ブログトップ

奈良・桜井の歴史と社会

koza5555.exblog.jp

カテゴリ:桜井・山の辺( 90 )

三輪の初えびす

毎日新聞の奈良版で今年から「ディスカバー!奈良」という連載が始まった。毎週、木曜日の朝刊である。奈良まほろばソムリエの会がこの連載を担当する。昨年から執筆者会議なども開きながら準備してきており、新年から順調な滑り出しとなった。
今日がその3回目、僕の番になったので、手始めに三輪の初えびすを紹介することにした。

a0237937_13141245.jpg
御湯の神事

文章は300字、これでは行事の紹介で終わりである。三輪の初えびす全体の紹介はムリだから、7日の「御湯の神事」を軸に取り上げた。背景とか、使われる釜とかはかってブログで紹介させていただいたことがあるが、今回はそれも割愛である。

三輪恵比須神社は、2月5日~7日「初えびす」を執り行います。万葉集でも歌われた古代の市場、海石榴市(つばいち)の伝統を引き継ぐ土地柄でもあり、大きなにぎわいとなります。
最終日の7日、午後2時から行われる御湯(みゆ)の神事が見逃せません。八つの大釜で湯を煮えたぎらせます。巫女はそれぞれの釜に米、塩、神酒を入れ笹の葉に浸して参列者に降りかけます。この飛び散る湯滴を受けると無病息災、商売繁盛につながるとされ、参列者は身を乗り出してこの湯滴を受けるのです。
三輪素麺の相場を占い、それを報告するという神事も行われます。三輪の町を練り歩く華やかな「鯛引き行列」も祭を盛り上げます。(奈良まほろばソムリエの会 理事・雑賀耕三郎)
メモ JR桜井線(万葉まほろば線)三輪駅から徒歩5分。 近鉄桜井駅下車(バス便あり)


a0237937_13151993.jpg
タイ引き行事の巨大タイ

a0237937_13162186.jpg
今年の行事のポスター。ぜひ、おいでください。

a0237937_13172343.jpg

by koza5555 | 2017-01-26 13:19 | 桜井・山の辺 | Comments(0)

醸造安全祈願祭 大神神社

大神神社は11月14日に「醸造安全祈願祭」を斎行する。

a0237937_13361349.jpg
枡酒の振る舞い
a0237937_13412630.jpg


a0237937_1342076.jpg
併せて奈良県酒造組合の振る舞い酒も


a0237937_1343926.jpg
出仕する祭員

酒造りの神様と仰がれるご祭神の神徳を称えて、新酒の醸造の安全を祈る祭典で、全国の酒造家・杜氏・酒造関係者が参列します。祭典後から醸造安全の赤い御幣と酒屋のシンボル「しるしの杉玉」が全国の酒造家・醸造元に授与されます。(大神神社HPより)

祭典は大神神社拝殿で参拝、続いて大物主の力で醸された神酒を崇神天皇に献酒した高橋活日(たかはしのいくひ)を祀る、活日神社にて玉串奉奠という祭祀である。

a0237937_13442715.jpg
いつもは森閑とした活日神社もこの日ばかりは


境内では全国から寄せられた銘酒の振る舞いがある。いわば、吟味し放題と言いたいが、いっぱいまでとの但し書きも。

大神神社の「しるしの杉玉」のことである。
醸造祈願祭の前日、11月13日には、吊るし替え(大杉玉掛け替え)が行われる。

「しるしの杉玉」は、拝殿と祈祷殿に吊るされるが、すべて人の手によってはこばれた。

a0237937_13453289.jpg
これは昨年の吊るし替え

昔の駕籠のように6人掛かりで運搬、どんな具合ですかとお聞きすると、「今年は230㎏です」と汗を拭き拭き、説明していただいた。神社の大杉玉が吊るし替えられ、祭りの準備が整えられます。

