ブログトップ

奈良・桜井の歴史と社会

koza5555.exblog.jp

<   2014年 10月 ( 10 )   > この月の画像一覧

桜井市本町通り商店街2丁目たまり場

11月12日(水)に桜井市の本町通りの「たまり場」でお話することになった。

a0237937_16321616.jpg
これがその講座の案内チラシである。今回もさらに画期的、飛躍の講演にしようと思える、斬新で素晴らしいラシである

先日、ツアーの下見中に携帯のベルが鳴った。
FB友達(会ったことは無かった)の三宅さんから、「桜井市本町通り商店街二丁目のたまり場でお話をしないか」というお誘いであった。
突然のことで驚いたが、「桜井で頑張っている人から桜井の話を聞こう」という企画とのことである。

「なんでも引き受けよう」でガイドしているから、日程はあとで相談することにして、即決で引き受けである。
「桜井、国の始まり四本柱」で、 ①万葉集発耀の地、②仏教公伝の地、③相撲発祥の地、④芸能発祥の地を軸にして、桜井の良いところを組み立てることにした。

a0237937_16335476.jpg
桜井駅北口の国の始まり四本柱

このほど、案内のチラシを見せていただいた。

桜井の春・夏・秋・冬である。
よく見ると鳥居があり、
古墳があり・・それも前方後円墳があり、前方後方墳もあり、円墳もある・・
埴輪があれば、鳥居もあるし・・
僕の世代ではとても考えられない素敵なチラシだった。


日時と場所であるが・・・
11月12日(水)、午後7時から9時まで。場所は本町通り商店街二丁目たまり場(本町通りを東に入ると100メートル位先の左側にある)

申し込み方法は・・・
「桜井市市民協働推進協議会」の補助金対象の事業ということで、参加費は無料だが、申し込みが必要である。チラシを拡大して見ていただきたいが、申し込み先は090-3050-0771(三宅さん)で、申し込み期日は10日までとなっている。

いつにも増して、明るく楽しくお話します。おいでをお待ちします。
by koza5555 | 2014-10-28 17:24 | 桜井市と安倍 | Comments(0)

室生と長谷の一泊ツアー

名古屋の友だちから連絡があった。「ウォーキンググループの一泊旅行、奈良に行きたい」とのことである。このグループは、遷都祭の時に案内したことがあるのだが、「もう一度奈良に行きたい」とまとまったとのことである。
一泊で面白いところに行きたいとのことである。

三本松の子安地蔵菩薩、橋本屋で昼食、室生寺を参拝、路線バスで室生口大野に出て、電車で長谷へ。
井谷屋さんに泊まり、長谷寺をトコトン楽しみ、泊瀬長者亭で昼食というコースを提案した。

見学するところ、泊まるところ、昼食場所、お土産を買うところ、移動手段、そして女性が多いツアーであるので旅行カバンの見学時の管理方法などなど、すべてが完璧である。

名古屋からは近鉄特急で名張まで。名張で迎えて、室生の三本松からこのツアーを始める。

はじめに三本松の地蔵菩薩である。
室生寺の金堂から江戸期に流出、三本松の道の駅の上、安産寺にて子安地蔵菩薩として祀られている。
三本松の安産寺は毎月9日の午前に開扉、1月24日初地蔵、8月の第4日曜日がご縁日の法要である。
10月中は常時開扉していたのであるが、とりあえず申請は出しておいた。

a0237937_1528384.jpg
安産寺地蔵菩薩(パンフレットから)

像高は180センチ、榧の一本作りで顔の表情やY字形に流れる翻波式(ほんぱしき)衣文(大小の波が繰り返すような衣文)が、室生寺金堂本尊の伝釈迦如来と共通で、弘仁の造像と言われている。

