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奈良・桜井の歴史と社会

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カテゴリ:橿原・明日香・吉野( 64 )

神武天皇に関わる陵、丸山にこだわって

「神武天皇の即位」をテーマのツアーを案内する。

橿原神宮、神武天皇陵、綏靖天皇陵、等彌神社などを訪ねる。

そこで、神武天皇陵のことである。

幕末期には三か所が神武陵の候補に上がる。

それは

①「今日神武陵、一説には綏靖天皇陵(第二代)たり」の四条村の塚。

②「山本村神武田」(じぶでん)。旧塚と新塚の二つの「塚」がみえる。神武天皇陵と書かれず、「廟社の地」とされていた。

③「三番目は畝傍山手前の山である」。「この一丘は御陵また丸山、神武天皇畝傍山東北陵」とある。古事記にある神武天皇陵についての記述、そのままの文言である。

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その後の経過はどうなったか。

①の「今日神武陵」は、幕府の公認陵ということもあって推すものがなかった。

②の神武田を主張したのは谷森義臣である。天皇陵の研究家として文久の終陵では大きな影響力を発揮していた。

③の丸山を推したのは北浦定正で、尾上という古事記の記述をもとに主張した。

もともと、本居宣長はこちらの丸山を推していた。

「四条村といふあり。この四条村の一町ばかり東。うねび山よりは五六町もはなれて。丑寅のかたにあたれる田の中に。松一もと桜ひと本おひて。わづかに三四尺ばかりの高さなる。ちひさき塚のあるを。神武天皇の御陵と申つたへたり。さへどこれは。さらにみさゞきのさまとはみえず。又かの御陵は。かしの尾上と古事記にあるを。こゝははるかに山をばはなれて。さいふべき所にもあらぬうへに」(菅笠日記)

結論はつけるのは孝明天皇。天皇の名で「御沙汰書」が出される。「神武田で決めなさい、但し丸山も粗末にするな」という沙汰だった。

その後、明治11年に、①の「今日神武陵」の四条村の塚は第二代綏靖天皇陵として治定される。

問題は、「丸山も粗末にするな」の③である。

こちらを、奈良まほろばソムリエの会の木村三彦顧問の案内で見学してきた。神武天皇陵の一角にあるが、許可を求めることなく、立ち入ることはできるようである。

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参道というか‥、拝所目前の左への分かれ道・・石段がある。里道という感じである。

あとは道なりである。200メートルくらい。上り詰めていくと井戸がある。昔の洞村の共同井戸らしい。今も水は貯められている。

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丸山はその上である。

宮と刻まれた5本の石柱が置かれている。古墳のような様子は感じられない。

5本、踏み分け道はしっかりの残っていて・・人の出入りは多い様子である。

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神武天皇陵を正面に記念撮影。後列、真ん中が案内してくれた会の顧問の木村三彦さんである。

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御陵印ももらってきた。「神武天皇畝傍山東北陵」印

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畝傍陵墓監区事務所

御陵印というものがある。神武天皇陵の敷地に置かれている「畝傍陵墓監区事務所」で、推すことができる。神武天皇陵印だけではなく、奈良県の歴代天皇陵の30陵の御陵印が置かれている。

「丸山、粗末にできんなあ」である。


by koza5555 | 2017-11-11 10:28 | 橿原・明日香・吉野 | Comments(0)

幕末に成った神武天皇陵

「神武天皇の即位」というツアーである。

実在性はともかく、神武天皇のゆかりの地が残されている。

これを勉強して、組み立てて案内する。これはガイドのだいご味である。

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神武天皇陵

『天皇陵の誕生』(祥伝社新書 外池昇)が適切な解説本か。

「第二章 蒲生君平が求めたもの――『山稜史』を読み直す」・・これが面白いが、今日はここをスルーして、「三章 幕末に成った神武天皇陵――聖域に群がる人びと」を紹介したい。

神武天皇は初代の天皇である。その陵であれば、はるか太古の時代に成ったもののはずである。だが私は、本章のタイトルに「幕末に成った神武天皇陵と書いた」。太古の時代のはずの神武天皇陵が「幕末に成った」とは、いったいどういうことなのだろうか。

