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奈良・桜井の歴史と社会

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今井町 甦る自治都市

「今井町 甦る自治都市」(学芸出版社 2006年)を読んだ。

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慶安3年(1650年)の棟札がかかるという今西家である。大屋根を支える梁である。昭和32年の大修理で三本のうち一本が取り替えれられいる

10月の「大和路を行く」は今井町(橿原市)を歩く。
ここは何度も案内したが、魅力を伝えきれたという実感がなかった。
今回は食事の手配も含めてガイドは若林さん(今井町町並み保存会会長)にお任せしている。下見・相談は済ませているが、予習をもう少ししておきたいのである。

町の基本的な姿は、古いところだと今井町町史(昭和32年刊行)が一番であるが、その後の今井町の保存の運動を考えることも大切と思えてきたのである。この本は、うってつけのテキストである。

重要伝統的建造物群保存地区(以下、重伝建)という指定がある。
この法律は昭和50年に制定されたが、初めから今井町を念頭に置いていた。したがって、今井町は真っ先に指定されると思いきや、今井町は、20年遅れの平成5年の指定となったのである。

今井町の町並み保存運動は、早くから今井御坊(称念寺)の今井博道氏によって開始された。
一方、今西家からは慶安3年の棟札が発見され、昭和32年に重文に指定、昭和36年に解体修理されて、八つ棟が往時の姿に再現される。

昭和42年には6軒の民家(旧米谷家 高木家 音村家、中橋家、豊田家、上田家)がまとめて国の重文に指定された。

今井に行くと、いつでも「突止め溝」の説明を聞く。
二間幅の敷居で、溝が一本だけは通しで、残りの三本はそれぞれの長さが違うという敷居溝のことである。

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土間から座敷に上がる敷居に板戸が付くが、その敷居溝のことである

これが、新旧の一つの目安ということで着眼されたことなどが紹介されている。


こうした旧家の姿や調査を説明しつつも、今井町の保存のための住民合意の形成・・・、この本はここにスポットを当てているのである。

住民の意識は複雑である。
30年ほど前のアンケートだが、町民の7割は「今井町は古いので貴重」としつつも、「実物をそのまま保存」は4割程度だったと紹介されている。
重伝建の指定で、資産価値、使い勝手、改築の可否などの不安があったということである。

今井は「住民合意の欠如」、申請はされず、指定は見送られた。

町並み保存と都市計画の調和、町並み保存と経済効果や暮らしやすさとの調和、こんな検討を繰り返して、長い道のりの20年を経て、重伝建指定に至るのである。

今井の借家問題を、この本で初めて知った。
重伝建は重文指定の旧家だけでなく、町並みの保存である。
今井町の4割は借家で、町並みの景観の重要な要素という。
ここが、老朽化している。三世代以上の借家で家賃も格安で、建て替えは規制が働くので、家主には経済的な意味がないのである。
具体的な補償、補助などの詳細は読み取れなかったが、家主層の協力・参加もあって、住民合意の形成がすすんだとされている。

道路整備などの工夫、これもうなった。
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電柱の地中化は景観上から大事であるが、「道路を高くしない工法で建物の壁面と道路の関係をすっきりさせたことにより、景観を保った」とある。道路をたかめないことにより、町民の排水の不安払しょくの効果もあり、一石二鳥である。

こんなことを考えながら、今井をもう一度、ゆっくり歩いてみたい。
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今井町 甦る自治都市

by koza5555 | 2014-07-31 14:31 | 読書 | Comments(0)

多武峰から飛鳥の里に

談山神社から明日香(飛鳥)の小原まで歩いてみた。
この暑い中を何で?ということであるが、秋のウォーキングの下見である。

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はじめに新緑に浮かぶ十三重塔である

11月15日(土)の「大和路を行く」は多武峰である。
僕が案内している 「大人の学校」の「歴史講座」も、11月28日(金)は多武峰である。

いずれも桜井駅の南口に集合して路線バスで談山神社に上がる。多武峰はトップシーズンで、11月中旬から12月上旬までは、バスがドーンと増発されている。

一時間くらいですばやく神社を回り、社務所の会議室をお借りして食事をする予定である。
午後は念誦窟(ねずき)、万葉展望台を経て明日香小原まで下り、バスで橿原神宮駅東口に出るコースである。

