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奈良・桜井の歴史と社会

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カテゴリ:読書( 75 )

古事記と小泉八雲

『古事記と小泉八雲』(かまくら春秋社)。『神話と美術』(真住貴子著)が面白い。

神話の世界が絵画などに表現されるには、文字で記録した媒体が必要で、かつその内容が多くの人々に周知されていないと、作品として制作されません。

『古事記』『日本書紀』といった記紀神話は、歴史上、明治期に集中して描かれた。明治期から戦中にかけて、記紀が人々に広く知られたことを反映しています。

例えば、オロチ退治を、絵本の挿絵のように図示する作品が登場するのは明治期になってからです。それまでは神「話」ではなく、信仰の対象として「神」を表すた作品が存在します。

真住さんはその例として、松江の八重垣神社に伝わる重要文化財 <板絵著色神像  >を紹介している。スサノヲを描いた絵画の中では古い作例とのことである。

それは
平安時代の絵とのことで、服装が女性は十二単、男性は衣冠束帯姿、これは平安朝の風俗で描かれているのである。説明がなければ、スサノヲとクシナダヒメということがわからない。

20日に丹生川上神社にツアーで訪れるが、こちらに残されたイザナギ・イザナミのご神像(平安時代)も説明がなければ、イザナギ、どこさしてというしかないのである。

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丹生川上神社中社所蔵のご神像。大古事記展(2016年奈良県立博物館)の図録から拝借した。


明治になって、神像から神話をモチーフに描かられるようになり、イメージが変わる、表現方法が激変するのである。

明治政府は、天皇中心の国、天皇が国を統治する正当性を国民に教育するために力を入れた。そこで、活躍するのは記紀だった。公教育の中に持ち込まれ、記紀神話が図入りで教育された。

明治元年の神武天皇は、皮のマントを羽織、髪はザンバラ、装飾具を持たない。

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明治23年の神武天皇は、髪はミズラ、ネックレスといくつかのペンダント、直刀を持つ姿に変わっている。

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明治の初期に『前賢故実』(菊池容さい)で、神武天皇から後亀山天皇までの500人くらい忠臣を肖像画と略伝で紹介している。

その後に、東京博物館の学芸部長だった(のような役職)黒川真頼が、古墳などから発掘された装飾具などを紹介した。これにより、古墳時代の服装が明らかになっていくのである。それが早速絵に絵に取り入れられ、肖像画の姿も変えていった。



描かれた神話・描かれなかった神話という問題もある。
神武天皇、天の岩戸、ヤマトタケル、イザナギ・イザナミの国生み神話は書かれたが、大国主命など、出雲系の神話があまり書かれなかった。「この時代は、解説、神話は日本書記に基づいて書かれていた」。

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もちろん異端児もいる。異端児の青木繁の業績は光る。海の幸の青木繁である。青木は古事記に基づいて絵を描いた。オオナムチとかヨモツヒラサカである。勝手の奈良の大古事記展には、『ヨモツヒラサカ』が出陳されていた。

神話は見る者のイメージが共通になっていないと、絵にも描かれないということで芸術性よりも啓もう的な絵がはびこる。そんな中だからこそ、青木繁の絵は際立ったのである。

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by koza5555 | 2017-09-06 17:30 | 読書 | Comments(0)

氏神さまと鎮守さま

神社とはなに?談山神社の氏子総代だったり、町の役員として阿部八幡社の祭祀に日頃から関わりを持っていても、「神社とは何?」という決め手は、恥ずかしながら勉強不足。

そんなとき、「氏神さまと鎮守さま・・神社の民俗史」という本を、桜井市の図書館の新刊コーナーで見かけた。国立民俗博物館で仕事をされ、現在は國學院大学の教授の新谷尚紀さんが書かれている。
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「稲の民俗学」からはじまる。田んぼの造成と稲作作業が、日本の統治のシステムや文化に大きな力を果たしている。
① 稲作(水田の造営)にはとてつもない労働力が必要とされた。採集、狩猟、漁労という自然環境のシステムで生きてきた人に灌漑労働と稲作労働は過酷なものであり、強制力が必要だった。
② 古墳の築造は巨大なシステマティックな労働力の把握とその動員力が不可欠だった。水田稲作における動員力が、その背景にあってこその古墳築造と考えられる。東北(仙台市、山形市を結ぶ以北)に古墳がないのは古墳造営の強制力が働かなかったのも一因だ。ここには水田、稲作労働がなかった。
③ 祭は新嘗祭、大嘗祭、広瀬大忌神祭(ひろせのおおいみのかみまつり)と龍田風神祭。稲作に関わるもので、これらの祭りの整備と定例化が、天武朝により始まる。


