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奈良・桜井の歴史と社会

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長谷寺の扁額 室生寺の寺標

9月1日は「大和の美仏に出会う旅」(JTBツアー)のガイドである。
長谷寺、室生寺、橋本屋、聖林寺、安倍文殊院を回る。
ガイド研修から通算すると今度が4回目、類似ツアーを合わせると相当、回ってきたコースである。
かれこれ10回となると、初心で案内するといっても・・・なかなかである。
こんな時は新しいことを考えるのが一番である。


そこで書を考えることにした。扁額、寺標なんでもあれである。
まずは長谷寺。長谷寺は本堂正面の「大悲閣」である。
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巨大な木額である。横3・6メートル、縦1・3メートルである

大悲閣とは観世音菩薩像を安置した仏堂のことをいう。筆者は大久保翠洞(おおくぼ すいどう)。明治39年の元旦に茨城県の古河市に生まれた方とのことで、献納は昭和52年とのことである。


室生寺の寺標も忘れてはならない。仁王門前の右手の石標である。これはおととし亡くなられた今井凌雪(りょうせつ)さんの書である。
僕の習字の先生の所には、今井凌雪の書がかけられている。
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聖林寺は門前の「大界外相」(たいかいげそう)。東大寺にも建てられているが、この標石の内側は仏の世界であることを示すしるしである。
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聖林寺の書は慈雲尊者によるものといわれる。1718年から1804年まで、江戸時代の方である。
聖林寺は子安地蔵菩薩の造仏、本堂の建立などが18世紀とされており、本堂再建に続いてこの碑が建てられたとみられる。

安倍文殊院ならなんといっても榊莫山(ばくざん)である。榊莫山は「安倍文殊院の隆盛を」と、文殊院のために惜しむことなく書き続けた。
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安倍仲麻呂 望郷之詩碑
平成22年の平城遷都1300年祭を記念して建立された。
東門(北口)の5メートルの及ぶ大石碑も見逃せない。

今度は、こんなことを語りながら、元気いっぱい明日のツアーを成功させたい。
by koza5555 | 2013-08-31 22:53 | 桜井・初瀬 | Comments(0)

邪馬台国と大和朝廷・・武光誠

突然、邪馬台国のことである。
「邪馬台国と大和朝廷」を読んだ。武光誠明治学院大学教授の著作である。少し古くて2004年の本である。

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纒向遺跡、2009年11月14日の大型建物の発掘説明会

纏向こそ邪馬台国でしょう?
松本清張を愛読した僕は「邪馬台国は九州説」だったが、今は大和説、それも纒向説である。
たくさんの本を読んだし、講演もきき、現場見学会の説明を聞いているうちに、意見は変わったのである。

そこで、二つのことを考える。
①魏志倭人伝に邪馬台国が書かれている。日本書紀の編者は魏志倭人伝を含む三国史を見ていたことは確実と思われるのに、なぜ邪馬台国と卑弥呼に触れなかったか。
②大和朝廷が大和の纒向に出現したことは明らかで、その立場からみると邪馬台国と大和朝廷は直接つながっているとみるのが自然であるが、なぜ日本書記はそれを触れていないのか。

こんなことをいつも考えてきたのである。

武光さんは「邪馬台国は九州」説である。
邪馬台国連合国は、ほば福岡県の版図にまとめられるし、武光さんは「投馬国は遠賀川上流域のどこかにあったと考えている。投馬国から川舟と陸路を用いて筑後川流域のどこかにあった邪馬台国に着く」(p122)という九州説である。

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邪馬台国と大和朝廷

「邪馬台国の歴史は、・・・北九州の小国群と中国との交流にまつわるものなのである」(p294.巻末)とされる。
同時に武光さんは「現在のところ、邪馬台国論争において、まだ九州説が多少有利であろう。しかし、考古資料によって一つ一つ隙間を通じて、大和説が多くの人にうけ入れられるようになっていく可能性がある」(p268)との用心深い発言もされるのである。

結論は別として、僕はこの本で深く感じたことがあった。
それは、「日本書紀になぜ邪馬台国が書かれなかったか」という僕の疑問に答える武光さんの論である。

「聖徳太子が邪馬台国を消した?」が特別におもしろい。
邪馬台国が大和にあったという立場で考えてみて、「大和朝廷が卑弥呼を自分たちの先祖として扱わなかった点に関しては、一つの答えが可能である。王家(皇室)が、中国に朝貢した卑弥呼の行動を好ましくないものと考えたとする推測である。
日本書紀の編者は『二十四史』(魏志倭人伝を含む三国史も含まれる)を見ていたことは、明らか」(p269)として、書紀になぜ邪馬台国を書かれなかったかを検証する。

