ブログトップ

奈良・桜井の歴史と社会

koza5555.exblog.jp

<   2016年 02月 ( 7 )   > この月の画像一覧

お水取り

二月堂修二会は3月1日から。いよいよである。

お松明や室に入っての聴聞など楽しみ方はさまざま。
僕も病気を患ったから、修二会祈祷の申込みをしており、名前を読み上げていただくことになっており、これは一度は詣らねば、である。

先日、奈良市内でまとまった時間ができた。「お水取り関連で、あちこちの招待券がある」とあっちゃんが言うので、題して、お水取り三館めぐりである。

東大寺ミュージアム、奈良国立博物館、奈良市写真美術館である。

今日はあまり書くことはないが、奈良の写真だけを楽しんで頂こうと思って。

a0237937_8394797.jpg
東大寺ミュージアム玄関

ミュージアムのお目当ては二月堂ご本尊の十一面観音の光背である。

十一面観音像、「十一面陀羅尼と呪」には、「白白檀を用いて観音像を作るべし。身長は一尺三寸で十一頭を作れ。正面の三面を菩薩面、左側三面は瞋面、右側三面は菩薩面にて狗牙が上に出ており、後方は大笑面である」とされている。

聖林寺や兄弟仏の京田辺の観音寺の十一面観音像は六尺はあるだろう。いずれも東大寺の造仏所で作られ、共通の見本があったのではといわれる。
この見本が二月堂ご本尊とも。もともと尺三寸で作れとあるので、こちらはそんなものだろうと誤解していましたが、実物の光背を拝見すると、台座やあれこれ考えてもご仏像は尺三寸よりは相当大きい。
こちらを見て納得しました。
a0237937_8404636.jpg
表裏から拝見できるようにプラス板で留められていた。この写真はパンフレットから



奈良国立博物館
修二会、二月堂が全て良く理解できる。

玄関にはやはりお松明。今日は鹿と目線が合った
a0237937_8435046.jpg


a0237937_8443231.jpg

奈良市写真美術館
入江泰吉の東大寺修二会である。不空院さんにご用があり、お礼に立ち寄らせていただいた。
by koza5555 | 2016-02-28 10:37 | 奈良 | Comments(0)

石の考古学

「石の考古学」(奥田尚著 学生社)を読んだ。

古墳の石室・石棺・葺石など「石」の種類や産地から何がわかるか?「石」から古代日本の謎に迫れるか・・この本のテーマはそこにあるが、とにかく具体的で詳細なところがおもしろい。

箸墓の北側の池におり、葺石だと言われる斑糲(はんれい)岩は花崗岩の観察や板状の石の観察をした。板石は石室材ではないかとのことだった。この板石は玄武岩で橄欖(かくらん)石の斑晶が肉眼でもみえる。「こんな石は芝山の玄武岩やなあ」と言ったのが、後々までひびいている。日本書紀の崇神10年に出てくる「大坂山の石」が芝山の玄武岩に相当することになった。(p13)
 その墓は昼は人が造り、夜は神が造った。大坂山の石を運んで造った。山から墓に至るまで、人民が連なって手渡しにして運んだ。ときの人は歌っていった。「大坂に ツギノボレル 石群(いわむら)を 手ごしにこせば こしがてむかも」は、部分的にしろ史実に基づいている。


よく言われる榛原石も理解できた。
宇陀市「(榛原町船尾)の国道369号線の路傍に石切り場がある。見事な柱状節理が見られる。石種は流紋岩質凝灰岩で、火砕流堆積物である。この石切場から採石された石に「榛原石」の名がつけられたようである。どうも明治の中頃から昭和50年頃まで稼行していたようである。

