ブログトップ

奈良・桜井の歴史と社会

koza5555.exblog.jp

カテゴリ:桜井市と安倍( 46 )

桜井市の環濠集落

桜井市の環濠集落を考えた。
桜井市の西部、北部には環濠集落が点在する。初瀬川、粟殿川、寺川に沿ってである。海抜でいえば80mくらいまでである。

奈良盆地の土地利用と河川の歴史を見てみると。
●奈良盆地は古代から肥沃な水田地帯と思われているが実態は違っていた。水田は3割、残りは荒れ地であり、畑として、あるいは沼地であった。川が管理できない、水が確保できないということだろうか。
●伏流水化を防ぐ河川の付け替え、水漬の農村の排水をすすめ(池の掘削、環濠の建築)、集村化(村への移住)がすすんだ。この営みにより、奈良盆地の水田の利用率は3割から9割まで上昇することとなった。

「壬申の乱」(672年)では、近江方の廬井鯨(いおい の くじら)が中ツ道を攻め下るという戦いが日本書記に記されている。大友皇子(弘文天皇)側の別将であるが、中ツ道で戦って 敗れた。
このクジラが敗走するとき、馬が深田に落ち進退が窮まったとあり、中ツ道周辺は低湿地状態であることもわかる。


ここで環濠集落である。作られた時代の背景や、土地制度の変遷と農耕の発達、集落の発生と発達、集落を取り巻く自然環境と深い関係を持っている。
始めに紹介したように、奈良盆地の集落は河川の流域に沿って作られた低湿地の集落が多く、環濠集落の起源の一つして、排水や導水など水利の面にその起源があるという論がある。
環濠は何となく、戦に向いていそうだが、まずは低湿地状態への対応が一番との見方である。

a0237937_10143080.jpg
桜井市東新堂の環濠集落の名残が鮮明である

その上に、それぞれの時代によって境界や水の争いがあったり、士豪の抗争などで、集落を自衛するために、村を掘りや竹藪、・堤防で囲むようになった。このような防御的な環濠集落は戦国の動乱の時期に発達した。
南北朝の戒重西阿の戦い、依拠した戒重や川井は環濠集落ではなく、とりでという見方である。

こんなことだから、桜井の環濠集落を無理無理分ければ、
防御的なもの  戒重、河合

a0237937_10151995.jpg
これが戒重陣屋(江戸時代だよ)と現在の戒重

防御と自然環境の両面  大福、上之庄、東新堂、大西、江包、太田、大豆越などがあげられる。

a0237937_1016789.jpg
東新堂

a0237937_10165516.jpg
上之庄

a0237937_10172132.jpg
大西

桜井の環濠集落の形態をまとめてみると
 東西南北の方向を示している(条里制に規制されている)
 道路割は袋小路とかT字形の交差点、
 東西南北の出入り口は一カ所、木戸口という。
 藪や樹木で覆われて見通しが効かない。
 周囲は堀、濠で取り囲み、内側は土塁、竹やぶなどで囲われていた。
 氏神は村の要の場所にある(砦的な役割を果たす場合も多い)


『桜井の古文化財 その3環濠集落』(桜井市教育委員会)から環濠の地図を借用した



by koza5555 | 2017-04-22 10:24 | 桜井市と安倍 | Comments(0)

吉備と大福の芝村騒動

桜井の西部、大仏供庄(現在の大福、東新堂、上ノ庄)とか吉備、戒重を考えている。5月のカルチャーのテーマである。
ここらあたりは古墳もないし、有名寺院もないけど、古代から横大路、中ツ道という超一級の幹線道路が抜けていて、ざわめく史実がある。

今日は近代である。吉備の芝村騒動をもう一度、考えた。近隣の大福とか東新堂、阿部、谷とも合わせてである。

宝暦3年(1753)、十市郡の十市郡の九ケ村で、京都町奉行所に箱訴した。
箱訴は合法手段だったが、訴えが認められるまでは刈り入れをしないという戦術で、そこが幕府の逆鱗に触れた。
十市郡、式下郡、葛下郡の村役人にも取調べが広がり、江戸に呼び出されたもの221名、厳しい取り調べの中で獄死したもの40人以上という惨状を示した。

この地域の吉備村からは8名が呼び出され、
平兵衛(藤本)、甚治良(竹田)、平治良(岡橋)が牢死
長八(高井)、庄蔵(松井)、新五郎(森本)、又四郎(吉崎)、甚五郎(吉本)の5名が帰還している。
吉備の森本家、吉崎家、吉本家は帰村したご子孫である。

