ブログトップ

奈良・桜井の歴史と社会

koza5555.exblog.jp

カテゴリ:万葉の旅( 26 )

ヤマトタケルの能褒野墓、琴弾原白鳥陵

ヤマトタケルのツアーが迫ってきた。
白鳥伝説を真剣に考えねばならない。能褒野墓(のぼののはか)と大和と河内の白鳥陵も重大問題で、同じヤマトタケルを祀るのになんで陵と墓?、この問いにもこたえねばならなし。

今日は、倭建命(古事記)・日本武尊(日本書紀)の墓は「墓か陵か?」を考えてみた。

ヤマトタケルの墓・陵は次の三カ所とされている。

① 伊勢の能褒野墓(のぼののはか)。古事記・日本書紀に触れられている。

ヤマトタケルが亡くなり白鳥となって飛び去ったとされる。鈴鹿市の白鳥塚などの説があったが、明治12年(1879年)に宮内省により能褒野王塚古墳に改定された。


a0237937_08414066.jpg

② 大和の白鳥陵。日本書紀だけに記されている。

明治9年(1876年)に教部省により定められた。掖上鑵子塚(わきがみかんすづか)古墳(御所市柏原)に比定する説が根強い。

a0237937_08415252.jpg
a0237937_08412898.jpg
こちらは掖上鑵子塚古墳

③ 河内の白鳥陵。古事記・日本書紀に記される。明治13年(1880年)に軽里大塚古墳に決められた。峯塚古墳、津堂城山古墳を推す研究者も多い。



能褒野は墓で大和と河内は陵となっている。天皇・皇后・太皇太后・皇太后の墓は陵、その他の皇族は墓となるが、ヤマトタケルは天皇に準ずるとされて陵と呼ばれたようである。すると「能褒野はなんで墓なのか」、この疑問は解消できない。

いろんな方に聞いたが明快な解説がない。「宮内庁に聞いたら」との声があり、問い合わせをしたが・・・これは無回答だった。

あれこれ読んでいると・・同志社大学の北康宏助教授が25年ほど前に、愛知県春日井市の「ヤマトタケル」というシンポジウムでお話をされていた(『ヤマトタケル』森浩一 門脇禎二 大功社)。

結論を先に書くと、「能褒野墓」は延喜式で記された固有名詞かな、ということである。

a0237937_08420402.jpg

こちらを見てみると

延喜式(延長5年 927年)には、陵73、墓47が指定されている。ヤマトタケルの陵墓は「能裒野墓」で、墓の分類である。

墓は47であるが、グル-プ分けがあり、以下の四基はグループとなっている。

能褒野墓は伊勢国鈴鹿郡で、ヤマトタケル。

竈山墓(かまやまのはか)は紀伊国名草郡で、イツセノミコトで神武天皇の兄。

宇度墓(うどのはか)は和泉国日根郡で、イニシキイリビコで景行天皇の兄。

宇治墓(うじのはか)はウジノワキイラツコで仁徳天皇の兄。

a0237937_08421875.jpg

この四基には共通項があるという。

①皇族であること、②継体天皇以前の皇統であること、③即位した天皇の兄弟であること、④軍人、または天皇の特別な庇護者であることが特徴である。

大宝2年(702年)には「震 倭建命墓。遣 使祭 之」(ヤマトタケルの墓、地震(落雷?)あり、使いを送り祭る)とあり、すでにこの時点で四墓は確定されていたとみられる。

北先生はさらに四墓は大和を守る特別の配置になっていると指摘されるのである。

東、南、西、北と記載する順序は古代の四至記載の基本とされ、宮を中心に四方の守護神とを配したとみるべきである。

a0237937_08423752.jpg

能褒野墓は固有名詞というべきものであろう。

明治の治定では、日本書紀を参考にヤマトタケルの3陵を定めたが、「能褒野墓」については、「墓」と定めた延喜式の記載を尊重したと思われる。

重ねてであるが、「能褒野墓」は、都宮の四周を守る特別の墓の筆頭に挙げられていて、陵と記した古事記・日本書紀との整合性を現代的(明治の治定)に考えれば、「能褒野墓の陵」ともいえるのではなかろうか。


