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奈良・桜井の歴史と社会

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第67回 正倉院展

正倉院展、遅ればせながら拝観してきました。

木画に感動しました。
紫檀木画槽琵琶(したんもくがそうのびわ)、すばらしい琵琶を拝見してきた。
槽(背面)がシタンの一枚板で、木画が描かれている。
紫檀の板にクワ、黒柿、竹などの色調の異なる素材を寄せ木細工風に組み合わせてあらわされており、1400年を経てもすばらしい色調である。
表の撥面の山水画は色あせているのです。
木材質の色そのままで、あせない。これに感動しました。

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今回はこれがメインで、チケットもこれ、図録もこれという具合で・・

冗談ですが、我が家にも木画あります(笑)。
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10年も前に京都の百万遍さんの手づくり市.で買ったものです。学生が作ったものと聞きました。
同じ寄せ木細工、同じ木画である。
最近は見ることもなかったけど、これからは出かけるとき木にとまる鳥、三日月・・みることにしよう。

今回の正倉院展、このシタンの木画槽琵琶に限らず笛など天平の楽器が数多く出展されていました。。

話題となっている東南院古文書(東大寺荘園の地図)はじっくり拝見。
摂津国嶋上郡(島本町あたり)の地図で、日本の最古級の地図という。現地には「東大寺水無瀬荘園跡碑」が建てられているという。

「島上郡司(しまかみぐんじ)及び摂津職(せっつしき)官人の署名がある」と報道されていた。
なにげに見ると従三位行夫太夫 文室真人 智努  とある。

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ああ、この方…という感じである。
調べてみると天平19年に従三位、754(天平勝宝6)年には摂津大夫とある。

聖林寺十一面観音像は760年頃に東大寺の造仏所で作られたとされ、願主は文室真人智努(ふんやのまひとちぬ)ではないかといつも語ってきた人である。
智努は当時の仏教界の退廃を嘆いて警鐘を鳴らしたことを続日本紀に記されているが、「ふざけた僧侶をやめさせよ、悔過作法を真面目につとめさせよ」と天皇に奏上した人でもあるのである。
智努さん、こんな仕事もされていたんですね・・という感じである。

今回も楽しく充実した正倉院展だった。
会期は11月9日(月)までで、まだ時間はたっぷり。ぜひおいでください。
朝は混み合いますが、午後行けば、いつでも何とかなります。
by koza5555 | 2015-10-29 22:14 | 奈良 | Comments(0)

日本列島人の歴史

「日本列島人の歴史」 斉藤成也著  「岩波ジュニア新書」である。

日本と日本人の成り立ちをDNAや言語学で研究してみようという本である。
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①初めに日本の歴史区分は

ヤポネシア時代、
ハカタ時代
ヤマト時代
平安京時代
江戸・東京時代

どうでしょうか。納得いきますか。

②続いて日本人はどこからきたのか、これが論じられる。
「二重構造説」というのも勉強させていただいた。

旧石器時代、日本列島には南(東南アジア)から渡来してきた。これを縄文人という。
ハカタ時代に入ると北東アジアから大挙、しかも繰り返しの流入が発生する。
北部九州、日本海沿岸、近畿地方などに入ってきた新来者は先住民である縄文人と混血を繰り返してヤマト人が誕生したとされる。
この混血から外れたのがアイヌ人とオキナワ人で、その証拠にアイヌ人とオキナワ人はDNAでつながりがあるというのである。
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DNAで見るとこんな図になるそうである

始めの渡来は縄文人。
続いて弥生系新渡来人、それが縄文人と混血したというわけである。
これをさして「二重構造説」というとのことである。


③最近の研究によれば、日本列島におけるコメの栽培は紀元前1000年位までさかのぼるとのことである。
もともとは紀元前500年位からと言われていた「弥生時代」の始めが500年遡ることにもなるのである。
稲作が200年位のうちに九州から東北まで、驚異的なスピードで伝えられていったとの従来の見解は見直されるだろうとのことである。

纒向遺跡や巨大古墳が密集する三輪山周辺に西暦二世紀頃に国の中心が移ったことも間違いないとされ、ハカタ時代は3000年前から1800年前まで問うことである。1200年なれば60世代ほどを重ねるわけで、十分な成熟期間と言えるとのことである。

