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奈良・桜井の歴史と社会

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室生と室生寺

「室生 安らぎと祈りの郷」と題して、5月25日に奈良まほろば館(東京都中央区日本橋室町)でお話しした。
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奈良まほろぼ館、講演

「東京で講演」という声がかかる、これは臆することなく二つ返事でひきうける。
「桜井をテーマで?」との声もあったが、「初めての東京だし、関東での認知度から考えて、室生でやりたい」と答えた。

25日、午前11時からお話した。90分とのことだが時間内にまとめれた。お話は自分のペースでまずまず気分よくできたけど・・

途中で、「室生寺行かれた方は?」とみなさんにお聞きすると、半分くらいの方の手が挙がった。なるほど、なるほどである。
行ったことはあるが、思い出したい、もっと深いことも知りたいということである。
これは「期待に応えねば」である。

寺社を語ればどんな本でも、はじまりは草創である。
寺社のパンフレットもそんな具合である。

ところがガイドだと、これがなかなかの曲者である。
どうしても出足で抽象的になり、話が長くなる。それが気にならないガイドは困るし、それが面倒だからと「あれは何、これは何」で終わるのもやはり手抜きである。
講演となると、物は見えないのだから、「あれは何、これは何」では話がすすまない。
年表からではなく、見えるものから歴史を考える・・うまくいくだろうか。

室生寺の創生は「役小角が開き、空海が真言宗の道場として再興した」という縁起が言われる。
一方、山部親王(桓武天皇)の病気平癒のため、興福寺の僧が室生寺で祈り、それを感謝して室生寺が創建されたとも言われる。龍穴神社はその寺を護持するものとされた。

この創建の縁起は歴史の問題としては決着がついているのだが、その勝ち負けを語るだけでは面白さはゼロである。こんな本はいくらでもあるのである。

現実に空海を祀る奥の院があり、龍神を祀る龍穴神社がある。
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室生寺。奥の院

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龍穴神社

始まりを語るには、10月に行われる室生の秋祭りに注目した。

これが面白いのである。
奥の院の弘法大師と龍穴神社の龍神が対になったお祭りである。
祭に先立ち龍縄(りゅうじょう)が室生寺の境内と龍穴神社の鳥居外の双方にかけられる。
祭に先立ち、龍神(代理・室生区長)が境内立ち入りの許可を弘法大師(代理室生寺住職・真言宗室生寺派管長)に求めるが、何度も断られる。七度半の使いの後に許可が出て、三々九度の杯が交わされる。

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七度半の使いの後、出座する網代智明管長

これらの儀式を経て、お渡りは境内に入り、金堂の前、天神社に向かい神楽を奉納するのだ。
その後、500メートルほど離れた龍穴神社にお渡りして、繰り返し、繰り返して獅子が舞う神楽の奉納が行われる。

室生の村あげての龍王の祭りであるが、実は室生寺と村人がしっかり心を合わせる祭で、室生寺の創生の縁起をお互いに大切にする年に一度の大切な行事である・・と僕は語るのである。

こんな思いで、室生の地にそもそも龍神が祀られた根拠、
室生寺が興福寺支配から脱する歴史と金堂から流出した三本松の安産寺の子安地蔵のこと、
いまの室生寺、いま見える室生の村から昔のこと、昔の知恵を探っていく

こんなようなお話をしたつもりだった。

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三本松、安産寺の地蔵菩薩である

お聞きいただいたみなさん、ありがとうございました。
さて、楽しんでいただけましたでしょうか。
by koza5555 | 2014-05-26 15:03 | 宇陀 | Comments(0)

まほろばソムリエの深イイ奈良講座

25日(日)午前11時から東京日本橋の奈良まほろば館で講演をおこなう。
まほろばソムリエの会は、奈良まほろば館で「まほろばソムリエの深イイ奈良講座」を担当して、奥深い歴史と豊かな自然の奈良を紹介している。

この講座の講師役が回ってきた。
題材は、地元の「多武峰」とか、あれこれ勉強した「初瀬と長谷寺」とかもあったが、とりあえず第一回目は東京での知名度の高い「室生」を取り上げることにした。

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今年の5月の連休の室生、五重塔

真言宗室生寺派大本山 室生寺の網代智明管長は、昨年4月の正御影供(しょうみえく)に合わせて入山式をおこない、「人々の信仰を結ぶとともに、室生寺が心安らぐ場として広く知ってもらえるよう努めたい」と就任の抱負を語られた。