初代が神武天皇である。…今日積極的に取り上げられる機会が少ないというのは、ご承知の通り、今日では実在した人物とは考えられていないからである。

実在したとは考えられていないのではあるが、『古事記』にも『日本書紀』にも、その所在地について、具体的な記述がある。

『古事記』  「畝火山北方白檮尾上」

『日本書紀』 「畝傍山東北(うしとら)陵」


そして、

幕末期には神武陵は三か所。『聖蹟図志』に示されていて、

①「今日神武陵、一説には綏靖天皇陵(第二代)たり」と四条村の塚。

②「山本村神武田」(じぶでん)。旧塚と新塚の二つの「塚」がみえる。神武天皇陵と書かれず、「廟社の地」とされていた。

③「三番目は畝傍山手前の山である」。「この一丘は御陵また丸山、神武天皇畝傍山東北陵」とある。日本書紀にある神武天皇陵についての記述のままの文言である。

時は幕末、文久の修陵というさなかである。

②の神武田を主張したのは谷森義臣である。天皇陵の研究家して文久の終陵では大きな影響力を発揮していた。

③の丸山を推したのは北浦定正で、尾上という古事記の記述をもとに主張した。

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   丸山はこちらである。「御陵又丸山」と今も記されている

①の四条村の塚は、幕府の公認陵ということもあり、推すものがなかったという。

この論争の結論はつけたのは孝明天皇。「御沙汰書」が出された。「神武田で決めなさい、但し丸山も粗末にするな」という沙汰だった。



明治11年には、四条村の塚は第二代綏靖天皇陵として治定されている。

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これが綏靖天皇陵


文久の修陵の当時は、神武天皇陵としての陵域が確定されたことがよくわかった。


文久山稜図  荒蕪

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文久山稜図  成功

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神武天皇陵御陵真景(明治34年 奥野陣七による)では、以上の二つの塚が示されていたが、

神武天皇畝傍山東北陵の図(大正15年)では、方墳、中心に円墳が一つとなった。


以上のような解説をしても、「なぜ、この地に三カ所の神武天皇陵の候補地ができたのか?」、言い換えれば、古事記・日本書紀は、この地になぜ初代天皇の陵を考えたのかという疑問は残るだろう。

古事記・日本書紀が準備された時期には、「藤原京の近くに初代天皇陵を求めた」という論を展開する学者もいるのである。

前橿考研の今尾文明さんなどは、それを解明して「都市陵墓」としての神武陵などという論も書かれている(『明日香風』122号 平成24年1月号)。説得力のある論で、これはこれとして又の機会に紹介したい。

「神武即位」をテーマにしたツアーは12月6日(水)に、予定している。


by koza5555 | 2017-07-31 14:02 | 橿原・明日香・吉野 | Comments(0)

修験者の道 大淀町

大淀町に用があった。相談は早めに終わったので、大淀町を探索してみた。

吉野の入り口として大淀の役割は大きくなるばかりである。それは産業であり、医療であり、文化の継承である。今日はそんな難しい話ではなく、少し楽しく大淀の街道をか考えてみた。

大淀には、吉野川に沿っての東西の道があり、飛鳥から芋峠を越えてくる南北の道が知られているが、巨勢から入る修験者の道も良く知られている。今日は、これを歩いてきた(車で)。

修験者の道、吉野口から入ると、まずは今木(いまき)である。泉徳寺に接した蔵王権現堂。レリーフの蔵王権現が祀られているが、仁王門の金剛力士像がすごい。阿形、吽形で一対をなす3mほどの木像である。山門を守る金剛力士像は吉野郡では金峯山寺蔵王堂とこちらだけとのことである。
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ちなみにこちらの泉徳寺の門前には、高野山 役行者 一の行場と石碑が建てられていた。