1200年続いたハカタ時代、縄文人との混血がすすみ、関東までを含む生産力の向上もあり、政権は2~3世紀に国の中心を求めて東に移動、進出したとみるべきで、神武東征もその古い言い伝えが生き続けた名残とされるのである。


これからはハカタ時代1200年、ヤマト時代は500年と記憶して、この言葉も使いこなせるようにしたいものである。
by koza5555 | 2015-10-28 21:03 | 邪馬台国(やまとこく) | Comments(0)

壊れた仏像の声を聴く(角川選書)   薮内佐斗司

伝世古(でんせいこ)、地中古(ちちゅうこ)、この言葉を初めて知った。

薮内佐斗司の「壊れた仏像の声を聴」く(角川選書)を読んだ。
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ギリシャを旅行した時、歴史と遺跡の素晴らしさに感動したのであるが、むなしさも合わせて残った。
それはどの遺跡を巡ってもそれは復元であり、守り続けた人がいるわけでもないことだった。
「奈良はここが違うぞ」、そう思った。
そんなレポートを最近、書く機会があり、「奈良には古代から伝わる多くの神社・仏閣が残されています。そして、それらは文化財として残されているだけではなく、それを守る人がいて、祭祀・行事が営々と続けられてきていることに注目しています。」などと力を込めて述べてみたのである。

これは僕の発見かと思っていたら、この本のはじめにそんなことが書かれていて…これはがっかりと言うより嬉しかった。

伝世古(でんせいこ)、人の手から手へ守り続けられた古いもの。
土中古(どちゅうこ)、一度は否定され、土の中や海の底から見つけ出され、再評価された古いもの。

「日本は1500年間、伝世してきた古いものの宝庫。それは仏像であり、神社の宝物である」とある。

そして、僕らも「伝世古」のリレーの輪の中に入っているとも感じた。

東アジアではどこでも古いものが残されているかのようであるが、そんなに単純ではない。

たとえばお隣の韓国では李氏朝鮮時代に、儒教化政策のもとで廃仏が押し進められ、一万カ所の寺院が36カ寺にまでになってしまったという歴史がある。
中国でいえば、「三武一宗の法難」といい、歴代の四人の皇帝により、仏教文化が徹底して破却されてしまったという事実もあるのである。

幾多の戦乱を乗り越え、廃仏毀釈の嵐も潜り抜けた日本の仏教文化財、良かったなと言う感じである。日本は1500年間の仏教文化の宝庫となっている。
薮内先生はその事への感謝を言われる。


日本の仏像のルーツである。
一つは黄河周辺の「土と石の文化」を反映したものである。
あと一つは揚子江周辺の「木の文化」を反映したもので、それぞれ仏像の服装などに痕跡があるとされる。

今日は揚子江周辺のことだけ紹介するけど、こちらでは木像や乾漆像が盛んに造られていたという。
揚子江の周辺から渡来した呉の工人がその技術を伝えたという。鑑真が伴った工人もそのグループである。

たとえば「包骨真身像」(ほうこつしんしんぞう)、これは遺体を漆を塗り、麻布で包むと長期間のうちに遺体が亡くなり、漆の「張子」だけが残るという。これが脱乾漆像の元との説があるとのことである。

木像についてだが、呉の工人(その流れ)ははじめはカヤノキの大径木を使い、それが枯渇すると寄せ木、檜の寄せ木と言うように変化していったと紹介されていた。


鎌倉初頭の建築様式である大仏様(だいぶつよう)の紹介も独特である。
「柱や肘木の間を貫通する長い貫材を水平に多数通すことで、建造物内部の大きな空間を外側の構造で支えます。」「南大門を下から見上げると、まるで船底を見るような錯覚を覚えます。陳和卿と彼が率いた工人たちが木造船の建造技術を持っていたことが窺えます。」(p30)

陳和卿は船大工とのことである。
南大門の金剛力士像は8メートルを越える巨像ですが、わずか69日で完成されたことが知られている。この驚異的な作業スピードは巨大な木造船を短期間で修理していた陳和卿らの木造造船技術を導入・応用したからではないか・・とされる。