安産寺をでて、室生寺に向かう。この道は路線バスがなく、事前にタクシーなどを呼ぶ必要がある。

a0237937_15295513.jpg
昼食は橋本屋旅館の山菜料理である。これは楽しんでいただけそうだ

このツアーでは室生寺で2時間半、タップリ時間を確保した。奥の院まで行くための時間である。なんといっても毎晩歩いているウォーキンググループである。今回はみんなが登れるだろう。

a0237937_15305634.jpg

室生寺の奥の院、長谷寺も奥の院まで連れまわして、「室生・長谷寺、奥の院までとことん極め尽くそう」(笑)ともいえるコースが出来上がった。

室生寺からは路線バス、近鉄電車で長谷寺駅に向かう。
長谷の泊まりは井谷屋さんである。

a0237937_1531405.jpg

朝は6時半集合、もちろん朝の勤行からである。

長谷寺は、本尊大観音尊像の特別拝観期間中(10月19日~12月7日まで)で、これも楽しみだ。


安産寺地蔵菩薩、室生寺五重塔や諸仏、長谷寺の朝の勤行、本尊特別拝観、二つの奥の院が拝見できて橋本屋と泊瀬長者亭の昼食である。

a0237937_15485115.jpg
A5版6ページのカラーパンフレットもうまくできた。

良い具合のコースが出来上がった。みなさんにも楽しんでいただけるし、案内する僕も楽しみである。
紅葉はまだまだ浅いが、至福のツアーとなるだろう。
最後、近鉄長谷寺駅で送りだす、明るく楽しく、案内しよう。
by koza5555 | 2014-10-27 16:15 | 桜井・初瀬 | Comments(0)

第66回正倉院展

10月24日(金)から11月12日までは奈良国立博物館で正倉院展が開かれる。
お招きをいただき、23日、第66回正倉院展、招待会を拝見してきた。

今年は「正倉院の武器・武具」の展示が際立った。

梓弓が出されていた。梓の木で作った弓、武器・狩猟具としても使われたが、より神事に使われたとされている。
正倉院(「国家珍宝帳」には梓弓が84張、槻弓(丸木のケヤキ)の弓が100張とされていたが、藤原仲麻呂の乱でいずれも出蔵されたまま、宝庫には戻らなかったとのことである。刀についても同じような状況があったとのことである。
出陳された梓弓、槻弓とも東大寺所用のものと考えられるとされていた。

鞆(とも)を初めて見ることができて、これは得難くありがたい経験だった。
a0237937_2235564.jpg
靹、こんな形だった

元明天皇の歌がある。
「ますらをの 鞆(とも)の音すなり 物部の 大臣(おおまえつきみ) 盾立つらしも」 (万葉集巻1―76元明天皇)。残された武器と そして歌として残された文字が、一致してこれは感慨が深い。

「聖武天皇の御遺愛の宝物」が、見ごたえがある。「聖武天皇の七七忌(49日)に、后の光明皇后によって天皇の御遺愛品六百数十点が東大寺大仏に献納され、その品々は正倉院北倉に収めた」。

a0237937_22394299.jpg
御遺愛品のうち、衲(のうの)御礼履(ごらいり)が出陳。儀式のとき、この靴を聖武天皇が穿いたのか


a0237937_22425259.jpg
鳥毛立女(とりげりつじょ)屏風が四扇


58才まで愛知県で暮らした者として、強烈な印象に残るものがあった。
正倉院古文書正集第15巻。中倉で、尾張国の天平2年(730年)の財政収支状況を記した文書である。

ここに中島郡、葉栗郡、海部郡とあった。
2005年に中島郡は消滅している。天平2年から1300年を経て、中島郡の祖父江町、平和町は稲沢市に吸収されたので、中島郡という地名は歴史に残るだけである。