一度、通しの下見が必要だった。昨日、28日の午前は涼しかった(午後は猛暑だったが・・)ので、山道や万葉展望台の状況も見たいと考え、歩いてくることとした。

まずは西門跡。女人禁制の碑があるが、今日は石仏の紹介である。
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「花崗岩の自然石で作られている。一石の造り出し、半肉彫り、左手は甲を表にした弥勒触地印で、光背部左右に、文久3年8月8日奉造立。大勧進正延延大工藤井延清とある。市内の在銘石仏としては最古(1266年)のもの」
 (桜井市教育委員会)とある。

念誦窟を経て、北山へ、途中から明日香に降りる道に入る。

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明日香と高家との分岐点には、みごとな三石仏が置かれている


そのあとに万葉展望台
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ササが刈られ、こんなぐあいに整備されていてビックリである


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午後からはちょっと霞んで残念だった。思い切って早朝に行くとか、ヘッドライトを持って夕方登るとか・・・ここからの良い写真を撮りたいものである

ブルドーザが入って、道路補修が行われていた。
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「明日香村の事業を森林組合で行っている」とのことだった。「古道維持管理」ということで、道が均されたり、草刈なども丹念にされていて、安全な道となっている。
飛鳥坐神社から多武峰への道は「鎌足を祀る談山神社の表参道」で、飛鳥の有力な「古道」ということである。

明日香小原には神社があった。この神社には藤原鎌足ゆかりの 「産湯の井戸」なるものもあり、明日香に降りれば、鎌足街道の実感がさらに増すのである。

地道が長くて、「大和路を行く」では、ハードなコースに入るが、くだり坂だし、軽登山靴とかスティックを持ってきていただくとか、そんな準備もして、みんなで歩き切りたいものである。

談山神社の紅葉、奈良盆地の眺望、秋が深まる森の道、楽しみの多い素晴らしいウォーキングになるだろう。
by koza5555 | 2014-07-29 00:03 | 桜井・多武峰 | Comments(0)

談山神社 東大門の修理

27日、談山神社の総代会に参加した。
談山神社の総代は35名である。
総代は関係する各大字から選出され、神社から委嘱を受ける。

総代の仕事は「談山神社」(宗教法人)規則によれば、「神社の運営に協力する」こと、「責任役員を選出すること」、「決算と予算の報告を受けること」などである。
祭りの参加が大きな仕事で、神幸祭などの渡御のお手伝いなどもあるのである。

平成25年度の決算、平成26年度の予算の説明を受けた。
例年の決算では、先の大震災以降の参拝者の減少が課題となっているが、とくに昨年は特殊に大きな落ち込みとなった。

現状と対策の報告が決算・予算に先立って行われたが、ちょっと心して取り組んでいると報告された。
「神社の魅力を語るだけじゃなく、連れて行く」ことをもっと考えねばである。
とりあえずは年内に、「大和路を行く」と「歴史講座」の二つのグループをこちらに案内するが、商売熱心になって(笑)、他にも何かを考えねばと・・思う次第である。

決算・予算報告のあとに、「東大門の修理を始める」と紹介があった。

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談山神社東大門

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こんな設計図をみせていただいた


神社の東大門は屋形橋を渡ればすぐである。

奈良県指定文化財である。
「談山神社の東入り口・一の橋の近くで両袖付きの高麗門で本瓦葺き。左右に木棚がつけられた東大門である。中央板扉、南側の袖はくぐり戸となる。
脇塀の墨書きから、享和三年(1803年)建立と認められる。社寺の表門に城郭風の門の用いられた、数少ない遺構の一つとして貴重である」(
桜井市教育委員会)とある。

今年の秋は覆い屋に覆われていることになるが、来年の秋には見事に復元されることになり、とても楽しみである。

8月中旬には、直近に工事事務所などが建てられるとのことであるから、総代会の帰りに写真を撮ってきた。

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門の奥に工事事務所や作業所が設置されるようである


by koza5555 | 2014-07-28 00:59 | 桜井・多武峰 | Comments(0)

第三回 纒向学セミナー

26日、暑い日、桜井市にて第3回 纒向学セミナー(桜井市纏向学センター主催)が開かれた。
テーマは「原倭国(げんやまとこく)の形成と纒向遺跡」で森岡秀人桜井市纒向学研究センター研究員がお話になり、寺澤薫所長との対談も行われた。

