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奈良・桜井の歴史と社会

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カテゴリ:桜井市と安倍( 52 )

山田寺跡

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山田寺の遺跡の草はきれいに刈られている。山田の大字の区長さんに聞いたら、「国に頼まれて刈っている。一年に何度も刈るよ」と言われた。「平らなところも多いので、四輪の芝刈り機も買った」とのことである。
それを小学校の孫が聞いて、「遺跡を守るために、みんなががんばっているんだ」と山田寺の遺跡を壁新聞に書くことを思いついた。

山田寺の跡地からは五重塔と金堂の跡が発掘されている。金銅の風招(大きな鈴)や鴟尾(しび)が発見されている。

さらにその後の調査で、回廊が土に埋もれた昔のままの状態で残っていることが分かり、古代建築の貴重な資料となった。

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東回廊は屋根付きの廊下で、87mもあり、中央には扉口もあった。この一部が東から西に向かって倒れ、土の下に埋まっていた。このため部材の保存状態はとても良かった。部材は柱、連子(れんじ)、大斗などが、完全に近い状態で発見された。日本で一番古い建物の姿がわかる世紀の大発見である。


山田寺の建物の配置は南から、南大門、五重塔、金堂、講堂となっている。そして五重塔と金堂は回廊というものに守られている。講堂は回廊の北側で回廊の外にある。

そして
金堂の中には丈六の仏像が祀られていた。白鳳時代に作られた、この仏像は奈良の興福寺に移されて、その後火事で体が溶けてしまった。残った頭部は布に包まれて500年もお堂の下に保管されていた。それが近代に発見されて、いまは国宝になって大事にされている。
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飛鳥資料館にもそのレプリカが展示されている。

山田寺は大化の改新に参加した石川麻呂が建て始めた寺院である。このころ各豪族がさかんに立てはじめ氏寺という寺院である。石川麻呂は曽我入鹿のいとこだが、曽我入鹿を殺害したクーデターに加わり、右大臣委任ぜられたが、その後、反乱の疑いが晴れ、皇室の援助で造営が続けられ、7世紀後半に完成したている。


こんなことを小学生のユキト君が一所懸命書いている。僕は遠くから見学するだけだ。
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最後の付録に山田の村で見かけたかんぴょう干し・・おいしいだろうなあ
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by koza5555 | 2017-08-08 15:34 | 桜井市と安倍 | Comments(0)

阿部八幡神社で伐採…樫の木が5本くらい切られてしまう

阿部区の氏神は八幡神社。元々は山の中、そして谷首古墳の墳頂に鎮座する。

檜などの針葉樹、樫などの常緑樹が茂り、阿部文珠院の南側、鎮守の森としてひときわ目立つ大きな森として威容を誇ってきた。

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阿部の村から見ると東の山の奥にあったのであるが、この20年ですっかり様変わりである。僕が神社に奉仕することになってからの6年の間でも、宅地化、都市化の進行が激しくて大きな鎮守の森が・・問題となってきている。

6年前に10本くらい切った。南側が中心だった。本殿の周りの桜なども、佐藤宮司の「ふさわしくない」との指摘で処分した。

クレーンが入り、森林組合が入るという伐採、だけど売れるような木はなく阿部連合区の負担である。

その後、北側、東側が問題となった。落ち葉、枝落ち出が問題で、倒れたりの危険も木もできる。立ち枯れの木もある。

週明けから本格的な伐採となり・・・神様に伐採の報告、作業の安全祈願祭を斎行することとなった。

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わが社の宮司は神職一級の佐藤さんである。

祝詞を聞きながら考えた。

大山祇の神と大神に伐採を報告された。「やむを得ないんだ」という祝詞である。いわば国ツ神に報告された。

今回も10本ほどの伐採だが、ほとんどは樫の木である。

四季を通じて常に緑葉を保っている樫の木。次々と葉が出て、更新する樫の木は、尽きることのない生命の泉というニュアンスである。

古事記にヤマトタケルの辞世の歌がある。「倭は国のまほろば」であるが、さらに「命の 全(また)けむ人は たたみこも 平群の山のくま白梼(かし)が葉を 髺頭に刺せ その子」である。