幕府の天領となっていた十市郡、こちらを芝村藩が年貢を代収していたが、この取り立てが苛烈を極めたこと、それを訴えたことに芝村騒動は始まった。
江戸時代の年貢の取り立ては一般的にも厳しいものではあったが、十市郡はと複雑な事情をはらんでおり、特別に厳しい取り立てが行われていた。

検地のさいに実際の面積以上の年貢がかかっていたのが十市郡の村々である。実際の農地の広さ以上の年貢がかけられたという。いわゆる「畝詰り」といい、見地台帳が課題なのである。

これには経過があった。
郡山藩が柳沢忠明の時代(1619年~1639年)に、藩の格をあげるためだけで12万石を15万石に変えた(15万石以上が大藩とされた)という歴史があった。農地は増えていないのに、郡山藩のすべての農地は台帳では2割5分増しの面積に変えられた。郡山藩の時代はその事情が判っていて、割り増し分には無税だったが、郡山藩が8万石に減らされ(1679年)盆地南部の領地が天領に変わってから、これが問題を引き起こした。旗本はこの2割5分増しの年貢を要求したし、代収の芝村藩はこの2割5分からも徴収したのである。

この表を見ていただきたい。
a0237937_2158233.jpg

1620年ころ。吉備は2割5分は課税されていない。ところが天領となり、芝村藩預かりになった時に、これが頭を持ち上げた。
吉備村は651石770だったが、突然、814石713に変わった。土地が広くなったわけではなく、収穫が増えたわけではない。
大福村・新堂村と比べれば、よく分かる。江戸時代の石高、年貢というのは耕地の変化、作の変化には関係なく、村にかかる税金である。

吉備村は、五公五民なら325石の年貢。ところが2割5分増しだと407石の年貢で、村の取り分が244石。62%の年貢である。それ以外にも二毛作の麦や菜種にも税はかかるのである。村は行き詰まり、自立の農民の没落が始まるのである。

これは、大福や東新堂には見られない状態だった。この表には欠落しているが、東新堂の多賀領は140石が途中から3石に減ってしまうということさえあるのである。天領、芝村藩預かりの吉備村の苦しさに思いを寄せたい。

a0237937_21511317.jpg
吉備村(吉備区)は今でも、毎年、供養祭を行っているのである


『芝村騒動と龍門騒動』(上島秀友著)と『郷土』(広吉寿彦著)を参考にしました。
by koza5555 | 2017-04-20 22:00 | 桜井市と安倍 | Comments(0)

大福の泡子地蔵尊と東新堂の辻堂 六地蔵

大福と東新堂で六地蔵を探して回った。

a0237937_2125399.jpg
東新堂の村はずれで、こんな六地蔵を見た・・・だけど、これはさがしていたものではない


「中ツ道は橘街道」と書いたばかりだが、桜井あたりでは違うと言われている。
中ツ道が中世に消滅した後は、盆地中央部の道は、村々を繋ぐ形で再生されたとみることが出来る。それが「橘街道」と言われたのである。

コースとして考えられるのは、横大路の大福村付近の地蔵堂に始まり、真北に向かい、大福村を経て東新堂、新屋敷、大泉、大西で田原本街道に合流、村屋坐弥富都比売神社からは田原本街道を外れて真北に進む(現在の県道51号、ここからは中ツ道になぞる)道である。

a0237937_21275765.jpg


菅笠日記によってもこの道の存在は明白である。明和九年(1773年)のことである。
11日目。
戒重といふ所にいづ。こゝは。八木といふ所より。桜井へかよふ大道なり。横内などいふ里を過て。大福村などいふも。右の方にみゆ。すこしゆきて。ちまたなる所に。地蔵の堂あり。たゞさまにゆけば八木。北へわかるれば。三輪へゆく道。南は吉備村にて。香山のかたへゆく道也けり。今はその道につきて。吉備村にいる。

12日目。
さて三輪の社にまうでんとすれば。やゝ行て。きのふ別れし地蔵の堂あるちまたより。北の道にをれゆくほど。奈良のかたを思ひて。ながめやりたるそなたの里の梢に。桜の一木まじりてさけりけるを見て。