今木がから車坂峠を上り詰めると(今は国道から500メートル以上の厳しい坂道を登る)石塚遺跡である。修験者たちが小石を一つ一つ持ち寄ったという伝承である。
石塚もツタが絡まり、青草が生い茂って、石塚には見えないけど・・・・
石を貼り付けたのではなく、石を積み上げたものらしい。
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吉野川沿いの鈴ヶ森行者堂。元の大淀病院の南にあたる。こちらの行場は石塚遺跡から移転してきたと言われた。6月1日は下渕行者講の護摩供養。解禁となる鮎の供養もするとのことで準備中だった。
こんなポスターで、「大峯登山一之行場」とあった。
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最後の柳の渡し・・・こちらも一之行場というか、靡(なびき)の最後、75番の靡とされる。
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一之行場があちこちにあったが、大淀は吉野川を前にして、「さあ、修行だよ」の場だからこそのことで、それぞれがそれぞれのいわれで、一番の資格があるんだろうとおもえる。
天工の具合で斜視は撮れなかったが、金峯山寺はあちこちから見えるのである。

最後に世尊寺跡(比曾寺)を訪れる。みやま大山レンゲ、季節的にはギリギリだったが、素晴らしい花をみることができた。八経ヶ岳、遠くになりにけるで、ここで楽しめた。
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大淀町の発行する、「歴史;文化遺産」、これは役立ちます。

by koza5555 | 2017-06-01 22:26 | 橿原・明日香・吉野 | Comments(0)

倭文、加守神社のオンダ

二上山の登山には、近鉄の南大阪線の二上山口駅が一番の近道。駅から二上山の雄岳に一気に登る道がある。
その登山口に、倭文(しとり)神社が鎮座する。相殿には加守(かもり)神社と二上神社がおかれる。

加守地区の氏神さんである(氏子地域は広くて加守、畑、狐井など9ヶ村の郷社ではあるが)。

こちらのオンダ祭が珍しい所作、行事で有名である。内容はおいおい紹介するが、祭は4月15日の直前の土曜日に行われる。今年はそれが15日(土)ということになった。

オンダ祭とは農耕作業の所作を行い、天地に今年の豊作を祈る行事である。
畔をつくり、田をおこして、田んぼに水を入れて、籾をまき、田植えをするという所作が順々に行われる。オンダには稲刈りはなく、所作は田植までである。
牛が元気に働きますように、水がありますようにという行事である。

所作にはそれぞれの特徴があり、広瀬神社は「よく雨が降るようにと、雨に見立てて砂をまく」ことで有名。その直近の川西町の六県神社のオンダは「よく雨が降るように」と雨に見立てて、こちらは子供がまかれる。正確には、所作のたびごとに子供が大人にのしかかる(雨と風)という行事だ。
オンダの行事は、真剣さ、おかしさで、どちらの社も工夫は切実だ。稲作のために一番大事な播種と田植えの無事を祈る行事だからだろう。

午後一時から祭典。こちらのオンダの珍しいことは、小学生が行事の主役で参加すること。加守の6年生から選ばれるということで、今年はA君とY君がその役割を担った。

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玉串奉奠を行う小学生

2時ころからオンダ行事が始まる。

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境内に竹を立てて仕切ったオンダの場に牛、農器具を降ろす

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畔造り

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牛が鋤を引く

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田植だ

このあとに牛が出産するという所作がある。これが独特である
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産まれた子牛はすぐに飛び回る

オンダ祭りの子牛役を地元の小学生(宮本の加守の男の子)が演ずる。生涯に一度の子牛役だが、練習は一回だけである。

オンダに牛はつきものだが、その牛が子供を産むというのは、全国的に珍しいとのことである。産婆の助けもいる。獣医です。これも、実はこちらの神社の祭神に関わる祭らしい。

こちらの祭神は「葛木倭文座天羽雷命(かつらきしとりにいますあめのはいかづちのみこと)」である。加守神社が相殿で、こちらの名前は地名になっているので、加守神社の方が名は通っている。
倭文神社は、天照大神の御衣を織った天羽雷(あめのはいかづち)命を祀っている。織物の神で、斎部広成(ひろなり)が書いた『古語拾遺』にきちんと紹介されている。

