ブログトップ

奈良・桜井の歴史と社会

koza5555.exblog.jp

<   2014年 12月 ( 9 )   > この月の画像一覧

観音万燈会と暁天開帳

長谷寺の観音万燈会は12月31日の午後7時から始まった。

万燈会は31日の午後7時から元旦の午前5時までと
2日と3日は午後5時から8時までである。

a0237937_2149389.jpg

お正月の三が日は入山料・無料である。お気軽にぜひおいでいただきたい。

さて、長谷寺のこの観音万燈会もすばらしいが、1月1日元旦には、ご本尊の開帳法要が行われる。

長谷寺は12月31日午後四時にご本尊の閉帳法要、元旦の午前零時には開帳法要である。

a0237937_21501940.jpg

この開帳法要を別名、暁天開帳と言うのである。
深夜のご開帳、この法要自体が珍しいと思われるが、これを暁天開帳というのも不思議である。

31日の午後4時から元旦の午前零時までは戸帳が下されている。
a0237937_21532758.jpg

導師がチリリン、チリリンと鳴らす鈴に合わせて、ずりっ、ずりっと戸帳が下がるとのことである。


200年前の「豊山玉石集」には寅の刻(いまの午前四時)に開帳しており、その後近代までは午前6時の開帳という時期もあるようで、初日の出を祝うという行事とのことである。

この法要は境内の整備費の確保のために、500年も前の豊臣秀長公の時代から(真言宗豊山派となってから)続けられたてきた行事とのことである。

この新年の暁天開帳、今年は間に合わないだろうけど、ぜひ、いつかお出かけください。

初瀬の山寺にも静かな穏やかな時間が流れて、新しい年が始まる。
a0237937_21553715.jpg



暁天開帳については、岡田普門院住職の講演(昭和61年 初瀬春秋)を参考にしました
by koza5555 | 2014-12-31 22:46 | 桜井・初瀬 | Comments(0)

談山神社から飛鳥へ

例年に増して多武峰・談山神社に足しげく通った年だった。
氏子総代としての参拝に合わせて、ツアーやその下見で何度も訪れたのである。

a0237937_1372527.jpg

講演準備の写真撮りで、新春に万葉展望台を訪れたことが一つの始まりだった。
「この眺望をみんなに見てもらいたい」、そう激しく感じたのが始まりだ。

この眺望、今年のうちに「大和路を行く」と「大人の学校」で二回案内することができた。
見たいものは「紅葉の談山神社と万葉展望台」、食事は神社の社務所二階(有料です)を借りると決めてコースを作った。

近鉄の「てくてくマップ奈良⑩、多武峰・飛鳥の里コース」にそったコースをそのまま活用することにした。

多武峰から明日香村、これは万葉展望台を経て大原か石舞台に下る道と県道に沿って気都和既(きつわき)神社(もうこの森)を経る道がある。
多武峰からは桜井の高家(たいへ)に出る道もあるが、今回はこの道は考えなかった。

5回ほど歩いてみて、眺望、歩きやすさなどから石舞台コースを選択した。
ちょっとハードだった。ちょっとした登山靴、ストックが必要なコースである。

多武峰には路線バスで登った。
a0237937_1395410.jpg

始めの解説は、学頭屋敷跡にて行う。
談山神社の前身が、妙楽寺と聖霊院(しょうりょういん)だったと説明する上で、神社の全景が見渡せる学頭屋敷跡が絶好の解説ポイントである。

談山(かたらいやま)は中大兄皇子と藤原鎌足が大化改新の相談をした所とされ、この地がその場所とされる。明治2年(1869)に談山神社として独立し、妙楽寺の名は消滅した。

a0237937_13103751.jpg

見て楽しいのはけまり祭、由緒からいうと嘉吉祭。これは本殿前での解説である。
とくに嘉吉祭については、和稲(にぎしね)、荒稲(あらしね)が展示されていることだからお話がしやすい。
多武峰が足利幕府の攻撃を受け、難を避けて、御神像が明日香の橘寺に遷座した。嘉吉元年に帰座したが、それを祝い、二度と出坐のないことを祈念して祭典を行った。

a0237937_13113033.jpg

十三重塔を見学して、社務所に入り持参の弁当の食事である。
神社を出て、西口で食事をするという方法もあるが、雨の予測やトイレのことなどを考えると、社務所をお借りするのが最適である。熱いお茶も用意していただける。