本居宣長が記した「地蔵の堂」は、その後、大福の大念寺(融通念仏宗)に移されていて、お地蔵様も公開されている。
大きく補修されているが、元弘3年(1333年)の銘が残されている。向背の頂上に阿弥陀如来、左右に3体づつ、6体のお地蔵様が浮き彫りにされているのが特徴である。俗に泡子(あわこ)地蔵と呼ばれる。ひだがアワだつように彫られているからとか、光背仏がアワのように見えるとかの論がある。地獄、餓鬼、畜生、修羅、人間、天上の六界・六道を光背に配置する単独六体地蔵の先駆けだろうか。

a0237937_21284843.jpg
大福の泡子地蔵

さらに橘街道を一キロほど北上する。東新堂の辻堂が右手に建てられている。本村からは500mも離れた田んぼの中だが、隣村の新屋敷との境目に置かれる。自動車工場やビニールハウスの中に現在は立っていた。これをさがしていた。
a0237937_21334189.jpg

a0237937_21343782.jpg


地蔵菩薩(六地蔵光背) 東新堂辻堂
田のあぜ道の三叉路の角に辻堂があり、セメントにかたく蓮台を埋めている仏身3尺3寸の地蔵をまつる。地蔵は行恒様式の丸い顔、衣文の調子もふくらみのある褶(しゅう)をよせ、背は高からず、ひくからず、花崗岩をきれいにこなした作で、7体仏や五輪塔のある錫杖の作りから、泡子地蔵と同じ頃同じ作者による作彫と思われる。
『桜井市石造美術』太田古朴 著

これもまた、単独六体地蔵、六地蔵の姿と言えるのではなかろうか。

さて、東新堂にはさらに多くのお地蔵様がおられた。はじめに六地蔵は紹介した。

a0237937_21352297.jpg
これは、会所の子供地蔵(区長さんのことば)


a0237937_2137544.jpg
こちらは、村中の地蔵堂


お地蔵様を探すときに行き詰った時、東新堂の山口源博区長に教えを乞うた。「地蔵盆のお地蔵様は橘街道沿いのお地蔵様」と、こちらで端的に教えていただいた。山口区長さま、ありがとうございました。
鎌倉時代に遡る、これらの石仏を見るとき、大福、東新堂を抜けるこの街道こそ、中世、近世で呼称された橘街道であることは間違いない。と確信できる。
by koza5555 | 2017-03-31 21:52 | 桜井市と安倍 | Comments(0)

磐余池、安倍木材団地論もありか

 奈良県神社庁の神職・氏子合同研修会が3月16日に橿原神宮で行われた。今年の講師は千田稔奈良図書情報館長で、テーマは「本居宣長の『菅笠日記』にみる古代の風景考」だった。

a0237937_15423426.jpg
橿原神宮


a0237937_15434019.jpg
千田稔奈良図書情報館長

「ことし明和の九年といふとし。いかなるよき年にかあるらむ」で始まる菅笠日記。これが桜井あたりでツアーのガイドをやれば、援軍百万という力強いテキストである。
250年前の明和9年、1772年の旅日記である。

千田先生は本居宣長の山桜に対する思い入れの激しさなどを触れつつ、敬虔な神学者としての本居宣長の紹介もされて、お話しのバランスがすばらしい。

宣長が『大和国中ひとりあんない』、『和州巡覧記』(貝原益軒)を参考書として持ち、他には「ぬさ(幣)袋」を持っていたという。
当時は道中安全を祈念して、道祖神に捧げる幣を入れる袋を持ち歩いたのだろう。宣長もこれを持参するが、「うけよ猶(なお)花の錦にあく神も心くだしき春のたむけは」と歌を幣袋に記したという。歌の意は、「毎年の花の錦に飽きている神も 私の心ばかりの花の手向けを受けてくだされ」である。

吉隠、初瀬、長谷寺、脇本、忍坂を経て倉橋に上がってくる。この倉橋で、崇峻天皇陵と宮を考えた後に、
さてこの里を出て。五丁ばかり行て。土橋をわたりて。右の方におりゐといふ村あり。こだかき森の見ゆるは。用明天皇ををさめ奉りし所也と。
宮ということである。だが、宣長はこれを信じない。

「あるじのほうし。かれは御陵にあらず。用明の御は。長門村といふ所にこそあなれといふに」である。
千田先生は、ここで論理を大飛躍、本居宣長を外れて話は一気に「磐余に宮つくる。名づけて池辺双槻宮(いけべのなみきのみや)」のことに移る。その用明天皇の陵を江戸時代には「長門村にあり」と本居宣長が紹介しているのである。

