

見事はに土を手に入れ、80枚の平瓫、厳瓫を作り、丹生川の川上に上りて、天神地祇を祀った。

丹生川上(にぶのかはかみ)顕彰碑文

イツベ最中。東吉野村小川の西善

即位式に使われる万歳幡の上部にはイツベと鮎の刺繍が入っている「神武天皇戊午年(つちのえうまのとし)九月天下平定の為平瓮(ひらか)及び厳瓮(いつべ)を造り給い丹生川上に陟(のぼ)りて天神地祇を祭られ又丹生之川に厳瓮を沈めて祈り給えり聖蹟は此の地付近なり」。

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「厳瓮を丹生川に沈めよう。もし魚が大小となく全部酔って流れるのが真木の葉の浮き流れるようであれば自分はきっとこの國を平定するだろう」(東吉野村掲示板)

夢淵に沈められた。日下宮司によると「これは斎淵(いめぶち)。潔斎したした場所だ。なまって夢淵といわれるようになった」とのことである。

魚はみな浮き上がって口をパクパク開くのである。

この厳瓫のかたどったお菓子(最中)が東吉野村小川の「西善」で製造・販売されている。

最中の皮はちょっと集め、粒あんがしっかり詰まった食べ応えがある最中である。

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こじつけでなく、急ごしらえでもないテーマにぴったり合うお菓子はそんなにあるわけでもない。これは喜んでもらえそうである。

相談してみると、5個入りで725円ということである。パネルも作った。しっかり紹介して販売することにした。

新年の儀式、即位の儀式に当たっては、三本足のカラスの像の烏形幢(うぎょうどう)・日月幢を飾り、その両側に朱雀・青竜・白虎・玄武の四神幡というのは知っていたが、即位の時は「万歳幡」というものがあるとのことである。この幡を近衛が振って「万歳と叫けんだ」とのことである。この旗に、厳瓫と5匹の鮎が刺しゅうされているとのことである。

ネットで探したが、見当たらない。探していると「石上神宮にある」ことが分かった、こんな旗だった。確かに厳瓫があり、5匹の鮎が記されている。

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即位の度に立てられたこの旗の厳瓫を見ると、日本書紀の古代帰属への影響力、神武天皇の丹生の川上の故事をしのぶ行為にもあらわされている。

最後である。

丹生川上神社の初めの鳥居の傍らに2つの石が建てられている。ジジババ石という。この下の河原がいかだを流すための仮堰が作られた場所でと記されている。ジジババは道中の安全を願う信仰のあらわしたものとも記されている。

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僕は、この神社に、この入り口ジジババと名付けられた石が置かれたことの意味を考えた。

天香具山にはに土を求めに行った時の姿は、シイネツヅコが老父(おきな)、オトウガシがおみなだった。はに土は、無事、丹生の川上に収められたが…そのジジババ・・この石に託されて名前が残った・・・これは僕の妄想だが、面白い話にできそうである。

明日は『古事記』をたどる大和の旅の始まり、緊張して成功させよう。

ツアー、初めの鍵は「厳瓫最中」、「万歳幡」、「シイネツヒコとオトウカシの翁と媼」である。



# by koza5555 | 2017-09-19 20:06 | 万葉の旅 | Comments(0)

ヤマトタケルと白鳥

10月の「クラツウ古事記」はヤマトタケルである。

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ヤマトタケルのイメージ。天理参考館の盛装男子像と武人の埴輪。

ヤマトタケルの最後である。

伊吹山の神に内惑わされたヤマトタケルは、大和を目指す。

(古事記)能煩野(三重県亀山市)に到った倭建命は「倭は国のまほろば たたなづく 青垣 山隠れる 倭し麗し」から、「乙女の床のべに 我が置きし 剣の大刀 その大刀はや」に至る4首の国偲び歌を詠って亡くなるのである。


倭建命の死の知らせを聞いて、大和から訪れたのは后や御子たちであった。彼らは陵墓を築いて周囲を這い回り、歌を詠った。すると倭建命は八尋白智鳥となって飛んでゆく。

(日本書記)白鳥の飛行ルートが能褒野→大和琴弾原(奈良県御所市)→河内古市(大阪府羽曳野市)とされ、その3箇所に陵墓を作ったとする。こうして白鳥は天に昇った。以上はウィキペディア


ヤマトタケルは死んだ後に、なぜ白鳥になったか。それが大問題である。
あれこれ調べてみると、

『ヤマトタケル伝説と日本古代国家』(石渡信一郎。三一書房)に書かれていた。ヤマトタケル=白鳥の謎である。(p106)

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全体の記述は同意しにくい。

箸墓古墳の作成年代は393年。

天武天皇は天智天皇の異母兄である古人大兄皇子と同一人物。

応神天皇と継体天皇は兄弟。
相当…違いますね‥


ヤマトタケルと白鳥・・これはうならされた。


①ヤマトタケルは建国神とみて、これが白鳥神とされたのでは。古代では白鳥が穀霊神・農耕神とみられた。『豊後国風土記』速見条。富裕な農夫が餅を的に射ると、餅は白鳥になって飛び去りのうちは乱れた。

『山城国風土記』逸文には、泰氏の先祖が餅を的に射ると、やはり白い鳥となって飛び去り、山の峰で稲になった。

②ホムツワケ(垂仁天皇皇子)は白いひげが生えても話せなかった。出雲まで追いかけて白鳥を捕らえて連れ戻り、ホムツワケがモノが言えるようになった。『出雲国造神賀詞』(かんのよごと)には、国造が生きた白鳥を天皇に献上するとあるのも、最も大事なものを献上して忠誠を誓うという行為である。

③古代の白鳥の位置づけは高い。古市の津堂城山古墳の周濠からは、埴輪の水鳥が3つ出土している。

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奈良県の馬見が丘古墳群の巣山古墳からも同じものが出土。

白鳥が橿原神宮の深田池に夏もいるとの情報があって、写真を撮りに・・・
サギがいた‥カワウもいる。白鳥はいない・・
今日はサギで‥すいません。

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建国の英雄、ヤマトタケルは、農耕の最高神ともいえる白鳥神として旅立つ・・古事記・日本書紀・・はすごい。
石渡信一郎さん、ありがとごうざいます。ちなみに2017年に死去されている。



# by koza5555 | 2017-09-10 23:28 | 万葉の旅 | Comments(0)

松永久秀と多聞城

多聞城跡、若草中学に行ってきた。まだ夏休みの頃である。

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多聞城の棟上げは永禄5年(1562年)8125時。奈良中がこれを見物。久秀はその年の12月に大和、山城に徳政を出している。