神社の発生と祭祀の始まりを連動させるのが新谷先生の論である。その歴史が、そのまま生かされたりするのも、神社と祭祀の特徴である。
祭祀の歴史である。順番に・・・
① 磐座(いわくら)祭祀
② 禁足地祭祀
③ 祭地への神籬(ひもろぎ)設置
④ 祭地への臨時的な社殿配置 
⑤ 常設の宮殿設営
磐座祭祀、禁足地祭祀という段階があって、それは、4世紀後半の三輪山祭祀遺跡や、4世紀後半からの遺跡が残る沖ノ島遺跡に示される。いまでも、磐坐があり、禁足地がある、その遺跡もある。
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大神神社の大鳥居

大神神社は地元だから、いつも注目しているが、沖ノ島の重要性に改めて勉強する。
4世紀、大和王権の力が巨大となり、博多湾(西新町 にしじん)を経由しない海路として、沖ノ島ルートが整備されたと読んだばかりである(海の向こうから見た倭国 講談社現代新書 高田寛太著)。
海路の新設と沖ノ島祭祀の遺跡の始まりが接近していて、「なぜ、沖ノ島に」という疑問が氷解する。
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沖ノ島あたりをめぐる歴史


三番目である。いまの神社の姿は、神道の歴史に関わりがあると新谷先生は説かれる。
磐座、禁足地、神籬、社殿という祭祀の歴史が神社には、混ぜ合わされた姿となっている。そう言われれば、それは心当たりがある。祭祀の歴史は過去の事じゃなく、いまの姿でもある。それは神社だけではなく、村や神社に民俗としても、伝承されている。

あわせて、日本の信仰動向の解明もある。日本の信仰の土台は土着と招来されたものが混淆している。
① 古代日本の神々への神話的信仰
② 中国から伝承された陰陽五行や道教の教え
③ インドで生まれ、中国で醸成された仏教信仰
新谷先生は、「三本混じりの奔流」があり、それを土台にして日本で独自に育った神仏(山岳信仰、神仏混淆の神々)が考えられるが、現代は、それをすべて取り込んで信仰の姿があると解説される。
日本の信仰状態は、この歴史を引き継いでいる。
ここが大事であるが、引き継ぎ方は融合ではなく、それぞれの特徴も生かされているとの解明がある。
結論的にいえば、形や中味がまじりあうのではなく、「たとえていえば、あくまでもミックスサラダの状態であり、ミックスジュースではないとのことである。

混淆しながらも基本的要素をしっかり保持、それが日本の神祇信仰の特徴で、神社祭祀の特徴である。
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こちらは阿部八幡神社

なるほどでした。
「宮座の形成と運営」という項目で、「大柳生の氏神祭祀」、「奈良豆比古神社」を取り上げていて、ルポルタージュとしても学ぶものが多い。
by koza5555 | 2017-06-08 13:03 | 読書 | Comments(0)

古墳時代の終焉

先日、古墳の始まりということをブログに書いた。
「倭国大乱」という弥生時代後期の2世紀後半の争乱を収めて、邪馬台国の成立、古墳時代が始まるという見方が順当である。
倭国が平和となってはじめて、戦には役に立たない大規模な古墳の造成が始まるのである。

古墳時代の始まりは書いたが、今日は古墳の終末、古墳はどんな形でなくなるかを考えたみたい。
7世紀後半、壬申の乱(672年)以降には豪族の古墳は急速に作られなくなる。
その後は大王家の八角形墳などが作られるが、8世紀にかけてそれも消滅する。

古墳の造成の停止、古墳時代の終焉というのも一気に来るわけでもない。
まずは6世紀末から7世紀初頭に前方後円墳の造営が停止されるところから古墳の終末が始まるとされる。
見瀬丸山古墳(欽明天皇の陵か?)や今城塚古墳(継体天皇陵)は前方後円墳の最期を飾る大型古墳と言われる。

同じ時代か、さらにさらに下がる前方後円墳が桜井にあることを知った。
前方後円墳の最後に近い、あるいは最後のグループといえるような古墳である。
こうぜ一号墳という。桜井中学校の真北、浅古である。これが6世紀末の古墳とされる。