榛原石とは室生火山岩であるが、室生にいけば室生石、名張ならば名張石という。
古代から近世・現代まで、石材として実にさまざま使用されてきているのだ。

奥田尚さんが紹介しているところを列挙すると
室生口大野駅の北側に向坊古墳  榛原石の割石が使われたた。
6世紀後半からは竜王山古墳群にも大いに使われ、7世紀に入ると桜井の舞谷古墳や花山古墳のせんかく墳の石材に使用される。
榛原町のワラ田古墳のように板石を積み上げて作った竪穴式石室の石材にも使われており、6世紀の前半には室生火山は板石として使われ始めている。
割りやすかったのであろうか。

その後
大阪河南の塚廻古墳の石槨の床
高取町の白壁古墳の前室の床
桜井市の山田寺の金堂の犬走りのセン
飛鳥寺では回廊の側溝の側石として
等々板石としての活用が続いていくことになる。

中世でも大いに使われる。
大野寺の磨崖仏もその一つだし
山部三の山部赤人の五輪塔、
大蔵寺墓地の五輪塔、
仏隆寺の十三重の塔
仏隆寺の東側の白岩神社の参道の階段右手の 延元3年(1338年)記銘の石燈籠なども榛原石である。
 こんなのを順次回ればおもしろいだろう。

a0237937_215999.jpg
これが榛原石の採石切り出し場跡である (榛原)


さて、この本の中心は古墳の石の研究である。
奈良県の発掘されてきた主要な竪穴式古墳の石材の産地が特定されている。
たとえば黒塚古墳は橿原市芝山と羽曳野市の板材が使われ、丸石は纏向川から採られたと特定している。

石棺の岩の産地も網羅されている。いずれも産地から古墳への移動を重視して、産地と設置された古墳の地図が掲載されていて理解しやすい。

また、二上山系の石材、龍山石系の石材の使われ方から、古代豪族の勢力範囲が推定されている。

阿蘇ピンク石だけは特別に紹介。阿蘇ピンク石は石棺に使われている。なぜ阿蘇からということであるが、奈良の野神古墳、桜井の金屋の石仏下の棺、兜塚古墳、橿原市の植山古墳など十数カ所が列挙されている。

a0237937_2162221.jpg
これが阿蘇ピンク石、微妙な美しさがある。もちろん阿蘇で手に入れたものである。ソムリエの会のKさん(熊本出身)からの頂きものである


a0237937_2140153.jpg
「石の考古学」(奥田尚 学生社) とてもおすすめで、アマゾンでも強気のお値段が付いている。


by koza5555 | 2016-02-23 21:55 | 読書 | Comments(0)

日本人と漢字

倭といわれた日本に、紀元前二世紀頃、中国(前漢?)から銅鏡や銅鐸がもたらされたが、なぜか漢字が到来しなかった。
断ったのか、持ってこなかったのか、それとも、どうしても理解できなかったのか。
その後、銅鐸などを自らの手で作りだしていく倭人は、どのように話し合い、記録を残していったのだろうか、

そんなことが僕の最大の関心事のとき、「日本人と漢字」(笹原宏之) 知のトレッキング叢書(集英社インターナショナル)を桜井図書館の新刊コーナーで見かけた。


人類最古の文字は、メソポタミア文明で生まれた楔形文字だといわれています。・・紀元前3200年頃に楔形文字を使い始めたのはシュメール人です。
それと前後してエジプトでもヒエログリフという文字が誕生します。
そして少し遅れて、紀元前14世紀頃の遺跡から、間違いなく漢字だと言える文字が出土しています。殷王朝の中期にあたります。

a0237937_20164764.jpg
これが魚の始まり。似てますね。漢字だけ魚が立っていた。なるほど魚の始まりだ


漢字は周の時代(紀元前11世紀~211年)に徐々に整備されるが、その後の秦、始皇帝の時代にはすでに焚書などと言う事件も起きるのである。
始皇帝は同文同軌(文章同じ、車輪の間隔を同じにする)で、「広軌と狭軌の鉄道の解消」のようなことも行い、国を作り上げた・・天才やなあ・・である。
焚書もそんな意味を持っていたのだろうか、焚書を認めるわけではないのだが。