同じく葉栗郡の木曽川町も一宮市に吸収された。
海部郡は10町村があったが、残るは蟹江町や飛島村など三町村のみで、これも風前の灯だろう。

1300年続いた地名が、こんなに簡単に無くなってしまった・・・思わぬところで目頭を熱くしてしまった。今は奈良県民だのに・・・・

そんな具合でマニアックに正倉院展を楽しんだ。


正倉院正倉、大修理が完了して25日から外構の公開が再開される。事前の申し込みは不要でしかも無料である。写真は4年ほど前、大修理前のものである。
a0237937_22494515.jpg

by koza5555 | 2014-10-23 23:31 | 奈良 | Comments(0)

初瀬まつり 柳原太鼓台

10月19日は初瀬まつり、本宮である。
太鼓台を出す柳原町には冬から取材させていただいた。

a0237937_17544961.jpg
長谷寺仁王門前に太鼓台を押し上げる。初瀬の太鼓台は長谷寺仁王門前まで登り下るのがすごい

初瀬まつりは與喜天満宮の秋祭である。神輿と太鼓台が出る。
駆向 新町 柳原 下の森 上の森 寺垣外 宮本 与喜浦の初瀬八ケ郷の祭である。

神輿にて興喜天満宮を道真公が出座、これで祭は始まる。
はじめに長谷寺仁王門、金子宮司は「ごあいさつにきました」と紹介した。
その後、神輿は初瀬八ケ郷を巡行するのである。
a0237937_17555173.jpg
仁王門前から下る神輿。今年の当番は馳向区である


秋まつりの太鼓台を復活させた柳原町の太鼓台奉賛会の話を聞いた。

柳原(初瀬八ヶ郷の一つ)の太鼓台は、平成16年に復活された。実に50年間の中断である。
この復活の苦労を木口奉賛会長と前会長の村田さんからお話を聞いた。
江戸時代末期と言う太鼓台の歴史、その修理、太鼓台を運行する苦労などを、ていねいに語っていただいた。

柳原太鼓台は江戸時代末期に作られたものであるが、終戦後に太鼓台の巡行は中止となってしまった。
柳原区はこの太鼓台を、平成16年に復活したのである。

馳向区がさきがけて復活していた。新町も太鼓台を改修していた。
ちなみに川上と上の森区はそのころ、ひと回り小さい夜太鼓だけを出していた。
 
平成16年、当時の柳原区の武田功男区長が昼太鼓を出そうと決断した。
区の役員は三役を除くと毎年変わるので、活動がなかなか継続できなかっがが、係を決めて継続できるように計らった。

修理に一千万円かかったが、みんなで労力を出した。自分で塗って、幕も自分で作った。
柳原区の太鼓台は素晴らしい太鼓台で、大工は芝村、彫師は幕末の大阪本町通北御堂に居を構えた小松源蔵作と言われていた。

復活するとき、担い手、担ぎ手を大切にしようということを話し合った。
アルバイトは雇わない、ボランティアということでネットでも募集して、男女を問わず、そして国際的な担ぎ手集団を組織して巡行しているということだった。

「担ぎ手は66名。交代も必要で100名で担ぐ。毎回メンバーは変わるので、身長を聞いて、高さの調整を緻密に行う」と言われる。

直会、精進落としは井谷屋(旅館)でやるのである。・・

a0237937_1883719.jpg
柳原太鼓台、長谷寺門前で、「サセー サセー」と高く高くである


a0237937_18103468.jpg
馳向区の太鼓台、力強い


a0237937_18104151.jpg
新町太鼓台、桜の馬場にて


いったん途切れた太鼓台の運行を再開した長谷はすごい
by koza5555 | 2014-10-19 18:41 | 桜井・初瀬 | Comments(0)

