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奈良・桜井の歴史と社会

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箸墓 大市墓

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1月19日の箸墓古墳である

箸墓。3世紀から7世紀にかけて膨大な古墳が築造されている。
280メートルの長さを持つ箸墓古墳は、その後の多くの前方後円墳(大和東南部で言えば、大和型や柄鏡型)に大きな影響を与えた。

崇神天皇の時代である。日本書紀には
「それで大市(おおち)に葬った。ときの人はその墓を名づけて箸墓という。その墓は昼は人が造り、夜は神が造った。大坂山の石を運んで造った。山から墓に至るまで、人民が連なって手渡しにして運んだ。ときの人は歌っていった。
大坂に ツギノボレル 石群(いわむら)を 手ごしにこせば こしがてむかも」(宇治谷 日本書紀p129)
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邪馬台国、卑弥呼の冢を「大市」につくった、確かにここは纒向川の最寄りの岸と言える場所であり、この名が興味深い


「箸墓古墳築造の画期性を重視し、定型化した前方後円墳の出現以後、すなわち箸墓古墳築造以後の墳墓を『古墳』、それ以前の墳墓を『墳丘墓』と表記する」(桜井市埋蔵文化財センターHASHIHAKA)」とされるほどのインパクトがあった。

弥生時代の「銅鐸」(近畿・尾張)、「四隅突出型墳丘墓」(出雲・北陸)、特殊基台(吉備)、広形銅矛(北九州)の祭祀が、一気に放棄されて前方後円墳の時代(古墳時代)に移行する。
魏志倭人伝に描かれた「倭国の乱」が収束して、それぞれの地方政権が西日本全体を統治される時代に入るとは、その事である。

戦前に笠井新也が「卑弥呼即ちヤマトトトヒモモソヒメ」を発表、卑弥呼トハヒメミコトのことであり、箸墓は卑弥呼の冢としたのである。

宮内庁の手で、箸墓の土器・埴輪が採取されており、その検討の中で、最古の巨大前方後円墳であることが確定していく。
その後もC14(放射性炭素年代測定)や年輪年代測定法などの活用で、弥生時代から古墳時代の実年代が遡りつつある現代の考古学に絡んで、卑弥呼説は力を増したというべきだろう。
ちなみに箸墓古墳は240~260年の築造との結論が出ているのである。

九州派は箸墓周濠で発掘された「あぶみ」を問題にしている。
布留一式(300年代から400年代はじめ)の地層で輪あぶみが発掘されている。初めは判らなかったが、検討の末、あぶみの一部と判明した。
あぶみは東アジアでは4世紀後半、日本では5世紀に仙台で出ている。
「4世紀にあぶみが出るのは速すぎる、近畿の編年は100年位下げたら」という主張である。「トリイノ前の大型建物は4世紀だろう」との見解である。

東アジアの古いあぶみが4世紀後半というのは金属製で、木製はもっと古い。
韓国では三世紀の鉄製のクツワの発掘の例があるから、アブミもセットになっていた可能性も否定できない。
しかし、大塚初重先生は、「輪あぶみは謎」として、「箸墓の築造年代や馬文化の日本への影響を考えるにあたっては大きな謎」(邪馬台国をとらえなおす)と指摘していて、今後も見守りたい、ということである。
by koza5555 | 2016-01-25 21:23 | 邪馬台国(やまとこく) | Comments(0)

纏向遺跡、トリイノ前地区の大型建物群跡は卑弥呼の居館か

なんといってもツアーの名称が「邪馬台国 畿内説」である。
「名づけて卑弥呼と曰ふ。鬼道に事(つか)へ、能く衆を惑はす。年已(すで)に長大なるも、夫壻(ふせい)無く、男弟有り、佐(たす)けて国を治む」。
卑弥呼が「鬼道に事(つか)へ、能く衆を惑」したのはどこか、「男弟有り、佐(たす)けて国を治む」所はいずれか、そこを語るのである。
今回はそこに踏み込むつもりで、このツアーを受けたのである。

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トイリノ前の大型建物発掘あと

桜井市教育委員会は平成21年(2009年)11月に「纏向遺跡第166次調査現地説明会」を行った。
この時の資料は今でも、ネットで「纏向166次」と打ち込むと当時のままで手に入れることが出来る。

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建物C・Dの構築時期は3世紀前半の庄内式期古相段階(庄内式前半の土器を含む整地層の上から掘りこまれている)。