そして漢字は中国に定着するのである。

字体は周の時代は篆書(てんしょ)、周の時代に隷書、漢の時代から草書が始まり書きやすくなっていく。楷書が最後とは意外で魏晋時代から唐の時代までかかったとのことである。

魏の時代に紙が発明されたのも漢字には大きな援軍である。
105年に蔡倫が発明したとされるが、笹原先生は「蔡倫は、紙を実用に耐えるように、改良した人」と言う。

日本における漢字の歴史である。
縄文人も弥生人も間違いなく日本語を話し合っていたとされる。しかし、字は間違いなくなかった。・
銅鐸や銅鏡の文化は中国から来ていたが、漢字はどうだったのだろう。
日本に残されている最古の漢字は「漢委奴国王印」で、西暦57年である
それ以上の解説がない。ここはちょっと僕には拍子抜けで、知りたいのは紀元前200年前から「漢委奴国王印」までのことだったから。
また、日本人(倭人)が、漢字をどんな形で使いこなしていったのだろうかということだからである。

とにかく、日本人は漢字を見て驚き、漢字を見て勉強した。
日本人は日本語を漢字をあてはめていったのである。それが訓読の始まりである。

邪馬台という漢字は中国人が当てたものだと考えられます。何にあてたかと言えば、日本人が言う「やまと」に、という説が古代語の発音の面からは有力です。「やまと」とは、山(やま)処(と)という意味だと考えられていて、山のすそ野、山の麓のあたりという普通名詞が地名になり、さらには小さい国の名前になっていきました。
漢字は当て字で意味はありません。中国人にとって漢字で大切なのは、「音」なのです


卑弥呼という漢字も同様に当てられました。日本に「ひ(び)みこ」のように発音されるような女性がいた、その人に対して「卑弥呼」という三字があてられたのです。

中国人は邪馬台国とはおそらく関係なく、日本のことを「倭」と呼んでいました。



あとは訓読み、音読み、かな文字の解明などもあり、日本語の発達と充実の流れが語られていて、興味深いしおもしろい。そこは読んでいただくことにしよう。

a0237937_20174457.jpg
笹原宏之 著 「知のトレッキング叢書」(集英社インターナショナル)


by koza5555 | 2016-02-21 20:39 | 読書 | Comments(2)

銅鐸の絵を読み解く

一週間ほど入院していた。病院で読んだ本などをアップしておこう。

始めは銅鐸の本(「銅鐸の絵を読み解く」)である。
銅鐸の絵はいままで、考えもしなかった。
そんなツアーは無いし、奈良はやはり古墳時代、そして律令の時代を歩く機会が多いが、邪馬台国を手がけて、視点が変わった。弥生時代と古墳時代のハザマを考えねばならない。

銅鐸を読んでみた。奈良まほろばソムリエのメンバーで銅鐸を話す人を今まで見たことがなかった。
銅鐸は東海から近畿、中国四国までで430個ほど発掘、そのうち画が書かれているのは55個(1997年当時)だという。銅鐸とは腺ばかりひかれているというのだ。
a0237937_21462296.jpg
こんな感じ

銅鐸は紀元前二世紀に登場、紀元二世紀の終わり頃が最後の銅鐸。中国・韓国から到来する、羊の鈴みたいなものだが、日本は独自の発達を遂げた。
そして、古墳時代にはなくなるのである。


トンボの話がおもしろい。
銅鐸のトンボは常に上段に書かれるとのことである。
「多くの銅鐸で蜻蛉が上の方に書かれるのは蜻蛉はいつも高いところを飛んでいるからだ」(佐原真)と思っていたら、これには異論があった。

a0237937_22244784.jpg
トンボの絵

トンボを研究している三重県の石田さんは、「トンボは「田の神」だったから特別視するとのことである。ヤゴの時は田んぼでボウフラを食べ、成虫になるとウンカ・ヨコバイなど食べて豊作に貢献する」として、