食事時間で余裕をみて、神廟拝所は各自の拝観とし、門前の売店に出かけた方もいるという形である。

食事後は、神社の西口を出て、北山に向かうアスファルト道を歩く。
200メートル位で左に下りる道があるが、これは万葉展望台を経ずに飛鳥に下りる道で、そのまま直進すると、道は念誦窟(ねずき)に至る。
a0237937_13115587.jpg

多武峰(妙楽寺)の再興の祖である増賀(そうが)上人入寂の地である。

a0237937_13122828.jpg

三叉路、ここまで来ると、この標識は見落とさない。

a0237937_13125928.jpg

さらに三叉路。これは高家に下る道で、お地蔵さまが。

万葉展望台に至る。

どの道も猪除けの扉があるが、開けて通る。あとは扉をしっかり締めて下る。柿の木の紅葉も素晴らしかった。
a0237937_1319662.jpg


石舞台からは、飛鳥駅に出るバスがお薦めで、くれぐれも橿原神宮前駅東出口行きには乗らないように・・・である。
春・秋・冬、まあ・・夏も・・素晴らしいウォーキングコースである。
(ツアー当日は写真が撮れないため、下見の写真を使った。ツアーは秋だったが、冬や夏の写真も交じっている)
by koza5555 | 2014-12-31 13:30 | 桜井・多武峰 | Comments(0)

西大寺と大茶盛

今年も元気にツアーを案内することができた。
一月から十二月まで40回を超えるツアー・講演で千名というお客様に、お聞きいただくことができた。
ご参加のみなさんに、あらためて感謝申し上げます。

一つ一つが大事なツアーであったが、「西大寺で大茶盛」は、特に思いがこもった。これをテーマに3回のツアーを行い、80名の方を案内することができた。

a0237937_10464597.jpg
大茶盛の図

近鉄の西大寺駅、南口に、午前10時集合である。
西大寺南口はとても狭く、集まり次第出発で、西大寺四王金堂前にて初めの解説である。
a0237937_10493286.jpg



西大寺は南都七大寺のひとつ。藤原仲麻呂(恵美押勝)の謀反に対して称徳天皇が四天王像を発願したことに始まった。

「発願した称徳天皇」、「それを勧めた道鏡(法王)」と、「乱を起こした藤原仲麻呂(恵美押勝)」の三名を軸に語らせていただいた。人を紹介しながら、解説することは日ごろ心がけるているところである。

さらに、中興の祖、叡尊上人を忘れてはいけない。上人が信仰したのは、ご本堂に安置されている文殊菩薩である。文殊菩薩は知恵の仏であるが、貧民救済の現実的な仏という点に叡尊は注目している。

a0237937_116911.jpg

西大寺の大茶盛式は叡尊が延応元年(1239年)正月、菩薩流(密教の秘儀)の修法を行って、国家安泰、万民の幸せを祈り、結願に八幡宮に献茶、その余服を衆生に振る舞われたのがはじめと言われる。

西大寺の境内で昼食を取った。
西大寺は境内で食事をすることができる。特別の許可はいらない。
ウォークのコースづくりは、「なに見るか」、「どこで食事するか」、「トイレは大丈夫か」である。最悪の天候も考えてここをきちんとしておかないと、みじめなことになる。さらに、「なに買うか」まで目当てがあれば最高であるが。
食事後、西大寺奥ノ院に向かう

a0237937_1051880.jpg

奥の院(体性院)は叡尊の荼毘所で石造五輪塔が現存している。
五輪塔は下から、地輪は方形(六面体)、水輪は球形、火輪は宝形(ほうぎょう)屋根型、風輪は半球形、空輪は宝殊型によって表され、塔の相輪の役割を果たしているという見解もある。
a0237937_10534449.jpg
ストゥーパ・相輪・五輪塔である


秋篠寺に向かい、まずは八所御霊神社である。
a0237937_10545096.jpg


秋篠寺を拝観する。天上界の歌を口ずさんでいるような口元の伎芸天像が特に有名である。

神功皇后陵(五社神古墳)、垂仁天皇の皇后である日葉酢媛命(狭木之寺間陵)を経て、
最後に孝謙(称徳)天皇陵を訪れる。
a0237937_10554666.jpg
孝謙天皇陵(高野陵)