船を陸上で船をひっくり返したら、難題門、こういうことである。
大仏様(だいぶつよう)がもう少し理解できたのではと思える。

仏像を調査するときの心得が紹介されている。「仏像を拝観するときの最低限のマナーとして、みなさんもぜひ」とのお薦めである。

「信仰の有無にかかわらず、仏像に対して合掌、礼拝などの礼法を遵守すること」とか「靴を脱ぐときはそろえよ」などと紹介している。

この本を読みながら、せんと君、あらためて見直してみた。
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3年前の5月、アニマルパークで撮った。孫も大きくなった

by koza5555 | 2015-10-20 09:14 | 読書 | Comments(0)

藤原宮と(国と橿原市の)藤原宮跡資料室

木下正史先生の「藤原京」(中公新書2003年刊行)に沿って、藤原宮跡をウォークしてきた

「およそ1300年前の持統天皇8年(694年)12月、都は飛鳥の力、祖の西北方に広がる藤原の地へと遷る。」(p5)

木下先生は藤原宮は人気がないとされている。「飛鳥の地を訪れる年間100万人ほどの見学者のうち、すぐ近くにある藤原宮跡まで、足を延ばす人はたかだか数パーセントではなかったか」(p5)。

「一般には、むしろ万葉歌や白鳳仏などの方がなじみが深いかもしれない。『春過ぎて夏来たるらし 白栲の 衣乾したり 天の香具山』(巻1-28)は、持統天皇が藤原宮から指呼の間にある香久山を詠ったものとしてよく知られているし、柿本人麻呂をはじめとする宮廷歌人たちの歌調は万葉歌4500余首のなかでもひときわ光彩を放っている。(p6)

こんな藤原宮を案内してきた。
「人気がない?」、まあ、やはりツアーはこちらには連れて行きにくい。
それで菜の花だったり、コスモスだったりか・・・ とも思って。

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17日(土)は「大和路を行く」で藤原宮跡を訪れた。

八木駅から奈良文化財研究所の藤原宮跡資料室までは、コミュニティバスで。

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資料室見学、のちに藤原宮跡へ

その後に橿原市の藤原旧跡資料室に。思いのほかだが、参加者にはここが好評だった。

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おふさ観音は17日は「秋大祭」の護摩炊き

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さなぶり餅。田植えを終えて、お世話になった人、手伝ってくれた人と共に食べたという小麦餅。みなさんに紹介してすすめたら・・いっぱい買ってくれて、売り切れ


藤原の地に藤原京が作られた。
藤原の地とは香久山の西北、宮の東方にあたり、広大な藤原京から見ればごく一部であり、この宮を書紀は藤原京ではなく「新益京」と記した。

万葉集などには藤原京と詠われた歌もあるのである。
「藤原の 大宮仕え 生(あ)れつくや 娘子(おとめ)がともは ともしきろか」(巻1-53)

日本における宮城の画期をなした藤原京は、16年間という短期間でその使命を終えた。
「飛鳥(とぶとり)の 明日香の里を 置きていなば 君があたりは 見えずかもあらむ」(巻1-78)と元明天皇が詠い、都は奈良に移された。

藤原京はその役割を終えた後、建物、柱や板は平城京に移築されることになった
大垣の軸となる7メートル余りの大きな柱があったが、その1200本、すべてがヒキ抜かれて移築したほどの徹底さだった。

「藤原」「藤井ケ原」は天の香久山の西麓である。
藤原京の時代に先立って、舒明天皇がこの地で国ほめの歌を歌っている。
万葉集の2番の歌で、「山の中でもとりわけすばらしい香具山に登って国ほめをする」という歌である。

万葉集は舒明天皇(629年から)から天平の時代(759年)までに詠われた歌が収録されているとの見方が共通で、この歌こそ実際に歌われた幕開けの歌、と紹介する。

大和朝廷にとって、「藤原」は舒明天皇も歌い上げた特別の地でもあった。
「藤井ケ原」は藤原京に、そして16年間の日本の首都の役割を終えた後、また藤井が原に戻っていく。この地を讃えた、舒明天皇の万葉歌が藤原京を考える大きなポイントと紹介して「藤原宮とコスモス」のツアーを締めくくった。
by koza5555 | 2015-10-18 12:11 | 橿原・明日香・吉野 | Comments(0)