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下から見たら、こんな感じだ


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号墳には二つの横穴式石室。これは東石室入り口


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これが西石室。規模はこちらが大きい。


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石室に入ると

壬申の乱(672年)以降、天武天皇の王権が確立したのちは、有力豪族の古墳は消滅する。単に墓・・ということである。たとえば宇陀の文祢麻呂(ふみのねまろ)の墓・・舎人といえでも壬申の乱の有数な将軍だが、古墳ではなく、墓地である。

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榛原八滝、稲佐山の麓。文祢麻呂墓

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同じころの明日香村の飛鳥の天武・持統天皇陵とされる野口王墓


古墳は作られなくなっていく。
古墳がつくられなくなる過程は、新しい大王を中心とする集権的な古代国家の形成過程に対応するのである。


古墳の終末の過程として、まず六世紀末葉ないし7世紀初頭に前方後円墳の造営が停止されます。それもたんに前方後円墳の造営が停止されるだけではなくて、それまで前方後円墳を作っていた有力な政治的支配者層の大部分が大型古墳をつくらなくなるのが推古朝ぐらいのできごとです。推古朝ごろに古墳の造営に関するきわめて強い規制がまず出されて、多くの有力な豪族が大規模な古墳をつくらなくなります。ただ。それでもなお地方の国造という位置につけられたような限られた有力な豪族層は大型の方墳や円墳を作りつづけますし、畿内の有力豪族層も前方後円墳に替えて大型の方墳や円墳をつくります。
 7世紀の中葉になると、即位した大王に限って八角墳をつくりだしますが、その背後には大王の地位を一般の豪族から超越した存在にしようという強い政治的な意図が認められます
(『古墳時代の考古学』白石 P271)
by koza5555 | 2016-12-19 21:01 | 読書 | Comments(0)

継体天皇と阿蘇ピンク石

継体天皇の真の陵とされる今城塚古墳に関わって阿蘇ピンク石が発見されたと報道されている。
「石橋の材料  実は継体天皇の石棺  高槻古墳から破片流出」という記事が、11月11日に各紙(産経新聞、奈良新聞など)に報道されている。長さ110センチのピンク石、石橋で使われていたが付近の寺跡に置かれていたとのことだった。
「この石棺は無かったのではないか、破片しか出てこないじゃないか」と聞いたことがあるが、逆転の見事な発見である。

阿蘇ピンク石、これを考えてみた。
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東乗鞍古墳の阿蘇ピンク石石棺(今年の3月に撮影。今は石室に入れない状態である)

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奈良新聞11月11日付


継体天皇の石棺。
天理の東乗鞍古墳に阿蘇ピンク石。
桜井にはあちこちにある。
北の方から言うと慶運寺(箸中)の石棺仏。慶運寺古墳に置かれていたのだろうか。
三輪の金屋の石仏の縁の下にも見事な家型石棺の蓋石がある。
浅古の兜冢のピンク石のくりぬき式の家型石棺

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金屋の石仏の縁の下

『古墳時代の考古学』(白石太一郎司会の討論会 1998年)にその解明があった。
竜山石の長持形石棺は葛城氏の影響下につくられて、葛城氏の没落と共に消滅していくのだという倉敷考古館の間壁さんたちの研究があります。ところがその竜山石製長持石棺を用いなくなった段階ぐらいから、近畿で家形石棺がつくられ始めますので、その間のつなぎはどうも阿蘇石製石棺なのです。極端にいえば、葛城氏が大王家支えていた段階は竜山石で、葛城氏が没落すると同時に阿蘇の石がはいっているとすると、大王墓にもひょっとしたら阿蘇石が使われているのではないかということも考えられます。葛城氏にかわって胎動してくる大伴・物部氏など、大王を支える人たちの古墳がある桜井市や天理市にピンク石石棺がはいっているということも、付随した問題としてあるのではないでしょうか。(高木恭二 熊本学園大学講師 1998年当時)

大王家と大伴はこのピンク石石棺を作った宇土の地と、この地方の豪族を、とても重視していていたとの論である。

ピンク石の宇土半島の近くには菊水町、現在の和水(なごみ)j町がある。あの江田船山古墳の地で、5世紀末の遺物で文字が書かれた鉄刀が出た町である。埼玉の稲荷山古墳の鉄剣と合わせてワカタケルの文字が刻まれていた刀である。
中央で作ったか、地元で作られたかの論はあるようだが、中央直結の地であったことは十分示されている。