能褒野墓 伊勢国鈴鹿郡の所在で、兆域は東西2町・南北2町で守戸3烟を付すとしたうえで、遠墓に分類する(伊勢国では唯一の陵墓)である。


by koza5555 | 2017-09-27 08:50 | 万葉の旅 | Comments(0)

丹生川上神社と神武東征

クラブツーリズム関西で、『古事記』でたどる大和の旅というシリーズツアーを奈良まほろばソムリエの会で引き受けている。

第1回(9月20日・水)は「神武東征ゆかりの地めぐり」。

第2回(10月18日・水)は「大和青垣にヤマトタケルをしのぶ」

第3回(11月15日・水)は「稗田阿礼・太安万侶ゆかりの地めぐり」

第4回(12月6日・水)は「神武天皇の即位~橿原神宮を訪ねて」

四回シリーズとなり、11月までは催行、出発が確定している。

7月から、ポツポツと準備してきたが、いよいよ明日が第一回目である。

ツアーは新大阪発、天王寺を経て丹生川上神社から始まる。

a0237937_20004685.jpg

こちらは神武天皇の誓約(うけい)がテーマ。天香具山の社の土を持て、平瓫80枚、厳瓫を作り天神地祇を祀れという夢のお告げが下され、シイネツヅコが老父(おきな)、オトウガシがおみなの服装にて宇陀を出発する。

見事はに土を手に入れ、80枚の平瓫、厳瓫を作り、丹生川の川上に上りて、天神地祇を祀った。

丹生川上(にぶのかはかみ)顕彰碑文

イツベ最中。東吉野村小川の西善

即位式に使われる万歳幡の上部にはイツベと鮎の刺繍が入っている「神武天皇戊午年(つちのえうまのとし)九月天下平定の為平瓮(ひらか)及び厳瓮(いつべ)を造り給い丹生川上に陟(のぼ)りて天神地祇を祭られ又丹生之川に厳瓮を沈めて祈り給えり聖蹟は此の地付近なり」。

a0237937_20011154.jpg

「厳瓮を丹生川に沈めよう。もし魚が大小となく全部酔って流れるのが真木の葉の浮き流れるようであれば自分はきっとこの國を平定するだろう」(東吉野村掲示板)

夢淵に沈められた。日下宮司によると「これは斎淵(いめぶち)。潔斎したした場所だ。なまって夢淵といわれるようになった」とのことである。

魚はみな浮き上がって口をパクパク開くのである。

この厳瓫のかたどったお菓子(最中)が東吉野村小川の「西善」で製造・販売されている。

最中の皮はちょっと集め、粒あんがしっかり詰まった食べ応えがある最中である。

a0237937_20022249.jpg
こじつけでなく、急ごしらえでもないテーマにぴったり合うお菓子はそんなにあるわけでもない。これは喜んでもらえそうである。

相談してみると、5個入りで725円ということである。パネルも作った。しっかり紹介して販売することにした。

新年の儀式、即位の儀式に当たっては、三本足のカラスの像の烏形幢(うぎょうどう)・日月幢を飾り、その両側に朱雀・青竜・白虎・玄武の四神幡というのは知っていたが、即位の時は「万歳幡」というものがあるとのことである。この幡を近衛が振って「万歳と叫けんだ」とのことである。この旗に、厳瓫と5匹の鮎が刺しゅうされているとのことである。

ネットで探したが、見当たらない。探していると「石上神宮にある」ことが分かった、こんな旗だった。確かに厳瓫があり、5匹の鮎が記されている。

a0237937_20020432.jpg

即位の度に立てられたこの旗の厳瓫を見ると、日本書紀の古代帰属への影響力、神武天皇の丹生の川上の故事をしのぶ行為にもあらわされている。

最後である。

丹生川上神社の初めの鳥居の傍らに2つの石が建てられている。ジジババ石という。この下の河原がいかだを流すための仮堰が作られた場所でと記されている。ジジババは道中の安全を願う信仰のあらわしたものとも記されている。

a0237937_20025952.jpg

僕は、この神社に、この入り口ジジババと名付けられた石が置かれたことの意味を考えた。

天香具山にはに土を求めに行った時の姿は、シイネツヅコが老父(おきな)、オトウガシがおみなだった。はに土は、無事、丹生の川上に収められたが…そのジジババ・・この石に託されて名前が残った・・・これは僕の妄想だが、面白い話にできそうである。