そしてその建物の廃絶は、柱穴を切るSD-2000(庄内3式 東北の角)やSM1001(庄内3式から布留0式  建物の東側)との切り合い関係から3世紀中葉の庄内式3式の時代とみられている。

これを西暦で換算すろと「200年から250年の間の宮殿」、そんなことになるのである。
卑弥呼共立は210年ころ、239年に難升米を魏に使いとしておくり、247年に亡くなる卑弥呼である。
歴史と場所のピンポイントである。
卑弥呼はここで寝起きし、「鬼道に事(つか)へ、能く衆を惑」わした場所だったと、僕は断定したい。

当時は間違いなく、一代一殿、一代一宮である。
大和王権は藤原宮に至るまで、一代一宮であることから見て、それは当然である。

こうなると台与のご殿はいずこか、それも纒向で出てくるのだろうか。

さらに南側の柱列を壊す形で、南北約4.3m、東西約2.2mの土坑が発見されている(上の図の赤丸)。
ここから桃核2769個など多量・大量の動物・植物遺存体が出土している。
桃は食用に適さない未成熟のものも含まれており、祭祀に関わる廃棄土坑とも見られている。

この近所から、百メートルほど南、メクリ地区からでてきた、木製仮面もなかなか気になる。
纒向遺跡149次調査において、庄内1式(3世紀前半)の土坑(池の中)から出土したものである。
長さは約26cm、幅約22cm。アカガシの広鍬を転用して作られたものとみられる。木製の仮面としては国内最古のものですある。

「邪馬台国 畿内説」、このツアーは呻吟したが、だんだんと楽しみになってきた。
期日は2月10日(水)、17日(水)、25日(金)であるが、僕は10日と25日を案内する。
こちらのリンクでおとなびジパング倶楽部のサイトである。 「邪馬台国畿内説」
by koza5555 | 2016-01-21 23:18 | 邪馬台国(やまとこく) | Comments(0)

吉野ケ里の甕棺が畿内に伝わらなかったワケ

吉野ケ里には1万5千もの甕棺(かめかん)が埋葬されているという。
甕棺は吉野ケ里だけではなく、弥生時代の九州の環濠集落には大量に埋葬されていた。

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吉野ケ里遺跡の長丘墓。十数名の甕棺が葬られていたが、副葬品が豪華で有力者の墓とされる

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甘木歴史資料館(福岡県朝倉市)に展示されている甕棺

この埋葬方法が畿内には伝わらなかったことが、興味深い。。


都出(つで)比呂志さんの「古代国家はいつ成立したか」(岩波新書)を読んだ。
甕棺は都出さんの論ではなく、あくまでも僕の意見であるけど。

日本の国家の始まりを、3世紀(邪馬台国の時代)、5世紀(倭の五王)、7世紀(飛鳥時代)のそれぞれを指摘する論争がある。

国の前に、都、町が問題になる。弥生時代の環濠集落の特徴は
①多くの人が集住
②内郭があり、リーダーが居住
③手工業があり、交易があった

都市とはなにか、これも問題である
①政治センター機能、門前町機能、港町など経済センター
②役人、手工業者、商人など農民以外の人がたくさん住む
③人口の密集で、食料品や生活必需品を外部に依存する。

以上を考えると、弥生時代の環濠集落は都市とは言えない。
土地と水を求める戦いが続いた環濠に守られた、城塞集落と言うべきか。


弥生時代の解説がなされている。
一つは祭器の問題
九州は銅矛、瀬戸内海東部は平形銅剣、畿内と当会は銅鐸、出雲は中細形銅剣など
弥生中期には北部九州、瀬戸内東部沿岸、出雲、畿内、東海、関東と言うかそれぞれ独立したブロックが形成された。

鉄の普及も興味深い
鉄の普及は一世紀までは「ツクシ政権」と言われた北部九州が圧倒。
後漢朝の保護、楽浪郡の協力があってのことだが、2世紀末に後漢朝の弱体化して、このスキにヤマト王権がツクシ政権を制圧して鉄の供給ルートを確保した。
この頃に大量にヤマト王権は鉄を入手して全国に普及させた(山岸幸久)。

最後に葬送のシステムを考えてみた
大量に埋葬されている北部九州のカメ棺の問題がある。吉野ケ里だけでも15000も埋められているという。
このカメ棺は畿内には持ち込まれなかった、このことは北部九州人が畿内に大量に入らなかったことを示している。
また、3世紀前半には(畿内の庄内式土器が九州に持ち込まれ)、葬送の形が九州も甕棺に代わって、木箱や直葬による葬儀に代わっていった(高倉洋影)。


邪馬台国の前後の時代、九州勢力が畿内勢力を軍事や文化で従わせたことはありえないことを考古学は示している。こんなところから、僕は邪馬台国・畿内説で、東遷もあり得ないと見ているのである。
by koza5555 | 2016-01-20 18:38 | 邪馬台国(やまとこく) | Comments(0)

卑弥呼と台与のあとの邪馬台国は?