この醸造祈願祭、酒まつりを終えると、作り酒屋の紋章もともいえる「しるしの杉玉」は、「新酒の印」として全国の酒屋の店先に吊るされる。

この神酒は わが神酒ならず  倭なす 大物主の 醸みし神酒  幾久  幾久

崇神天皇8年冬12月、今頃だろうか。
崇神天皇が三輪の大神を太田田根子に祭らしめた日に、高橋活日が神酒を捧げて詠んだという。
全国の醸造元から届けられた数々の酒は壮観です。


大神神社、拝殿は寛文四年(一六六四)に徳川四代将軍家綱が再建したもので、重要文化財に指定されている。
また拝殿の奥正面にある三ツ鳥居は、三輪鳥居とも呼ばれ古来当社の特色の一つとされる。三つの明神型鳥居を一体に組合せた形式であり、重要文化財である。


以下は大神神社HPより
『日本書紀』の崇神天皇条には、高橋活日命(たかはしのいくひのみこと)が天皇に神酒を献じた時に「この神酒(みき)は 我が神酒ならず 倭なす 大物主の 醸(か)みし神酒 幾久(いくひさ) 幾久」と歌ったとあり、大物主神のご神助により、会心の美酒を造ることが出来たことが記されています。このことからご祭神が酒造りの神として敬われることとなったのです。祭典では活日命の和歌で作られた神楽「うま酒みわの舞」が四人の巫女により舞われます。そして、境内では各地から奉献された銘柄を展示する全国銘酒展が催され、樽酒の振る舞いも行われます。

また、祭典前日には拝殿と祈祷殿に取り付けられている直径1.5m重さ250kgもある「大杉玉」が青々としたものに掛け替えられます。

by koza5555 | 2016-11-14 13:48 | 桜井・山の辺 | Comments(0)

石上神宮のご例祭(ふるまつり)

10月15日(土)は石上神宮のご例祭。祭は10月1日の榜示浚から始まる。

a0237937_2291653.jpg
お旅所、田町(たちょう)の榜示立

10月15日、まつりの日に石上神宮へお客様をお連れすることになった。「お祭りの日に神社」、良さそうに見えてこれがなかなかのクセモノである。
お祭りを楽しみながら、そして巻き込まれないようにである。


石上神宮のご例祭である。
平安時代、白河天皇の永保元年(1081年)に勅使が御参向(ごさんこう)となり、走馬十列(そうまじゅうれつ)を奉納された故事に始まるとされる。渡御は大和の秋祭の中でも随一という壮麗さで、「ふるまつり」とも「田村渡り」とも称された。
① 御旅所の田町(たちょう)より、稚児が騎馬にて御幣を奉持して社参(午前8時半)。
② 午前10時から昇殿、献饌、普通神饌と合わせて稚児より荷前(穂のついたままの稲株)が奉じられ、幣帛が奉じられる。
③ 祝詞奏上、氏子献幣使祭詞奏上、舞楽、玉串拝礼があり、稚児に御幣が授与されて祭典は終了する。
④御魂代を御ほうれん(神輿)に遷御する。
⑤ 午後一時からお渡り。田村町までの4キロを渡御する。

この祭りに先立って、10月1日に執り行われる榜示浚神事が神社の性格を表し興味深い。
榜示とは中世荘園の成立の折、四至榜示を明記したとされる。そこに杭を打ち、石を置いたとのことで、それが今も地名として残る例も見られる。(たとえば生駒市高山)
祭祀に当たり、境内に榜示杭を立てる場合(鳥居もその一つか)と、石上神宮のように広く氏子地域に立てる場合もその役割は変わらない。
石上神宮の場合は、北郷、南郷で八カ所。中ツ道まで領域として、南西は備前橋(神社から8キロほど離れている)に立てるのである。

a0237937_22103772.jpg
備前橋の榜示立て
a0237937_2218597.jpg


ちなみに北郷は ①石上市神社、②岩上神社、③八釼神社(田井庄町)。④三十八神社(南六条)
南郷は ①春日神社(内馬場町) ②神明神社(川原城町) ③備前町南端、④田町、厳島神社となっている。(以上は石上大神の祭祀と信仰  白井伊佐牟著参照)

