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奈良・桜井の歴史と社会

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室生寺五重塔 千二百年の生命・松田敏行

「室生寺五重塔 千二百年の生命」を読み直した。
室生寺の五重塔は平成10年の台風で大被害を受けたが、著者の松田敏行さんがこの修理の図面を引いた。

五重塔の構造をもう一つ理解してないまま、この本の大事なところを読み飛ばしていたことを、最近に気が付いた。

松田さんは、室生寺の五重塔の小さい(屋外の国宝・重文指定の塔では最小の16メートル余り)ことに触れ、修理の一番の困難は塔の中に入れないこと、外からも作業ができないことをあげている。

そこで、各層ごとをジャッキで持ち上げて修理をすすめることに着目している。
この「各層ごとをジャッキで持ち上げる」ということがもう一つ理解できなかったのである。

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室生寺五重塔

「昔の塔は各層がしっかり部材を組み合わせて作られている。しかも中心にある心柱は各層とは直接、接しているところがない。塔のてっぺんには相輪という飾りが立っていますが、その相輪の根っこの『露盤』のところで建物と接しているだけです。
その下の各層は下から上に積み重なっている。この構造が地震にも負けない強靭さの秘密でもあるのですが、こういう構造になっているから、一つの層をまるごともちあげても、下の層には影響が出ないはずなのです。かっちり作られた木組のブロックを持ち上げるだけですからね。」
というところだ。

五重塔は各層が独立したブロックで、積み上げられているだけである。「ほぞ」によってのみ固定されているので、左右は留められている、上下で言えば、上には抜ける、固定されていないということが構造の特徴である。

したがって、地震の時はくねくねとスネーク運動をすると言われる。

松田さんは、ここ着目して、二層以上をジャッキで持ち上げた。

だるま落としみたいな構造で、間に軽くほぞが付いていて、横には落ちにくいが、上には外から見ると四天柱や側柱は普通の民家の二階建てのように、下から二階の屋根まで一本のように見えるが、各層ごとに別の部材ということである。各層ごとに独立しているのである。
だから、上には抜ける・・おもしろいものである。ジャッキで持ち上げて修理できたということは、やっとよく分った。


松田さんは、円成寺本堂、大直禰子(おおたたねこ)神社(大御輪寺)、大峰山寺の修理にも触れている。

円成寺本堂の修復の解説にはとくに力が入っている。
円成寺は奈良時代に開基されたとされるが応仁の乱に戦火で焼失するが、永正8年(1511年)に再建、落慶法要されている。その後修理をされないまま、明治時代を迎え、明治18年ころに全面的な回収がされている。

これを修理した。
松田さんは、明治の大工には辛口である。
屋根の形は阿弥陀堂形式なのに、阿弥陀堂の特徴をなくしてしまった改修がとくに問題としている。

「阿弥陀堂形式では本堂の中から屋根裏がみえるようになっているものです。この屋根裏に見える板を『化粧裏板』と言います。そして、阿弥陀堂形式のお堂のように、『化粧裏板』が下から見えるときは、『垂木』や化粧裏板にカンナをかけたりして見栄えをよくします。阿弥陀堂形式のお堂の場合、本堂を美しく見せる上で屋根裏はとても大事なところです」

これを明治の大修理では、水平の天井に変えてしまったのである。

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室町時代の形に復旧させた円成寺、本堂の屋根裏とたる木。円成寺パンフレットから


室生寺五重塔 千二百年の生命。祥伝社、著者 松田敏行。お薦めしたい。

明日はJTBツアー、ピンチヒッターで案内する。室生寺五重塔、さらに楽しく語ってみたい。
by koza5555 | 2014-08-30 19:42 | 読書 | Comments(0)

五重塔と心柱

五重塔の心柱が気になる。

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室生寺の五重塔初層、中心の柱が心柱である

室生寺は毎年2月に五重塔の初層を開扉し、安置されている五智如来を公開してきた。この写真は昨年の2月16日である(今年から公開中止)。

開扉された初層、正面にひときわ太く心柱。四天柱が四本、側柱が12本という形である。
塔は四天柱と側柱によって支えられおり、心柱は四点柱などとはつながらず独立している。見ることはできないが、最上部(五層のてっぺん)だけでつながっている様子である。