明日は『古事記』をたどる大和の旅の始まり、緊張して成功させよう。

ツアー、初めの鍵は「厳瓫最中」、「万歳幡」、「シイネツヒコとオトウカシの翁と媼」である。



by koza5555 | 2017-09-19 20:06 | 万葉の旅 | Comments(0)

ヤマトタケルと白鳥

10月の「クラツウ古事記」はヤマトタケルである。

a0237937_23005501.jpg

ヤマトタケルのイメージ。天理参考館の盛装男子像と武人の埴輪。

ヤマトタケルの最後である。

伊吹山の神に内惑わされたヤマトタケルは、大和を目指す。

(古事記)能煩野(三重県亀山市)に到った倭建命は「倭は国のまほろば たたなづく 青垣 山隠れる 倭し麗し」から、「乙女の床のべに 我が置きし 剣の大刀 その大刀はや」に至る4首の国偲び歌を詠って亡くなるのである。


倭建命の死の知らせを聞いて、大和から訪れたのは后や御子たちであった。彼らは陵墓を築いて周囲を這い回り、歌を詠った。すると倭建命は八尋白智鳥となって飛んでゆく。

(日本書記)白鳥の飛行ルートが能褒野→大和琴弾原(奈良県御所市)→河内古市(大阪府羽曳野市)とされ、その3箇所に陵墓を作ったとする。こうして白鳥は天に昇った。以上はウィキペディア


ヤマトタケルは死んだ後に、なぜ白鳥になったか。それが大問題である。
あれこれ調べてみると、

『ヤマトタケル伝説と日本古代国家』(石渡信一郎。三一書房)に書かれていた。ヤマトタケル=白鳥の謎である。(p106)

a0237937_23021739.jpg

全体の記述は同意しにくい。

箸墓古墳の作成年代は393年。

天武天皇は天智天皇の異母兄である古人大兄皇子と同一人物。

応神天皇と継体天皇は兄弟。
相当…違いますね‥


ヤマトタケルと白鳥・・これはうならされた。


①ヤマトタケルは建国神とみて、これが白鳥神とされたのでは。古代では白鳥が穀霊神・農耕神とみられた。『豊後国風土記』速見条。富裕な農夫が餅を的に射ると、餅は白鳥になって飛び去りのうちは乱れた。

『山城国風土記』逸文には、泰氏の先祖が餅を的に射ると、やはり白い鳥となって飛び去り、山の峰で稲になった。

②ホムツワケ(垂仁天皇皇子)は白いひげが生えても話せなかった。出雲まで追いかけて白鳥を捕らえて連れ戻り、ホムツワケがモノが言えるようになった。『出雲国造神賀詞』(かんのよごと)には、国造が生きた白鳥を天皇に献上するとあるのも、最も大事なものを献上して忠誠を誓うという行為である。

③古代の白鳥の位置づけは高い。古市の津堂城山古墳の周濠からは、埴輪の水鳥が3つ出土している。

a0237937_23011634.jpg

奈良県の馬見が丘古墳群の巣山古墳からも同じものが出土。

白鳥が橿原神宮の深田池に夏もいるとの情報があって、写真を撮りに・・・
サギがいた‥カワウもいる。白鳥はいない・・
今日はサギで‥すいません。

a0237937_23013728.jpg

建国の英雄、ヤマトタケルは、農耕の最高神ともいえる白鳥神として旅立つ・・古事記・日本書紀・・はすごい。
石渡信一郎さん、ありがとごうざいます。ちなみに2017年に死去されている。



by koza5555 | 2017-09-10 23:28 | 万葉の旅 | Comments(0)

大碓命と猿投神社

猿投神社(愛知県豊田市)に参拝。古事記ツアーの成功を祈ってきた。

御祭神は大碓命である。景行天皇の第一皇子で小碓命と双生児の兄である。

a0237937_11372150.jpg

①古事記によると、大碓命は小碓命(ヤマトタケル)にみじめに殺されてしまう。

②日本書紀の話はそれと異なる。東国攻めを命令されたが、恐れて従わなかったため、美濃国を任地とされ、美濃に下らされたとされる。

③皇后である播磨イナビ(印南)ノオオイラツメを母として、大碓、小碓は双子として生まれた。双生児は兄を育てないという慣習があったが、イラツメが大碓を隠して守り育てたという説話が残されている。大碓命を殺したとか、美濃に追いやったという話は、この双生児に絡んでの説話かとも思える。