このお言葉をお借りして、「室生 祈りと安らぎ郷」というテーマで、その言葉が浮き彫りになるようなお話をしたいと考えた。

定席は70名。当日の欠席もあるので80名まで受け付けるとのことである。月曜日にお聞きしたところによると「申し込みは73名、資料は75人分用意してください」とのことだった。

明後日のことだが、まだ、残席もあるようである。資料代として500円、いただくことになっているが、時間があえば、日本橋でぜひ、お会いいたしましょう。

ネットで申し込めるが、電話でも 03-3516-3931 で申し込める。
by koza5555 | 2014-05-23 06:59 | 宇陀 | Comments(0)

西大寺と孝謙(称徳)天皇

10月に西大寺に行くこととなった。
こんな大茶盛を体験したいのである。
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2月に留学生といっしょに訪れた大茶盛

765年、称徳天皇が鎮護国家と平和祈願のため7尺の金銅四天王の造立を発願されたのが、当寺のはじまりである(西大寺HP)

西大寺、開基を考えれば孝謙天皇と道鏡、現在の境内を考えれば鎌倉時代の叡尊である。

まずは開基、孝謙天皇と道鏡である。
黒岩重吾とか永井路子とか読んでみても、なかなかの難物である。楽しく話せる入り口が分らない。楽しく聞いていただける着地点がみえない。
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改めて、西大寺のことを思い直してみると、こんな万葉歌碑があるのである


この里は 継ぎて霜や置く 夏の野に わが見し草は もみちたりけり(巻19-4268)
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この歌碑を建てたのは、栃木県で活動されている「道鏡を守る会」である

この歌の題詞をみると、孝謙天皇が光明皇后とともに藤原仲麻呂(恵美押勝)邸を訪れた時に、付き人の命婦(みょうぶ)が誦んだ歌という。

「わが見し草」は「さわあららぎ」とされていて、いまのサワヒヨドリとされているようである(万葉植物図鑑、小村昭雲による)。

激動の歴史である。孝謙天皇は藤原仲麻呂の推す淳仁天皇に皇位を譲るが、実権はもち続ける。意見が異なった淳仁天皇をやめさせ、称徳天皇として重祚し、藤原仲麻呂を放逐するに至るのである。道鏡は天皇の帰依を最大限に生かして、ここで役割を果たしたことは間違いのないところである。

称徳天皇の亡き後、道鏡は都を追われた。下野(栃木県)に下り、穏やかな人生を送ったとされている。

「道鏡を守る会」が建てた歌碑、この歌は孝謙天皇が「仲麻呂の家に幸しし(いでましし)日」の歌で、これはアレッである。
西大寺は孝謙(称徳天皇)天皇が、仲麻呂の乱の戦勝を感謝するために建立されたが、その境内には、仲麻呂の家を楽しく訪れた歌の歌碑があるということだ。

「道鏡を守る会」は道鏡と仲麻呂の和解で、阿倍内親王(孝謙・称徳天皇)の霊を鎮めようとしたのだろうか。

西大寺は大茶盛式が有名である。鎌倉時代に叡尊が鎮守社での祈祷の後に湯茶の振る舞いをしたのが始めと言う。
境内の北西の体性院は叡尊の荼毘所で、その場に建てられた大五輪石塔が現存している。


こんな感じで、楽しく語る西大寺。うまく出来上がったと思うけど。
ツアーは10月だが、西大寺には来週にうかがい、下見する予定である。
by koza5555 | 2014-05-21 09:30 | 奈良 | Comments(0)

葛城山のツツジは満開

昨日は大宇陀のウォークを案内したばかりだが、一夜明けた今日、ツツジを見に葛城山に登ってきた。

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さすがさすがの葛城のつつじ

いま、「大和路を行く」という講座の講師を始めている。NHK文化センター梅田教室(06-6367-0880)である。その講座で昨日17日は大宇陀を歩いた。満開のカザグルマを見ることができて、参加者に喜んでいただいた。

講座は月一回で、毎回第三土曜日と決められている。
一年に10回で、僕としては3年で30回はやりたい、頑張ろうと密かに心に決めている。

今年度は来年の三月まで、決定済みである。
問題は来年度である。

第三土曜日に講座の実施日、翌日の日曜日に「講座の下見」を行おうというのが、僕の考えである。
交通事情の下見は土・日に行かねば下見にならない。
そして、花は「前年の同じ日」に行かねば下見ならない。
そこで、土曜日は僕の講座実施だから、いけるのは必然として次の日、日曜日に行かねばならない。
常に連続になっていまうけど・・・。