有明海沿岸は交易や外交に活躍した土地でもあった。
日本書紀によると百済に使えた日羅という人が出てきますが、これは火葦北国造(ひのあしのくにのみやっこ)の子どもです。葦北というのは八代の近くですね。 (白石)

こんな解説もあり、5世紀の有明海沿岸の力が浮き彫りにされている。
阿蘇ピンク石は、葛城から大伴への権力移行期の石棺で、外交戦略にたけた大伴と有明海沿岸のピンク石の石棺を作りだしていた諸豪族の力が結びついた特別な時代の産物だということだが、いかがだろうか。

政権の安定に伴い、二上山石の家形石棺、竜山石の家形石棺などが大王家、しょごうぞくの石棺の軸になっていくのであるけど。

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これは兜塚古墳、石棺
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by koza5555 | 2016-12-17 23:27 | 読書 | Comments(0)

『未盗掘古墳と天皇陵古墳』

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桜井茶臼山古墳。こちらは未盗掘古墳じゃないけど、僕の古墳、お宝画像だ

未盗掘問題を論ずるためには、発掘とは何か、盗掘とは何が違うかを明らかにしなければならない。

考古学者が行う発掘の最大の目的は、遺物を掘りだすことではなく、遺物と遺構の関係を情報を入手することだ。
…これに対して盗掘は、このような情報に何の注意を払うことなく、もちろん記録を行うこともなく、それを暴力的にこわして遺物だけを取る行為にすぎない。
情報はその、その遺構を作って遺物を置いた過去の人々の行為を読み取るための、唯一無二の鍵となる。
(p18)

松木先生は、二つの未盗掘古墳の発掘を手掛けた。考古学者としては幸運な方というべきでしょうか。
一つは大阪大学当時の雪野山古墳。安土城跡の近くらしい。
今一つは、松木さんが中心となって岡山大学が発掘した勝負砂(しょうぶざこ)古墳である。
いずれも詳細な説明があるが今日は省く。

この発掘の経験と合わせて、発掘が中止された古墳の紹介がある。
羽曳野市の峰ヶ塚古墳の例である。
盗掘穴がある古墳だったが、掘りすすめると多くの副葬品が残された石室に至った。
遺物のなかでは魚佩(ぎょはい)といわれる(二匹の魚を腹側で向かい合せた形の金具、ベルトや刀の垂れ飾りか)が注目された。
藤の木古墳などの6世紀後半の古墳からは出土する。しかしこの古墳は5世紀後半で100年の差がある。その解明が待たれたが、「これほどまでの貴重な古墳の調査は、拙速を避けて未来にゆだねるべきだという判断が勝」ち、埋め戻されてしまった。
年代の差も不明、さらには竪穴式か横穴式かも不明である。

大王墓群のただなかにあって、それが竪穴式から横穴式へと移り変わっていくターニングポイントをなす古墳として、未盗掘ではないけれど、副葬品の残り具合も十分で、はかりしれない歴史的価値をを持っている峯ヶ塚。発掘中止崖冢として正しかったか、誤っていたいたかはだれにもわからない。・・・だが、それを解き明かす営みが、未来に向けての保存という理由のもとに、中途のままペンディングになっていること惜しむ声は少くない  (p211)

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最近入った横穴式石室。桜井の越塚古墳。石棺の器台が残っていた。

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これも最近入った桜井市のこうぜ一号墳西石室。ここは準ほふく前進である


日本の古墳に墓主の名前が入らないことの解説がありよく理解できた。
墓の主の名前がそこに残されていた事例は、日本の古墳にはない。だが中国には古くからそういう風習があった。神から墓地を買い取る「買地券」として、墓主の名を石に刻んだりすることはその典型
この風習は朝鮮半島までは伝わったが、日本には及ばなかった。
「誰それのが眠る墓」という意識よりも、巨同体のまつりの場として長の墳墓を築くという宗教的土俗性に遅くまでおおわれていた日本列島の古墳には伝わる由もなかった。


また、百済と日本の強固なつながりも触れている。
523年に亡くなった百済の武寧王の棺はコウヤマキだったことが判った。コウヤマキははモンスーンの卓越する日本でしか育たないもので、この棺の材料は日本から運ばれたものである。(p45)
西暦500年に対馬海峡を渡っていく巨大なコウヤマキ。古墳時代の英知と力は素晴らしいものである。