日本史探訪

NHKで1970年から5年間ほど「日本史探訪」という歴史番組があった・・あったという・・僕は知らなかった。40年も前の話で、僕も二十代だった。

このシリーズが書籍になり、文庫本にもなっているのである。
ブックオフの100円コーナーで、「大仏開眼と平安遷都」をはじめに手に取って、ここにはまってしまった。

古本屋やネットで次々と手に入れて、読みに読んで、7月から三か月余り、シリーズのすべてを読み切った。

a0237937_2328383.jpg
石器時代から明治維新まで22冊である。
全部を文庫本で手に入れたので、寝ながらでも読めたし・・・・

5年で250週、250人くらい、取り上げられている。
まず、取り上げられている人がそれぞれにすばらしい。
取材がしっかりしていて、歴史学者の解説も要を得ていて、さらに小説家がユニークな判定を加える。
海音寺潮五郎、新田次郎、松本清張、司馬遼太郎(亡くなった順である)などが、自由奔放に語るわけで、当然…おもしろい。

テーマは

日本人の原像
古代日本の謎、
律令体制と歌びとたち
大仏開眼と王朝の夢
源平の争乱
武士政権の誕生
南北朝と室町時代
戦国の武将たち
信長と秀吉をめぐる人々
キリシタンと鉄砲伝来
関ヶ原と大坂の陣
幕藩体制の軌跡
江戸期の芸術家と豪商
戯作と俳諧
国学と洋学
講談・歌舞伎のヒーローたち
海を渡った日本人
開国か攘夷か
幕末に散った火花
菊と葵の盛衰
幕末維新の英傑たち


いくらか読む気にはなりませんか。


今日は阿部八幡神社の秋祭。宵宮である。
しっかり準備して、宵宮、村の子供たちも来てくれた。
ただし、祭りの当日(明日)の行事は絶えて久しい。

a0237937_23345597.jpg

昨年の祭りは激しい風雨で十分なことができなかったが、今年は提灯も吊った
by koza5555 | 2014-10-15 23:43 | 読書 | Comments(0)

今年の萬葉学会は天理大学で

10月11日に天理大学で開催された萬葉学会の全国大会で坂本信幸先生のお話を勉強してきた。
演題は「天理と万葉歌」である。

a0237937_2038275.jpg
天理大学、八号棟あたりから。とても落ち着いたキャンバスだった

講演を僕なりにまとめてみた。
①はじめに「天理市には柿本人麻呂の墓と妻の墓がある」である。
柿本人麻呂は、「万葉集にしたがって、石見で死亡したことは確実である。」とされ、それを認めながらも天理市に柿本人麻呂の墓があることも確かとと思える・・である。

「大和国石上といふ所に、かきのもと寺といふ所の前に人麿が墓有りといふを聞て」清輔集(1177年以前に成立)とか、

「人丸の墓は大和国にあり。泊瀬に参る道なり。・・・・彼の所には歌塚とぞいふなる」鴨長明「無名抄」(1211~6年)など、平安の時代から天理の柿本人麻呂の墓が論じられている。

「石見に死して」だが、天理に墓があることは間違いない、火葬して遺骨を埋めたとみたいとのことである。

妻も天理に葬られたことも間違いなしとされ、
「大鳥の 羽易(はがい)の山に わが恋(こ)ふる 妹は座(いま)すと 人の言へば」
(巻2-110・長歌の一部)と、「衾道(ふすまじ)を 引手の山に 妹を置きて 山道を行けば 生けりともなし」(巻2-212)を引かれての説明があった。

「羽易の山」は三輪から竜王山にかけての山裾のことであり、それを大濱厳比古氏の「新万葉考」に従って、「三輪山を頭部に、竜王・巻向山を両翼として、いっぱいに翼をひろげて天かけてくる鳳の姿を見たのである」と羽易の山を解説された。

a0237937_20414135.jpg
 「大鳥の羽易の山」。飛鳥からはどこからもこの姿が望める


②二つ目のテーマは「柿本人麻呂はどこで生まれ育ったか」である。「柿本人麻呂の実像は不明とされる」などと聞いて納得してきたが、これはおもしろそうである。

万葉歌には略体歌と比略体歌があることを初めて勉強した。

「春楊 葛山 發雲 立座 妹念」という歌がある。
「春柳 葛城山に 立つ雲の 立ちても居ても 妹をしぞ思ふ」(巻11-2453)であるが、漢字10文字で31音を表す優れものと聞いてきた。助詞、助動詞などを全部省略した形で、これを略体歌というのである。