このツアーは、大茶盛を楽しむツアーであるが、やはり孝謙(称徳)天皇がテーマである。
この陵(この場所は考古学・歴史学的にみて、陵として認められていない)を前にして、広大な陵墓が人々の記憶からすぐに失われていった歴史を振り返るツアーとして仕上げてみた。

近鉄西大寺駅、北口解散、午後4時である。

西大寺の大茶盛は、30名以上、お一人1000円(本堂拝観を含む)でお願いすることができる。ただし西大寺の日程が許す限りである。
by koza5555 | 2014-12-30 11:34 | 奈良 | Comments(0)

初瀬谷を考えてみた

「こもりくの初瀬」。
山に囲まれ奥まった土地、あるいは神がこもったり、そんな感じに受け止められているのだろう。

いつからこんな名ができたのだろうか。
初瀬は歴史的に見てどんな土地だったんだろうか。
「初瀬谷と長谷寺」、これを語るには避けては通れないテーマである。

a0237937_2283881.jpg
長谷寺。夕暮れの登り廊

大和王権は歴史(前史含む)は唐古・鍵に始まり纏向、初瀬、磐余に続いたと見たい。
外来のさまざまな権力、文化と入れ替わり、入り混じりながら、この地に続いたということ、これは遺跡から証明されつつある。

これをみれば、初瀬(昭和29年・31年の合併前の長谷村、朝倉村)には華々しい歴史がある。ところが、なぜか、これが「こもりく」である。

万葉集では柿本人麻呂が歌い、大友坂上郎女が歌っているのだから・・こんな一流に歌われては、どうしようもない。
でも、「こもりく」ではなかなか話が明るくならないわけで、今回の「初瀬谷と長谷寺」の講演では、ここに切り込みたいと思うのである。

a0237937_22113029.jpg
出雲からみた初瀬谷と奈良盆地

岸俊男先生は初瀬に宮を置いた雄略天皇が、特別の天皇だったことを論証されている。

藤原京、平城京の時代には雄略天皇が特別に意識されていたことを論証された。
万葉集は巻頭に雄略天皇の国ほめの歌を置き、日本霊異記も巻頭は山田道の先で雷を捕まえる話から始まり、、その雷を放すところがいまの雷丘という話が一番にあり、それが雄略天皇に関る説話である。

また、ワカタケル大王(雄略天皇)と刻まれた鉄剣が東の武蔵、西の肥後から発掘されるなど、雄略天皇は古代の人も現代の我々と同じスーパー天皇と見ていたと思えるのである。

そこまでは考えていたが、最近、面白い本を読むことができた。
「古事記と太安万侶」という新刊本(平成26年11月20日刊)である。和田萃先生の編集である。

この本の中で「古事記の編纂のあと、実は万葉集の巻1、2が引き継いでいる・・・推古の時代に都が飛鳥に移った。・・・それ以降、飛鳥に移ってからは、自分たちの時代になる。・・・それが二番歌で、しかもその万葉集の二番の歌が、舒明天皇が香具山に登って国の形を見るという、統治者としてそこにあらわれる。」(上野誠奈良大学教授)

そうか、だから初瀬(泊瀬朝倉宮 脇本遺跡)は、飛鳥の宮から見れば「脱してきた故地」なんだ・・・
なるほど、「こもりく」である。

初瀬谷は万葉歌で言われるほどには、山の奥でもなく、墓地・古墳だらけではないのである。
初瀬谷は政治と経済と文化の日本の中枢だった。

古代文明は交通路の果つるところに花開くと読んだことがある。近江俊秀さんである。
大陸からの巨大交通路であった瀬戸内海の先、難波津に経済と文化が集積したのと同じように、大和川を上り詰めた海石榴市、その後背の初瀬谷こそ、政治と経済と文化が花開いた時代があり、しかも、それはくり返しの大波のように押し寄せ、盛り上がった歴史なのである。

講演の筋書きとしては、えらい、簡単な話だったが、これはこれで僕としては無限に広がる話となった。
初瀬谷を語り、長谷寺をかたり、それをつなぐいくつかのエピソードもある。