古代、畿内は秋津洲(あきつしま)と呼ばれたことがある。神武天皇は山々の連なりを見てトンボの交尾を思い、雄略天皇はアブに刺されかかられる時、トンボに助けられることが日本書紀には記されるが、トンボは本来、「田の神」であるという共通認識が基礎にあるから成り立つとのことである。

僕もいつも思っていた。なんでトンボ、誰も教えてくれなかったが、こんなことなんだ。


弥生の絵の特徴の解明がされる。
多視点画とのことで、遠近法はない、モノの後ろの人や物も書いてしまう、唐古鍵の三階建建物の一階は吹き抜きとなっているが、これは実はレントゲン画で、一階にも壁があったのではないかとか、ビックリである。

重なり合う人々が書かれた(後ろの人が前の人に隠される)のは唐の時代が始まりで、高松塚はそれがすぐ採り入れられたものだそうだ。
a0237937_22255247.jpg


圧倒的に銅鐸には鹿が描かれるが、弥生時代の狩猟の中心は猪だったとのことである。
しかも銅鐸のシカには角が無い・・
a0237937_22302095.jpg
角のない鹿

鹿の角は春に生え始めて秋には立派な角になるが冬を越して春にポロッと落ちてしまう。
弥生人の中でこれに似たものは何か。それはコメの成長である。春の籾を撒き、秋に収穫、つまり鹿の角の成長と稲の成長を重ねて考えた。
稲作は弥生時代のシンボル、鹿もその意味ではシンボルと言う。収穫祭りに使われた銅鐸には角のない鹿が描かれた。子を産むメスを書いたという見方もあるが、角を落とした鹿を描き収穫の終わりを祝ったという見方もあるかもしれない。

こんな話が次々と続く面白い本である。

a0237937_22312167.jpg
銅鐸を読み解く。国立歴史博物館編 構成 佐原真
by koza5555 | 2016-02-20 23:35 | 読書 | Comments(0)

弥生から古墳へ 日本の古代はこうはじまった

20年ほど前の本である。
大阪府弥生文化センターの開館三周年を記念するシンポジウムが本にまとめられた。近つ飛鳥博物館が開館する直前のことでもあり、弥生時代から古墳時代へのつながりがテーマだった。

a0237937_9141072.jpg
大阪府立弥生文化博物館は池上曽根遺跡に隣接している

a0237937_9151334.jpg
博物館の田んぼのジオラマがおもしろかった

コーディネーターは金関恕(かなせきひろし)館長で佐原真さん、田中琢さん、大庭脩さん、佐々木高明さんがパネラーである。

a0237937_9155468.jpg
同朋社出版である

「日本の古代化」がおもしろかった。
世界は食料収集時代を経て、初期農耕段階に入り、そこから国が生まれ、王様ができる。これを「古代化」という。「古代化」という言葉は初めて聞いたが食料収集時代は古代にも入らないということである。

この古代化の前段階、初期農耕段階が日本は600年間くらいだという。
これが西アジアでは五千年、ヨーロッパも五千年。中国でも3000年位だろうか。
日本は食料採集段階が長くて、一気に古代に突入している。中国からの経済、文化の激烈な流入が、この激しさをみるべきとのことである。

唐古池の楼閣、あの壺に描かれた元絵なども、そんな中国からの流入の一つだろうか。
a0237937_9173847.jpg
身近なところで言えば、唐古鍵遺跡の楼閣の絵である

唐古鍵遺跡から建物の絵を描いた土器が出てきました。この絵についてはいろいろな解釈がありますけれども、多くの人が忘れていることは、弥生時代はほとんど絵が無い時代だ、ということです。現在は絵に囲まれているし・・写真も絵の一種でして、絵にかこまれているのです。…簡単に思い出して描くとか想像して描くというようなことができる時代ではありません。

屋根飾り(渦巻きの)を持った土器は近畿地方で、この唐古・鍵遺跡とその北500mの清水風遺跡だけしでしかない。(p19)