「磐余池は谷」の千田論は理解していたつもりだが、若桜神社の前・・谷本町とか、あるいは薦池の下・・谷新道あたりをいわれているのかと思っていた。

a0237937_15453058.jpg

この図が今回の講演で示された。「どこで使われました?」と講演後にお聞きすると、「まあ、これは、たいした絵ではなく、長門を書き込んだものは初めて」といわれる。

この図によると、安陪木材団地の湧水のある七ツ井の北側に磐余池である。
僕に言わせると、磐余池、谷論の最大の弱点は水源が無いことだった。
木材団地まで持ってくると、米川、それから寺川の伏流水が水源となるので水は溜まる。大津皇子が刑死させられる戒重の訳語田(おさだ)と磐余池との関係も、磐余池安陪木材団地論だと、整合性が取れるのである。
「ももづたふ磐余(いはれ)の池に鳴く鴨を今日(けふ)のみ見てや雲隠りなむ」 巻3(416)
イメージだけではなく、実生活を反映した歌とみるのである。

磐余は十市か磯城上かとか、上宮遺跡の評価とか、あれこれに異論は持つが、千田先生の磐余池、安倍木材団地論、良いなあ・・・

a0237937_1547476.jpg

石寸山口神社。石寸山口神社は谷と阿部の長門(旧長門村)の方々で管理している。草刈は先週の12日に行ったばかりである。

a0237937_15475626.jpg
阿部山の南側(文殊が丘)の水は長門池に。長門村の田をうるおしているため池である。今でも、長門の人たちが草刈り、いけ掘りをおこなう


a0237937_15502048.jpg
阿部山の北側の水は、薦池に。石寸山口神社の前。こちらは谷に流れる


a0237937_1551686.jpg
これが長門村(阿部の小字、住居表示には出てこない。阿部550番地辺りである)
阿部丘陵にも古墳はあるが用明天皇の時代とは時代が異なり、具体的な場所は出てきていないが・・・・千田論、輝いている。
by koza5555 | 2017-03-17 16:20 | 桜井市と安倍 | Comments(0)

桜井市広報 わかざくら

桜井市の「広報 わかざくら」、2月号で僕を取り上げてくれた。
「桜井をつなぐ人」というコーナーでA4一ページ全部という破格のコーナーである。

a0237937_20475098.jpg


取材では、奈良と桜井の自然と歴史のすばらしさを語った。「奈良まほろばソムリエ試験」で、この地の魅力を深く知ることが出来たことを紹介した。民生委員や区長の仕事を通して身近な皆さんと結びつき、学んだことを活かしてきたこともお話しさせていただいた。
広報紙の編集担当者は、僕のお話をとてもうまくまとめてくれた。

a0237937_20494039.jpg
写真もすばらしいが、使われたのはこれではない(笑)


記事の全文を紹介したい。

 縁あって11年前に愛知県から桜井市へ引っ越して来たという雜賀さん。当時は身内以外に知り合いがなく、奈良についての知識もほとんどなかった。ところが、「県内の歴史や文化のことを聞くなら雜賀さんに」と今では多くの人から言われるほどの存在だ。
 山登りが好きだった雜賀さんは妻と一緒に、外鎌山、鳥見山、大和三山と近所から順に登った。登るに連れて「奈良っていいところだな」という思いが芽生える。井寺池のそばに建つ万葉歌碑『やまとはくにのまほろば たたなづく 青がき 山ごもれる 大和しうるはし』の意は、大和の良さを詠んだものであるが、後半の『幾重にもかさなりあった青い垣根のような山々に囲まれた大和は本当にうるわしいところだ』という一文がそれを物語っているという。
 もともと歴史には興味があった。正倉院展を訪れた帰りに、本屋で一冊の本を手に取る。奈良まほろばソムリエ検定のテキスト本だ。その日からテキストを読み込み、2級に合格。1級に一度落ちるも奈良県中をまわってさらに勉強し、最難関のソムリエには一発合格した。合格する前から遠方の友人を奈良に呼んでは各地を案内していたといい、それが自分の勉強にもつながっていったのだ。
 解説がわかりやすく楽しいと口コミで広がり、まほろばセンターの歴史文化講座をはじめ、あらゆるところから講師の依頼がくる。「ツアーガイドも講演も有料でやってるんです。付加価値をつけ、お金をいただいてもそれに見合った恥ずかしくない内容を伝えたいから。そのためには真剣に勉強や準備をしますし、資料作りもしっかりやります」。自作資料に向けられた目が鋭くなった。
 地域で生活するのに大事なことは、自らまわりとつながっていくこと。民生委員や区長の役職を引き受けたことで地域に溶け込み、友人や信頼が増していった。ガイドをするにも、まずはそこに住む人たちに地域のことをひるまず話す。地元で通用しないものが、都会から来た人に受けることなどない。地元の良さを知ると、みな誇らしげに「うちの村のこと、うまいこと話してや」と頼んでくる。
 「桜井はやはりおもしろい。このおもしろさをもっと多くの人に伝えていきたいね」。雜賀さんの笑顔が、地元の良さを広げていく。


a0237937_20533525.jpg

by koza5555 | 2017-01-27 12:18 | 桜井市と安倍 | Comments(0)

