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奈良・桜井の歴史と社会

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アベと磐余をテーマにした講演とか…

申し込みをいただければ、フリーに参加していただける、僕の年内の講演やツアーをご案内。

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春日大社と深いつながりがあるという桜井市阿部の神宮山(じんぐりやま)から安倍文殊院を眺めてみた。

10月25日(土)の午後 1時30分~3時30分で、桜井駅前のエルト2階の第1研修室で、「安倍・磐余を楽しむ」のテーマでお話をする。これは「うるわしの桜井をつくる会」主催の講演会である。

「初瀬や三輪を語る人はいるけど、イワレ・アベを話す人がいなくて・・ここを限定して話してくれないか」とうるわしの桜井の会から依頼があった。
阿部に住む僕にとってもイワレ(磐余・石寸)は難物だが、「ヤマト王権にとって特別な地であったイワレ」を古代・中世・近世、それぞれの 時代に立って語ってみたらおもしろそうと考えて引き受けた。
地元の人に地元のことを話す、僭越ではあるが、これに気合を入れなければでる。

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こんなチラシを作っていただいた


毎月行っている「大人の学校」(溝口博己会長)の(現地)歴史講座も力を入れている。
9月30日(火)は「初瀬・長谷寺」、
10月31日(金)に「西大寺で大茶盛」、
11月28日(金)は「紅葉の談山神社から飛鳥の里に」、
12月16日(火)は「高畑から禰宜道・春日大社・東大寺をウォーキング」である。

奈良を奥深くタップリ味わっていただける、お話つきのウォークである。
費用はそれぞれ2000円程度で格安、申し込みをいただければ、どなたも参加できる。

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これが10月の「西大寺の大茶盛」ツアーのチラシである


「JTB 大和の美仏に出会う旅」の最終ラウンド(四回目)の日程も決まった。僕は12月7日(日)、12月28日(日)、このツアーの最終日の平成27年3月29日(日)に乗車することとなった。
このバスツアーは、近鉄・JR奈良駅を出発して長谷寺、室生寺、聖林寺、安倍文殊院を巡る。JTBを通して京都・奈良などに宿泊された方だけが参加できる限定ツアーだが、格安である。これはJTBの窓口で相談していただきたい。


よく勉強して、健康にもよく気を付けて、ツアーや講演の朝、元気な姿で歩きだせるように、そんな思いで毎日を送っている。一緒にツアーを楽しみませんか。
by koza5555 | 2014-09-27 22:30 | 桜井市と安倍 | Comments(0)

室生の龍縄と龍穴神社の秋祭

産経新聞 9月20日付の奈良版の「なら再発見」は、僕が書いた「室生の龍縄と龍穴神社の秋祭」である。

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室生寺の太鼓橋から金堂前の天神社に向かう。龍神を迎えに境内に入る

この記事の全文は以下のとおりである。

 女人高野として知られる室生寺を訪ねてみよう。太鼓橋を渡り、仁王門から入山する。七十二段の鎧坂(よろいさか)を登っていくと、金堂が徐々にその姿を現してくる。至福の時である。
金堂前の広場に上がりきると左側は弥勒堂だ。祀られている国宝仏に期待が膨らむところだが、振り返って右側を見てみると、小さな社が置かれている。この社は天神社といい、社前の大樹に勧請綱が架けられている。
この綱は龍の形を模して作られ、頭があり、紙で作られた幣(へい)やモミジが取り付けられ、龍縄(りゅうじょう)という名で呼ばれている。
同じ形の龍縄は室生寺の境内から1キロほど離れた龍穴(りゅうけつ)神社の鳥居の外、室生川畔の杉にも架けられており、一対をなしている。
龍神は、室生の龍穴祭の日に、この龍縄に下ってくるのだ。
* * *
龍穴祭は10月の中旬に行われる。
前日から垣内(かいと)と呼ばれる各字(あざ)で宵宮祭を行い、当日は午後1時に室生寺の太鼓橋に集まって祭りが始まる。
 祭りを主宰する当屋(とうや)と獅子頭を先頭にして、絵馬、日の丸(ひのまる)を描いた大型の御幣(ごへい)や採り入れたばかりの野菜を串刺した須供(すこ)と呼ばれるお供えを携えて、村人が集まる。
* * *
祭りは室生寺境内の天神社への参拝から始まるが、まずは集まった村人から室生寺住職に入山許可を求める呼び使いが出される。
この使いは寺内に入り、まずは「一度(いちど)の使い~」と声を上げるのだ。室生寺の住職は、ここでは出座してこない。
出直した使いは、次は「二度の使い~」と口上(こうじょう)を述べるが、住職の出座はまだだ。これが七度(ななたび)繰り返されて、いわゆる「七度半(しちどはん)の使い」を経て住職は出座となるのだ。