さらに神武天皇は「辛酉の歳(神武天皇元年)の正月、52歳を迎えた磐余彦は橿原宮で践祚(即位)し、始馭天下之天皇(はつくにしらすすめらみこと)と称した」とある。

畝傍山のふもとには樫の木が多かったのかな、なんて気楽に考えていてはいけない。

樫の木のように、常に、永遠の力・・・の場所、宮ということなんだろう。

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阿部八幡神社の臨時祭祀は拝殿での祭りを終えた後、境内の周囲を一周(周囲が一周できるようになってしまったのである)して、要所、要所で祈りの儀式。

「紙と大麻」を宮司が「さゆうさ」(左右左)でまき、5人ほどの役員がお米、酒、塩を 左右左である。

山の神、血の神に鎮まっていただき、足の曲がり、手の曲がりなきよう祈って、阿部八幡神社の伐採は7月3日からである。

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大きな木を切るのである。しかし、切り倒すというやり方ではなくクレーンで吊りながらの伐採。だから葺石とかハニワなどは掘り起こされないようだろうけど、あったら、拾っておこうかな(笑)、桜井市の埋文などには連絡は必要ないのだろうかなあ。




by koza5555 | 2017-07-01 14:36 | 桜井市と安倍 | Comments(0)

『古建築を復元する』 山田寺に見ると・・・

建物の復元は各地の遺跡の大きな目玉である。
邪馬台国所在地論で言っても、吉野ケ里なら当時の建物を彷彿とさせる建物が林立している。一つ一つの建物はよく考察されて復元されているだろうが、時代を隔てた建物が直近に立ち並ぶのはいただけない。しかし、逆にその密集度が迫力をもって迫ってくる。

一方、纏向といえば、古墳は見学できるが、建物は埋め戻された空き地だけだ。桜井埋蔵文化財センターに行くと、ようやく模型を見ることができる。
遺跡の保存など、長い目で見ればどうかであるが、現実の「集客力」は確実に差がある。

建物の復元は大切だ。そこで、そんな建物の復元・・という本が今年の3月に出ている。

『古建築を復元する‐‐過去と現在の架け橋』。奈良文化財研究所の海野聡さんが書かれた。

「古建築を知る」、「建物の痕跡を見る」と読みすすむと、「山田寺の衝撃」とあった。

1982年、突如として地面の下から「建物」が現れた。まさに直前までたっていたかのような姿が白日の下に晒されたのである。山田寺回廊の出土部分の発見までは、建築史は7世紀唯一の現存建物である法隆寺に依拠してきたが、この発見により常識が覆されたのである

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山田寺、東面回廊。薬剤処理を施されて

山田寺は蘇我山田石川麻呂の発願による氏寺で、641年(舒明天皇13年)に寺地作成、643年(皇極天皇2年)金堂の建立、麻呂は謀反の疑いを受け死に至るが、685年(天武天皇14年)に金堂の丈六仏のご本尊の開眼供養が行われている。(上宮正徳法王帝説による)

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仏頭・飛鳥資料館にはレプリカが置かれている。写真撮影はできる

11世紀には回廊が倒壊、12世紀には金堂・塔・講堂が焼失した。

この東側の回廊が倒壊した状態のまま、土の下、さらにその瓦の下から出てきた・・出土したのである。
建築部材はすべて残っているという状態である。
柱は銅張り(エンタシス)があった。
組み物の特徴があった。
柱があり、その上に大斗、巻戸、肘木で平三斗(ひらみつど)で梁を支えるが、この形が法隆寺とは異なっていた。

法隆寺は柱と大斗の間に皿斗が入っている。奈良時代の建物には一般的には皿斗はなく、これは中世に中国から輸入(大仏様)されたもので、法隆寺は特殊な形を取っている(金堂・五重塔・中門にもついている)。