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お話する森岡秀人先生

森岡秀人先生は「邪馬台国は纏向で間違いないが、卑弥呼は近畿北部で擁立されて、纒向に移動してきて後半の治世をおこなった」と持論を展開された。

初めて読み聞くお話だったので、僕はとりあえず驚いたが、「そうかあ。琵琶湖からか、ということは敦賀からか」と、変に納得である。

森岡秀人 (もりおかひでと)。1952年生まれ。日本文化財科学会評議員で纒向学センター研究員である。

纏向の邪馬台国はどこから来たのか。その倭国(やまとくに)前史というものがあるだろうというテーマである。
九州・吉備経由というのがふつうだが、森岡賛成は近江からが持論である。
大陸からの文明の流入も一世紀、二世紀から複線化となって、出雲ルートとか敦賀ルートというのもあるというのだ。

「敦賀ルート」というのを、長谷寺の喜多昭賢師が十一面観世音菩薩像の造像の歴史を絡めて語っておられたたが、それは6世紀とか7世紀の話だった。

森岡先生は「邪馬台国の前段、原倭国は琵琶湖南岸、野洲川沿い」とされ、「ピンポイントで、滋賀県守山市の伊勢遺跡と考える」とされた。

理由は・・
僕なりの聞き取れた範囲で紹介すると
弥生時代後期の近江系土器が全国に広がっている。
纒向遺跡からは東海から九州にかけての土器が持ち寄られて事が知られているが、淡海からは全国に発信されているというのだ。

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土器の流れである

さらに小銅鐸の原料を重視するとのことである。
弥生時代後期の小銅鐸は、その成分(すずなどの含有量)から中国由来であることは明白であるが、この流入ルートを考えるべきとのことである。
九州から入り近畿・東国にひろがるというように想定しがちだが、滋賀・静岡・神奈川・三重にも広がっており、九州経由とは異なるルートがあり、これが敦賀・近江というルートである。

遺跡からみても、近畿北部(滋賀県守山市)で卑弥呼は擁立され、大和(纒向)に移動、倭国王として治世したという論である。

とても面白そうだが、いろいろな問題もある。
たとえば対談で寺沢薫所長も指摘されていたが、「古墳の発生の歴史などを考えると九州・吉備を経て倭(纏向)というのが普通」と指摘されたりしている。

僕なりにさらに想像を膨らませれば、
卑弥呼はなぜ移住したのか、移住後の近江はどうなったのかとか。
近江から一緒に移住してきた氏族は誰だろうか、そんな感じが記紀に触れられないのはなぜだろうかとか。

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寺沢所長との対談。所長の質問であれこれ整理されて、はじめての問題の所在がわかる(笑)という構成だった。セミナーらしいと言えばそういうことだが・・・
by koza5555 | 2014-07-27 09:10 | 邪馬台国(やまとこく) | Comments(2)

泥掛地蔵と青木廃寺跡

今日は桜井市橋本の地蔵盆である。
こちらは宵地蔵で23日の午後2時からの会式である。

山の中のため池のほとりに祀られた小さな祠である。

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こじんまりと涼しげに執り行われた

実は昨年もこちらを訪れたのである。
昨年は、午後3時に訪れたのだが、「午後2時からでしたよ」と、どなたにもお会いできなかった。
今年は区長さんに確認済みである。

橋本の地蔵盆は有名である。
一つは「泥掛地蔵」と言われる行事が知られており、
いま一つはお地蔵さまが青木廃寺跡におかれているということで。

「泥掛地蔵行事」とは、すぐ下のため池の泥をすくって、お地蔵さんに塗りつける信心である。自身の痛むところ、治したいところに合わせて塗りつけると、効能抜群とのことである。

これを一度は拝見したいと訪れたのであるが・・・・泥掛行事は行われなかった。
「この行事は10年くらい前には廃れた」、とのことである。
橋本の法栄寺の木村良格さんは「泥掛、泥付けはもともとの行事ではなかった。誰ということなく始まった。皆でいっせいにするのではなく、各々が時間をおいて塗りつけていた」とのことだった。
「地蔵盆でというより、日常的に塗られたいた」ともお聞きした。
なるほどである。