武光さんは「聖徳太子の時代に、日本の外交策の大きな転換がある」として、中国との対等の立場で国交を開こうとしており、朝貢外交をすすめた邪馬台国(卑弥呼)や倭の五王を否定したかったのではないか、それを引き継いでいるのだと推論する。
日本書紀は邪馬台国の伝承を意図的に削ったということである。

これはおもしろい論である。神からつながる大和朝廷が中国に朝貢することはあり得ないとする本居宣長論の変形のようにも思える。

武光さんは邪馬台国は九州にあり、邪馬台国連合は四世紀に大和朝廷によって征服・併合されたという論(p265)に立たれている。
この論なら、「朝貢した邪馬台国を大和朝廷が征服した」と日本書紀になぜ書かれなかったか、そういう問題は新たに生まれるが、当時の日本書記の編者の苦労と工夫が感じられる推論である。

それにしても資料を論じ、推論を重ねても、結論はさまざまである。武光さんが言うように、最後は「考古資料によって一つ一つ隙間を通じて、大和説が多くの人にうけ入れられるようになっていく可能性」(p268)に期待するということだろうか。

6世紀から7世紀、大和朝廷が中国との関係をどんなふうに見ていたかをよく考えて、古事記・日本書紀の時代に邪馬台国がどのように論じられたか、それを考えるべきと教えていただいた。

武光さんのご本を読んだのは初めてである。僕が今日論じたことは、あくまでも「邪馬台国と大和朝廷」(平凡社新書2004年5月刊)の範囲である。
by koza5555 | 2013-08-30 18:41 | 邪馬台国(やまとこく) | Comments(0)

桜井市社会福祉協議会 あゆみで給食ボランティア

桜井市の社会福祉協議会が運営する障がい者福祉センター「あゆみ」の給食ボランティアに行ってきた。

「あゆみ」は、障がいを持つ在宅の方の自立や身体機能の維持回復の支援を行い、また、ディサービスで、家族の就労支援や一時的な休息の確保を目的にした事業を行なっている。

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「あゆみ」の場所は・・最近、映画「義仲穴」のロケでたびたび訪れた等彌神社のすぐ近くである

桜井市の民生・児童委員で週に一回だが、「あゆみ」の給食を作っている。
4人づつの参加で年に1~2回、この当番が回ってくる。
今日のメニューはカレーライスとキャベツやハムが入ったサラダである。
通所者、職員と僕たちの分もあわせて25名分を作るのである。

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ご飯を炊き、牛肉、玉ねぎ、ジャガイモ、ニンジンを切る。手際よくカレーを作る。
キャベツを切り、ニンジンをピーラーにかけて湯通しをする。みじん切りのハムを加えてサラダを作る。

通所者のみなさんと一緒に食事をいただく。

一言で「障がい」と言っても、身体の状態はそれぞれである。
出来上がったカレーライスをそのまま食べれる方もいるが、食事をフードプロセッサーにかけたり、ミキサーにかけないと食べれないという方もいる。

パクパクと素早く食べてしまう方もいるが、全面的な食事の介添えが必要な方もいるという具合である。

2時間の作業、1時間の交流だけだが、家族の就労支援、家族の一時の休息のために、この施設が力になっていることが痛感される。

「あゆみ」は専門家や器具を使った機能訓練を行っている。
手芸・フラワーアレンジメント・木工やパソコン・音楽・美容・家事訓練(調理・買物)を行っている。
スポーツ・レクリエーションやカラオケなども楽しめる。

障害者総合支援法にもとづく施設で、入浴サービス、送迎サービスが行われている。
本人とっても、家族にとってもとても必要な施設であることがよく理解できた給食ボランティアだった。

僕もがんばりました。おっとり刀に見えますが、自分でいうのもおこがましいが、切るのも洗うのも、僕は手早い。
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by koza5555 | 2013-08-29 21:57 | 民生・児童委員・町内会 | Comments(0)

