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奈良・桜井の歴史と社会

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西内酒造の酒蔵

「聖林寺~西内酒造~等彌神社」というウォークを計画した。
9月9日(水)と19日(土)である。
19日(土)はNHKのカルチャだが、9日(水)は「雑賀さんの歴史ウォーク」ということで、一般の申し込みも受け付ける。

自讃だが、「このウォークはすごい」、何がすごいかというと、解説する方がすごいのである。
聖林寺は倉本明佳ご住職、西内酒造の酒蔵見学は西内隆允店主、、等彌神社は佐藤高静宮司という具合である。
今回の僕は道案内だけ、頼みに回った努力(笑)を皆さんに買ってもらう。

桜井駅に集合して、聖林寺までは路線バス、下(しも)からしばらく歩いて到着である。
ご本尊の子安地蔵尊、十一面観音菩薩像を存分に拝観したのち、持参の弁当という計画である。

午後は歩いて下(しも)の西内酒造に。談山神社のお神酒はこちらである。

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西内酒造

西内隆允さんに酒蔵を案内していただき、清酒醸造の道筋を教えていただく。

まず米を蒸す。そして麹を作らねばならない。酒母を作り、もろみを管理し、搾る…そんな醸造の工程と工夫を酒蔵でおききすることができる。

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酒蔵。阿弥陀車も残されていた。クレーンであるが、正面から見ると阿弥陀さまの光背を思わせるからの名という。

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麹室(こうじむろ)も拝見できる。むしたお米に麹を混ぜ込む作業台である。雑菌は厳しくカット

西内さんの自慢は井戸水。北山の伏流水とのことで、すべてを井戸水でまかなっている。
この井戸水も味わい、試飲もして、これは本格的な酒蔵訪問である。


等彌神社へは談山神社の町石を数えながらの下り道ウォークである。

等彌神社に到着すると・・・
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等彌神社 一の鳥居

新たにできた一の鳥居はこの春に伊勢神宮から移されたものである。一昨年の式年(しきねん)遷宮に伴い建て替えられた内宮正殿(しょうでん)の最も近くにあった中重(なかのえの)鳥居を譲り受けたとのことである。

等彌神社では拝殿に上がっての正式参拝をおこなう。そのうえ、佐藤高静宮司の本格的な講話も予定している。

お天気の具合を見ながら、神武天皇ゆかりの「鳥見の霊畤」に

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最後は棟方志功の歌碑
「鳥見山のかの面この面をまたかくし時雨はよるの雨となりけり」保田 與重郎の歌である


桜井駅南口、10時30分に集合で、桜井駅で午後4時頃に解散。お弁当は持参で1800円の参加費である。歩行距離は5キロ程度である。お誘いしたい。
by koza5555 | 2015-06-30 16:56 | 桜井・多武峰 | Comments(1)

「大美和」 大神神社 社務所刊

まだ先のことだが、講演のテーマに大神神社を選んだ。

大神神社はずいぶんと訪れたし、ツアーもずいぶん案内したが、一時間半、みなさんに楽しんで頂こうとなると、今の準備では、「これはちょっと当てが違う」・・である。

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 とりあえず夕やみ迫る大神神社

境内を順々に説明したり、年間の祭祀・行事を解説したりでは、集まってきていただく桜井市民に聞いていただけるようなお話にならない。こんな話なら、よほど僕より、ご存じの方ばかりである。。

そこで「大美和」に目をつけたのである。
「大美和」、大神神社の社務所が営々と発行してきた、年二回刊の雑誌である。現在は70ページくらいで発行されていて、社頭で300円で販売されている。

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最新刊は平成27年1月1日の発行で第128号という。
パラパラとページを繰ってみると…ものすごく刺激的で、強烈におもしろそうである。

「古いものも読みたい」と思うが、社務所にお聞きすると「社頭でお分けしている限り」とのことである。

そこで桜井市図書館のバックナンバー、これからのコピーを猛烈に始めたのである。
おもしろそうな論文・記事を拾い集めながら、遡ってコピーをすすめて第28号までのコピーだった。
結果、100冊分、50年分のコピーで、都合1300ページくらいのコピーを取った。
第28号の発行は昭和40年で、これは、神社の50年の歴史である。