相殿の加守神社は、神武天皇の父の生誕時に産室を掃き清めたという天忍人命(あめのおしひとのみこと)を祀っている。掃除というより産婆の役割を果たしたともいわれる。

こんな風に産婆の神としての石碑も立てられていた。牛が生まれる、産婆がいる・・オンダにその姿をあらわしている。
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産婆石塚氏の碑と記されている。神社の門前に立てられている

by koza5555 | 2017-04-19 20:19 | 橿原・明日香・吉野 | Comments(0)

大伴一族(とくに吹負)と中ツ道

5月5日(金)の午後7時から、桜井駅前エルトで、「中ツ道」をお話しする。
壬申の乱の頃の中ツ道。
南北朝のころ、戒重西阿の中ツ道。
近代、近世の中ツ道をお話ししたい。

始めに道の起源、そして壬申の乱の頃の中ツ道である。
『道が語る日本の古代史』。近江俊英さん。これがむちゃくちゃに面白い。
まずは大伴氏族を考えねばならない。中ツ道はそうなのである。

大伴氏というと、大伴旅人や家持といった歌人が著名である。しかし、本来、大伴一族は軍事を司り、武烈天皇の時代には、大伴金村といった著名な将軍も輩出している。
それにしても大伴氏ほど、浮き沈みの激しい一族も珍しい。
欽明天皇の時代、大伴氏は天皇家の家臣の中では筆頭の位である大連を出す家柄であったのに、大伴金村が朝鮮半島政策で失敗したことにより失脚。蘇我、物部の争乱のさいには、蘇我方につき再び力を得るが、天智天皇の時代にはさほど用いられた形跡はない。天智天皇の近江遷都にも、大伴一族の代表者であった大伴馬来田、吹負兄弟は、大和に残留したいたようである。
そこで乱が勃発した。兄弟は一族の浮沈を賭けて、大海人皇子側に味方する。
『道が語る日本古代史』(近江俊英)

「神武東征」での大伴の活躍を引くまでもなく、近江さんは有史の範囲で、とても上手くまとめられている。
かくして壬申の乱、大和での戦いは幕を切って落とされたが・・・・大伴吹負は負ける。

戦った道は、稗田 →乃楽山 →墨坂 →金綱井 →当麻衢(ちまた)
金綱井で神託が届けられるのが契機となる。
実質は大和から宇陀の墨坂まで逃げ出すが、そこで東国からの援軍、兎(おきそみめのむらじ うさぎ)軍と出会うことが勝利の土台、勝利の出発ではあるが。

大伴吹負は3人の神の予言を受ける。
神は許梅(しこめ)に憑依する。
高市社(橿原市雲梯 うなて の河俣神社)と
牟佐坐神社(橿原市見瀬)の神からの神託である。 
許梅には、神武天皇陵に馬と兵器を奉納するように命じた。

もう一人の神は村屋神(田原本町蔵堂)に、こちらは神官に憑依した。

それぞれ西から来襲する、あるいは中ツ道を攻めてくるという託宣である。


こんな図である。すべてが一目瞭然である(『道が語る日本古代史』p80)。
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すごい地図である。全部入っている。赤丸と赤字は僕が記入した


神社とか、碑を見てきた。

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金綱井は横大路沿いと考えて、小網町の入鹿神社付近と考えた。こちらは境内の大日堂だ


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高市神社は雲梯の川俣神社


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牟佐坐神社

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牟佐坐神社境内は孝元天皇の軽境原宮址とされ、碑が建てられていた

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神武天皇陵・・天武天皇の時代は、「神武天皇陵はここ」と決まっていたんだな。託宣があれば、大伴吹負はすぐ祀に出かけられたのだ。その場所はこちらだったんだろうか・・・

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大伴の竹田庄は、中ツ道沿い。これなら、大伴の村屋のたたかいはホントの地元の戦いだったんだ・・・こちらは村屋坐弥富都比売神社

中ツ道、これは大伴の決断を考え、大伴の飛躍を考える道なんだな…面白そうである。
中ツ道、こんなテーマでも面白くなりそうである。
5月5日、桜井駅前、エルト・・第4研修室、期待してください。
by koza5555 | 2017-04-14 23:01 | 橿原・明日香・吉野 | Comments(0)