それから、青木廃寺のことである。
「創建当時の瓦が出土している。この寺は奈良時代の悲劇の宰相だった長屋王が、父高市皇子の冥福を祈って建てたと大脇潔氏(奈良国立文化財研究所 飛鳥藤原宮跡発掘調査部、現近畿大学文芸学部教授)が考証した。
創建当初の瓦は、平城京内の長屋王邸跡で集中的に出土した瓦と同笵である」(桜井市教育委員会)。

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青木廃寺解説板

「こんなところに大寺が」と思うが、吉備池廃寺とは直線距離で7~800メートルくらいしか離れていない、そしてこの青木廃寺が南向きだとすると、ほとんど山田道に向いていたということになるのである。

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泥掛け地蔵前のため池のスイレン。花はまだまだこれからである

by koza5555 | 2014-07-23 18:51 | 桜井市と安倍 | Comments(0)

聖林寺 十一面観音菩薩像

聖林寺の国宝・十一面観音像の来歴を調べて、産経新聞(7月19日)奈良版、「奈良再発見」にそのことを書いた。

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桜井市 聖林寺

和辻哲郎は、古寺巡礼で「この十一面観音像は神仏分離・廃仏毀釈の時期に、草むらに打ち捨てられていたのを、通りかかった聖林寺の住職が発見して寺に安置したという伝承」を語っている(大正8年)。

拝観してみればよく分るが、この十一面観音菩薩像が、草むらで雨露にさらされていたものでないことは明白である。
和辻は、廃仏毀釈の激しい嵐を形容するために、こんなふうに記したと・・僕はいつも解説してきたのである。
でも、「それだけだろうか」。「そんなヒントを、誰が和辻に与えたのだろうか」、これが気になっていたのである。

そんなことを考えていたころ、地元の吉田製材の社長が、「聖林寺の十一面観音は桜井の橋本にいたと言われている」と、教えてくれたのである。

「聖林寺の十一面観音は我が家におられた」という、橋本の米田さん宅を訪ねたのである。お話を聞き、資料を見せていただいた。
なにしろ国宝の来歴のことである。関係する方にもご意見をお聞きして、間違いなかろうという結論に到達することができた。

ここらあたりのことは、「再発見」に詳しく書き込んだ。

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産経新聞。7月19日付、奈良版。上段だけであるが・・・

「聖林寺の十一面観音様は、一時期だが我が家におられた」と桜井市橋本の米田昌徳さんは話す。
「大御輪寺の住職は我が家から出た郭道さんだった。廃寺にあたり還俗(げんぞく)、十一面観音様とともに橋本に帰ってきた」と米田家では言い伝えられている。

郭道和尚は聖林寺で学び、廃寺となる大御輪寺の最後の住職だった。廃寺にあたっては、他の僧侶とは異なり大神神社の神官への道を求めず、十一面観音菩薩像と共に寺を去ったのである。

「我が家で観音様に毎日、経をあげ、給仕をしていた。寝仏という姿で別座敷に祀られていた」が、米田さんのおばあちゃんの言葉である。
郭道さんは明治二年七月に亡くなり、その後、観音様は聖林寺に移されたということだ。

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桜井市橋本の米田家

「十一面観音菩薩は、大御輪寺を出られてから聖林寺に至るまでの一時期、どこにおられるか不明」だったのである。
和辻は、「廃仏毀釈の嵐」と合わせて、この話をきいて、「路端に捨て置かれた十一面観音像」のエピソードを、古寺巡礼に書いたのでなかろうか。

東大寺の造仏所で造られた十一面観音菩薩は、大和朝廷の故郷である三輪で長く祀られ、神仏分離令により三輪の大御輪寺を去ることとなったが、いまは聖林寺できらきらと光り輝いている。
観音様は人々の思いを受け止め、人々の心を救ってきたが、同時にたくさんの人々の篤い思いで守られてきた、そんな歴史を忘れてはならない。