得意の絶頂だっただろう。大仏殿が焼かれたのは1567年、その5年前である。

近世の城郭の始まりと言われる多聞城、それを築いた松永久秀を考えてみた。


信貴山城で爆死したといわれる松永久秀。将軍を殺し、主君の三好を殺し、東大寺の大仏を焼いたとされた松永久秀である。


松永久秀』、「シリーズ 実像に迫る」。著者は金松誠、戎光祥出版(えびすこうしょうしゅっぱん)である。

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松永久秀の略歴である。金松誠さんがまとめている。

永正5年(1508年)誕生

天文9年(1540年)三好長慶の家臣

天文19年(1549年)三好長慶上洛、久秀は「内者」(ないじゃ 守護の直属の家臣)として現れる。

永禄2年(1559年)久秀、超昇寺氏を案内者として大和に侵入、筒井城を攻め落とす。筒井順慶、椿尾上城に逃げる。

永禄3年(1560年)久秀、足利義輝の御供衆に召し上げられる。久秀、この年に一国を治めて、信貴山城を居城とする。

永禄4年(1561年)久秀、眉間寺を移動させて、多聞城を築く

永禄5年(1562年)8125時に多聞城を棟上げ。奈良中がこれを見物。12月に大和、山城に徳政を出す。  

永禄8年(1565年)519日 久通(久秀長男)ら、将軍御所に乱入。足利義輝は自害。              三好三人衆との軋轢強まる。

永禄9年(1566年)530日、堺で三好三人衆と戦い、敗北。逐電(堺に匿われた)する。

永禄10年(1567年)46日 堺を出て信貴山城に入る。織田信長の配下に。         1010日、東大寺に三好三人衆を攻め、大仏殿、兵火にかかる。

永禄11年(1568年)久秀、大和の支配を信長に認められる。

天正元年(1573年)久秀、2月より信長に叛旗。敗れて12月には人質を入れて屈服12月に多聞城を明け渡す。

天正4年(1576年)筒井順慶、「和州一国一円」の支配を信長から任せられる。

天正5年(1577年)閏726日、信長の命で、松永久通が奉行となり多聞城の破城を行う。817日、久秀、久通、信長に叛旗。1010日、久秀、信貴山城で自害する。

久秀、波乱多きの70歳だった。15671010日に大仏を焼き、その10年後の1010日に自害している。鎌倉時代の大仏と久秀の命日は同じである。

「将軍を殺し、主君の三好を殺し、東大寺の大仏を焼いた久秀」。金松さんは、それを否定して「久秀は手を下したわけではない」と力説されるが、「久秀の意思なしではどの事件も起きなかった」というのが僕の感想である。

年表を整理しただけのblogとなった。

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織豊時代の奈良の町の姿だそうだ。


# by koza5555 | 2017-09-07 22:04 | 奈良 | Comments(0)

古事記と小泉八雲

『古事記と小泉八雲』(かまくら春秋社)。『神話と美術』(真住貴子著)が面白い。

神話の世界が絵画などに表現されるには、文字で記録した媒体が必要で、かつその内容が多くの人々に周知されていないと、作品として制作されません。

『古事記』『日本書紀』といった記紀神話は、歴史上、明治期に集中して描かれた。明治期から戦中にかけて、記紀が人々に広く知られたことを反映しています。

例えば、オロチ退治を、絵本の挿絵のように図示する作品が登場するのは明治期になってからです。それまでは神「話」ではなく、信仰の対象として「神」を表すた作品が存在します。

真住さんはその例として、松江の八重垣神社に伝わる重要文化財 <板絵著色神像  >を紹介している。スサノヲを描いた絵画の中では古い作例とのことである。

それは
平安時代の絵とのことで、服装が女性は十二単、男性は衣冠束帯姿、これは平安朝の風俗で描かれているのである。説明がなければ、スサノヲとクシナダヒメということがわからない。

20日に丹生川上神社にツアーで訪れるが、こちらに残されたイザナギ・イザナミのご神像(平安時代)も説明がなければ、イザナギ、どこさしてというしかないのである。

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丹生川上神社中社所蔵のご神像。大古事記展(2016年奈良県立博物館)の図録から拝借した。


明治になって、神像から神話をモチーフに描かられるようになり、イメージが変わる、表現方法が激変するのである。

明治政府は、天皇中心の国、天皇が国を統治する正当性を国民に教育するために力を入れた。そこで、活躍するのは記紀だった。公教育の中に持ち込まれ、記紀神話が図入りで教育された。

明治元年の神武天皇は、皮のマントを羽織、髪はザンバラ、装飾具を持たない。

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明治23年の神武天皇は、髪はミズラ、ネックレスといくつかのペンダント、直刀を持つ姿に変わっている。

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明治の初期に『前賢故実』(菊池容さい)で、神武天皇から後亀山天皇までの500人くらい忠臣を肖像画と略伝で紹介している。

その後に、東京博物館の学芸部長だった(のような役職)黒川真頼が、古墳などから発掘された装飾具などを紹介した。これにより、古墳時代の服装が明らかになっていくのである。それが早速絵に絵に取り入れられ、肖像画の姿も変えていった。



描かれた神話・描かれなかった神話という問題もある。
神武天皇、天の岩戸、ヤマトタケル、イザナギ・イザナミの国生み神話は書かれたが、大国主命など、出雲系の神話があまり書かれなかった。「この時代は、解説、神話は日本書記に基づいて書かれていた」。

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もちろん異端児もいる。異端児の青木繁の業績は光る。海の幸の青木繁である。青木は古事記に基づいて絵を描いた。オオナムチとかヨモツヒラサカである。勝手の奈良の大古事記展には、『ヨモツヒラサカ』が出陳されていた。

神話は見る者のイメージが共通になっていないと、絵にも描かれないということで芸術性よりも啓もう的な絵がはびこる。そんな中だからこそ、青木繁の絵は際立ったのである。

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# by koza5555 | 2017-09-06 17:30 | 読書 | Comments(0)

源信 地獄 極楽への扉 国立奈良博物館

源信 地獄 極楽への扉。源信1000年忌特別展である。

会期は9月3日(日)まで、バタバタと拝見してきた。


恵心僧都源信(えしんそうずげんしん)(9421017)は奈良で生まれ、比叡山で修行を積んだ平安時代の僧侶です。源信は死後阿弥陀如来の来迎を受けて、極楽浄土へ生まれることを願う、浄土信仰を広めた僧として知られます。『往生要集』(おうじょうようしゅう)などにより源信が示した具体的な死後の世界のイメージは、後世へも多大な影響を及ぼしました。

 本展では地獄絵を含む六道絵(ろくどうえ)や阿弥陀来迎図(あみだらいごうず)といった源信の影響下で生まれた名品が一堂に会します。死後の世界へのイマジネーションを体感していただくとともに、真摯に死と向き合った名僧の足跡をご紹介いたします。(奈良国立博物館HP)

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当麻寺、浄瑠璃寺、宇治の平等院の「迎講」や「阿弥陀来迎図」が源信からとは知っていたが、深く考えが及んでいなかった。極楽とか、極楽への道ということであるが、それを望むが、まずは地獄を徹底してみせるのが『往生要集』である。

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展示は源信、比叡山横川、地獄絵、来迎と極楽という構成で、『往生要集』が絵として示されている。

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阿鼻地獄。熱鉄の地の上に仰むきに寝かせ、 鉗かなばさみで口を挟んで開かせ、 焼けた鉄丸を、 その口の中に入れられる。口・咽喉のどを焼き、 内臓を通って下から出る。七つの大地獄とならびにそれに付属した別の地獄のあらゆる苦しみを一分とすると、 阿鼻地獄の苦しみは、 これらに勝ること一千倍である。 (往生要集現代語訳)