当麻ウォーク。加守廃寺跡とか掃守神社

3月22日(水)に「大人の学校」で、当麻寺の周辺のウォーキング、紹介して、お誘いいたします。

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当麻の首古塚古墳から二上山

午前10時に二上神社口駅集合、加守神社、加守廃寺跡、傘堂、鳥谷口古墳、首子塚古墳、当麻寺中の坊にて「曼荼羅絵解」、金堂、講堂を拝観して、当麻寺駅に至りて中将餅を賞味、午後4時過ぎに解散である。

はじめが加守神社、実は主殿は倭文(しとり)神社といい、織物の神様である。天照皇大神の衣を織ったとされる。
左脇殿が二上神社といい武と文の神。
右脇殿が加守(掃守 かもり)神社で、産婆・産育の神であり祖とされる。神武天皇の父が生誕するとき産室に群がる蟹を掃き清めた天忍人命(あめのおしひとのみこと)を祀る。
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この神社のオンダ祭りが独特で、他には見られない内容や所作がある。
オンダ祭りの牛を地元の小学生(宮本の加守の男の子)が演ずる。
この牛がオンダの所作中に出産する。
川西の六県(むつがた)神社のオンダでは、人が子を産むという所作があるが、牛が出産するというのはここだけだ。

こちらのオンダ、斎行日は「4月15日の前の土曜日」と決まっていて、今年ならそれは4月15日ということだ。


倭文(しとり)神社(加守神社)のご本殿の背面(西側)には、加守廃寺跡が残されている。
加守という地名は古代氏族の「掃守氏」の本貫地として知られる。雄略天皇の時代からの氏族である。廃寺からは奈良時代中期の軒瓦が発掘されており、長六角形の特異な構造の建物跡も発掘されている。
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(『大和の古代寺院跡をめぐる』から)

その後、傘堂、鳥谷口古墳を見学、首子塚古墳にて二上山と当麻寺を眺望する。
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東西の国宝三重塔・・・と言いたいが。当麻寺西塔は工事に入り、覆屋に入った。3年くらいはこんな状態らしい。

当麻の里を巡った後は、当麻寺・中之坊にて當麻曼荼羅の絵解きをお聞きする。めったに聞けない曼荼羅の絵解き、これをお聞きするウォーキングである。


実施要項は以下の通り。メールでお申込み、お願いたします。
■実施日    平成28年3月22日(水)雨天決行
■集合時間午前10時 
■集合場所   近鉄 二上神社口 
■コース(歩く距離 7km程度)
近鉄二上神社口駅 集合10:00 → 加守神社→ 加守廃寺跡 → 傘堂→ 鳥谷口古墳→ 12:00 昼食(ふれあいステーション、食堂)→ 首子塚古墳 →  当麻寺中の坊 絵解予約時間13:30から → 14:30当麻寺曼荼羅堂→ 金堂→ 講堂 (15:30)→ 当麻寺駅解散 16:00
■持ち物  水筒、帽子、雨具をお持ちください。食事は当麻ステーションの大食堂を利用します。
※歩きやすい服、靴でおいでください。
■参加費 2100円【当麻寺(500円)、中之坊(解説料含む800円)資料代・学校経費800円】

ぜひ、おいでください。申し込みは メールにて kozaburo@cg8.so-net.ne.jp
by koza5555 | 2017-03-09 22:54 | 橿原・明日香・吉野 | Comments(0)

浄見原神社 国栖と国栖奏

国栖奏は、毎年旧正月十四日に、吉野町南国栖の天武天皇を祭る浄見原神社で古式ゆかしく行われます。
早朝から精進潔斎をした筋目といわれる家筋の男性、舞翁二人、笛翁四人、鼓翁一人、歌翁五人が神官に導 かれて舞殿に登場し、朗々とした歌翁の声とともに、舞翁の振る鈴の音が冷えきった空気にこだまして、参拝の 人たちの胸に古代の息吹をよみがえらせてくれます。(吉野町HPより)