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五重塔の科学 谷村康行著

「五重塔は台風や地震では倒れない」、「五重塔の心柱には神秘の力がある」と言われるが、その真偽をきちんとした本である。

五重塔とはなにか。それは仏舎利を納めるところである。
原典はインドの塔(ストゥーパ)であるが、日本の五重塔の相輪がそのストゥーパに匹敵するとされている。

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こんな図である。五重塔の科学・・27ページ

この図から考えれば、仏舎利を覆うのが伏鉢、この伏鉢を「高く、さらにより高くに」が日本の塔の特徴というのである。
この伏鉢を支えるものが心柱なのである。塔の役割はこの心柱を守り、飾るためのもので、美しい塔は「心柱の鞘(さや)」に等しい。


ところで心柱と地震との関係である。
明治以前の五重塔が国内に22塔、現存している。

地震に強く、壊れないという。
「その力は心柱にあるのでは」と言われるが、そのメカニズムはまだまだ不明である。

心柱は、初め(飛鳥寺など)は地下から立てられた。
その後、心柱はどんどん上がり、地面の礎石に立てられ、さらには心柱が二層から立てられたり、鎖に吊られ宙に浮く(日光東照宮)心柱も生まれるのである。
構造的にもさまざまで、「振り子の役割があり、揺れに強い」とも一概には言えないようである。

しかし、五重塔が揺れに強いことは間違いないところである。
①各層が独立して造られて、積み重ねになっていることから、スネーク運動(地震の時は蛇のようにくねくね動く)によって強度が出る。
②塔の構造柱から独立した(柔構造で連結した)心柱が、超長期地震の揺れを緩和する。

心柱は塔の強度とは必要とされたものだが、結果的には塔の強度に大いに役立った。この五重塔は、現在の高層建築物は五重塔がヒントにはなっているようである。

まずはスカイツリーの心柱である。
スカイツリーには高さが350メートル、直径8メートルのコンクリート柱が立てられている。上部の大部分が塔本体とは、オイルダンバー(オイルのばね)でつながれており、長周期地震で塔(鉄骨)が揺れても、その揺れをゆるくする働きをするようになっている。これは五重塔の心柱と同じ働きである。

東京の新丸の内ビルディングも同じような考えで、四本の鋼鉄の心柱が入っていることも紹介されている。

五重塔がなぜ、地震に強いか、その科学的根拠はすべてが、示されているわけではないが、結果的には五重塔と同じような心柱を持つ塔やビルが、いま作られている。

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日本の五重塔はすごい。真夏だけど、今日の写真は雪の室生寺、五重塔

by koza5555 | 2014-08-27 10:51 | 読書 | Comments(0)

見仏記海外編

みうらじゅん、いとうせいこうの「見仏記」、とうとう6冊とも読んでしまった。
見仏記5には長谷寺があり、安倍文殊院がある。6には談山神社があり、聖林寺もある。ここらあたりは、また機会があれば書くとして、今度のサプライズは見仏3、海外篇だった。

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「海外のことはいらないわ」と、これを外していたのだが、韓国、タイ、中国、インドで何が見れたのか・・気になるのである


韓国、タイ、インド、どこへ行っても、光背が一つの課題だ。
韓国では仏像には光背がない。仏像があり、それと同じ形の仏画が描かれている。
信者は仏像を拝むというよりも、仏画を拝むように見える。仏画があって、そこから出てきた、それを形にしたものが仏像という感じだ。
この仏画をさらに省略したものが・・日本の光背ではないかという仮説である。
光背問題はタイに行っても続く。ブッダや僧侶がまとう僧衣の盛り上がり方が、光背の方を示しているという論が出たり、インドではシバの神像が吐き出す円形の火炎から光背を感じ取れたりである。