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門前に出た住職は、弘法大師の代理として龍王の代理である当屋を迎えて、三々九度(さんさんくど)の杯で契(ちぎ)りを固める。
その後、行列は境内に入り、金堂前の広場で天神社と龍縄への獅子舞の奉納を行うのである。

行列はここで龍神を迎え、龍神のお渡りとして、獅子と村人に守られて龍穴神社へと向かう。
龍穴神社でも境内に入る前に神杉に架けられた龍縄に参拝して、その後、境内に入り、国と村の平穏を祈り、豊作を願って獅子舞が繰り返し奉納される。

* * *
室生寺は真言宗の道場として弘法大師が興したとの説があり、奥の院には弘法大師を祀る御影堂が置かれている。弘法大師が亡くなった21日には、住職をはじめ多くの僧侶が御影堂に参詣し法要をおこなっている。
一方、興福寺の僧が山部親王(やまべしんのう)(桓武天皇)の病気平癒を室生の地で祈り、龍穴神社の龍神の力も得て治癒したとの縁起もあり、その功労に報いるために室生寺が開基されたという説も有力である。室生寺はこの龍神を守護する神宮寺として建てられたということだ。
その後、室生寺は、弘法大師によって開かれた真言宗の大きな影響を受けて隆盛を迎えた。この室生寺の成り立ちと歴史を考えると、龍穴神社の龍神と弘法大師が大きな役割を果たしたことは間違いないところであり、龍穴祭は、その歴史を形にしていまに示している。
龍神と弘法大師の契りの杯があり、室生寺境内と龍穴神社に龍縄が架けられ、獅子舞が奉納される龍穴祭、今年は10月13日(月・祝)に斎行される。
いつもは静かな室生の郷が、明るく華やぐ龍穴祭、ぜひ訪れたいものだ。


(NPO法人 奈良まほろばソムリエの会 雑賀 耕三郎)

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掲載された文章であるので、あとの講釈は不要だが、祭りの見どころポイントもふれてみたい。
今年の祭りは13日であるが、午前9時には室生に入りたい。
午前中には各垣内の集会所に 神楽(獅子舞)がやってくる。初めにひとしきりかまどの前(屋内)で獅子舞が舞われる。そして集会所の広場で餅をつく、その間中は神楽が舞われる。村のみなさんと交流できる最大の場である。室生の祭りはここから入りたい。
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それが無理なら、正午に太鼓橋である。太鼓橋、出るところからお渡りを追っかけて、室生の祭り、存分に楽しもう。
by koza5555 | 2014-09-20 23:10 | 宇陀 | Comments(0)

西大寺の大茶盛を楽しむツアー

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西大寺の大茶盛の床飾り。西大寺の大茶盛は、正月の修正会を経て、1月16日に行われたことから、大茶盛の床飾りは年中、冬景色である


「雜賀さんの歴史ウォーク」というツアーを案内している。「大人の学校」(溝口博己会長)の企画で、月によっては30名だったり、15名だったりで楽しく気楽に案内している。

目安は毎月第4金曜日で、10月は西大寺の大茶盛を楽しむことになっている。

西大寺と秋篠寺、そして佐紀盾列古墳群を訪ねるウォークである。
この目玉が「西大寺の大茶盛」、臨時の大茶盛をお願いすると定数の指定がある。参加人数にちょっと不安があり、「今回は会外の方もお誘いしましょう」と溝口会長から提案で、みなさんに案内することになった。