初瀬谷、長谷寺は巨大な観光資源で、もっと大きな光が当たるように、そしてこの地でもっとたくさんの方の会えるように、それを願っての、「初瀬谷と長谷寺」の講演、話は出来上がりつつあるようにも思えるのだが。

a0237937_22262939.jpg
脇本遺跡上空から奈良盆地(橿考研、脇本遺跡発掘報告集から)

by koza5555 | 2014-12-26 22:33 | 桜井・初瀬 | Comments(0)

初瀬、柳原と下之森の献燈の習わし

桜井東ふれあいセンターの藤井さんから、先日、「地域史講座で話さないか」とお誘いをいただいた。
「桜井のお話を」ということであったが、「せっかく初瀬で話すなら初瀬のお話をしたい」と「初瀬谷と長谷寺」というテーマで話すこととなった。「初瀬で初瀬の話をする」のは、ちょっと無謀だが、ここは勉強である。

そんなことから、12月は、ツアーの合間を縫って、読書強化月間である。
「郷土」という本が印象に残った。
昭和36年、いまから50年も前の本であるが、厳樫俊夫さんが「初瀬」を書かれている。
さまざま勉強になったが、献燈の風習に心がざわめいた。
いままで、あまり取り上げらていないようで、さすがに「かぎろひの大和路」が紹介しているが、この紹介は柳原区だけだった。

「献燈の風習」。「(初瀬)上之森、下之森共区有の釣燈ろうを一日交替で回し、当番の家は自家の軒下に釣り下げ献燈する習わしが昔からある。上之森は白髭神社、下之森は愛宕権現に夕刻には釣燈ろうを入れる。」

「献燈」。「(初瀬)柳原区で掟書木札を順次回し、当番は夕刻手力雄神社ふしおがみの石燈ろうに火を献ずる習わしとなっている。発生の年代等は不明である」。
(郷土 初瀬 厳樫俊夫著 昭和36年)

50年前の行事である。たずねてみると

下之森の献燈は今も毎日行われていた。
厳樫さんが50年前に紹介していた通り、毎日釣燈籠が町内を回っている。

a0237937_2032271.jpg
 燈籠には「愛宕神社 町内安全 下ノ森区」と書かれていた。重さがあり、いまは玄関先に置くとのことである

上之森区の回り燈籠の風習は、何人かにお聞きしたが、「いまは聞かない」ということだった。

柳原区の献燈も今も行われている。当番は日没頃に献燈し、心をこめたお祈りをされる。
掟書木札というのがあり、「翌朝に隣家にお渡しします」とのことで、木札が回ってくると、その夕刻に「ふしおがみ」で献燈するのである。

a0237937_2036792.jpg
ふしおがみの献燈。初瀬山口神社に向かう


森(上・下)、柳原は川上と並んで、近世の初瀬門前町の中心の三町で、周辺の寺垣内、与喜浦、新町、馳向と合わせて初瀬村とされていた。門前町の中心で続いた献燈の習わしである。

社寺の境内などに立ち並ぶ燈籠、それに灯が入る、その美しさは例えようがないが、町中で当番のお家の門前に、あるいは毎日、当番が燈籠を灯をともしに参る、いまもこんな行事が初瀬に生きている。


さて、東ふれあいセンターの講演は1月29日(木)の午後7時~8時30分で、会場は近鉄長谷寺駅から100メートルである。
演題は「初瀬谷と長谷寺」、ふれあいセンターの講座で料金は無料で、連絡先は0744-47-7026である。
時間が許せば、お待ち申し上げています。

a0237937_2038921.jpg


明るい楽しい初瀬の歴史を語りたい・・・
by koza5555 | 2014-12-24 21:29 | 桜井・初瀬 | Comments(0)

