ブログトップ

奈良・桜井の歴史と社会

koza5555.exblog.jp

<   2015年 01月 ( 7 )   > この月の画像一覧

古代道路の謎

「古代道路の謎」(祥伝社)、「日本の古代道路」(角川書店)を読み直した。

a0237937_11184052.jpg
 「古代道路の謎」。奈良時代の巨大プロジェクトとあり、祥伝社である

「日本霊異記 下16」に古代の道路が描かれている。
「大和国斑鳩の聖徳王の宮の前の路より、東を指して行く。其の路鏡の如くにして、広さ一町ばかりなり。直(なお)きこと墨縄の如し。辺(ほとり)に木草たてり」とある。

 
こんな道、見てみたいなあ。
誰が作ったか、何のために、誰が通ったか、どうなってしまったか・・・である。


駅路が造られたころの日本は、国府、郡(大宝律令以前は評・こおり)がおかれ、郡衙、評衙(ひょうが)という役所が存在した。
①支配のための伝路(でんろ)で、都に向かっていた。

②道路の幅を視覚的にとらえるために側溝が作られた(中断したりしており、流された形跡がない)。

③土木工法を駆使して、維持管理もされていた。

④駅路は条里施工の基準線にもなっている。少なくとも地方では(駿河など)とあった。
 
古代道路のポイントが簡単にまとめられていて、こういう知識はいつまでも役に立つ。

駅路・駅制、「欽明天皇崩御、皇太子・敏達を呼び寄せるために駅馬を利用」(571年)したことが、記録の始めとのこと。

駅制の詳細は「大宝律令」(701年)に示され、
類聚三代格(るいじゅうさんだいきゃく)には、「天平宝字3年(770年)、東大寺の普照により、道路の両側に果樹を植えることの提言があり」、
同書には、弘仁12年(821年)に「街路樹の伐採を禁ずる」(薪にしてしまったんだろうか)とも記されており、古代の暮らしを身近にみることができる。


 群馬県太田市の東山道の発掘で、馬の埴輪がばらばらの状態で発掘されたことが紹介されている。
馬の埴輪は6世紀、道路は7世紀後半で100年以上の差がある。これは都や国府などの交差点で、道饗(みちあえ)祭が行われたと証拠という。

人と同じように神も道を経てやってくる。それを饗応する祭りだが、牛馬の供え物もある。その供えは毎年は無理で、代替として皮革で、さらには馬の埴輪で、ということだったんだろうかと解明があった。

人が通る道は、神も通る道だったという、こんな指摘がおもしろかった。
道祖神とか、村はずれの祠とかお地蔵さん、人を迎える、神も迎え送りだす、そんな意味も考えさせられた。

a0237937_1116382.jpg
横大路、起点ともいわれる小西橋。橋の東詰、西詰に愛宕さんやお地蔵さん

その後、古代の道路は衰退した。
墾田永年私財法(743年)に始まり、国家の財政基盤の悪化、国司らの富裕化、自立化はすすんだ。
延暦24年(805年)には、参議の藤原緒継の建言で、蝦夷討伐の中止、平安京の造営も停止。天武以来の国家による大掛かりな土木工事は終えんを迎えた。

古代の道路、駅路は8世紀後半に規模が縮小し、幅9メートルあったものが5メートルに。11世紀には1メートルくらいとなり、さらに都の向かう直線道路は自然に反するものも多く、維持が困難となり、廃絶されていったのである。

横大路は、現在も道路として使われる古代道路で、まずは場所が良いということだろうか。
by koza5555 | 2015-01-29 11:42 | 読書 | Comments(4)