こんなことを話しながら、それから石上神宮の神剣のことを話しながら、ツアーを行う。
それにしても、さすがに軍事氏族の物部が奉じた神社である。神話に出てくる主要な刀が勢ぞろいだ。
a0237937_22164637.jpg
これが僕が考えた石上神宮の神剣の数々



このパネルで・・で、どんなふうに語るか。
いずれにしても、物部おそるべし・・かな
by koza5555 | 2016-10-12 22:03 | 桜井・山の辺 | Comments(0)

国のはじまり、大和の中の大和を歩く(天理市南部の古代と近世の歴史)10月26日(水)

10月の「大人の学校」(代表 溝口博己)の企画は天理市南部にこだわった歴史ウォークにした。
天理駅東口の集合は午前10時で長柄駅を3時すぎに解散する。

ツアーのテーマは西山古墳
a0237937_927223.jpg


はじめに丹波市。旧山添郡のダウンタウン。こちらの市座神社を拝観、そのまま西山古墳、峯塚古墳、石上神宮まで東上する。午後は内山永久寺跡、夜都岐神社、竹之内環濠集落、大和神社という行程である。いつものように「ウォーキングは早めの昼食」を心がけているから、お弁当は石上神宮である。

丹波市のとっておきのテーマは青石橋。
地元ではこの橋を「あお」と呼んでいたとのことである。もともとは古墳由来の青い石板が敷かれていたことからそう呼ばれた。
この板が市座神社に置かれている。それは見学できるのだが、説明版では青板がもう一枚、民家に残っているとのことであるが・・・先日、その場所を教えてくれた方がいた。さらに「天理大学の近江先生のお話しでは、石棺の蓋ではなく西山古墳の立石」とも。
これはすごい。市座神社と西山古墳が道として話としてつながった。

石上神宮では、神剣の数々を考える。
a0237937_9231890.jpg


夜都岐神社が格別の面白い。拝殿の藁ぶき屋根の葺き直しもすごいが春日大社との関連を考えたい。
この神社と春日大社は特別の関係がある。「蓮の御供え」という神饌を毎年春日大社に献供、春日大社からは神殿、鳥居が下げられるのが例となっていた。江戸時代までのことである。
どの本にも、また境内の掲示にも「蓮の御供え」は記されているのだが、この「蓮の御供え」とは、何かが判らない。
a0237937_9275913.jpg
葺き替えられた夜都岐神社

さらに大和神社、おくの深い「ちゃんちゃん祭り」も語ってみよう。来年の4月1日のちゃんちゃん祭り、絶対に大和神社を訪れたくなる秘話もある。
a0237937_9242731.jpg



山の辺の道(国のはじまり、大和の中の大和を歩く)
■10月26日(水)
集合 午前10時  JR(近鉄) 天理駅東口
解散 午後3時ころ JR長柄駅
■コース(歩く距離 8km程度)
JR(近鉄)天理駅東口 → 丹波市 → 西山古墳 → 昼食(石上神宮)→ 内山永久寺跡
 → 西乗鞍古墳 → 夜都伎神社 → 竹之内環濠集落 → 大和神社 → 長柄駅(解散)
■参加費 800円(学校経費、資料代など)
■持ち物:弁当・飲み物・雨具・歩きやすい履物で

■ お申込み・お問い合わせは
このブログのコメント欄(カギコメでも)か

「大人の学校」代表溝口博己さんまで
hiromi-03.30@kym.biglobe.ne.jp
090-8986-8844   FAX  0743-53-2769でお申込みください

by koza5555 | 2016-09-22 10:14 | 桜井・山の辺 | Comments(0)