もちろん、柿本人麻呂には非略体歌もたくさんある。

画然と別れるわけではないが、傾向として人麻呂の歌は、若い時は略体歌、円熟してからは非略体歌が多いとのことである。それが地域ごとに整理されているのである。

城上郡(しきのかみ)は圧倒的に非略体歌、近江と山背国、各地方の歌は略体歌だという。若いときは近江、山城で、円熟してからは盆地の南部に移ったとみることができるとのことである。

結論を急ぐが、人麻呂の出身地は近江、山背は通過地点ではないかというお話である。
諸国の歌に略体歌が多いのは、若い時の人麻呂は「諸国の歌、伝承などの採歌・採話係」を職務としていたのではとの指摘だった。

僕の勉強、感想は坂本先生のお話とは、ちょっと差があるかもしれないが、今年は素晴らしい勉強ができた。


萬葉学会は、萬葉集を研究する学会であるが、「萬葉集を愛好する人は来たれ」と門戸を広く開いている学会である。
年間会費は4000円。学会誌が年に4回送ってきて、行事の案内もいただけて、お得である。

さて、この日の講演はもう一本あって、「よみを問う、ことばを探る」と題して、奥村悦三奈良女子大名誉教授がお話しをされた。難しいお話だったが、記紀万葉を考える上で、とても大きなカルチャーショックを受けた。様子を見てこれもアップしたい。
by koza5555 | 2014-10-13 21:34 | 万葉の旅 | Comments(0)

稚桜神社と若桜神社、磐余池を考える

月末に、うるわしの桜井の会で「アベと磐余」という講演を行う。

阿倍、安倍、阿部、古代から近世に至るまで面白いお話がいっぱいであるが、磐余若桜宮、磐余若桜宮の所在地論も必須だろう。

これは難しい。和田萃先生の池ノ内論、千田稔先生の谷論、正面からの対決で、僕ごときの出る幕はなさそうであるが、論題が「アベと磐余」である。
とにかく記紀には磐余には、5世代の宮が記されているのである。
発掘では決まっていないのだから、これはどこ、あれはどことはなかなか言い切れない。

a0237937_9552799.jpg
稚桜宮の宮跡候補地、池ノ内の稚桜神社


磐余の宮はどこか。
池ノ内か、谷か、高田もあるかも・・・であるが。

古事記・日本書紀で見たらどうか。そして、考古学から見たらどうか。
こういう論点だろう。

考古学的には、宮跡はまだ出ていない、宮と深くつながる磐余池はどこかもあるだろう。
そして、あとは古墳がある。メスリ山古墳と茶臼山古墳とかその他の群集墳とか。

そんなふうに考えたら、提供できる僕の情報、知識も少々はあるぞと思えてきて、「アベと磐余」という演題にふさわしい筋書きが少しづつ、みえてきた。

候補地は「谷の若桜神社」か「池ノ内の稚桜神社」であり、神社は宮と直接つながっているわけではないが、まずはここから考えてみた。

延喜式神名帳には若桜神社が紹介されている。祈年祭に朝廷から幣帛を受ける神社で、式内社である。
「若桜神社は磯上郡にありとされており、池ノ内の稚桜神社は十市郡であたらない」と千田先生は言うのである。

この延喜式を軸に、二つの神社をつぶさに調べてみると・・
おもしろいものがあった。

まずは、谷の若桜神社である。
境内西北隅に「安倍大明神社 寛政(1800年) 谷邑喜三郎」の灯篭がある。若桜神社には「高屋安倍神社」が合祀されている。400m南の松本山から遷座したという。大彦主命、阿部の祖神を祀っている。
燈籠は合祀後と見られるが、この高屋安倍神社は延喜式内社で奈良時代からあったとみて差し支えない。
谷の若桜神社周辺は、古代・中世から開けていたことがうかがわれる。、

a0237937_1012260.jpg
 「安倍大明神社 寛政(1800年) 谷邑(たにむら)喜三郎」の灯篭である(谷)