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纒向トリイノ前地区大型建物の現場説明会。もう6年前である。

邪馬台国の所在地論争は、実は国家論でもある。邪馬台国と大和王権、どうつながるかは所在地論だが、実は倭国の権力がヤマト王権に継続発展したのか、それとも奪い取られたか・・・である。

「国の大人は皆四・五婦、下戸(げこ)も或は二・三婦。婦人淫せず、妬忌(とき)せず、盗竊(とうせつ)せず、諍訟(そうしょう)少なし。其の法を犯すや、軽き者は其の妻子を没し、重き者は其の門戸及び宗族を滅す。尊卑各々差序有り、相(あい)臣服(しんぷく)するに足る。租賦(そふ)を収む、邸閣(ていかく)有り、国国(くにぐに)市有り」(魏志倭人伝)。

「邪馬台国は都市だろうか」との論があるが、併せて「邪馬台国は国家か」という論も考えねばならない。

F.エンゲルスは「家族、私有財産及び国家の起源」で、家族があり、私有財産が発生すると国家が誕生するとして、階級対立を貫くための力を国家として、国家には租税の徴収、軍事力は不可欠とされた。
翻って倭の話、魏志倭人伝によれば、倭には大人があり、下戸もあり、生口(奴隷)もあり、統治機構もあるように記されている。
邪馬台国は国家だろうか?

ちなみにエンゲルスは、氏族社会と国家を対立的なものと考えていたが、この関係を対立的なものとは見ないみかた、または過渡的な社会体制も考えたい、そんな論もあるようである。

何で、こんな話に?
都出(つで)比呂志の「古代国家はいつ成立したか」(岩波新書)を読んだのが、きっかけだが、邪馬台国の時代の国力(氏族力?)をあれこれ考えたのである。
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僕の友だちの邪馬台国九州論を紹介したい。
「生産力の発展があっての大人、下戸。さらに富を巡っての激しい戦いを繰り広げたのは文明の発達した北部九州で、一方、畿内・大和は階級的な対立が発生するような生産力の発達は無く、のんびり暮らしていた田舎」とのことである。
こんな論理から、国家に準ずる邪馬台国は九州であり、もし畿内と言うことになれば、それは軍事力・経済力に優れた九州勢力の東遷に依るものだったとの主張である。

最近、森浩一先生、高島先生、安本先生などの九州論者をあれこれ読んでみた。「鉄」とか「鏡」とかを解明しながらも、論拠は僕の友だちと同じ論だったと知った。

ところが、これは大違いで畿内・大和には唐古・鍵とか曽根・池上とか誇るべき弥生の文化と生産がある。九州と同じように畿内にも戦があり(環濠集落)、階級対立の発生、国家の萌芽があった。
こんなことは自明だのに・・

こんなことを理由にして、僕の邪馬台国・畿内説は不動であり、僕は東遷説も拒否したいのである。

それにしても、邪馬台国に国家の芽はあったのだろうか。「纒向は都市だった」は盛んに言われているが、「都市があれば、国家もある」で良いのだろうか。
by koza5555 | 2016-01-19 12:00 | 邪馬台国(やまとこく) | Comments(0)

桜井茶臼山・メスリ山古墳と柄鏡形古墳

「3基の柄鏡(えかがみ)形大型前方後円墳」~桜井茶臼山古墳調査からみえてきたもの~
豊岡卓之・橿考研企画部長が講演。
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さて、柄鏡形といえば、桜井茶臼山、メスリ山は有名だが、はて…三つ目は?である。



答   渋谷向山古墳 


僕は知らなかった(笑)。渋谷向山古墳は僕にはあやしく、一度もツアーを案内したことがない。
なるほど・・・柄鏡グループなんだと妙に納得。

奈良盆地の南東部で前方後円墳が始まったことは間違いないが、それは三つのグループに分かれているという。

地域ではなく、サイズでもなく、時期でもなく、造営した集団が異なるというのである。

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一つは纏向形、石塚古墳、勝山、矢塚、東田大塚、ホケノ山、最後に大きな箸墓とある。
もう一つは大和形で中山大塚、西殿塚、東殿冢古墳と連なり、それと並んで黒塚、行燈山とつながる。いわゆる崇神天皇陵。
箸墓の後につながるのではなく、時期的には平行するという。

