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奈良・桜井の歴史と社会

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春日大社と神鹿

9月27日、奈良まほろばソムリエの会は「桜井の史跡巡りと講演会」を開催した。
この企画に合わせて、「桜井の名物男と名物ランチ、古事記でゆかりの古社を堪能する会」が開かれた。

「おもしろい話を30分で」との鉄田専務理事からのリクエストである。
「参加者は20名くらいだろうが幅がある。観光コンシェルジュをめざすような人もおれば、歴史の話を聞くのは初めての人もいる」と聞く。

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お話しは、「春日大社と桜井」、タケミカヅチ命と榎本神社の神地交換の説話から始めることにした。そんな話からタケミカヅ命の通った道、春日大社と神鹿のことなどを語ることにしたのである。

誰もが一緒に入れて、どんなベテランも初心者も「なるほど」と共に共感がいただけるようなお話である。

ランチは「活魚・ちゃんこ 一語一笑(いちごいちえ)」。今回は六角弁当。おいしい料理がリーズナブルなお値段、そのうえ意外感のある弁当箱で出てくる。こんな行事にはうってつけのお弁当である。

さて「春日大社と桜井・安倍」のお話である。
榎本さん(春日大社境内摂社)とタケミカヅチ命の土地交換説話から話を説き起こした。
誰もが知っている具体的な事例や説話から話を起こすのが、入り口の鉄則である。

春日大社のご祭神、「鹿島に坐すタケミカヅチ命、香取に坐すフツツヌシ命」が、白鹿(はくしか)に乗って常陸からやってきたという春日縁起はよく知られている。

「春日鹿曼荼羅」とか「鹿島立神影図」。
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御蓋山と鏡と榊、そしてタケミカヅチ命が白鹿に騎乗し、供奉するのは中臣植栗(えぐり)連(むらじ)時風(ときふう)・秀行(ひでつら)とされている。

今回の役者は、ここに全部そろっているのである。
一つづつ考えていくと面白いが、このブログでは神鹿だけを考えてみた。
春日大社の鹿は神の使い、日本には鳥獣が神の使いをする例は多い。八幡社の鳩、稲荷社の狐、日吉社の猿、大神の蛇、熊野や上賀茂の八咫烏、天満宮の牛などさまざまである。

いまは春日大社のことだけを考える。
大乗院寺社雑事記(中世の大和支配と興福寺のことが書かれている)に鹿に絡む夢相が書かれている。尋尊という僧が夢の中で鹿に取りつかれた話である。
鹿に仏舎利を与えられる。尋尊は鹿を春日明神の使いと考え、三願を立てた。
一つは後生安楽の願い、
一つは丈六の御堂の建設の願い
一つは御堂に影向してもらう願い
三度唱えると鹿は大きくうなずいた。

「奈良公園の鹿はせんべいもらって頭下げる。奈良公園の鹿は礼儀正しい」という話があるが、これを見ると「鹿は頭を下げているのではなく、願いを立てたら、うなずいてくれた」が公式見解のようである(笑)。
「奈良公園の鹿は願いをかなえてくれる。鹿に頼んでうなずいてくれるかどうか」と、観光客にアピールしたら、もっと話題性がありそうである。
春日大社、興福寺の伝承に読むと、「鹿には願いを頼んでみよう」・・これ、どうでしょうか。

話を戻すが、仏が神としてこの世に出現して、その神の使いが精霊としての鹿とみなされていたとの見解で、尋尊の夢相は「最高位に仏(丈六の御堂に影向してもらう)が置かれ、春日明神、鹿」と言う三層構造になっている。

しかし、宗教の発展段階を科学的に考えると、上位からは始まらず、下から、具体的なものから始まるものである。
春日の三層構造は上から整備されたのでなく、下から作られていった、山があり、鹿への信仰があり、春日明神があり、仏が出てきたとみるべきとされる。

ここまで考えてみて、では「春日はなんで鹿?」だろう。
「鹿島から来たから鹿でしょう」との論もあろうが、鹿島は当て字で、これは根拠にならない。
鹿島や香取は大和朝廷の東国進出の拠点の港だったといわれる。
カシしま(船をつなぎとめる島)というのが鹿島で、これは港を指した。
佐賀県鹿島市、静岡の富士市、能登の七尾に鹿島郷などに例がある。
鹿島は物部氏が拠点にしたが、蘇我物部戦争で滅びて、それを中臣が継いだということである。