檜原神社祭

8月28日は大神神社摂社、檜原神社の社祭である。午後5時からの斎行で芝区と箸中区の氏子が、それぞれ神饌を奉り、祭典に参列する。

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かがり火に照らされる檜原神社宮垣

犬養孝は「万葉の旅」で三輪の檜原を紹介している。
「檜原社のところは、後方、三輪山の裾が檜原山となってご神体となり、前方の社殿が近世の頃までは、あったらしいが、現在、赤松林の檜原山の前に、元禄の銘のある石灯籠二基をのこすだけで、前方が広場となっている」と記した。

新たに三ツ鳥居は建てられているが、三輪山、檜原山をご神体とする檜原神社には社殿は今もない。犬養孝が特記した石灯籠はいまも残されているが、宮垣の内に入っている。

さて、檜原神社のご祭神は天照大御神(あまてらすおおみかみ)である。
天照大神を豊鍬入姫命(とよすきいりひめのみこと)に託して崇神天皇の時代に宮中から出ていただき、はじめにお祀りしたのが倭笠縫邑(やまとかさぬいのむら)である。その後、遷幸となるが檜原神社を立て、元伊勢(もといせ)として祭ってきたと伝えられる。

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祭は式典の後、境内で直会をする。
かがり火のもと、ずらりとならんだ箸中、芝の氏子を前に、芝の区長の生駒さんが「式年遷宮の年に、元伊勢、檜原のお祭りを箸中、芝の区民で祭れたことの意義は深い」とあいさつ、箸中の山口区長さんが乾杯の音頭を取られた。

神饌は普通神饌でするめ、梨、薩摩芋、菓子、海苔、コメ、餅、酒、水である。
大神神社の場合は摂社の神饌は神社で指定されているとのことだった。

陽が落ちかかる鳥居越しの二上山。もうしばらくで、二上山に沈む夕陽が見られる。
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さて、犬飼隆の「万葉の旅」、1964年のことである。こうして見てみると、今年は犬養孝の万葉の旅から39年が経っている。今年はプレ40周年なのだ。奈良交通とタイアップしてすすめている「万葉の旅」は40周年企画として、参加者をさらに誘って成功させたいと改めて考える次第である。
by koza5555 | 2013-08-28 22:00 | 桜井・山の辺 | Comments(0)

古代磐余の世界

第52回 桜井市夏季大学が開かれた。主催は桜井市観光協会である。
今年は坂本信幸先生(高岡市万葉歴史館館長)が「万葉歌のはじまり桜井」、木下正史先生(東京学芸大学名誉教授)が「よみがえる古代磐余の世界」である。

午後だけの参加となり、「古代磐余の世界」だけ受講できた。
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木下先生の講演

初めに木下先生は古代磐余を、「飛鳥を発掘してきた私が言うのもなんだが、飛鳥はせいぜい一世紀、磐余は四世紀に及ぶ宮都の可能性があり、その魅力は計り知れない。僕にあと100年の寿命があれば、明らかにされる磐余の全貌をみることができるし、僕も解明することができる」と強調して、講演を始められた。


まず磐余池である。そして百済大寺、山田寺という順で話された。
今日はもっとも感銘を受けた「百済大寺」のみを紹介する。

熊凝精舎が百済大寺の前身である。舒明天皇記(639年)によれば、百済川辺りに大宮と大寺とを造営したとある。
その後、百済大寺焼失、寺を造営するにあたり、子部社(こべのやしろ)切り払ったために子部神の怒りをかった。-「大安寺伽藍縁起并流記資材帳」(だいあんじがらんえんぎ ならびに るきしざいちょう)(天平19年、747年)によるー

この百済大寺は673年に天武天皇の手により、高市郡に移される。それが高市大寺である。

この百済大寺が1997年に、桜井市吉備池付近で発掘されたのである。
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吉備池付近の空中写真

①百済大寺は巨大なものだった。当時の東アジアでも最大の規模に匹敵する伽藍を持っている。

②僧坊の跡が発見された。金堂と塔は礎石の柱だったが、僧坊は掘っ立て柱で、その抜き穴が発掘された。
 柱は抜き取られて高市大寺の建築に使われたとみられる。

③あたかも火事にあったかのような記述もあるが、焼けた形跡はなかった。
北の一角に講堂などがあったとみられる。ここには春日神社が鎮座しているが、このあたりに子部という小字があり、大安寺伽藍縁起に対応していることが分かった。