もう一つが柄鏡形で茶臼山、メスリ山とつながり、渋谷向山はこのグループに造営されたという。
渋谷向山古墳は、 墳丘長300mもあり、前期古墳最大の規模である。墳丘の段築が後円部(3段である)の2段と前方部の上面と同じレベルで、この特徴が茶臼山・メスリ山古墳の墳形に通じており、これは偶然ではないと言われるのである。

そういわれると以下の図のように、①箸墓、②西殿塚、行燈山、③渋谷向山の横の姿は、異なるのである。
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渋谷向山は大和古墳群では異質ということである。
「王統を示すものではなく、作った人が違うということだ」と強調されたが・・おもしろい提起だ。

邪馬台国から大和王権に移る中でも、単一王権ではなく、いくつかの実力集団がしのぎを削ったという見方も想定できるのである。


こんなところから茶臼山の解説が始まった。

古墳に使われた朱と鏡の解説も面白いしが、なかなか消化もしにくい。
「丹は蘇生の力・腐らない力」、そんなふうに勉強したのであるが、丹の呪力を述べた「抱朴子」(ほうぼくし)(318年)では、丹の効力はそんなところに無いと書かれている。蘇生の効果は「欲起死人、未満三日者」(三日以内の死に効果)で、むしろ辟邪(へきじゃ)の効果、これは邪をさえぎる効果があるとのことである。

「だから、邪から死者を守ること」、それがまた大違いで、「丹は古墳の内側に塗られた」・・ということは、死者の邪から生の社会を守るのである。
霊力が強い死者には特別に大きな古墳、大量の朱が必要だったのである。

そして、それは鏡も同じで、鏡は棺の側が鏡面、死者の霊力を跳ね返す力になるという。


どう思われましたか。
古墳のサイズは霊力を押さえ、鏡で霊力を跳ね返し、朱でさえぎる。
卑弥呼には、従来とは違う大きな墳墓が必要とされたのである。

ところで墓とか墳丘の解釈も初めて聞いた。
平地に穴、これは墓。
土盛りして棺を納めれば墳。
高く大きなものを冢という。

こうした中国での使い分けを参考にすれば、「卑弥呼以て死す、大いに冢(ちょう)を作る。径百余」、どう思われますか。

すまん、テーマをまたまた邪馬台国ツアー引っ張ってしまった。
by koza5555 | 2016-01-18 22:16 | 邪馬台国(やまとこく) | Comments(0)

纏向石塚古墳

現場に立つことによる「発見」と感動、そこへ案内することが、僕の求めるツアーガイドである。
その場に立っていただいて、自分の眼と自分の感性で歴史を感じ取ってほしい。
そんな感じがズバリ、それが纒向石塚古墳である。
「邪馬台国を考えるならここだろう」というのが、纒向石塚古墳。僕もこちらに立ってみた(家の関係で少しずらしたが・・笑)
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正面三輪山、右が箸中古墳、遠景は音羽山

(旧)纏向村大字太田字石塚。今は石はないし、埴輪も採集できない。
西北の小丘も古墳とされてきたが、掘ってみたらコンクリート。これが高射砲台である。
古墳の南側は東西に一直線に削られている。水田により墳丘が削られたのだ。
墳丘の形は南北60メートル以上75メートル、東西60メートルの楕円形、東側にタカマルと言う字の異質の水田があったが、のちにそれが前方部として確認された。
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こちらから弧文円板が出土(第8次 1975年)した。
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石塚古墳の造成期は周濠の遺物から特定された。
①周濠が早い時期に明確な土層で密閉されて、以後に遺物が混入しないこと。
②密閉土層のなかに、多くの土器が含まれていたこと。
③古墳時代の葬送儀礼にかかわる直弧文が描かれた「弧文円板」が検出、文様の構成からみて、岡山の第二段階の特殊基台よりは古い段階だと比定されたこと。

西側周濠からは、鶏とみられる鳥形の木板が二枚。
後の古墳から出る(たとえば巣山古墳)、鳥の埴輪の先行型か?とも思える。

第10次(1976年)の発掘では、「ウリ削り」した柱材のほか建築加工用木材と考えられるものを9点が出土。
立っていた短い柱にほぞ穴があり、長い柱にはU字形の切り込みがあり、これで桁柱を載せのただろうか。

