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奈良・桜井の歴史と社会

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大神神社、摂社綱越神社の例祭。おんばら祭り

7月31日は大神神社摂社、祓戸社である綱越(つなこし)神社の例祭、おんぱらさん(御祓い祭)である。

大神神社、大鳥居の南側の綱越神社では、31日、午前10時から祭祀が行われる。
神事のあと、神楽、そして「神馬曳き」と「茅の輪くぐり」が行われる。
「水無月(みなづき)の夏越(なごし)の祓(はらえ)する人は
千歳(ちとせ)の命 延(の)ぶといふなり」(拾遺和歌集)の古歌を唱えながら茅の輪くぐ理である。
半年の間に身に付けた罪・穢れを祓い清める神事である。


さて、安倍あたりまで来ると(2キロメートルあまり)、「おんぱらさんはもっぱら花火」である。
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これは、昨年の花火である

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今年はあまり、うまくいかなかった

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こんな画もある


いずれにしても、県下最大の花火大会、三輪の夏、桜井の風物詩である。
健やかな体で、夏を乗り切りたい。

写真は来年にチャンスがあるだろう。
by koza5555 | 2013-07-31 21:35 | 桜井・山の辺 | Comments(0)

誕生日、カレーライスと西瓜

今日は僕の誕生日だった。
66歳の誕生日である。
昭和22年に生まれた。

復員した父が、農家の庭先を借りて、大工仕事や雑用で暮らしを立てようとするような貧しい暮らしである。
農村でも農家でないというのは、ま、そう落ち着いた暮らしではない。

貧しい田舎暮らしである。
真夏の誕生日のお祝いは・・・カレーライスとスイカだった。
誕生日はその夏に初めてスイカを食べる日で、おなか一杯カレーライスを食べる幸せがあった。

「誕生日のお祝いはどちらに?」などとあッちゃんに聞かれて、「子どもの頃のカレーとスイカで」と答えた。
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これがごちそうだった。もちろん、スイカはお昼に。カレーライスは夜だったが。四人の男の子を育てた父母の恩ということを感ずる年に僕もなってきている

さて、週末から週明けにかけて、バタバタした日が続いた。

ツアーの下見に法隆寺夏季大学、そして自らの病気の検査にふれあいいきいきサロンである。
さらに月が替わると猛然と忙しい。
ガイドとか講演とか、「映画のロケ」の段取りのためのあいさつ回りで日程は過密である。

いままではガイド、講演の内容は一か月くらい前には仕上げる段取り(下見があるのでそれに間に合わせている)で準備を進めてきたが、今回はそういう具合になっていないのである。

そして誕生日のお祝いをフェイスブックでも、たくさんにいただいた。

「これからも、奈良のいろいろを教えてください」、「これからもパワフルにお願いします」、「ますますナラの良さを紹介してください」と望む以上の期待のお声を頂いた。
「その歳は一年しかありませんから 66歳でしか出来ないことをやって 充実した一年にしてください」という激励もいただいた。

奈良の隅々まで回り、自らのビックリをfbとブログに書いてゆきたい。
そして、よく勉強する誕生日にすること、そしてたくさん学ぶ一年にしたいと思うのである。

66歳になった気持ちを表すと…こんな花火かな。
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これは前の桜井の花火大会の写真だが、明日(31日)の桜井はおんぱらさんの花火大会である。ぜひぜひおこしください。
by koza5555 | 2013-07-30 22:45 | 健康 | Comments(2)

天理の高井病院

今日は朝一番に天理の高井病院。検査、問診であるがそれを終えたら直ちに桜井に帰り、町内の福祉委員が運営する「ふれあいサロン」に出る予定である。

「これからはゆっくりと」と決めた年金生活だったが、日程は連日混み合っており、スケジュール管理の手帳が手放せない。

忙しすぎるというか、それともこれでこそ良いというべきか。

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天理の高井病院は術後一年の定期の検査である。

昨年の7月に天理の高井病院で心臓の4回目のカテーテルを行った。

10年ほど前の最初の心筋梗塞は最高に痛かったが、昨年のカテーテルもけっこうな痛さだった(発病と治療はもちろん比べようもないけど・・)。
カテーテルの回数も増えてきていたこともあり、医師に「もうあきません」と泣き言を言ったりしたが、「治らぬ病気があります。あなた病気は治せる病気です。きちんと前向きに」とキッパリ叱られたりもしたのも、去年のカテーテルの前のことであった。