併せて、双生児はどちらかが左利きという伝承も残されている。

この、大碓命の生涯がとても気になるのである。

この大碓命を祭神とする猿投神社が、愛知県豊田市猿投(昔は西加茂郡猿投町)に鎮座することを初めて知った。

40年も前に猿投神社経由で猿投山に登ったことがある。その猿投神社である。

大碓命は東征の命に服さなかった為に、美濃国に封ぜられる。命は三野国造の祖神の二人の娘を妃とせられ、二皇子(押黒兄彦王、押黒弟彦王)をもうけられたとされる。

ちなみにこの押黒彦王が牟宣都君(むげつのきみ 武儀郡)の祖先となった。

猿投神社の社殿によれば、大碓命は「猿投山山中にて蛇毒のために薨(こう)ずる。すなわち山中に斂葬(れんそう)し奉る」とされている。

古事記には記された、「兄の手足を切り、コモにくるんで投げ捨てた」と答えたヤマトタケルの乱暴ぶりは無かったと考えようという論も古代からあったということである。

猿投神社には絵馬のように鎌がいっぱい掛けられていた。大きな、そしてそれが鉄製などで、「左鎌」とあった。

古来より左鎌を奉納して祈願する特殊な信仰がある。その由来については記録がないので判然としないが、古老の言い伝えによれば、双生児は一方が左遣い(左利き)の名手であると言う。祭神・大碓命は小碓命(日本武尊)とは双生児であるので人々が命(大碓命)左遣いであらせられ、当時左鎌を用いてこの地方を開拓せられた神徳を慕って所願の成就を祈るときに左鎌を奉納する。

職場安全・交通祈願を会社関係者に祈られおり、そのときに左鎌が奉納されるようになったという。

a0237937_11353483.jpg

奉納された左鎌。さすが豊田市、トヨタをはじめトヨタ系列会社や職場のオンパレードである。ペラペラなブリキ板みたいなものではない厚くて重い鉄製・・である。

a0237937_11383388.jpg

拝殿前の欄干には親子猿の彫り物・・猿投神社である

a0237937_11361826.jpg

神社から歩いて70分。西宮

a0237937_11363516.jpg
a0237937_11355616.jpg
大碓命墓。宮内庁の管理であるが、「朝一番に参られた方は、下のペットボトルの水を花差しに注いでください」とある。僕も注がせていただいた。

大碓命はヤマトタケルの陰に隠れてしまうけど、なかなかいい男なんだ…

a0237937_11360601.jpg
素晴らしい境内、猿投神社



by koza5555 | 2017-08-04 12:28 | 万葉の旅 | Comments(0)

万葉集で親しむ大和ごころ  

上野誠の「万葉集で親しむ大和ごころ」 角川ソフィア文庫 平成27年9月新刊である。

a0237937_1316316.jpg


「むずかしゅう言うのんはアホでもできる。やさしく言えるお人こそ、ようわかったおひとだっせ」という東大寺の元管長の新藤晋海さんの口癖どおりの本である。
上野誠さんは、あれこれの講演でこんなことはお話しされますから、これは上野誠さんの信念だろう。
「万葉集で親しむ大和ごころ」は、そんな本である。

やさしく、おもしろいけど、あちこちでキラリと刃がひかるという感じである。僕は楽しかった。みなさんにもお薦めである。

宴会芸のお話がおもしろい。
「神とはどのような存在であったか」を考えた折口信夫が着目したのは、祭りのことである。
神は「来たりて去る」のが祭の構造である。神を迎え、接待し、神を送ってから「宴」、宴会を開く。「こういう祭りと宴会が毎年繰り返されることにより、酒・料理・歌・舞などが洗練されてゆく。そして、一つの形式というものができあがってゆくのである。茶道・華道・香道のような日本の芸道のほとんどすべてが、神仏をもてなし、客をもてなすさまざまな工夫から発達した理由もここにある。だから、祭と宴は、日本の歌や芸能の母胎」(p182)。