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さて、来年の5月は葛城山にお連れしたい。このツツジを見てもらいたいと考えるのである


来年は9時40分に皆さんに近鉄御所駅に到着していただく。
今日は、それに合わせての下見で、御所、葛城山に行ってみた。

御所駅・・・
バスがない。「バスはいつ来るか分らない。バスに乗っても2時間以上かかる」と奈良交通の係員が言う。「歩いたほうが早い。地図もある」と歩く地図までくれるのである。
後で聞くと一番遅れたバスは御所駅前からロープウェイの登山口駅まで約3時間半かかったとのことである。

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とにかく、車も人もすごい。どんどん歩くと、御所駅からロープウェイ登山口駅まで一時間だった


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登山口駅では整理券を配っている

ロープウェイは、乗車1時間40分待ちだった。御所駅あたりでは40分待ちといっていたが、待ち時間が加速度的に伸びている。団体客も多数である。渋滞のバスを降りて、添乗員が整理券配布所に向けて、次々と駆け上がる。こういう青年に負けないランナーがうちにもほしいものである。
参考までに、お昼頃に到着した方のロープウェイ待ち時間が一番長くなり、3時間を超えた。歩いて登ると二時間で、用意もなく無謀に上る方もたくさんいた。

行程である。
御所駅9時20分着。歩いて歩いて櫛羅(くじら)を越えて、登山口駅に10時20分(歩行は一時間)。ロープウェイの待ち時間は1時間40分で12時に乗車できた。ちなみ食事は下で済ませた。
つつじ、山頂などを経て(歩行距離2キロメートル弱である)、13時30分に山上駅に並び、40分待ちでロープウェイで下山。山を下りてくると奈良交通のバスが幸運にもあらわれて、15時には御所駅に帰ってこれた。

今日はつつじ、満開。昨日・今日が山は大混雑で大繁盛である。
アプローチも帰路も大変だが、ここのツツジを見てもらいたい。

葛城山のツツジ
山頂付近に多数植生しており、5月中旬から下旬ごろに開花。もともと山頂付近は笹で覆われていた。しかし1970年頃に笹が花を咲かせ、のちに一斉に枯れてしまった。ツツジはその跡に自然に生えてきたものである。ただし笹は自生力が大変強いために、ツツジを維持するため毎年2回笹刈りが行われている。ウィキペディア


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葛城山頂上、あいさつしてきました
by koza5555 | 2014-05-18 22:30 | 橿原・明日香・吉野 | Comments(0)

17日は大宇陀、松山でウォーク

5月の「大和路を行く」は、大宇陀・松山を選んだ。

大阪の皆さんに大宇陀のカザグルマを見てもらいたいのである。
5月の第三土曜日、カザグルマを拝見するには絶好の日よりである。

このウォークのテーマは三つである。
一つはカザグルマを見てもらうこと。

一つは大宇陀・松山の町並みを歩くこと。その一環として、「必ず行きなさい」と大宇陀の友人い言われている薬の館にも入館することとなっている。
あとは、久保本家酒造での試飲、お酒を持ち帰っていただこうという算段である。

いま一つは阿騎野の柿本人麻呂である
今回は時間が足らない。人麻呂公園にもかぎろひの丘にも行けない・・・ので、一切を神楽岡神社でやることとした。

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人麻呂公園の白亜の像、これが見れない。高見山も見ることができない。騎馬像のパネルを作ったりして対応しよう

この像にかんして、今回は梅原猛先生を援用して、僕の思いを語ろうと思う。


持統天皇6年(692年)の柿本人麻呂、阿騎野を歌うである。
梅原先生の解釈はこうである。
人麻呂にとっては、草壁皇子の遺児である軽皇子に従う旅であったが、人麻呂の渦巻く心は「草壁皇子、一色」ということだった。長歌一首、短歌四首の一連の歌は、すべてが草壁皇子をしのび、思う歌という解釈である。
長歌の「坂鳥の 朝越えまして 玉かざる 夕さりくれば み雪降る」などは魂を運ぶ鳥を追って、死者の魂を求めるという旅との指摘である。短歌4首も、目の前の軽皇子ではなくあくまでも草壁皇子がテーマである。