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これがそのコピーの山。読みかけているが、内容の理解はこれからである
ただし、1300ページ、300ほどの論文のインデックスを作り、勉強の方向が明白となった。

「神社と三輪山の歴史」、「発掘と考古学」、「神社の祭祀」、「境内のさまざま」、「環境と自然」など、それぞれの時代にそれぞれときめく学者・研究者が執筆している。

本当に面白そうである。この勉強で、大神神社のみならず、奈良と桜井の歴史や社会の勉強もやり直そうと考えている。


大美和の杜の展望台から大和三山を見て。この杜が整備された経過などを解説した論文も含まれている
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by koza5555 | 2015-06-29 19:03 | 桜井・山の辺 | Comments(0)

そうめんと大神神社

今日は「奈良おいしい歴史散歩」で三輪を歩く。
「そうめんと大神神社」というテーマである。

「奈良に隠れ名所あり、奈良にうまいものあり」で、「とっておきの大和路を見て、美味しい郷土料理を楽しむ」というNHK文化センター(梅田教室)の講座で、毎月あちこち案内している。

今日の目玉は・・・・
素麺の手延べ体験とランチ
大神神社の拝殿、三ツ鳥居拝見
みむろをいただきながら大鳥居を考える

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 これが大鳥居、手前が白玉屋永壽


大雨の予報だが、この時期の雨は予想の上で、行程は路線バスとタクシーを組み合わせて計画している。

山本の麺ゆう館でそうめんの手延べ体験にチャレンジである。
「作るのはいや。食べるだけで」(笑)という声も聞こえる。

そこはそこ。とりあえず、そうめんの手延べはおもしろい。
そして素麺とうどんやそばとの違い、「そうめんは延ばす、うどんやそばは、切る」、これを楽しく話して、素麺のおいしさの真髄をわかっていただき、みんなで楽しもう。

大神神社神社は三ッ鳥居の拝見が目玉である。

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 これは檜原神社の三ッ鳥居


大神神社をあれこれ回り、三輪の町に出て、最後は白玉屋永壽、お抹茶のお菓子はみむろである。

大阪(玉造・玉造稲荷神社)から、平岡神社に至り、暗峠を越えて奈良へ入り、興福寺の角から南にまっすぐ下がってくると、ここが三輪の茶屋。奈良の旅籠、三輪の茶屋と言われた。桜井、初瀬や榛原のような正式な宿場とは違い、人足・馬が置けない(宿場としての収入がなかった)という。

三輪の茶屋は、伊瀬街道の賑わいをみて、戒重の仁王堂(にょうどう)から移転してきたといわれる。
伊勢詣りのメインストリートが、竹内峠(横大路)から暗峠越え(奈良経由、上街道)に代わったということだろうか。

大鳥居(今の一の鳥居)の前には茶屋が多かった。振り袖姿で道を挟んで「おじゃれおじゃれ」と手招きしたと言われる。

穴師よいとこ 蜜柑に茶どこ
またも素麺どこ 芋どころ
三輪の神さん 七巻半よ 
巻いてござるよ 三輪山を
三輪の馬場先 掃かいでも
きれいな 茶屋の女の すそではく

この三輪茶屋で、旅人は素麺を食べ、みむろ最中を味わった。
奈良のお土産ベストテンには三輪そうめんとみむろは確実に入るだろう。この二つが、ともに三輪茶屋育ちである。

白玉屋榮壽は三輪村下市上街道沿いにて弘化元年(1844年)に業をおこしたという。大鳥居越しにご神山、三輪山が望めるこちらで、お抹茶とみむろをいただく。


ところで大鳥居と二の鳥居、〆柱、三ッ鳥居は一直線であるが、ご存じでしたか。

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 こんな図であるが・・・
by koza5555 | 2015-06-26 05:45 | 桜井・山の辺 | Comments(0)

ムージクフェスタなら

13日(土)に始まった「ムージクフェスタなら」は28日(日)までで、もう最終盤である。
あれこれバタバタしていて、一度も楽しまないうちに終わってしまいそうだったが、幸いなことに24日の桜井市内のコンサートの参加券を頂いた。

