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奈良・桜井の歴史と社会

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おもしろ歴史講座

4月から「まほろばセンター文化クラブ」(桜井駅前のエルト2階)で「(桜井)おもしろ歴史講座」という講座を持つことになった。

4月1日号の桜井市の広報誌、稚櫻(わかざくら)に紹介されている。
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奇数月の第二金曜日、午後7時から8時半に開催する。
1番目は5月8日(第二火曜日)で、年内はずっと第二火曜日に開催する。

講座はパワーポイントで行い、
講座の案内文は「国のはじまりは大和。その始まりの場所が桜井にあり、それに関わるエピソードが桜井に残されている。記されたこの歴史を縦糸にして、いまの生活と風景を横糸にして、縦横を編み合わせて考えてみよう」である。

申し込受け付けは、4月6日(月)から4月30日(木)で、①講座名、②郵便番号・住所、③氏名、④年齢、⑤電話番号を記入して、文化クラブ会費(1000円)を沿えて申し込むことができます。

ちょっと講座、ツアー持ちすぎではあるが、病気療養されている前任の室原さんからも、「この講座、引継ぎしてくれないか」と頼まれていた経過もあった。

講師の僕が言うのもおこがましいが、楽しんでいただけること確実である。
安いし、楽しいし、交通至便の会場のお値打ち講座である。ぜひともお誘いしたい。
by koza5555 | 2015-03-27 22:09 | 桜井市と安倍 | Comments(0)

椿山 山の辺 海石榴市

「3月の花なら椿だろう」と思うのである。そこで、桜井市慈恩寺の「椿山 山の辺」を訪れてきた。

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こんな椿がちらほら
この椿山を守りされている上田さんにお話を聞くことができた。
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「親父が植えて育てた。それを引き継いだ。現在は1000種類1万本の椿がある。接ぎ木で増やすが、種を集めて実生でも増やす」とのことである。

「300年~500年くらい生き残るような、そんな椿が100本も選び出せたらいいなあ」と上田さんは力を込められる。実生で思わぬ変異が生まれた喜びを語られたりで、父親に伍して劣らぬ椿への愛情を持たれていた。
「椿の手入れで、仕事にも影響がでてしまい」と言われるので、「お仕事は」と聞いてしまうと
「仕立て屋、テーラーです」とのことで、「桜井市にはテーラーが17軒もあった。今では時勢に流されて仕事にならなくなった。僕も椿ばかりに力を入れて、これではと思っていた。しかし、今では椿の手入れで覚えた植木の技術で、選定の仕事などもしています」とのことである。

すばらしい椿山であるが、ただし、今年の花は全くダメで、「どうぞ見ていって」とのことで、山を巡ってきたが、花は一輪・時々一輪・・という具合である。
こんな花の乏しい椿山は、上田さんも見たことないとのことである。
プロでもそうなんだもの、ツアーも花に合わせるのは大変です。

椿山、来年に期待したい。3月の花の具合はつぼみの付き具合で、前年の6月くらいまでにはわかるそうである。

さて、大神神社摂社 玉椿明神  玉列(たまつら)神社からハガキを頂いた。
 当 玉列(たまつら)神社は三輪山の南麓に鎮座する古社で「玉椿明神」とも親しまれており、境内には数多くの椿が植栽されています。
 今春も花の見ごろとなるこの季節、地元自治会 並 椿まつり実行委員会のご協力を得て「椿まつり」を先の通り斎行いたします。
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日時は3月29日(日曜日)午前11時 祭典斎行とされ、椿苗・椿饅頭、善哉の即売や椿にゅうめんの接待(午前10時~午後3時まで)が用意されています。

来年か再来年、3月のウォーク、忍阪とか慈恩寺あたりを歩く計画である。
午前は忍阪、どこかで食事をして・・・午後は玉列神社とか、椿山 山の辺でどうだろうか。

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慈恩寺、旧家の庭先のモクレン、これは満開だった
by koza5555 | 2015-03-22 21:00 | 桜井・山の辺 | Comments(0)