池ノ内の稚桜神社にも、人知れずだが、貴重な石燈籠の破片がある。
本殿宮垣内であるけど。

通称、「雷押さえ石」という。
この石は凝灰岩製であるが、丹弁蓮華紋の六角石灯籠の中台である。
時期がなかなかで、当麻寺の金堂の前と同じ形、同じ時代の白鳳時代のものという。ここら辺の石造物ではダントツに古いものである。
白鳳時代の石燈籠の残欠を持つ神社、延喜式に照らして、これも考えるべきである。

a0237937_1031323.jpg
雷押さえ石(池ノ内)

優劣はつくのだろうか?
講演は10月25日(土)午後一時から、桜井市の駅南口エルトの二階である。
by koza5555 | 2014-10-11 10:51 | 桜井市と安倍 | Comments(0)

桜井 七ツ井戸

桜井の安倍木材団地に「七ッ井戸」なるものがある。
桜井市の教育委員会が建てた案内板には、「・・・・・根拠にとぼしい。・・・・」とあり、いつでもこれはパスしてきた。
桜井なら何でもわかる「桜井風土記」(柏木喜一著)でも、これは取りあげられていない。

ちょぅと考えてみた。なんで七ツ井戸?とか、なによりも本居宣長もわざわざ見てるし、ということで。
阿部を語るには、ここは「おもしろいかも」である。

a0237937_10102362.jpg
桜井市安倍木材団地の七ツ井戸


旧橋本地区(現在は安倍木材団地一丁目)にある湧水の湧き出し口。阿部・吉備地区の灌漑用水になっている。地元では、吉備大臣(吉備真備)が作ったと伝えているが、根拠にとぼしい。
 地形的にみて、旧寺川が下地区から高田・生田・阿部地区を流れていた頃の伏流水かと考えられる。周辺の区画整理の際、都市公園として保存された。

a0237937_1013290.jpg
七ッ井戸掲示板(湧水が七カ所…数多くあるというだろう)

聖徳太子が七ツ井戸を通られた。あたりの者はひれ伏すが、ひたすら芹を摘んでいた乙女があり、だれか、なぜかと問うと、母の病の養生のためにひたすら摘むなり、である。

太子は行幸の帰りに、家へたちより、この孝女を宮に連れ帰るという伝承である。
この芹摘孝女は「膳部菩岐々美郎女(かしわでのほききみのいらつめ)」のことで、太子に深く愛され、聖徳太子の磯長陵(しながりょう)に太子と共に葬られている。
 
中国の故事の焼き直しで、これが史実でないことは明白だろう。
本居宣長も、 「又せりつみの后の七ッ井とて。いさゝかなるたまり水の。ところどころにあるは。芹つみし昔の人といふ事のあるにつけていふにや。こゝろえぬ事ども也。」 と愛想なしである。

さらに膳臣(膳菩岐岐美郎女)は斑鳩を本拠地にしていたとの説が一般的で、この立場からは「七ッ井戸伝承」は、成り立たない。

しかし、隣接の橿原市の膳夫(かしわで)の保寿院(ほじゅいん)は、膳夫姫(かしわてひめ)がその養母を弔うために建立した「膳夫(かしわて)寺跡」と伝えられており、他にも関連伝承が多くて悩ましい。
ちなみにこの寺から、7世紀後半の瓦や柱穴のある礎石が出土している(保寿院の項は橿原市観光協会、橿原探訪ナビ参照)。

a0237937_10142337.jpg
今朝(10月8日)も七ツ井戸、湧水で満ちていた


by koza5555 | 2014-10-09 09:52 | 桜井市と安倍 | Comments(0)