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これは僕が書いた 笑
山田寺には皿戸はない。

古い順にみれば、山田寺(なし)、法隆寺(あり)、薬師寺など(ない)、10世紀以降(あり)とのことである。
7世紀には日本の古建築の基礎ができていたことが示されたと海野聡先生は指摘するのである。
言い換えれば、法隆寺は別格という事だった。古代建築の代表、法隆寺はこの技術を、どう手に入れたか。興味は尽きない。

ほかにも平安神宮、第一次大極殿、朱雀門、四天王寺、登呂遺跡などが考察されている。
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『古建築を復元する――過去と現在の架け橋』 著作 海野聡  吉川弘文館
by koza5555 | 2017-06-18 17:55 | 桜井市と安倍 | Comments(0)

ウォーナー博士 報恩供養の法要

6月9日、安陪文殊院でウォーナー博士の報恩供養法要が行われた。
桜井市仏教会の主催である。

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ウォーナー博士 報恩供養塔を前にしての法要


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報恩供養塔は「安陪清明公 天文観測地」に建立された。西の空が開けている。

ウォーナー博士 報恩供養塔について

ウォーナー博士は、1881年アメリカのニューイングランドに生まれ、ハーバード大学出身の東洋芸術史家で日本美術の偉大なる権威者です。第二次世界大戦において、日米の風雲急なるやその親友ハル国務長官を訪ねて戦争防止を進言されました。不幸開戦となるや、アメリカの政府と軍の上層部に辛抱強く奈良と京都をはじめとする古都の文化的価値の説得に成功されたおかげで、アメリカ軍の日本本土空襲の時にも空爆リストから外されました。この地に立つウォーナー報恩塔はこのウォーナー博士の功績に大変感動した桜井市の一市民であった中川伊太郎さんが、日本人が博士に寄せる感謝の気持ちを永久に残したいという気持ちから自費で建立されました。因みに中川さんは当事、失業対策事業で働く日雇い労務者という大変苦しい生活を送っていたにもかかわらず、こつこつと貯えた十万円の全財産を出して昭和34年5月に建立されたものです。この建立の相談を受けた当時の市長及び桜井市仏教協会と当山住職は、この美徳を称えたいとの思いから場所の提供をはじめてとして毎年6月9日のウォーナー博士の命日に報恩感謝の供養を厳修することとし、爾来桜井市仏教界主催によって6月9日の博士の命日に法要が行われています。

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ウォーナー博士の功績の否定論もさまざまである。
「ウォーナーリストは略奪品の返却の為につくられたもの」であるとか、ウォーナーリストに載せられながら空襲にあった各地の文化財を示して、ウォーナー博士の役割を否定するという論などである。

愛知県や名古屋市で60年間暮らしてきた僕から見れば、奈良や京都が大規模な空襲から逃れたことは驚異である。

安倍文殊院の植田ご住職は「奈良の文化財が守られたこと、それに感動して碑を建てようとした方がいたこと、その法要は誇るべきこと」と法要を締められた。
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by koza5555 | 2017-06-09 18:11 | 桜井市と安倍 | Comments(0)

中ツ道と橘街道・・ほうりうじみちとか小中ツ道

5月5日(金)午後7時から、桜井駅前のエルトの二階で「おもしろ歴史講座」でお話しする。
「中ツ道と橘街道」と題して、大福や東新堂などを集中的に考えてみた。この講座では、纒向、三輪、初瀬、多武峰などを繰り返して語ってきたが、桜井の西部の田園地帯を語っていないのである。