弥生時代から古墳時代への移り変わりについても勉強になった。
突然現れた巨大な前方後円墳の謎が、①形、②被葬者という二つの点から解明されている。

①形は田中琢(みがく)さんが解説する。
日本の前方後円墳はみんな同じ形をしている。ピラミッドは十数基しか作られない。中国の殷墟の王墓も十数基に過ぎない。

前方後円墳。後円部に祀って前方部はおまつりする場。このまつりが弥生時代のまつりと共通である。力を持った人たちが、先祖の人から受け継ぐ儀式がある。先祖と一緒に食事する儀式もある。共食儀礼、これは大嘗祭にもつながる儀式である。

前方後円墳のまつりは変質がおこり、前方部に埋葬する、さらに横に造り出しを作ってまつりはそちらに移るなどの変化を遂げ、形も変わってい。(p58)

②被葬者の問題である。
誰が・・ということではなく、弥生の集団墳墓(みんなが)と古墳(特別の人が)の差が問題になる。

まずは階層の分化である。
中期の土器、たとえばつくりが巧遅(拙速でなく)、絵が巧みであったりするが、弥生時代の終わり頃になると、使えればいいと、消耗品をどんどん作ればいいということで、手を抜くように変わる。これは、実は土器だけでなく、木製品についてもまったく同じです。
ところが、一方では弥生時代の終わり頃にも、非常に手をかけた、つまり巧遅の土製品、土器があり、そして木器がある。これは明らかに身分の高い人のお墓であるとか、あるいは彼らが使うために作ったもの・・・弥生時代の終わりに、一種の技術の分化、が生まれている。

弥生時代はみんなの中の一人と言う有力な人が現れてきて、これが明確に突出して、人々のはるか上に立つ人が生まれるのが古墳時代である。(p21)

侵入や征服される事件などはなしに、大型古墳の造営の契機は弥生時代の社会の中に準備されていたのである。
なぜそれが畿内か、そして大和かと言うことであるが、それはもっとも生産力が高く、最も人口が多く、階層分化がもっとも進んだということではなかろうか。

東遷・東征ではなく、弥生時代の中からヤマトの文化、膳法後円墳が発生したのである。
by koza5555 | 2016-02-14 10:01 | 読書 | Comments(0)

「清張通史①邪馬台国」 対 日本考古学

2月10日、17日、25日は「大和の卑弥呼」ツアーである。新大阪発だが、満員となった。

10日は僕がメインの講師、17日は鉄田さん(NPO法人奈良まほろばソムリエの会専務理事)がメイン講師、25日は僕が講師である。
このツアー、3回ともやる予定だったが、15日にちょっと急な入院が必要となってしまって、僕は2回の予定である。

a0237937_14435782.jpg
10日のガイド。トリイノ前(巻向駅)大型建物跡 出現現場で

30年ぶりに、「清張通史 Ⅰ 邪馬台国」を読んでみた。
a0237937_1446150.jpg

高松塚古墳から、7世紀末か8世紀初頭とみられる壁画が、昭和47年に姿をあらわしたのが、そのいい例である。あのようなみごとな壁画が埋もれていようとは、どんな考古学者も歴史家も夢想しなかった。文献のほうはタネが尽きているのに、考古学は地下に限りない資料を持っている。(P19)

北部九州は魏のコロニーであった」をテーマに邪馬台国九州論を展開している。
一大率は卑弥呼が置いたのではなく、楽浪郡の官吏で「一支率」とのことでる。

卑弥呼の実態は諸国王に共にささえられている貧弱な巫女にすぎない。そんな実力も権力もない卑弥呼の派遣した「一大率」の検察を、どうして諸国が忌憚しようか。一大率は一支率の誤りと考え、それを郡の太守の派遣であるとしてのみ理解できるのである。

郡使が邪馬台国に行った形跡がないことは、前に書いたように「宮室・楼観・城柵・婢千人」といった空想的表現で卑弥呼の居所を描写していることからもわかる。中には邪馬台国まで実際に行っていると推測する説もあるが、それだともっと具体的に邪馬台国の情景が記事に出ていなければならない。(p171)

