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奈良・桜井の歴史と社会

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三輪山

奈良交通の「大和路万葉の旅、初瀬・桜井コース」は6月15日(土)である。
このツアー、バスが向かうのは三輪山である。

1350年ほど前、額田王は遠ざかる三輪山を振り返りつつ、
三輪山を しかも隠すか 雲だにも 心あらなも隠そうべしや(巻1-18)と歌ったが、僕らは向かうのである。
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雲は・・・今朝の三輪山である。

歌の背景を語ってみる。
中大兄皇子の近江遷都の決断、その意義ははじめに語る。

情景としては、「名残りがおしい。姿が見たい」ということだろうが、三輪山に対する大和朝廷の特別な思いを考えると、歌の力が百倍になる。

三輪山、この山を大物主命(おおものぬしのみこと)と同一視した歌と僕は見たいのである。大神神社のご祭神で三輪山と密接な関係がある大物主命は大国主神の和魂(にきみたま)といわれる。実態と魂だから、これは同体ということではなかろうか。大物主は稲作豊穣、疫病除け、酒造り(醸造)などの神として、現在も篤い信仰を集めている。

古事記によれば、大和朝廷は倭の国を大国主命から譲り受けた。だから、大国主命、大物主命はもともと大和朝廷を守護する立場であるから額田王の歌は、「この大物主への別れの歌なんだ」と語ろうと考えている。

天神地祇というが、大和朝廷は天つ神、国つ神によって守られているのである。

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夕刻の三輪山

額田王の歌はそういう歌である。
振り返る。歌を歌う。

額田王の歌に続き、万葉集は井戸王(いとのおほきみ)の歌につないでいる。

綜麻形(へそがた)の 林の岬(さき)の さ野榛(のはり)の 衣に付くなす 目につく我が夫(せ)巻1―19
「はんの木で衣を染めあげたような、黒褐色の衣のような中大兄皇子は立派に見える」という歌であるが、綜麻(へそ)は、つむいだ麻糸を巻きつけたもので、三輪山を表すもので、ともに三輪山をたたえる歌とみることができる。

そんなことを語りながら、いわば、三輪山をめぐる万葉ツアーを盛り上げていきたい。

実はこの桜井万葉ツアー、8日は催行が取りやめで、15日(土)の一回限りとなってしまいました。桜井、万葉の故地を訪れる桜井万葉ツアー、ぜひとも、ご参加をお願いします。
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振り返ってみたら、生駒山、真っ赤な夕陽と黒い山のシルエットで、夕日の美しさに足を止めた。
by koza5555 | 2013-05-31 22:44 | 桜井・山の辺 | Comments(0)

オレンジリボン運動

安倍小学校と民生・児童委員の懇談が開かれた。
校区の民生・児童委員は10名いる。そのうち主任児童委員は2名である。
地域の民生・児童委員は独居老人、福祉世帯の支援に仕事が流れがちであるが、児童の健やかな成長、安全な学校内外の生活の支援も大きな課題として求められている。
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民生委員として、登校時の立哨のお手伝いなども行う
ほかにも数多くの学校行事に手分けして参加する。学校との懇談も時間をかけて行っている。

安倍小学校の校長先生は安倍の育ちで安倍小学校の卒業生である。その後も安倍小に教師として勤務し、いまは校長先生である。
「生粋の安倍育ち」とあいさつされると、「僕は昭和20年に安倍国民学校に入学した」という方や、「50年前に卒業した」という方もいたりして、懇談は昔話もてんこ盛りである。
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それはそれとして、学校からの提起に従って話し合った。
学校からの報告の詳細は差し控えるが、校区内で児童が重傷を負うという大きな交通事故があったことから、通学路の安全、下校後の交通安全対策、児童への教育に多くの時間がさかれた。


主任児童委員から桜井市の児童虐待についての報告があり、細やかな支援をしていくことも議題になった。
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児童虐待防止、僕も努力するが、とりあえず「オレンジリボン運動」には参加しようと思う。
「オレンジリボン運動」は、子ども虐待防止のシンボルマークとしてオレンジリボンを広めることで、子ども虐待をなくすことを呼びかける市民運動である。

バッチをつけて生活するのはいつのこと以来だろう。
by koza5555 | 2013-05-30 21:42 | 民生・児童委員・町内会 | Comments(4)