会場は大神神社の大礼記念館、「大阪芸術大学が贈る『古都に響く日本の調べ』」である。

オープニングは北見志保子の「平城山」である。バリトン歌手の三原剛が歌った。
衣装がすごかったが、これは「遣唐使~阿倍仲麻呂」の主役衣装とのことだった。上野誠先生がシナリオを書いたという、あのオペラで、衣装の絹は「絹は絹でも山繭の」ということで、原料は自然の繭由来、とのことで、解説を聞くとその素晴らしさはより強まる。

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 他もこんな万葉衣装で歌うとかの工夫もある。演奏中は撮影禁止だから、終わってからのロビーの写真だけど


もちろん楽しみは、衣装だけではなく音楽である。
モーツアルトやシュトラウスもあれば、あかとんぼや唱歌メロドレーもあるという具合で、「日本の調べ」にふさわしい選曲で、合唱は存分に楽しめた。

出演者は大阪芸術大学混声合唱団、ゲストはバリトンの三原剛で、久しぶりに本格的な合唱を聞かせていただいた。

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 独唱・合唱した大阪芸大の混成合唱団。大学院生が多かった

ムージクフェスタは28日までだが、プラグラムを見ていると、今から間に合うものもありそうである。

大神神社大礼記念館、前。ムージクフェスタの看板の先には、大鳥居があり、二上山も見えた
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「ムージクフェスタなら」、すばらしいフェスタである。
by koza5555 | 2015-06-24 22:58 | 奈良 | Comments(0)

「小原の虫送り」は 夏至の前日

室生の笠間地区、笠間川の流域で山添村(今は奈良市)に接し、下流は名張市に続いている。古くから伊勢への最短路といわれる名張街道沿いとなる。

川は西から東、名張の方向に流れる。
上流から染田、小原、笠間と続くが、この一帯で夏至の前に害虫駆除のための虫送りがおこなわれる。この虫送りが、なかなか拝見できなかった

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これが、小原の虫送りである 小原の虫送りは夏至の前日である 

笠間川流域では、いまでも染田、小原、下笠間でこの行事が行われている。
今年は染田は一週間ほど前、下笠間は同じ21日であった。
田植えが上流から行われるように、笠間川流域の虫送りは上流から下流に順々である。
雨が降ると中止である。ちなみに一昨年は小原は中止となっている。

日が落ちるころから三々五々、村人が極楽寺に集まってくる。樹齢300年と言う素晴らしい枝垂れ桜の下である。樹勢は旺盛で、毎年見事な花を咲かせる。

虫送り、虫の駆除と合わせて虫の供養も行われることも注目点である。
虫も殺さぬということだが、農村の立場からは「田植えをしたら虫は殺したい」という所だろう。
それで虫送りの始めは「数珠繰り」。これは人の幸せを祈るものである。
虫送りの終わりには般若心経が唱えられていたとのことである。今は途絶えているが、この心経は虫の供養のためという。

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 数珠繰り。楽しげに受け取り、楽しげに送る


数珠繰りを終えるとすぐに出発だ

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 夕闇の迫る田園に向かう。火があり、響き渡る虫送り太鼓と鉦の音。楽しくなる。


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村の集会所の近くの休耕田までだ。このころとなるとすっかり夕闇となる


実は前日の20日も来ていて・・・20日は・・・野焼きだけ見て帰ったのである
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小原の虫送りは、曜日ではなく。日にちでもなく 「夏至の前日」と決められていた。
by koza5555 | 2015-06-22 00:43 | 宇陀 | Comments(0)

邪馬台国と卑弥呼 「研究最前線 邪馬台国」 

今日は邪馬台国と纏向遺跡のことである。

平成21年11月14日に桜井市のJR巻向駅の西側で、大賀建物群の跡を発掘したとの現地説明会があった。
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平成22年に「いま、なぜ邪馬台国か」というシンポジウムを文化庁と東京江戸川博物館の共催で行われていて、これをまとめた本がある。題して「研究最前線 邪馬台国」(朝日新聞)という。
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纒向遺跡で東西に基軸を持つ大型建物群が発掘され、2009年11月にこの現地説明会が開かれたが、その直後のシンポだった。