吉野山と西行庵 白山桜 

吉野山の花は白山桜である。

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「花の風景」。千田稔さんである。
上田正昭先生の編著の「吉野―悠久の風景」に、千田稔の「花の風景」が入っている。

「西行にとって吉野の桜とは」、これが解説されている。

まず、「古来、桜の木は聖なる木としてあがめられた」として、
「蔵王権現は桜の木で彫られたという伝承」、
「木花之佐久夜(このはなさくや)ひめの、『木花』は桜の木のこと」、
「宮の名前に桜という言葉(履中)が使われた」などをあげて、「桜は聖なるものと信じられていた」が、冒頭である。

歌で言えば、吉野の桜は万葉集にはなく、やはり西行からである。
西行がいつ吉野山で過ごしたか、それは不明だが、たびたびこの地に庵を構えたことは明らかで、「吉野山 やがて出でじと 思ふ身を 花散りなばと 人や待つらむ」である。
西行は吉野山を共にあり、40首もの歌を詠んでいる。

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西行庵

千田稔は、まずは前登志夫を引くのであるが、前登志夫は「西行の桜への異様な執着」と表現し、「西行の桜の歌は、美しくのどやかな雅の趣向ではなく、むしろ息苦しい魔をはらんでいる」とさえ言われ、注目を集めた。


西行の吉野の桜への思いれは、「これは西行の心のなかにある文学者としての資質そのものではないか」と断じ、前登志夫に激しく共感をするのである。

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吉野の桜である。
「まず若芽が出て、後に花が咲く、赤芽・茶芽・黄芽・緑の色と白い花の色がマッチした美しさは例えようがない美しさである。吉野の桜はそんな、白山桜である」(宮坂)。

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苔清水

芭蕉は西行の「とくとくと落つる岩間の若清水 汲み干すまでもなきすまひかな」の歌を、歌枕に「露とくとく 心みに浮世すすがばや」と詠っている。

吉野山は歌の山で、万葉集、古今集・古今和歌集をはじめとする勅撰集に600首くらい掲載され、桜の歌も多い。

さて、吉野山への花見も吉野参りという。それは花見と共に蔵王堂への参詣を欠かさなかったからとのことである。「桜も見れた、さあ帰ろう」という具合にはいかなくて、トコトン吉野の桜、拝見する予定である。
by koza5555 | 2015-03-17 00:56 | 橿原・明日香・吉野 | Comments(0)

金峯神社

4月の「大和路を行く」は吉野山である。金峯神社から西行庵を拝見、奥千本の桜を見ようというウォークである。

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奥の桜は第三土曜日、間違いなく咲いているだろう


金峯山寺蔵王堂や竹林院を経て登るのであるが、金峯神社が気になるところである。

そんなことから、「吉野―悠久の風景」を読んでみた。上田正昭先生の編著で、 講談社から1990年に出ていた。25年前の本である。
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吉野山を古代から中世へ、そして近世・現代へと辿ってみたら…そんな本だった。

吉野には持統天皇 31回。文武天皇3回、元正天皇一回、聖武天皇2回の行幸があり、聖域吉野への大きな憧憬が感じられる。

天武天皇が歌ったように
「よき人のよしとよく見てよしと言いし 芳野よく見よ よき人よく見」(巻1―27)である。

吉野は南朝の舞台である。
1331年、後醍醐天皇は神器を奉じて京を抜け出し、8月24日に東大寺、8月26日笠置山に、こもったという。その後、隠岐に流された。
後醍醐天皇はふっかつ、しかし建武の新政は挫折して、1336年、賀名生を経て28日は吉野に到着したという歴史をたどる。
吉野は後醍醐天皇、後村上天皇の時代、約11年間、行宮とされた。
吉野山といえば、陸続する寺社に特徴があるが、この寺社の立地と展開が極めて明快に解明されている。

さらに吉野の成り立ちの歴史に納得ができる。
「原・吉野」という言葉を知った。吉野川の北岸、世尊寺あたりの台地を指すという。それから宮滝へ、さらに吉野山という歴史である。