そこで、こんな画も見てほしい。 一昨年の正倉院展である
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鹿草木屏風(しかくさきびょうぶ)に僕はビックリである。
正倉院展でこの画を見みると、「鹿島立」の原画といってよいほどの趣があった。鹿が神の使い、これは中央アジアの深い影響を受けていると解説されていた。
正しい名前は、鹿草木夾纈屏風(しか くさききょうけちのびょうぶ)。
奈良のシカの思想はシルクロードのはるか西から伝えられた。

こんなようなお話をしながら、タケミカヅチノミコトと榎本神の神地交換、安倍の字(あざ)榎とか植栗神社のお話につないでいったのである。

お話しはとても喜んでいただけた。
また、機会を見て、この御話を奈良でやりたい。


長々とありがとうございました。
こんなことはどこに書いてあるか?
春日 88号  中野和正権禰宜
日本文化史研究 春日社神鹿考  赤田光男
藤原鎌足とその時代 中臣と常陸 志田諄一
古代中世史の探求 中臣氏と大和 鷺森浩幸
タネを明かすと、以上のみなさんの受け売りである。
by koza5555 | 2015-09-29 06:52 | 桜井市と安倍 | Comments(8)

開化天皇 「御陵はイザ河の坂の上にあり」 

突然、奈良市の開化天皇陵でお話しすることになった。
まほろばソムリエの会の内部勉強会だが、「大阪あたりの古墳好きのお客様を相手にするような話を」というリクエストである。

開化天皇陵、あまり写真も撮ってないのである。
あわてて勉強してみると・・・・これがなかなか面白い。

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ホテルフジタのレストランから見る開化天皇陵


奈良の町、南北なら東向きに餅飯殿で、東西なら三条通、これが奈良のダウンタウン。この三条通りに面している奈良市中心部に位置する古墳である。
奈良で、「古墳をすぐ見たい」と聞かれたら、まずはここ・・・?
「少しの時間があれば、佐紀盾列(さきたてなみ)古墳群、ウワナベ・コナベ古墳などで古墳の良い景色が見られる」ぐらいで、開化陵は軽くみていたが・・・


こちらは、第9代 開化天皇陵に治定されている。
長さが100メートル、後円部は径48メートル、高さが8メートル。
春日山の西麓が伸びた、稜線とまでは言えないが、南は率川で少し低地。
古事記が言うように、開化天皇は「御陵はイザ河の坂の上にあり」で、ここしかないという感じである。
 
古事記や日本書紀で見れば、「開化天皇陵、この古墳をイメージしたな」で決まりである。

延喜式では東西五町、南北五町で広くて、在郷が10軒とある。
元和年間(1520)に、念仏寺ができて、境内に取り込まれた。どうもお墓がもあったようであるが元禄の検討で陵として管理されることになり、文久三年の修陵で古墳内のお墓は移された。

「葬られている開化天皇とはだれ?」もテーマになる。
和名は「稚日本根子彦大日日尊」(わかやまとねこひこおほひびのみこと)(書紀)である。

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江戸時代の絵図面はこれ。奈良市史考古編に載っていた。

さて、この古墳は本当に開化天皇が葬られていれば、「前方後円墳」で葬られた始めの天皇となる。
開化天皇は西暦換算だと紀元前100年ころ、ところが古墳は5世紀前半のもので500年位違うのである。
宮内庁が開化天皇陵と決めたが、科学的根拠が乏しいという指摘もあり、念仏寺山古墳とか坂の上山古墳(森浩一)などとも呼ばれている。


神武天皇に始まる皇統だが、2代の綏靖から9代の開化天皇までは、日本書紀の記述が即位、宮、皇后、親、子供、崩御、陵という形できわめて簡略、本当にいたのか、欠史8代というような言われ方もしている。
そして、これらの陵は御所・橿原に集中していて、開化天皇陵が突然奈良に現れたりするのである。
ここらあたりがどんなことだったのか、思わせぶりで申し訳ないが、ここは楽しく語れるだろう。


第9代はこちら奈良
第10代は崇神天皇で大和
第11代は垂仁で奈良
第12代は景行で大和
第13代は成務で奈良・・これは佐紀盾列古墳群
第14代の仲哀天皇は河内、皇后は神功皇后で奈良
第15代の応神天皇は河内の巨大古墳

よく見ると、陵は一代ごとに奈良と桜井の間を行ったり、来たり…これは何をあらわすのだろうか。


開化天皇陵の前でしか、話せないことがたくさんあることもよく分かった。
古墳好きなら最高。古墳嫌いでも、まずまず行けそうという感じである。
話は明日だ。元気に楽しく語るつもりだ。