強烈な地獄と極楽を、儀式や絵画で強烈に対比させながらの浄土信仰のありようを『往生要集』をまとめた源信の影響の大きさが存分に感ずることができた。

でも、現世で痛めつけられ、傷つけられる衆生が、何かあの世でも苦しむみたいで・・

これは考えすぎかな・・・それにしても、僕はこちらで阿鼻叫喚する側だろうなあ


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会期は9月3日(日)まで。ぜひぜひ、どうぞ



# by koza5555 | 2017-08-27 10:22 | 奈良 | Comments(0)

「近つ飛鳥と古市古墳群をめぐる」バスツアー

12月3日(日)に「奈良まほろばソムリエの会」はNPO法人化の5周年記念バスツアーを行う。

今回のテーマは「近つ飛鳥と古市古墳群をめぐる」。「湖北観音巡礼」、「継体天皇の足跡を辿って」の県外研修に続く、第三弾の県外研修バスツアーは大阪府である。

叡福寺(聖徳太子墓)、近つ飛鳥博物館を拝観・見学、そして誉田八幡宮宝物館を訪れる。

さらに世界遺産への登録を目指して推薦が決まったばかりの百舌鳥・古市古墳群のうち、応神天皇陵古墳、大鳥塚古墳、津堂城山古墳などのホットコーナーをめぐるコースを設定した。

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叡福寺。聖徳太子磯長墓

ご案内は天野末喜先生(奈良大学講師・関西学院大学元講師)。藤井寺市の教育委員会に長く勤務され、当地の遺跡・古墳の発掘・研究に直接タッチされてきた方である。今回のツアーには同行して現地を訪れ、古代日本の文化や技術を探り、日本の歴史を存分に語っていただく。今回も「ソムリエの会ならでは」の充実の特別企画、自信を持ってお勧めする。

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応神陵、航空写真。スマホをかざせば、空からの写真をみせてくれる

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津堂城山古墳、石棺のレプリカ。天野先生のホームグランドである

天野先生と相談して、このコース作りを担当、僕の自信作である。
ぜひ、ご一緒にお出かけいたしませんか。

    

■ 実施日 平成29年12月3日(日)

■ 集合場所と時間

近鉄奈良駅(春日ホテル前)

午前800

JR奈良駅(西口・ホテル日航前)

午前810

■解散時間 近鉄奈良駅にて

1830分頃 

■参加費  昼食つき

会員   7,000

会員以外 8,000

■お申し込みはメールにて

メールアドレス  kozaburo@cg8.so-net.ne.jp

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# by koza5555 | 2017-08-18 11:14 | 大阪とか京都とか | Comments(0)

十津川 小原の大踊り

13日は十津川の大踊り。朝から十津川に入り、谷瀬の吊り橋、玉置神社、玉置山登山、果無(はてなし)を見学して、夕方から小原の盆踊りがおこなわれる第一小学校を訪れてきた。

小原の盆踊りは午後8時から12時まで。桜井からは2時間30分以上かかる。最後まで拝見して、帰れば午前3時・・

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十津川の大踊りは、1974年(昭和49年)に「無形の民俗文化財」の指定を受けた。

十津川は村々で盆踊りがおこなわれているが、小原地区、武蔵地区、西川地区の大踊りが指定されている。

曜日に関係なく、13日は小原、14日は武蔵、15日は西川である。

ヤグラには音頭取り、音は締め太鼓だけで、調子を取っていくようである。

今年も木曽節で始まる。十津川の盆踊りはほとんどが扇子踊りであるが、これは手踊り。

その後は串本節とかの民謡をもとにした「馬鹿踊り」、お杉口説、たばこ口説、天誅おどりなどの「口説き」の踊りが続けらる。

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これは天誅おどり。天誅組に絡んだ十津川の物語。少女のお話である。二人で向かい合った珍しい踊り。男女のことか、あるいは切り違えの姿か

10時、過ぎに「次は大踊り」と告げられ休憩に。

ヤグラに向かって太鼓を持ち、ばちを持った男たち。その後ろには女性が扇をもって並び、竹笹の吊り灯篭が4本(白赤緑の3色の紙を切った美しいもの)並ぶ。

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初めはゆったりと足踏みするような踊りである。「元歌」といわれる。

太鼓うちは、白・赤・緑の房の付いたバチで抱えた締め太鼓をたたく。


後半はヤグラの周りが一転する。太鼓は太鼓持ちがもち、激しく太鼓が叩かれる。

踊り子はヤグラを取り囲み、頭上で扇を振り、灯篭もちが外周を走り回る。

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民謡や口説きの時とは、ガラッと異なる激しい乱舞である。

これが大踊り、これが無形文化財に指定されている。

風流踊りの流れを引くといわれる。美しい大きな灯篭を作り、みんなが飾り立て、激しく太鼓をたたき、音頭取りもここぞとばかりに歌い上げていく。

素晴らしいの一言に尽きる。糸井神社のなもで踊りの絵馬を見たばかりだが、あの絵が彩色されて、音付きの動画に代わったとみても、言い過ぎではないだろう。

近世、盆地内で廃れた風流踊りは、こんな形で十津川に残っているんだろうなと感動する。


盆踊りは大踊りの後、数曲を踊って、最後はお決まりの「伊勢音頭」で、終了した。

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小原盆踊り、8月になると奇数日に練習、7日盆は休んで8日にからは毎日練習、12日に休んで13日に開催という日程とのこと。

今日、15日は武蔵、明日の16日は西川で開催される。

実施の主体はそれぞれ、小原踊保存会、武蔵踊保存会、西川大踊保存会となっている。

朝から十津川を訪れた。はじめは谷瀬

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谷瀬の吊り橋。高さ54m、長さ297m。

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世界文化遺産、中辺路・・果無の集落
「雲を踏み嵐を攀て御熊野の果無し山の果も見しかな」『 南山踏雲録』伴林光平である



# by koza5555 | 2017-08-14 14:48 | 奈良 | Comments(0)

上ツ道・上街道を歩いてみよう

上つ道・上街道 (丹波市から桜井の札ノ辻まで)というテーマでお話をする。3年目に入ったエルトのカルチャーセンタ―、「おもしろ歴史講座」である。

エルトの改装で、このカルチャーもあと二回だけ。

今回は「上街道」、最終回は「山の辺の道」と決めている。

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9月1日(金)は、上街道、桜井の札ノ辻から話を始める。

桜井は中世から有数の交通の要衝地。全国的な経済人を輩出していることからお話を始めたい。

江戸の魚河岸は日本橋である。大正12年に築地に魚市場が移るまで、こちらが江戸と東京の魚市場だった。この魚市場は「和州桜井村の大和屋助五郎が魚商として市場を開いた(生け簀が人気に)」と『東京市史稿』に紹介されているのである。

