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奈良・桜井の歴史と社会

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談山神社の神幸祭

4月10日、談山神社は神幸祭である。
今年はお渡りがある年で、4年に一度の一の鳥居までの神輿渡御が行われる。
談山神社の神幸祭、毎年、4月の第二日曜日に斎行されるが、お渡りで歩くのは2年に一度、一の鳥居まで下るのは4年に一度であるので、今年は神幸祭、お渡り拝見のチャンスである。

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これは4年前の神幸。桜井市下の西内酒造前である

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これは二年前、僕の役割は錫杖を持って先導する役割、小目代(こもくだい)だった。

僕は、談山神社の氏子総代を務めさせていただいている。28の大字が談山神社に関係しており、それぞれに氏子総代が委嘱されている。多くは区長が兼ねている。この氏子総代をはじめ、お渡りに出仕せよとのことである。僕の大字からは一人の出仕要請、今年も僕が出ることにした。

式典は10時からで10時半すぎに境内を出発する。
コースは社務所前から門前に出て売店下の駐車場まで渡御する。
駐これは境内の写真である。
車場から聖林寺前(バス停)までは車で移動、その後旧道を渡御する。午前11時頃である。西内酒造の前などを通り、一の鳥居までの渡御である。

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これは二年前、境内(学頭屋敷跡)の写真である。

境内、もしくは西内酒造前辺りが撮影ポイントである。ぜひおいで下さい。
by koza5555 | 2016-03-31 05:38 | 桜井・多武峰 | Comments(0)

東乗鞍古墳 天理市杣の内

「山の辺の道に沿って石室が見学できる古墳?」と聞けば、「まずは東乗鞍古墳」が衆目の一致するところ。奈良まほろば検定の公式テキストにも収録されているが、僕はこれを拝見していないのである。

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東乗鞍古墳、玄室内の石棺

今年の秋、10月のことだが、「桜井と天理の古墳」、「山の辺の道と天理・桜井」という講座を引き受けているのである。見てない所は話せない。少しづつ準備をすすめていて、とりあえず東乗鞍古墳を見学してきた

場所は県道51号線、親里競技場の東側。
山の辺の道で言えば夜都伎神社を南にでて、西から北に向かう。神社の真北あたりの左手に小高い山が見える。

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これが東乗鞍古墳、前方後円墳である。
看板は何もないが。何となく「ここか」という畦道がある。
竹藪に入る。道なり左に向かうと…右側を見ながらすすむと、これやという感じ。
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ここはほふく前進はいらない(笑)。
阿蘇溶結凝灰岩製のくりぬき家形石棺が見える。手前は石棺の底石である。
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土砂が石棺の上に流れ込んでいる。とても動的な風景で感動した。
(阿蘇の人も含めて)造った人々、埋葬された人、盗掘した人、守ってきた人々、すべてを感じさせる石室だった。

出口を見てみた
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地図はこんな感じ
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東乗鞍古墳 (天理市杣之内町)
 築造は六世紀前半(古墳時代後期前半)。
乗鞍の名は中央が低い馬鞍の形状から付いたもの。全長75㍍、後円部径44㍍、前方部幅68㍍での前方後円墳である。前方部は西である。後円部中央下段には南に開口する右片袖式の横穴式石室が築かれている。
また玄室には九州・阿蘇の凝灰岩で造られた刳抜式の家形石棺が収められている。
手前には二上山白色凝灰岩製の組み合わせ石棺の底石が残こされている(奈良まほろば検定公式テキストからの抜粋)。
by koza5555 | 2016-03-30 00:05 | 桜井・山の辺 | Comments(0)

夜都伎神社

先日(3月26日)、天理市乙木町の夜都伎(やとぎ)神社を参拝した。
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拝殿が一新されていた。藁葺の屋根の葺替である。
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境内を掃除していた氏子の皆さんにお聞きした。
「昨年の10月に葺き替えた。何年も前から予約していたんだ。こんな業者もあるんだな」と言われ、「きれいなったが氏子は乙木の60軒だけ。負担は大変矢がきれいにしたかった。村も若い子がいないんで次回はどうなるか」などと、葺き替えの経過のあれこれを聞かせていただいた。

参拝してから、もう一つの目的の「鹿の足石」を探しに山へ。神社から300mくらいと聞いている(人を介してだが、春日大社の神職に)。

こんな石である。
鹿の足石(乙木町)
夜都伎神社の東方に、鹿の足石とうのがある。その石面に神鹿の足跡が、かすかに印されている。男子13歳のものが詣って見ると判然と見えるという。奈良の春日明神が、鹿島から遷られるとき、ここでその神鹿が休んだ跡という。(
天理市史 下巻482ページ)