今年は、今日が旧の正月十四日、天武天皇を祭祀する浄見原神社において、国栖奏が執り行われた。

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舞翁の舞、「正月 エンエイ」の囃し言葉に合わせて、静かだが、軽やかな舞である

神官の先導に従って参進の笛を奏しながら舞殿に進み、まず楽器を神前に供え、一同十二人は着座し、神官の祝詞奏上に続いて一歌二歌を奏します。次に神饌台から楽器を下げて笛にあわせて三歌を唱和し、舞に移る。舞は舞翁が鈴と榊を持ち、歌翁の一人が(エンエイ)と囃し正月より十二月まで舞納め、四歌を奏して、最後に氏子と奉賛者の名前を読み上げ(御巡楽――おじゅんらくという)、素朴ながらも典雅な舞楽は終わります。(国栖奏保存会パンフレットより)


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舞翁、歌翁に続いて笛翁の参進


御巡楽では、奉賛者一人一人の名の読み上げに合わせて、間に「エンエイ」の唱和がある。エンエイとは遠栄(ウィキペディア)とも、延栄(『大和の祭りと芸能』)とも紹介されているが、長く栄よという意味だろう。

神社入り口に奉賛者の受付があり、僕も申し込み、名前を紹介していただいた。
最後の方で、「さいがこうざぶろう・・エンエイー・・・シャンシャン」で、とても幸せな気分に、思わず頭を下がる。

新撰は特殊である。
栗、一夜酒、うぐい、根せり、赤ガエルの特殊神饌が供えられる。壬申の乱の前、吉野に身を隠した大海人皇子(天武天皇)に捧げたものを模したものであろうか。
楽器が供えられるのもきわめて特殊で、そのいわれを知りたいものである。

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国栖奏の始まる前頃に吉野は激しい雪。またまたタイヤチェーンを巻く羽目に。この雪にも関わらず、参列者、参観者は多数。前には出れず


橿原神宮でも4月3日に奉納されるとのことである。国栖奏と久米舞でちょっとした話ができないやろうか・・・・
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by koza5555 | 2017-02-10 18:24 | 橿原・明日香・吉野 | Comments(0)

惣谷狂言と篠原踊り

1月25日に五條市大塔の惣谷は狂言を、篠原は踊りをそれぞれ氏神に奉納する。

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惣谷狂言、8曲のうちの一曲、かなぼうし。2017年1月25日

22日(日)ころから全国的に激しい寒波、吉野もその例をまぬかれず相当な積雪となった。
惣谷や篠原に入るには国道168号を経て、宇井から県道に入る。道が思いやられたが、今年の僕のテーマは「吉野の祭り」。これは外すわけにはいかないのである。

篠原踊り、惣谷狂言というが、もともとは両村とも踊りがあり間に狂言という形だったらしい。それがいまでは篠原は踊り、惣谷は狂言が残るということである。

25日は、惣谷狂言を見学した。県道に沿って登ると集落の上に天神社がある。この境内、舞台は拝殿というか、そんなところを開け放ち、カーテンを吊る。舞台の飾りは注連縄と「餅花」である

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注連縄と餅花


五条市のHPによれば
奈良県の無形民俗文化財に指定されている「惣谷狂言」は、古くから惣谷地区で正月の神事初めに氏神の天神社と円満寺の境内で奉納のために行なわれてきました。以前は篠原踊りと同様の踊りも奉納されてきましたが、現在は狂言のみが天神社に奉納されています。
惣谷狂言は明治40年頃から演じられなくなり、大正天皇即位の大典で大正4年に演じられて以来途絶えていましたが、大塔村史編纂を機に復活の気運が高まり、昭和33年に復活されました。以来保存会によって「鬼狂言」「狐つり」「舟漕ぎ」「万才」「壺負い」「鳥さし」「鐘引き」「かなぼうし」の8曲が伝えられており、毎年この内の1~2曲が1月25日に天神社で奉納されています。


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こんなパンフレットも配られた。惣谷の村の自前である


今年は「かなぼうし」が演じられた。
かなぼうしとはかわいい子という意味らしいが、かわいい子は出てこない。
和尚さんに寺を譲られた小坊主が村人にとんちんかんな対応をくりかえし、和尚さんが叱り飛ばすという筋書きである。かといって小坊主は、和尚さんの弱点もしっかり見ている、これがオチでもある。
せりふだけ・・・ことさらな演技はしないが味はある。