この柱は橿原考古学研究所資料館に展示されている。

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築造時期を語らねばならない。
周濠からは纒向一式(180年~210年)の完形土器が出土している。
墳丘上には周りから搔き揚げられた土の中に土器が大量に含まれた。3600点にものぼったが、おおむね纏向一式でばらつきがない。

年輪年代測定法にて、大量に出土した木材、板材(檜)で測定を行ったところ、195年という結果が得られた。西暦200年の伐採という材木が周濠の底に眠っていた。

1972年の調査から石塚古墳は出現期の古墳として注目されてきたが、科学的検討を重ねて、日本で一番早く作られた前方後円墳とされた。
ホケノ山古墳、箸墓古墳の姿の原型とみられ、こちらを造営した「造営集団」が箸墓までを造り、大和古墳群(栁本の行燈山や黒塚など)や画鏡型古墳群(桜井茶臼山・メスリ山・渋谷向山)に影響を与える。


少し話は飛ぶが、近書で千田稔先生が地理と歴史の関わりを述べていた。

邪馬台国をとりあげてみよう。いまでも、九州説と大和説が対立的に主張されている。…その論争のどちらにくみするかを考えるときに、大和説のよりどころである奈良県桜井市の纒向あたりの前方後円墳の分布を描いた地図に目をやることから始めねばならない。そうすることによって「魏志倭人伝」の邪馬台国に至る方向と日程の記述からは、見えなかったものが、見えるかどうか、検討の一つの素材に出会うのである。さらには、地図を見ることによって、都合がよければ、現地に足を運ぶきっかけとなり、そのときに、現場に立つことによる「発見」に立ちあえるかもしれない。(「なぜ地形と地理がわかると古代史がこんなに面白くなるのか」洋泉社歴史新書 まえがきから 千田稔監修)

激しく共感した。僕の最近のもやもや感を払いのけてくれた。千田稔は地図の大事さを言っているが、そこから現場へと勧めているのである。





現場に立つ、その素晴らしさを纏向石塚古墳は教えてくれる。

by koza5555 | 2016-01-17 10:30 | 邪馬台国(やまとこく) | Comments(0)

唐古・鍵遺跡史跡公園

邪馬台国ツアーは2月10日と17日、25日。だんだん迫ってくるが準備はまだまだ。

「邪馬台国、畿内論」ツアーは、新大阪発で最初が唐古池楼閣。
まずはこちらが大切である。
今回はミュージアムは行かなくて、唐古池と楼閣。

新大阪から一時間余り、バスで「邪馬台国論」とコースのあらましをお話しすることになる。
物をみないでの邪馬台国論、これがまた難題である。
魏志倭人伝に沿って、行程、邪馬台国の国の外交、卑弥呼のあり方、生活、戦いなどを話せばよいのだが、これが畿内論、九州論、これを避けて通れない。
ここで、九州論とやりあったら、ツアーはぶちこわしせり
魏志倭人伝を読みながら、ポイントの解説、字面の説明・・くらいか。
すると、魏志倭人伝の読み下しをスラスラいかなくてはならないし・・・
暗誦する?漢文で2000字やから、それはむりやろうけど・・・

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バスは郡山インター経由で唐古池の駐車場に到着。楼閣がみえる(これは東からの画だが)

「太安万侶と古事記」の中で、辰巳先生と和田萃先生が唐子・鍵遺跡を語っている。
「卑弥呼の登場を『共立』という言葉で記録している」、「談合政権ができ、その都を邪馬台国においた」とされ、(卑弥呼に)に目をつけた諸王は、新たな政権(ヤマト王権)をつくるにあたり、探した・・・大和の唐古・鍵に神仙思想に精通する・・若き卑弥呼をみつけ・・・誰も住んでいなかった三輪山の麓に巨大な神殿を造り、『談合政権』を誕生させた」が、辰巳論である。
「大和川の大水害を避けて唐古・鍵の地を捨てて、高台の纒向に移動したのでは」と言うのは和田萃先生。
両先生によると、唐古・鍵遺跡は卑弥呼の生まれ故郷である。

田原本は「唐古・鍵遺史跡公園」の整備をはじめている。「よみがえる弥生の風景」である。
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これが完成予想図(2012年10月の田原本広報による)