穴師と巻野内のねんりき行事

山の辺の道を歩いてきた。
梅田カルチャーセンターの「大和路を行く」の12月の講座である。
12月20日(土)だったが、予報は朝から雨、である。幸いにして午前は晴れ、喜んだが、予報は正確で午後からは豪雨である。
濡れそぼって、コースも短縮したが、参加者には喜んでいただいた。

a0237937_10294721.jpg
穴師坐兵主神社鳥居下から、纒向遺跡方面をみて

珠城山古墳が最後の見学地だった。雨も降り、寒くて、触れられなかったお話もあった。
それは「穴師・巻野内ねんりき行事」のことである。

なにせ120年も前に中絶した行事で、これは皆さん、ご存じないだろう。

穴師と巻野内の両大字が半夏生十日目に、壮大な「石合戦をした」という行事である。
それは子どもらから始まり、やがて村全体の戦いとなり、最後は近隣の車谷、太田、大豆越(まめごし)まで巻き込んでの大合戦で、「不思議とこれがために死んだ者は一名もないといふ」、が「明治30年頃に双方に大けが人が出たために中絶」したとある。

a0237937_10315755.jpg
これがねんりき行事の合戦図

なんでこんな行事ができたのだろうか。時期が半夏生十日目というのも気になっていた。

穴師の一番の上(車谷に上って)に、巻向川(穴師川)の三分の一分水堰というのがある。
a0237937_1032311.jpg
三分の一の分水堰

ここらあたりの扇状地は古今、稲作の水利の苦労が絶えなかった。水源は三輪山、巻向山の間を流れてくる巻向川である。
この水利権は、三輪山に入会権のある箸中が三分一、巻向山に入会権のある六か郷(穴師、巻野内)が三分二と、上流の山の面積に応じて水利権が分けられている。

これに至るまでの争いは絶えなかったという。
興福寺大乗院の記録文書によると、越智氏の調停により、現在の「三分一の分水」が決められ、堰を作ってその争いにピリオドが打たれたという。

箸中はそれ以降、ため池(井寺池のことか)を掘り、自領の雨を巻向川に流れぬような仕掛けを作り、稲作の維持をおこなったというエピソードもある。

この時の三分の一の分水堰が今も残されている(補修されたかは不明)。

穴師、巻野内にとって箸中とは三分の一の分水堰で決めつけられたが、内部的には幾多の争いが続いたと見える。

ねんりき行事、半夏生十日目である。上流・下流の関係もあり、日ごろの水争いの恨みを石合戦で果たし、気持ちを切り替える行事と見るのは僕のかって読みか。
ねんりき石合戦では、常に上流側の穴師に負傷者が多かったというのも、下流側の怒りの強さも感じられるところである。
水を巡っての悲喜こもごも、命をかけた争いは奈良盆地(いや、日本中?)の歴史に渦巻いている。


行事は120年前に中絶、穴師坐兵主神社、珠城山古墳あたりに行かれた時は、古戦場を楽しんでください。


ねんりき行事は「和州祭礼記」(昭和19年辻本好孝著)参照
by koza5555 | 2014-12-21 11:15 | 桜井・山の辺 | Comments(0)

海石榴市は金屋か戒重か

a0237937_2128396.jpg
桜井市戒重付近の寺川と横大路。小西橋から西を見た。ここらあたりに裴世清(はいせいせい)が上陸した海石榴市?の論も

現在の金屋、大和川北岸が古代の海石榴市とされている。
万葉集の「紫は灰さすものぞ 海石榴市(つばいち)の 八十の衢(ちまた)に逢へる子や誰」(巻12- 3101)の歌碑も、何の異論もなく金屋の村に立てられている。

海石榴市は仏教公伝の地とされる。
欽明天皇13年(552年)に百済の聖明王から金銅仏、幡蓋(はたきぬがさ)、経論千巻を伝えられた(日本書紀)とされる。
公伝が538年説というものもの(「上宮聖徳法王帝説」や「元興寺伽藍縁起并流記資財帳」による)もあるが、欽明天皇の時代であることは間違いないとされる。

a0237937_21285212.jpg
仏教伝来地の碑。ニッコリ笑う友達のOさん

欽明天皇の宮は磯城島金刺宮(しきしまのかなさしのみや)とされることから、最寄りの海石榴市が、その窓口だったという論と思われる。

海石榴市は推古天皇16年(608年)に脚光を浴びている。
この年の10月に小野妹子が裴世清(はいせいせい)とともに帰国した。
「秋8月3日、唐の客は都に入った。この日飾馬75匹を遣わして、海石榴市の路上に迎えた。額田部連比羅夫が挨拶の言葉を述べた」(宇治谷孟訳)と記されている。
裴世清は小墾田宮で帝に接見し、親書を届けたとされているのである。