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中ツ道と橘街道

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今日は「小中ツ道」と「法隆寺みち」を紹介したい。

法隆寺道、法隆寺から三輪に行くのか・・・法隆寺・王寺・田原本、守屋、大西を経る道である。

こんなふうに「法りう寺みち」という石碑も残されている。

さらに三輪に向かわずまっすぐ南下、大福に至りそのまま、生田(おいだ)、上之宮を経る道は「小中ツ道」というらしい。
「大和国高瀬道常年代記」という日記を生田の高瀬さんが書いている。江戸時代のことだが、この中では、「ええじゃないか」とか「おかげまいり」が触れられており、生田がメーンストリートという感じで、どこからどこの道かなと考えていたら、法隆寺からやってくるこの「小中ツ道」が生田をぴったり通る。

こんな話をしようと思う。
地図もいっぱい作って・・・
ゴトゴトした話のようだが、これがとてもおもしろい話に出来上がった。

蔵堂の道標。村屋弥富都比売神社の南口に
西面  右 こうや道
西面  左 みわはせ道
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大西の中央、火の見やぐらにある。「中央の曲り角東側のもの」。現在地の道路を挟んだ南にあった。
西面 右 たった 法りう寺
南面 左 みわ はせ
北面 弘化三年午歳 五月吉(1846年)
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こんな小中ツ道(橘街道)はなぜできたか。それも興味深い。
「大福付近の古老も明治時代においても大福より下流地域の水漬きの状況・・。したがって村屋から比較的水害の少ない東の大泉・大福経由の道も多く利用された」(桜井市史下p475)
 米川や寺川の氾濫地域。最短の道ではないが、東側の高地(環濠集落が点在した大西、大泉、新屋敷、東新堂、大福)を通る道に変わっていったとみるのが自然である。

大福や東新堂のこと。弥生時代の坪井・大福遺跡。古代の壬申の乱。中世では南北朝のたたかいで、近世は芝村騒動と切り口が多い。話す僕もたのしみの講演が出来上がった。
 
5月5日(金)、出にくいこどもの日だが、午後夜7時、お待ちしています。
by koza5555 | 2017-05-01 23:04 | 桜井市と安倍 | Comments(0)

桜井市の環濠集落

桜井市の環濠集落を考えた。
桜井市の西部、北部には環濠集落が点在する。初瀬川、粟殿川、寺川に沿ってである。海抜でいえば80mくらいまでである。

奈良盆地の土地利用と河川の歴史を見てみると。
●奈良盆地は古代から肥沃な水田地帯と思われているが実態は違っていた。水田は3割、残りは荒れ地であり、畑として、あるいは沼地であった。川が管理できない、水が確保できないということだろうか。
●伏流水化を防ぐ河川の付け替え、水漬の農村の排水をすすめ(池の掘削、環濠の建築)、集村化(村への移住)がすすんだ。この営みにより、奈良盆地の水田の利用率は3割から9割まで上昇することとなった。

「壬申の乱」(672年)では、近江方の廬井鯨(いおい の くじら)が中ツ道を攻め下るという戦いが日本書記に記されている。大友皇子(弘文天皇)側の別将であるが、中ツ道で戦って 敗れた。
このクジラが敗走するとき、馬が深田に落ち進退が窮まったとあり、中ツ道周辺は低湿地状態であることもわかる。


ここで環濠集落である。作られた時代の背景や、土地制度の変遷と農耕の発達、集落の発生と発達、集落を取り巻く自然環境と深い関係を持っている。
始めに紹介したように、奈良盆地の集落は河川の流域に沿って作られた低湿地の集落が多く、環濠集落の起源の一つして、排水や導水など水利の面にその起源があるという論がある。
環濠は何となく、戦に向いていそうだが、まずは低湿地状態への対応が一番との見方である。

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桜井市東新堂の環濠集落の名残が鮮明である

その上に、それぞれの時代によって境界や水の争いがあったり、士豪の抗争などで、集落を自衛するために、村を掘りや竹藪、・堤防で囲むようになった。このような防御的な環濠集落は戦国の動乱の時期に発達した。
南北朝の戒重西阿の戦い、依拠した戒重や川井は環濠集落ではなく、とりでという見方である。