参考文献は奈良市史の考古編である。

by koza5555 | 2015-09-21 00:30 | 奈良 | Comments(0)

聖林寺・西内酒造・等彌神社

9月16日(水)は聖林寺、西内酒造、等彌神社のウォークだが、これは桜井が誇る「珠玉の三人」が解説するというウォークで注目してほしい。

午前10時30分桜井駅(南口ロータリ前)集合で、路線バスで聖林寺に。
国宝、十一面観音菩薩を拝観し、寺内で昼食をとる。
下(しも)の西内酒造にウォーク。酒蔵の隅々まで見学し試飲を行う。
その後、メスリ山古墳と兜塚古墳を遠望、解説して。
等彌神社にいたり、正式参拝と境内の散策、等彌の霊璽 遥拝所の見学を行う。

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聖林寺、こんな景色の見えるお座敷に

回るところは、みなさんがご存じの所ばかりだが、今度のツアーの目玉は解説者のすごさ。
聖林寺は倉本明佳ご住職
西内酒造の酒蔵見学は西内隆允店主
等彌神社は佐藤高静宮司

聖林寺・西内酒造・等彌神社を「寺川沿いの珠玉の三人衆」の解説があるわけで、これは史上最高の布陣なのである。みなさんは「三人衆」なんて、思ってないですよ、僕が勝手に命名したものですから(笑)。

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西内酒造。酒蔵を隅々まで

何が見れるか、どんなお話となるのか、僕もそれが楽しみで、今日は紹介できない。
16日(水)のことで、日程は迫まっているが、ぜひぜひお誘いしたいと、再度の紹介である。

9月16日、集合時間は午前10時30分 桜井駅南口(東側ひろば)集合で、解散は桜井駅で15時30分を予定している。

持ち物は弁当、水筒、帽子、雨具。滑りやすい道もあり、歩きやすい靴でお願いします。
歩く距離は6㎞。
拝観料・経費として1700円(聖林寺拝観料と食事会場代700円、等彌神社志納金300円、その他経費700円(大人の学校経費・保険料・資料代)をお願いします。
また、バス料金は230円、これは各自でご用意お願いします。

申し込みは、このブログの「鍵コメ」に、メールならkozaburo@cg8.so-net.ne.jpにお願いします。

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等彌神社の境内・歌碑の一つ。保田與重郎の歌を棟方志功が描いた
by koza5555 | 2015-09-10 00:25 | 桜井・多武峰 | Comments(2)

第1回Nara観光コンシェルジュ アワード

商工会議所のHPに「第1回Nara観光コンシェルジュ アワード」が紹介されている。
「奈良を訪れる観光客に対して、ガイドの高度な技量とおもてなしの精神を表現することのできる「Nara観光コンシェルジュ」(英語ガイドの部・日本語ガイドの部)を選出・認定いたします」。

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三次にわたる審査方法も公表されていて、1次選考は記述式(A4 2枚)応募用紙の書類審査、2次試験が内部的な面談とプレゼンテーション(日本語ガイド)、3次試験は公開のプレゼンテーションである。

これはおもしろそうである。
お客さんに喜んでもらえればガイドはそれでよしである。
でも、これだけ奈良のガイドの経験を積んできたんだもの、「おもてなしなら、もっと輝ける」の心意気で、「これは一緒に盛り上げようと思わんでどうする?」とも、考えるのである。

僕のブログって、もともとは「奈良まほろばソムリエの試験」のための受験ブログだったのである。
奈良まほろばソムリエ試験、僕は第2回から受験して二級は一度で合格、しかし、一級で跳ね返された。
しらみつぶしに奈良の史跡と神社仏閣を回ったのは、それからである。
その勉強を書き起こして、ブログにアップしながら整理もし、知識も深めて、その後は順調に一級・ソムリエと合格したのである。

「第一回Nara観光コンシェルジュ」、僕は挑戦することにした。
まほろばソムリエ試験に取り組んだのと同じ思いで、今度は観光コンシェルジュへの挑戦をブログで紹介しようと考えている。
「主催者のリリースはあるよ、受験者のリリースもあれば盛り上げの手助け」という感じで、紹介してゆきたい。