歩き始めたが、すぐ挫折。
降りてきて、さきほどの氏子のみなさんにお聞きすると「大きな石がある。だけどヤブだらけで道もなく、知らなければ行き着くのは無理や」とのことだった。地元の方に頼んで、本格的な「探索隊」が必要かも・・である。

ところで、山の辺の道。
歩かれたら夜都伎神社、ぜひともお寄りになりますように。
僕がいた30分くらいの間、多くのハイカーが歩いていった(土曜日の午後)が、どなたも寄られることはなかった。

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夜都伎神社
天理市乙木町の北方集落からやや離れた宮山(たいこ山ともいう)に鎮座し、俗に春日神社と言い、春日の四神を祀る。
乙木には、もと夜都伎神社と春日神社の二社があったが、夜都伎神社の社地を竹之内の三間塚池と交換して春日神社一社にして社名のみを変えたのが現在の夜都伎神社である。当社は昔から奈良春日神社に縁故深く、明治維新までは当社から蓮の御供えと称する神饌を献供し、春日から若宮殿と鳥居を下げられるのが例となっていると伝えられる。
現在の本殿は明治39年(1906年)改築したもので、春日造檜皮葺、高欄、浜床、向拝彩色7種の華麗な同型の四社殿が末神の琴平神社と並列して美観を呈する。拝殿は藁葺でこの地方では珍しい神社建築である。
鳥居前の神社の掲示から

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by koza5555 | 2016-03-29 05:12 | 桜井・山の辺 | Comments(0)

門のこと!転害門の魅力 朱雀の会の企画ウォーク

3月27日(日)、なら・観光ボランティアガイドの会(朱雀)の企画ウォーク、「門のこと!転害門の魅力」に参加してきた。

コースは、興福寺南大門→菊水楼表門→春日大社一の鳥居→春日大社五重塔、楼門→鴎外の門→東大寺南大門→大仏殿中門→勧進所表門→会談堂南門→東大寺西大門跡→焼門→転害門。
午後一時出発、資料代が200円ということである。

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転害門

メインは転害門と東大寺南大門であるが、その他にも二重門、楼門、八脚門、四脚門、薬医門、高麗門とさまざま見学、解説を受けた。

はじめは興福寺南大門跡。こちらの「月輪山」という額が埋められたという・・この場所が門の西側に置かれている「額冢」である
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菊水楼表門。こちらは薬医門
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薬医門とは本柱と控え柱だけの門で、薬医門のいわれは、「矢ぐい」(矢をくいとめる)から、あるいは医者の門に使われたとも言われています。

春日大社一の鳥居を経て、春日大社西塔跡、西門の複郭の南に桁行3間の楼門の礎石が残っていた。
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鴎外の門に寄り、そこから東大寺である。  

東大寺南大門は二重門
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興福寺南大門は享保2年(1717年)に火災で焼失。桁行5間、梁行2間の二重門(屋根が二重、楼門は一重目に屋根がない形)であった。
大仏様。上層まで立ち上がる太い柱に、何段もの「貫」で前後左右に結び付けて、丈夫な軸組を造ることが一番の特徴である。
「貫」が各柱の内部でつなぎ合わされている。その取り付けられるさまを示す模型が作られていた。

大仏殿中門は楼門で一階の屋根がない。こちらを経て、勧進所 表門は高麗門。親柱二本、控え柱二本は薬医門と同じだが、控え柱まで屋根をつける。
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戒壇院 南門は四脚門。本柱は丸柱、ぞの前後に細い4本の控え柱が置かれる。
そして、南に下がり、東大寺 西大門跡
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これは二重門だった。平城京の二条大路に面していて、平城宮から東大寺への主入口になっていた。和様の二重門で、南大門級かそれ以上の規模があったと言われる。
天正11年(1583年)に大風で倒壊し、再建されていない。東大寺ミュージアムに、こちらの扁額が展示されている。

東大寺焼門跡。これは八脚門である。

最後にメインの東大寺転害門に。
東大寺創建以来の建物で、一条大路に面している。三間一戸の八脚門である。鎌倉時代に大幅な改修工事が行われた。
神仏習合の名残で、手向山八幡宮の氏子によりしめ縄が張られている。毎年10月5日の転害会ではお旅所となる。
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「門前の石のくぼみは盃状穴(はいじょうけつ)とのことで、雨だれではありません」と説明がある。
女性を象徴する宗教的なくぼみとのことで、僕も雨だれと説明したことあり、冷や汗である。