豊臣秀長

長谷寺に行ってきた。
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本堂舞台から五重塔。新緑

長谷寺戦国武将の供養塔がある。長谷寺には多くの供養塔が建てられているが、時の施政者、戦国武将の供養塔はこれ一基しか僕は知らない。

それは豊臣秀長の供養塔である。
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奥の院、歴代能化(住職)墓所の五輪塔の中に紛れて立つ。

「この浄域には、真言宗豊山派の派祖と仰がれる専誉僧正を初代として、長谷寺歴代の能化(住職)の墓が奉安されています。
専誉僧正は、もと根来寺(和歌山県)の能化として真言宗の多くの僧侶を指導しておりましたが、根来寺が豊臣秀吉の焼き討ちによって焼失したのち、大和の国の領主、豊臣秀長公の招きで、天正16年(1588年)に長谷寺に入山されたのです。
その時から長谷寺は、根来寺の法灯を受け継ぐ真言宗の寺となりました
専誉僧正は、長谷寺を奈良時代以来の観音霊場として復興するとともに、全国から登嶺する僧侶達の指導に尽力され、真言宗の一大修学道場としました。
僧正に続く歴代の能化もまた、その伝統を受け継いで今日に至っております。・・略・・
平成15年4月吉日  総本山長谷寺」
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奥の院から能化墓地をのぞむ

ツアーでは「長谷寺の歴史を彩るビッグネーム」という形で、僕は長谷寺の歴史を語る。
一人目は長谷寺を創建したという僧、道明である。法華説相図の解明から天武朝のころ686年に本長谷寺と呼ばれている西の丘に三重塔を建立したという。
二人目は十一面観音を作った徳道上人。727年に徳道上人が東の丘に十一面観音像を祀って開山したそう。
三人目は今の長谷寺の形を作り上げた専誉僧正である。秀吉に滅ばされた根来寺の頭職だったが、豊臣秀長が初瀬に招いて300石の寺領を与えた。1587年のことである。長谷寺はその時に興福寺から離脱し、真言宗豊山派を唱えることなった。
徳川幕府もこれを庇護し、三代家光が観音堂、4代家綱が大講堂、5代綱吉は500石に加増したという。
江戸時代を通して隆盛を重ねる。

このことを評して、初瀬に育って地元でよく知られているFさんは、「雑賀さん、豊臣も徳川も長谷寺を庇護したのはなぜだがわかりますか。それは東国経営なんですよ。東国に真言宗の僧侶を送ることが目的だった。だから長谷寺末寺3000といってもそのほとんどはいまも東国です」と言い切られている。それを証する手立ては僕にはないが、僕の知る豊山派の僧侶はすべて東国で出身である(法起院さんを除く)。
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月29日、本坊前から本堂をのぞむ
by koza5555 | 2013-05-29 21:49 | 桜井・初瀬 | Comments(0)

安らぎと祈りの郷、室生

室生寺の境内の「室生山暖地性シダ群落」は天然記念物に指定されている。昭和3年の指定である。
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室生寺、奥の院にかけての無明谷あたりに「暖地性シダ群落」があり、イワヤシダ、イヨクジャクなど暖地性のシダが群生して、これが分布の北限にあたるとある。
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図鑑と首っ引きで探したが、これがイワヤシダとおもわれる。

7月には室生をテーマに講演を行う。真言宗室生寺派の網代新管長が「心安らぐ場としての室生寺」を語られているが、その言葉をお借りして、「安らぎと祈りの郷、室生」という演題でお話をする。

まずは室生と室生寺の地形である。

室生は近畿地方ではまれな典型的な火山地形を示している。
東方に「屏風岩、鎧岳があり、西方は桜井との境となる音羽三山、北方は額井岳など南北15キロ、東西30キロの外輪山に囲まれているという。この論によれば、室生と室生寺がその中心の火口地帯とみられるとのことである。

地形の問題としてみていただきたいが、龍穴神社の吉祥龍穴をはじめとして、室生で話題となる9穴8海もいかにも火山地形というべきもので、ベロニーテ(岩塔)や溶岩ドーム状の地形は各所に見られるのである。