「マッサン」から唐古・鍵まで・・・田原本町

6月のツアーの下見で田原本町に行ってきた。
唐古・鍵遺跡とか、最近、話題の田原本の近代化遺産をたどるツアーである。

まずは、NHKの連続テレビ小説、「マッサン」のロケが行われた田原本聖教主教会である。

a0237937_2051524.jpg
教会を正面から見て

a0237937_20524560.jpg

教会は1933年(昭和8年)に建てられたという。祭壇・ベンチ・窓いずれも古い形で残されており、マッサン」の時代に対応した建物だった。

この教会の大岡司祭はとても忙しい方で、やっと今日お会いできた。
6月のツアー、開けていただけるかはどうかは日程の都合でまだ未確定である。

ツアーは6月12日(金)が大人の学校、6月20日(土)がNHKカルチャーの「大和路を行く」である。


少し、寄り道して田原本町薬王寺、八幡神社のクスノキを拝見してきた。

a0237937_21132659.jpg

こんな巨樹である

境内の掲示である。

天然記念物 楠の巨樹(昭和33年3月20日指定)
楠は、暖地に自生するクスノキ科の常緑高木で、葉が互生し、卵形で先端は細長くとがり、五月頃黄白色の小さい花を開く。木全体がよい香を放ち、樟脳を採り薬用とされる。
この樹は目通り周り6、18メートル、樹高約30メートルで、樹齢約500年余の古木である。樹枝は四方に拡がり、約400平方メートルの境内を覆い、あたかも一本の木で森を形成しているようにみえ、樹勢はなお盛なものである。
このような楠の巨樹は非常に珍しく貴重なものである。
   平成4年12月 奈良県教育委員会



a0237937_2164453.jpg

力をいただいた。
by koza5555 | 2015-01-25 21:49 | 奈良 | Comments(0)

「初瀬谷と長谷寺」。桜井東ふれあいセンターで

1月29日(金)午後7時から初瀬で、お話をさせていただく。
会場は近鉄の長谷寺駅から100メートルの桜井東ふれあいセンターである。

演題は「初瀬谷と長谷寺」で、初瀬で初瀬と長谷寺のお話をするのである。
a0237937_2194573.png

図々しいような、そして僭越ではあるがこういう行きがかりになってしまった。

話しは11月にさかのぼる。
桜井の本町通りで講演を終えたときに、東ふれあいセンターの藤井さんに声をかけられた。「初瀬の地域史講座で話さないか」、「桜井のお話でいいから」ということであった。
話し終わったばかりで、この時は僕も気持ちが高ぶっていたから、「初瀬で話すなら、せっかくですから初瀬のお話をしたい」と、その場で決断をしてしまったのである。

そのうえ、「人を語ることをモットーとして取り組まれている」とか、「『見る』『食べる』『買う』という考えで、観光の振興を提言されている」と、なかなか僕には過重な紹介まで、されてしまったのである。

それ以降、ツアーの合間に、お正月の行事の間に、ギリシャへの観光旅行の時も、それなりに「呻吟いたしまして」、パワポの形が、やっと、まとまってきたようなところである。

ブログにもたびたび書いたが、長谷寺のことはしっかりと勉強し直した。
a0237937_2112439.jpg
今日の長谷寺

泊瀬・初瀬のことも考えた。国の都、経済と文化の集約地だったハツセ・ハセが、なんとなく暗い感じの「こもりく」と呼ばれるようになった動機と歴史は「なんだったのだろうか」も探りたかった。

今回は歴史、観光案内だけではなく、町の活性もテーマに考えた。
興喜天満宮の秋祭の太鼓台、柳原や下の森の献灯のことなどを糸口に、素人の考えだが、僕なりの思いも語れるかな、そんなこともよく考えることができた。

a0237937_21132381.jpg
献灯・但しギリシャの

1月29日までわずか、2月からのツアーや町内会の仕事も錯綜しているが、いま少し練習したり、見直し・補強したりして、みなさんに思い切り、楽しんでいただこうと考えている。

また、3月25日(水)の午後2時から東京の奈良まほろば館で講演を行うが、このパワポ、初瀬をテーマに行いたいと思っているのである。
a0237937_2115336.jpg
これは、昨年5月の東京の講演の画 

「地域史講座」の入場は無料、問い合わせは0744-47-7026である。
a0237937_21165292.jpg

by koza5555 | 2015-01-21 21:57 | 桜井・初瀬 | Comments(0)