こんなことだから、桜井の環濠集落を無理無理分ければ、
防御的なもの  戒重、河合

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これが戒重陣屋(江戸時代だよ)と現在の戒重

防御と自然環境の両面  大福、上之庄、東新堂、大西、江包、太田、大豆越などがあげられる。

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東新堂

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上之庄

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大西

桜井の環濠集落の形態をまとめてみると
 東西南北の方向を示している(条里制に規制されている)
 道路割は袋小路とかT字形の交差点、
 東西南北の出入り口は一カ所、木戸口という。
 藪や樹木で覆われて見通しが効かない。
 周囲は堀、濠で取り囲み、内側は土塁、竹やぶなどで囲われていた。
 氏神は村の要の場所にある(砦的な役割を果たす場合も多い)


『桜井の古文化財 その3環濠集落』(桜井市教育委員会)から環濠の地図を借用した



by koza5555 | 2017-04-22 10:24 | 桜井市と安倍 | Comments(0)

吉備と大福の芝村騒動

桜井の西部、大仏供庄(現在の大福、東新堂、上ノ庄)とか吉備、戒重を考えている。5月のカルチャーのテーマである。
ここらあたりは古墳もないし、有名寺院もないけど、古代から横大路、中ツ道という超一級の幹線道路が抜けていて、ざわめく史実がある。

今日は近代である。吉備の芝村騒動をもう一度、考えた。近隣の大福とか東新堂、阿部、谷とも合わせてである。

宝暦3年(1753)、十市郡の十市郡の九ケ村で、京都町奉行所に箱訴した。
箱訴は合法手段だったが、訴えが認められるまでは刈り入れをしないという戦術で、そこが幕府の逆鱗に触れた。
十市郡、式下郡、葛下郡の村役人にも取調べが広がり、江戸に呼び出されたもの221名、厳しい取り調べの中で獄死したもの40人以上という惨状を示した。

この地域の吉備村からは8名が呼び出され、
平兵衛(藤本)、甚治良(竹田)、平治良(岡橋)が牢死
長八(高井)、庄蔵(松井)、新五郎(森本)、又四郎(吉崎)、甚五郎(吉本)の5名が帰還している。
吉備の森本家、吉崎家、吉本家は帰村したご子孫である。

幕府の天領となっていた十市郡、こちらを芝村藩が年貢を代収していたが、この取り立てが苛烈を極めたこと、それを訴えたことに芝村騒動は始まった。
江戸時代の年貢の取り立ては一般的にも厳しいものではあったが、十市郡はと複雑な事情をはらんでおり、特別に厳しい取り立てが行われていた。

検地のさいに実際の面積以上の年貢がかかっていたのが十市郡の村々である。実際の農地の広さ以上の年貢がかけられたという。いわゆる「畝詰り」といい、見地台帳が課題なのである。

これには経過があった。
郡山藩が柳沢忠明の時代(1619年~1639年)に、藩の格をあげるためだけで12万石を15万石に変えた(15万石以上が大藩とされた)という歴史があった。農地は増えていないのに、郡山藩のすべての農地は台帳では2割5分増しの面積に変えられた。郡山藩の時代はその事情が判っていて、割り増し分には無税だったが、郡山藩が8万石に減らされ(1679年)盆地南部の領地が天領に変わってから、これが問題を引き起こした。旗本はこの2割5分増しの年貢を要求したし、代収の芝村藩はこの2割5分からも徴収したのである。

この表を見ていただきたい。
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1620年ころ。吉備は2割5分は課税されていない。ところが天領となり、芝村藩預かりになった時に、これが頭を持ち上げた。
吉備村は651石770だったが、突然、814石713に変わった。土地が広くなったわけではなく、収穫が増えたわけではない。
大福村・新堂村と比べれば、よく分かる。江戸時代の石高、年貢というのは耕地の変化、作の変化には関係なく、村にかかる税金である。