さらに室生の特徴的な植生を見てみよう。
向淵のスズラン自生地は第一のテーマである。「スズランの自生地の南限地として、著しい植物分布の限界地」という指定基準に当てはめられ、昭和5年に指定された。

冒頭の室生暖地性シダ群落は第二のテーマである。暖地性シダの北限である。「室生は奈良県でも特異な地形の関係でほかの土地に雪が降っても、室生の谷あいに降るとは限らない」と雪を待つ土門拳が嘆いたような特殊な暖地であるようである。

室生とは異なるが、広い意味では室生火山群の内部にあるとみられる大宇陀のカザグルマのことも話題にできるだろう。これは自生地の北限として天然記念物に指定されている。暖かい方の例証だろう。

室生は秘境でいくつもの顔がある。
火山地形が残っていること。
向淵(むこうじ)にはすずらんが南限群落地であり、寒いということ。
室生寺のシダやカザグルマは北限で暖かいということ。
「寒いけど暖かい」と言われても、両立のしようもない話だが、室生は植生でそれがありうることを示している。

シダの無明谷を抜けて上がりきると奥ノ院。本瓦風の杮葺きである。
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by koza5555 | 2013-05-28 23:30 | 宇陀 | Comments(0)

本瓦葺きと桟瓦葺き

5か月も先のことだが、宇陀市松山で「ガイドの研修」みたいな「街並みを歩く」ツアーを案内する。

この準備をする中で、松山のボランティアガイドの方とお友達になった。「松山をガイドします。地元の方を差し置いて申し訳ないけど」と、言いながらもちゃっかりと「屋根にこだわって話したい、阿紀神社とか町屋の瓦とか」と売り込んだ。すると、思いもかけないことに「そういうツアーなら私も参加したい」という、ありがたいお言葉である。
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わが家のご近所のN本家の屋根瓦である。母屋ではなく納屋かとは思うが、左が本瓦葺(ほんがわらふき)、右側へは桟瓦葺(さんがわらふき)である。

さて、宇陀市松山の屋根瓦のことだが、富裕な商家が数ある中で、屋根瓦は桟瓦葺(さんがわらふき)である。本瓦葺をほとんど見かけない。

瓦のことである。崇峻元年(588年)、法興寺(飛鳥寺のこと)の創建に伴い、百済から僧と寺院建築工、路盤の博士とあわせて瓦の博士が送られてきたことから我が国の瓦が始まった。
僧と宮大工と路盤の博士(仏塔の相輪を作る鋳造技術者)と並んで、瓦の博士がいないと寺院ができないというくらい重要な位置にあったようである(日本書紀崇峻天皇紀)。

瓦は丸瓦、平瓦が焼かれ、そして本瓦葺だったとことは間違いない。その姿は奈良の元興寺に見ることができるのではなかろうか。
長い間、重々しい本瓦葺だけだった。細い柱の民家にはとても使えず、民家はずっと、こけら葺きか萱葺きである。

桟瓦は江戸時代の初期に近江の瓦職人が発明したといわれている。1674年、三井寺の玄関に最初に用いられたとのことで、その軽さ、機能性、経済性から急速に普及したと見られる。とにかく耐火性が全く違う。茅葺では小さな火の粉が飛んできても火はつき、延焼、類焼は瞬く間である。

それはそれとして、宇陀松山の商家が桟瓦葺に限られている理由はなんだろう。
桟瓦ではあるが、軒瓦、棟瓦、鬼瓦などの屋根瓦の重厚な装飾を見ると、経済性だけでは説明できないようにも思われる。
武家、商家などで制限がなかったか、そんなことも知りたいものである。
桟瓦葺ではあるが、屋根瓦には贅を尽くしたものも商家も多い。
まず軒瓦(のきがわら)である。
隣の瓦との突合せの合端(あいば)は万十軒瓦が一般的だが、さまざまな文様を焼きこんだものもある。
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これは格別だが森野薬草園
軒瓦には鎌軒瓦、一文字軒瓦などあり、松山は屋根を見ているだけでも楽しい。

さらに棟瓦(むねがわら)。これもすごいものがある。たとえば七つの格子で有名な旧郡司家の棟込み瓦。これは何紋といいますか?
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昨年の古事記ツアーでは、松山、座敷玄関を見て歩いたが、今度は瓦の見て歩きかも?である。
by koza5555 | 2013-05-27 16:05 | 宇陀 | Comments(0)