始めに文化庁の禰宜田佳男氏が邪馬台国説の論争史を紹介した。

その概要を紹介すると、、
大正13年に笠井新也が、卑弥呼の時代は崇神の時代で、崇神の姑(おば)であるヤマトトトヒモモソヒメが卑弥呼とみなし、箸塚古墳が卑弥呼の墓と考えた。

邪馬台国の研究は戦時中は途絶えるが、昭和22年に榎一雄が、伊都国を起点に放射状に行程を読み、邪馬台国は筑紫平野と考えた。

昭和36年、小林行雄が論争を総括していて、
①古墳から出土する銅鏡に摩耗しているものがあることから、弥生期から機内には道鏡があり、伝えられてきていた。
②古墳から出土する三角縁神獣鏡が「銅鏡百枚」に当たるとして邪馬台国は畿内とした。

論争は、鉄器がその後に問題となり、
「七、八十年、倭国乱れ、相攻伐すること歴年、すなわち一女子を共立して王と為す。名は卑弥呼と曰う」の「倭国の乱」が取り上げられる。
この乱を契機に、倭国の中心が北部九州から畿内に移動し、鉄器もその技術も畿内に移動するという論である。

その後も論争は続き、冢(ちょう)も課題となった。
「卑弥呼、以に死し、大いに冢作る。径は百余歩」、とあり、北部九州にはこれに当たるものがない。

邪馬台国東遷説も紹介されている。
北部九州の邪馬台国が畿内に移動したとの論とか、現在では、北部九州勢力が畿内に移ったことを含めて議論されているとのことだった。


パネラーは4名で、
九州派は高島忠平、
大和派は石野博信、西谷正、
それから歴史学者として吉村武彦である。

邪馬台国、九州説論者の本は最近は読む機会がなかったので、高島忠平さんの論文は興味深く読んだ。

高島さんの論拠は4点で
①鏡は後漢鏡のもので、九州から多く発掘されてといる。
②魏志倭人伝にいう楼閣などの記述が北部九州の環濠集落に一致していること。
③中国との交流を示す遺跡が北部九州に数多くあること。
④鉄の流通は九州に集中していること。

そして候補地は特定しないまま、邪馬台国が九州と論じているのである。
高島さんの結論もおもしろい。
「一系的な政治権力で日本列島の国家が成立してくるとは考えにくい。いわば東遷説、近畿説もそうですが、どこかに一元的に政治権力が発生したというわけではない。しかし、最終的にヤマト王権が各地に発生した王権との抗争を経て六世紀には統一国家の成立の覇権を握った」とし、「一系的に国が出来上がると見たくない」とのことである。
高島先生は「邪馬台国は近畿になければそれでいい、ほかにどこにあってもいい」というほどの、一系的国家、一元的政治権力論に反対されていた。

僕の名古屋時代の友達は、強烈な邪馬台国九州論者であり、「飛鳥時代以前の大和の歴史はすべて作り事」と言うのであるが、大本はこんな形だったのかとよく分った。
「統一国家の覇権を握ったのは六世紀」・・・継体天皇の時代以降のことを言っているんだろうか。

なるほど、これもおもしろい話ではあるが、奈良に住み、奈良を勉強し、奈良をガイドすると、それはそれで、ちょっと違うと思えるのである。

それ以前の奈良の歴史をどう考えるか。日本と大和の関係をどう見るかという問題である。
たとえば奈良盆地に集中している巨大古墳群、そしてそれに似せた古墳が関東から九州にまで広がる前方後円墳の訳を聞きたいものである。
やはり、邪馬台国の前後の時代に、共立とはいえ倭一国に号令できるような大和の王権が誕生していたとみるのが自然である。

箸墓とか、崇神天皇陵・景行天皇陵とされる山の辺の道の陵の前に立てば、これが国家的事業であることは明白である。
大和の政権がこれを大和に作った・・北九州にあった政権が、わざわざ古墳、奥津城を大和に作ったなどと言うことはあり得ない。

さて、話を本(ほん)の方に戻して・・・パネルディスカッションが始まり、初めに邪馬台国以前の北部九州と大和が議論となる。
九州なら伊都国・奴国で、大和は唐古・鍵遺跡である。