丹波市の青石橋…青石は現存

天理の丹波市にすごいものが残されていた。

一つは市の跡。
a0237937_21332376.jpg


今、一つは市坐神社に置かれた「青石」
a0237937_21335956.jpg


燈籠もすごい。1830年制である。おかけ接待所と掘り込まれている。
a0237937_2134375.jpg


天理のアーケードから丹波市にむかう旧道(上街道)をすすむと布留川にさしかかる。
小さな川、小さな橋であるが、ダム放水時の警報の出し方などの掲示がしっかりとされており、上流にはダムがあることがよく判る。
a0237937_21351326.jpg


この橋のことは、伊勢街道ぶらりぶらり(林憲次さん)でも紹介されており、近くの「お婆さんに橋の名前を尋ねてみると、一人から『あお橋』という答えが返ってきた。『あお』とは『青』なのかとさらに尋ねたみたがわからなかった」とのことである。


丹波市の市座神社の境内には素晴らしい青い石板が展示されていた。掲示は長いが全文を紹介する。

青石橋の由来
 上街道の布留川南流に架せる橋にして大なる青石を以てす。故にその名を得たり、石棺の蓋である。青石はその両側に添え石をつけて縦に掛けられていたが、明治40年前後に橋がかけかえられ、不要なった青石は百メートルばかり南のこの神社境内に移された。

青石には一方の端近くに二つの穴がある。地元では「馬が踏み抜いたあとだ」などと言う言い伝えも残っているが、おそらく運搬用の綱を通すための穴だろう。
面白いのはその穴のあけ方で、一方が口径30センチもあるのに、裏側では10センチくらい、ちょうど漏斗形に穴があけられている。こうした穴のあけ方は古墳時代に石や玉によくみられるものだという。

ここより東へ700メートルに西山古墳、同じく鑵子山古墳があるが、それらの古墳から運び出されたものか数知れぬらぬは、定かではありません。

このような穴のあいた板石は、近くの民家にも残っているらしい。

通り昔、小高い墳丘の上で大和国原を見下ろしていたたであろう青石は、何百年かの後、布留川の流れの上に箸として、その身を横たえ数知れぬ人馬に奉仕した、石であります。

                                   丹波市町    



a0237937_21382895.jpg
上街道は丹波市で道幅が二倍になった場所が残っている。屋根があり川は暗渠に。ここが市で、さらに市座神社が残されている。


市座神社に200年以上前の常夜灯が残されている。
南 太神宮 西 常夜灯 北 天保元年庚寅(かのえとら)(1830年)
東 おかけ接待所
木の加減で写真が撮りにくいが、この「おかけ接待所」の写真が撮りたかったのである。


天理の歴史を語る上で上街道は欠かせない。この丹波市を13日の奈良の布陣講座で紹介、10月の大人の学校ツアーでは、訪れてしっかり語ってみよう。
by koza5555 | 2016-09-06 23:09 | 桜井・山の辺 | Comments(0)

石上神宮。神主、忌火(いんび)

石上神宮の勉強をしている。
10月のことだが、石上、大神というツアーを引き受けた。
軽めに考えていたが、募集要項を見て、あわくった。レベルが高いのである。

a0237937_23341759.jpg
石上神宮。この入口は現代にできたもの

まずは、石上神宮の元禰宜、白井伊佐牟(いさむ)さんの『石上大神の祭祀と信仰』が面白しそうである。

この本、「忌火職」から始まる。
石上神宮は長官職を神主とも忌火とも呼ばれたとされる。神主としての斎戒の要は、「忌火飯食忌慎」とされ、浄化されるため浄火、それによってかしがれる飯を食することが求められた。
「火鑽(ひきり)によって得た神聖な火にて煮炊きする」、これが忌火である。
さらに清浄を保つために「社の境内から出ない」ことが求められた。