デルフィ、アテネ、そしてミケーネ

日程の合間を縫ってギリシャに行ってまいりました。

毎月の「大和路を行く」は一月がお休み、JTBの「美仏ツアー」もなく、大人の学校の「歴史ウォーク」もお休みにしていただきました。

ギリシャは「神話の国、8日間」というツアーである。
僕の日程、孫の日程、ギリシャだけ、お値打ち感など・・・での選択だった。

a0237937_10592596.jpg

実質6日間、ギリシャ堪能してきた。

a0237937_1105947.jpg
空港を出るとマラトン古戦場。まあ、マラソンのこととか、ブロンズも現代のもので・・


a0237937_1121486.jpg

翌日はメテオラ。メガロメテオロン修道院に入れた。世界遺産だが、14世紀のものである。

デルフィの遺跡。戦争や同盟、婚姻にあたり各地の王はデルフィのアポロン教会で神託を受けた。巫女から神託が伝えられた。「この地にはガス(火山性)がかんけつ噴出しており、巫女はたやすくトランス状態に入った」と解説された。
a0237937_11141344.jpg


アテネに戻り、エーゲ海一日クルーズがあり、日が変わりアクロポリスの丘、パルテノン神殿である。
a0237937_1116436.jpg


国立考古学博物館や新アクロポリス博物館を回るオプションツアーを選び、見学。
スピロスさんという素晴らしいガイドで、エジプト文明からのギリシャ文明の自立など、ギリシャ文明の世界史的な位置を展示物を示しながら解明してくれた。
スピロスさんは、いくつかの展示レプリカを示しながら、「本物はロンドン」と何度も何度も悔しそうに説明していた。


最後はミケーネ遺跡。紀元前1250年というミケーネ文明である。シュリーマンは、まず、ここで成功したとのことである。

14基ほどの横穴古墳がミケーネで発見されたとのことであるが、こちらは石組みが完璧に残っている。
副室もあった。
a0237937_11165236.jpg


a0237937_1117630.jpg


ギリシャは素晴らしかった。
遺跡の歴史は古いが、現代との断絶はある。飛鳥の石造物や古墳を見ているような感じである。ローマやトルコの支配を長く受けた影響も大きい。
歴史がそのまま続いている、そしていまも生きている法隆寺とか春日大社、室生寺・長谷寺などとはそこが大きく違うわけで、飛鳥も良いけど奈良の良さはあらためてそこかなと感じる旅行だった。

a0237937_112093.jpg

a0237937_11205287.jpg

by koza5555 | 2015-01-17 11:53 | 旅行 | Comments(0)

何度訪れても、楽しい長谷寺

長谷寺はおもしろい。昨年、僕はここを30回も訪れた。
案内した団体名の紹介はできないが、下見を含めるとこんな回数、仁王門をくぐったのである。

a0237937_1719210.jpg
門前での解説は一度もしなかった。事前の車中で解説を済ませ、登廊の途中などでお話しするのである。

始めの話は登廊、手水舎あたりである。登廊の成り立ちとか、天狗杉、牛の目などのお話をする。399段の登廊である。ここらあたりでいったん立ち止まるのが、息切れ防止でもベストである。

ところで、立ち停まっての解説は一カ所につき5分以内、話は三個までと僕は決めている。相手の顔を見ること名もなく、知っていることを延々と話すのは・・・これはご法度だ。


さて、登廊を登りきる。
まずは本堂。東大寺の大仏殿に迫る大きさで、国宝指定である。三代将軍、徳川家光の寄進(1650年)で作られた。
大磐石の上に立つ十二面観世音菩薩は、右手に錫杖、左手に水瓶を持ち、長谷寺式と呼ばれている。

a0237937_1721288.jpg
舞台から五重塔を遠望。お正月の準備で座布団を干していた


長谷寺に名を残した三名の高僧を紹介して、長谷寺の歴史と境内を紹介する。その一人目は、長谷寺を創建したという僧、道明。法華説相図に記されている。
二人目は、東の丘に十一面観世音菩薩を祀った徳道上人。
三人目は、今の長谷寺の形を作り上げた専誉僧正。

この三名の足跡を示すように長谷寺の境内は整備されており、これで歴史も語れるのである。

ご本堂は徳道上人。木造十一面観世音菩薩音像(本堂安置)は、像高が10メートル余。徳道上人が造像して以来、度重なる火災にあったが、強い信心で再建を繰り返した。室町時代の天文7年(1538)に造像されたのが、現在の菩薩像である。

奥の院は中興の祖、専誉(せんにょ)僧正。
こちらには豊臣秀長の五輪塔が祀られている。秀長が高野山(根来寺)から専誉僧正を招いて豊山派が始まった。
a0237937_17301659.jpg
大納言 豊臣秀長公、五輪塔