④百済川とは米川のことである。米川はコメの川、大和盆地から大阪平野にコメを運び出す中で命名されたとみたいとのことである。

百済川はいずこか、百済川は磐余の池からの流れだしか、などと僕は考えていたが、木下先生に簡単に断定していただいて、これは助かった。

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吉備池から西をのぞむ。二上山もくっきりと見えて西に開けた地形である

今年も大変、力になる講演会だった。
皆さんも楽しんでくれたら幸せである。
by koza5555 | 2013-08-26 23:39 | 桜井市と安倍 | Comments(0)

談山神社ツアー

談山神社の氏子総代を務めているが、談山神社を本格的にガイドしたことがなかった。

そんなときに聖林寺さんから、「地蔵会にともない、幕間ではあるが、談山神社のツアーガイドができませんか」との依頼を受けた。
談山神社のツアーのガイド予定が来年にかけて三回ほど入っていたこともあり、その準備にもなるし、氏子総代を務める社のガイドはやりたいと考えていたので、喜んで引き受けた。
コースは順路で東殿、本殿、十三重塔、神廟拝所である。
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ツアーを終えて多武峰観光ホテルに向かう

聖林寺から談山神社に向かうバスの中で秋里離島の大和名所図会(寛政3年(1791年)刊)の多武峰本社のコピーを配っておいて、神社の成り立ち、その性格から話を始めた。

鎌足公は長男定慧(じょうえ)によって改葬されたこと。その遺骨を安置するために十三の塔婆として建てられた。
一方、弟の不比等によって塔の東に聖霊院(しょうりょういん)を建て、鎌足公のご神像を祀り、合わせて多武峰社といい、はじめから妙楽寺と聖霊院の並立だった。

多武峯の御破裂山(ごはれつやま)のことなどや、一の鳥から摩尼輪塔に至る多武峰の道のことを語り、一町ごとに52基の町石が建てられたことなどを語った後に、けまり祭りと嘉吉祭を語った。

談山神社のお祭は見て楽しいのはけまり祭で、由緒からいうと嘉吉祭というまとめ方である。

4月29日と11月3日に「けまり祭」が行われる。
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「中臣(藤原)鎌足は専横を極める蘇我氏の打倒を考え、中大兄皇子(天智天皇)と近づきになることを考えていた。そのチャンスは法興寺(飛鳥寺)の槻(つき)の樹のもとでのけまりの時におとずれる。中大兄皇子が鞠を打つ、そのとき沓)が抜け落ち、鎌足が拾う。ひざまずき差し出すと中大兄皇子もひざまずき受け取った」と日本書記が記されている。
これを大化の改新(645年)の大業成就の始まりとして、この縁を大事にして談山神社はけまり祭をおこなっている。

10月の第二日曜日の嘉吉祭についてもきちんと説明した。
多武峰足利幕府の攻撃を受け、全山炎上、その難を避けて、御神像は明日香の橘寺に遷座し、その後嘉吉元年(1441年)に帰座したが、それを祝い、二度と出坐のないことを祈念したのが、この祭典の始まりである。
 帰坐を喜んだ一山の人々が、多武峰の秋の収穫物を集めて、「百味の御食(ひゃくみのおんじき)」という神饌をととのえる。
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米粒を一周42粒、70段に張り付けた和稲(にきしね)にはとりわけ、簡単の声が。

万葉歌も二首、紹介。
皆さん、僕の思い通り、鎌足公さらに好きになっていただけただろうか。
by koza5555 | 2013-08-25 23:40 | 桜井・多武峰 | Comments(0)

京セラドーム、世界大恐竜展は25日まで

今日は孫守りである。
大阪の京セラドームまで出かけて、世界大恐竜展を見てきた。

孫は、「あと何日だ」なんて一週間くらい前から張り切っていた。
今の子どもでも、「お正月まであと何日・・」と数えてた僕らの子どもの頃と同じである。

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恐竜展の会場に入る、まずは恐竜。既成の概念と何かが違う。
恐竜オンチの僕が驚いたのは、羽毛に覆われた恐竜がたくさんいたことだった。

展示のポイントもけっこうそこに当たっていた。
それは、「恐竜から鳥へ」というテーマである。
「始祖鳥にも羽毛があるが、恐竜にも羽毛がある」、こんなことには関わらずに僕は生きてきたのだ。
羽毛があるということはすごいことで、爬虫類と違い恐竜は恒温動物なのか・・ということらしいのだ。
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だから、内容的にも迫力でも、そして動いて・・・これが目玉か・・ティランノサウルス(羽毛がはえていた)である