この人麻呂広場の騎馬像は中山正實画伯の「阿騎野の朝」からとられている。

この馬上の人物は誰か、これがいつも問題になっている。軽皇子という方もいたが、まだ10歳、問題にならない。柿本人麻呂ではないか、これが普通の解釈だが、それだと狩りの一行の一番偉い人、という図式でこれは諸説がある。

この馬上の貴族・・・「もし生きていたらこんな姿だっただろう・・草壁皇子」、それが僕のイメージである。
服装も皇子の服装とは違うようだし、奇想天外だろうが、当時の柿本人麻呂の叫び、それは歌であるが、それを考えると、それが自然のように思えてならない。

著名なのは、「東の野にかぎろひの立つ見えてかへり見すれば月かたぶきぬ」だが、「日並(ひなみし)の 皇子の尊の 馬並(な)めて み狩立たしし 時は来むかふ」が、人麻呂が一番言いたかったのではなかろうか。
「日並(ひなみし)の皇子」とは言うまでもなく、草壁の皇子、その人であり、人麻呂は草壁の皇子と共に狩りに出る・・・変?(笑)

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カザグルマ。キンポウゲ科の蔓性植物で、自生地の北限として昭和23年に旧大宇陀町で天然記念物に指定されている。

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カザグルマは種こそカザグルマ。この画も見てほしい。これは秋の画だが。

17日(土)、お天気も良さそうだし、期待は高まる。
by koza5555 | 2014-05-14 22:46 | 宇陀 | Comments(0)

坂本信幸先生に連れられて萬葉一日旅行

5月10日、萬葉学会主催の「萬葉一日旅行」に出かけてきた。
町内の行事が密集していた頃だったが、坂本信幸先生、上野誠先生が講師とあり、「これは見逃せない」。

天理駅前集合、石上市神社、在原神社、人麻呂歌塚・和爾下神社、東大寺山古墳を経て櫟本高塚公園で昼食、帯解黄金山古墳(舎人親王墓伝承地)や崇道天皇陵を拝見して奈良に至るというコースだった。

山の辺の道がテーマだったが、歩いてみたら、そこは僕には未知の道だった。
今度のコースはほとんど行ったことがあり、ブログにも書いたりしていたが、今回、解説を聞いてみれば僕の知らない物語だった。

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和邇下神社にて、長忌寸意吉麻呂(ながのいみきおきまろ)の「さすなべに湯わかせて子ども いちい津の 檜橋より来む(コン) 狐(きつ)にあむさせむ」を楽しく解説する坂本信幸先生


天理といえば石上神宮、石上神宮といえば布留川というような僕の図式だったが、今回はこれとは違って、もう一つ北の谷、「高瀬川と和邇」がテーマだった。

高瀬川は五ヶ谷に発して佐保川に合流してやがて大和川である。この川に沿って北の横大路という道があり、西名阪国道はこの道に並行しているのである。
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この写真は切り貼りです(すみません)


櫟本に立てられている石標。
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北の横大路と上街道(上ツ道)の十字路の石標。左たつた、右ならみちと刻まれている


この扇状地が縄文時代から生活空間として確立され、弥生時代の歴史(この谷から銅鐸が相当数出土している)もあり、古代の和邇氏の本貫地であるとみられている。

その歴史は中世・近世にもつながる。
在原業平とその父の阿保親王(平城天皇の皇子)を祀る業平寺が、この地にあったり、この地域の中心市街地が櫟本であったりするのも偶然ではないのである。

大和川、佐保川をさかのぼるとしっかりした扇状地があり、上ツ道、山辺道のチマタでもあるということで、盆地北東部を背景に巨大な力をもち、佐紀盾列古墳群にも関係した和邇氏の本拠地であるという見方だった。
いろんなことがつながった思いのする、良い勉強ができた。

上街道を歩いていて、由緒ありげな建物に出会った。大阪府警奈良警察櫟本分署跡・・・
奈良県が明治時代の初期、大阪府に組み込まれ(その後堺県、分離の運動があり奈良県に)ていたことは知っていたが、こんな遺産は知らなかった。
この分署で天理教教祖、中山みきが尋問されたとのことで、史跡として保存する運動があるようである。