「裴世清が上陸した海石榴市って、ほんとにそこ?」と、実は思ってきたのである。

都は飛鳥地域の小墾田である。山田道の先の先。金屋に上陸して、「飾馬75匹」の歓迎を受けた・・その後大和川を渡って小墾田に向かう・・ということだろうか。
初瀬川の扇状地であるから古代の大和川の流路は不明だが、いかにも不自然である。

「飛鳥藤原京への道」という本があった。平成25年の奈文研の飛鳥資料館の特別展の展示資料である。
こちらの地図を見ると、「海石榴市は金屋か?仁王堂(横大路に面した)か?」とある。

a0237937_21291523.jpg
奈良文化財研究所。「飛鳥藤原京への道」

 「海石榴市は飛鳥の外港であったが、小墾田に向かう裴世清一行が北岸に上陸するとは考えにくく(飛鳥京への難波からの船便はすべて同じことであるが)、海石榴市を川の左岸に推定する説は地の利に適っています(和田1983)検証の余地は残るものの、大和川から寺川をさかのぼり、後の上ツ道と横大路の交差点(桜井市戒重)で川の南側に上陸したとする理解も、一考の価値があるように思います」 (19ページ)


平安時代、延長4年(926年)に豪雨、洪水で長谷寺の山が崩れ、被害が椿市に及び、人が悉く流れたという記述があり、初瀬谷の土石流が戒重に及ぶということも、これも考えられず、流路が変わっているとか、海石榴市は実は何カ所もあったかとか、そんなふうに考えると、ここらあたりも果てしがないのである。
by koza5555 | 2014-12-06 22:10 | 桜井・山の辺 | Comments(0)

大和長谷寺 十一面観世音菩薩像の再建の歴史

a0237937_22403697.jpg
長谷寺、十一面観世音菩薩の屹立する大悲閣

長谷寺、十一面観世音菩薩は729年、沙弥徳道の指揮のもと稽文会(けいもんえ)と稽主勲(けいしゅくん)
によって造仏されたとされている。
この十一面観世音菩薩が、よく焼けているのである。

創建された後の罹災(火事)状況は、豊山前史(永島福太郎著、昭和37年)によれば、以下の通りである。

①天慶7年(944年)正月で、再建は東大寺僧 貞救である。
②正歴2年(991年)2月で、本尊は被害なしとされる。
③万寿2年(1024年)正月は、本尊は被害なし。この再建の際、中臣信清の登廊寄進された。興福寺大乗院が再建を管理した(東大寺から興福寺への支配の移行は990年)。
④永承7年(1052年)8月。   
⑤嘉保元年(1094年)11月。
⑥健保7年(1219年)閏2月。新像は5月30日に成就。安阿弥、快慶の手に寄る。
二丈六尺の立像、天冠から御頂仏まで6尺3寸、三丈二尺三寸、12メートル13センチの現在の姿は、この時以来である。三輪杉が使われた。
⑦弘安2年(1280年)3月に焼失。11月に開眼供養したが、堂は80年間作れず、その間、仮堂に置かれた。御面は吉野川上のヒノキ、御頂仏は石清水八幡宮のクスノキの霹靂木(へきろくぼく・かみなりに打たれた木)、御身用は式上、宇陀両郡の杉・檜が使われた。
雷に打たれた霊木で作られたことに注目したい。本尊は33観音にちなみ、33日で彫刻する。
⑧明応4年(1495年)11月 堺商人の大きな喜捨があり復興成就された。快慶の指図が使われている。
⑨天文5年(1536年)6月。現在の観世音である。快慶の指図とされる。


長谷寺の罹災は幾度にも及んだが、そのつど、いくばくもなく復興している。ひとえに長谷信仰の旺盛さによるもので、しかも公卿武家の援助もさほどのものではなく、また官営工事は皆無だったことが注目される。
罹災の復興のための勧進がなされたが、罹災の多さから、勧進所は常置のものになっていった。

a0237937_22421445.jpg

秋の特別公開は12月7日まで。拝観チラシから

整理してみて、驚いたことが二点。
一つは健保7年(1219年)の造仏は快慶の手によるもので、その後の再建は、この時の快慶の指図が使われたということである。現在の十一面観世音菩薩の設計図は快慶によるものだった。