西大寺では、まず本堂に入堂してご本尊を拝観、清凉寺式の釈迦如来像や弥勒菩薩像と獅子に乗り四人の眷属を従えた渡海文殊菩薩を拝観することできる。桜井の安倍文殊院の文殊菩薩は素晴らしいが、西大寺の文殊菩薩もきわめて素晴らしい。

そのあとに大茶盛である。
鎌倉時代に叡尊(1290年没)が、西大寺復興の御礼の鎮守社での祈祷の後に湯茶を広く庶民に振る舞ったのが大茶盛の初めとされている。いまの大茶盛は、僧侶から大茶盛のわかりやすい解説を含む講話があり、参加者すべてが、直径30センチの大茶碗でお茶がいただけるのである。

今回は英語でしか会話できない外国の方も参加されるので、通訳できる方を探してきて、僧侶や僕の話を通訳してもらうことになっており、国際的ツアーとしても楽しみである。

この大茶盛を楽しむ「歴史講座」の概要は以下のとおりである。
■ 日程は10月31日(金)
■ 行程は10時近鉄西大寺駅南口に集合、西大寺本堂拝観、大茶盛、弁当(各自の持参弁当・西大寺内にて)、秋篠寺、神功皇后陵などを巡って、15時30分頃に西大寺駅北口で解散です。
■ 費用は2300円、大茶盛、拝観料(西大寺・秋篠寺)、資料代を含みます。
■ 申し込みはメールだけでお願いします。アドレスは kozaburo@cg8.so-net.ne.jp
■ 当日は雨具、歩きやすい靴が必須である。

では、ご連絡、申し込みをお待ちしています。
by koza5555 | 2014-09-19 23:10 | 奈良 | Comments(0)

芝村騒動の犠牲者慰霊祭

9月15日、桜井市の吉備薬師寺において、芝村騒動(宝暦3年~4年・1753年)の犠牲者の慰霊祭が行われた。

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桜井市吉備区集会所(薬師寺)

宝暦3年(1753年)に芝村騒動とか十市騒動とか言われる「御箱訴訟」(箱訴)がおこなれた。

十市群は広く幕府の天領となっていたが、その税収は芝村藩が代理していた。これを預かりというが、大名領などと比べても過酷な徴収が行われていた。
宝暦3年はコメも綿作も不作であり、大きな減免の声が上がっていた。これに対する芝村藩の対処は冷酷なものがあり、これの是正を求める騒動、一揆がおこされた。

芝村藩の預かりの十市郡の内膳や下八釣、常盤や桜井の吉備などの九カ村の代表が、年貢の切り下げと芝村藩からの預かりの変更を求めて、天神山(耳成山)に集まり訴状を作成、常盤村の彦市を代表に京都町町奉行所に箱訴を行った。

箱訴は享保6年(1721年)に8代将軍、徳川綱吉により「民の声を直接に聞く」ということで始められた。「将軍がカギを開ける」という御箱訴訟である。
しかし、芝村藩預かりの村民の訴えには手ごたえがなく、そこで九か村は戦術をエスカレートさせ、「稲刈りをせず、捨ておく」という強硬策に出るのである。

これを見て、「箱訴は合法的な手段だが、稲刈りを怠り、徒党強訴に及んだのはおきてに反する」と幕府は、関係者を江戸に召喚するのである。

呼び出しは三度にわたり、宝暦4年の3月までには200名以上が江戸にいくことになった。
宝暦5年8月に至りて、徒党強訴の罪で常盤村の彦市は死罪、遠島4人、追放32名という厳しい処断となった。それとは別に牢死者は38名を数えた。死罪という彦市もすでに牢死していた。

吉備村からは8名が呼び出され、平兵衛(藤本)、甚治良(竹田)、平治良(岡橋)が牢死、長八(高井)、庄蔵(松井)、新五郎(森本)、又四郎(吉崎)、甚五郎(吉本)の5名が帰還したとのことである。

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牢死した義民、供養の碑が吉備区集会所(薬師寺境内)に置かれている