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南大門や転害門の50分の一の模型というのが作られており、それを手に取ってわかりやす解説、これは感嘆した。解説資料も大変丁寧、力の入ったウォークだった。
by koza5555 | 2016-03-28 08:18 | 奈良 | Comments(0)

桜井市ムネサカ古墳群

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これが一号墳である。白状するが今回は到達。3回目だった。

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前回の敗退を教訓して今回は登山靴。

森本運輸の駐車場から入る。もちろん事務所には声をかけて許可を得る。一回目はこれも知らず、国道から無理矢理、登ったのである。
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道なりに登る。道標がある。今回も右に折れた。青い線である。
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こちらにはもう一個、道標がある。そこから稜線へ直登である、石室の入り口が無い、小高い山に上がった。くるりと周りを見てみると、丘尾切断型の円墳の上にいるように思える。西に下りてから南に回ると、ありました。

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一号墳の入口

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内部から外をみてみると


西北の方向に二号墳、これも戸惑ったが発見できた。
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しかし、これは狭い。3メートルくらい匍匐前進すると中は広そうだが、これは勇気ある撤退かな。

下りの道でよく確かめてみると、笹やぶも赤い線に沿って踏み分けがあった。


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桜井市の埋蔵文化財センターは「桜井市の横穴石室を訪ねて」を発行している。100ページくらいのリーフレットである。

このリーフレットをペラペラとめくるとムネサカ古墳がとても気になったのである。忍坂から女寄峠に登るR166の左側の山手にあるという。

終末期の大型円墳と石室、これが二つ並んで残されているのである。石室の石積みは玄室・奥壁とも二段積み、羨道は一段積みで、ほぼ切石状態で漆喰も使われているとのことである。
 このような石材の構成や規模は、明日香村の岩屋山古墳とほぼ同一でである。同じ設計図を用いて作らたとも考えられ、石室を作った工人は同じだったのかもしれない。

ムネサカ古墳群(桜井市大字粟原字峯坂)
by koza5555 | 2016-03-24 21:49 | 桜井・多武峰 | Comments(0)

お伊勢参りと長谷詣

大阪の玉造から始まるお伊勢参り、この玉造の二軒茶屋跡の石碑をみて、関わりがある玉造稲荷神社を参拝してきた。

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玉造名所 二軒茶屋・石橋(黒門橋)

「旅は巡礼から始まった」という言葉を聞いたことがある。巡礼は観光を含むすべての旅行の原点ともいえる。
巡礼路は歴史が古く、限りなくエピソードが転がっており、講演やツアーのための情報は満載である。

「長谷春秋」(大本山長谷寺発行)をくってみると露の五郎(二代)師匠が、「初瀬詣七色ばなし」と称して、お伊勢参り、長谷詣を長谷寺で講演していた。
講演と言っても噺家である。ほぼ・・・落語である。

お伊勢まいり、大阪から参れば片道七日間、往復で十五日。これで見物したりして行くと、大体一月の旅行。
それで「長谷までのお参りもあり」ということになり、長谷まで行くと、観音さんが代わりに行って来てくれたり、天照大神の姿とされている雨宝童子が観音様の脇侍におられたりもする。雨宝童子、侮るなかれで「伊勢まで行きました、大神にお会いしてきました」という意味もあるかもしれない。

露の五郎さんの初瀬での講演は30年も前のことだが、最近、「伊勢参宮神賑(いせさんぐうかみのにぎわい)」を、四代目桂文我が著した。上方落語「東の旅」通し口演である。

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露の五郎さんの講演は長谷までだが、この桂文我の「神賑(かみのにぎわい)」は大阪から伊勢まで、それも往復であるから22話もある。
玉造の二軒茶屋・石橋跡から始まり、奈良、長谷、そこからずっと伊勢に至り、外宮・本宮まで参拝するのである。そして、話はそこで終わらず、そのあと桑名を回り、戻って鈴鹿峠、なにかお多賀さん辺りに寄ってから、大津・京都。三十石舟に乗り大阪に戻るという道順である。

長谷寺や榛原のあぶらや、室生の三本木あたりのツアーをすると、伊勢本街道とか「あお越え」ということが必ず話題になった。
この本を読んで、僕は「お伊勢さん参りのはじめ 玉造」を見に行きたくなったのである。