なんといっても、インドの仏像が圧巻である。
西暦120年ころのブッダの像がある。これが、一番古そうであるが、ギリシャ文明の影響を激しく受けている。
アレキサンダー大王(紀元前327年)の遠征、それは一年間だけのことだったが、多くのギリシャ人がガンダーラに残り、この影響で仏像生まれたということである。


そして、仏像にはギリシャの文明の影響が強く含まれたが、ヒンズーの神が仏像に大きな影響を阿与えた。
ヒンズーの神像、ナーラーヤンとラクシュミーを祀る寺を訪れる。
いずれも蓮の花の上に立、きらびやかの宝冠をつけている。
ナーラーヤンは四本の手にほら貝に似たシンボルや法輪を持つ。吉祥天の原型とされているラクシュミーは肌の白さが目立つという。


最後に訪れるのはインドの国立博物館である。
仏像はわずかで、ほとんどがヒンズーの神像の乱立である。大黒天の原型も、四天王のファッションのルーツなど、そこには仏像の原点が残されていた。
始めは仏教に引きつけて、ヒンズーの神を見像しているが、二人はいつしか、ヒンズーの神像そのものに魅了されてしまうのである。


仏教にはあらゆるインドの宗教が取り込まれている。
踏まれる邪鬼はヒンズーの思想であり、十一面観音のルーツもそこには示されているのである。


素材の問題も考えさせられる。
インドは大理石の文明である。この仏像を、日本は木で作った。大理石文明とはちがう優しさが生まれた。
五重塔も同じである。中国の塔とも違うし、インドのパゴタと全く違う。
日本には雨が降った。そして木材は大量にどこにもあった。

インドをルーツの仏教はアジアの各地で生きている。
根っこは仏教だが、各地で独自のものもあり、各地の民と結びついている。

みうらじゅん、いとうせいこうの見仏、楽しく読みました。
by koza5555 | 2014-08-26 09:41 | 読書 | Comments(0)

三本松 子安地蔵菩薩

8月24日はお地蔵さまの縁日である。
「子安地蔵菩薩の御縁日御開帳法要をおこないます。ぜひお詣いりください」と宇陀市室生の三本松の山村区長からご案内をいただいた。

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大雨と洪水の警報が出るような豪雨だった。三本松中村区集会所(安産寺)

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子安地蔵菩薩。三本松のパンフレットからいただいた


平安の前期の作で、室生寺金堂の本尊(釈迦如像)の脇侍として造仏されたものである。
1600年代の末頃に室生寺を出て、三本松に移された。

今回は案内ではなく、しみじみと拝観してきた。

表情がゆったりとしており、とても優しい。
右足を軽く前にだして、左手には宝珠を持つという姿である。前傾姿勢をとり、前かがみ、前のめりで救済するために急いでいる様子も感じられる。
威厳があり、優しさと美しさがある。千年あまり、人々を見守ってきた菩薩である。
よくぞ残ってこられました。

山村区長がうれしそうに言われた。「お地蔵さんに携帯電話を持ってもらいました」と。
安産寺子安地蔵菩薩が拝観できるのは、
初地蔵が1月24日、8月の第四日曜日の御縁日御開帳、毎月の9日の午前中である。

それ以外にも志納・寸志という形で臨時に開けていただくことができる。ところが、その連絡、する方も受ける方もなかなか大変だったのである。そこで、子安延命地蔵の専用電話を用意したとのことである。
携帯電話を持っている仏さまである。

子安地蔵菩薩の電話番号は
「090 3268 5859  安産寺ご利益と覚えてください」と嬉しそうに言われる。ちょっと語呂は合ってない感じだが、電話番号と「安産寺ご利益」の名前で、ぜひ、ご登録ください。

安産寺、国道165号線の室生、三本松の道の駅から見上げれば、看板が見える。上にも2~3台の駐車場はあるけど、初めての方は、この道の駅から歩くのが無難である。
近鉄の三本松からは徒歩で10分もかからない。