論点の二つ目は「倭国の乱」で、

三点目は「なぜ卑弥呼は王に立てられたのか」

「卑弥呼の墓」が四点目となっていて、それぞれ攻防がある。

それぞれの問題で、大和派、九州派のポイントや弱点もあり、僕も、これで決まりという感じがしないのである。
やはり、論争最前線というところか。

本の最後は、桜井市教育委員会の橋本輝彦氏が、纏向の発掘、前年の11月に現地説明を行った大型建物などについて触れている。

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  柱の抜き跡から想定される大型建物群


読後感で言えば、「倭国の乱」を契機に、倭国の中心が北部九州から畿内に移動したという東征・東遷説が魅力的である。

文化庁の禰宜田佳男からは、「邪馬台国の候補地・・・遺跡で史跡になっていない遺跡があることも事実です。そうした遺跡を将来にわたって保存することは重要です。そうしなければ、邪馬台国所在地論争を考古学的に決着させる可能性のある芽を、完全に摘み取ってしまうことになるからです。」とあった。
その後、纏向遺跡が2013.10.17(平成25.10.17)に、「史跡名勝天然記念物」として史跡に指定されたことはご承知の通りで、種別は「弥生後期、古墳時代前期」、それから地図の指定がない(範囲の指定がないということ)ことが大きな特徴である。


「おもしろ歴史講座」を桜井市で続けている。全6回の講座であるが、来春には纒向遺跡とか大神神社を取り上げる予定である。
今日もブログでここらあたりを書いてみた。
それにしても「邪馬台国と纏向遺跡」、もう少し勉強しないと「おもしろい」話になりそうもなく、僕も悩みが深い。
by koza5555 | 2015-06-18 21:55 | 邪馬台国(やまとこく) | Comments(2)

率川神社と三枝祭

6月17日は、大神神社の境外摂社、率川(いざがわ)神社の三枝(さいぐさ)(ゆり)祭である。

まずは前日、6月16日の午前10時に「ささゆり奉献行列」が桜井の大神神社を出発する。
奉献行列はJRで奈良に向かい、11時半から奈良市内で奉献行列神事。13時に率川神社到着、ささゆり奉献奉告祭。
17日の祭当日は10時30分に三枝祭(ゆりまつり)斎行、
13時30分に行列が率川神社を出発、三条通り、小西さくら通り、東向き、餅飯殿商店街などを経て率川神社に戻るのがこの祭事の日程である。

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 大神神社境内を出る奉献行列


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 JR三輪駅へ。三枝祭の歴史は古いが、奉献行列は今年が9回目



さて率川神社、中世・近世は春日社、興福寺の支配にあった。
明治十二年十月三日に「率川神社は大神神社の境外摂社」との考証文書を春日神社の同意書を添えて申請、十二月二日に決定となった。

そんな歴史はあったが、もともと率川神社の歴史は古い。
延喜式には率川坐大神神御子神社三座(いざがわにいますかみのみこさんざ)とされている。

率川神社、中央にはヒメタタライスズヒメ命。左殿には御母神のタマグシヒメノ命、右殿には御父神の狭井大神(大物主の神・大神の荒魂神)を祀る。
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さて、このヒメタタライスズヒメのことである。

日本書紀は大三輪神の子(神代上、第八段一書六)とし、母の名は触れずに、カムヤマトイワレビコの后となったとしているが、同時にそのあとで、事代主神がタマクシヒメと結婚して生まれたのがイスズヒメとも述べている。
ちなみに古事記は、ヒメタタライスケヨリヒメとして、大物主の娘としている。丹塗矢の説話として出てくるが、母の名はセヤダタラヒメという。

率川神社のご祭神(ヒメタタライスズヒメ、大物主の神・大神の荒魂神・タマグシヒメ)は、記紀では、一文ではまとまって現れず、あれこれ複合して、決められたようである。


さて、カムヤマトイワレビコとヒメタタライスジヒメの狭井川にまつわる説話は古事記のその後に詳しい。
神武天皇はこのヒメと「一宿御寝(ひとよみね)しましき」で結婚するのであるが、そのヒメの家の近くに流れる川をサイ川である。
「その川がサイ川というのは、川のほとりに山百合がたくさん咲いており、山百合のもともとの名をサイというから」と説明される。