吉備村は、五公五民なら325石の年貢。ところが2割5分増しだと407石の年貢で、村の取り分が244石。62%の年貢である。それ以外にも二毛作の麦や菜種にも税はかかるのである。村は行き詰まり、自立の農民の没落が始まるのである。

これは、大福や東新堂には見られない状態だった。この表には欠落しているが、東新堂の多賀領は140石が途中から3石に減ってしまうということさえあるのである。天領、芝村藩預かりの吉備村の苦しさに思いを寄せたい。

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吉備村(吉備区)は今でも、毎年、供養祭を行っているのである


『芝村騒動と龍門騒動』(上島秀友著)と『郷土』(広吉寿彦著)を参考にしました。
by koza5555 | 2017-04-20 22:00 | 桜井市と安倍 | Comments(0)

大福の泡子地蔵尊と東新堂の辻堂 六地蔵

大福と東新堂で六地蔵を探して回った。

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東新堂の村はずれで、こんな六地蔵を見た・・・だけど、これはさがしていたものではない


「中ツ道は橘街道」と書いたばかりだが、桜井あたりでは違うと言われている。
中ツ道が中世に消滅した後は、盆地中央部の道は、村々を繋ぐ形で再生されたとみることが出来る。それが「橘街道」と言われたのである。

コースとして考えられるのは、横大路の大福村付近の地蔵堂に始まり、真北に向かい、大福村を経て東新堂、新屋敷、大泉、大西で田原本街道に合流、村屋坐弥富都比売神社からは田原本街道を外れて真北に進む(現在の県道51号、ここからは中ツ道になぞる)道である。

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菅笠日記によってもこの道の存在は明白である。明和九年(1773年)のことである。
11日目。
戒重といふ所にいづ。こゝは。八木といふ所より。桜井へかよふ大道なり。横内などいふ里を過て。大福村などいふも。右の方にみゆ。すこしゆきて。ちまたなる所に。地蔵の堂あり。たゞさまにゆけば八木。北へわかるれば。三輪へゆく道。南は吉備村にて。香山のかたへゆく道也けり。今はその道につきて。吉備村にいる。

12日目。
さて三輪の社にまうでんとすれば。やゝ行て。きのふ別れし地蔵の堂あるちまたより。北の道にをれゆくほど。奈良のかたを思ひて。ながめやりたるそなたの里の梢に。桜の一木まじりてさけりけるを見て。


本居宣長が記した「地蔵の堂」は、その後、大福の大念寺(融通念仏宗)に移されていて、お地蔵様も公開されている。
大きく補修されているが、元弘3年(1333年)の銘が残されている。向背の頂上に阿弥陀如来、左右に3体づつ、6体のお地蔵様が浮き彫りにされているのが特徴である。俗に泡子(あわこ)地蔵と呼ばれる。ひだがアワだつように彫られているからとか、光背仏がアワのように見えるとかの論がある。地獄、餓鬼、畜生、修羅、人間、天上の六界・六道を光背に配置する単独六体地蔵の先駆けだろうか。

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大福の泡子地蔵

さらに橘街道を一キロほど北上する。東新堂の辻堂が右手に建てられている。本村からは500mも離れた田んぼの中だが、隣村の新屋敷との境目に置かれる。自動車工場やビニールハウスの中に現在は立っていた。これをさがしていた。
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地蔵菩薩(六地蔵光背) 東新堂辻堂
田のあぜ道の三叉路の角に辻堂があり、セメントにかたく蓮台を埋めている仏身3尺3寸の地蔵をまつる。地蔵は行恒様式の丸い顔、衣文の調子もふくらみのある褶(しゅう)をよせ、背は高からず、ひくからず、花崗岩をきれいにこなした作で、7体仏や五輪塔のある錫杖の作りから、泡子地蔵と同じ頃同じ作者による作彫と思われる。
『桜井市石造美術』太田古朴 著