ちなみに、子安地蔵菩薩は10月9日から10月いっぱい、午前10時~午後4時(時間は少し流動的だが)、常時開扉することにしたとのことで、訪れやすくなっている。
最終決定は、もう少し先とのことであるから、お地蔵さん携帯に電話して、計画を立てるようにお願いします、とのことだった。
by koza5555 | 2014-08-25 10:42 | 宇陀 | Comments(0)

奈良盆地の水土史 宮本誠

農山漁村文化協会(のうぶんきょう)の本で「奈良盆地の水土史」(宮本誠著)を読んだ。これは7000円の本である。図書館で借りた。

奈良盆地を並行して北流する飛鳥川、寺川、大和川は自然の流れとは思えない。土地は王寺(おうじ)に向かって扇の軸に集まるように傾斜しているのだから、この流れは明らかに人為的なものである。
この河川改修を古代の条里制と結びつけた論を読んだことがあり、納得したことがあったが、それは大間違いであることを知ることができた。

まず、「先人の知恵と経験によってつくられた風土=土地に刻まれた文化遺産を謙虚に見直し、それがつくられた意味と機能を評価する」とある。
法隆寺も藤原旧跡も貴重な文化遺産であるが、土地や川に刻まれた先人の仕事も、やはり重要な文化遺産だということである。

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桜井、車谷の三分石。水利権を存在で示している。左側は穴師、右側は箸中。この比率は持ち山の面積に応じて決められているという。これは遺産ではなく、今も生きて活用されている


奈良盆地の土地利用と河川の歴史である。
奈良盆地は古代から肥沃な水田地帯と思われているが実態は違う。水田は3割、残りは荒れ地であり、畑として利用されていた。川が管理できない、水が確保できないということだろうか。

そして、平安時代には各地で扇状地が拡大して、河川は埋没、伏流化がすすみ、耕地はさらに不安定となっていく。

平安時代の中期(1000年頃から200年ほどかけて)に河川の付け替えが行われる。盆地南部では、扇状に流れていた大和川、寺川、飛鳥川などがきっちり北流に変えられた。
河川の伏流化を防ぎ、取水地域と潅水地域を区別して、東から水を取り、潅水して西の川に水を落とすという仕掛けである。
このシステムは今でも生きており、水は灌漑、集水、灌漑という反復利用されている。

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条里制以降に付け替えら垂れた大和の河川。水土史、47ページ図

このころに集村化がすすみ、これが環濠集落に発展することになる。
この営みにより、奈良盆地の水田の利用率は3割から9割まで上昇することとなった。

江戸時代に二毛作が始まった。
当時の水田は年中、水漬けだったが、二毛作のためには田を干さねばならない。代掻き時に、新たに田に水を張る必要が生まれ、ため池が急激に必要となるのである。
「奈良には雨が少ないのでため池(皿池)が必要、多い」と一言でいうけれど、ため池の増加は水田の利用方法と密接に関係していることがわかるのである。
なお、明治の初期にもため池が急増するが、この理由は不明とされる。

農地は生きており、川は生きている。それに働きかけた人の苦労のすごさが感じさせられる。


遊水地問題も勉強になる。
1950年には、桜井の豪雨は6時間後に王子に到達していたが、30年後の1980年には2時間で到達してしまうという激変である。

河川改修や遊水地の減少がその原因であるが、奈良盆地の水は亀の瀬を越えねばならない宿命があるわけで、盆地内を早く流しても、海にそのまま流れるわけではないのである。
遊水地を無秩序に埋め立てたり、直線に変えるなどの河川の改修により、新たな被害が心配という、こんな指摘もあれこれ思い当たる節もあるのである。

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宮本誠さん、奈良県農業試験場を経て、兵庫県の中央農業技術センターなどに勤務された。農山漁村文化協会から出ている。
by koza5555 | 2014-08-24 12:47 | 読書 | Comments(0)