宴の歌として
「ひさかたの 雨も降らぬか 蓮葉(はちすば)に 溜まれる水の 玉に似たるを見ゆ」(巻16-3837)から解説が始まる。
 雨よ降れ、蓮の葉っぱにたまった水滴が宝石のようにみえる。宴席で即興で歌われた、雨が降ってなかった、宴席には蓮の葉が皿ととして使われていた・・・

それに続いて、長忌寸意吉麿の歌八首(巻16)の紹介である。
宴会の場を歌で盛り上げた男、意吉麿の姿が描き出される。

蓮葉(はちすは)は かくこそあるもの 意吉麻呂(おきまろ)が家なるものは芋(うも)の葉にあらし(16-3826)

蓮と芋の葉は似ている。「うも」に「いも」を掛け、我が家の妻を肴にして戯れた歌・・

双六の頭(さえ)を詠める歌
一二(いちに)の目のみにあらず 五六三四(ごろくさむし)さへありけり双六(すぐろく)のさえ(16-3827)

八首の歌の始まりは
さしなべに 湯沸(ゆわ)かせ子ども 櫟津(いちひつ)の 檜橋(ひばし)より来(こ)む  狐に浴(あ)むさむ 

右の一首、宴席にて真夜中に狐の声が聞こえる。雑器、狐の声、川、橋等などに架けて歌を作れと勧められて作れる歌とあり、宴席の歌である。

ちなみにだが、この歌の歌碑が天理の和邇下神社の鳥居の北側に置かれている。
a0237937_13293835.jpg


歌の趣旨から見れば、この場所で歌われたとは思えないのであるが、櫟本を読んだ歌とも言える。
櫟本には河があり、港(津)があり、奈良盆地を東西に貫く水路があったことなども分る。

万葉集というものがどんなものか、また、これらの歌から当時の風俗なども活き活きと感じ取れて楽しい。

さて、上野先生の本からは外れるが、長忌寸意吉麿には三輪と狭野の渡しを歌った歌もある。
「苦しくも降り来る雨か 神の崎 狭野の渡りに家もあらなくに」(巻3-265)
和歌山県下の歌かとの論もあるが、この歌を本歌取りした藤原定家の「駒とめて袖うちはらふかげもなし佐野のわたりの雪の夕ぐれ」(新古今和歌集)とあり、南国の歌ではなく、
これは大和・桜井の歌との認識は平安時代に確立している。

桜井自慢もして、今日はおしまいであるが、上野誠の本はいずれもおもしろい。
by koza5555 | 2015-11-03 14:09 | 万葉の旅 | Comments(0)

今年の萬葉学会は天理大学で

10月11日に天理大学で開催された萬葉学会の全国大会で坂本信幸先生のお話を勉強してきた。
演題は「天理と万葉歌」である。

a0237937_2038275.jpg
天理大学、八号棟あたりから。とても落ち着いたキャンバスだった

講演を僕なりにまとめてみた。
①はじめに「天理市には柿本人麻呂の墓と妻の墓がある」である。
柿本人麻呂は、「万葉集にしたがって、石見で死亡したことは確実である。」とされ、それを認めながらも天理市に柿本人麻呂の墓があることも確かとと思える・・である。

「大和国石上といふ所に、かきのもと寺といふ所の前に人麿が墓有りといふを聞て」清輔集(1177年以前に成立)とか、

「人丸の墓は大和国にあり。泊瀬に参る道なり。・・・・彼の所には歌塚とぞいふなる」鴨長明「無名抄」(1211~6年)など、平安の時代から天理の柿本人麻呂の墓が論じられている。

「石見に死して」だが、天理に墓があることは間違いない、火葬して遺骨を埋めたとみたいとのことである。

妻も天理に葬られたことも間違いなしとされ、
「大鳥の 羽易(はがい)の山に わが恋(こ)ふる 妹は座(いま)すと 人の言へば」
(巻2-110・長歌の一部)と、「衾道(ふすまじ)を 引手の山に 妹を置きて 山道を行けば 生けりともなし」(巻2-212)を引かれての説明があった。