これもまた、単独六体地蔵、六地蔵の姿と言えるのではなかろうか。

さて、東新堂にはさらに多くのお地蔵様がおられた。はじめに六地蔵は紹介した。

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これは、会所の子供地蔵(区長さんのことば)


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こちらは、村中の地蔵堂


お地蔵様を探すときに行き詰った時、東新堂の山口源博区長に教えを乞うた。「地蔵盆のお地蔵様は橘街道沿いのお地蔵様」と、こちらで端的に教えていただいた。山口区長さま、ありがとうございました。
鎌倉時代に遡る、これらの石仏を見るとき、大福、東新堂を抜けるこの街道こそ、中世、近世で呼称された橘街道であることは間違いない。と確信できる。
by koza5555 | 2017-03-31 21:52 | 桜井市と安倍 | Comments(0)

磐余池、安倍木材団地論もありか

 奈良県神社庁の神職・氏子合同研修会が3月16日に橿原神宮で行われた。今年の講師は千田稔奈良図書情報館長で、テーマは「本居宣長の『菅笠日記』にみる古代の風景考」だった。

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橿原神宮


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千田稔奈良図書情報館長

「ことし明和の九年といふとし。いかなるよき年にかあるらむ」で始まる菅笠日記。これが桜井あたりでツアーのガイドをやれば、援軍百万という力強いテキストである。
250年前の明和9年、1772年の旅日記である。

千田先生は本居宣長の山桜に対する思い入れの激しさなどを触れつつ、敬虔な神学者としての本居宣長の紹介もされて、お話しのバランスがすばらしい。

宣長が『大和国中ひとりあんない』、『和州巡覧記』(貝原益軒)を参考書として持ち、他には「ぬさ(幣)袋」を持っていたという。
当時は道中安全を祈念して、道祖神に捧げる幣を入れる袋を持ち歩いたのだろう。宣長もこれを持参するが、「うけよ猶(なお)花の錦にあく神も心くだしき春のたむけは」と歌を幣袋に記したという。歌の意は、「毎年の花の錦に飽きている神も 私の心ばかりの花の手向けを受けてくだされ」である。

吉隠、初瀬、長谷寺、脇本、忍坂を経て倉橋に上がってくる。この倉橋で、崇峻天皇陵と宮を考えた後に、
さてこの里を出て。五丁ばかり行て。土橋をわたりて。右の方におりゐといふ村あり。こだかき森の見ゆるは。用明天皇ををさめ奉りし所也と。
宮ということである。だが、宣長はこれを信じない。

「あるじのほうし。かれは御陵にあらず。用明の御は。長門村といふ所にこそあなれといふに」である。
千田先生は、ここで論理を大飛躍、本居宣長を外れて話は一気に「磐余に宮つくる。名づけて池辺双槻宮(いけべのなみきのみや)」のことに移る。その用明天皇の陵を江戸時代には「長門村にあり」と本居宣長が紹介しているのである。

「磐余池は谷」の千田論は理解していたつもりだが、若桜神社の前・・谷本町とか、あるいは薦池の下・・谷新道あたりをいわれているのかと思っていた。

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この図が今回の講演で示された。「どこで使われました?」と講演後にお聞きすると、「まあ、これは、たいした絵ではなく、長門を書き込んだものは初めて」といわれる。

この図によると、安陪木材団地の湧水のある七ツ井の北側に磐余池である。
僕に言わせると、磐余池、谷論の最大の弱点は水源が無いことだった。
木材団地まで持ってくると、米川、それから寺川の伏流水が水源となるので水は溜まる。大津皇子が刑死させられる戒重の訳語田(おさだ)と磐余池との関係も、磐余池安陪木材団地論だと、整合性が取れるのである。
「ももづたふ磐余(いはれ)の池に鳴く鴨を今日(けふ)のみ見てや雲隠りなむ」 巻3(416)
イメージだけではなく、実生活を反映した歌とみるのである。