a0237937_23353589.jpg
この境内だけの生涯かあ・・・僕にはできんなあ


これは石上にとどまらず出雲大社、三輪社、近江国三上社(祝など)などにも忌火の職号があり、他人と同火せず、常に清浄を求める生活が続けられたという。

お聞きしたところだが、石上神宮には忌火という制度は残されていないとのことではあるが。

「火鑽(ひきり)によって得た神聖な火にて煮炊き」という枠には当たらないが、神に伝えるということでは、様々な連想が成り立つ。

當屋が一年間の潔斎、祭の前夜からの儀式で絶食で神がかりに至るという美保神社(出雲)の祭とか、
百日行という厳しい潔斎を行う出羽三山の冬の峰の松聖の神への仕えかたなど・・・
今も残る長期の潔斎を経ての祭を取りおこなう神主の姿は、どの神社でも共通して行われていたと理解することができるのである。


時代は遡るが、あとは持衰(じさい)のことである。
魏志倭人伝は、航海の安全を祈る神主、持衰を紹介している。

「其の行来・渡海、中国に詣(いた)るには、恒(つね)に一人をして頭を梳(くしけず)らず、蝨(きしつ)を去らず、衣服垢汚(こうお)、肉を食さず、婦人を近づけず、喪人(そうじん)の如くせしむ。之を名づけて持衰(じさい)と為す。若し行く者吉善(きちぜん)なれば、共に其の生口(せいこう)・財物を顧(こ)し、若し疾病有り、暴害に遭へば、便(すなわち)ち之を殺さんと欲す。其の持衰謹(つつし)まずと謂(い)へばなり。

忌火は持衰か、あるいは持衰の末裔が忌火とみるのか。
でも、航海に持衰が必要ならば、王権の神祭りにも忌火は置かれていたとみるべきだろうか

a0237937_23371766.jpg
最後も石上神宮・本殿も拝殿も

by koza5555 | 2016-08-04 00:27 | 桜井・山の辺 | Comments(0)

三輪神道と僧形神像

神仏分離により三輪の大御輪寺から十一面観音が聖林寺に、地蔵菩薩が法隆寺に移されたとなにげに話してきていたが・・・

岡直己は「この地蔵菩薩は僧形神像」(神像彫刻の研究 角川書店)と断じているのである。
ビックリである。

a0237937_1832910.jpg
平等寺に向かう版築の土塀が続く道

中世の三輪流神道は殷賑(いんしん)を究めた。
三輪流神道は、鎌倉の初期、慶円(きょうえん)によって開かれた。
三輪の神の霊威を受けて三輪別所を開く。これが平等寺の前身である。

卜部兼邦によれば、神道四流有りとして、それは「聖徳太子、吉田卜部、弘法大師、三輪慶円聖人」とされている。

三輪明神と慶円は互為灌頂(こうごかんじょう)を取り交わしたとされ、これが「三輪流最極の大事」とのことである。
慶円は三輪明神に秘法の印明が伝授され、三輪明神からは慶円に神道灌頂の秘儀が施されたという。
神と教祖がとり替わす互いの勧請は、神仏習合の極致とされる。

a0237937_18105412.jpg

このころの、中世の大神神社の古絵図(室町時代)を見てもらいたい。
平等寺(右上の赤線のまる)の扱いがとても大きい。大御輪寺(左下の赤線のまる)も扱いが大きい。
三輪山を象徴的には描かず、里の寺院を霊場とする信仰形式に重点が移っている。


神が人間と同じように苦悩し、仏法により解脱したい、そのために神宮寺が作られた。
その具体的な姿として平安初期から僧形の神像が作られるようになった。
三輪の神宮寺は、僧形神像の作例のもっとも多いところとされる。