『未盗掘古墳と天皇陵古墳』 松本武彦(岡山大学教授) 小学館
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何を発掘したか、ではなく、発掘の考えかたを考えさせられる面白い本だった。
僕は図書館で借りたが、まだ3年ほど前の本である。
by koza5555 | 2016-12-08 14:26 | 読書 | Comments(0)

『古代大和へ、考古学の旅人』  石野博信

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今朝の箸墓古墳。古墳時代の始まりはこの古墳からか

一月のおもしろ歴史講座(桜井駅前エルトの第4会議室・1月6日(金))のテーマは「桜井の古墳」である。どんなお話になるか、まだジタバタしている。

古墳時代ということを考えてみた。弥生時代のあと、古墳が盛んにつくられた古代のことである。大和を中心にして日本がまとまった、その時代である。同じような前方後円墳が全国で作られる。飛鳥・藤原、平城京の時代に古墳は終わりを告げる。

『古代大和へ、考古学の旅人』(雄山閣・石野博信)を読んでみた。
きっとおもしろい観点があると信じて読んだが、やはり石野先生は裏切らない。
「古墳時代は戦争のない時代」と言われる。

弥生時代の高地性集落という問題がある。邪馬台国論でもさんざん考えてきた。
さらに弥生時代は、九州も畿内にも大規模な、そして無数の環濠集落が生まれた。吉野ケ里のような厳しく深い環濠、100メートルにも及ぶ大幅な水濠(いく筋もの溝に分かれていた)が置かれた鍵・唐古のような形である。

「高地性集落というように呼んでおります。そういう村が盛んに作られるのが弥生時代の中頃から終わり頃です。その辺と環濠集落の動きというのは当然関係があるだろうと思います。環濠集落というのはやはり敵が襲ってくる時に備えて村を濠で囲んでしまう。山の高い所の村も敵が襲ってくるのに、備えて中世の逃げ城のように山の方へ村をつくる。」
「この高地性集落が盛んに作られるのは弥生時代中期の後半で、瀬戸内海の要所要所へ作られていきます。弥生時代の後期になると近畿地方大阪とか奈良を中心とする地域にたくさんできます。近畿地方では弥生時代後期が終わって・・・バッタリと高地性集落が無くなります。私は世の中が平和になったんだと、そして墓作りにエネルギーが集中できる時代になったんだと思っています」
(p125)

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奈良盆地の高地性集落と主要な遺跡(p71)


「環濠集落」も解説、評価がきわめて端的である。
「弥生時代でも日本列島に米づくりが入ってきた時期の村の遺跡が、福岡空港のある板付にありますが、その遺跡も大きな掘がめぐらされています。きんき地方でも、大阪でも、奈良でも、そういう村はたくさん残っています。ですから、弥生時代の村が掘で囲まれているというのはごく当たり前のことです。ただし、日本の歴史の中では、そういう村があるのは弥生と、鎌倉、室町時代から戦国時代にかけての二つの時期だけです。村を全部溝で囲まなければいけないほど、この二つの時代は戦争がはげしかったと言えると思います」(p154)

古墳が全国で作られていく時代は、この時代を経てからのことなのである、古墳の形、副葬品、祭祀のことなど古墳は話題は多いが、その前提は戦争のない時代だったということがある。
こんな社会の成立に、邪馬台国がその触媒になったかもしれないと僕は考えるのである。


古墳時代はすごい。
平和な日本があって古墳ありき。
そして保守的にならずに、古墳の築造の思想と技術はめまぐるしく向上・前進していく時代でもあった。

「古墳時代、戦争のない社会、すごいわ」、こんな思いを理解していただけるようなお話しにしたいものである。

『古代大和へ、考古学の旅人』(雄山閣・石野博信)
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by koza5555 | 2016-12-03 10:04 | 読書 | Comments(0)

芝村騒動と龍門騒動

芝村騒動を上島秀友さんが書かれた。
上島さんは香芝市のお住まいで、10月に行われた「邪馬台国バトル」でお話しした折、石野博信先生のご紹介でお近づきになった。
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芝村騒動は、芝村藩の預かり地となっていた大和盆地南部の天領でおきた。
宝暦3年(1753)、十市郡の九ケ村が決起。京都町奉行所に箱訴した。箱訴は合法手段だったはずなのだが、村役人らが江戸の召し出され、吟味が開始された。吟味は過酷を極め、次々と犠牲者が出た。取り調べの対象は式上郡、式下郡の村役人にも拡大、40人以上が獄死した(
p4)