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聖林寺、十一地面観音菩薩像


以下は、この記事の全文である。桜井では間々、お聞きする話だが、全国紙での紹介はこれが初めと自負している。

十一面観音菩薩といえば、まずは桜井市の聖林寺の像が思い起こされる。
半ば閉じた目としっかり結んだ口、そしてふくよかな面相は神々しく、そして同時に人間らしい優しさと美しさに満ちあふれている。
 造像されたのは奈良時代。以来、どれだけの人々がこのお顔を仰ぎ見てきたことだろうか。
どれだけの人々が悩みや思いのたけを語りかけたか、そして観音様はそのすべての願いを受け止め、数々の力を人々に授けてきたのである。
この十一面観音菩薩像は760年頃に、東大寺の造仏所で造られ、大神神社と一体であった大御輪寺(おおみわでら)のご本尊として祀られた。
木心乾漆の技法で作られた代表的な仏像である。大まかな形の木像を彫刻し、その上に木粉(きこな)と漆を練り合わせた木屎漆(こくそうるし)を盛り上げる木心乾漆の技法は、顔や身体の豊かな肉付き、柔らかみを表現する優れた技法であった。

明治元(慶応4)年の神仏分離令によって、この観音様は嵐の中に投げ込まれることとなった。大御輪寺が廃寺となり、ご本尊の観音居所がなくなり、やがて聖林寺に落ちつかれ、祀られるという数奇な運命をたどることになった。
「桜井を縦断して聖林寺まで、仏様を荷車で運んだ。坂道はみんなで押し上げた」と、廃仏の時勢の中でも、多くの篤志家(とくしか)が力を出し合った心温まる情景が伝えられている。
当時の聖林寺は学問寺で、聖林寺の住職と大御輪寺の住職が学僧仲間だった。そのつながりで聖林寺に移されたのは自然のなりゆきだった。

ところが、観音様が聖林寺に移されるにあたっては、もう一つ複雑な経過が桜井では語られている。
「聖林寺の十一面観音様は、一時期だが我が家におられた」と桜井市橋本の米田昌徳さんは話す。
「大御輪寺の住職は我が家から出た郭(かく)道(どう)さんだった。廃寺にあたり還俗(げんぞく)、十一面観音様とともに橋本に帰ってきた」と米田家では言い伝えられている。

郭道和尚は聖林寺で学び、廃寺となる大御輪寺の最後の住職だった。廃寺にあたっては、他の僧侶とは異なり神官への道を求めず、十一面観音菩薩像と共に寺を去ったのである。

「我が家で観音様に毎日、経をあげ、給仕をしていた。寝仏という姿で別座敷に祀られていた」が、米田さんのおばあちゃんの言葉である。郭道さんは明治二年七月に亡くなり、その後、観音様は聖林寺に移されたということだ。
米田家に明瞭に伝承されてきたこのエピソード、これは信じるべきであろう。
その後、聖林寺の仏像の調査に訪れたアメリカ人の哲学者アーネスト フェノロサが十一面観音菩薩像を激賞し、さらに和辻哲郎や白洲正子などの紹介もあって、その素晴らしさが広く知られるようになっていった。

東大寺の造仏所で造られた十一面観音菩薩は、大和朝廷の故郷である三輪で長く祀られ、神仏分離令により三輪の大御輪寺を去ることとなったが、いまは聖林寺できらきらと光り輝いている。

観音様は人々の思いを受け止め、人々の心を救ってきたが、同時にたくさんの人々の篤い思いで守られてきた、そんな歴史を忘れてはならない。


最後まで読んでいただきまして、ありがとうございます。
by koza5555 | 2014-07-19 05:36 | 桜井・多武峰 | Comments(2)

手向山八幡宮と宇佐八幡宮、大仏造仏に至る道

大仏建立、手向山八幡宮と宇佐八幡宮のことを考えてみた。
「東大寺の大仏は宇佐の銅と陸奥の金があってこそ」と考えてみた。

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今朝の東大寺大仏殿。雨

743年、「廬舎那仏造営の詔」
一枝の草や一握りの土のような僅かなものでも捧げて、この造仏の仕事に協力したいと願う者があればそれを許そう」という、これである。

745年、紫香楽で大仏建立に失敗した聖武天皇が、恭仁宮から平城宮に還幸。
745年8月15日、大安殿で無遮大会を開き、東大寺での大仏建立を祈る。

749年に続日本紀には、大仏の造像に関して二つの事件が記されている。
一つは宇佐八幡宮の託宣、勧請である。大仏造像に必要な銅は滞りなく届けようという、誓いのように思えるのである。

749年11月29日、八幡大神の託宣があり、禰宜尼らが平城京に向け出発する。
12月18日大和に到着、貴族20名が平群に迎えて入京に至り、
大神の禰宜尼が、12月27日、紫色の輿で東大寺(転害門から)に入るとある。