神仏分離に際して法隆寺に移された伝地蔵菩薩像はその一つである。

a0237937_18121784.jpg
法隆寺の地蔵菩薩像

写実的に作られていること、これが三輪神の具現である。大御輪寺に於いて浄三が祀ったとされる十一面観音と並んでこの神像が建てられた。
十一面観音の隣におられたのは、(いま、地蔵菩薩といわれる)三輪明神の僧形神像だったのである。
これは納得できた。十一面観音の隣になぜ、地蔵菩薩かは疑問だった。
だから客仏といっても、それは三輪明神だったので、法隆寺は置き場所に困ったのであろう。

多度山の僧形神像が一番古い記録(皇大神宮儀式帳)で804年という。
神仏融合が進むにつれ、神社に仏像をおき、神宮寺が成立し、神の出家、神の菩薩号、神形の造立、僧形神像と連なる。

三輪山を神体として拝まれていた、この神を僧の形にして拝したのである。

橘寺の伝日羅像、
融念寺(斑鳩町の神南)の伝地蔵像、
当麻寺の伝妙幢像などはいずれも三輪明神の僧形神像と推定されている。。
三輪明神をあらわした神像は僧形立像のため、外へ流出すると本来の信仰がうしなわれてしまい、それぞれの像名が付与された。
作像は平安時代のことである。

a0237937_18133261.jpg

神像彫刻の研究、この本は桜井図書館には、「樋口清之文庫」として特別に収蔵されている。禁帯出である。ネットで見ると1万8千円で出ている。
何でも先学があるものである。


大御輪寺
a0237937_18141764.jpg

by koza5555 | 2016-06-16 00:24 | 桜井・山の辺 | Comments(0)

三輪神は軍神

「大神と石上」(筑摩書房)、和田萃と寺沢薫両先生の論文から考えた。

和田萃さんは冒頭で三輪の神の性格の変遷を説く。

①三輪山に籠りいます神は、蛇体の雷神・水神とされていた。それが神体山である三輪山を仰ぐヤマトの範囲の国造り神・守護神となり

②さらには大和・河内連合王権が各地に進出していった際、各地に勧請されたらしい。
それが各地に、大神神社、美和神社、三輪神社や、大神郷、美和郷が広く分布する背景となったのだろう。

③六世紀前半になって、三輪山祭祀は大きく変化する。
王権の守護神的色彩の濃かった三輪山の神が一転して祟り神(オオモノヌシ)にと変化し、国ツ神の代表的な存在となった。オオタタネコを祖と仰ぐ神君(みわのきみ)によって祀られることになった。

以上の三段階が、三輪山祭祀の歴史として紹介される。
この第二段階、②のことであるが、王権の拡大に伴い、三輪神が各地に勧請されていく時期である。
この時期の「三輪山の神が軍神としての神格をも有していたことは、筑紫の大三輪神社の創祀の由来にも明らかである。」との指摘である。

a0237937_1748919.jpg
三輪明神

本からここで少し外れるが、先日、「箸中区」でこの勉強をしてきた。
桜井市にお住いの松田度さんがコーデネーター?で、箸中区の杉本ご夫妻(ご主人は箸中区長)の肝いりの勉強会である。

今回は、大神神社の山田浩之主任研究員(権禰宜)が「三輪の神」を語られた。
a0237937_17491777.jpg
箸中の慶運寺のご本堂。講演する太田浩之大神神社権禰宜


「大和を中心に東西に三輪神が祀られるが、東国では和田説の説くように軍神としての性格が個々に確認できるが、西国でも同様の性格が担わされた」とされる。

「時に軍卒集い難し。皇后曰わく、必ず神の心ならむとのりたまひて、即ち大三輪社を建てて、刀矛を奉りたまふ。軍集自づから聚る」(仲衷天皇9年9月・皇后は神功皇后)
さらに備中国風土記、筑前国風土記などの紹介もしつつ、三輪の神が軍神の役割を果たしたことを論じられた。