ぼくもこの芝村騒動のことをお話したことがある。僕なりに調べて、磐余・吉備のあたりのお話しの中での紹介だったが、知らずに話したことがたくさんあった。この本を読んで、芝村騒動の経過と全貌、本質が良く理解できた。

十市郡は広く幕府の天領となっていたが、その税収は芝村藩が代収していた。これを預かりというが、大名領などと比べても過酷な徴収が行われていたといわれる。
租税は五公五民、代理で徴収する(預かり)芝村藩は3%の手数料が入るという仕組みである。芝村藩は一万石、預かりが9万石ほどになっていたから、普通に徴収していても、一万三千石である。
しかし、検見と呼ばれる作柄の検査があり、これで税収が決めるが、百姓に有利な検見はないという状況が続いた。
「胡麻の油と百姓は絞れば絞るほどでるものなり」(本多利明『西域物語』)というのが施政者の考え方だから、この状況は全国共通である。
ところが、これに合わせて、芝村藩の預かり地には「別の複雑な事情が潜んでいました。」(p38)

それは、「畝詰り」にも年貢がかかったということである。
畝詰りとは「実際の面積が検地帳に記載された面積よりも少ない」状態で、検地帳を基準に課税されると、五公五民ではなく、畝詰りの具合では七公三民にも変わってしまうのである。
もともとは郡山藩が柳沢忠明の時代に、藩の格をあげるために12万石を15万石に変えたという歴史があった。農地は増えていないのに、郡山藩のすべての農地は台帳では二割五分増しの面積に変わっていた。郡山藩の時代はその事情が判っていて、割り増し分は無税だった。ところが、盆地南部の領地が天領に変わって問題が生じる。
芝村藩はこの二割五分にも課税したのである。

ここらあたりを僕は知らなかった。この仕組みで芝村藩、預かりの村々は八公二民というような重税にあえぐことになったのである。
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300人もの江戸への呼び出しや40人もの犠牲。後日談も上島さんの視点は暖かく丹念である。
お薦めしたい。

芝村騒動といえば、吉備区では、毎年9月15日、吉備薬師寺において、芝村騒動の犠牲者の慰霊祭を行っている。
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吉備村からは8名が呼び出され、
平兵衛(藤本)、甚治良(竹田)、平治良(岡橋)が牢死
長八(高井)、庄蔵(松井)、新五郎(森本)、又四郎(吉崎)、甚五郎(吉本)の5名が帰還できたとのことである。
帰村した5家のうち、2家が途絶えて森本家、吉崎家、吉本家で供養を行っているが、「当屋を決めて、法要を行い、慰霊碑を拝み会食」という、供養である。
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吉備区集会場、薬師堂


合わせて掲載されている上田龍司さん(故人)の『竜門騒動』、『天保ききん考』、『いのちのかて 昔の稲作の思い出』も読みごたえがある。
『芝村騒動と龍門騒動』。大和の百姓一揆  青垣双書(青垣出版)。1200円+税
by koza5555 | 2016-11-25 19:03 | 読書 | Comments(0)

えてこでもわかる  笑い飯 哲夫訳 般若心経

9月から桜井の広報大使は「笑い飯・哲夫」。
そういえば、「ムジークフェスト」で、僕がテレビに取り上げられた時のコメンテーターは、笑い飯哲夫やったな・・というようなことで、哲夫の本を読まさせてもらった。 

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 『般若心経』である。「えてこでもわかる笑い飯哲夫訳 般若心経」とあった。
 「お笑いの笑い飯が書いた般若心経か」とは思ったが、「広報大使やし、僕がテレビに出た時のコメンテーターやったし」と手に取ってみた。

これが、おもしろいし、考えさせられた。
あたりまえのことだけど、僕には書けん。「たとえ」が違うし、何よりも般若心経の理解度が僕とは全く違うレベルだった。

そして、「涅槃」を究竟(くきょう)しているわけですが、やっと出てきました。「涅槃」です。この世に存在する二字熟語で、一番好きなやつです。「涅槃」か「刹那」で迷ってたんですが、やっぱり「涅槃」が一位です。二位が「刹那です」。吉本興業の芸人プレフィールをみてもらったら、好きな言葉のところに、「涅槃」と書いてあると思います。社員さんに聞かれた時、そう答えました。この、かっこいい「涅槃」の意味はといいますと、「煩悩を滅ぼし尽くした悟りの境地。仏教の最終的な理想」とまた、意味もかっこいいんです。(p102)