阿紀神社の社殿

奈良まほろばソムリエの体験学習プログラムで大宇陀を紹介する。

重要伝統的建造物群宇陀市松山の紹介となると、町家の紹介が欠かせない。これは準備があるから、きちんと話せば大丈夫だ。
あとは、屋根が問題なる。瓦葺のことである。いまは、こんな勉強をしているが、阿紀神社の屋根も気になる。

今度の体験プログラム、社殿のあり方も触れながら神社の歴史にも迫りたい。
昨年の12月、「古事記で宇陀をたどる」ツアーを案内した。このツアーは津山さんと二人で分担してあたったが、阿紀神社は津山さんにお願いした。彼は阿紀神社の解説を縁起と本殿の建築様式を軸に行った。
これは分かりやすいと好評だった。

今回も津山さんの解説方法を学んで、活用することにした。

阿紀神社の社殿は、伊勢神宮に準ずるもので、「唯一神明造」のつくりである。
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阿紀神社の社殿
屋根を見ると長く突き出たはハブ板が左右に交わり、、その先端が千木である。
さらに棟の上に甲板(コウイタ)をつけ、その上にカツオ木が並べられている。

雄略天皇時代にも堅魚木を乗せた家があったとされて、この建築様式はとても古いものである。「山の上に登りて国の内を望(みさけ)けたまへば、堅魚を上げて舎屋(や)作れる家ありき。・・・・奴や、己が家を天皇の御舎(みあらか)に似せて造れり、とのりたまひて・・」とある。

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画にするとこうなる

それどころか・・佐味田宝塚古墳(さみたたからづかこふん)から出た、家屋紋もすごい。
河合町に所在し、古墳時代前期、5世紀初めころの古墳である。
この古墳からは1882年(明治14年)に大量の銅鏡が出て、その中に家屋文鏡(かおくもんきょう)と呼ばれている直径23、9センチの大型鏡があった
この絵である。ハブ板、千木がある。
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家屋紋の入った鏡。

桜井市纒向遺跡で発見された、3世紀前半の建物跡はもっとすごい。地下の柱跡の検証だからか千木などは確かめようがないが、神明作りの特徴である、外から梁(はり)を 支える「棟持ち柱」が発見されているのである。
1800年を経て、同じ形の建物が社殿として使われているのだ。

平入り(妻入りではない。横から入る形ではない)である。
阿紀神社の千木は内そぎ(頂点が地面と平行になるように切られている)で祭神が女性であることを示す。鰹木も偶数でこれも女性型である。

千木の内そぎは女性型、外そぎ(先端地面に直角)は男性神で、鰹木も偶数なら女性神、奇数なら男性神である。

ただし例外もいろいろ多く、たとえば伊勢神宮は内・外宮とも女性神であるが、内宮を陰として、千木と鰹木を女性型に整え、外宮は千木と鰹木を男性型に整えている。
by koza5555 | 2013-05-26 22:30 | 宇陀 | Comments(0)

宇陀と北畠親房、新陽明院門墓

室生寺を訪れると本堂の西側に「伝北畠親房墓」という五輪の塔が置かれている。
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伝北畠親房の墓。(室町時代初期・国重文)

「本堂の手前西には、鎌倉時代末期の五輪塔(国重文)がある。『神皇正統記』(じんのうしょうとうき)の著者として知られる北畠親房の墓と伝えられ、大正時代(5年、1916年)に発掘調査が行われたが、墓の主は特定できなかった」(奈良県の歴史散歩下、山川出版社)。

北畠親房の墓・・・僕はこれに懐疑的である。
理由は簡単で、この五輪塔を北畠親房の墓と主張した北畠治房が好きではないからである。天誅組の生き残りの平岡鳩平、明治になってからの改名で北畠治房男爵のことである。
いわば、感情的な判断でもうしわけないが、「北畠親房の墓?」という質問を受けたことがあったが、軽くスルーしてきた。

その後も、宇陀郡一帯が北畠親房の領地とされたことがあると知ったり、福西(八咫烏神社の西である)にその墓地があるといわれていることも聞いたりする。どうも、北畠親房は避けて通れないテーマになってきた。