こうした三輪の神の性格は、石上神宮などとは違い、今の大神神社に見出すことは難しい。歴史的にこんな役割を果たしたというだけのことだが、これは目からウロコだった。

a0237937_17501722.jpg
全国の三輪神社、三輪(美和)の郷 椙山妙子氏作図


ところでこうした、三輪の神の性格の変遷が、考古学的にも裏付けられるというのが、「大神と石上」の寺沢薫論文である。

考古学的に言えば、
考古学的に、三輪山祭祀はいつまでさかのぼりうるだろうか。確実な資料から判断すると、山ノ神遺跡や奥垣内遺跡のように磐座という神の拠り所を設け・・・5世紀の後半には明確に三輪山祭祀が始まっていた。先行遺跡の検討のなかで・・・四世紀中ごろにさかのぼる可能性がある。として、三輪全域で祀られたと証明がある。
①これが三輪の神が雷と言われる時期である。自然な祭である。

大和朝廷と一体の動きをとり、軍神的な役割を果たすようになると、それは6世紀初頭だが、三輪の祭祀は狭井川と大宮川の間、現在の大神神社の境内に移ったとされる。
神社というか、境内の成立である。
祟り神になり、その傾向を一層つよめたとされるのである。

祭祀場所が限られていく(同じ場所で何度も祀る)ことと、政権との一体化を強めた時期とが一致するのが、とても興味深い。
アミニズムの祭祀と政権が関わる専門的な祭祀、そんな風にはみれないだろうか。、


a0237937_17512784.jpg
6月4日の日の出

by koza5555 | 2016-06-04 18:36 | 桜井・山の辺 | Comments(0)

石上神宮の禁足地

和田萃先生の編で「大神(おおみわ)と石上(いそのかみ)」という本がある。「神体山と禁足地」がテーマである。

石上神宮を考えてみた。
a0237937_14424964.jpg
拝殿・国宝に指定されている

 ご祭神は武甕槌(たけみかづち)神が出雲遠征で帯びていた神剣である。神武天皇東征の折、武甕槌神が熊野の高倉下命に降して邪神の毒気にあった神武天皇を蘇らせた霊剣でもある。これを崇神天皇七年に宮中より現地、石上布留高庭に移し、土中深く鎮め石上大神と称え祀ったのが当宮の創めと伝えられ、以後代々、物部氏が祭祀をした。
この布留高庭が「禁足地」とされている。

明治7年、宮司の管正友がここを発掘した。
社伝の通り神剣が埋められているか。発見できれば正殿に祀ろう。
そして盗掘対策である。放置して盗掘に任せていいのか。被害は出ているのである。
発掘は成功で神剣は出たのである。


天理参考館に勤務されていた置田雅昭さんが、「禁足地の成立」でここらあたりの事情を書かれている。

発掘の状況である。
30センチ掘ると瓦が敷き詰めてあった。これを取り除いて下を掘ると石囲いがあった。
地表下90センチの所に剣、勾玉、管玉などを発見した。

側壁は「一尺或いは尺余の石を積み重ね」とあるから、二段以上積んだ石室のようなものだろう。石室の壁が板石を積んだものか、円礫であったのかはわからない。所伝はないが、発掘地の標柱が石室材の転用とすれば、花崗岩の円礫である。

石室の構造、遺物の構成などが、古墳時代の竪穴式石室、横穴式石室と共通する部分がある。花崗岩を用いた竪穴系の特異な構造を推測させる。
この古墳は出土品からみて 古墳時代中期前半である。


a0237937_14443012.jpg
布留社と示された禁足地瑞垣


境内の造成にも触れている。

境内は斜面に造成された一辺が120メートルの方形平坦地にある。北から見ると10メートルの段があり、この段を取り巻くようにいくつかのため池、空き地が残されている。ため池はもともと濠のように段をコの字に巡っていた名残の用である。すなわち段もまた人工的に造成したことがわかる。  と置田さんは言われるのである。

a0237937_14461183.jpg
境内図

a0237937_14473366.jpg
これは神社東側の周濠だったかもとされるため池

境内や東側ため池からは古墳時代中期後半の土器(土師器)が発掘されている。神宮の境内で古墳中期後半の祭りが行われたことを示唆する出土品である。

一辺120メートルの方形古墳が、石室、墳丘も合わせて、神宮に転用されていったという論であろうか。

a0237937_14493947.jpg
境内を闊歩するニワトリ


a0237937_15105676.jpg
大神と石上(筑摩書房)