じゃらんの調査、奈良の魅力とは

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激しい雷雨が止んだと思うと、突然の青空・・入道雲

産経新聞は(8月21日付)、政府観光局の発表として、7月に訪日客は過去最高の127万人、7月までの累計で753万人、羽田便の増便が追い風と報道した。

奈良はどんなだろうかと合わせて考えていると、昨日(8月22日)の奈良新聞は1月~6月までの外国人旅行者は30万人、「過去最高突破も」と、県のまとめを報道している。

比較すると国内全体で6月までの旅行者は616万人、奈良県は30万人・・・
外国人旅行者の20人に一人は奈良県を訪れたということである。
旅行者は複数の県を訪れているから、他県との比較はできない。

奈良県を訪れた外国人は、奈良県の何かを見に来たわけで、そう思うと心強い?あるいは少なすぎる?


8月20日の産経新聞、奈良版の「奈良は大人の観光地」もおもしろかった。
じゃらんの調査を分析して、奈良は「歴史好きに人気」、「おもてなしは〇(まる、ぜろではないですよ)」という記事である。

奈良県のテーマ別魅力度(県別)ランキングである。
「現地で良い観光情報が入手できた」は7位。
「大人が楽しめるスポットや施設・体験が多かった」は10位。
「地元の人のホスピタリティを感じた」が23位。

「魅力のある特産品や土産物が多かった」は42位。
「子どもが楽しめるスポットや施設・体験が多かった」は46位。
「若者が楽しめるスポットや施設・体験が多かった」は47位。


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産経新聞、8月20日付から

奈良全体ではこんな感じだけど、僕の住んでいる桜井となると、もっと端的に出るだろうことは確実である。

桜井、見せたいものはいくらでもある。見てほしいものがいくらでもある。
でも、どこに泊まる?なに食べる?お土産どこで買う?である。
でも、これだけはっきり数字を突きつけられたら、覚悟が決まるというものだ。

話はドーンと変わるが、最近、ブログの「カテゴリ」を組み直した。
この二年余りで522本のブログを書いたが、お寺や神社、自然やお祭りのことが380本、うちわけは桜井が180本、宇陀が80本、その他の県内情報で120本である。

大人に「良い観光情報を提供」できても、子どもや若者には何の力にならない。
じゃらん流に言えば、そういうことだが、視点を変えれば、「趣味のブログでも(大人の)観光案内の役に立つ」・・みたいなこともと思えるのである。


外国人や県外の観光客が、奈良に何を求めてきているんだろう・・そのことを根底にして、それを裏切らない、観光施設とか、特産のお土産とか、考えらればいいなあと思うのである。

結論は物足りないかもしれないが、子どもや若者が楽しめる施設が、一朝一夕でできるわけでもないし、特徴的なホテルができたらすべてが変わるというものでもない。
今の奈良は1400年の歴史の上に立っているし、観光産業的に見れば、この50年ほどの歴史の上に立っていると思うのである。


こんな思いで、これからも熱心にブログを書き、心をこめてガイドしたりしてゆきたい。
個人的な思いの文章に付き合っていただきまして、ありがとうございました。
by koza5555 | 2014-08-23 17:18 | 奈良 | Comments(6)

円成寺(えんじょうじ)と仏師、運慶

奈良に出る用があり、大回りだが、東山中経由で向かうことにした。

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目当ては忍辱山(にんにくせん)円成寺。これは円成寺楼門

桜井から円成寺にいくならば、般若坂から入るのが早いのだが、山間・林間ドライブを楽しもうと思い、都祁(針)を経由して県道47号(天理、加茂線とあった)を抜けた。
田原(たわら)を経て、峠を越したら柳生の夜支布(やぎう)山口神社、そこから円成寺に向かった。

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光仁天皇陵(田原東陵)は順路だった


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はじめに運慶作・国宝・大日如来である。写真は円成寺パンフレットから

ガラス越の拝観であるので、パンフレットのような横顔は見ることはできないが、頬の肉づけや智拳印の結び方などに、平安時代(定朝様式)とは異なる独創性があるとされている。