藤原宮跡のコスモス

10月は藤原宮跡とコスモスにこだわった。

毎月、催行するウォークが3回あるが、10月は三本とも藤原宮跡とコスモスである。
17日(土)はNHKカル、チャーの「大和路」
21日(水)は大人の学校の「歴史ウォーク」(食事付(月の舟の季節の弁当)で2500円)
23日(金)はNHKカルチャーの「奈良おいしい歴史散歩」である。

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藤原宮跡、14日のコスモスである。耳成山、大極殿趾とコスモス

月の舟で食事をしたり、弁当持参だったり・・あれこれ工夫をしながらだが、目当ては藤原宮跡、奈文研の資料室とコスモスである。

資料室に力を入れる。
奈良文化財研究所の調査・研究の成果が公開されている。香具山の西の麓にあり・・・入館が無料である。

瓦が藤原京を考える入り口である。瓦は古代の建物を研究する最高の資材である。
① 残りやすいこと。
② 瓦は変化するので時代の推定・特定の力になる。
丸瓦、平瓦ともに軒瓦は文様を彫り込んだ木彫りの笵(はん)で模様がつけられている。この笵が経年で擦り減っていく。そして作り直される。これにより時代が分るのである。

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奈文研の藤原宮跡資料館は、古代の瓦の詳細な編年を展示している

今回は二つの角度から瓦を語ってみよう。
① 瓦で葺かれたはじめの宮は藤原宮。これは膨大な瓦が必要となった。大極殿や朝堂、門などに礎石立ちの瓦葺きが採用され、150万枚以上の瓦が必要とされた。
古代の巨大寺院でも瓦は10万枚程度と推定される。たとえば法隆寺の金堂は2万枚で推し量ることができる。

150万枚の藤原宮の瓦、この産地を調べると初期は和泉、淡路、讃岐、阿波、近江などで生産・調達された。古墳時代の須恵器の生産地が動員されたということである。
後期に入ると効率的な供給を求めて産地は奈良盆地に移り、藤原京内の日高山をはじめ、巨勢、斑鳩、久米寺などを産地とした。

150万枚の瓦、どんなだっただろうか。この瓦の生産、供給にあたり古代の産業や交通網がどんなに大きな変化を遂げたことだろう。


②瓦の制作の技術、文化や文様のに歴史にも目を向けてみたい。
「花組」・「星組」を考えて見た。
飛鳥寺の軒丸瓦の頭(瓦当部)の文様には、「花組」・「星組」の二つの蓮華紋が知られている。

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上が「花組」、下が「星組」

花びらの先端に差がある。花組は弁端に切り込みを入れ、星組は珠点を置いている。

花・星の違いは瓦当部のことだけかと思っていたら、瓦の葺き方にも違いがあるという。

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上が花組、下が星組。〇印に注目。花組の丸瓦は無段式、星組は二段となっている。

これだと花組の丸瓦は階段状に見え、星組は滑らかな姿に葺くことが出来る。
言い換えれば花組は行基葺き、星組だと本瓦葺きということである。

飛鳥寺にはどちらも使われたとされ、またこれはどちらも百済の技術であり、百済からは瓦博士は二つの技術集団が渡来したと言われる。

さらにこれが発展して花組・星組の折衷案のような「高句麗式」というのもある。これがこれで、またまた面白いが、このおもしろさはウォーク当日の楽しみにとっておきます。


そんな具合で10月のウォーク楽しみである。
土曜日は快晴、来週の天候が心配だが、食事場所は確保できており、雨中で傘の下で食事ということにはならない。
一般の参加募集は21日(水)、大和八木駅改札口前に午前10時30分、お弁当は持たずにおいでください。
食事の関係がありますから、前日までのご連絡、お願いします。


参考文献  「藤原京」中公新書(木下正史著)  「飛鳥の初期の瓦と年代」明日香風134号 清野孝之
 
by koza5555 | 2015-10-14 15:45 | 橿原・明日香・吉野 | Comments(0)

浄瑠璃寺の吉祥天は女性神

「仏像の顔  形と表情をよむ」清水眞澄著。岩波新書の1445で、2013年が新刊である。

「飛鳥時代の仏像は、法隆寺金堂の本尊銅像釈迦三尊像、夢殿の救世観音像などにみられるように・・・口元に微笑を浮かべ、両眼を見開いている。厳めしいとか厳粛なというよりも、幾分柔和で神秘的なイメージが感じられる。」