7月1日に、桜井カルチャーで、「山の辺の道」を講演。これはとっておきの話題だろう。
by koza5555 | 2016-06-01 16:23 | 桜井・山の辺 | Comments(0)

ムジークフェストなら 大神神社

6月20日(月)は大神神社の大礼記念館で、石琴(サヌカイト)の音色が奏でられる。
臼杵美智代さんの演奏である。 木琴(マリンバ)の土屋さん、声楽の庵前さんという地元桜井で活動する音楽家との共演も見られるようで、とても楽しみである。

a0237937_23252293.jpg
大神神社の拝殿と祈祷殿の「しるしの杉玉」は毎年11月13日に掛け替え

このコンサートの前に、コンサートのお客様に大神神社を案内することになった。
桜井駅から大神神社に専用のバスが運行される。このバスで来られる参加者を案内するのだ。
演奏を聞きに来ても、神社を拝観しないまま、見学もされないまま帰られるのはいかにも惜しい・・・
そんなことから始まったが、・・・コンサートに来たお客さんを坐らせて「大神神社とは・・三輪山とは・・そもそも神とは・・」と話して、これで聞いていただけるだろうか・・である。

神とは山の中や海のかなたに住み、姿かたちを持たず、定期、あるいは不定期に人里を訪れる、
これが日本の神の姿で、あるいは祭りの姿ともいえる。樹木、岩、鏡、刀、人などを神は依代とするのである。
その後、祭りの場には建物が建てられ、これが神社、本殿とされていくのである。

「建物が建てられ神社・本殿が誕生」・・大神神社はここが違うのである。
「古来宝倉なく、唯三箇鳥居あるのみ」、これが大神神社。

大神神社は三輪山山中の磐座(奥津・中津・辺津の磐座)を神の依代として、神の山を拝む古来の信仰形態を今日も継承している。三ツ鳥居を通して神と対面するのである。

a0237937_23262273.jpg
三ツ鳥居。こちらは檜原神社だけど、

それで、この三ツ鳥居を拝見していただくというのはどうだろうか。
神のお姿、神社のあり方を解説しながら、「三ツ鳥居の拝見が大神神社が丸わかり、早わかり」である。

これならコンサートを聞きに来た方の心と共鳴できると考えた。
解説が簡単に組み立てられる。「神の在り方から三ツ鳥居に至る話」、韓明に話せそうだが、これは大神神社の本質にかかわる話となる。

ムジークフェストを担当する大神神社の神職にお願いした。
「三ツ鳥居は大神神社のポイント、この企画、拝観の便宜を図りたい」と大いに乗り気である。

記紀に記されたヒメタタライスズヒメに関わるササユリの話、
この地でお酒を造った高橋活日(いくひ)のお話しなどもしつつ、「三ツ鳥居」でガツンと勝負をかけてみる。

こんな組立で、ツアーとかのガイドを引き受けて良いかとも思うが、基本は神社と僕が用意するパンフに示されているから問題はない。
a0237937_23273275.jpg
大神神社の〆柱と拝殿


ところでムジークフェスト大神神社、まだ席が残っている。
申し込みは       こちらの ムジークフェスト大神神社
 
桜井駅発の臨時バスもあります。三ツ鳥居拝観ガイドつきのコンサート、ぜひお越しください。
by koza5555 | 2016-05-27 23:42 | 桜井・山の辺 | Comments(0)