大正10年の修理の時に、蓮肉板裏の銘文が発見された。
「康慶の実弟子運慶」として花押が残されていた。
作仏に十一ケ月かけたということ、謝礼は上品の絹 拾三疋であることが書かれている。1175年(安元元年)の作であることも示されている。


運慶の生涯と仕事のことを考えた。(日本史探訪7、運慶の項を参照した。松本清張が語っている)
運慶は1150年頃に生まれたとみられ、円成寺の大日如来は20歳代半ばである。
平家の南都焼き討ち(1180年・治承4年)が30歳。
1192年に鎌倉幕府が成立して、それから東大寺や興福寺の復興が始まる。
焼き討ち、鎌倉幕府の成立までの12年間、運慶など慶派の仏師は、このころは各地で造仏していたとされている。伝、運慶作が各地に存在するゆえんである(伝運慶作150体以上、確実なものは20体ほど)。 

1203年(48歳くらい?)、南大門の仁王像を完成させている。
その後、興福寺北円堂の無著(むじゃく)と世親(せしん)像を造り上げているが、これが60才くらい、ルネッサンスを東洋で先取りしたような芸術品で、「肖像彫刻の運慶」といわれる境地に到達した。

松本清張は 南都炎上が運慶の力を引きだし、磨き、芸術家の域に彼をしていたらしめたとしている。運慶にとって、南都炎上は衝撃だったが、嘆いていただけではないという論である。

さらに、快慶との激しいライバル意識にも触れている。「憎くも何ともないライバルというのは、こりゃライバルではない。芸術家というのは憎まれなくちゃ」というくだりもおもしろい。切磋琢磨と言うが、協力があり、競争があって現実世界は成り立っている。

以上は、日本史探訪7、運慶からの意訳である。

話が少し違う方に行ったような感じだが、運慶の経歴を見れば、円成寺の大日如来の頬のリアリティは、南大門の仁王像につながり、無著(むじゃく)と世親(せしん)像につながっているということである。

こんなことを、広々とした本堂の外陣で多宝塔や楼門を眺めながら、話すようなツアーもおもしろそうである。

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忍辱山(にんにくせん)円成寺、本尊は阿弥陀如来である。桔梗がきれいに咲いていた
by koza5555 | 2014-08-22 07:43 | 奈良 | Comments(0)

日本史探訪

角川から「日本史探訪」という文庫本が出ている。22冊もあるが、発刊は30年以上も前のものである。

NHKで1975年頃から放送されたものが、土台となり出版された。
30年以上、前のものであるが、7月頃から文庫版を手に入れて読み始めた。

寝る前に読み、起きて読むには、軽い文庫本が最高である。
アマゾンマーケットプレイズで1円(250円余りの送料がかかるけど)、ブックオフなどでみつければ、108円で販売されている。

15冊まで手に入れて、いま9冊目、「戦国の武将たち」を読んでいる。

このシリーズ、とにかく歴史上の人物を網羅している

詠んだものを言えば、
日本人の原像
古代王国の謎
律令体制と歌びとたち
大仏開眼と平安遷都
藤原氏と王朝の夢
源平の争乱
武士政権の誕生
南北朝と室町文化

この8冊でも80名くらいが取り上げられている。
研究者と文学者などの組合わせで、対話をすすめる企画であるが、断定的な問題提起などがあり、それを巡って語っていく組み合わせも多い。
日本史を楽しく網羅的に学びたい僕には、かっこうな教材となった。

「南北朝と室町文化」(8巻)では、楠正成、足利尊氏、新田義貞が取り上げられる。
ここらあたりはどの本を読んでも紹介されているが、このシリーズはここからがおもしろい。
この後に、金閣寺を作った三代将軍、足利義満が紹介されている。

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足利義満なら桜井市の忍坂山口坐神社の楠が思い出される

「室町幕府の第三代将軍足利義満は、京都の北山に金閣寺を造営するにあたり、天井板を一枚張りにしたい為に、この神社の楠の巨樹を切り出したと言われています。
現在境内にある楠の巨樹は、この時切られた楠の二代目と言われていますが、定かではありません。」(忍坂山口坐神社桜井市教育委員会の掲示板)