「種々活鯛場を設け、広くこの地方(静岡県)の魚類を引き受け、売りさばきしが、ついで問屋の業を営む者を増やし、ついに本船町横店安針町に市場を開くに至り・・」で、これが元和2年(1616年のこと)とのことである。大阪夏の陣の直後である。


さらに同じころに江戸に入った桜井の車力がおり、その4代後の子孫が、江戸の豪商、奈良屋茂左衛門(もざえもん)。(?~1714)であるとされている。紀伊国屋文左衛門と張り合った豪商である。

太和屋助五郎は魚、奈良屋茂左衛門は材木、桜井が生んだ、痛快な偉人だろう。

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     桜井の札ノ辻跡、魚市場跡でもある

んな話から始めて、

桜井市札ノ辻、粟殿、三輪恵比須神社、三輪宿、桜井埋蔵文化財センター、芝村の織田藩、箸中と箸墓古墳、五智堂、大和神社のちゃんちゃん祭り、朝日観音と隔夜僧、青板橋と丹波市の市座神社などをお話しする。

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   長岳寺五智堂 。昔は板が張られており、旅人が休めたようである。

確実に楽しんでいただける。おいでいただきたい。

午後7時から、桜井市の駅前、南都銀行の二階のエルトにて。参加希望の方はメール、メッセンジャーで、直接ご連絡お願いします。

  メールアドレスは   kozaburo@cg8.so-net.ne.jp

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    こんなお話もいたします。芝村ですもの、織田藩です。


# by koza5555 | 2017-08-10 20:11 | 桜井・山の辺 | Comments(0)

山田寺跡

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山田寺の遺跡の草はきれいに刈られている。山田の大字の区長さんに聞いたら、「国に頼まれて刈っている。一年に何度も刈るよ」と言われた。「平らなところも多いので、四輪の芝刈り機も買った」とのことである。
それを小学校の孫が聞いて、「遺跡を守るために、みんなががんばっているんだ」と山田寺の遺跡を壁新聞に書くことを思いついた。

山田寺の跡地からは五重塔と金堂の跡が発掘されている。金銅の風招(大きな鈴)や鴟尾(しび)が発見されている。

さらにその後の調査で、回廊が土に埋もれた昔のままの状態で残っていることが分かり、古代建築の貴重な資料となった。

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東回廊は屋根付きの廊下で、87mもあり、中央には扉口もあった。この一部が東から西に向かって倒れ、土の下に埋まっていた。このため部材の保存状態はとても良かった。部材は柱、連子(れんじ)、大斗などが、完全に近い状態で発見された。日本で一番古い建物の姿がわかる世紀の大発見である。


山田寺の建物の配置は南から、南大門、五重塔、金堂、講堂となっている。そして五重塔と金堂は回廊というものに守られている。講堂は回廊の北側で回廊の外にある。

そして
金堂の中には丈六の仏像が祀られていた。白鳳時代に作られた、この仏像は奈良の興福寺に移されて、その後火事で体が溶けてしまった。残った頭部は布に包まれて500年もお堂の下に保管されていた。それが近代に発見されて、いまは国宝になって大事にされている。
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飛鳥資料館にもそのレプリカが展示されている。

山田寺は大化の改新に参加した石川麻呂が建て始めた寺院である。このころ各豪族がさかんに立てはじめ氏寺という寺院である。石川麻呂は曽我入鹿のいとこだが、曽我入鹿を殺害したクーデターに加わり、右大臣委任ぜられたが、その後、反乱の疑いが晴れ、皇室の援助で造営が続けられ、7世紀後半に完成したている。


こんなことを小学生のユキト君が一所懸命書いている。僕は遠くから見学するだけだ。
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最後の付録に山田の村で見かけたかんぴょう干し・・おいしいだろうなあ
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# by koza5555 | 2017-08-08 15:34 | 桜井市と安倍 | Comments(0)

大碓命と猿投神社

猿投神社(愛知県豊田市)に参拝。古事記ツアーの成功を祈ってきた。

御祭神は大碓命である。景行天皇の第一皇子で小碓命と双生児の兄である。

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①古事記によると、大碓命は小碓命(ヤマトタケル)にみじめに殺されてしまう。

②日本書紀の話はそれと異なる。東国攻めを命令されたが、恐れて従わなかったため、美濃国を任地とされ、美濃に下らされたとされる。

③皇后である播磨イナビ(印南)ノオオイラツメを母として、大碓、小碓は双子として生まれた。双生児は兄を育てないという慣習があったが、イラツメが大碓を隠して守り育てたという説話が残されている。大碓命を殺したとか、美濃に追いやったという話は、この双生児に絡んでの説話かとも思える。

併せて、双生児はどちらかが左利きという伝承も残されている。

この、大碓命の生涯がとても気になるのである。

この大碓命を祭神とする猿投神社が、愛知県豊田市猿投(昔は西加茂郡猿投町)に鎮座することを初めて知った。

40年も前に猿投神社経由で猿投山に登ったことがある。その猿投神社である。

大碓命は東征の命に服さなかった為に、美濃国に封ぜられる。命は三野国造の祖神の二人の娘を妃とせられ、二皇子(押黒兄彦王、押黒弟彦王)をもうけられたとされる。

ちなみにこの押黒彦王が牟宣都君(むげつのきみ 武儀郡)の祖先となった。

猿投神社の社殿によれば、大碓命は「猿投山山中にて蛇毒のために薨(こう)ずる。すなわち山中に斂葬(れんそう)し奉る」とされている。

古事記には記された、「兄の手足を切り、コモにくるんで投げ捨てた」と答えたヤマトタケルの乱暴ぶりは無かったと考えようという論も古代からあったということである。

猿投神社には絵馬のように鎌がいっぱい掛けられていた。大きな、そしてそれが鉄製などで、「左鎌」とあった。

古来より左鎌を奉納して祈願する特殊な信仰がある。その由来については記録がないので判然としないが、古老の言い伝えによれば、双生児は一方が左遣い(左利き)の名手であると言う。祭神・大碓命は小碓命(日本武尊)とは双生児であるので人々が命(大碓命)左遣いであらせられ、当時左鎌を用いてこの地方を開拓せられた神徳を慕って所願の成就を祈るときに左鎌を奉納する。

職場安全・交通祈願を会社関係者に祈られおり、そのときに左鎌が奉納されるようになったという。

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奉納された左鎌。さすが豊田市、トヨタをはじめトヨタ系列会社や職場のオンパレードである。ペラペラなブリキ板みたいなものではない厚くて重い鉄製・・である。

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拝殿前の欄干には親子猿の彫り物・・猿投神社である

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神社から歩いて70分。西宮

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大碓命墓。宮内庁の管理であるが、「朝一番に参られた方は、下のペットボトルの水を花差しに注いでください」とある。僕も注がせていただいた。

大碓命はヤマトタケルの陰に隠れてしまうけど、なかなかいい男なんだ…

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素晴らしい境内、猿投神社



# by koza5555 | 2017-08-04 12:28 | 万葉の旅 | Comments(0)

幕末に成った神武天皇陵

「神武天皇の即位」というツアーである。

実在性はともかく、神武天皇のゆかりの地が残されている。

これを勉強して、組み立てて案内する。これはガイドのだいご味である。

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神武天皇陵

『天皇陵の誕生』(祥伝社新書 外池昇)が適切な解説本か。

「第二章 蒲生君平が求めたもの――『山稜史』を読み直す」・・これが面白いが、今日はここをスルーして、「三章 幕末に成った神武天皇陵――聖域に群がる人びと」を紹介したい。