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JRの玉造のすぐ東である。掲示がある。
この付近は、旧奈良街への大阪側からの入り口で、街道の南北には、旅行者めあての茶店があり、俗に「二軒茶屋」と呼ばれて繁盛した。」
石橋は、付近を流れていた猫間川に架けられていたもので、正しくは黒門橋という。慶安3年(1650年)幕命により、当時では珍しい石造りの橋として架けられていたと伝える。  
東成区役所

昭和14年頃までは猫間川が流れていた。それは小さな川だったが、ここらあたりが大阪市内と東成郡の境だった。
だからこの猫間川を渡ると・・・旅立ちであった。
ここに日本で一番古いという石橋が架かり、枡屋・鶴屋という二軒の茶屋がおかれたとのことである。
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さらに旅立ち前の参拝は、市内よりの玉造稲荷神社だったという。
この地が、お伊勢参りでは西日本の拠点となったことから、神社社域は「暗峠越え奈良街道」の要地となった。


この地から全国へ広がった旅のシステムがあるという。
江戸時代の伊勢参りでは、「ぼったくり宿」や「おいはぎ」など、安全な旅は難しいものでした。
そこで玉造の松屋源四郎は旅人に安全な旅を提供しようと、「浪花講」を立ち上げ、街道沿いの優良旅籠と契約して、旅籠には看板、旅人には鑑札を持たせるというシステムを確立しました。1804年のこと(難波講と改称は1841年)だと言います。
このシステムは大変な人気を呼び、各地に世話人を置き全国に広がったという。

初瀬の井谷屋には講の看板がたくさん並べられているが、その看板の正確な意味を僕は始めて知った。
(難波講の解説は要約だが玉造稲荷神社のパンフレットから)

初瀬街道、伊勢街道、考えるだけで楽しくなる。

おまけ画像である。3月22日、昨日の氷室神社のしだれ桜
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by koza5555 | 2016-03-22 22:35 | 読書 | Comments(0)

ヒミコの系譜と祭祀

邪馬台国のツアーで質問を受けた。「『鬼道に事(つか)へ、能く衆を惑はす』卑弥呼の祭祀はどんなものだっただろうか。」
また、京都で古墳のガイドをしている方からは、「巫女埴輪の解説をしている。巫女埴輪は卑弥呼とのつながりはないだろうか。」

難題である。

これを考えながら、探し出したのは「ヒミコの系譜と祭祀」(川村邦光著)である。
日本のシャーマニズムの研究、祭祀の古代のあり方を研究されている。
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 「ヒミコの系譜と祭祀」  川村邦光  学生社である

今日は日本のシャーマニズムとシャーマン、これはパスして卑弥呼と箸墓古墳から考えてみよう。
まずは箸墓古墳のことである。
ヤマトトトビモモソヒメは箸でホトを突いて亡くなったとされる。まずはこれが問題である。

原始宗教、シャーマンの祭祀の中で、「女性の性器・ホトを突く」は性交を意味して、妊娠、出産につながる一連の生のプロセスを示す言葉として、常に豊穣な実りを示すシンボルとしてあつかわれている。
しかし、「ホトと突く」が逆に死につながる例が二例だけ示されていることに、川村先生は注目するのである。こんな事件は大きな歴史の転換点に現れたということでもある。

①その一例はスサノオが高天原にて乱暴狼藉を働く場面。屋根を開けて皮をはいだ馬を投げ入れる。機織り女が驚いて、「天のはた織女 見驚きて、杼(ひ)にホトを突きて 死にき」である。
アマテラスの統治する高天原、女の世界をスサノオが暴力的に侵したことをシンボリックに表したとみることができる。
怒ったアマテラスが岩屋に入り、困った神々が集い、歌舞音曲、魂振りを行い、鏡をアマテラスに差し出されて、アマテラスは岩屋を出ることになった。社会・時代は新しくここから始まったとされる。

②もう一例は箸墓古墳とヤマトトトビモモソヒメの伝説で、「箸にホトを突きて薨(かむさ)りましぬ」である。
オオモノヌシは大和の国ツ神として、国家的な神として祭祀されるようになります。オオモノヌシは、巫女の祭祀する地域の神から王権の神へと変容し、宗教的な権威および権力が巫女から、大王へと移っていった、とも言うことができます。
 そこでおこったのは、巫女による蛇の祭祀の断絶だったと考えることができます。ヤマトトトビモもソヒメの「ホトを突く」ことによる死とは、卑弥呼に象徴されるような、古代の巫女王の終えんを告げているのではないでしょうか。