ヒメタタライスズヒメとサイグサ(三枝)祭、ユリの花がこういう形で結びついているのである。

この三枝祭(さいぐさまつり)も歴史が古い
「率川の社は春日山にあり、春日の明神の遷座以前にまします神なり」とされ、早くも養老の「神祇令」に「率川の社の祭なり、三枝の花を以って、酒樽を飾り祭る、ゆえに三枝と曰うなり」とされている。

この形が今も守られていて、
ささゆりで飾った酒樽を、社殿の左右に置いて、向かって右を樽(そん)と言い黒酒(濁り酒)を入れ、左は缶(ほとぎ)と呼ばれ、白酒(清酒)を入れて、ささゆりで飾っている。

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 ささゆりで飾った酒樽を神前に立つ


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中央は柏の葉で覆われた蓋の特殊神饌。これは折櫃(おりびつ)といい、御棚は「黒木の案」という。神饌の右が樽、左が缶である

神楽もある。「うま酒みわの舞」、百合の花を手にしての舞である。
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稚児行列に続いて、ささゆりの壺を少年が引く


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通行人に、造花のささゆりが配られた。僕はいただき損なったが、観光案内所のあっちゃんがもらっていた


三枝祭と百合の花を、日本書紀と古事記で寄って考えてみた。三橋健国学院大学教授が「大美和」の113号(平成19年)に「率川神社と三枝祭」として、書かれており、それを勉強した。

by koza5555 | 2015-06-17 23:55 | 奈良 | Comments(0)

鏡女王押坂墓 墓前祭

談山神社は鏡女王(かがみのおおきみ)を東殿に祀っていて、6月の第二日曜日午前11時から鏡女王祭りを行っている。
その前日の午前10時から、忍坂の鏡女王押坂墓において墓前祭がおこなわれる。

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 鏡女王忍坂墓

鏡女王祭を支えるのは、忍阪の生根会である。
生根会、鏡女王墓を清掃管理する忍阪区の老人会である。年に3回、鏡女王墓の外周などの草刈りをされている。「もう、50年になる。区の道づくり(川掃除)とは別に行っている。昨日は朝五時から。そして5月と10月」と、老人会長が言われる。
この生根会が墓前祭を行うのである。

忍阪生根会。氏神様から命名されたようである。こちらの氏神、忍坂坐生根神社は三輪の大神神社と同じで本殿がなく、忍坂山を神体山としていて、拝殿・鳥居・玉垣のみの神社である。
神社の頭屋記録、「忍坂庄神事勤帳」は延徳4年(1492年)から残るという。(桜井風土記 忍坂生根神社による)

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 ちょっと寄り道して、忍坂生根神社の境内である


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 旧街道筋から舒明天皇陵、鏡女王墓に入った所(ただし新道)にちご石。神武東征の時に、この石の隠れて戦うという伝承を持つが、普通に神籠石として、神の依り代として崇敬されたとみるのが自然である


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 舒明天皇押坂内陵。八角墳の始めのものとされる


舒明陵をこえると、鏡王女の歌碑がある。
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「秋山の樹(こ)の下隠(したがく)り 逝(ゆ)く水の われこそ(ま)益さめ 思ほすよりは」(巻2-92)鏡王女
歌碑は犬養孝の揮毫である。
鏡女王、天智天皇の后だったが、鎌足の正妻になったとされ、。不比等の実母と言われ、興福寺の前身の山階(やましな)寺を創建したと言われる。

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鏡女王押坂墓前祭。談山神社の長岡宮司が祝詞奏上

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墓前祭をおえて

二年前の談山神社の鏡女王祭のリンクは  こちらから  


最後に、鏡女王上墓の奥の大伴皇女押坂墓に。こちらまで登って振り返ると多武峰が正面である
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by koza5555 | 2015-06-14 09:56 | 桜井・多武峰 | Comments(0)

奈良の茶がゆ

「奈良おいしい歴史散歩」という講座をNHKのカルチャーで案内している。おいしいものを楽しく食し、そのいわれの場所を訪れたり、近在の寺社を散策したりというツアーである。