供養は生還した5名の子孫で行われている。
前回のブログでは「牢死の3名と帰還した3名の子孫で慰霊する」と書いたが、それは間違いだった。
お詫びして訂正します。

この生還した子孫、5家全体の系図(過去帳)を一幅の掛け軸に書きつけ、阿弥陀如来像の軸と合わせて架けて、供養祭を行ってきたとのことである。

今では5家のうち、2家が途絶えて、森本家、吉崎家、吉本家で供養を行っている。

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三家による慰霊碑、参拝


それに先立って吉備区は、芝村騒動犠牲者、大東亜戦争戦没者の慰霊祭を、区内の蓮台寺、明光寺の読経で執り行った。
僕も一緒に焼香させていただいた。


最後のこの箱訴を契機に、芝村藩の預かりは減らされ、その後の収賄寺kンなども問題となり、預かりは芝村藩の手を離れた。


以上、桜井市史を参照にした。吉備の副区長の吉崎さんにはいろいろとご教示をいただいた。
by koza5555 | 2014-09-15 23:50 | 桜井市と安倍 | Comments(0)

艸墓古墳と菅傘日記

今日は阿部を見直してみようと高家(たいえ)に上ってみた。
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夕闇前の耳成山がすばらしかった。風もなく、あちこちの畑から煙が立ち上がっていた。手前に見える道が山田道である

この山田道を240年前に本居宣長が歩いている。

「ひろき道にいづ。こは飛鳥のかたより。たゞに安倍へかよふ道也。山田村。荻田村(現在の生田村―おいだと読みます)といふを過て。安倍にいたる」(菅笠日記)。

本居宣長は明和の九年(1772年)、吉野の花見のあと、飛鳥を経て安倍を訪れた。
阿部の古代、中世を語るためには、この本居宣長の力を借りるのが最良である。

宣長が菅笠日記で安倍に触れたところは、1440字だが、そのうち720字、ちょうど半分は艸墓古墳古墳だった。

さて此寺(安倍寺)をはなれて。四五町ばかりおくの。高き所に又岩屋あり。こゝはをさをさ見にくる人もなき所なれば。道しるべするものだに。さだかにはしらで。そのあたりの田つくるをのこなどに とひきゝつゝ行て見るに。……


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艸墓古墳

おくはうへも横もやゝ廣きに。石して屋のかたりにつくりたる物。中にたてり。そは高さも横も六尺ばかり。奥へは九尺ばかり有て。屋根などのかたもつくりたるが。あかりさし入て。ほのかに見ゆ。うしろのかたは。めぐりて見れども。くらくて見えわかず。

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こんな石棺が残されている


さて口とおぼしき所は。前にもしりへみのなきを。うしろの方のすみに。一尺あまりかけたる跡のあるより。手をさし入てさぐりみれば。物もさはらず。

艸墓古墳には石棺がある。向かって右側の後に、一尺(30センチくらい)ばかりの欠けたところがある。
本居宣長が手さぐりしたこの穴は、今もある。

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角がかけた石棺

土地の人は、安倍晴明が宝物を納めたが、隅を打ちかきて盗み取りしというが、これは「例のうきたることにて。まことはかの文殊の寺なる二ッの岩屋も貴時高き人を葬りし墓とこそ思はれる」として、宣長は ことのついでに飛鳥の古墳のありさまを記した。

この古墳を、ツアーで何回も案内したことがある。
石棺が残っていること、盗人が角を割っていること、その生々しい姿に名古屋や関東の方は、ほんとうに感動してくれた。

そんなことを桜井の人に語ったら…どんな顔をするだろうか。
来月に僕の話を聞いてくれる方は、少なくとも全員が拝見されているだろうけど。
見てない人は「見に行きたい」、見た人は「もう一度見てこようか」、そんな話をしたいのである。
by koza5555 | 2014-09-14 22:53 | 桜井市と安倍 | Comments(0)

古代の伊波礼と磐余の宮

磐余と安倍にこだわりっている。
僕が住んでいる、磐余の地には宮が五代にわたって置かれたと記紀に記されている。

はじめが神功皇后の「磐余稚櫻神宮」である。
神功皇后の宮は「若櫻宮」であるが、崩御は「稚櫻宮」と紛らわしい。

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稚櫻宮付近はこのあたりか?橿原市の池尻から見ると池ノ内の村と稚櫻神社はこんな感じである。正面の小さな森が神社である