般若心経、いよいよ終わりは
 「羯帝羯帝波羅羯帝(ぎゃていぎゃていはらぎゃてい) 波羅僧羯帝(はらそうぎゃてい)である。

哲夫はこんな訳を示してくれた。
全然意味わかりませんよね。これもサンスクリット語の音写なんです。・・・・意味は「ガンバッテーガンバッテー」ではないらしく、「往ける者よ往ける者よ彼岸に全く往ける者よ悟りよ幸いあれ」などとなるらしいんですが、なんのことや年、と化なるんで、個人的に「ガンバッテー」みたいな感じでいいと思います。個人的に「がんばってがんばってよくがんばってまさによくがんばって悟れよ幸いあれ」だと思います。(p128)

なるほど、結論もキチッとしてる。
「がんばってがんばってよくがんばってまさによくがんばって悟れよ幸いあれ」かあ。

では、さらにさらに僕もがんばろ やな
by koza5555 | 2016-11-19 21:07 | 読書 | Comments(0)

阿蘇ピンク石 兜塚古墳 慶運寺の石棺仏 金屋の石仏と石棺

石棺だけを論じた本である。少し古くて20年前の本である。
『石棺から古墳時代を考える』―型と材質が表す勢力分布―
真壁忠彦 著  同朋舎出版である。

目次は「石棺の石材」、「石材産出地」、「舟形石棺の世界」、「長持形石棺」、「家形石棺」。
いやんなりました?

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これが今日の話題の阿蘇ピンク石の兜冢古墳(桜井市朝古)

話は様々な角度があるが、今日は阿蘇ピンク石のことだけを紹介したい

桜井のピンク石は他にも

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箸中の慶運寺の石棺仏。ピンク石である


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金屋の石仏堂の床下に保管されている石棺。ピンク石だ


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少し時期が下がるし、天理市だが。東乗鞍古墳の石棺(現在は管理者によって石室内の入室が禁止されている)

著者の真壁さんは、当時は倉敷考古館の学芸員
岡山県の南東部、邑久郡長船町の築山古墳(p189)のピンクの凝灰岩のが石材の産地が不明だった。
産地は不明だが、次々と同じものが明らかとなる。
まずは畿内に多い。たとえば、京終の野神古墳であり、桜井市朝古の兜塚古墳、東乗鞍古墳などである。

そこで産地を探した。二上山に似ている石があった。さしづめ二上山ピンク石である。
ところが、1991年、九州でこの石をみることなった。宇土半島に露岩があった。ピッタリである。二上山ピンク石 改め 阿蘇ピンク石のはじまりである。

「阿蘇山は凝灰岩を何度も噴出。これは一般的な黒灰色の凝灰岩で・・・ところが数度の噴出のうちで、一度は、ピンクの凝灰岩の噴出となったという」(p191)

阿蘇から次々と運び出される。石材というよりも。加工されていた可能性も論じられる。
席棺の分布の中心は大和であって、佐紀古墳群や葛城古墳群とは外れたところに分布しているという。中心の氏ではないということである。

箸中の慶運寺、三輪の金屋の石棺も同じような場所である。
元々は大型古墳が多い地域だが、この時期は大古墳が見られなくなっているという地域である。

「中期の大古墳の世紀が終わろうとした時期に、畿内に新しく台頭してきた新勢力の動きをみることができるのであり、その勢力が、旧勢力を代表する棺であった長持形石棺とは形も石材(色も)も違った新しい棺を採用したのがピンク石家形石棺だったのである」(p194)

「そういう意味では吉備の築山古墳は畿内新興勢力の石棺と同形態、同石材であり、畿内の新勢力と同質ということを古墳が主張している。」

この新興集団は歴史にどう立ち向かうか。
古墳時代の後期の石棺に大きな影響を与えていることからみて、飛鳥の時代にかけて大きな影響力を持ったとみるべきと強調がある。
ピンク石の家形石棺は歴史のアダ花ではなく、石棺の時代の主流を歩んだ石と言えるのかも・・である。

最後に、これが阿蘇ピンク石。これは現代に切りだされた石材の破片である。
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by koza5555 | 2016-11-16 22:19 | 読書 | Comments(0)

『古墳は語る』 石部正志

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左側は岩屋山古墳(明日香村)、中がムネサカ一号墳(桜井)、右が峯冢古墳(天理市)。なんで、同じ形になるのだろう

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 『古墳は語る』。石部正志先生。丹念に初心者に古墳を教えてくれる本である。僕も勉強になった。かもがわ出版である。