唐古・鍵は紀元前5世紀から3世紀にかけての村、周囲には何本もの大溝(環濠)をめぐらしていた。
42haもあり、その広さは全国有数で、楼閣(絵画土器による)があり、大型建物跡や青銅器を作る施設も置かれていた。単なる農村とはいえない集落村だった。

田原本町は弥生時代の「風景」を再現し、弥生時代の「出来事」を体験・学習できる史跡公園の整備を28年度に実施する。工事はこれからだが、地図の①、「発掘調査の成果に基づきムラを囲んでいた大溝(環濠)の復原、これがすすんでいた。

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環濠の復原

唐古・鍵遺跡の発掘では森本六爾が忘れられない。
今回のコースは大泉の交差点付近で「森本六爾夫妻顕彰の碑」を拝見することが出来る。

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森本六爾(もりもとろくじ 1903年~1936年)、唐古・鍵遺跡の壺に残る一粒の籾痕から、いまは常識の「弥生時代は稲作の農耕社会」と証明した。
松本清張の断碑と桜井の芝房治(故人)さんの森本六爾論に描かれたのは、こちらの森本六爾である。不遇のうち34歳で亡くなっている。


広島や金沢からいらっしゃるお客様、最初にバスで歓迎、解説をして、まずは唐古・鍵遺跡である。


by koza5555 | 2016-01-15 04:19 | 邪馬台国(やまとこく) | Comments(0)

奈良観光コンシェルジュの挑戦、関西テレビで放送

1月11日(月)奈良観光コンシェルジュアワード、僕は日本語ガイドの部に応募、二次予選を通過して、ファイナリスト5人のうちの一人になった。
申込用紙を書いたのは9月。
二次選考は12月6日。

最終プレゼンの3日ほど前に関西テレビから電話が入った。「何を話すの。意気込みはどう。どんな準備をされていますか」などである。
この電話は選考に残った5人、全員に入ったと思われる。
「コスモスやハスが咲く藤原も良いが、冬枯れの藤原宮にも、皆さんに来ていただきたいと考えた。持統天皇に心を寄せて、万葉集に歌いたい」と話した。
「万葉集は何を?」の問いで、「持統天皇のおじいちゃんの舒明天皇の国ほめの歌。長歌である」と答えると、さらに「犬養節?」との問いで、「犬養節を参考にした雑賀節(笑)」。

電話はそれで終わったが、翌日、「雑賀さんを追いかけたい」・・「コンシェルジュ合格・不合格を問わずに放送します」とのこと、もちろん僕は、自身の合格は信じているわけで(笑)、「はい、受けます」。

アワードの前日、ディレクター、アナウンサー、カメラ、音響がわが家にやってきた。

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自宅、藤原宮跡、自宅の順で4時間の収録。寒風の藤原宮だった。

ディレクターに「なんで僕なの」と聞くと、「犬養先生のウォークをやってきた」、「そのテーマとかみあうんでは」、こんなようなことを言われていた。

さて、アワードの当日。それなりの出来だったが、僕は落選。がっかりぽん。
すばやく裏口から表に出ると、電話。「玄関前で撮りましょう」・・・「ダメだったしもう良いのでは」・・・「雑賀さん、おっかけですから、落ちた姿も要ります」ときっぱり言い切る女性ディレクター。

敗者の美(笑)ということもあるし。
最後のコメントを行い、待っていた孫と肩を落として帰る…後ろ姿
まあ、絵になりました。

自分で工夫してテレビから映像を撮った。音は悪いが、画像はきれい。
ユーチューブにアップした。

次行をクリックするか、ユーチューブで「雑賀 耕三郎 関西テレビ」を検索すると当たる。

雑賀 耕三郎 関西テレビ


ぜひ、視聴、お願いします。
そして、肩を落として帰る僕に一言を(笑)
by koza5555 | 2016-01-13 20:40 | 橿原・明日香・吉野 | Comments(2)

奈良観光コンシュルジュにチャレンジ

11日、奈良観光コンシュルジュアワードに出場、結果は不本意だったが、原稿とパワポには自信がある。
こんな感じである。

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こんな感じで始まる。
大ホールだが、入りは200名くらい、ライトはまぶしいが、前席の方は顔もよく見える。

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コースの紹介。
大和八木駅をバスで出発。
はじめに奈良文化財研究所、藤原宮跡資料室を見学します。
つづいて、歩いて、朝堂院南門跡
最後に大極殿にまいります。