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東大寺転害門。宮中からならば、転害門は順路であろう

「豊前国宇佐郡の八幡大神が『われ天神地祇をひきい、必ず造仏を成就させよう。それは特別のことではなく、銅(あかがね)の湯を水となし、わが身を草木土に交えて、支障が起こることなく、無事に完成させよう』と仰せられた」と、この日に橘諸兄が宣命するのである。

この年には大仏造像のためもう一つの事件がある。
陸奥国からの黄金の献上である。

749年4月1日に、「天地開闢以来、わが国に黄金は産しないとされたが、陸奥より産出された」と、廬舎那仏像に報告がなされた。

「陸奥国より金を出だせる詔書を賀く歌一首、また短歌」という大伴家持の歌がある。
 
すめろきの 御代(みよ)栄えむと あずまなる みちのく山に 金(くがね)花咲く
 巻18-4097 大伴家持

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この歌は、東大寺真言院(東大寺ミュージアムの北側)内に歌碑がある

この歌に先立つ長歌があり、そこから有名な軍歌が取り出されている。
「海行かば 水漬(みづ)く屍(かばね) 山行かば 草生(む)す屍
 大王の 辺(へ)にこそ死なめ かへり見は せじ・・・」(巻18-4094)

・・・である

亡くなった親父は18年間の海軍生活を送った。よくも生きて帰ったと思えるような長い軍艦生活であった。酔えば僕らの前でも、必ず軍歌を歌ってくれたが、「軍艦では、この歌は葬送(水葬)の歌」と言い、当たり前のことであるが、良い思い出はないようで、なかなか歌わなかったのである。

万葉歌は、大伴が天皇に奉ずる軍人としての誇りと義務を歌う歌である。

大仏のことだった。ともあれ、陸奥の金があり、宇佐の銅がある。
宇佐八幡大神は「銅(あかがね)の湯を水となし、わが身を草木土に交えて」、大仏を造ろうといっているのである。
そして、宇佐八幡宮は東大寺の守護神として、手向山八幡宮としてそのまま勧請されたのである。

かくして、752年4月9日の大仏の開眼供養に至るのである。
土曜日は手向山八幡宮あたりをあんなにする。おもしろい話ができそうに思えてきた。

ここらあたりは「続日本紀」(宇治谷孟著、講談社学術文庫)を参照した。
by koza5555 | 2014-07-13 15:33 | 奈良 | Comments(0)

万葉集と日本人 小川靖彦

僕は、万葉集は斉藤茂吉の岩波新書とか犬養孝の解説本で読み始めた。
思うところもあり、佐々木信綱の文庫本で万葉集を通して読んでみたこともあった。

だから、万葉集を楽しむということでは、古代と現代が直結している・・間がないというのが僕の万葉集だった。
でも、この間には古今和歌集があり、新古今和歌集もある、百人一首もあるという具合で、もう少し万葉集の歴史が知りたくなったのである。

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角川文庫で「万葉集と日本人」(小川靖彦著)という本を読んでみた。


誰が、万葉集を読んだか(漢文で)、どの段階で誰が万葉集を訓んだ(日本語で)か・・・そんなことが書かれた本である。

まず、菅原道真がいるが、彼は訓んでないとされる。道真は「新撰万葉集」を編んだが200首のうち、ほんとの万葉集は二首のみ、それも孫引きとされる。

古今和歌集はどうか
900年代初頭に紀貫之らによって詠まれ、編まれる。
古今集の巻頭は、
年のうちに 春は来にけり 一年(ひととせ)を 去年(こぞ)とや言わむ 今年とや言わむ   在原元方(ありはらのもとかた)

これは、
新しき 年の初めの 初春の 今日降る雪の いやしけ吉事(よごと)巻20-4516  
から引き継がれた歌とされる。万葉集は訓まれていたのである。

家持の歌は、759年、19年ぶりに元旦と立春が一致した、めでたい「今日」という日に降る雪のように、よきことが積み重なるようにという意である。

一方、在原元方の歌は「立春が年内に来てしまった」という歌で、万葉集の巻末の歌を、引き継いだ歌である。
正岡子規などはこの歌を酷評したとのことであるが、「元旦よりも立春が早く到来した喜びを詠んでいて、「去年(こぞ)とやいはむ 今年(ことし)とはいはむ」は、リズムも良いとの評価である。