神武天皇は初代の天皇である。その陵であれば、はるか太古の時代に成ったもののはずである。だが私は、本章のタイトルに「幕末に成った神武天皇陵と書いた」。太古の時代のはずの神武天皇陵が「幕末に成った」とは、いったいどういうことなのだろうか。

初代が神武天皇である。…今日積極的に取り上げられる機会が少ないというのは、ご承知の通り、今日では実在した人物とは考えられていないからである。

実在したとは考えられていないのではあるが、『古事記』にも『日本書紀』にも、その所在地について、具体的な記述がある。

『古事記』  「畝火山北方白檮尾上」

『日本書紀』 「畝傍山東北(うしとら)陵」


そして、

幕末期には神武陵は三か所。『聖蹟図志』に示されていて、

①「今日神武陵、一説には綏靖天皇陵(第二代)たり」と四条村の塚。

②「山本村神武田」(じぶでん)。旧塚と新塚の二つの「塚」がみえる。神武天皇陵と書かれず、「廟社の地」とされていた。

③「三番目は畝傍山手前の山である」。「この一丘は御陵また丸山、神武天皇畝傍山東北陵」とある。日本書紀にある神武天皇陵についての記述のままの文言である。

時は幕末、文久の修陵というさなかである。

②の神武田を主張したのは谷森義臣である。天皇陵の研究家して文久の終陵では大きな影響力を発揮していた。

③の丸山を推したのは北浦定正で、尾上という古事記の記述をもとに主張した。

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   丸山はこちらである。「御陵又丸山」と今も記されている

①の四条村の塚は、幕府の公認陵ということもあり、推すものがなかったという。

この論争の結論はつけたのは孝明天皇。「御沙汰書」が出された。「神武田で決めなさい、但し丸山も粗末にするな」という沙汰だった。



明治11年には、四条村の塚は第二代綏靖天皇陵として治定されている。

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これが綏靖天皇陵


文久の修陵の当時は、神武天皇陵としての陵域が確定されたことがよくわかった。


文久山稜図  荒蕪

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文久山稜図  成功

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神武天皇陵御陵真景(明治34年 奥野陣七による)では、以上の二つの塚が示されていたが、

神武天皇畝傍山東北陵の図(大正15年)では、方墳、中心に円墳が一つとなった。


以上のような解説をしても、「なぜ、この地に三カ所の神武天皇陵の候補地ができたのか?」、言い換えれば、古事記・日本書紀は、この地になぜ初代天皇の陵を考えたのかという疑問は残るだろう。

古事記・日本書紀が準備された時期には、「藤原京の近くに初代天皇陵を求めた」という論を展開する学者もいるのである。

前橿考研の今尾文明さんなどは、それを解明して「都市陵墓」としての神武陵などという論も書かれている(『明日香風』122号 平成24年1月号)。説得力のある論で、これはこれとして又の機会に紹介したい。

「神武即位」をテーマにしたツアーは12月6日(水)に、予定している。


# by koza5555 | 2017-07-31 14:02 | 橿原・明日香・吉野 | Comments(0)

平井大師山と丹波佐吉

菟田野の北東、平井の大師山に残る四国八十八カ所を模した霊場。幕末の石工、丹波の佐吉照信が弟子たちと共に刻んだもので約百体の石仏が大師山をとりまいている。各石仏には本尊を浮き彫りにして、本尊の仏名、霊場番号、霊場名を刻んでいる。

この霊場は、嘉永、安政の頃(1848~1859)に各地の施主によって寄進、建立されたもので、台石に寄進者の指名が残されている。とりわけ十九番、立江寺の地蔵石仏は小形ながらも秀作といわれている。(宇陀市観光協会 平井大師山席仏群)


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順番に回ったが初めの写真は第87番の長尾寺聖観音である。


矢田寺の四国八十八カ所霊場を回ったことがある。聖林寺の裏山にも八十八カ所霊場が設けられていて、上がらせていただいたこともある。さらに僕は、四国の霊場を回ったこともあるのである。

それぞれ、特徴があるわけで、比較はできないが、平井大師山は丹波の佐吉が彫った、あるいは助手に彫らせたというところに意味があるんだろう。
丹波佐吉はこの地の大地主、美登路家と一族の平田彦八郎に招かれた。佐吉は十人ばかりの弟子とともに、嘉永4年(1851年)から三年掛かりで石仏を刻み続けたとのことである。

歩くにつれて、その魅力に引き込まれ、汗をかきながら完歩である。

素晴らしい石仏群、折々の大師像、仏塔も見逃せないのである。

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86番 志度寺十一面観音

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45番 岩屋寺 供養塔 不動明王(佐吉の銘あり)

モミジの季節、桜の季節がベストで寒い冬も好適だが、夏は今は厳しいものがあり、訪問は季節を選びたい。


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最後はいつものお遊びで


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あかい奈良』  平成6年夏号 「丹波佐吉と大和」 長田光男著 参照


# by koza5555 | 2017-07-25 16:04 | 宇陀 | Comments(0)

古事記でたどる大和の旅

「古事記でたどる大和の旅」をご案内する。9月から12月まで、クラブツーリズム大阪の企画である。いずれも大阪発(新大阪と天王寺)で第三水曜日の催行である。

『古事記』といえば・・・神武天皇とヤマトタケルだろうか。書き記した太安万侶、読み上げた稗田阿礼も欠かせない。

日本最古の歴史書である『古事記』を舞台に全4回で奈良を旅するシリーズツアー。

『古事記』といえば神撫天皇、悲劇の皇子・ヤマトタケル,誦習したのは稗田阿礼、筆録したのは太安万侶。『古事記』に関わる英雄とそれを誦習、筆録した人をテーマにしました。クラブツーリズム テーマ関西より


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    丹生川上神社中社

第一回目は「神武天皇の東征 ゆかりの地めぐり」で、9月20日

で、丹生川上神社中社、宇賀神社・血原橋、八咫烏神社、墨坂神社を訪ねる。
昼食は大宇陀道の駅のレストラン甘羅。

第二回。「大和青垣にヤマトタケルをしのぶ」。10月18日の催行である。

日本武尊琴弾原白鳥陵、景行天皇陵、黒塚古墳館、石上神宮を訪れる。人気の「道の駅かつらぎ」でも、ゆっくりくつろいでいただき、昼食は柿の葉ずしヤマトあすか店である。


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日本武尊琴弾白鳥陵

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               太安万侶墓・奈良市田原
第三回は「稗田阿礼・太安万侶ゆかりの地めぐり」で11月15日である。ツアーは錦秋の大和高原から始める。

太安万侶墓、神功皇后陵(佐紀盾列古墳「」群)、賣太神社・稗田環濠集落、多神社というコースで奈良・大和郡山・田原本を訪れる。食事は倭膳 たまゆら‥ご満足いただけるだろう。