では郡使はどこまで行ったのか、倭の勢力中心も後漢時代の奴国から伊都国に移っていた。すなわち伊都国は帯方郡の「郡使の往来常に駐る所なりであった。(p160)

郡から派遣された「一大率」が日常的に伊都国に置かれて「国々を忌憚させ」、郡使が来たときは「日常的に伊都国に駐まる」という。どちらも上司は郡の太守である。
双方が伊都国で立ち止まる、駐留する形である。実際はありえないと思える。

しかも、これでは邪馬台国九州論に新たな問題が投げかけられる。
私は、福岡県南部に邪馬台国があったという説に賛同したい。が、通説の築後山門郷かどうかはわからない」。
「いまとなって邪馬台国のあとは、今後よほどの物的証拠があがらないかぎり、わかりようもない。が、邪馬台国はとにかく九州北半部のどこかにあったらしい。それだけでもよいと思っている
」。

郡使、一支率とも、たかだか二日で歩いて到着できる邪馬台国(福岡県南部として・たとえば朝倉とか)に、一度も顔を出さなかったというのが清張論である。
郡使の役割は?一支率にいたっては8年間、駐まったのに…


その他で気になることは日本民族の一体性ということである。

三世紀以前から南朝鮮の住民も、北部九州の・西日本の住民もほとんど同じ民族だったのである(p71)
女王国と狗奴国の対立は、種族の違いを想像している(p216)。
北部九州は大陸系・半島系の同じ民族で、南部九州は島伝いの到来した住民、種族が中心、、この種族の間の争いというのである。
a0237937_14472683.jpg
こんな図を見てほしい。日本列島人の人種・種族は弥生時代の後期(邪馬台国の前)にはすでに一体としてできあがっていたのである。このDNAの形を見れば、弥生人との混血がすすまなかったオキナワとアイヌを除けばヤマト人のDNAは全体として一体で、朝鮮半島人とは大きな違いがあり、松本清張論は成り立たない。


東遷論・東征論も触れておきたい

馬台国九州論は東遷、東征問題が必然的について回る。
①女王国は狗奴国を屈服させたのち、畿内に移り大和政権を立てた。
②狗奴国が女王国を滅ぼして、東遷、河内王権、それから大和へ。
③女王国、狗奴国も第三の移住民俗に滅ばされ、さらに東遷が行われた。

いずれも東遷・東征は3世紀以降ということになり、その頃には大きな生産力、政治と文化によって組織されていた畿内勢力とのたたかいが必要である。壺、墓制をみても東征論というより、征西論が成り立つほどである。


九州以外の勢力の経済と文化、大陸とのつながりなどを無視したのが邪馬台国九州論である。この論は考古学が示した日本列島の姿を捻じ曲げている。
by koza5555 | 2016-02-13 15:31 | 邪馬台国(やまとこく) | Comments(0)

邪馬台国畿内説

「邪馬台国畿内説~古代ロマン 卑弥呼の大和」は2月10日から始まる。17日、25日と三回のツアーで残席わずかというヒットツアーとなった。

a0237937_2304831.jpg
唐古鍵楼観と吉野ヶ里の楼観

邪馬台国を勉強してみて考えた。邪馬台国は膨大な文献がある。資料が満ち溢れているのが邪馬台国、言い換えれば日本中の人々が関心を寄せている奈良のテーマ、観光資源なのである。

邪馬台国畿内説・・・・九州論者にはとても刺激的なキャッチフレーズのツアーである。
「邪馬台国は纏向(まきむく)で決まり」・・・百歩譲っても「邪馬台国は畿内」で間違いがないのであるが、九州派に大きく負けているものがある。それは「ここが邪馬台国だ」と信じる熱狂さだろう。
奈良県は邪馬台国、「倭は大和、大和の卑弥呼」をもっともっと全国に発信すべきだろう。