この本を読むまでは、僕は室町時代をもう一つ理解してなかったか・・・
義満によって、金閣寺が造られた。世阿弥のスポンサーであり厳しい批評者でもあった。
そして、この時代は、①都市文化が始まり、②海外(明)に大きく開かれており、③そして乱世だったとされる。

足利義満はこういう時代に生まれ、将軍としての力をふるった。
義満が対明貿易で利益を挙げねばならなかった、その経済的根拠もきちんと示されている。

世阿弥が取り上げられ、銀閣寺を作った8代将軍の足利義政、その義政と激しく確執した日野富子なども、紹介されるのである。

現在の京都の多くの観光資源は、足利義満・義政らの室町時代に因っているんだなとよく理解できる。

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とりあえずこのシリーズ、15巻まで手に入れた。明治維新直前の江戸の文化を描いた「戯作と俳諧」までである。楽しみながら読んでいこうと思う
by koza5555 | 2014-08-20 00:40 | 読書 | Comments(0)

都塚古墳・・大和のピラミッド

16日、お盆の最中に、明日香村で発掘の現地説明会が開かれた。

「明日香村教育委員会文化財課と関西大学文学部考古学研究室が協同して行ってきました都塚古墳範囲確認調査の現地説明会を下記日程により開催します。当日は普段施錠しております石室の内部も公開しますのでこの機会にぜひご参加ください。」明日香村HP

10時15分から並んだが、説明会場に到着したのは11時45分で・・・並んだ時間は1時間半だった。

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開場頃に並び始めて、午後から雨の心配もあるという日だった。翌朝の新聞を読むと僕が並んだ時間は最長だったようである

マスコミが大きく取り上げた。
ポイントは二つである。
石積みが階段状、それも5段から8段くらいが想定されて、外見があたかもピラミッドのような形をしているということ。

大和王権における蘇我氏の立場を不動にした蘇我稲目(そがのいなめ・馬子の父、蝦夷のお祖父さん、入鹿の曽祖父である)の墳丘墓と推定されたこと。

都塚古墳は、金鳥塚(きんちょうつか)とも呼ばれ、横穴式石室に家形石棺を納めた、代表的な後期古墳である。墳丘は約30メートルの円墳あるいは方墳と推定されるが、確定していない。・・・・6世紀後半の頃の築造と考えられる」。明日香村教育委員会(現地に立てられている説明版)


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鉄柵こしに石棺を覗く、これが都塚古墳の楽しみ方だった・・・都塚古墳は、石舞台の上(東方)にあり、横穴式古墳には石棺が残されている。明日香村の唯一の完形の石棺とされている


この古墳が、およそだが40メートル四方の方墳で、「大和のピラミッド」だったということである。

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これが産経新聞の作った想定図(8月14日付朝刊)


場所がおもしろい。馬子の墓という石舞台の東方である。20メートルほどの高度差がある。
石舞台からみると県道桜井・明日香・吉野線を越えた山側である。
石舞台、島の庄と発掘はすすめられてきたが、地域の全貌が都塚古墳の発掘で鮮明となった。

被葬者は蘇我稲目、570年に死亡する。都塚古墳は6世紀後半と目されており、ピッタリで、
石舞台の被葬者は蘇我馬子、626年に亡くなる。これも石舞台古墳の築造は7世紀前半で、具合が良いのである。

飛鳥からみて「石の山、ピラミッド型の稲目の墓」を見上げる形であり、その下に、さらに大きく馬子の墓が造られたと想定された。形はどちらも方墳である。

この蘇我の墓の下には稲渕を経て、吉野に向かう道が通っていた。
この道は、大海人皇子が近江を逃れて吉野に入った道であり、持統天皇が皇女時代も合わせれば32回にもわたり吉野に通った道である。