春日大社と神鹿

9月27日、奈良まほろばソムリエの会は「桜井の史跡巡りと講演会」を開催した。
この企画に合わせて、「桜井の名物男と名物ランチ、古事記でゆかりの古社を堪能する会」が開かれた。

「おもしろい話を30分で」との鉄田専務理事からのリクエストである。
「参加者は20名くらいだろうが幅がある。観光コンシェルジュをめざすような人もおれば、歴史の話を聞くのは初めての人もいる」と聞く。

a0237937_5594459.jpg

お話しは、「春日大社と桜井」、タケミカヅチ命と榎本神社の神地交換の説話から始めることにした。そんな話からタケミカヅ命の通った道、春日大社と神鹿のことなどを語ることにしたのである。

誰もが一緒に入れて、どんなベテランも初心者も「なるほど」と共に共感がいただけるようなお話である。

ランチは「活魚・ちゃんこ 一語一笑(いちごいちえ)」。今回は六角弁当。おいしい料理がリーズナブルなお値段、そのうえ意外感のある弁当箱で出てくる。こんな行事にはうってつけのお弁当である。

さて「春日大社と桜井・安倍」のお話である。
榎本さん(春日大社境内摂社)とタケミカヅチ命の土地交換説話から話を説き起こした。
誰もが知っている具体的な事例や説話から話を起こすのが、入り口の鉄則である。

春日大社のご祭神、「鹿島に坐すタケミカヅチ命、香取に坐すフツツヌシ命」が、白鹿(はくしか)に乗って常陸からやってきたという春日縁起はよく知られている。

「春日鹿曼荼羅」とか「鹿島立神影図」。
a0237937_5564513.jpg

御蓋山と鏡と榊、そしてタケミカヅチ命が白鹿に騎乗し、供奉するのは中臣植栗(えぐり)連(むらじ)時風(ときふう)・秀行(ひでつら)とされている。

今回の役者は、ここに全部そろっているのである。
一つづつ考えていくと面白いが、このブログでは神鹿だけを考えてみた。
春日大社の鹿は神の使い、日本には鳥獣が神の使いをする例は多い。八幡社の鳩、稲荷社の狐、日吉社の猿、大神の蛇、熊野や上賀茂の八咫烏、天満宮の牛などさまざまである。

いまは春日大社のことだけを考える。
大乗院寺社雑事記(中世の大和支配と興福寺のことが書かれている)に鹿に絡む夢相が書かれている。尋尊という僧が夢の中で鹿に取りつかれた話である。
鹿に仏舎利を与えられる。尋尊は鹿を春日明神の使いと考え、三願を立てた。
一つは後生安楽の願い、
一つは丈六の御堂の建設の願い
一つは御堂に影向してもらう願い
三度唱えると鹿は大きくうなずいた。

「奈良公園の鹿はせんべいもらって頭下げる。奈良公園の鹿は礼儀正しい」という話があるが、これを見ると「鹿は頭を下げているのではなく、願いを立てたら、うなずいてくれた」が公式見解のようである(笑)。
「奈良公園の鹿は願いをかなえてくれる。鹿に頼んでうなずいてくれるかどうか」と、観光客にアピールしたら、もっと話題性がありそうである。
春日大社、興福寺の伝承に読むと、「鹿には願いを頼んでみよう」・・これ、どうでしょうか。

話を戻すが、仏が神としてこの世に出現して、その神の使いが精霊としての鹿とみなされていたとの見解で、尋尊の夢相は「最高位に仏(丈六の御堂に影向してもらう)が置かれ、春日明神、鹿」と言う三層構造になっている。

しかし、宗教の発展段階を科学的に考えると、上位からは始まらず、下から、具体的なものから始まるものである。
春日の三層構造は上から整備されたのでなく、下から作られていった、山があり、鹿への信仰があり、春日明神があり、仏が出てきたとみるべきとされる。