まずは書類選考である。それから面接と予選プレゼンテーションがあり、公開プレゼンテーションとなる。
応募締切から、100日目が最後の舞台である。
書類選考で落ちたら、あるいは予選を通らなかったら、「また来年・・ということだろうか」であるが、それはそれとしてこれから100日間の奮闘・努力を読んでいただく予定である。

書類選考の応募用紙は記述式で、「①応募の動機、②自己アピールポイント、③奈良の観光の魅力、④認定ガイドとして奈良をどう盛り上げていくか」が問われた。
これを、1000字くらいで日ごろの思いをこめて、まとめてあげてすでに投函を済ませた。
観光コンシェルジュになれるかはこれからだが、第一号の応募者にはなれた(笑)感じである。
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by koza5555 | 2015-09-09 06:19 | 奈良 | Comments(0)

神都物語  伊勢神宮

「神都物語・伊勢神宮の近現代史」、著者がジョン・ブリーン(ケンブリッジ大学の博士)といい、日本の近現代史の研究家である。吉川弘文館から2015年7月1日に刊行された。

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伊勢神宮 内宮

「伊勢神宮を考えてみた」と言いたいが、桜井市図書館の新刊コーナーで「見かけただけ」が始まりである。

「近世には庶民の聖地だった神宮が、近代になって国家権力と密着する聖地に生まれ変わった。そのため、歴史的な連続性もちろんあるが、際立つのはむしろ非連続性と断絶である。」
これは、僕がいつも考えているテーマであり、とてもおもしろそうである。

式年遷宮を一貫のテーマとしている。
明治維新を経ての大転換がある。
「伊勢神宮が7世紀に創立されてから19世紀にいたるまで、天皇は一度も伊勢を参拝したことがなかった。・・・明治天皇が1869年に実施した、天皇による史上初めての伊勢参拝は、意義深いと言わざるを得ない。これを契機に、天皇と神宮との関係が質的に変わる。」
天皇が式年遷宮に関わるのは明治に入ってからのことである。

1904年明治37年の式年遷宮では、時の内務大臣 吉川顕正が「木材の入手が困難、文明開化の時代だからコンクリート造りで行きたい」とするが、明治天皇は「祖宗建国の姿で」と跳ね返し、「祖」(天照)「宗」(神武)によって建てられた時の姿が良いとした。

明治天皇のイニシアチブで、この時からご神体の遷しがなくなった。
天照大神のご神体は黄金の御樋代(みひしろ)に収められている。それまでは遷宮の度に作り替えられ、その都度遷されていたが、「畏れ多い」ということで、御樋代が開かれない、造り変えられないこととなったのはこの時からである。

1929年の遷御からは、国民行事となり、大規模な陸海軍の警備と参拝、参加が行われた。「国体の根本義の意識を強めるための遷宮」(浜口総理)と位置づけられ、遷御は国民の休日とされた。
江戸時代とは異なり、国家による崇敬の強制という時代である。


敗戦が大きな転機となる。
戦後、「神宮の本来の意義は、民衆の信仰の対象というよりは、むしろ皇室の大廟である」という論が出て、伊勢神宮を宮内庁の下に置くことが考えられた。
これに対し、総司令部は「伊勢神宮を廟と考えるならば、一般国民の参拝は禁止する。その場合、伊勢神宮は皇室費のみで運営しなければならない」という見解を示した。
これを前にして神社界、神宮は急きょ見解を変えて、「廟ではなく、国民も参拝できる神社」を選択して、今の伊勢神宮が始まったとされる。

国家による崇敬の強制から、自発的な国民の意思による参拝という形である。


神宮には三つの転換点がある。

一つは明治維新である。
江戸時代の天皇は神宮を参拝しなかったが、明治天皇が参拝したこと。
御師に案内され、現世利益と娯楽、さまざまな奇跡を求めて外宮に参拝、この仕掛けがなくなり参拝者は激減するが、伊勢神宮は国の力が加わり、崇敬されていく時代である。

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江戸時代の庶民の参拝は外宮である


次に1945年の敗戦がある。神功は一般の宗教法人となり、国家との特権的な結びつきがなくなった。神宮は国民との自由な関係をつくる条件が整い、遷宮のたびに250万、350万、550万人と参列者が増えていった。


筆者は2013年の遷宮を三つ目の節目と位置付ける。
安部総理が参拝したことがその一つ。それだけでなく、900万人も内宮を参拝したことも重視する。
国家の力と国民の意思がそろうという認識である。ここらあたりの評価は分かれるだろうが、最後に伊勢神宮が自然との共生につとめていることを筆者は重視する。