それに続くのは履忠天皇の宮である。仁徳天皇の皇子、母はイワノヒメ(磐之媛命)とされる。

古事記は伊波礼の若櫻宮とし、日本書紀は稚櫻宮とされており、これも相当紛らわしい。
「阿部山 式内社石寸(いわれ)山口神社、宮はこのあたりでは」との指摘は千田稔先生である。

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安倍山を見上げる位置である。右手は石寸山口神社とこも池


続いて清寧天皇の伊波礼の甕栗(みかくり)宮があり、続いて継体天皇の伊波礼の玉穂(たまほ)宮があるとされる。

六世紀前半に継体天皇も磐余に宮を設けている。
継体天皇は、はじめに河内の楠葉宮(くずは・枚方市)、続いて山背の筒城宮(つづき)(京田辺市)。さらに弟国(おとくに 長岡京市付近)宮と転々とした末に、即位してから20年も経て、大和入り、磐余に宮を置いた。
これは応神、仁徳に始まる王朝の断絶があり、それに敵対勢力を倒すために時間がかかったとの見方である。

そして、磐余の最後の宮は、用明天皇の「磐余に宮をつくる。名づけて池辺双槻宮」である。

そんな具合で
若桜(わかざくら)宮、
稚櫻(わかざくら)宮、
甕栗(みかくり)宮、
玉穂(たまほ)宮、
双槻(なみつき)宮である。

「オキナガタラシヒメ(神功皇后)の宮が磐余にあったとされているのですが、その宮の名が磐余の稚櫻宮であって、履忠天皇の宮と同じ名前なのです。同じ名前である理由について容易に答えが見いだせない」(千田稔。古事記の奈良大和路)

「神功皇后は磐余に宮をおく。これが若櫻宮で、これが皇后崩御では、稚櫻宮とされている。
稚櫻は履忠天皇の宮で紛らわしい」(「神々と天皇の宮都をたどる」 高城修三)

「見いだせない」、「紛らわしい」ということで、真実はいずれにかという感じである。


宮を考える上で、磐余池も大事で、それから履忠天皇が船に乗った磐余市磯(いちし)池はどこかが問題になる。風に吹かれた桜の花びらが杯に落ちる、調べるとその花は葛城の掖上(わきがみ)の室山からの花で、それを由来として、「若櫻宮」と名付けたとも記されている。
現代風に考えると、履忠天皇の先代の神功皇后の時に、すでに「若櫻」とか「稚櫻」とあるのは、なぜなんだろうと、葛城から磐余までの桜の花びらかとか・・・・

「宮は磐余のあちこちに転々とした」というのが千田論であるが、僕は飛鳥や桜井市の脇本のように、磐余も同じ場所に次々と宮がつくられたと考えたらどうだろうか・・などと思いめぐらし、楽しんでいる。

その場所は谷の若桜神社とか、池ノ内の稚桜神社のような山の上ではなく、又、北向きの斜面ではなく、もとより湿地や扇状地でもなく・・・

また、神武天皇をカムヤマトイワレヒコとしたのはなぜか。記紀が編集されていた7世紀後半、記述をしていた記紀の「筆者」たちは、磐余をどんなふうに認識していたのであろうか。

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石寸山口神社。あっちゃんと孫が写真撮影に付き合ってくれた。ちょっと薄暗いところなので(笑)


by koza5555 | 2014-09-13 17:27 | 桜井市と安倍 | Comments(0)

磐余と安倍

魅力ある桜井の町づくりをすすめる「うるわしの桜井をつくる会」から、講演依頼のお話があった。
うるわしの会は、「住んでよし訪れてよしのまちづくり」へ 、市民一人ひとりが能動的にかかわろうという桜井市民を中心の有志の運動である。
そんな運動をする会の「歴史部会」から、「安部の話をしてくれないか」という依頼である。
テーマは山の辺の道ではなく、波瀬でもなく、多武峰でもなく、「安倍に限って」とのことである。