昨年のカテーテル(アブレーション・焼灼)は相当、痛かった。
先が環になったカテーテルで環状の焼灼をしていく術だった。
とにかく焼灼の回数が多くて・・・痛い。心臓が痛いのかというと、そうではなくて、心臓の焼灼により、比較的近くの脊髄の神経が刺激されるということであった。

カテーテルアブレーションは成功で、その後は激しい動悸などもなく、今日で高井病院の検査、診察が終わることを期待したい。
by koza5555 | 2013-07-29 00:12 | 民生・児童委員・町内会 | Comments(0)

奈良公園 夏の鹿寄せ

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夏の鹿寄せが行われていると報道された。
あっちゃんが見たいという。
あっちゃんの現在の第一目標は英検一級の二次試験の突破だが、その次の目標が奈良の鹿愛護会への加入である。
一応、順序はあって、英検の合格後に鹿の愛護会ということではあるが(笑)。


鹿寄せを見たいという。
日程を見ると今日開催、その次は8月9日(金)だから、思い切りよくすぐに行ってきた。
時間は9時半からである。
「夏の鹿寄せは初めてのことでうまく集まるか」と言いながらホルンが吹かれる。ベートーベンの「田園」である。
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走ってくる

夏の鹿寄せも大成功だが、「夏は食べるものが多くて冬の集まり方とは少し違う」と鹿愛護会員は話していた。

生まれて三か月の小鹿もいっぱい走ってくるのが見えた。これが今の時期だけの特徴である。撒かれるどんぐりはまだ食べられないとのことである。
小さい子だけが集まって相談(?)、ドングリは撒かれ続けるが、「列をなして」帰っていく。
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野生で生きる鹿は1049頭と紹介されていた。

夏の鹿寄せ、8月は9日、10日、23日、24日の金曜・土曜、朝9時半から行われる。
場所は春日大社の参道、鹿苑に差し掛かる手前の右側である。
by koza5555 | 2013-07-27 16:55 | 奈良 | Comments(4)

法隆寺夏季大学が開かれた

26日は終日、法隆寺夏期大学である。
法隆寺夏季大学の期日は毎年、7月26日から29日までの4日間。
初日には開講の講義があり、午後は特別拝観と放水訓練が行われる。
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放水銃と金堂の屋根からはドレンジャー(スプリンクラーみたいなものだが、これは排水という感?)の放水で滝に。いざというときには効果があるんだろうけど、火を出さないことがまずは肝心である。

この夏季大学、fb友達の池内力さんがうまくまとめている。

 ・・・奈文研の小澤さん・斑鳩町教委の平田さん等による鼎談は内容があった。特に、東大門東から北に伸びる道路は若草伽藍の軸線と同じ方向を示している(西院伽藍の軸線は西に20度ずれている)との説明が有益だった。西院伽藍から東に向かう道が、東大門で西に振れているのが不可解だったが、納得できた。
 特別拝観できたのは、若草伽藍のほか、西院伽藍のドレンジャー放水、夢殿救世観音・伝法堂(阿弥陀如来坐像ほか)、収蔵庫に保管されている金堂焼損壁画、聖霊院の内陣(聖徳太子坐像ほか)、講堂北の上御堂(釈迦三尊像ほか)、西円堂(薬師如来坐像)。金堂焼損壁画を見て、火災対策など文化財保護の重要性を再認識した。
 法隆寺夏季大学は、7月26日~29日まで行われるが、26日午後の特別拝観だけでも参加する値打ちがあった。
池内力さんのfbから



若草伽藍跡における斑鳩町教育委員会の平田政彦さんの解説は聞きごたえがあった。
平田さんは午前の講義で、若草伽藍若草伽藍跡の発掘調査報告をおこなった。
それを現場で改めて解説する。
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若草伽藍、塔の心礎。遠景は五重塔である

日本書紀によれば、法隆寺(若草伽藍)は670年の4月30日未明に、落雷により出火しすべての建物が焼失したという。

平田さんは、若草伽藍が四天王寺方式の一直線の配置であったこと、基壇の跡から見て五重塔と金堂は極めて近接して建てられていたと説明したあとに、「落雷で五重塔から燃えたとみるのが自然で、その後金堂に燃え移ったが、金堂は全焼ではない。瓦の焼け具合からそれが言い切れる」と解説された。