「羽易の山」は三輪から竜王山にかけての山裾のことであり、それを大濱厳比古氏の「新万葉考」に従って、「三輪山を頭部に、竜王・巻向山を両翼として、いっぱいに翼をひろげて天かけてくる鳳の姿を見たのである」と羽易の山を解説された。

a0237937_20414135.jpg
 「大鳥の羽易の山」。飛鳥からはどこからもこの姿が望める


②二つ目のテーマは「柿本人麻呂はどこで生まれ育ったか」である。「柿本人麻呂の実像は不明とされる」などと聞いて納得してきたが、これはおもしろそうである。

万葉歌には略体歌と比略体歌があることを初めて勉強した。

「春楊 葛山 發雲 立座 妹念」という歌がある。
「春柳 葛城山に 立つ雲の 立ちても居ても 妹をしぞ思ふ」(巻11-2453)であるが、漢字10文字で31音を表す優れものと聞いてきた。助詞、助動詞などを全部省略した形で、これを略体歌というのである。

もちろん、柿本人麻呂には非略体歌もたくさんある。

画然と別れるわけではないが、傾向として人麻呂の歌は、若い時は略体歌、円熟してからは非略体歌が多いとのことである。それが地域ごとに整理されているのである。

城上郡(しきのかみ)は圧倒的に非略体歌、近江と山背国、各地方の歌は略体歌だという。若いときは近江、山城で、円熟してからは盆地の南部に移ったとみることができるとのことである。

結論を急ぐが、人麻呂の出身地は近江、山背は通過地点ではないかというお話である。
諸国の歌に略体歌が多いのは、若い時の人麻呂は「諸国の歌、伝承などの採歌・採話係」を職務としていたのではとの指摘だった。

僕の勉強、感想は坂本先生のお話とは、ちょっと差があるかもしれないが、今年は素晴らしい勉強ができた。


萬葉学会は、萬葉集を研究する学会であるが、「萬葉集を愛好する人は来たれ」と門戸を広く開いている学会である。
年間会費は4000円。学会誌が年に4回送ってきて、行事の案内もいただけて、お得である。

さて、この日の講演はもう一本あって、「よみを問う、ことばを探る」と題して、奥村悦三奈良女子大名誉教授がお話しをされた。難しいお話だったが、記紀万葉を考える上で、とても大きなカルチャーショックを受けた。様子を見てこれもアップしたい。
by koza5555 | 2014-10-13 21:34 | 万葉の旅 | Comments(0)

坂本信幸先生に連れられて萬葉一日旅行

5月10日、萬葉学会主催の「萬葉一日旅行」に出かけてきた。
町内の行事が密集していた頃だったが、坂本信幸先生、上野誠先生が講師とあり、「これは見逃せない」。

天理駅前集合、石上市神社、在原神社、人麻呂歌塚・和爾下神社、東大寺山古墳を経て櫟本高塚公園で昼食、帯解黄金山古墳(舎人親王墓伝承地)や崇道天皇陵を拝見して奈良に至るというコースだった。

山の辺の道がテーマだったが、歩いてみたら、そこは僕には未知の道だった。
今度のコースはほとんど行ったことがあり、ブログにも書いたりしていたが、今回、解説を聞いてみれば僕の知らない物語だった。

a0237937_13131594.jpg
和邇下神社にて、長忌寸意吉麻呂(ながのいみきおきまろ)の「さすなべに湯わかせて子ども いちい津の 檜橋より来む(コン) 狐(きつ)にあむさせむ」を楽しく解説する坂本信幸先生


天理といえば石上神宮、石上神宮といえば布留川というような僕の図式だったが、今回はこれとは違って、もう一つ北の谷、「高瀬川と和邇」がテーマだった。

高瀬川は五ヶ谷に発して佐保川に合流してやがて大和川である。この川に沿って北の横大路という道があり、西名阪国道はこの道に並行しているのである。
a0237937_13162869.jpg
この写真は切り貼りです(すみません)


櫟本に立てられている石標。
a0237937_13152370.jpg
北の横大路と上街道(上ツ道)の十字路の石標。左たつた、右ならみちと刻まれている


この扇状地が縄文時代から生活空間として確立され、弥生時代の歴史(この谷から銅鐸が相当数出土している)もあり、古代の和邇氏の本貫地であるとみられている。

その歴史は中世・近世にもつながる。
在原業平とその父の阿保親王(平城天皇の皇子)を祀る業平寺が、この地にあったり、この地域の中心市街地が櫟本であったりするのも偶然ではないのである。