邪馬台国を考えるなら、この本を読んでほしいという本・・・佐原真(まこと)の「魏志倭人伝の考古学」(岩波現代文庫)である。

邪馬台国時代に倭人はどんな生活をしていたのだろうか、それがテーマである。
あれこれ読んでみると、魏志倭人伝にはいくつかの矛盾が含まれている、僕はそう感じた。描かれた風俗も、相当、南方風で変だと思うところも多かった。

ところが考古学者は魏志倭人伝の風俗に真剣に取り組んでいる、それを佐原先生(故人である)の本で教えていただいた。

たとえば黥面、いれずみのことである。「男子は大小と無く、皆黥面(げいめん)文身(ぶんしん)す」、「諸国の文身各々異り、或は左に、或は右に、或は大に、或は小に、尊卑差有り」などと入れ墨、黥面のことが記されている。

これなら誰もがいれずみをしているということになるが、しかし、考古学から見るとこれは畿外の風俗だという。畿内の土器・埴輪から黥面が出てこないのである。
記紀にはいれずみは隼人や蝦夷の風俗とし、畿内の場合は刑として行われたとされている。
こうなると黥面は邪馬台国九州説に有利かと、ところがそれが単純ではなくて、2世紀くらいになると黥面は吉備と東海地方とされる。こうなると魏使が北九州に留まっている限りは黥面は見ることもなかったということになるのである。


「兵には矛・楯・木弓を用ふ」も、これは興味深い。
a0237937_2375936.jpg

唐古・鍵遺跡の北方の清水谷遺跡(田原本教育委員会)からは、矛を持ち盾を持った兵士が描かれた土器が出土している。
a0237937_238455.jpg
こちらは中国、当時の漢の兵士の画である。

この比較を見ると漢は刀や槍が武器、そんな具合で「倭人の武器は珍しいよ」と書かれているのだ。矛がこんな形で倭人伝に書かれていたとすると、「結構なところまでよく見ているな」と感じられて、きちんと見てるなと。

なにげに読んだ「食飲には豆(へんとう)を用ひ手食す」の解説もびっくりである。
「高坏を用いて手で食べる」との意味であるが、これは「高坏で食べてすごいよ」と持ち上げておいて、「手で食べてるから未開や」と話を落としたという。
共食していること、めいめいの食器があることが分る記述である。
火事で放棄された弥生時代の住居跡から大量の土器、高坏などが出土していることからみて、この記述が興味深いのである。


建物もおもしろい。建築の専門家に言わせれば、「室町時代の日本の建物は二階以上を使うことを考えていない」というのである。金閣寺以前は二階以上は見せかけ。朱雀門も法隆寺の五重塔も平常時に使う階段は備えられていないのである
唐古鍵で発見された(平成3年、第47次)弥生土器は、この常識を打ち破る大発見である。
どう見ても二階建、そして梯子まで備えられている。
大陸文化を取り入れた建築物と言うことで話題になったが、この二階も使うという思想はその後、千年以上、日本から無くなるのである。

二階に登る階段はないという古代建築に対する常識を覆した唐古鍵の弥生土器は、吉野ケ里史跡公園(平成13年)の楼観にも大きな影響を与えているのは確実である。
a0237937_239466.jpg

こんな具合に、当時の風俗が28項目にわたって紹介されている。
魏志倭人伝が分る、当時の倭人の暮らしぶりが理解できる、邪馬台国の所在地論争にも参加できる、格別の一冊である。
a0237937_23225516.jpg

ちょっと中旬に入院しなければならない事情ができた。
それで、懸案の民児協だよりの編集を急いだが、その原稿を今日、印刷所に渡すことができた。来週には初めの校正刷りが出てくる。A4で8ページの冊子だが、桜井の全戸に届けるもので、それなりの緊張があった。原稿を入れた。もう後は校正、みなさんに任せても大丈夫。

さて、残りは10日の邪馬台国である。最後まで、勉強を重ねて頑張りたい、遠くから来られるみなさんにはきっちり楽しんでもらいます。

by koza5555 | 2016-02-03 23:45 | 邪馬台国(やまとこく) | Comments(0)