12月は「即位した神武天皇」をテーマに橿原神宮、神武天皇陵、等彌神社、大神神社を訪問する。12月は変則で6日(第一水曜日)を予定している。

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     橿原神宮 久米舞

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このシリーズツアーの工夫したところは、『古事記』を語りぬきたい、併せて、ひろく奈良を回っていただきたい・・だった。思惑通りのコースができた。全コースの参加をお勧めしたいが、日程、時間もあります。今回は一回ごとの参加ももちろんできます。

お待ち、いたしております。

お申込みはクラブツーリズム大阪 06(6733)0090



# by koza5555 | 2017-07-23 07:48 | 奈良 | Comments(0)

黒塚古墳と長岳寺。話題の「洋食Katsui」の特製お弁当―

大人の学校、今秋は「雜賀の歴史ウォーク」を開催する。毎月、第四水曜日を目安に3回の実施である。

今秋の計画・行先は

★1025日(水)山の辺の道 黒塚古墳と長岳寺。話題の「洋食Katsui」の特製お弁当

★1122日(水)平群のロマン 鎮まる古墳から大和の歴史を考えるー

★1213日(水)纒向遺跡と三輪そうめん ―あなたもの三輪そうめんの手延べ体験に―

今回は山の辺の道を集中的に取り上げ、その間に奈良盆地の対角線の平群谷を案内することとした。

要綱は以下のとおりで、お申し込みは「大人の学校」だが、今日はとりあえず僕のメッセンジャー にお願いします。

今日、紹介するのは

1025日(水)山の辺の道 ―黒塚古墳と長岳寺。話題の「洋食Katsui」の特製お弁当

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「山の辺の道いいとこどり」と題して、山の辺の道を歩きたい。崇神天皇陵や神籬(ひもろぎ)、相撲神社を訪ねて、初期ヤマト政権のふるさとを訪ねる。山の辺の道に新しくオープンした「洋食Katsui」のお弁当をいただくグルメウォーキングである。

「三輪山をしかも隠すか雲だにも 心あらなも隠そふべしや」(額田王)を歌いながら、三輪山を仰ぎ見て歩くウォーク、ぜひおいでいただきたい。

■行き先 山の辺の道 柳本から巻向へ

■実施日 平成27年10月25日(水)雨天決行

■集合時間 午前10時 

■集合場所  JRまほろば線 柳本駅改札口前

■コース(歩く距離 6km程度)

柳本駅  黒塚古墳 → 崇神天皇陵 → 昼食(洋食Katsuiのお弁当) → 長岳寺  → 神籬(ひもろぎ)→ 穴師坐兵主神社(相撲神社) → 珠城山古墳 巻向駅解散

高低差はほとんどありませんが、未舗装路を歩きますので、歩きやすい靴でおいでください。

■参加費 3200円 拝観料(350円) 食事代(2000円) 資料代他経費・講師料(850円)

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   洋食の勝井のお弁当を


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22日(水)平群のロマン 鎮まる古墳から大和の歴史を考えてみるー

倭建命(やまとたける)が「命の全(また)けむ人は 畳薦(たたみごも) 平群の熊かしが葉を 髺頭(うず)に指せその子」と歌った平群。

平群谷は古代には巨大な勢力を誇った平群臣の本拠地である。さらに、この地には反逆の汚名を着せられた長屋王が葬られたという歴史も残されていて、今は穏やかに鎮まる古墳から、日本の歴史を考えてみるウォークである。平群谷の紅葉も満喫したい。

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   烏土塚古墳

1213日(水)纒向遺跡と三輪そうめん ―あなたもの三輪そうめんの手延べ体験を―

12月は「大神神社と三輪そうめん」にご案内いたします。そうめんは奈良が発祥の地、その中でもそうめん作りをリードしてきた本家本元の「山本」で、そうめん延し体験と美味しいそうめんを味わっていただきます。

食事後は箸墓古墳と纒向遺跡をご案内いたします。

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そうめん手延べ体験・・自分で手延べした生そうめん、お持ち帰り



# by koza5555 | 2017-07-20 15:50 | 桜井・山の辺 | Comments(0)

談山神社 一日ウォーク

談山神社だけを一日かけて、ご案内するツアーを「やまとびとツアーズ」で、企画した。紅葉が始まる10月29日(日)である。

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「マイカーでもバスでも参加しやすいでしょう」で、今回は談山神社のバス駐車場(ふく屋前)に集合である。


 神社を徹底してご案内する。歴史と現在をつなぐお話をしたい。

 御破裂山にも今回は登ることとする。

明治維新の時、神仏分離のさいには「妙楽寺をこちらに残そう」ならと検討された、念誦窟(ねずき)にも訪れる。

やまとびとツアーズの募集パンフレットの紹介は以下の通りである。

◆「古くから国家の不祥事があると鳴動するという“御破裂山”」観阿弥・世阿弥の本拠地で、能楽の起こりと深い関わりを持つ“権殿”」「妙楽寺時代の僧侶が眠る墓所“念誦窟(ねずき)”

談山神社には、大化の改新談合の地・・・だけではない、複雑で深い歴史があります。本ツアーでは、奈良まほろばソムリエの会理事であり談山神社氏子総代も務める、雜賀耕三郎氏に1日じっくりと境内をご案内いただきます。そして、特別に日本唯一の木造十三重塔の初層開扉や正式参拝もしていただきます。

 今回はあえて談山神社のみで一日を過ごしていただく事で、より深い新たな大人旅をご提案いたします。

◆スケジュール

10:15 談山神社駐車場 出発 --- うすずみ桜 --- 入山 --- 東殿(恋神社) --- 三天稲荷神社 --- 拝殿(正式参拝) --- 十 三重塔(初層特別開扉) --- 総社拝殿 --- 神廟拝所 --- 1215社務 所(昼食) --- かたらい山、御破裂山 登拝 --- 念誦窟(ねずき)増賀 上人墓--- 西大門跡 --- 1515 解散予定

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◆ご旅行代金は

お一人様 5,980

(講師料、拝観料、軽食代、保険料、消費税込)

◆歩行距離

2km

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私がご案内いたします。ぜひ、おいでください。
申し込みは やまとびとツアーズ 0744 43 8205 まで



# by koza5555 | 2017-07-18 21:43 | 桜井・多武峰 | Comments(0)

談山神社と談山雅楽会

談山神社の社報は『談』(かたらひ)である。桜井市の全域での新聞折り込みと「談の会」(崇敬会)会員に郵送で配布される。
この社報の2ページ目が僕の担当で、7月15日号は、談山神社の神事に奉仕される「談山雅楽会」を紹介した。

談山神社の四季折々の神事には、雅楽の伴奏が欠かせない。

神事の始めは神職の参進(入場)である。この参進に合わせて厳かな雅楽の伴奏が行われる。神事がすすみご本殿の開扉となる。ここではしめやかに笙(しょう)が奏でられる。献饌、玉串奉奠、撤饌、閉扉、退下と進行に合わせて雅楽の演奏は続く。談山神社では、この雅楽を談山雅楽会がほうしする。