ここまで考えてみて、では「春日はなんで鹿?」だろう。
「鹿島から来たから鹿でしょう」との論もあろうが、鹿島は当て字で、これは根拠にならない。
鹿島や香取は大和朝廷の東国進出の拠点の港だったといわれる。
カシしま(船をつなぎとめる島)というのが鹿島で、これは港を指した。
佐賀県鹿島市、静岡の富士市、能登の七尾に鹿島郷などに例がある。
鹿島は物部氏が拠点にしたが、蘇我物部戦争で滅びて、それを中臣が継いだということである。

そこで、こんな画も見てほしい。 一昨年の正倉院展である
a0237937_5575274.jpg

鹿草木屏風(しかくさきびょうぶ)に僕はビックリである。
正倉院展でこの画を見みると、「鹿島立」の原画といってよいほどの趣があった。鹿が神の使い、これは中央アジアの深い影響を受けていると解説されていた。
正しい名前は、鹿草木夾纈屏風(しか くさききょうけちのびょうぶ)。
奈良のシカの思想はシルクロードのはるか西から伝えられた。

こんなようなお話をしながら、タケミカヅチノミコトと榎本神の神地交換、安倍の字(あざ)榎とか植栗神社のお話につないでいったのである。

お話しはとても喜んでいただけた。
また、機会を見て、この御話を奈良でやりたい。


長々とありがとうございました。
こんなことはどこに書いてあるか?
春日 88号  中野和正権禰宜
日本文化史研究 春日社神鹿考  赤田光男
藤原鎌足とその時代 中臣と常陸 志田諄一
古代中世史の探求 中臣氏と大和 鷺森浩幸
タネを明かすと、以上のみなさんの受け売りである。
by koza5555 | 2015-09-29 06:52 | 桜井市と安倍 | Comments(8)

オーベルジュ・ド・ぷれざんす桜井

桜井市の高家(たいえ)で9月5日にオープンする「オーベルジュ・ド・ぷれざんす桜井」の従業員の研修のお手伝いをした。

「奈良のことは何も知らない」、しかし「知りたい、勉強もしていきたい」というオーベルジュ従業員に、「奈良と桜井の歴史の紹介、観光案内を4時間で話そう」である。

研修の「元請」は奈良まほろばソムリエの会の鉄田専務理事である。
「奈良の歴史」を鉄田さんが一時間話して、「奈良県の観光案内」、「桜井市の歴史と案内」を2時間30分で僕が受け持ち、最後に鉄田さんが「奈良の食」を30分話すというカリキュラムである。

まず考えたのは、オーベルジュの立地点、オーベルジュで働く従業員の立場から奈良を見てみるということである。
オーベルジュは桜井市高家。奈良盆地を南から見下ろす高台に立地する。古代の山田道を見下ろす丘の上である。

a0237937_8492013.jpg
 「ぬばたまの 夜霧は立ちぬ 衣手の 高屋の上に たなびくまでに」(巻9ー1705)と舎人皇子が歌ったそのものである
        
始めのお話しは、「世界遺産」としたが、立地から見ると、「特別史跡」が見逃せない。
国が指定する史跡のうち「学術上の価値が特に高く、わが国文化の象徴たるもの」は特別史跡に指定されるが、これに全国で61件、そのうち10件が奈良県である。

特別史跡を地図に打ち込んでみると、オーベルジュに近い順に

山田寺跡(やまだでらあと)〔桜井市〕
文殊院西古墳〔桜井市〕
藤原宮跡〔橿原市〕 
石舞台古墳〔明日香村〕 
高松塚古墳〔明日香村〕 
キトラ古墳〔明日香村〕 
本薬師寺跡(もとやくしじあと)〔橿原市〕

遠いところは
巣山古墳(すやまこふん)   〔広陵町〕
平城宮跡(へいじょうきゅうせき)〔奈良市〕
平城京左京三条ニ坊宮跡庭園  〔奈良市〕

a0237937_8503357.jpg

こんな地図である

奈良の特別史跡には中世、近世はなく、ことごとく古代であるが、オーベルジュの立地がすごい。
こんな地図を見ると、オーベルジュ、は奈良県を代表する桜井に決まってよかったが、さらに高家という高台で、飛鳥との境目というのもなかなか良いのである。


研修では、世界遺産にも力を入れて話した。
時間は短い。そこで、「法隆寺地域の仏教建造物」、「古都奈良の文化財」、「紀伊山地の霊場と参詣道」のすべてを僕流に紹介することした。