「町づくりや観光の一助になるような話を」とあったが、僕にはそれは手におえないが、古代と中世と近世の安倍みたいな話、桜井や安倍が好きになるような話なら、これをしてみたいと思うのである。
「住んでよし、訪れてよし」の安倍を縦横に語ってみようと意気込んでいる。

安倍といえば、まずは磐余である。

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磐余から西を見れば耳成山

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磐余から東を見れば三輪山


日本書記には「虜(あた)を破るに逮(いた)りて、大軍集(いくさびとどもつど)ひて其の地に満(いわ)めり。因りてを改めて磐余とす」とある。
神武東征のおり、大和の盆地に入ったのが磐余の地とされていおり、八十タケルがイワミイたので、イワレ塔いう名がついたとされたのである。これを史実として、神武聖蹟碑がこの地にも立てられている(吉備)。

まずは磐余と意味と磐余の範囲である。

千田稔先生は「いわれは岩根。磐は岩。余は、その訓の「われ」で、「いわ」・「れ」となったとされ、石寸(いわれ)も石村(いわれ)のことで、石が群がる」である。
池田末則先生の「奈良の地名由来辞典」によれば、「磐余は石村(いわむら)、「余」は「村」(あれ)の義、石寸(いわれ)は省画文字である」ときわめて簡明である。
万葉集にある、「角障(つのさわ)ふ」は、石にかかる語で、石の所在が考えられる。
岩田とか岩坂などが付近にあり、岩村は問題がないとされた。

問題は磐余の区域である。
「池之内から橿原の池尻にかけてとするのが江戸時代からの通説でした」とし、「大津皇子の刑死は訳語田で、その近くに磐余池があったとすると、自宅は安倍山あたり」(古事記の奈良大和路)が、千田稔先生の論であることはよく知られている。

池田先生も「磐余山東光寺は岩山を切り開いて作ったと聞く。ここらあたりが磐余と見て良いのでは」との論で、千田先生以上に磐余の中心は東の方に行くのである。

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磐余山 東光寺 拝観できていないが、本堂には大日如来、不動明王などが祀られているとのことである

一方、郷土史家の栢木喜一さんは少し見方が違う。
「多武峰から北に下る寺川が野に出るあたり(ここら辺に磐余山東光寺があるが)の川西や谷も磐余地方というが、同じ多武峰でも高家(たいえ)から西北に下る米川の流域が磐余ではないか」と、地形を熟知したものとしての論を展開されている。(栢木喜一著 桜井風土記)


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流域論から見た磐余の場所。左(西)が米川、右が寺川。ただし古代の寺川の流路は全く違うと言われているが(参考・下(南)の方のブルーの斜線)


磐余の中心をどこに見るか、これが、神功皇后や履忠天皇の稚櫻宮の「想定地」や磐余池の場所を論ずるカギとなるので、おろそかにはできない。


「磐余と安倍」の話、僕はこんなところからは入らないが、ここら辺りは、質疑応答でも、問題になるだろう。
10月にかけて、ツアーは目白押しだが、ここらあたりをやりくりして、面白い勉強ができそうである。
by koza5555 | 2014-09-12 22:42 | 桜井市と安倍 | Comments(0)

9月15日は芝村騒動の供養祭

9月15日午後二時から桜井市の吉備(大字)区集会所(薬師寺)で芝村騒動の犠牲者の追悼慰霊祭が開かれる。

奈良県(大和)では、「宝暦3年(1753年)に芝村騒動という一揆がおこった。
芝村藩の預かりの村々が、年貢の切り下げを求めて箱訴、預かり藩の変更を求めて一揆を起こした。稲の刈取り拒否という新戦術が取られた。

幕府は芝村藩に落ち度はないとして、一揆を弾圧。
常盤村(橿原市)の彦市が死罪、4人が遠島、追放33名(それまでに彦市をはじめ37名が牢死している)という重い処分が行われた。

吉備村(桜井市)の組頭の平兵衛(へいべえ)、甚治良(じんじろう)、平治良(へいじろう)など六人が江戸に送られ三名が牢死、三名が帰還したとのことである。
牢死した義民、供養の碑が吉備の薬師寺境内に置かれている。