惣谷、たかだが10軒あまりの村である。この小さな村に在住する5名の方が演じられていた。

たき火に当たりながらの話ではあったが、「惣谷狂言と篠原踊りを一緒に演じられないか」などという話もされていた。「2回はできない」とか「隔年で順番に場所を替えて」とか、「それだったら神さまへの奉納ではなくなり、意味が変わる」などと意見が交わされていた。

惣谷でも継続にはそれなりの困難さがつきまとう。「よその応援を得るような延命はダメ。できなくなったら終りでよい」と言い切る人もいたりしていた。

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惣谷狂言の日程は午後一時から天神社の神事。その後、着替えなどの支度があり1時50分ほどから8分間くらい演じられた。
その後、するめとお酒の直会、さらには餅まきである。僕も福をたくさんいただいた。

さて、篠原踊りは・・?
篠原踊りは雪のため今年は中止となった。「踊り手が上がってこれない」とのことだった。これはこれで、こんなこともあるだろう。

こんな雪だった・・・・写真は・・・・

篠原踊り、惣谷狂言は奈良県指定無形民俗文化財に指定されている。

途中で撮った賀名生の皇居跡。堀家である
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by koza5555 | 2017-01-25 22:22 | 橿原・明日香・吉野 | Comments(0)

栢森の綱掛神事 稲渕も少し

あけましておめでとうございます。

今年の一番はツナカケ神事。
今年は1月11日に「栢森(明日香村)の綱掛神事」が行われた。

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飛鳥川に掛けられた栢森の女綱

「綱掛神事は、栢森と稲渕両大字に伝わる神事で、毎年正月11日に行われる。カンジョ掛神事ともいう。
 子孫繁栄と五穀豊穣を祈るとともに、悪疫などこの道と川を通って侵入するものを押し止め、住民を守護するための神事といわれている。
 栢森大字の神事の特徴は、全体を仏式で行うことである。福石(陰物ともいう。)と呼ばれる石の上に祭壇を設け、僧侶の法要の後、飛鳥川の上に陰物を形どった「女綱」を掛け渡す。一方、飛鳥川下流の稲渕大字の神事は神式で行うことが特徴で、「男綱」を飛鳥川に掛け渡しをする。  (明日香村大字栢森です)
 こんな掲示版が栢森の綱掛け場に設置されていた。

稲渕と柏森のオツナカケである。
行事は古くて(300年前の)1751年の「古跡略考」でも、カンジョウの松とかカンジョ橋というのが記されており、オツナカケが行われていたことが判る。

日時は正月11日である。稲渕と柏森、初仕事、クワハジメの行う。
今年は稲渕はどんな具合か、9日(成人の日)に実施、栢森は古式に従い11日の実施だった。
    
稲渕は9日、三つ編み方式で80メートルの綱を綯った。その後に陽物(男性器をかたどったもの)を作り、ご幣を取り付けて綱に固定、綱は檜と柿の木に間に張られた。
陽物が川の中心にまっすぐ立つことが大事なようであるが、これがなかなか難しく、毎年苦労されている様子である。

柏森は11日の午後、大字の農作物出荷所に集合する。宮役と三グループの宮座(のようなもの)から当番が参加する。黙々と80メートルの綱を綯う。桜井の山村のオツナカケのような掛け声はなく、卑猥な戯言などもなく黙々と綯われていく。

併せて、陰物(玉ねぎのようなもの)も作られる。女性をかたどったものだがリアルには作らない。柏森の龍福寺の住職が供養を行う。

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綱打ち場


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出来上がった陰物


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綱打ち場から500メートルほどは、僧侶を先頭に綱掛け場に移動