展覧会のメッセージがボードに書かれていた

今を生きる 恐竜から学ぶ
人類にとって、地球温暖化や砂漠化などの地球環境問題に立ち向かうことは、差し迫った大きな課題である。世界各地の砂漠や荒れ地から発見された数多くの恐竜化石は、その対策の手掛かりを秘めるタイムカプセルでもあると考えられている。
中生代の約一億7000万年という想像を超える長い時間を生きた超生物「恐竜」の謎を解き明かすことは、私たち人類自身がいかに存続していくべきかを考える上でも重要なテーマとなるにちがいない。
1996年の中国遼寧省における羽毛恐竜の発見以前から、鳥類が恐竜から進化したことは、その骨格上の類似点から多くの人に受けられていた。
鳥類が恐竜から進化したことは紛れもない事実なのである。
今、私たちは恐竜から進化した鳥類とともに地球において共生している。


楽しく拝見できた。
恐竜展は25日まで。あとわずかである。
by koza5555 | 2013-08-22 21:43 | 大阪とか京都とか | Comments(0)

映画、義仲穴(ぎちゅうけつ)、桜井 等彌神社でのロケ

源(木曽)義仲ってどう思いますか?

長野県で聞いたらプラスイメージだよね。
北陸で聞いてもプラスイメージだと思う。
京都では乱暴者ということで、はっきりマイナスイメージでしょう。
それで奈良では、どうなんだろう?

秋原北胤(ほくいん)監督が主宰する東京のカエルカフェが、義仲の映画、「義仲穴」(ぎちゅうけつ)を作成する。
秋原監督は「義仲の映画は奈良でこそ撮りたい」と奈良でのロケを考えている。「奈良の大仏を焼いた平家を追い払ったのは義仲。義仲は奈良で好感が持たれている」というのが、その考えの土台である。

さまざまな候補地が奈良県下であったが、秋原監督は桜井市の等彌神社を見て「ここがイメージ」と言い切り、ロケを等彌神社で10月28日に行うのである。
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等彌神社の境内

秋原監督は「特定のスポンサーに頼らず、地域住民を巻き込む幅広い皆さんのご協力で映画をつくる。だから協力者、出演者の確保に私も力を尽くし、ワークショップという手法で広げている」と語り、「映画の魅力は大きく、映画作りには地域おこしの力がある」と熱心に語られる。
これは桜井の活性化、町おこしに力を入れる等彌神社の佐藤宮司の思いと波長がピッタリである。

「9月30日には、ワークショップ(衣装合わせ、演技の練習)を等彌神社でやろう」という具合に話はとんとん拍子に進んでいく。
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監督と出演者の玉串奉奠、撮影場所の確認、撮影シーンの確認なども終えて、みんなで記念撮影である

秋原監督は「桜井市役所への表敬訪問も行った。
監督は元田清士副市長と30分にわたって懇談。元田副市長は映画が趣味と見えて、意見の交換、質問も具体的で監督の思いが通ずる懇談となった。
映画ができてからのことではなく、映画作成、映画のロケへの桜井市民の参加をさらに増やしたいものである。
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元田清士副市長との懇談、左から元田副市長、倉本明佳聖林寺住職、秋原冬胤監督

「義仲穴、桜井等彌神社ロケ」、いよいよ始動である。
by koza5555 | 2013-08-20 22:48 | 桜井・多武峰 | Comments(0)

義仲穴の撮影が桜井市にて

映画、義仲穴(ぎちゅうけつ)の桜井ロケ実施のためのワークショップが聖林寺で開かれた。
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これは終了時の記念撮影。エキストラだが、映画の出演予定者である

秋原北胤さんという映画監督がいる。秋原監督との出会いは偶然だった。

4月に万葉集のツアーのガイド関係者で勉強のために聖林寺を訪れた。
聖林寺では「お抹茶をいただこう」という目論見だったが、ここに秋原監督がたむろしていたのである。
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聖林寺のお茶席から三輪山をのぞむ