吉野の神の一つの軸となる水分神社は、もともと高城山の北東の広野にあり、金(かね)峯(だけ)の神として水分神社があったとされる。

宮滝から見て、「原・水分神社と金峰神社は見通された」というのである。
峯は重要だが、あくまでも宮滝から見てである。

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源・吉野の地図がしめされた「吉野という世界」地図。koza書き込み

吉野山には8社明神が置かれているが、そのうち勝手明神は吉野山口神社、子守明神は吉野水分神社、金精明神は金峰神社であり、この三社は式内社とされる。

金峰神社は852年に従三位(文徳実録)、水分神社は「馬を芳野水分峰の神に奉る。雨を祈ればなり」(続日本紀)とあり、これが698年のこととされる。役小角遠流(おんる)の一年前のことである。

これから見ると、698年に吉野水分神があらわれて、852年には三社がそろったと言える。

もともとは宮滝から見通される高城山の北東の広野に金 峯 神の水分神社が置かれたが、吉野山の稜線の持つ意味が変化、蔵王堂からみて山上への稜線が大切とされるようになり、水分神社は現地に移り、「芳野水分峯神」が、山口、水分、峰の三社に分かれ、稜線に沿って並び立った(足利健亮元京都大学教授)とされた。
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吉野山断面図

こうして考えてみると、金峯神社は吉野山の大本という感である。
奥千本と西行庵を訪れるツアーは、吉野山の大本の金峯神社を拝観するというツアーでもある。

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冬の金峯神社
by koza5555 | 2015-03-16 00:58 | 橿原・明日香・吉野 | Comments(0)

戒長寺からあぶらやまで

3月14日、「大和路を行く」は、「宇陀の秘仏を求めて」をテーマに戒長寺(かいちょうじ)、西方寺を訪れた。午後は榛原の町並みも歩き、近世の榛原と山懐の秘仏を訪れようという「よくばりツアー」だった。

25名の参加者で足が強くない方も混じるというウォークである。
戒長寺まではタクシー、戒長寺から西方寺までは歩いて降りて、西方寺からは路線バスに乗るという、裏ワザ満載の移動方法を案出した。


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最初に訪れるのは戒長寺。大和富士という額井岳の三峰の山懐の古刹である。
ご本尊は 半丈六の本尊薬師如来で、如来を日光・月光菩薩(お姿は仁王である)と眷属の十二神将が守っている。

別の薬師三像(薬師・日光・月光菩薩)も本堂内に安置されている。
柔和で優しいお顔で、貴賤を問わずすべての願い、思いを800年間も受け止めてきた、そんなお顔だった。眷属の十二神将は光背に浮き彫りされている。

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ご本尊とは別の薬師さま。「大和のかくれ仏」から


戒長寺の松本住職には、丁寧な解説と拝観の案内でお世話になった。境内で食事を頂くという許可を得ていたが、「こんな雨ではどうしょうもない。こちらでどうぞ」とストーブをつけながら、本堂内での食事を勧めていただいた。参加者一同大喜びである。

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食事後、戒長寺を出て、霧の中を山部赤人墓に向かう

万葉歌人、山部赤人は山辺の村の「大和富士」に眠っているとの論があり、山部赤人墓に立ち寄る。思いのほかみなさんの反応は大きい。

そこから地道の山道に入り、西方寺に下る。

西方寺(さいほうじ)の薬師如来像は、平成26年6月に重要文化財に指定された。
胎内文書によれば、弘安元年(1278年)の造立と考えられ(鎌倉時代)、西大寺釈迦如来と相似の彫像である。素朴で平明な作風で、鎌倉時代の基準作例として注目されるものである。

西方寺を辞去して天満台東三丁目のバス停に向かう。200メートルの至近で榛原駅へは毎時2本のバスが出ている。

福地で下車、椋下(むくもと)神社から東町、あぶらやというコースである。
高倉下命(たかくらじのみこと)がご祭神である。神武東征の折、神武天皇にフツツの御魂の剣を献上した高倉下命である。
福地の氏神様であるが、平安時代からの由緒ある延喜式内社である。