式年遷宮に使う用材は木曽川のヒノキが使われてきた。もともとは神宮の宮域内(伊勢)でまかなわれたが、鎌倉時代に使い切り、のちは木曽に頼ってきたのである。

今回はわずかであるが、宮域林から調達されたとのことで、しかも将来的にはすべてのヒノキを古代のように宮域林で調達する体制ができているとのことである。

これは100年や200年の努力で出来ることではない。伊勢神宮、やるなあという感じを僕も共感である。
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by koza5555 | 2015-09-08 09:19 | 読書 | Comments(0)

白鳳 奈良国立美術館

「白鳳 花ひらく仏教美術」、奈良国立美術館で9月23日までの会期である。
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8月から9月にかけてバタバタで、やっと拝見させていただいた。

白鳳時代 限定で仏教美術を集めたという展覧会である。
白鳳時代というくくりは、美術史上でのくくりである。
白鳳時代、645年の「大化の改新」から710年の平城京遷都までであるから、政治史でみれば飛鳥時代後期、藤原京の時代ということになる。

この時代に仏教文化の花が開く。
仏教公伝は538年(『上宮聖徳法王帝説』や『元興寺伽藍縁起并流記資財帳』)とも、552年(日本書紀)ともされるが、それから100年、仏教の浸透、国力の充実を経て仏教美術は全開という設定である。

「花開く仏教美術」の言葉にふさわしい展示がなされていた。

展示は大津京から始まり、次が山田寺、金銅仏、薬師寺、法隆寺、押出仏・塼仏という順である。

薬師寺がすごい。入館して初めの展示の近江の寺々や山田寺などの展示品に目を見張ったが、薬師寺の協力ぶり、参加ぶりには力が入っていると感じた。

薬師寺のコーナーは東院堂の本尊、聖観世音菩薩が迎えてくれる。
修理中の東塔の水煙と相輪が展示されている。
四枚の水煙、一つの型から作られたことを初めて知った。
「すゐえんの あまつをとめが ころもでの ひまにも すめる あきのそらかな」(会津八一)、この水煙が目前である。

これだけでも、訪れる値打ちがある。

薬師寺、最後は薬師如来の脇侍「月光菩薩」(がっこうぼさつ)である。
前後左右から、しっかりした照明で拝見することが出来る。後ろに回った皆さんは月光菩薩に合わせて、次々と腰をひねって楽しんでいる。


振り返るが、展示仏像の一番は東京国立博物館所蔵の十一面観音菩薩立像(重文)である。これは多武峰に伝来し廃仏毀釈時に流出したものとのことである。由来は鎌足の長男、定慧が唐からの帰国の際(665年)に、請来したもの、こんな想定である。
ビャクダンの一材から掘り出し(両手両足は別材・両手両足枘まで)、化仏や右毛首に数珠と瓔珞をかける姿は「十一面観世音神呪経(しんじゅきょう)」や「十一面神呪経」に共通に示されるものであり、経典に基づき中国で作像されたとみられている。


那智勝浦の那智山経塚(なちさんきょうづか)で発掘された(大正11年)金銅の十一面観音を拝見できたことは思わぬ収穫である。
着衣の装飾などから白鳳時代をさかのぼる作品で我が国、最古の十一面観音といわれる。頭上面の相貌が同じ(法華面も狗牙上出面とかの差がない)ということから、「十一面観世音神呪経」に寄らない像とされた。


伊賀上野の見徳寺の薬師如来坐像も出陳されている。おもながで愛らしい表情の少年。相変わらず、「僕は何をしてるんだろう?」と、とぼけた顔ですましておられた。
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長谷寺の銅版法華説相図は必見である。
あれだけの良い条件では、仏像館でも長谷寺にお帰りの時でも、拝見できない。
鋳造浮き彫り、押し出し仏の貼り合わせ、線刻などの技法がしっかり拝見できる。

宝塔を守る狛犬を大きくせり出している。諸仏、諸像のなかでも、一番前にせり出ていて、宝塔を守る狛犬の役割をしっかり果たす、姿となっている。
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奈良を考える人、仏教・仏像に関心のある方、ましてや奈良をガイドしようとする人、白鳳展は必見である。
お薦めしたいし、僕も感動した。


展示会パンフレット{白鳳 花ひらく仏教美術」を参考にした。奈良がらみなら、このパンフは使い道が広い。お買い求めください。



                                                      
by koza5555 | 2015-09-07 06:41 | 奈良 | Comments(0)