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「神事にあたり雅楽会の奏者がまず入場、整列して着席します。参列者のみなさんは、私たちの姿を見て、坐り直されたり、姿勢を正されたりするのです。始まるなという緊張感を共有できます。神職が参進、そこで演奏を始めます」と、談山雅楽会の松本永二郎代表が語られる。松本さんは「神さまは音楽が好きなんです。神様に喜んでいただきながら、神事の進行を支えるのが雅楽です」と、雅楽会の役割も説明される。


この談山雅楽会は平成7年に結成された。「雅楽を習いましょう。演奏しませんか」と談山神社が呼びかけて同好者が集まった。談山雅楽会としての形を整えて20年以上も神事の雅楽奉仕を務め、演奏力の向上のために練習を続けてきたのである。


笙を吹く久保順子さんは結成当時からの会員である。久保さんに雅楽への思いをお聞きすると、「何も知らずに雅楽を始めました。子供のころから親しんだ談山神社が、雅楽の奉仕者を求めていると知り応募しました。20年以上、笙を吹いてまいりました」と神社への思いを語っていただき、「みんなで雅楽の練習を重ねて、神さまの前に並んで一心に奉納の演奏をするのが好きなのです」と話される。

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       練習風景である

その言葉を受けて、松本代表は「談山神社は雅楽演奏の最高のロケーションです。ご本殿前の演奏があります。いつでも心が引き締まります。神幸祭と春・秋の蹴鞠祭での道楽(みちがく・歩きながらの演奏)もやりがいがあります。屋外ですから力一杯吹いても、音は空に散って行きます。力を込めて吹く、息は苦しいがやりがいのあるすばらしい経験です」と語られた。
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          松本永二郎 談山雅楽会代表

神廟拝所での雅楽奉仕は観音講祭だけである。江戸時代まではお寺の講堂として使われてきた神廟拝所の音響効果は抜群で、そのうえ、ここにはとっておきの壁画が描かれているのだ。上部欄間の壁画には笙(しょう)、鼓(つづみ)・太鼓などで天女が雅楽を演奏し、舞う姿が描かれている。こちらの神事では、雅楽会が演奏して音を出し、壁画の天女奏楽図も無音の演奏をするのです。「ここだけ、この日だけ」の感動を味わうことができるのである。


観音講祭は毎年、6月の第四日曜日、今年は終えたばかりだが、来年はぜひ訪れていただきたい。

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神廟拝所、壁画

もともと談山神社(妙楽寺)は能楽が生まれ育った場所とされる。中世から近世にかけての多武峰の猿楽(現在の能楽のこと)は、大和四座(金春・金剛・観世・宝生)が一堂に参勤する盛大なものだった。こちらでは毎年、新演目が披露され、これが猿楽の発展に寄与したとされている。

談山神社は音楽と芸が溶け合った芸能の地で、こんな場所で生また談山雅楽会、その演奏と活動に期待を寄せて、注目してゆきたい。

談山雅楽会が奉仕する談山神社の祭祀は以下のとおりである。

1月  福禄寿大祭  雅楽始め

4月  神幸祭と蹴鞠祭

6月  観音講と鏡大王祭

8月  献灯祭

10月  嘉吉祭

11月  蹴鞠祭と新嘗祭

神社外では三輪戎神社(初えびす)、等彌神社(大学ゆり祭)、與喜天満神社(初瀬まつり)、妙顕寺(大阪府)に奉仕している。

申し込みにもとづき各種団体、施設、学校、社寺などへの出張演奏も行う。

雅楽会は入会を、常時受け付けている。参加条件はなく、会費は無料。練習は原則第2・第4土曜日の午後、談山神社境内で行う。

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# by koza5555 | 2017-07-16 05:50 | 桜井・多武峰 | Comments(0)

ヤマトタケル

10月に、古事記に沿ってヤマトタケルをテーマのバスツアーをご案内する。

ヤマトタケルは乱暴者?

ヤマトタケルは知力と武力に優れた英雄?

ヤマトタケルは退路を断たれた悲劇の主人公?

ヤマトタケルのイメージが溢れつくすようなツアーを実施したいものである。


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大和琴弾原陵(御所市)。大和のヤマトタケルの陵。竹藪の中、外周を歩けるが、これは方墳だろうか

ヤマトタケル、
古事記や日本書記を見直してみるが、「魅力、どこ?」と遠い人なのである。
そこで、
例えば黒岩重吾はヤマトタケルをどんなふうに書いているのかなと考えて…ぺらぺらと読んで見た。
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ヤマトタケルのにし・東に遠征する前の大和での生活を考えるとき、兄さんの大碓命との関係は重要である。

兄に出仕するように教え諭せと天皇に言われるが、ヤマトタケルは「手足をちぎり、コモにくるんで投げ捨てた」との乱暴を兄に対して行ったと古事記は記す。

ここをしっかり考えたい。古事記のツアーだが、ここは書記の力を借りなければどうにもならない。数知れない景行天皇の皇子のうち、大碓命とヤマトタケルは母をともにする兄弟である。自らの力を弱めるような、そんな乱暴するんだろうか。

古事記によれば
景行天皇の時に、天皇は美濃の大根王の兄比売、弟比売の二人の娘が美しいと聞き、妻に迎えようと大碓命を派遣する。ヤマトタケル(小碓)の同母の兄である。

ところが大碓命は、その二人の娘を自分の妻にしてしまい、代わりの娘を偽って大和に連れ戻った。天皇はそれに気づくが、大碓命を処罰することはなかった。

大碓命が兄比売に産ませた子は宇泥須和気(うねすわけ)の祖先となり、弟比売に産ませた子は牟宣都君(むげつのきみ 武儀郡?)の祖先となった。

こんな状況だから、大碓命は天皇(景行天皇)を避けるようになってしまう。そこで弟の小碓命に、「出仕せよと教えさとせ」と命令する。

小碓命は、「兄の手足をちぎり、コモにくるんで投げ捨てた」と答えた。

天皇はその乱暴ぶりを疎ましく思い、「西の熊襲を撃て」と追い払った。

これが、古事記である。

日本書記は、ここらあたりはだいぶ違う。

天皇が美濃の国造の娘、兄遠子、弟遠子を召し上げようと大碓命を遣わすが女と通ずて、天皇が恨みに思うのは同じである。

その後、天皇は熊襲を撃つ。「倭は国のまほろば たたなづく 青垣 やまごもれる 大和しうるわし」を」歌われたとされる。

こうして、いったんは平定する。さらにヤマトタケルを熊襲征伐に改めて、送ったとされていて、日本書紀には「大碓命を殺した」という話がないのである。


黒岩重吾はこれを取り上げて
500ページの「白鳥の王子 ヤマトタケル 日本の巻」を書き上げてしまった。

大碓命は山背で、秘密の屋敷を持ち兄比売を住まわせるが、天皇の知るところとなり、ヤマトタケルに「大碓命を殺せ」と命令するのであるが、ヤマトタケルは兄を殺さず、美濃に兄を送ったという話を作り上げた。