「二首ともに暦日と節気という暦の知識によって春の到来を祝福した歌です。
中西進氏はこの点に注目して、「古今和歌集」の巻頭に元方の歌が置かれたのは偶然ではないとされました。暦を管理する天皇の力を賛美する歌であり、私人でない家持と降り積もる雪を見る家持、古今和歌集の撰者は、この家持の願いに応えるかのように春の到来を喜ぶ元方の歌を置いたのです。」(万葉集と日本人)小川晴彦


そんな具合で、紀貫之は万葉集が訓むことができた。紫式部の時代にも訓(よ)んでいたとされている。



そして、鎌倉時代の仙覚が、万葉集研究史上の巨人とされる。
仙覚は新しい万葉集を誕生させた。万葉集の歴史で、古点本、新点本というが、これも仙覚の命名という。

京都での大番役(御所の警護役)を務めた鎌倉武士が万葉集を鎌倉に移植する。
頼朝の挙兵に応じた宇都宮の朝綱(ともつな)、その孫の頼綱は大番役(御所の警護役)を務め、京都の関係を強めた。頼綱は子供のころから万葉集に関心を持ち、出家して仙覚となのり、万葉集を完全に読み下したという。

仙覚が校訂した諸本は寛元本と文永本にわかれるが、この文永本がいまの万葉集の土台となっているとのことである。

江戸時代には賀茂真淵がいて、明治になってからは佐々木信綱がいる。

なるほどである。松阪の一夜、賀茂真淵の教示を受けた本居宣長が古事記の巨人であるが、万葉集の巨人は鎌倉時代の仙覚だった。

万葉集の歴史の深さと、すそ野の広がりがよく分る面白い本だった。
一番たくさんの人が詠み手となり、一番たくさんの人が解説して、一番たくさんの人が読んできた、それが万葉集・・いいすぎですか。

万葉集が、もう一つ、好きになる面白い本である。
by koza5555 | 2014-07-07 18:07 | 読書 | Comments(0)

JTB美仏に出会う旅

明日は、「奈良まほろばソムリエと巡るJTB美仏に出会う旅」である。
7月~9月にかけて12回のツアーの始めの日である。奈良まほろばソムリエが分担してガイドを務めるが、今回のシリーズ、僕は初日と最終回だけ参加させていただく予定である。

長谷寺、室生寺、聖林寺、安倍文殊院のコースで、昨年の春から何度も案内してきたコースであるが、今回は室生寺の様子が変わっている。

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先週訪れた室生寺。この日は結構な人出だったが、「7月の例年の美術系の学生の見学がなくなったのがさびしい」と言われた方がいた


仙台市博物館で8月下旬まで(7月4日から)、「奈良・国宝 室生寺の仏たち」が開催されている。

「同寺にとっては例のない大規模な出陳となる。慈愛をたたえる十一面観音菩薩(ぼさつ)立像(平安時代初期)、釈迦如来座像(同)の国宝2点、12体全てがそろう十二神将立像などの重要文化財24点を含む93点が展示される」(河北新報7月4日付)と報道されており、この夏は、ご本尊の釈迦如来を除くすべての仏像は金堂からお出かけとなったのである。

明日は、その状態のはじめのガイドとなる。
金堂をどう語るか。
そこで、もともとの金堂の姿を考えてみたのである。

田中重治という方が、「室生寺金堂と創建当初の安置仏」を書かれている。
田中さんは、創建当時の室生寺の金堂は三尊形式だったとされ、可能性としては、「独尊像もありうる」との指摘をされている。

現在の金堂は釈迦如来、一体の独尊の状態であり、この田中論は大きな援軍である。

ご本尊は、始めは薬師如来として祀られたとのことである。
これだけの仏像である、田中さんは独尊仏という案に関心をもちつつ、「これだけの堂である、さすがに独尊仏ということではなく、三尊だろう」とされ、本尊は薬師如来、左脇侍(向かって右)は三本松の地蔵菩薩で右脇侍は不明であるとされる。現在の左脇侍の十一面観音像(国宝)は作風が違うということで、これにあたらず、「無くなった」とみるべきではないかと言われる。

では、どのようにして今の姿に変わってきたのか。
現在の金堂の五仏は、室町時代に春日大社の本地仏として集められたものであるとされ、
一宮は薬師を改めて釈迦
二宮は薬師
三宮は地蔵
四宮は十一面
若宮は文殊菩薩とのことである。