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飛鳥大仏。こちらは写真撮影可である

もともと、日本で始めて仏の顔を述べたのは、日本書紀に記された欽明天皇であるが、そこには「西蕃(にしのとなりのくに)の献(たてまつ)れる仏の相貌(かお)瑞厳(きらきら)し」とあり、仏像は厳かな顔というニュアンスで紹介されている。ところが法隆寺の救世観音などは口元に微笑を浮かべ、両眼を見開き、厳めしいというよりは柔和で神秘的なイメージが指摘されている。
「日本人の仏像に対する感性が、基本的にインドや中国とは異なる」、こんなお話から、この本は始まる(p39)。

そこで、僕が勝手にいくつかを取り上げて、清水先生のいう仏像の表情、これを紹介してみる。

まずはあどけない顔。
童顔で山田寺の型(興福寺の仏頭)である(p69)。
丸顔であること、目と耳の位置が大人と比べて下の方にあり
目と目が離れていて、眉と眼が離れていること、
鼻柱が低いことなどが一般的である。
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仏頭に照らして考えてみると。白鳳展のパンフレットから

豊かな頬、高い鼻、切れ長の目が印象的で、さらに長く弧を描いた眉と一重の上瞼の線が美しい。

仏像、一重まぶた、二重まぶたも問題である。
日本の仏像は一重まぶたがほとんど、これが特徴らしい。
法隆寺の大宝蔵院の月光菩薩は二重まぶたであり、また大阪・野中寺の弥勒像、正歴寺の銅像如来、法輪寺の薬師如来などがあるが、これは唐から輸入された九面観音(法隆寺)をモデルにしたとみられる。
ところがこの傾向は一時期で、仏像は一重まぶたに統一されていく。
日本人のほとんどが一重まぶたということで、仏像もほとんどが一重まぶたになってしまったとのことである。


吉祥天は女性か?女性の特徴を示した仏像はほかにもあるのか。こんな疑問もすっかり解決していただいた(p108)。
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浄瑠璃寺、吉祥天。木津川市の観光パンフより

仏・菩薩は基本的に男女の性別を超越した存在とされて観音菩薩像が女性をイメージしたということではない。このことはよく言われる。
ところが仏法を守護することを主な目的とする「天」の像、吉祥天、弁財天、伎芸天などであるが、明らかな女性神も含まれているのである。

女性神の代表とも目される吉祥天は、幸運を司さどるインドのラクシュミーと言う女性神が仏教に取り入れられたという起源がある。「大吉祥天念誦法」では「身白色、十五歳の少女のごとし」とされ、たとえば浄瑠璃寺の吉祥天(鎌倉時代)はもっとも女性神らしい特徴の像と紹介されている。

華やかな服装が女性らしいが、のびやかに弧を描く眉と切れ長の眼、小ぶりの唇が気品をたたええているとの眼と口が物をいう。

国と仏像の関係もおもしろい。言い換えれば、仏像の作られる目的・・・みたいな。・
薬師寺の薬師三尊は天平の口開け(p80)と言う紹介である。
白鳳時代から天平時代、都が飛鳥や藤原から平城に遷ると仏像は異なった雰囲気となる。
「国家」の存在が仏像に現れる。それは大仏であり、薬師寺の薬師三尊に示されているとされている。
緩やかに弧を描く眉、眼窩の一部にタガネで刻線を入れて、目元がクッキリ見せる工夫をしていることなどから、国の意思が感じられるというのが、清水真澄論である。

奈良の国立博物館の白鳳展では、薬師三尊は白鳳仏との扱いだが、清水先生は像の性格から見て天平の口開けの像、白鳳の終焉の像とされる。


「二重まぶたの仏像を訪ねる旅」とか「女性神、仏像にその姿をみる」とか、ツアーもあれこれ工夫するととても面白そうである。仏像は限りなく奥が深い。
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by koza5555 | 2015-10-12 05:44 | 読書 | Comments(0)