いま、一つは弘安2年(1280年)の造仏のおり、御頂仏は霹靂木(へきろくぼく・雷にに打たれた木)で作られたということである。
興福寺の支配ののちは、菅原道真公を祭る興喜天満宮は長谷寺と一体である。
菅原道真は死して天神(雷の神)になったと伝えられる。天神は民間伝承では、「雷さま」と呼ばれることもあるそうである。

延長8年(930年)に、内裏の清涼殿に落雷した事件は菅原道真公の怒り、たたりとされており、観音造仏に当たっては、落雷木(霹靂木・へきろくぼく  という)が意識的に使われたとのことである。


長谷寺十一面観世音菩薩の縁起と再建の歴史、不死鳥の長谷寺の歴史を見る思いである。
この勉強で、長谷寺、そして、十一面観世音菩薩、もう一つ深く好きになれた。
本当に好きになれないものは・・・ガイドはできない。
by koza5555 | 2014-12-05 06:19 | 桜井・初瀬 | Comments(0)

大和長谷寺 十一面観世音菩薩像のこと

「大いなる木は高島郡(滋賀県)みをが崎を流れ出て、流れ流れて葛城当麻の里に至った。たたりをおこして長谷河に捨てられたが、沙弥徳道がこの霊木で十一面観音をつくる」とされており、これが大和長谷寺の十一面観世音菩薩の始まりとされる(三宝絵詞、長谷菩薩戒)。

長谷寺を理解し、ガイドをおこなおうととすると、この縁起譚がなかなかの難物だった。
この話に、僕は確信が持てずに長い間、乗れてこなかった(話さなかった)が、あれこれ整理して、12月2日のN市の高年大学、重要文化財研究クラブのツアー(研修旅行?)で、初めて本格的なお話をさせていただいた。

春に長谷寺の喜多昭賢師のお話を聞く機会があった。
「ご本尊さまの縁起は、うちの寺(法起院)の前の白髭神社がカギ。近江の高島の白髭神社から勧請された猿田毘古を祭っている。霊木が来たということになっているが、若狭や北近江にいた新羅系の仏師・工人が来たと考えると自然で、神社も共に連れてきた」と言われた。
目からうろこである。

そんな風に考えると、琵琶湖から大和への道、これは古代の水陸の交通路に一致しているのである。
729年、長谷寺、十一面観世音菩薩を初めて造像したとされるのは、稽文会(けいえんも)と稽主勲(けいしゅくん)と言われている。中国の人とも言われるが、若狭、北陸の人とみて、両名は新羅の人と考えたい。

白髭神社。本社は近江国高島である。白髭神社を崇敬する人々が近江から初瀬に移り済んだという見方である。
白髭神社を三尾神とみて、近江国高島郡三尾崎のから流れ出た、霊木を長谷の地で祀った神社とも言われているのである。

a0237937_13194022.jpg
長谷の白髭神社。猿田毘古命(さるたひこのみこと)と天宇豆賣命(あめのうずめのみこと)を祭るとあり、「この神様は寺垣内、上之森、下之森、与喜浦の四区域の氏神様であり・・・」と掲示されている

ちなみに高島市を調べてみると、三尾崎(みおさき)、三尾神を祭る水尾(みお)神社、白髭神社は半径一キロくらいの円の中に納まるのである。

長谷には観音様の霊木で三尾崎とつながり、白髭神社と水尾神社をつなぐ白髭神社が現住する。
さらに、初瀬谷を考えると、読み方がよく似たで、「しらが(白河)」の問題もある。この地は大工が住まいしたともいう。
長谷の観音さま、観音堂の造営に奉仕した「しらが(白河)のばばあの説話」、これも実はここらあたりの霊験談につながったお話と言えよう。
「しらがのばばあ、大工の守り神」と聞いたが、実はその由縁もそんなところからかもしれない。

徳道上人が播磨の人とのことで、「稽文会(けいえんも)と稽主勲(けいしゅくん)も播磨から」という論は僕の論である。
「初瀬・長谷寺」、この講演は1月29日である。いましばらく勉強を重ねていきたい。

a0237937_13224251.jpg
白髭神社ご本殿は長谷寺参道から143段の階段を登る。境内からは長谷寺の門前町は眼下である

by koza5555 | 2014-12-04 13:40 | 桜井・初瀬 | Comments(0)