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絵にみえるようにと、こんなパネルも作ってみた

また、ご本尊は、はじめは薬師如来だが、春日本地仏の一宮として釈迦如来と改称されたのは室町時代初期とのことである。

室生寺が興福寺の支配を脱する江戸時代に釈迦如来は薬師如来として祀られ、明治から再び、釈迦如来とされる(明治になぜ釈迦と祀り直したかは不明とされている)・・こんな歴史があるのである。

室生寺の金堂のご本尊は、薬師如来として祀られ、釈迦如来と称され、江戸時代には薬師如来に戻され、明治からは釈迦如来である。

室生寺のある堂守の方は、「ご本尊は残っておられる。本来の金堂、弥勒堂(弥勒堂、釈迦如来坐像もお出かけである)を見てもらえる」と言われていたが、今度のツアーではこのご本尊に会えて、仙台では会えないのである。

こんなことなんだろうか。

7月6日のお客様はほとんどが関東の方である。
見た目というより、室生寺と金堂の歴史を語るというガイドである。

これはこれで、奈良まほろばソムリエの力が試されるというものである。
「美仏に出会えて良かった」と喜んでいただけるようなツアー、心を込めて案内するつもりである。

室生寺、金堂については、「日本の古寺美術13 室生寺」(保育社 鷲塚泰光著)を参照した。田中重治さんの論もこちらからの孫びきである。

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真夏の室生寺 五重塔
by koza5555 | 2014-07-05 10:38 | 宇陀 | Comments(0)

手向山八幡宮と僧形八幡神坐像

7月は手向山(たむけやま)八幡宮を案内する。
高畑から、禰宜道を経て春日大社、そして東大寺に至るウォーキングである。

一緒に案内するTさんは春日大社や東大寺がホームグランドで、子どもや大人を、毎日のようにここらあたりで案内しているベテランである。このTさんが「雑賀さん、手向山八幡宮はお願いします」などと振ってきたのである。

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手向山八幡宮、場所は春日大社と東大寺の間である

749年(天平勝宝元年)東大寺の大仏殿建立のため、九州の宇佐八幡宮から、東大寺の守り神として迎えられた。明治維新まで東大寺八幡宮と称していたが、神仏分離令により、地名を取り手向山八幡宮と称するようになった。(神社の解説書より)

手向山八幡宮、歴史から行っても、場所からいっても、寺院とお寺をつなぐ絶好の解説ポイントかなと思えるのである。

転害会(てがいえ)(毎年10月5日)が、ポイントである。
そして転害会の日に開扉される僧形八幡神坐像(そうぎょうはちまんしんざぞう)である。


八幡神は東大寺に勧請されるとき、転害門を通ったとされ、この故事にもとづき、転害会の渡御の御旅所は転害門としているのである。転害会という祭りの名称も、この転害門からきている。

この転害会の日に、僧形八幡坐像が開扉される。

僧形八幡神坐像は、鎌倉時代に再建された東大寺鎮守八幡の神体で、明治維新の神仏分離により東大寺に移され、いまは勧進所の八幡殿に安置されている。神体だったため保存が極めて良好で、左手の持ち物が失われているほかはほとんど欠損がなく、彩色もよく残っている。・・・
壮年の姿をあらわしながら、なお、みずみずしい若さを保ち、緊張がみなぎっている。(施主の)快慶はこの八幡神像に自己の理想の男性像を表現しようとしたのではあるまいか。(南大門と二王 岩波書店 太田彦太郎)

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僧形八幡神坐像一般開扉パンフレット(毎年10月5日)の表紙


こんなお話をしてみようと思うのである。


さらに境内には、菅原道真が腰かけたという石がある。

このたびは 幣(ぬさ)も取りあへず 手向(たむけ)山
       紅葉(もみじ)の錦 神のまにまに  菅原道真公(古今集)


最後に鎌倉時代の木造(寄木)の狛犬である。運慶作ともいわれる(三位雲慶と狛犬の底に書かれている・・運慶と読みが同じである)木造狛犬は宝物殿に安置されているが、、江戸時代に造られた同寸、同型のものが神殿回廊を守っている。

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遠いところから撮影した。図録よりはいいかと思って

by koza5555 | 2014-07-03 23:30 | 奈良 | Comments(0)