本長谷寺では僧・道明と銅版法華説相(ほっけせっそう)図である。
a0237937_17263656.jpg

 
本居宣長が明和九年(1773年)、吉野水分(みくまり)神社に参拝、道中記として「菅笠日記」を記したが、長谷寺にも参拝しているのである。
むかし清少納言がまうでし時も。俄にこの貝を吹いでつるに。おどろきたるよし。かきおきける。

名も高くはつせの寺のかねてより きゝこしおとを今ぞ聞ける

a0237937_17313838.jpg

お昼前後に境内にとどまるツアーは、この時間に本堂・舞台で見学できるように到着時間を調整した。

昼食は 初瀬長者亭 を利用し、たびたび やまとびとのこころ店 の女夫饅頭も味わった。
江戸時代から明治にかけて黒崎の女夫饅頭は人気ものだったが、鉄道の開通で消滅、これをやまとびとのこころ店が初瀬門前町で復活させた。


長谷寺の境内では、五重塔の下、休憩所の広場で持参の弁当を食べることができる。屋根があり、トイレも近く、30名ほどでも対応できる広さである。許可を取る必要はなく、入山者はだれでも利用できる。
by koza5555 | 2015-01-06 17:58 | 桜井・初瀬 | Comments(0)

山の辺の道、大和のはじまり

なららの新年号、「かよちゃん・・・ウォーキング」は巻向、山の辺の道だった。JRまほろば線を巻向から栁本に歩く道である。

「寒い日によく歩きましたね」ということだが、実は僕も12月20日(土)、かよちゃんと逆行で、柳本から巻向へのウォークを案内したのである。

「冬の山の辺の道を歩いてみよう」がテーマだった。 
崇神天皇陵やヒモロギ、相撲神社を訪ねて、初期ヤマト政権の故郷を訪ねてみる。
額田王が歌った三輪山を終日見て歩く、「山の辺の道、いいとこどり」のウォーキングである。

三輪山をしかも隠すか 雲だにも 心あらなも隠さふべしや
           (万葉集 巻1-18 額田王)

a0237937_22104235.jpg
山の辺の道、ここが一番のビューポイントである。

歩き始めは黒塚古墳である。
竪穴式の石室内部が展示されている。石室のなかには木棺が安置され、その周りに33面の三角縁神獣鏡と北側に1面の画文帯神獣鏡が置かれていた。
鏡をみんなで、丹念に観察する、1500年前の大和がみえてくるという趣向である。

崇神天皇陵とされる行燈山古墳に向かう。
典型的で姿の前方後円墳である。上空から見ても、正面から見ても美しい姿を示している。この地には前期の大型古墳があり、ヤマト政権の始まりの場である。
古墳は造られた後も、さまざまに形が変えられて、地域や人々とともに、溶け合って生きてきた歴史があり、それを解説した。
a0237937_22125134.jpg

天理市のパンフレットから、航空写真、お借りした。

長岳寺を拝観する。ご本尊の阿弥陀如来は左に観世音菩薩、右に勢至菩薩を従え(阿弥陀三尊)、極楽ゆきを約束する如来である。玉眼を使用した仏像としては最古のもので、重要文化財に指定されている。
大御輪寺から移された多聞天・増長天立像は脇侍のように置かれており、これは天平の時代のものである。

a0237937_22142287.jpg

楼門が大切で、これが重要文化財。かつては上層が鐘楼(しょうろう)となっていたために鐘楼門と呼ばれる。下層は室町時代だが上層は平安時代で、これも日本最古の楼鐘門とされる。

今回は「ヒモロギ」をポイントにした。
崇神天皇の6年に、大和の笠縫邑に天照大神を祀ったが、そのとき「ヒモロギ(神籬)」をたてた(日本書紀)と記されている。
笠縫邑とされる檜原神社には拝殿も本殿もなく、三ツ鳥居だけで三輪山がご神体となっている。古代に於いては、その鳥居さえなく、神が降臨する場所を常緑樹で囲うだけで、それを神祭の場とされており、それをヒモロギといった。