これをシンボリックに記念したのが、箸墓とよばれる、巨大な古墳だったのでないかと思われます。大王の時代、古墳時代の開始を告げる、前方後円墳です。


古墳の造営を指揮し、巫女王を弔うとともに、自らの政治・宗教的な力を掲示したモニュメント、この王の名はハツクニシラススメラミコト、崇神天皇とされているのです。

卑弥呼の時代には政治と祭祀を執り行った祭司が、政治から切り離されていく境目に箸墓古墳があるとの解説である。


シャーマニズムと言えば、神功皇后も忘れられない。
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戦前の「神功皇后の一円札」なども紹介されている。これはイタリア人、エドアルド・キヨッソーネが描き、容姿からは西洋と日本女性の折衷的な印象とされている。


巫女埴輪の編年と紹介もおもしろい。(p138)
巫女埴輪は5世紀中葉に出現する。これは卑弥呼とは200年の差もない。
政治と祭祀に絶大な権限をふるった卑弥呼とは全く違うだろうけど、6世紀後葉まで150年にわたり、各地で巫女埴輪は立てられ、それが出土しており、巫女の役割は営々と続いていったことの考古学的証拠と言えるだろう。

巫女の装束としてはオスイ(袈裟状の着衣)、タスキ、帯、垂れ紐が共通とされる。
番上山古墳(藤井寺市 出現期・5世紀末)から出土の巫女埴輪。5世紀末、出現期のもので近つ飛鳥博物館に展示されている(いた?)とのことである。

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この埴輪は古墳時代のものであるが、「この服飾は弥生時代からのものでは」との論もあるようである。

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唐古鍵や清水谷などから出土の祭司の服飾との共通性も指摘されていて、服飾的には卑弥呼の制服は、この間にあると見ることは難しいだろうか。

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箸墓古墳
by koza5555 | 2016-03-18 21:17 | 邪馬台国(やまとこく) | Comments(0)

記紀に載らない大和の神話

奈良県神社庁研修所の主催で、「神職・氏子合同研修会」が橿原神宮会館で開催された。3月17日のことである。
毎年、誘われているが、いままでは時間が合わなかった。

今年は時間に余裕があり、しかも講師は(昨年まで春日大社の権宮司の)岡本彰夫奈良県立大学客員教授である。聞かない手はない。

演題は「記紀に載らない大和の神話」。氏子は単なる勉強だが、神職は0.5日の研修終了にカウントされるとのことで業務でもあった。

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橿原神宮会館

「神話は荒唐無稽なものか?」「日本人は今も神話の中で活きつづける」というテーマでお話しが始まる。

神話や伝承の「発掘」の難しさが、まず紹介された。
元治元年(1864年)のことだが、藤堂藩の谷代官所から桜井村の庄屋に「古蹟を調べて報告せよ」との沙汰があった。
その指示にもとづき、桜井村は東光寺記とか大和名所図会を提出したが、代官は「書物に無いことを報告せよ」と改めて達した。しかし桜井村はその後の対応をしなかった。
代官所から人を出しての調査に対し、桜井村は「当宮(等彌神社)は聞くに神武天皇様、長すね彦を打ち取りなされ、この氏神にて神代の神を、お祭りなされ候との事、もしもそれがまことならば、田地も山もお上へお取り上げに相成り、下々の難儀に相成るべしとて・・・」と村の事情を述べ、等彌神社の前の桜井市の図書館周辺などに、神武天皇の祭りの庭に関わる小字が密集していることを示した・・・

こんな話から岡本先生の話は始まった。
それにしても、江戸時代の庄屋もつらいものである。

岡本さんのお話の項目立ては
①神武天皇の神話(いわゆる神武東征、東遷)
②垂仁天皇の皇女、倭姫命の神話。天照大神の遷宮に関わるお話である。
③大化の改新の神話・・これは入鹿の首塚に関わるお話である。さらには御破裂山と鳴動のこと。
④春日大社の神話。タケミカヅチの命の大和入りの話。

こんなくくりで、それぞれを独立させながら、ていねいな調査と深い知識に裏付けられた講演をされた。
「功を忘れず・人を忘れず・経緯を忘れず」で、人を語りながら、それぞれのテーマの道順、地名、エピソードを語るわけで、いわば「奈良の街道を行く、岡本流」である。