奈良県全体で一時間、興福寺も元興寺もそれぞれ2分である。
この時間で建築、仏像、そのうえ万葉集や會津八一も盛り込んで楽しんで頂いた。


a0237937_9233526.jpg

さて、この研修の準備、時間との戦いだった。
2時間30分の講演、パワーポイントは60枚と踏んで準備を始めた。
準備期間が短い。聞いてから一週間、実質五日間くらいの勉強、作業時間である。

講演もツアーも、あれこれ考えてから、話の全文を書き起こすようにしている。僕は早口で、講演の目安は「30分で4千字から5千字」としている。
今回は二時間半で2万字くらいの原稿を書いている。

原稿を作り上げてから、パワーポイントを作り上げていく。写真を探したり、文章をはめ込んだり、順番を変えたりで、一枚当たり15分が目安で・・・60枚なら15時間・・・

パワポに合わせながら、声を出しての練習も必須で、あれこれの事項や漢字の読み方の再確認ができるのである。この作業を経て、パワポの修理もして、完成という仕掛けである。

時間に追われた一週間だったが、面白い演題・パワーポイントが二本できたのが大収穫である。
a0237937_95484.jpg

オーベルジュ・ド・ぷれざんす桜井、「なら食と農の魅力創造国際大学校」(奈良県)に併設され、指定管理者はひらまつ である。

a0237937_942572.jpg

そんなこともあり、まほろばソムリエの会の鉄田専務理事は「奈良の食事情」を、豊富な知識とリアル体験で熱演、これは僕も勉強になった。


a0237937_951719.jpg

眺望もすごい。奈良盆地が一望である


ホテルもレストランも期待が持てる。
ぼくらも地元の安倍の民生委員の定例会、この食事会の予約を入れたばかりである。
by koza5555 | 2015-08-31 09:37 | 桜井市と安倍 | Comments(0)

奈良まほろばソムリエ検定体験学習プログラム

a0237937_19344143.jpg
 安倍文殊院浮見堂。ちょっと違う角度からみると

奈良まほろばソムリエ検定の二級合格者を対象にした「体験学習プログラム」という制度がある。
一級の受験にはこのプログラムの終了書が必要で、奈良検定を究めるためには、まあ…義務みたいのものである。

このプログラムの「奈良まほろばソムリエと歩く~安倍文殊院と磐余の道をゆく」という講座の講師を僕が受けている。実施日は5月31日、直前となって、今日は最後の下見である。

年明けに、このプログラムのコース案の募集が行われた。
僕は、一昨年は「大宇陀」で当選、昨年は2本出したがいずれも落選、今年も2本用意して、この「磐余の道」が選ばれたのである。

「古代を見て、中世を辿り、抹茶も楽しむ」というコース案と僕の解説力が期待されたと「思い込んで」、楽しく準備してきた。
先日聞いたところ、プログラムの参加者予定者は30名、まずは手頃な参加者数である。

午後1時、桜井駅南口集合・出発。
「プログラム中に交通機関を使わないこと、出発駅と解散駅は同じにすること」の条件があり、今回はすべて徒歩である。


一気に吉備春日神社まで歩き(30分)、吉備池廃寺(百済大寺)をまず考える。
a0237937_2015264.jpg
 吉備池。この池の周囲や池底に寺跡が発見された


舒明天皇記(639年)によれば、百済川の辺りに大宮と大寺とを造営したとあり、吉備池廃寺の発掘により、この地に百済大寺が建てられていたことが証明された。

吉備池の堤防で、伽藍の配置を説明して、百済大寺が巨大寺院であったこと、若草伽藍(斑鳩寺)と同笵瓦(どうはんがわら。瓦に文様を付けるハンコが同じ)が発掘されたことなどを解説する。

さらに、この地の南方に磐余(いわれ)池が存在したとの論を紹介し、

大津皇子の「磐余の池の堤にして流涕(かなし)みて作りませる御歌一首」
ももづたふ磐余の池に鳴く鴨を今日のみ見てや雲隠りなむ(巻4-416)
を朗詠して盛り上げようという計画である・・・

a0237937_2024134.jpg
 大津皇子、歌碑。夏草に埋まっていたので、少し刈ってみたけど・・・


池ノ内の磐余稚櫻神社で磐余池のことを考えてみる。昭和の初めに発見されたくりぬき樋とか、境内・宮垣内の雷(かみなり)押さえ石(白鳳時代)も紹介してみたい。

安倍寺跡を経て、安倍文殊院(華厳宗別格本山)である。渡海文殊騎獅像がご本尊で、鎌倉時代を代表する仏師、快慶の1203年の作である。
巨大な獅子にまたがる総高約7mもある文殊菩薩像を4体の脇侍像が取り囲む文殊五尊像で、これを渡海という。