十津川

9月の末に十津川にドライブ。同行は中国のサルルちゃんとその友達。

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谷瀬の吊橋

サルルは二年ほど前から室生寺や長谷寺、さらに宇太水分神社などを案内してきた国際的(?)な友人。にサルルは日本語は達者なんである。

6月頃に「9月の末、十津川に行けますか?」とメールが入った。
僕の日程上の安全パイは月曜日、「9月28日なら」と約束ができあがった。民生委員の研修旅行と重なりかけたりその後のも紆余曲折はあったが、何とか折り合いが付いて十津川行きが実現した。

行程は
桜井駅に午前7時集合。天辻に9時、谷瀬の吊り橋に10時。谷瀬は40分くらいみて、十津川の道の駅で昼食、果無で小辺路を見て、歩いて、最後は玉置神社の拝観とした。
帰りはずっと北上、下市経由で橿原神宮前駅にて午後7時に解散という計画である。
車は僕が用意した。

十津川村は紀伊半島の中央にあり、山岳の重なり合う都会とは隔離された山村。平安時代(1172年)には、遠津川(とつがわ)と書かれたという。 今も昔も十津川は遠かった。

村を流れる十津川はV字形の谷をなして南に流れて太平洋にそそぐ。
十津川(玉置神社)には「枕状溶岩(まくらじょうようがん)」がある。深い海の底から噴き出した玄武岩質マグマが固まったできたもので、今の紀伊半島は南から押し上げられ、隆起してできあがったことが示されている。

「大和十津川ご赦免(しゃめん)どころ 年貢要らずのつくり取り」と江戸時代の民謡に詠われたように、税金がないことが有名だが、コメができるほどの水田(平地)がなかったというのが実態でもある。そして村では今も米の自給ができない。

谷瀬の吊り橋、長さが300m、高さが54mあり、歩行者用の吊り橋としては日本一の長さである。1954年に800万円かけて架橋した。谷瀬の村人が一軒あたり30万円を出しあってされる。
八木から出る奈良交通の特急バスもこちらは20分のトイレ休憩があり、吊橋の入り口までは散策できる。

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谷瀬の吊り橋。時間をゆっくりとった

果無の集落まで行ってきた。小辺路を見て、歩いてみたかった。
「大峯奥駈道」と「小辺路」(こへち)は「紀伊山地の霊場と参詣道」として、世界文化遺産(ユネスコ)に登録(2004年7月)されている。
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世界遺産の巡礼路は二カ所だけで、
一つはピレネー山脈を越えてフランスからスペインへの「サンティアゴ巡礼道」。
一つは「紀伊山地の霊場と参詣道」となっている。

玉置神社(たまきじんじゃ)は、玉置山の山頂直下に位置し、大峯奥駈道の中継ポイント(なびきという)の一つである。

玉置神社の社務所は江戸時代末期、神仏混淆であった玉置神社の別当寺であった高牟婁院の主殿及び庫裏として建立されたもので、神仏分離後は社務所・台所および参籠所として使用されている。

この社務所内部が杉一枚板の板戸及び板壁60枚余で仕切られ、この全ての襖に幕末の狩野派の絵師である法橋橘保春らの筆による、松・牡丹・孔雀・鸚鵡・鶴などを題材とした花鳥図が描かれている。

社務所内は前回までは撮影ができたが、今回からは撮影禁止となっていた。
拝観は解説つきで、おもしろいお話も聞いたが、聞き質さなければならないほどの話もあり驚いた。

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大杉の巨樹群は奈良県の天然記念物。温暖多雨の気候と土壌に恵まれ、樹齢3000年と言われる神代(じんだい)杉や、常立(とこたち)杉、磐余(いわれ)杉などの杉の巨樹林が残されている。
社務所上の常立杉が激しく傷んでいた。今年の夏の風とのことである。

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最後はホッコリ十津川温泉の足湯
42度はありそうというアツアツで、疲れがとれる。

中國からの観光客十津川に突入で、皆さんも冬が来る前に、ぜひぜひお出かけくださいと・・おすすめしたい。
by koza5555 | 2015-10-11 05:56 | 橿原・明日香・吉野 | Comments(0)

特殊神饌、百味の御食

談山神社の嘉吉祭。神饌は百味の御食(ひゃくみのおんじき)。

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和稲(にぎしね)。今年は陶原さんが仕上げられた。

百味の御食は多武峰の13軒ほどの氏子が一週間ほどかけて作り上げる。
なかでも和稲・荒稲が難関である。和稲は一周42粒、それを70段の米粒を餅で作られた心棒に張りつけて作られている。