西大寺と高野陵

10月のツアーは「大和路を行く」と「大人の学校」で、いずれも西大寺のあたりを歩く。

西大寺で大茶盛を楽しみ、佐紀盾列(たたなみ)古墳群を歩く。ツアーの最後は称徳(孝謙)天皇陵という、高野陵(たかののみささぎ)である。

西大寺、西大寺資財流記帳(るきちょう)によれば、764年9月11日、孝謙上皇(孝謙・称徳天皇)が金銅四天王の造立を発願して始まるとされる。
この日は、藤原仲麻呂(恵美押勝)の乱が始まって日であり、戦勝祈願の寺として始まったことは明らかである。

a0237937_0175832.jpg
四天王は四王金堂に

藤原仲麻呂を討った後の栄耀栄華は言うまでもなかったが、その時期はとても短いものであった。
称徳天皇は神護景雲(じんごきょううん)4年(770年)8月4日に死去、平城京西宮で道鏡に看取られて亡くなったとされる。
続日本紀には、ただちに山陵築造の役夫を6300人を徴用したとされている。

孝謙(称徳)天皇陵、高野陵(たかののみささぎ)は大和国添下郡、兆域東西5町、南北3町。守戸5烟であとされている(延喜式)。
東西500メートル、南北300メートル、巨大な墓域である。

a0237937_0184394.jpg
高野陵

今回は古墳探索ツアーではないので、最後に宮内庁指定の孝謙天皇陵を普通に訪れる。

時の盛衰を語りたい。
続日本紀によると。
●神護景雲(じんごきょううん)4年(770年)8月4日に死去。平城京西宮で道鏡に看取られて死去。山稜築造の役夫、6300人を徴用。
●9日に長屋王の弟の鈴鹿王の遺児の豊野真人出雲、豊野真人奄地(あむち)、豊野真人五十戸(いそべ)の昇進。鈴鹿王の旧宅をもって持って山陵とするため。
●17日に葬ったとされ、「道鏡法師、梓宮に奉じて、すなわち陵下(りょうげ)に留まり廬(いおり)す」である。
●その四日後の8月21日には、道鏡は下野(しもつけ)に追われ、さらに翌日の8月22日、弓削浄人(ゆげのきよひと)(道鏡の弟、腹心として活躍)は土佐に追放される。
●8月26日、河内職(かわちしき)(道鏡の故郷に都を作ったので)を河内国にもどす。
●9月6日、追放されていた和気清麻呂と広虫を京に召し出した。道鏡を天皇にしてはいけないという託宣を宇佐八幡宮から持ち帰った和気清麻呂とその姉である。

続日本紀には、ダイナミックな時の移り変わり、盛衰を感じさせられる記述が続く。

今回のツアーは始めに西大寺で称徳天皇の栄光を語り、最後の高野陵で称徳天皇の亡き後の政治の激動を語る。

それにしても佐紀盾列古墳群、丘陵を利用して、それぞれの大型の前方後円墳を組み合わせて、合理的な美しさにはいつも目を見張る。
この古墳を作った古代の工人、技術者の正確な仕事を存分に楽しませていただくというツアーにもなりそうである。
by koza5555 | 2014-10-07 06:57 | 奈良 | Comments(0)

安倍と春日社、そして植栗連(えぐりのむらじ)

アベと磐余をお話することになり勉強をしてみたら・・・

イワレの宮や磐余の池、安倍氏のことはさておき、春日社と榎本神社(榎本さん)、中臣植栗(えぐり)連(むらじ)時風(ときふう)・秀行(ひでゆき)が阿倍に深く関係していることが見えてきた。