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椋下神社、秋祭り。福地の太鼓台。毎年11月3日である

伊勢街道(あお越え)の東町、そして復元されたあぶらや旅館は、榛原のボランティアガイドの田中さんに案内していただいた。

田中さんによると、「椋下神社から あぶらや にかけての東町が伊勢街道のおもかげが一番残る」と言われる。

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ガス灯が残っていた

榛原のあぶらや。旧旅籠として2階に至るまで全面的に開放されており、ゆっくり見学できる。当時の宿泊事情、食事内容などの掲示が面白い。明和9年(1772年)本居宣長が宿泊したとされる。
by koza5555 | 2015-03-15 10:48 | 宇陀 | Comments(0)

金峯山寺物語

4月の「大和路を行く」は、吉野の桜である。
ここらあたりで勉強をしておかねばという段階である。

まずはご住職の本である。「住職がつづるとっておき 金峯山寺物語」。四季社で、五條順教ご住職が書かれた。

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写真、このご本からお借りした

蔵王権現、吉野はこの湧出から始まるべきだろう。

役行者は千日の苦行にて、あの時代にふさわしい仏の出現を求めた。
始めに釈迦如来があらわれる。
「辺境の日本では、釈迦如来の本当のお姿を見ることができません。猛々しくなっている我々にふさわしいお姿を見せてください」と断る。

次に千手千眼の観音菩薩があらわれる。「すべての徳を備え、苦しみをすくってくれる仏だが、悪世の時代にはふさわしくない」との断りである。「役行者の時代に千手千眼の菩薩?」などというヤボなことは言わない。

続いて、弥勒菩薩である。「悪魔を降伏させる仏がほしい」とのことで、蔵王権現が湧出する。「行者大いに歓喜し、敬重し、崇め奉る」。
「鎌倉時代に明らかにされた金峯山秘密伝に明らかにされている」と紹介されている。

修験道から見ると蔵王権現は釈迦如来と一体で、さらに釈迦如来(過去)、観音菩薩(現在)、弥勒菩薩(未来)は釈迦如来の分身、「三体一仏」と考えるとのことである。

蔵王堂の三体の蔵王権現は、中央が釈迦如来(過去)、向かって右が千手観音菩薩(現在)、左側は弥勒菩薩(未来)の権化ということになる。


蔵王権現はどこに湧出したか、それは山上ケ岳山頂である。
役行者は、そのお姿を桜の木に刻んだ。

山上ケ岳、大峯山寺の戸開式は5月3日、9月26日には戸閉式である。修験道からみれば、吉野の桜は見れない。

山上と合わせて、一年を通じて参詣、活動できる山下(さんげ)も整備され、桜も見れて、女人も参拝に来れる、こうして金峯山寺蔵王堂が宗教的拠点になったのである。

この蔵王堂、天承4年に火災、天正20年(1592年)に再建。檜皮葺で34メートルの高さ、36メートル四方、36メートル四方、68本の柱。檜、杉、松、ケヤキ…ツツジや梨とされる巨木も使われている。
急いで作ったという、その姿を今に示す。
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蔵王堂

役行者は熊野から吉野に歩き、これを順峯という。一方、修験道の組織を作り上げた理源大師(聖宝)は吉野から熊野に歩いて、これを逆峯という。
したがって蔵王堂には熊野に向いた二天門(順峯の門)と、都に向いた仁王門(逆峯)が置かれている。
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仁王門である。阿吽の仁王は平成26年に重要文化財に指定されている

境内の四本桜、そしてその中央の銅製の燈籠に注目で、「奉造立燈籠 和州下田大区左衛門助 寄進油田七反」と刻まれている。文明三年 1471年である。燈籠を奉り、油を寄付した。

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この四本桜、1333年、後醍醐天皇の皇子、大塔宮が最後の戦いを前にして、ここで酒宴の幕を張ったが、その柱のあとに植えられたとされる。

「歌書よりも軍書にかなし吉野山」である。

先々代の五条順海は、天皇陛下が来られても「北朝系のかただから」と、会いに行かなかったほど、この戦いの傷が残るという。

「修験とは歩く禅」という言葉が、結論として興味深い。
by koza5555 | 2015-03-13 17:50 | 橿原・明日香・吉野 | Comments(0)