そのままみなさんを桜井駅に送ることとなったが、秋原さんも同乗、一か所だけ神社に寄り道をして全員で参拝、歌碑を楽しみ、神社の趣を楽しんだのである。

それだけのことだったが、7月24日にこの秋原監督からメールが届いた。
「・・・桜井市でロケをお願いします・・・シーンは、義仲の息子義高と頼朝の娘大姫が逢瀬を重ねるシーンです。色艶あるシーンではないのですが、義高が斬殺されるのでその部分だけ意識のもと、交渉いただければと思います。先日雑賀さんが紹介いただいた神社はすごく雰囲気が良いのですが、あそこでの撮影は可能でしょうか?」。

こんな話を聞いたらどうしますか・・・
僕は走り回った。まず神社、そしてあちこちのみなさんのお力、ご協力があって事態は大きく進行した。10月28日(月)に撮影は行われる。

映画は「義仲穴」(ぎちゅうけつ)。源義仲(木曽義仲)にまつわるお話である。
映画、初主演という中山エミリーが主演である。

秋原監督は特定のスポンサーに頼らず、地域住民を巻き込んで映画を制作する独特の撮影、制作手法を採られている。
だから、自らが多くの申し入れに直接参加される。地域からの参加者、協力者、エキストラの組織に心をこめて努力をされる。ワークショップという手法で、映画の魅力、映画の力を語り、演技指導も行うのである。
「映画に出演しよう。一緒に映画づくりを楽しもう」というスタンスである。

19日は桜井市の聖林寺と奈良のサンルート奈良でワークショップが開かれた。
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桜井市の聖林寺にて

楽しく演技の指導を受けた。プロの視点と指導は感嘆するばかりである。
by koza5555 | 2013-08-19 23:07 | 桜井・多武峰 | Comments(2)

広陵町、百済寺

12月に「平野南部」という万葉集で橿原市、広陵町、三宅町を巡るツアーを案内する。

犬養孝は万葉の旅(上)で、この地を「万葉の故地が数カ所しかない・・・宮廷人にとっては通路にしかすぎなかったことに因る」と記しながらも、特別に「平野南部」という章を立てて解説している。

「平野南部」というコースを考えている。
雲梯川俣神社、真菅の磐余神社、百済寺、馬見丘陵公園(ナガレ山古墳)、三宅町と回る。
「これは飛鳥川を下るツアーだな」と思う。巡るのは現代だが、万葉歌あり、古墳ありで古代を立体的に俯瞰するツアーにしたいと思う。

百済寺をどう考えるかが一つのポイントである。
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ちょっと思いもあって百済寺は避けてきたが、とりあえずこの三重塔は訴える力がある

百済寺のことを広陵町のHPで見てみると

『日本書紀』舒明天皇十一年(639)七月の条に「詔して曰く、今年大宮及大寺を作らむ。百済川の側を以て宮処と為す。是を以て、西の民は宮を造り、東の民は寺を作る。即ち書直県(ふみのあたいのあかた)を以て大匠(おおたくみ)と為す。」とある百済大寺伝承地である。現在の三重塔は鎌倉時代に建立された考えられる。
元気でやさしい町づくり 広陵町

百済寺を(百済)の「大宮及大寺」というのは、広陵町がいうようにあくまでも「伝承」である。
百済寺付近では
①古代の瓦の出土がないこと、
②飛鳥時代の他の宮と異なり、遠く離れていること、
③桜井市で吉備池廃寺が発掘(1997年)されたことなどから、
百済大寺(大宮)の跡地としての可能性が低く見られるようになってきている。

万葉集から見ると、これがまた悩ましい。

「高市皇子尊の城上のもがりみやの時」という柿本人麻呂の歌がある。
この歌は壬申の乱における高市皇子の活躍を詳細に紹介する長い前段があり、「高市皇子の葬送は百済の原を経て、城上の宮に至る」とある。
百済の原を経て城上(しきのかみ)に葬るとあれば、桜井で話は簡潔だが、「延喜式」によれば高市皇子は広瀬郡の「三立岡」に葬られたとされているのである。
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百済野、想像が掻き立てられる
149句という万葉集最長歌の高市皇子の挽歌をどうするかが中心だろう。

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「百済野(くだらの)の、萩の古枝(ふるえ)に 春待つと 居(を)りし鴬 鳴きにけむかも」(巻8-1431)の山部赤人の歌碑があるが、地元の心を尊重して、この解説、紹介もしておきたい。
by koza5555 | 2013-08-17 23:31 | 奈良 | Comments(0)