地理的条件から、伽藍は現在の西院伽藍に移されたが、礎石、柱などを再生で使い、釈迦三尊像や薬師如来も若草伽藍から移されたものとされた。
「火事のさなかに持ち出されたというより、金堂が半焼で、ご仏像は焼け残ったものと考えたい」という解釈である。
若草伽藍は670年に燃え、711年ころには西院伽藍が完成するという論である。

若草伽藍の東端は東門の前、北に上がる細い舗装路にその方向が示されているとの解説もある。
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これが東門の前、北へ上がる道(里道ふうである)


斑鳩を歌う万葉歌がある。

斑鳩の 因可(よるか)池の 宜しくも 君をいはねば 思いそわがする(巻12-3020) 

万葉集では斑鳩の地名が出てくるのはこれ一首で、人は斑鳩の池は良い池というが、あなたのことをよく言う人がいない・・・くらいである。
法隆寺は、この「よるか」池を聖徳会館の玄関前に作っている。

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歌碑と池
by koza5555 | 2013-07-26 23:56 | 奈良 | Comments(4)

吉隠・・そして廃校の吉隠小学校

今週の土曜日に奈良交通の9月の万葉ツアー(宇陀コース)の下見を行う。奈良交通に合わせて2人のサブ、2名のオブザーバーなどでけっこうな人数の下見となった。

コースは八木から榛原、西峠を経て阿騎野に入る。
初めが吉隠である。
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これが元の吉隠小学校である

今日は廃校となっている吉隠小学校をまず紹介する。
明治7年に創立、日進館といったとのことである。明治16年にこの地に移り、現在も残されている校舎は明治17年に新築、明治41年、昭和35年に改築したという記録が残されている。昭和40年に廃校、初瀬小学校に統合された(桜井市史より)。

記録の範囲では、この校舎の大本は明治17年に建てられたものとのことである。

さて、ツアーのことである。

八木を出て、宇陀のことや万葉集のことを語りながら初瀬に差し掛かる。
出雲から穂積皇子と但馬皇女の愛、その喜びと悲しみを語る。

初瀬谷には多くの歌碑があるが、今日は2つの歌碑である。
まず出雲に但馬皇女の歌碑がある。

「人言を繁み言痛み 己が世に いまだ渡らぬ 朝川渡る」 巻2―116
(人の噂がうるさく身に突き刺さるが・・・・生まれてからまだ渡ったことのない朝の川を渡る)但馬皇女、708年没。母はヒガミの大刀自で鎌足の孫ということなる。
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朝川渡る、これは事件だ。皇女が朝、川を渡って帰る、もしくは会いに行く。当時の婚姻の形態からはありえない話である。
   
生きている時には、この愛の歌の返し歌を但馬皇女は受け取れなかった。

誰に送られた歌か。それ穂積皇子である。
但馬皇女が亡くなってから・・
「降る雪は あはにな降りそ 吉隠の 猪養(いかい)の岡の寒からまくに」 (巻2-203)と歌った。
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これがその歌碑である

吉隠というところは今でも雪がきつい所で、雪よ降るなという歌である。
出雲から長谷寺をこえた吉隠にその歌碑があり、但馬皇女墓は吉隠、猪養にあったと言われる。。

万葉集も、歌碑もまわりをよく見まわして、セットで語る、セットで楽しむことが大事である。
by koza5555 | 2013-07-24 21:03 | 万葉の旅 | Comments(0)

聖林寺の十一面観音と御厨子

「万葉集のバスツアー」に参加していた姫路の 池内力さんが、聖林寺(桜井市)で「十一面観音様の前の厨子は一段低く作られていたというのは本当ですか」と質問された。ご住職は「はい、床下に入るような形の厨子です。いざという時(火災の時など)、御厨子ごと外に出せるように厨子が台車に乗っているような形になっていました」とお答えになった。
そのことは掲示されているが、さらに「いまは御厨子の車はありませんが、レールは一部、残っています」とのことである。
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御厨子の姿。本堂の内部ですので画像のアップの許可は聖林寺さんに頂いた