大和川、佐保川をさかのぼるとしっかりした扇状地があり、上ツ道、山辺道のチマタでもあるということで、盆地北東部を背景に巨大な力をもち、佐紀盾列古墳群にも関係した和邇氏の本拠地であるという見方だった。
いろんなことがつながった思いのする、良い勉強ができた。

上街道を歩いていて、由緒ありげな建物に出会った。大阪府警奈良警察櫟本分署跡・・・
奈良県が明治時代の初期、大阪府に組み込まれ(その後堺県、分離の運動があり奈良県に)ていたことは知っていたが、こんな遺産は知らなかった。
この分署で天理教教祖、中山みきが尋問されたとのことで、史跡として保存する運動があるようである。

a0237937_13213538.jpg
大阪附警察奈良櫟本分署跡

あとは、東大寺山古墳であろうか。
天理教城法-しきのり-大教会の敷地内にあり、4世紀後半頃に築造された前方後円墳で、全長140m。葺き石、埴輪を持つ。粘土槨に覆われた、9.4メートルの木棺があった。
盗掘を受けていたが、粘土槨の東西に、武器や武具が副葬されており、東側から金象がんで「中平」(184年)の号を持つ刀が出土したことで著名である。
「中平□年五月丙午の日、銘文を入れた刀を造った。よく鍛えられた刀であるから、天上では神の御意に叶い、下界では禍を避けることができる」とのことである。

解説は古墳の下で行われたが、僕らは古墳の上まで。

a0237937_2084813.jpg
この古墳を探しに3回ほど来たことがある。教会の敷地内とは思わず、シャープの駐車場や寮のあたりをさがした。古墳の上で友人の田原さん(右)、左が田波さんである

今日は、どうしてもの所用がありお昼にリタイアである。
上野先生のお話を他の意味にしていたが、聞くことができなかった。次の楽しみとなった。
by koza5555 | 2014-05-11 14:10 | 万葉の旅 | Comments(2)

萬葉一日旅行

萬葉学会(関西大学文学部内)は「万葉一日旅行」を開催する。

5月10日(土)であるが(すみません、こんなに直前のブログアップで)、天理駅前に9時30分集合、

石上市神社(石上町にあり、少彦名命を祀る)、在原神社、高良神社、人麻呂歌塚・和爾下神社、東大寺山古墳を見学して櫟本高塚公園でお弁当である。

午後は和爾坐赤阪比古神社、帯解黄金山古墳(舎人親王墓と伝えられる)、崇道天皇陵で解散である。

手持ちの写真を探して、とりあえず

a0237937_22125195.jpg
帯解黄金山古墳(舎人親王墓伝承地)。黄金塚陵墓参考地のこと?


a0237937_22174582.jpg
崇道天皇陵

天理から奈良にかけてのいかにもマニアックコースで、
そして・・講師が・・坂本信幸先生と上野誠先生なのである。

僕も、9日から12日にかけて、ムチャクチャに日程が混み合っているが、これは行かねばという気分である。

事前申し込み必要なし、雨天決行、弁当持参で保険はなしと宣言されている。
料金は無料、萬葉学会は、会の内外で広く参加を広く呼び掛けている。

ご一緒しませんか・・・である。
by koza5555 | 2014-05-07 22:29 | 万葉の旅 | Comments(2)

万葉集と橿原市・広陵町・三宅町

万葉集のツアーの下見に行ってきた。

a0237937_952937.jpg
馬見丘陵公園のナガレヤマ古墳

コースは雲梯川俣神社、御厨子観音、常磐町春日神社、百済寺、馬見丘陵公園、伴堂杵築神社である。
a0237937_97342.jpg

奈良交通の募集チラシ

まほろばソムリエの会と奈良交通で作り上げる、「歌って巡ろう」の平野南部の巻である。
12月1日(日)と15日(日)、木枯らしが吹くころの話である。
昨日、26日(木)に、このコースの下見・勉強会を行った。