当時の道の詳細は分からないが、もし、石舞台の北側を通っていたならば、左右に古墳を見て都を出る、
また、石舞台の南側に道があったならば、左手にピラピッド型の方墳を並べて見ながら都を出るということだった。

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都塚古墳から県道、石舞台古墳を眺めて。今はすべてが緑の中である


by koza5555 | 2014-08-17 12:14 | 橿原・明日香・吉野 | Comments(0)

大佛勧進ものがたり 平岡定海

奈良と言えば東大寺の大仏、そして大仏殿である。
あれこれ言っても鋳造物としても世界一、木造建築物としても世界一。
過去、1200年、大仏なくして奈良(の観光)は成り立たなかった。

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これは、8月7日のお身拭いである。3年前の写真である。お身拭いは朝の9時には終わる。7時には到着すること、だれでも拝観料だけで早朝の堂内に入れる


現在の大仏殿は江戸時代につくられてもので、7間(ま)四方の大きさである。
この大きさにも歴史がある。天平の大仏殿は12間だったが江戸時代の大仏殿再建でこの大きさに切り縮められた。
幕府は間口は7間、奥行は5間という案が出したが、公慶上人は「5間では大仏の蓮弁の上に柱を立てなければならない」と抵抗し抜いて、今の大きさを確保したという。

今の大仏殿の姿は公慶上人の頑張りのおかげである。

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 「大仏勧進ものがたり」を読んだ。8月1日の新刊本である

東大寺の平岡定海師が昭和52年に出された本の復刊本で、吉川弘文館の「読みなおす日本史」シリーズから出た。

大仏の歴史である。行基・重源・公慶上人ら各時代の勧進僧の姿が描かれている。

まずは大仏造像のいきさつである。
聖武天皇は悩みが多かった。
「今金明経は護国祈願のための経典」で、これを僧侶に読ませた。さらに「今金明最勝王経(こんこうみょうさいしょうおうきょう)は義浄三蔵(いわゆる三蔵法師の後輩)が伝えた新訳」で、この経典を読み悪事をのぞくことに熱心であった。

さらに、読ませるだけ消極的として、「諸国にこの経典をよむ道場を築きたい」と事業をすすめて、国分寺と国分尼寺の建立をすすめたのである。

そして、2年後にこれが華厳経の毘盧遮那仏におき替えられ(ここらあたりの説明は難しい)、大仏の造像につながっていったとされる。
良弁はその教学の師、行基が庶民に説く係として役割分担された。

始まりは、こんなで難しいが、「第三章 江戸期の大佛」がおもしろい。
永禄10年(1567年)、東大寺大仏殿などに陣をとった三好三人衆を松永久秀が攻める。10月10日から11日にかけて大仏殿は焼け落ちる。奈良の大仏はその時、露座となった。

公慶上人が1685年から、大仏の修復と大仏殿の復活を目指して江戸で活動を始める。
1692年1万1千両余で修復開眼、公慶上人44歳の時である。
当時の44歳はけっこうな高齢と思えるが、公慶上人はそこからがすごい。

大仏での修復に命を傾けたのである。
協力者は護持院隆光である。隆光僧正の影響力が発揮されて、桂昌院が動いた。

勧進は資金であるが、諸大名の勧化金を桂昌院の指示で幕府は厳しく定めている。
「大名領についても、幕府の天領と同様、高百石につき大名領については金一分」との定めである。今のお金なら4万円(一両を15万から20万円くらいと見て)くらいで、一万石の大名だと400万円だよという感じである。ちょっと寄付としては多額だ。

幕府はこれで12万両を集めた。公慶上人が集めたものは10年で1万2千両だから、大仏殿の再建のためには、隆光僧正・桂昌院の役割は重大だった。

公慶上人は1705年に江戸にて死去、奈良に戻り、東大寺の外の五劫院に葬られる。大仏殿は1709年3月に落慶法要されており、公慶上人は見ることがなかった。
by koza5555 | 2014-08-15 15:13 | 読書 | Comments(0)