磐余は十市か磯城上かとか、上宮遺跡の評価とか、あれこれに異論は持つが、千田先生の磐余池、安倍木材団地論、良いなあ・・・

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石寸山口神社。石寸山口神社は谷と阿部の長門(旧長門村)の方々で管理している。草刈は先週の12日に行ったばかりである。

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阿部山の南側(文殊が丘)の水は長門池に。長門村の田をうるおしているため池である。今でも、長門の人たちが草刈り、いけ掘りをおこなう


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阿部山の北側の水は、薦池に。石寸山口神社の前。こちらは谷に流れる


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これが長門村(阿部の小字、住居表示には出てこない。阿部550番地辺りである)
阿部丘陵にも古墳はあるが用明天皇の時代とは時代が異なり、具体的な場所は出てきていないが・・・・千田論、輝いている。
by koza5555 | 2017-03-17 16:20 | 桜井市と安倍 | Comments(0)

桜井市広報 わかざくら

桜井市の「広報 わかざくら」、2月号で僕を取り上げてくれた。
「桜井をつなぐ人」というコーナーでA4一ページ全部という破格のコーナーである。

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取材では、奈良と桜井の自然と歴史のすばらしさを語った。「奈良まほろばソムリエ試験」で、この地の魅力を深く知ることが出来たことを紹介した。民生委員や区長の仕事を通して身近な皆さんと結びつき、学んだことを活かしてきたこともお話しさせていただいた。
広報紙の編集担当者は、僕のお話をとてもうまくまとめてくれた。

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写真もすばらしいが、使われたのはこれではない(笑)


記事の全文を紹介したい。

 縁あって11年前に愛知県から桜井市へ引っ越して来たという雜賀さん。当時は身内以外に知り合いがなく、奈良についての知識もほとんどなかった。ところが、「県内の歴史や文化のことを聞くなら雜賀さんに」と今では多くの人から言われるほどの存在だ。
 山登りが好きだった雜賀さんは妻と一緒に、外鎌山、鳥見山、大和三山と近所から順に登った。登るに連れて「奈良っていいところだな」という思いが芽生える。井寺池のそばに建つ万葉歌碑『やまとはくにのまほろば たたなづく 青がき 山ごもれる 大和しうるはし』の意は、大和の良さを詠んだものであるが、後半の『幾重にもかさなりあった青い垣根のような山々に囲まれた大和は本当にうるわしいところだ』という一文がそれを物語っているという。
 もともと歴史には興味があった。正倉院展を訪れた帰りに、本屋で一冊の本を手に取る。奈良まほろばソムリエ検定のテキスト本だ。その日からテキストを読み込み、2級に合格。1級に一度落ちるも奈良県中をまわってさらに勉強し、最難関のソムリエには一発合格した。合格する前から遠方の友人を奈良に呼んでは各地を案内していたといい、それが自分の勉強にもつながっていったのだ。
 解説がわかりやすく楽しいと口コミで広がり、まほろばセンターの歴史文化講座をはじめ、あらゆるところから講師の依頼がくる。「ツアーガイドも講演も有料でやってるんです。付加価値をつけ、お金をいただいてもそれに見合った恥ずかしくない内容を伝えたいから。そのためには真剣に勉強や準備をしますし、資料作りもしっかりやります」。自作資料に向けられた目が鋭くなった。
 地域で生活するのに大事なことは、自らまわりとつながっていくこと。民生委員や区長の役職を引き受けたことで地域に溶け込み、友人や信頼が増していった。ガイドをするにも、まずはそこに住む人たちに地域のことをひるまず話す。地元で通用しないものが、都会から来た人に受けることなどない。地元の良さを知ると、みな誇らしげに「うちの村のこと、うまいこと話してや」と頼んでくる。
 「桜井はやはりおもしろい。このおもしろさをもっと多くの人に伝えていきたいね」。雜賀さんの笑顔が、地元の良さを広げていく。


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by koza5555 | 2017-01-27 12:18 | 桜井市と安倍 | Comments(0)