大津皇子、曽我川に三宅町。楽しみ、見どころが満載のツアーである。
今回は馬見丘陵公園などの古墳も回る。今回は古墳関係の解説はMさんが担当する。Mさんは奈良まほろばソムリエの会のなかでも古墳の知識が深く、その案内に定評がある。草を踏み分け、ライトを持って横穴古墳にどんどん入っていく女性探検家(?)ともいうべき方で、今回は、自身の経験も合わせて、古墳論を語ってくれる。これは僕も楽しみしているのである。

さて、万葉集であるが、「父母(ちちはな)に 知らせぬ子ゆゑ 三宅道(みやけじ)の  夏野の草を なづみ来るかも」(巻13―3296)である。この歌は長歌がセットになっていて、これは親が歌い、子が応えるという楽しい歌である。

ツアーでは、この歌を三宅町で歌う。
この三宅町の万葉歌の解説と朗詠を三宅町ボランティアガイドの皆さんにお願いした。

a0237937_9203729.jpg
犬養孝揮毫の万葉歌碑前で三宅町ボランティアガイドの皆さんの解説を聞く。実はさらに楽しみがあり、ツアー当日は、三宅町ボランティアガイドの皆さんに「天平の舞」もおどっていただけることになった

そして、万葉歌碑から太子道を200メートルほど歩くと伴堂杵築神社である。
こちらの拝殿に掲げてある「おかげ踊り」の絵馬が拝見できる。奈良県指定民俗文化財に指定されており、神社の境内で多数の踊り子が輪になって踊っている絵で、村役とか踊り子の一人一人の所作などが詳細に書き込まれている。

a0237937_919021.jpg
今日の写真はレプリカ。ツアーにおいでになり本物を見てください

三宅町はボランティアガイドの片岡会長さんや杵築神社の宮北総代(元区長)さんに案内をしていただく。


犬養先生の万葉の旅によれば、奈良盆地南部は「万葉の故地がこの地域に数カ所しかないのも、ここがいわば穀倉であり、宮廷人らにとっては、通路に過ぎなかったのにも因るところがあろう」とのことであるが、橿原市の御厨子神社、三宅町のボランティアガイドの皆さんなどに助けられて、今までにないような素晴らしいツアーになりそうである。


奈良交通の工夫で、昼食も楽しみ、ぜひおいでください。
by koza5555 | 2013-09-27 09:37 | 万葉の旅 | Comments(0)

歌って巡ろう平野南部(橿原・広陵・三宅)コース

歌って巡ろう平野南部(橿原・広陵・三宅)コースの日程が決まった。
このコースは僕が案内する。
a0237937_22335114.jpg
奈良交通ちらし

このコースは難物だった。
犬養孝の「万葉の旅」によれば、平野南部は「万葉の故地がこの地域に数カ所しかないのも、ここがいわば穀倉であり、宮廷人らにとっては、通路に過ぎなかったのにも因るところがあろう」とのことである。

「通路にすぎない」と書かれても、こちらはここを一日かけて案内するのである。
これをどう楽しくするかが、工夫のしどころである。

コースと日程を正式に決めた。すでにチラシとなって募集が始まるところだ。
日程は12月1日(日)、12月15日(日)で、コースはチラシのように雲梯川俣神社(橿原)から始まり、三宅町に至るコースである。

何度も回xてみると面白いテーマがみえてくる。

一つは人。盆地の南部には大津皇子と高市皇子がピシッと決まる場所と歴史がある。
一つは古墳。今回は馬見丘陵公園、ナガレヤマ古墳しか行けないが、この地域には多くの古墳があり、この語り部が見つかったことである。ソムリエのメンバーでは「古墳ならこの方」といわれるMさん(女性)にサブガイドになっていただいた。この解説は見逃せない。僕も大いに楽しみにしているところだ。
a0237937_2236434.jpg
ナガレヤマ古墳、東側


御厨子観音のご住職には解説をおねがいしている。三宅町のガイドの皆さんにも力を貸していただくという了解をいただいている。

準備を始めたころ(3月)にブログではいろいろ紹介しているが、チラシができたことでもあるので、紹介することにした。
a0237937_22381491.jpg
広陵、百済寺
by koza5555 | 2013-08-02 22:43 | 万葉の旅 | Comments(0)