春日大社のご祭神、「鹿島に坐すタケミカヅチ命、香取に坐すフツツヌシ命」が、白鹿に乗って常陸からやってきたという春日縁起はよく知られている。

a0237937_904510.jpg
こんな形である。供奉するのは中臣植栗(えぐり)連(むらじ)時風(ときふう)・秀行(ひでゆき)である


経路が問題である。常陸から名張まで至り、阿倍山を経由したとされているのである。


ご祭神はさておいて、藤原の本貫地はいずれか。
豊後
常陸
大和
河内など、論は各論である。

まずは、豊後であるが、中臣は欽明期(6世紀半)には大和王権の有力な豪族となっており、豊後とか常陸とかを出自とする地方豪族ではありえないと意見が有力である。

となると、河内か大和であるが、中臣の分布が河内に集中しており、初期の中臣黒田、常盤が河内豪族と婚姻関係にあるとされている。

「常陸の国から白鹿に乗って」は、常陸の国出自論のようであるが、藤原の祖神(みおや)であるアメノコヤネ神(ヒメ神)は河内の枚岡から勧請されている。

結論として、中臣は河内を本貫として、大和に入った豪族とみたい。

それで、大和のどこかであるが。
中臣磐余という人がいて、春日神が阿倍山(桜井市阿部)に坐したという伝承があり、中臣氏と関係のある植栗(えぐり)神社が桜井にあり、また鎌足は明日香村の小原が誕生地とされる。
中臣の足跡が阿倍にある・・・それを今度の「磐余・アベ」の講演のテーマにしたいのである。

タケミカヅチ命はなぜ、阿倍山を経たのか。
鹿島から供奉するのは、中臣植栗連の時風・秀行である。春日入りしてからは、神託があり、辰市郷(奈良済生会病院の近く)に宅地を賜り、今も時風神社が残る。

この植栗連がミソで、これが桜井の上之庄に坐す植栗神社に関わるのである。
阿倍の近く、上之庄に延喜式(神名上)のいう植栗神社がある。
江戸時代には三十八神社とされていたが、明治10年に上之庄神社、明治22年には植栗神社に戻され、境内には明治36年の植栗神社の燈籠一対と江戸時代の三十八神社の燈籠が、三対残されていた。

a0237937_935789.jpg
植栗神社(ご祭神は中臣殖栗連祖神)で、アマノコヤネを合祀する

この植栗が中臣植栗の本貫?滞在地?と見るのである。
だから、タケミカヅチ命は鹿島からではなく、阿倍山に「憑代」をもち、中臣時風、秀行(春日大社の禰宜の千鳥さんの祖である)が春日の地へ供奉したとみたい。

a0237937_951731.jpg
タケミカヅチ命が滞在した阿倍山はこちらに。神宮(じんぐり)山から見た奈良盆地南部


阿倍と春日の関係では、春日大社の榎本神社に関わるエピソードも重要である。
春日大社、本社の左側に榎本神社があるが、この「榎本さん」が、もともとの春日の地主神だった。この榎本さんとタケミカヅチ命が春日の地を交換したという説話である。

タケミカヅチ命は阿倍山に鎮座していたが、春日野の榎本の神が「春日野と、阿倍山を交換しよう」と持ちかけ、遷座したとのことである。その後、藤原京が平城に遷都して阿倍山はさびれた。さびしい榎本さんは春日に戻り摂社になったという説である。

阿倍のどこか。安倍文殊院の西の神宮山(しんぐりやま)で、現在は阿部の村の墓地であり、昭和に入り北側が削られている。

鹿島神、香取神、枚岡神を象徴する柿木三本を象徴する三本木という字があり、その中心に榎が植わっていたとみられる榎という字があったとのことである。

a0237937_96331.jpg
字、榎。いまは栗の木が植わっている


ここまで書くと、阿倍の本貫地と中臣がいかにも同じ場所に・・という感じで、これが悩ましい。
ここは軽く、飛ばしながら…できるかな。

さて、いかがでしょうか。


参考文献は 春日88号(春日大社)、春日明神(氏族の展開)上田正昭、中臣氏と大和(鷲森浩幸)、ブログakadamaなど



         
by koza5555 | 2014-10-01 09:58 | 桜井市と安倍 | Comments(2)