古事記と日本書記の折衷であり、またその後に大碓命が美濃や尾張・三河に足跡があるとの伝承を取り入れ、まとめ上げているのである。


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愛知県豊田市に鎮まる猿投神社の御祭神は大碓命。しかもこちらには大碓命の墓も残されているというのである。
こちらは猿投山への登山口に当たり、僕も立ち寄ったことがあるのである。写真はないので、Wikipediaから借用した。


イナビ(印南)ノオオツラヒメを母とする大碓、小碓をライバルとして敵視し、疎んだ、皇后のヤサカノイリヒメの策略による攻撃を合間に挟んで、話が楽しめるようになっている。
ちなみに大碓、小碓の母は早く亡くなっている。皇后のヤサカノイリヒメの長男は成務天皇(第13代)である。


ヤマトタケルの西征、東征にはこの皇后の意向が働くのかという予測があり、ヤマトタケルの繰り返しの遠征は景行天皇の意向というより、皇后の意向なんだろうか・・・

景行天皇をめぐるヤサカノイリヒメ(成務天皇の母である)と大碓命とヤマトタケル(仲哀天皇の父である)の力関係とか、微妙におもしろい。

使命に生きたヤマトタケル、愛に生きた大碓命がとっても好きになった。


登場人物が、とりあえず好きになること、それが講演やツアーの成功の第一歩である。

ヤマトタケルの三陵を拝見してきた。

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  • 能褒野墓。三重県の亀山市、考古学では「能褒野王塚古墳」である。
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    隣接の能褒野神社。明治18年(神社境内説明看板による)
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  • 白鳥陵(しらとりのみささぎ)御所市富田。琴弾原古墳。幅約28メートル×約45メートルの長方丘とされる。
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  • 白鳥陵(しらとりのみささぎ)大阪府羽曳野市。考古学名は「軽里大塚古墳」







  • # by koza5555 | 2017-07-11 20:12 | 奈良 | Comments(0)

    龍田大社 風鎮大祭

    龍田大社(生駒郡三郷町立野(たつの))の風鎮大祭を拝見した。七月の第一日曜日である。

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    奉納される風神花火(手筒花火)

    太鼓や河内音頭の神振りの奉納の後、風神花火で神様に火のごちそうをお供えするという祭である。四月の風神祭とならんで、五穀豊穣の例大祭の位置づけである。付け加えれば10月の秋季大祭は収穫感謝の祭となる。


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    風神太鼓の奉納と河内音頭で神賑わい

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    風神花火

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    フィナーレ ナイヤガラの滝とか・・・


    こちら三郷町の龍田大社は大和川の右岸、河合町の廣瀬神社は左岸に位置して、その立地は対であるが、古くからの祭祀、神社の在り方も対とされている。


    これを引き継いでいる両社の祭も対で、龍田は風鎮、広瀬の砂かけは雨・水の祈願である。

    雨を降らせ、風を抑える、これは農業、稲作の根源の祭祀といえよう。


    平安時代(延喜式)には、宮廷の四時祭(四季節の祭)の一つで,広瀬神社の大忌祭、龍田大社の風神祭は4月,7月の4日に祭りが営まれたとされている。

    しかもこれが『日本書記』に記されている、天武天皇の時代からの祭というのがすごい。

    「天武天皇4年(675年)410日に勅使を遣わして風神を龍田立野に祀り、大忌神を広瀬河曲に祀った」、これが、龍田と広瀬の始まりである。

    「我が宮(広瀬の河合に奉る水の神)は朝日の日向の所、夕日の日隠(ひかぐる)る所の龍田の立野に、吾が宮(龍田の神、風の神を)を定め奉」れば、公民の暮らしは成り立つ(延喜式)。

    また『延喜式』に記された祝詞、「龍田風神祭祝詞」によれば、

    「崇神天皇の時代、数年に渡って凶作が続き疫病が流行したため、天皇自ら天神地祇を祀って祈願したところ、夢で天御柱命・国御柱命の二柱の神を龍田山に祀れというお告げがあり、これによって創建された」とも記される。

    天照大御神はニニギの尊に稲と稲作の力を持たせて降臨させたというのが、古事記・日本書紀に記されている。稲作は神の教え、稲作は神そのものをたたえる行為とされているのである。風鎮大祭の根源は深いものがある。



    # by koza5555 | 2017-07-03 09:36 | 奈良 | Comments(0)

    古事記完全講義

    竹田恒泰著、『古事記完全講義』。学研である。500ページはあるんだけど、面白い。三日がかりだった。

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    今日は、「稗田阿礼と太安万侶の最強ペア」のことを紹介したい。

    こちらは、すべて型破りの古事記解説であるが、稗田阿礼と太安万侶の紹介は極めて興味深い。

    お手本にしたい四方八方を丸くおさめる歴史書の書き方

    公式の歴史書だから、各地方からのクレームがつくことは予想される。

    「確かに出雲も、南九州も、熱田も大和も、みんな「ふむふむ」と大方納得する歴史書になったんです。

    稗田阿礼も太安万侶も天才ですから、言葉一つひとつにものすごい神経を尖らせているんです。状況設定も非常に細かい、ありとあらゆるところが、これまでに書かれた着たあらゆる文言と文章が、国譲りの正当性を担保するような書き方になっているんです。そこまでして初めて、国を譲った側、譲られた側、両方が納得できる歴史書になっているわけです。

     やっぱり日本人って和の精神なんですね。「俺たちの正義を押し付ける」じゃなしに、どうしたらみんなが納得できるか、ということを探求して、こういうものをつくり上げてきた。これは、本当に天才の成せる作業だと思います。(p311)

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    太安万侶・・いないという論もあったのだが、お墓が出て墓誌が出て・・・・

    天孫降臨が見事である。神から人へのエピソードをきわめてクリアに示されている。

    天下ったニニギノミコトは木花佐久夜ひめと結びつく。親が大山祇という設定がすごい。追わば国ツ神の代表である。

    さらに、「姉の石長ひめを帰してしまって、そこから寿命が与えられた」となっている。寿命ができるということは、神から人への移行で、これもとても自然の流れとなっている。

    さらに、その子供のホデリの命、山幸彦である。こちらは綿津見神の娘と結婚する。綿津見神は海神である。国ツ神である。

    こちらから、ウカヤフキアエズノミコが生まれ、その子たちが五瀬命やカムヤマトイワレビコである。東征が始まるということだ。


    神から人となり、山の神、海の神の娘たちと結びつくという展開は見事で、天照大神の神勅を前提としつつも、実質的な地上の支配の体制を築き上げていくのである。

    稗田阿礼、太安万侶の構想力、文筆がさえわたるところである。

    古事記は二人の天才の手により完成した。長く埋もれることとなったが、本居宣長によってその全貌が解明されるのである。


    古事記完全講義(竹田恒泰著)は古事記のすごさと面白さを際立たせる素晴らしい講義となっている。

    この本、僕には認めにくいところも多々あるが、それを差し引いても読むべき価値がドーンと上回った。ぜひ、お勧めしたい。

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    # by koza5555 | 2017-07-01 22:15 | Comments(0)