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バスは橿原市のコミュニティバス
里中満智子が描く 天上の虹、持統天皇、ラッピングバスです。
橿原市は藤原の宮跡をぐるりと回るバス、「持統天皇を走らせたい」、里中事務所に連絡を取りました。
里中満智子さん、「藤原を走る持統天皇、私も見てみたい」などと、即決、明るくオッケー、原画が届けられました。

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バスは藤原宮 資料室、玄関前に横付け、香具山のふもとです。
こちらの展示は、藤原宮の造営、その姿と形、都の暮らしぶりなど、さまざま紹介されていますが、今日は瓦のお話です。
藤原の宮、「大極殿や朝堂院、それを囲む大垣と門はすべてが瓦葺」、大量の瓦が使われた初めての宮でした。
使われた瓦は150万枚以上、たとえば今に残る法隆寺の金堂が2万枚ですから、こちらの瓦は莫大です。瓦は藤原を考える特別のテーマ。
古代の瓦が、さまざま展示され、瓦の歴史、産地、製造方法が詳しく示されています。


古代の瓦、当時の屋根瓦は丸瓦と平瓦。
瓦の葺き方は
平・平と葺き、間に丸、丸、丸瓦を重ね押さえて、これで雨、風を防ぎます。

作り方です。
まず、桶のような木型を作り、これに布を巻きます。
そこへ粘土板を貼り付けます。粘土ヒモを巻きます。
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叩いて締めて、そこで桶を割る、木型を外すと、粘土の筒ができあがる。
二つに切ると丸瓦、
太めのものを、四個に切り分けると平瓦。とても効率的。これを焼く。
こんな作り方ですから、桶づくりの古代瓦、表側には叩き締められた痕跡、裏側には布目が残りました。

古代寺院の跡を歩きます。瓦のかけらを見ることがあります。こんな布目が見えたら、これは正真正銘の古代の瓦です。
こんなのを見たら、気分は一気に古代です。素晴らしい感動・体験です。

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これが瓦の布目です。

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朝堂院南門跡です。
こんな柱で、当時の門がイメージされています。

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門の中に入ります。
正面は大極殿。天皇が政治と祭祀を執り行いました。
左右に国の役所の朝堂院。
天皇のお住まいの内裏も置かれていました。
宮の外周には大垣がめぐらされ、大きな門が各所に開かれています。
礎石の上に立つ丹塗りの柱、瓦葺きの建物が連なる新しい宮で、宮と言っても、宮城と言えるような姿を示していた。

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大極殿前にまいりました。
造営をリードしたのは持統天皇だった
先代の天皇、夫でもあった天武天皇が、ここに都を置くと決められた。しかし、それは実現することなく、お亡くなりになる。
その構想を復活させ、工事をすすめたのは、持統天皇です。
694年に遷都となり、持統天皇、文武天皇、元明天皇、三代、16年間の都でした。
計画的に作られた初めての宮、なぜここか。これが、興味深いテーマです。


龍王山に登ってみました。飛行機やヘリコプターなら良い写真が撮れますが、予算の都合もありますから、私は歩いて竜王山。こんな大和三山、一望しました。
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北に耳成山を背負、西に畝傍山、東に香具山。
藤原宮は、大和三山の真ん中に位置しました。
これは偶然ではなく、計画的に決められた場所で、
土地の良い悪いなどを判断する風水思想では、北・西・東の三方向に山を控え、南に開けて流水のある場所が理想的、こちらは風水の適地だったのです。
 だから、この地です。ここが都です。

みなさん、振り返ってみましょう。
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これが天の香具山。
この地を選んだ持統天皇の思いを、万葉集でたどってみました。
持統天皇には有名な万葉歌がありますが、
藤原の宮都に先立って、持統天皇のお祖父ちゃん、舒明天皇がこの地で国ほめの歌を歌っている。父の天智天皇も大和三山を歌った。

大和朝廷と持統天皇にとって、この地は特別の地だった。
今日はこの地をほめ讃えた、舒明天皇の万葉歌、紹介させていただきます。

大和には 群山あれど とりよろふ 天の香具山 登りたち 国見をすれば 
国原は 煙立ち立つ 海原は 鴎立ち立つ 美し国ぞ 蜻蛉島 大和の国は

藤原宮と大和三山。この歴史を知るとき、大和三山の美しさはまた格別、誰しも感銘を受ける歴史的な景観です。


楽しめましたでしょうか?
by koza5555 | 2016-01-13 17:35 | 橿原・明日香・吉野 | Comments(0)