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吉備区集会所(薬師寺)の供養の碑

江戸時代、大和は領有が複雑で不在地主ならぬ不在領主が数多くいて、この代理領主を芝村藩が務めていた。
この制度を預かりという。

一揆の前には橿原から高田、桜井などは軒並み、芝村藩預かりで、藩は10万石の規模となっていたという。
預かりは公式には年貢の3%が預かり藩の取り分、芝村藩の所得は倍で、収入は2万石の大名クラスになっていたという。

ちなみに芝村藩の用人は、当初はほとんどが尾張、美濃の出身によって占められたが、幕末頃は足軽、人足の三分の二までは大和のものに代わったとある。
芝村藩は武士100名、足軽100人、人足100人ぐらいはいたようで、一万石では用人が多すぎる(戦国時代規模)ようであるが、これが預かりという制度に支えられていた。

一揆は弾圧されたが、これを機に芝村藩への預かりは一気に廃止されたとのことであるから、幕府の目も節穴ではないというべきか。

9月15日、村(吉備区)の供養祭が行われ、その後、牢死した三軒、帰還できた三軒で供養の集まりを開くという。
250年間、続けてきた供養の集まりと聞いた。


一部、不正確な記述がありました。「慰霊祭の実施」ブログで、修正・補強してますのでご参照ください。

そのブログは  「芝村騒動の犠牲者慰霊祭」  です。
by koza5555 | 2014-09-11 23:21 | 桜井市と安倍 | Comments(0)

エリアキャンペーン「室生・赤目・伊賀上野」

今年の近鉄エリアキャンペーンは「室生・赤目・伊賀上野」である。
「沿線観光資源の面的な掘り起こし」「地元と連携した観光強化」として、年に一回、エリアを決めてキャンペーンを行っている。
始めが「飛鳥・吉野地区」、昨年の第2回は式年遷宮の「伊勢志摩」、今年は「室生・赤目・伊賀上野」ということで、9月13日(土)から12月まで実施される。

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昨年の11月22日のライトアップの室生寺

宇陀、曽爾、御杖、名張、伊賀市などの取り組みで、魅力なところ、訪れたいところあれこれであるが、僕のおすすめ、というか、僕が行くところを紹介したい。

まずは一番。伊賀市中友生(ともの)の見徳寺の薬師如来坐像である。三重県の最古の仏像と言われ、三重県の指定文化財である。奈良国立博物館に保管されているが、秋の彼岸の法要のために里帰りされる。秘仏であるが、このキャンペーンに合わせて特別公開されるという。僕は奈良国立博物館の仏像館で拝見したことがあるが、この像を本来のお堂で拝観したいのである
「のんびり穏やかなお顔で、いいですねえー」この、一言です。
9月23日は15時~17時まで、24日は10時から18時まで、25日は10時から12時までの時間限定で、さらに強く強く、心が誘われる。
伊賀上野市駅からバスはあるが、車が無難である。

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見徳寺薬師如来像(近鉄パンフレットから)


二番目。安産寺子安地蔵菩薩の公開である。
毎月、9日の午前は開扉しているが、10月は9日から31日にまで、それも午前10時から午後4時まで、この時間ならいつでも拝観できる。
8月9日に拝観した時、「近鉄のキャンペーンに参加することにした。10月は朝から晩まで開けます」と山村区長はとても嬉しそうだった。


三番目。室生寺である。仙台市市博物館の東日本大震災復興祈念特別展「奈良・国宝 室生寺の仏たち」(8月24日まで開催)に出陳されていた釈迦如来像、十一面観音像、十二神将像などが帰ってきている。
公開は9月13日ころとのことで、来週の連休には間に合いそうである。
8月16日には河北新報社が「入場者が5万人を超えました」と報道されているが、盛況の様子である。
「特別展は8月24日に終了して、ご仏像は奈良に帰ってきており、9月13日には公開の予定で準備をすすめている」とのことである。