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大阪附警察奈良櫟本分署跡

あとは、東大寺山古墳であろうか。
天理教城法-しきのり-大教会の敷地内にあり、4世紀後半頃に築造された前方後円墳で、全長140m。葺き石、埴輪を持つ。粘土槨に覆われた、9.4メートルの木棺があった。
盗掘を受けていたが、粘土槨の東西に、武器や武具が副葬されており、東側から金象がんで「中平」(184年)の号を持つ刀が出土したことで著名である。
「中平□年五月丙午の日、銘文を入れた刀を造った。よく鍛えられた刀であるから、天上では神の御意に叶い、下界では禍を避けることができる」とのことである。

解説は古墳の下で行われたが、僕らは古墳の上まで。

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この古墳を探しに3回ほど来たことがある。教会の敷地内とは思わず、シャープの駐車場や寮のあたりをさがした。古墳の上で友人の田原さん(右)、左が田波さんである

今日は、どうしてもの所用がありお昼にリタイアである。
上野先生のお話を他の意味にしていたが、聞くことができなかった。次の楽しみとなった。
by koza5555 | 2014-05-11 14:10 | 万葉の旅 | Comments(2)

萬葉一日旅行

萬葉学会(関西大学文学部内)は「万葉一日旅行」を開催する。

5月10日(土)であるが(すみません、こんなに直前のブログアップで)、天理駅前に9時30分集合、

石上市神社(石上町にあり、少彦名命を祀る)、在原神社、高良神社、人麻呂歌塚・和爾下神社、東大寺山古墳を見学して櫟本高塚公園でお弁当である。

午後は和爾坐赤阪比古神社、帯解黄金山古墳(舎人親王墓と伝えられる)、崇道天皇陵で解散である。

手持ちの写真を探して、とりあえず

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帯解黄金山古墳(舎人親王墓伝承地)。黄金塚陵墓参考地のこと?


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崇道天皇陵

天理から奈良にかけてのいかにもマニアックコースで、
そして・・講師が・・坂本信幸先生と上野誠先生なのである。

僕も、9日から12日にかけて、ムチャクチャに日程が混み合っているが、これは行かねばという気分である。

事前申し込み必要なし、雨天決行、弁当持参で保険はなしと宣言されている。
料金は無料、萬葉学会は、会の内外で広く参加を広く呼び掛けている。

ご一緒しませんか・・・である。
by koza5555 | 2014-05-07 22:29 | 万葉の旅 | Comments(2)

出雲の庚申塔華(こうしんとうげ)

初瀬谷の出雲や慈恩寺(きっと他にも)には、村の集会所ともいえるようなお寺に庚申塔が建てられている。
ちなみにわが阿部村の法楽寺にも庚申像が建てられていたけど・・

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田植えの準備で忙しい出雲の棚田

日待(ひまち)、月待(つきまち)、庚申待(こうしんまち)という行事がある。
民俗行事と言われてきたが、どうも道教の影響を受けた仏事とのことである。

庚申待とは、人間の罪過を見張る「三戸(さんし)」という虫が天帝に報告に行く庚申(かのえさる)の日に、身に覚えのある人は、その報告を阻止するために眠らずに夜を明かすという行事である。
ならまちの元興寺の庚申堂、庚申待が有名である。

それと合わせて、日待、月待という行事も古くから行われてきたといわれる。
日を決めて日の出を待つ行事、月の出を待つ行事である。一言で言えば、日と月の信仰であろうか。

盛んに行われた江戸時代には日待塔、月待塔というのが各村に建てられたが、廃仏毀釈の運動で「淫祠(いんし)の禁令」で数多くが廃棄されたとみられている。
日を祀るか、月を祀るか、三戸の虫を見張るか、それぞれ違うようだが形態は共通で、町や村に与える影響は変わらなかったように思える。

出雲区の門脇区長さんにお聞きすると、
「出雲では庚申待はやらないが、閏年(陰暦)の四月に庚申塔華(こうしんとうげ)を行っている。各組で願人(当番)が決まっており、青面金剛(しょうめんこんごう)と庚申塔の前で法事を行う」とのことである。
庚申塔華、初めて聞く言葉である。ネットの検索でも当たらない・・・庚申塔を花で飾る・・そんな意味だろうか。ちなみに出雲の隣(隣の隣の隣だが)の慈恩寺は、単に「庚申さん」と言っているようだが。

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出雲の青面金剛

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出雲の庚申塔

願人(各組一人、出雲は9組である)は「奉勧請青面童子 村内無事 家族安全 五穀成就 如意吉祥修」と樫の棒に書き込んで持ち寄り、梵字を僧侶が記入して、玄関に飾るという法要である。
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願をかけた樫の棒