「北畠親房」(永峰清成著)という本があった。大和宇陀北畠親房公顕彰会が復刊した本である。この本を読んでみた。
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吉野山に行けば南朝の史跡は多い。ソムリエ試験の勉強としても必須で賀名生(あのう)皇居跡、吉野神宮、吉水神社、如意輪寺が大事だし、自天親王神社も訪れたことがる。
でも、畿内や伊勢とからめて歴史としてここらあたりが頭の中で十分、整理されていない。
良い勉強になった。

一つだけ書いておきたい。
桜井から東方を見ると、外鎌山(忍阪山)の先に大きく目立つ山が見える。少し見る場所を変えると長谷寺の南の山である。
山の名は「ダケ」という。固有名?と思って、地元の方に聞いてみたら、「笠間のダケ」、「安田のダケ」、「穴師のダケ」とのことで、ダケ登りの山だが、それぞれが登る場所に応じて、村の名をつけているだけだ。
この笠間のダケに上ったことがある。陵の横から上がっていく。
上がった当時は知らなかったが、この陵が「新陽明門院陵」である。
南朝、後醍醐天皇を継いだ後村上天皇(97代)の中宮顕子の陵とのことである。
この顕子は北畠親房の娘で、若くして天皇の元を去り長谷寺で出家、この地で亡くなったとのことである。
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この陵からは稲那佐山、そして福西が見渡される。著者の永峰さんはこの地に立って、その位置関係から福西の親房、笠間の顕子の墓所の所在の確信を得るのである。
ちなみに新陽明院門から笠間のダケを越えると、顕子が出家したという長谷寺である。
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by koza5555 | 2013-05-25 11:22 | 読書 | Comments(2)

室生と言ったら土門拳。土門拳なら橋本屋

ことしは室生を何度も案内した。室生と言ったら土門拳。土門拳なら橋本屋である。
橋本屋の女将は奥本初代さん。土門拳との交流で橋本屋の名を全国に知らしめた。

土門拳はこの奥本さんとの交流を記している。

土門拳は室生寺の荒木良仙住職に「全山白鎧々(がいがい)たる室生寺が第一等である」と聞き、40年にわたり雪の室生寺を狙うが果たせなかった。昭和53年は2月から奈良県下で雪を待ちに待ち、とうとう雪の室生寺を撮ることに成功した。
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これは今年の雪の室生寺である

それは3月12日のことで、土門拳は「女将の初代さんが部屋に飛び込んできた。『先生、雪が…、早く起きてください』と僕の手を引っ張った。『降りましたか』と互いに手を取り合ってうれし泣きした。ぼくの待っていた雪はさあーと一刷毛、刷いたような春の雪だった。・・どんなに淡く薄くとも ぼくは雪を、室生寺の雪を撮ったのだ」と触れ、
「待ちこがる雪降りきたり思わずと 手を握り合う水取りの朝・・・これは撮影を終えて、帰ってきた僕に、女将の初代さんがはなむけに作ってくれた和歌である」と土門拳は記した。

この初代さんが亡くなった。25日、都祁で葬儀が執り行われたが、導師の室生寺の網代管長は、「故人は土門拳との交流で橋本屋を全国にその名を知らしめ、その人柄で室生寺の参詣者と深い交流を果たされた」と、紹介し、それを労わられた。
by koza5555 | 2013-05-24 23:44 | 宇陀 | Comments(0)

大和路 万葉の旅は6月8日(土)と15日(土)

奈良まほろばソムリエの会と奈良交通で練り上げた、大和路万葉の旅、初瀬・桜井コースは6月8日(土)と15日(土)である。

このコースのテーマ、軸は二つである。
一つは桜井が万葉発祥の地ということ。
いま一つは、「女性が輝き、力を示した万葉の時代」ということである。

今度のツアーは檜原神社(井寺池)、大神神社、海石榴市、忍阪と万葉集の発祥の地である。
万葉集は4000首あまりの歌がおさめられているが、その第一番の歌は桜井の初瀬谷、泊瀬朝倉に宮を置いたという雄略天皇によるものである。
「籠もよ み籠もち ふくしもよ みぶくしもち」である。
この歌を軽快に解説しよう。
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泊瀬朝倉宮跡、発掘現場見学会