邪馬台国の東遷説を森浩一にみる

森浩一さんの「倭人伝を読み直す」(ちくま新書)を読んだ。
新書にまとめることを前提にして、5年ほど前に西日本新聞に連載されたものである。

始めにバチンとパンチである。初めの一行目です。

「最近(2009年11月)、奈良県桜井市の纒向(巻向とも書く)遺跡で宮殿とみられる建物の跡が発掘され、女王卑弥呼の宮殿と強弁され、邪馬台国はヤマト説で決まったかのような印象を人々に与えた。
 ぼくは太平洋戦争中の大本営の発表とそれによって人々が扇動されていったあの苦い歴史を思い出した。今回の騒動に関与した考古学者たちは、発掘された事実から歴史にかかわる解釈をするうえで誤りをおかしていないか。誤りではないにしても慎重さを欠いていなかったか。」

ここまで言いますか?権力が恣意的に事実をゆがめて発表した戦争報道の責任って、この程度のことでしたか。
少なくとも纒向遺跡の大型建物遺跡は、だれでも見にいくことができて、批判だって自由ではないでしょうか。


纏向遺跡の報道をめぐり、「邪馬台国論争でヤマト説が有利になったとは毛頭思えないからである。こんな状況だから、原典である倭人伝の問題点をじっくり検討しておこうというのがこの本を書いた動機である」(p21)とも言われる。
大分、僕とは意見が異なったが、この本を引用している方もいるので、キチンと見ておきたかった。


帯方郡から派遣されてきた張政のことについてはヒントを頂いた。
これもさまざまな見解があるが、森先生の見立てを紹介すると・・・

一つは卑弥呼の死とその後の男王についてである。
女王国と狗奴国とのたたかいが始まったとする知らせを受け、帯方郡から張政が派遣されてくる。247年のことである。
「来朝した軍使(森注張政のこと)が檄をつくって難升米に告げ喩(さと)した結果、卑弥呼は死亡した」(p159)と、読み下し、卑弥呼はたたかいのはじまった責任を取らされ、死を選ばされた(p161)。
そのあとに、立った男王は「狗奴国の男王」である(p161)。

張政の手で王権が移行したとの判断で、張政が倭の王権や王を決める権限さえもっていたのか。


もう一点は邪馬台国(北部九州勢力)の東遷のことである。
「魏の意向を前提にしての張政の倭国対策は、狗奴国と女王国とを一つにまとめて倭国にすることがあった」(p169)
「このように安定した倭国にするために、元の女王国の主力を東方の地であるヤマトへ遷すことが計画され実行されたのが北部九州勢力の東遷であった」。(p169)

「(僕は・森浩一さんのこと)北部九州勢力の東遷説をとっており、今回東遷の推進者(立案者か)が張政であるという見通しを持てるようになった」。「それは卑弥呼の死のあとの狗奴国の男王の時代か、男王が立ったための混乱期がおさまり、台与が晋に遣使するまでの間、つまり250代の可能性が高い」(p175)。

森先生は卑弥呼の死を以って倭国の王は狗奴国に代わるとされた(P161)。
「台与はヤマトに都を遷すことで政治的な安定と倭国の支配に集中できた。」(p184)
「東遷を果たした台与は、奈良盆地南部の地名をとって邪馬台(やまと)国というようになった。だがヤマトの発音は残しながらも、倭国の名を重視して漢字では倭の一字でヤマトにあてることが普通になる。」(p184)

北九州の邪馬台国は帯方郡の張政の指揮の下、狗奴国との戦いを逃れて瀬戸内海を東に向かったということだろうか。

「邪馬台国の東遷説は賛成できない」という僕(雑賀)の立場は明確だが、それは取りあえず置いといて、
森先生の論によれば、「倭(邪馬台国を含む)の王は張政の手により、卑弥呼から狗奴国男王に変えられた」とされたその先で、「台与の東遷が始められる」とされている。倭連合を支配下に置いた狗奴国王は、それに対して何の対応もしなかったというのであり、そこらあたりの論の真意が測りかねる。
九州で敗れた邪馬台国勢力が東遷し大和で大和王権を開いたという論はとうてい信じられない。

以上、「倭人伝を読み直す」の読書感想文である。

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これが平塚川添遺跡公園。典型的な弥生時代の環濠集落だった

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こちらが甘木歴史資料館(朝倉市)。古代から近世までの地域の歴史遺産が展示がされていた
by koza5555 | 2016-01-10 22:11 | 邪馬台国(やまとこく) | Comments(0)