行きたいところはさまざまだろうが、第三回近鉄エリアキャンペーン「室生・赤目・伊賀上野」、駅や案内所でパンフレットを入手して検討の価値、大である。
by koza5555 | 2014-09-06 21:00 | 宇陀 | Comments(0)

蘇我氏と蘇我入鹿

20日(土)はウォークで橿原市小綱(しょうこう)町の入鹿神社を参拝する。
大日堂ともども、小綱町の辻本区長の案内を受けることになっており、解説にはなんの心配もない。
とても楽しみだが、蘇我氏のことが気になる。
入鹿はわかるのである。
乙巳の変、645年6月に蘇我入鹿は飛鳥板蓋宮にて、中大兄皇子と藤原鎌足によって討たれた。この日、山背大兄王ら上宮王家を倒し、甘樫丘に邸宅を築き、「上の宮門(みかど)」「谷の宮門」とし、さらに自分の子女達を皇子と呼ばせていた蘇我本宗家は滅びる。

この「蘇我氏は何か」である。

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蘇我氏の起源に関わるといわれる宗我坐宗我都比古神社。橿原市曽我町、宗我都比古(そがつひこ)大神と宗我都比売(そがつひめ)大神を祀る


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三冊の本を読んだ

NHK大阪文化センターが企画した講演会をまとめた「蘇我三代と二つの飛鳥」(2009年)。
明日香村教育委員会の西光慎治さんとか、大阪近つ飛鳥博物館の鹿野塁さんが書かれている。
「政治と住まいは遠つ飛鳥」、「墓域は近つ飛鳥」、これが蘇我氏の姿である。

この本はとくにイラストがすばらしい。片岡寛子さんという。

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 「蘇我三代と二つの飛鳥」(石舞台古墳と岩屋山古墳)43ページ


蘇我氏と古代国家(吉川弘文館)(1991年)も読んでみた。
蘇我本宗家と言えば稲目、馬子、蝦夷、入鹿であるが、稲目はどこから来たかである。
本貫地は大和宗我説(神社のところ)、大和葛城説、河内石川説とあるが、定説なしとしながらも、一時期と言えども大和宗我に在したことは間違いなしとされている。

稲目の前代は、古事記・日本書紀によれば満智、韓子、高麗(こま)とされているが、これは百済、新羅、高句麗からの連想で実在とは思えないとし、しかも稲目が大臣に突然となることが理解できないとされるのである。


同成社の「蘇我氏とは何か」(前田晴人)(2001年)の結論はダイナミックである。
前田さんは「蘇我氏は葛城氏の後裔でもなく、百済人木満致の子孫でもない」。蘇我氏は大和の「五世紀の王統譜に出自する王族の末裔」であり、本拠は飛鳥の西辺だったとされるのである。

蘇我四代による ①穴穂部皇子の殺害・物部一族の討滅、②崇峻天皇の暗殺、③上宮王家の殲滅などの無遠慮な仕打ちは、自らを大王家と通ずる特殊な歴史・立場がなければできないのでは、前田さんは推定する。
そして、そんな権力をもった蘇我一族は、允恭天皇の後裔であると提示し、木梨軽皇子(衣通郎女との同母妹に通じたことを問われて追われた皇子)を祖とすると結論づけらた。

したがって、継体天皇とそれを継ぐ欽明天皇の時代には、蘇我一族にも天皇位のチャンスがあったが、稲目は欽明天皇に「(蘇我は)王族の身分を捨てて氏を名乗り、臣下になる」という約束をしたというのである。「ソガ」という清浄で、かつ地名を選択し、蘇我氏との氏字はその時に始まった。

そんな歴史を踏まえてというか、にも関わらずというべきか、その後、馬子、蝦夷、入鹿と先祖がえりがすすみ、その横暴をただす乙巳の変を中大兄皇子が起こすのである。王統の一本化は図られた。

これはおもしろい論である。

蘇我は誰から?蘇我はどこから?突然、稲目が大臣になれたのはなぜ?
突然現れて、乙巳の変を経て、歴史に沈んでいった蘇我一族、考えれば考えるほど、勉強の意欲が湧いてくる。
by koza5555 | 2014-09-05 18:27 | 奈良 | Comments(0)