雄略天皇の歌は、伝承の歌とみられており、実質的な第一番は舒明天皇の
「大和には 群山あれど とりよろふ 天の香具山登りたち・・・」であろう。
この舒明天皇の陵が忍阪に鎮まっているのである。僕はこの陵の前で、この歌を力をこめて歌わせていただく。
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忍坂舒明天皇陵


万葉集には大きな女性の感性と力が込められている。僕に言わせれば、「女性が輝き、力を示した万葉集」ということである。

万葉集の発祥を論じたが、歌の古さという点では、仁徳天皇(16代,400年)の磐之媛皇后の歌も忘れてはいけない。天皇がほかの后を求めることに激しく抵抗し、深い愛情を示した歌が4首、収録されている。
巻2の冒頭にこの歌は配置されており、そして「君が往き け長くなりぬ山たづね 迎えかゆかん、待ちにかまたん」が忍阪にかかわりのある歌なのである。

この大和路・万葉の旅のツアー、桜井コースは犬養孝先生の「万葉の旅」を土台にして、現地を訪れて、「万葉集の発祥」と「女性が輝き、力を示した万葉の時代」を直接感ずるツアーにしようと準備をすすめている。

サプライズとして大神神社、ササ百合園が見ごろを迎えることである。
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こんな百合の花を見ながら、

「道の辺の草深百合の花咲(えみ)に 咲(え)まししからに 妻といふべしや」(巻7-1257)歌ってみよう。

8日まで、もう二週間しかありませんが、ご日程やりくりできませんか?お待ちしております。

申し込みは奈良交通まで、お願いいたします。
by koza5555 | 2013-05-23 23:32 | 万葉の旅 | Comments(0)

大宇陀のカザグルマ とかぎろひの丘の四阿

10月20日(日)に大宇陀、松山のウォーキングを案内する。奈良まほろばソムリエ検定の体験学習プログラムの大宇陀・阿騎野コースである。
担当するソムリエの会のメンバーも含めて、すでに下見を終えているが、ここで一つの問題が生まれた。

「雨だったら昼食はどうする?」である。昼食は今阪屋さんの「薬膳風お弁当」を予定している。もし雨だと濡れて歩いて、弁当を濡れて食べる、そんなわけにはいかない。
「雨の場合は暖かいところで弁当を」との指示もあり、近くの公共施設を抑えようとしたが、10月20日はすでに使用することが決まっていて借りられない。
そこで「かぎろひ公園の四阿(あずまや)で」ということとなり、この具合を見に行ってきた。
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かぎろひの丘の四阿
何度もかぎろひの丘は行っている。問題意識がないとボヤッと見ているんだなと反省しきりである。年末のかぎろひを見る会でもこの施設は確かに使われていた。
四阿は立派なもので、30人、40人くらいだったらお弁当が食べられることは分かった。
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四阿の内部の様子

せっかく大宇陀に行ったのだから、時期が遅いとは思ったがカザグルマ自生地にも寄ってみた。
案の定、どう見渡しても花は見えない。

連休明けから、カザグルマを大宇陀の街中でいろいろと拝見してきたのだら、こんなものかとあきらめて帰ろうと眺めているとご婦人が通りかかった。

地元の方と見て、「カザグルマは今年、咲きましたか」と聞くと、「ええ、たくさん。いまでもあそこらあたりに。盛りは過ぎましたが」とおっしゃる。が、どうしても見えない。「来年の楽しみにします」と離れようとすると、「時間がありますか。今の仕事が片付いたら見ていただいてもいいですよ」とのことである。
カザグルマ自生地の所有者の方だったのだ。しばらく待った。そして案内をいただいた。少し違う角度から見せていただいた。天然記念物のカザグルマである。感激である。
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ありがとうございました。
元大宇陀町の町の花で、マンホールの蓋にカザグルマが描かれている。
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カザグルマはキンポウゲ科の蔓性植物で、自生地の北限として昭和23年に旧大宇陀町で天然記念物に指定されている。
薄紫色で八弁の大型の花を咲かせる。時間がたつにつれて白色に変化していく。
中国のテッセン(六弁)などと交配を重ねクレマチスの原種としても知られている。
by koza5555 | 2013-05-22 17:50 | 宇陀 | Comments(0)