聖林寺の十一面観音の御厨子のことである。
現在お立ちになっている大悲殿のことではなく、本堂向かって左側の昔の御厨子のことである。

厨子の前には
「明治19年、アメリカ人の哲学者アーネスト フェノロサが十一面観音様を一見して、素晴らしいものだと絶賛され、開扉されるようになりました。
これがフェノロサと友人のビゲローが寄進しくださった旧御厨子です。
御厨子の下にレールが敷かれ、火災などの時に、緊急避難できるように設計されています。」
と掲示されている。
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厨子の背面に回ると、こんな石のレールが残されていた

この厨子は明治19年(1886年)に作られた。130年前のことである。残された石のレールを拝見すると、十一面観音が聖林寺に移された経緯や大切にまつられてきた歴史の重さを感ずるのである。

さて、このことを質問をした池内さんのことである。
奈良まほろばソムリエの会が奈良交通とタイアップして取り組んでいる「ソムリエと行くバスツアー」(昨年は古事記、現在は万葉集)に池内さんはたびたび参加されている。

池内さんはいつも楽しくツアーに参加されているが、池内さんの質問や指摘はいつも核心を突く鋭さがある。昨年末の「古事記と宇陀」のコースの時にも、阿騎野に立てられている柿本人麻呂の馬上の像についての質問があった。
「像が中山正實画伯の阿騎野の朝の画をテーマにしたとすると、馬の立つ向きが逆」という。「えー?」と思い、その後、宇陀市の観光課を通して宇陀市教育委員会にお聞きすると、「画は題材で、像はそのものを写したものではなく、言われたことはその通りです」という返事と、「そこまで観察していただいた方は初めてです」と驚かれ、喜ばれていた。

池内さんの深い知識と鋭い観察力には、僕もおおいに学ばされている。


このブログは書き直しました。今回紹介した池内さんと、会津八一の研究家の素空さんを混同する誤りがありました。お二人には深くお詫びいたします。
by koza5555 | 2013-07-22 23:17 | 桜井・多武峰 | Comments(9)

パソコンのクラッシュとその顛末

パソコンのデータ復旧を依頼したが・・・
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メーカーから戻ってきたノートパソコンと外されたHDD(ハードディスク)

最近、ちょっとたそがれていた。
始まりは5月17日だった。
朝、パソコンを開こうとしたら、「アクセスできない」と表示されて僕のパソコンは寿命を迎えた。
「突然のトラブルだった」と言いたいが、前兆がなかったわけではないから悔やまれる。
パソコンが壊れてから調べると、データのバックアップは極めて不十分だった。

写真・・・5万枚くらい?半分くらいしかコピーがない。
コピーのないパワーポイントのスライドと原稿が2本。
ワードとエクセル文書が1500くらい。短いものもあるが、10000字というようなツアー原稿などもあって、すこしめげる。

とりあえずのツアー、講演、そしてブログのアップはあれこれをつなぎ合わせて乗り切ってきたが、壊れたパソコンからデータが取り出せないかと調べてみた。

メーカーのサービスがあり、診断を受けると、「データはあります。●●万円です」と連絡があった。
その金額は僕の決めた金額を越えていたから、データの取り出しを中止すると伝えた。

あの時の一枚という写真も確かにたくさんある。

でも、画象はなくても、ワードは残っていなくても、僕の記憶や経験が消えたわけではない。
「また見に行くよ、また撮るさ」、で新たな楽しみが増えたと思って、元気に奈良を歩き回りたいと思っている。

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寺川(桜井)の夕陽・・・たそがれだが、明日は晴れだ
by koza5555 | 2013-07-21 11:17 | パソコン・インターネット | Comments(3)

蘇我氏の盛衰と乙巳の変

まほろばソムリエの会(有志)の勉強会が西大寺で開かれた。
日本書記を読むことをテーマにした、観光ボランティアガイド連絡会の木村三彦会長の講演である。
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西大寺駅前

4回シリーズだが、今回は第一回目、「蘇我氏の興隆と滅亡」だった。


お話の内容をかいつまんで紹介すると・・


蘇我氏の出自、本拠地などの解説があり、その隆盛と「おごり」が触れられる。
日本書紀によれば葛城の出自、あるいは曽我町と説明される。渡来系ということはさておいてと注釈がある。
大軽町、飛鳥の豊浦、島の庄というような進出をしたのではないかという論である。