谷首古墳。阿倍山丘陵一帯では最大の横穴石室を持つ古墳である。

最後は艸墓(くさはか)古墳。国指定遺跡で石室に入ることができて、石棺の周りを一周できる。盗掘孔も明確に残っていて、見ごたえがある。
羨道に比べて石棺は大きく、石棺を収めてから天井石などを置いたとみられる。
ここは、みんなで入室、石棺に触れてみよう。
a0237937_204461.jpg



長期予報、31日は雨。熱中症の心配が少し減る・・雨のウォークだが、明るく、元気に講座を成功させよう。
by koza5555 | 2015-05-27 21:12 | 桜井市と安倍 | Comments(0)

おもしろ歴史講座

桜井駅前のエルトで開かれている「まほろばセンター文化クラブ」で、今年一年、「おもしろ歴史講座」というテーマの講座を持たせていただくことになった。
奇数月の第一金曜日(お正月などを除いて、第一ができない月は第二金曜日である)の午後7時から8時30分までである。

a0237937_2051042.jpg
桜井市エルト(まほろば文化センターは二階です)

こんな呼びかけである。
「国のはじまりは桜井。その始まりの場所が桜井にあり、それに関わるエピソードが桜井に残されています。記されたこの歴史を縦糸にして、いまの生活と風景を横糸にして、縦横合わせて布のように考えてみます。しっかりした美しいじゅうたんが織り上がりますように」
一年間で6回の講座を持つが、とりあえず今年は桜井のことだけを話そうと考えた。

お話しの日時、テーマは決まった。
5月8日(金)7時~聖林寺と十一面観音菩薩
7月3日(金)7時~安部と磐余
9月4日(金)7時~初瀬の町と長谷寺
11月6日(金)7時~談山神社と紅葉
1月8日(金)7時~桜井の勧請綱
3月4日(金)7時~三輪山と大和朝廷


a0237937_20514365.jpg
第一回目は8日、「聖林寺と十一面観音」から始める


文化クラブの年間1000円の会費を払えば、受講料がないというお値打ち講座である。
先日の申込みが28名、ありがたいことである。毎回、一時間半、タップリ楽しんでいただこうと考えている。
そこで、せっかくだからもう少し宣伝したい。桜井市外の方の参加もできて、会場は桜井駅からは至近である。

追加受付もできるようなのでお誘いしたい。今年は桜井を語るが、さまざまな史跡・遺跡に関わる人の営み、人の思いのようなお話を楽しくするつもりである。

申し込みは まほろば文化クラブ0744-42-1973 か、 メール  kozaburo@cg8.so-net.ne.jp
でお願いします。
by koza5555 | 2015-05-06 21:35 | 桜井市と安倍 | Comments(0)

おもしろ歴史講座

4月から「まほろばセンター文化クラブ」(桜井駅前のエルト2階)で「(桜井)おもしろ歴史講座」という講座を持つことになった。

4月1日号の桜井市の広報誌、稚櫻(わかざくら)に紹介されている。
a0237937_2251469.jpg


奇数月の第二金曜日、午後7時から8時半に開催する。
1番目は5月8日(第二火曜日)で、年内はずっと第二火曜日に開催する。

講座はパワーポイントで行い、
講座の案内文は「国のはじまりは大和。その始まりの場所が桜井にあり、それに関わるエピソードが桜井に残されている。記されたこの歴史を縦糸にして、いまの生活と風景を横糸にして、縦横を編み合わせて考えてみよう」である。

申し込受け付けは、4月6日(月)から4月30日(木)で、①講座名、②郵便番号・住所、③氏名、④年齢、⑤電話番号を記入して、文化クラブ会費(1000円)を沿えて申し込むことができます。

ちょっと講座、ツアー持ちすぎではあるが、病気療養されている前任の室原さんからも、「この講座、引継ぎしてくれないか」と頼まれていた経過もあった。

講師の僕が言うのもおこがましいが、楽しんでいただけること確実である。
安いし、楽しいし、交通至便の会場のお値打ち講座である。ぜひともお誘いしたい。
by koza5555 | 2015-03-27 22:09 | 桜井市と安倍 | Comments(0)