講座は半期ごとの募集で、10月からの募集の行程計画の提出期限が今である。

藤原宮址でコスモスを見ながらの和食
紅葉の室生寺をたのしみ山菜料理とか
高取の雛祭を楽しみ壺阪寺で精進料理・・・・

つらつらとこんなものを考えてみたのである。
そういえば、奈良らしい食事と言えば、茶がゆもある。

そこで興福寺境内、塔の茶屋で茶がゆという計画を立てて、さっそく食してきた。

茶がゆ弁当、こんな感じで出てくる。
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茶がゆはホテルの朝食でいただいたことがあるが、こういう形では初めてだった。それなりのボリュームもあり、おいしくいただいた。

2160円(税込)である。相席となった京都から来たというガイドが「前は3000円でした。値段が変わりましたが、メニューはあまり変わってません」と教えてくれた。

お店の中。個室になっているが、相席である。
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奈良の茶粥は、僧房の斎食(とき)にはじまり、大和の国中はもちろん近国の庶民の間にも広まったもので、古都奈良を代表する味の一つと言えます。
 聖武天皇が「僧を召してお茶を賜った。」とか弘法大師が寺々に茶園を設けたという記録もありますが、喫茶が普及しだしたのは、栄西禅師が宋朝から再伝来し明恵上人が栽植されたのが画期となります。この両大徳の教学を受けた 西大寺の叡尊上人が大和をはじめ諸国の末寺に茶園を開きました。
現今では、食生活の変化で茶がゆはほとんど用いられなくなりました。
弊亭主は「温故知新」の意味合いも兼ね、大和名物として遠来のお客さま方に楽しんで頂けたらと存じまして、この奈良茶がゆを主食として供することにいたしました。

塔の茶屋の「ごあんない」から


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塔の茶屋
by koza5555 | 2015-06-10 09:03 | | Comments(0)

当尾。浄瑠璃寺と岩船寺

「紅葉の当尾(とうの)」というツアーを11月に計画している。

当尾、浄瑠璃寺、岩船寺はなんといっても京都府で、奈良まほろばソムリエ検定の出題範囲外ということで、しばらくご無沙汰していた。

浄瑠璃寺、毎月8日に「三重塔内 秘仏 薬師如来像の開扉日」となっており、これに合わせて6月8日に歩いていてきた。

当尾 わらい仏
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近鉄奈良駅、奈良交通13番乗り場。近鉄奈良駅から浄瑠璃寺までは、片道570円であるが、奈良交通の「奈良公園・西の京」ワンディパス、一日乗り放題の500円コースで行ける地域内となっていた。

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13番乗り場、ワンディパス


浄瑠璃寺に到着。こちらの拝観は帰りで、バス停に並び、笠置行バスに乗り換える。岩船寺の門前まで連れて行ってくれて、200円である。


岩船寺、ご本尊は重文の阿弥陀如来坐像で、丈六、大きい。
胎内銘により、946年(天慶年)の造立と判明している。浄瑠璃寺は1047年の建立であるので、ここらあたりでは最古とされ、ご住職の説明も「浄瑠璃寺に先立つこと100年」と、ここに力が入っている。

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突き当たりの三重塔は南北朝の時代、重文の指定を受けている。岩船寺境内。もう一週間もするとアジサイは満開だろう。


当尾の石仏を訪ねて浄瑠璃寺まで歩く。
初めは少しだけの上りだが、後は浄瑠璃寺に向けて、だらだらの下り道である。

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 三体地蔵磨崖仏


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 ミロクの辻。ミロク菩薩(1200年代の半ば)


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 一願不動の不動明王。ここはちょっと登って石の階段を下る。(1200年代半ば)不動産らしいお顔


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 ワライ仏。(阿弥陀三尊、わらい仏は重い石を支えて、笑うという構図。1299年作で宋の名工、伊行末の作とされる

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 さらにカラスの壺二尊へ。カラスの壺は羅臼(からうす)の壺のこと?(鎌倉時代1300年初期)


左側に地蔵菩薩が。見落とさないこと。
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 藪の中の三尊磨崖仏(1200年代半ば。ここら辺りでは最古のものか)


浄瑠璃寺の到着。深緑にたたずむご本堂
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by koza5555 | 2015-06-09 11:00 | 大阪とか京都とか | Comments(0)