日本書記を沿って蘇我氏の興隆が語られた。最近も発掘がすすんだ甘樫の丘の家のことである。
蘇我は「大臣(蝦夷)の家を呼びて、上の宮門(みかど)という。入鹿が家をば、谷の宮門という」とあるように、宮を見下ろして「城柵」、「兵庫」を作り戦いに備えた(644年)。
そして、その翌年、645年が乙巳の変である。
6月12日、三韓(新羅、百済、高句麗)からの進貢の儀式を機に中大兄皇子、中臣鎌足は入鹿の殺害を実行する。入鹿から巧みに剣を取り上げて、中大兄皇子が先頭に立ち切り付け入鹿を「誅殺」する。

蝦夷は戦いを決意し漢直(あやのあたい)等を集めるが、高向臣国押(たかむくのおみくにおし)が「吾ら、君太郎(入鹿)に由り手、殺されぬべし・・・」と一大演説を行い、退去、漢直等も退いたという。

木村会長の論点は

①律令制度を大化の改新というならば、むしろ蘇我氏はその推進者であったことが紹介された。
乙巳の変は権力争いとみるとのお話である。
②木村さんは、さすがに橿原の方、蘇我氏への愛情はとても深いと思わされた。これは端々にでてくる。「蘇我本家は乙巳の変で滅亡するが、倉山田石川麻呂を通じて子孫が残された」とも強調された。
③記紀は原典(読みくだし文)を読むと、雰囲気がわかると、その学習方法の強調もあった。
楽しく聞いた一時間半である。


ここからは僕の論(談山神社側・・?)である。故 芝房治さんもここらあたりは「小説 談峰の契」でるる述べている。

そこら辺りを取り混ぜて書くと・・
①藤原鎌足を主語で読むか、蘇我入鹿を主語で読むか。
同じ日本書紀を読んでいても、文章が変わるわけではないが、木村さんのお話を聞きながら、おもしろい再発見だった。
橿原町の曽我の方は「蘇我の恨み」として、談山神社の拝観はしなかったという。戦前は小学生の談山神社への遠足があったということだが、曽我町の子は神社の東口の屋形橋からは入らず、みんなが戻るまでそこら辺りで遊んでいたという。
あれこれの立場から見ると、歴史も悲喜こもごもである。

②入鹿の剣を取り上げる俳優(わざびと)の話がある。
三韓の使者を迎える儀式に、舞があったという。その舞人が畏れ多いと、剣を持たずに入り、言葉巧み入鹿から借りたという。そのまま返さずに幕間に消える・・・という形である。剣を入鹿から取り上げるにはうまい筋立てである。

③高向臣国押(たかむくのおみくにおし)が、戦を防ぐ役割を果たすが、これは蘇我の支配に飽き飽きしていたという前提、鎌足の手が入っていたということも可能性があったと見たい。
国押は山背大兄皇子を攻めた時、入鹿の「山背大兄皇子を捜索せよ」という命令を拒否するくだりがあるが、翻意の伏線は張られているのである。

④持統の時代に「戸籍を作らせた、一人一人の民を押さえた」と説明があったが、あとで木村さんにお聞きしたところ、「これは戸として抑えたもので個人を押さえたものではない」と説明していただいた。

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木村三彦会長、ありがとうございました。
by koza5555 | 2013-07-18 11:18 | 橿原・明日香・吉野 | Comments(0)

鎧岳の写真を撮りに曽爾へ

19日の金曜日、午後2時から「やすらぎと祈りと郷、室生」を、近鉄「楽・元気」のセミナーでお話しする。

パワポを見ていただきながら、ツアーがすすんでいくような感じになるように僕は話をすすめる。
だから話も大事だが、画像も大事にしたい。

今日、パソコンで画像をめくりながら練習をした。

室生を語るに当たって、「室生は火山、室生はカルデラ」というお話を行うが、ここで出てくる鎧岳(よろいだけ)の写真がちょっと気にいらない。
そこで撮ってきた。
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こんなことでバタバタしながら準備は・・・しています。
ワンコイン(500円)ですけど、まだ空きがあるようである。
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ところで、あっちゃんの英検一級、二次試験の結果は・・・
こちら 56才までに、英検1級!!
by koza5555 | 2013-07-17 22:10 | 宇陀 | Comments(0)