箸中山古墳から古墳時代が始まる。古墳はそこからである。
吉備には楯築墳丘墓があり、ヤマトには突出部を持った円墳ができた。纒向の石塚や東田のことである。
その後、古墳の画期をなす箸中山古墳が作られる。
前方部が違うというのである。それまでの前方部(突出部)は出入り用の通路という。箸中山はそこが違う。前方部は急斜面、そして高い。前方部の先からは円丘が見られない、登れない。
この古墳の大きさ、姿は墳墓の形を一変させたもので、今までになかった王者が登場したことを物語るもの。(p39あたり)

箸中山古墳は石塚古墳などとは形も違い、入り口が違う、祭祀も違うといわれるのである。

さて、大古墳の造営地の移動が論じられる。時期と場所の検討である。
大王墓はオオヤマト古墳群に始まり、盆地北部の佐紀古墳群に移動し、4世紀の中期からは古市と百舌鳥古墳群に移っている。
その後は高槻の今城冢古墳を経て、太子町の磯長谷、飛鳥の地域が墓所となった。

ここでは、二つのことが問題となる。
①一つは大王位の継承のありかた
箸中山古墳に続いた大王墓は、西殿塚→桜井茶臼山→メスリ山→栁本行燈山(崇神陵)→渋谷向山(陵)と築かれたと推定され、いずれも三輪山に近い広義のオオヤマト古墳帯にありますが、造営地点がバラバラであることが気になります」(p171)と、場所があちこちに行ったり来たりすることに注目されている。
その後の奈良県北部への古墳群の移転、さらに大阪平野の百舌鳥・古市古墳群に移っていることも合わせて、これらの墳墓の場所のありかたは、「大王位直系親族世襲制の原則とは相いれない」(p171)と断言される。なるほどである。

②あと一つ、これらの地域が土師連(はじのむらじ)の勢力地域内であったと指摘があり、その上で、
「古墳時代の土師氏は、大古墳の造営と、古墳での祭祀の執行を仕事とした鞆造(とものみやっこ)系の大氏族でした」
また、箸中山墓古墳については、「箸墓ではなく土師墓(土橋寛論)ということ」だとして、「箸墓は土師史が古墳造営の主担者としての呼称に起源し、(土師氏の)始まりは箸中山古墳築造の時点、あるいは、さらに前に遡るかもしれません」とされるのである。
「首長のための厚葬墓の造営は、弥生時代後期頃から進みだしました。古墳祭祀の大きな要素の一つとして、築造企画に則った大墳丘の造営や埋葬施設の棺槨の構築と並んで、葬送儀礼用の特殊器台、特殊壺の製作と使用も大事な仕事だとすると、土師の仕事の始まりは吉備の楯築墳丘墓造営まで遡らせます」(p134)というのが、土師蓮の起源、役割についての石部先生の論だった。

土師(はじ)連はその後どうなるのかも解説がある。
「大古墳は6世紀末には終わり、火葬が普及する8世紀には高塚古墳が築かれなくなり、土師氏が墳墓のことで果たしてきた役割は無くなり、その後は菅原氏などに名前を替えて、学問の家として栄えていくことになります。」(p133)

なるほどなあ、「古墳を見れば作った人も見える」ということで、これは目からうろこである。
土師師は自らの仕事を文字で残さなかったが、この書の題名の通り(古墳は語る)古墳に語らせている。

僕なりに考えてきたことを少しだけ、あげてみよう。
たとえば桜井の艸墓古墳、竜山石の家形石棺が残されている。古墳の施主が播磨まで影響力を持っていたという論を聞いたことがある。

僕はこれがとても不思議だった。そんな論なら、「阿蘇ピンク石」の石棺に葬られた桜井市朝古の兜塚古墳の例、この方は九州まで影響力があったということになってしまう。

作る人のことを考えねばならない。それが土師連(はじのむらじ)で、「石材の入手も含めて広い地域に大きな力があったと考えるべきかな」と考えた。
あちこちの豪族が古墳造成と祭祀のノウハウを持つというより、大王家をはじめてして数多の豪族と結びついて古墳造成を進めたんではないか・・ということである。

羨道の入り口の天井の刻み。これは天井を伝う水滴を落とす仕組みという。

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左が岩屋山古墳(明日香村)、右が安倍文殊院西古墳(桜井市)
同じ人、同じ系列の人が考えたものであることは確実である。
by koza5555 | 2016-11-15 15:08 | 読書 | Comments(0)