門脇さんは、「日待講はやってないが、8月に風日待(かぜひまち)がある。会所で五穀豊穣を祈る式典を行い、組ごとに宴席を持つが、いまでは当屋宅ではなく寿司屋・料理屋ですませる」ということもおっしゃる。
日待の塔はとくには無いようである。

ちなみに出雲は笠荒神にならっての三宝荒神も祀られており、笠荒神の関係も深い。
青面金剛は日・月・鶏、三猿に囲まれた憤怒仏が一般的とのことであるが、三宝荒神にもそんな石仏あるようである。一度拝観してみたいものである。

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最後に大宇陀のおちゃめ庚申

桜井でも街中では庚申待は行われなくなった思われるが、山間の村では、いまもも行われているのである。
by koza5555 | 2014-05-03 18:24 | 桜井・初瀬 | Comments(2)

空也上人と朝日観音

天理市佐保の庄に朝日廃寺と聖観音の石仏が残されている。

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これが朝日聖観音。「天文23年(1554年)12月各夜覚円」の銘があり、覚円という隔夜僧が千日の行を成し遂げ満願を記念して建立したもので、朝日寺の本尊として祀られたといわれる(てくちゃんと訪ねるふるさと歴史散歩・天理市)

上街道(初瀬街道)は佐保の庄の北側で大きく西に曲る。その曲りの内側に朝日山円通寺という大寺があったとのことである。明治8年に廃寺となり、朝日廃寺というべきものである。

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いまは、小さな観音堂が再建されており、木彫りの聖観音菩薩立像が安置されている


朝日廃寺(朝日堂)は南無阿弥陀仏と唱えるだけで、いかなる凡夫愚人も、いや悪人さえも往生できると説いた空也上人にかかわる寺院だった。

空也は往生の道を尋ねた高僧には、「捨ててこそ」と言い切り、罪人が囚われている東市(平安京)に庵をもち、「ひとたびも南無阿弥陀仏という人の 蓮(はちす)のうえにのぼらぬはなし」と、極楽往生は一声の称名で間違いなしと説いたのである。

空也のこの教えは庶民に向かっての教えで、さらに鎌倉仏教の大きな源流になった教えであり、その人だったと言えるのである。

この空也が長谷寺を訪れている。
観音の霊地として名が知られていた大和の長谷寺に空也は958年に訪れた。55歳の時である。
さらに空也は長谷寺の帰りに添上(そうのかみ)郡の勝部寺に泊まったという。この勝部寺が奈良市であることは確実だが、その場所は特定されていない。高畑町の隔夜堂に関わりがあると見るのが一般的な見方であるけど。

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そのころ、空也上人はこんな姿で歩いていたのである。この像は六波羅蜜寺の安置されているものだが、阿弥陀聖 空也(石井義長著)の書の表紙をから想像してほしい

この空也上人の徳を慕って、いつしか初瀬と奈良を往還する隔夜行という行が生まれる。奈良で泊まった次の日は初瀬にと言う具合である。

白い着物に黒い衣を着て、ハスの花笠をかむり、胸の前に鉦を立てて、それを叩きながら念仏を唱えて歩き続ける。1000日とか1500日が満願だったという。
その姿とその思いは空也の遊行の姿であった。

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奈良では新薬師寺の奥、隔夜堂に泊まる

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初瀬では法起院に、のちに興喜天満宮境内の興喜寺に泊まるのである

この隔夜僧が朝日を迎える場が、大和神社、佐保庄の朝日円通寺だったのである。

最後に少し考えてみた・・・
空也は藤原師氏(もろうじ)の死に当たり、閻魔大王に手紙を書いたりするのである。「中納言 藤原師氏は先に冥途に向かうが、この方は空也の壇越(だんおつ)であり、魔王はこの事情を知り、優しく恵みを与えよ」と。長谷寺のダダ押しで徳道承認と閻魔大王の会話が出てくるが、中世の閻魔大王は今よりも人間社会に身近な存在だったのだろうか?

桜井市史、阿弥陀聖空也(講談社新書 石井議長)、捨聖・一遍上人(講談社現代新書 梅谷繁樹)を参照しました。
by koza5555 | 2014-05-01 22:44 | 桜井・山の辺 | Comments(0)