このヒモロギつながりで、昨年に長岳寺で、こんな御仮屋を拝見した。
調べてみると、これは神仏混淆の「御仮屋」(ヒモロギ)で、もともとは上長岡のうち長岳寺領に属した字人(あざひと)によって行われた祭という。一月十日に立てられ、二月二十一日のお太師の日に燃やされるという。
a0237937_22155524.jpg
古代のヒモロギとはこんな御仮屋を指すこともあったのか。


穴師の相撲神社、穴師兵主神社を経て珠城山古墳である。この日は、このころ、豪雨となり古墳丘にも登れなかったが。
古墳時代後期(6世紀頃)の前方後円墳が丘陵上に連続して3基、築造されている。1号墳には横穴石室が残されている。3号墳からは、入れ墨入りの盾持ち人物埴輪の破片が発掘されている。

a0237937_22195797.jpg
刺青入りの盾持ち人物埴輪。パネルを作っておいて解説した

by koza5555 | 2015-01-04 23:08 | 桜井・山の辺 | Comments(0)

マッサンから卑弥呼まで

あけましておめでとうございます。
さて、早速ですが、「卑弥呼からマッサン」までというツアーを計画している。

僕は何でもオープンに書いているけど、気合を入れたツアーの準備は…やはり…寡黙である。

今日は新年のあいさつを兼ねて、春先のツアーの計画の特別公開である。
下見ができていない、予約もできていないという、すまん、実現は五分五分の無責任計画ではあるが。

「卑弥呼からマッサンまで」という春のウォークツアーである。
卑弥呼からマッサン・・うん?ということだろうが、田原本を歩くということである。

a0237937_23102659.jpg
田原本なら、まずは津島神社

近鉄橿原線笠縫駅前、集合である。
まずは秦楽寺。聖徳太子に従った秦河勝の創建という。唐から帰朝した空海が命名したという阿字池が今に残されている。

日本聖救主教会を訪れてみたい。
田原本町のHPで、日本聖公会の田原本教会の昭和8年に造られた会堂が紹介されている。
木造平屋、鬼瓦の紋には十字架がついており、その室内が昭和初期の姿を残しているということから、NHK連続テレビ小説、「マッサン」のロケ地として使用された。

a0237937_23105682.gif
田原本町、HPより。こちらを見学したい

津島神社には必ず訪ねる。田原本藩、平野家の本貫地、尾張の津島神社と同じ牛頭天王を祭ることから津島神社の名がつけられたいう。僕の名古屋時代の最後の居住地が尾張(愛知県)の津島市だったこともあり、この神社は特別の思い入れもあり、足繁く通ったこともあるのである。

近代化遺産では旧吉野銀行田原本支店・・・ここにも寄ることにする


唐古・鍵遺跡、唐古池を遠望して、唐古・鍵考古学ミュージアムを見学する。
a0237937_23132562.jpg



昨年の11月に和田萃先生の編で「古事記と太安万侶」という本が出ている。吉川弘文館である。
a0237937_23145138.jpg
こんな本である

この本が紹介している、和田先生や辰巳和弘先生参加のシンポジウムで
「魏志倭人伝で卑弥呼の登場を『共立』という言葉で記録していることが重要」で、「談合政権ができ、その都を邪馬台国においた」と辰巳先生が語られた。

さらに、(卑弥呼に)に目をつけた諸王は、新たな政権(ヤマト王権)をつくるにあたり、探した・・・大和の唐古・鍵に神仙思想に精通する・・若き卑弥呼ををみつけ・・・誰も住んでいなかった三輪山の麓に巨大な神殿を造り、『談合政権』を誕生させた」と、されているのである。

和田萃先生は、大和川の大水害を避けて唐古・鍵の地を捨てて、耕地の纒向に移動したのでは・・という論も展開されている。

唐古・鍵遺跡は卑弥呼の故郷?である。

マッサンから卑弥呼まで・・・おもしろいツアーができそうであるけど。
また、正式に決まりましたら、アップいたします。
予定は6月12日(金)、一般の参加も可能なツアーになります。予定できる方はぜひ、どうぞ、お願いします。

では、もろもろ、今年もよろしくお願いします。
初詣に出かけた、1月2日、大神神社からの奈良盆地南部です
a0237937_23262474.jpg

by koza5555 | 2015-01-02 23:44 | 奈良 | Comments(0)