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福石での仏事。般若心経を唱えられる


栢森のご幣は上流に向かっている。ご幣の向きは綱の道きりの意図が示されていると思うが、・・これはどうしたことだろうか。

『飛鳥の祭りと伝承』(古典と民俗学叢書)で上野誠が面白い論を述べていた。
稲渕と栢森の境目には「飛鳥川上坐宇須多岐比賣命神社(あすかかわかみにいますうすたきひめみこと)」が鎮座、稲渕、栢森、入谷、畑の人々が守る社であり、稲渕川水系の村々を統合する社でもあるという。
この社の前に南淵(なぶち)があり、大イデ(取水口)があり、この社ではかっては名も出踊りが踊られ、オンダが行われていたという。
オツナはこの祭、このミヤヤマを守るものとの見解とみることもできる、これが上野誠論である。

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こんな地図も書いてみた

皇極天皇が雨乞いをした飛鳥川上の神奈備の神の場とされており由緒は古い。「元飛鳥」との論もあり飛鳥坐神社の元の姿ともいう場でもある。

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神社の門前の飛鳥川。タギツであり、大イデも

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190段ほどのキツイ石段を登ると拝殿。拝殿の横に回るとお山がご本殿のような祀られ方である

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陰陽の石も境内に。石は倒れていたが

稲渕と柏の森の男女の勧請綱は、会うことが無く、結びつくことも無い。
それぞれ場で、それぞれの役割を果たすことを村人に期待されている。
by koza5555 | 2017-01-12 19:37 | 橿原・明日香・吉野 | Comments(0)

9月は稲淵でかかしウォーク

大人の学校、9月は明日香村、案山子ウォーク。
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このかかし、今年のジャンボは真田信繁(幸村)である。7月24日に立ち上げられた

奈良県では日本棚田百選に選ばれたのは明日香村稲渕の棚田だけ。
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稲穂の垂れる棚田、彼岸花が見ごろを迎える頃の案山子コンテストが楽しめる。
午後は初めに石舞台を訪れ、さらに不思議な石造物や飛鳥駅周辺の古墳を辿る。
明日香・飛鳥を隅々まで楽しむ9月の歴史散歩、お誘いします。
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こちらは昨年のかかし

行程は9月23日(金)午前10時、飛鳥駅の改札口前に集合。
歩く距離は約8km程度で、飛鳥駅(タクシー利用)→稲渕 → 石舞台古墳 昼食 → 亀石、鬼の雪隠、吉備姫王墓などを見学したのちに飛鳥駅にて解散
費用は1000円、タクシー代は各自払いで500円程度。



さらに10月は山の辺の道、11月は浄瑠璃寺・岩船寺に当尾を案内する。

10月  山の辺の道  邪馬台国の残照、相撲発祥の地を訪ねる
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■10月26日(水)
集合 午前10時   JRまほろば線 柳本駅
解散 午後 3時ころ 纏向駅
■コース(歩く距離 6km程度)
JRまほろば線柳本駅 → 黒塚古墳 → 崇神天皇陵 → 昼食(天理トレイルセンター)→ 長岳寺
→ 穴師坐兵主神社(相撲神社)→ 珠城山古墳 → JRまほろば線巻向駅解散
■参加費 1100円(長岳寺拝観料 350円、学校経費、資料代などで750円)。


そして、11月。 錦秋の当尾。浄瑠璃寺と岩船寺(食事付)である。
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■11月30日(水)
集合時間午前9時15分 
集合場所   JR奈良駅改札前(JRで来られる方は改札口の中で受け付けを行います)
■コース(歩く距離約6km、下りの道です)
JR奈良駅(集合9:15)→ 9:37 JR乗車~加茂駅着9:51 路線バス → 岩船寺 → 昼食(岩船寺門前「静」→ 石仏巡り → 浄瑠璃寺 → 浄瑠璃寺バス発 → 近鉄奈良駅 → JR奈良駅
■参加費(昼食付)2100円(食事代650円、岩船寺拝観料400円、浄瑠璃寺拝観料300円、大人の学校と資料代750円)          
※奈良~加茂(JR)240円 加茂~岩船寺(バス)300円 浄瑠璃寺~奈良駅(バス)570円、各自払いです。
by koza5555 | 2016-07-25 21:24 | 橿原・明日香・吉野 | Comments(0)