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これは上杉代表役員の作

荒稲は脱穀前の穂で作られる。これは染めずに黒米・赤米を使用する。
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阿部新町の区長を仰せつかっている。
氏神のことである。本村の阿部区と共に阿部八幡神社を氏神として祀らせていただいているが、同時に談山神社の氏子でもあるのである。

そんなことから来週はそれぞれの神社のお祭りである。
談山神社は10月11日(月)に嘉吉祭。
阿部区・阿部新町区は10月15日が秋祭である。

談山神社の嘉吉祭である。奈良検定の公式テキストによると談山神社の行事の始めに「十月には嘉吉祭という特殊神事が斎行される」と紹介されている。

永享10年(1438年)10月「大和永享の乱」で全山焼失した時、ご祭神・鎌足公御神像は難をう逃れ、橘寺に移された。3年後の嘉吉元年、修復なった多武峰に御神像が帰座され、この時に郷中の人たちがお祝いしたことがお祭りの起源。
寛政6年(1465年)「永世不易の祭事」とされ、今日まで600年間、絶えることなく行われてきた。氏子が手間ひまかけて、精巧に作り上げた「百味の御食」を神前に手渡しで供える御供行列がこの祭りの見ものである。(談山神社発行の「談」から)

穀類、果実、野菜などを独特な盛り付けで美しく飾られる「百味の御食」は、奈良県指定の無形文化財に指定されている。

御供の調整、この最終日が昨晩(祭の前々日に完成させる。祭の前日は宵宮となる)の9日の夜、社務所二階で行われた。

ちょっと最近元気が出ない、僕は気持的にスランプだった。日程が混み合いすぎて疲れが出てしまった。それで「元気を頂こう」と、百味の御食、調整を拝見しようと昨晩は神社に登ってみた。

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数々の御食

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大豆、宮司作である

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これはすごい。どんぐりである

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彩色作業中のお供えの餅

こんな行事を守り続ける神社と村、奈良の魅力発信の意義・やりがいをあらためて感じるのである。

談山神社、嘉吉祭、本祭は10月11日(日)午前10時からである。多武峰の紅葉まつり、始まりの日でもある。
by koza5555 | 2015-10-10 06:24 | 桜井・多武峰 | Comments(0)

「コスモス咲き乱れる藤原宮跡」のウォーク

「大和路の旬、雑賀さんの歴史散歩」(健やか交流塾・大人の学校)のお誘いです。

大人の学校(溝口博巳さん担当)が企画する10月と12月のウォーク(食事付)の募集を行います。この講座に限り、一般の方の申し込みも受け付けることにいたしました。

10月21日(水)は「コスモス咲き乱れる藤原宮跡」、12月9日(水)は「そうめんの手延べ体験と大神神社」をテーマに歩くことにしました。
今回の秋の2コースは「大和路の旬」をテーマに、10月の「コスモス」、12月の「そうめん」という景観と食で大和路を究めるコースです。

10月「コスモス咲き乱れる藤原宮跡」
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お房観音、藤原宮跡、藤原宮資料室を案内いたします。
藤原宮跡のコスモスは300万本、近畿では屈指のコスモスで、この地に立ち、コスモス、大和三山の景観が楽しみつつ古の大和朝廷を考えます。お房観音のバラも見ごろを迎えるころです。
食事は人気の「月の舟」の季節のお弁当を頂きます。

■日時  10月21日(水) 午前10時30分 近鉄大和八木駅 南口集合
■行程  大和八木駅→お房観音→月の舟(食事)→藤原宮跡→藤原宮資料館→大和八木
 駅(歩く距離6㎞)
■費用  2500円(食事代1700円 資料・事務費用800円)
他にバス料金が100円必要です
■申し込み締め切りは 10月18日(日)
■申し込み先  メール kozaburo@cg8.so-net.ne.jp
    携帯  090-5069-8382



12月9日(水)の「大神神社とそうめん手延べ」コースはて詳細を改めてアップいたします。
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by koza5555 | 2015-10-05 07:09 | 橿原・明日香・吉野 | Comments(0)