「奈良でしか話せない」、「奈良でこそ話せる話がある」と岡本さんは伝承と神話を通して大和の魅力を熱弁され、「神職も氏子の皆さんも、それを語っていただきたい」と強調される。

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等彌神社は神武天皇の神話の中心的神社

神武天皇聖蹟碑についても、力をこめてお話しになった。全国で19基、奈良で7基、紀元2600年に立てられたあの聖蹟碑のことである。
「奈良県に7ヶ所、あの掃除に参りませんか。宇陀はきれいやった、村で掃除している。三輪もきれいや。他は草ぼうぼうで、あれを掃除して回りませんか」と橿原神宮会館で神職と氏子に呼びかけられたのである。

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「かみのみあと」を熱心におすすめになった。今日のお話しのいくつかは、「かみのみあと」でも触れられていた。
僕はこの本を見るのは初めて。これだけすすめられて持ち帰らないというわけにはいかない。
この本を丹念にたどれば、県下のおもしろい、たくさんの伝承と神話を知ることができる。県下全体を紹介するテキストならば、奈良まほろばソムリエの公式テキストが使いやすが、これとはまたちょっと違う角度の取り上げで、こちらは地元の伝承が息づく紹介となっている。
ちなみにお代は千円、奈良県神社庁の発行である。

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附録も充実していて、鳥見山の貴重な地図(神武聖蹟碑の建立の頃・・昭和15年の地図か)も添付されている。茶臼山古墳の西側に上げ山古墳(今はない)、金ケ崎などが明記されていて興味深い。こちらで画文帯神獣鏡が出土している(拓本が等彌神社の保存)。

今回の講習、単なる勉強ではなくて、積極的な行動が呼びかけられた。主催者の狙いもあるが、岡本彰夫先生の思いがあふれる講演だった。

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岡本彰夫さん、ますますお元気で快調である。
by koza5555 | 2016-03-18 10:45 | 奈良 | Comments(0)

柳本大塚古墳と大神教本院

桜井から天理に入ると、渋谷向山古墳(景行天皇陵)、行燈山古墳(崇神天皇陵)、黒塚古墳など邪馬台国から大和王権への移行にかかわったみられる大王、重臣の大型古墳が点在している。
これらの古墳は、いわゆる山辺道に絡む形で連なっていて、数多く訪れるハイカーの心をひきつけてやまない景観を作り出している。。

ちょうどこの辺りだが、もう一つ西の上ツ道に絡んでの三つの古墳を今日はみてみたい。山の辺の道とは異なり、訪れる人もわずか、上ツ道を歩く人も気が付かずに通り過ぎることも多い古墳である。

栁本大塚古墳、石名塚古墳、ノベラ古墳と名付けられている(以下の古墳のデータは「天理の古墳100」より)。

北からノベラ古墳。
南に下がり、一番大きい石名塚古墳、全長が124m(ため池により少し削られている)、古墳時代前期前半の築造とされる。埴輪が発掘されている。
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上ツ道からはしっかり見えないが、西側の農道に出てみるとクッキリ見える。前方部を南に向けた前方後円墳である。
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一番南は柳本大塚古墳。こちらがお目当てである。墳丘は前方部を南に向けた前方後円墳で全長94mを測る。
明治28~29(1895~1896)年頃に後円部墳頂の竪穴式石室が盗掘され木棺材のほか、副葬品が出土した。
また、大正7(1918)年二は後円部で耕作中に竪穴式石室の北東部で耕作中に小石室が見つかり、大型内花文鏡が出土している。

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こんな鏡である。今は宮内庁が管理しているという


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行燈山(崇神天皇陵)から出た、銅版はこんな形


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明治年間に盗掘された時、抜き取られた割竹型木棺の一部分が巡りめぐって桜井市の大神教本院(大神神社参道、右手)の玄関額として利用されていることが近年(橿原考古学研究所から)報告されている。本棺は直径120cm以上のコウヤマキの大径材を使用していたことも判明した。

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栁本大塚古墳。地主の中川さんの許可を得て墳丘上に

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前方部の南には箸墓古墳


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後円部の墳頂はブドウ畑。その周囲のキャベツ畑は なにげに円形。「効率的や」と中川さん。「少しでもほっておくと、すずんぼ(笹や女竹)が生えて大変や」とのこと。古墳らしくない外観だが、中川家が墳丘は守っているのだ。
by koza5555 | 2016-03-16 10:23 | 桜井・山の辺 | Comments(0)

大安寺とガン封じの笹酒まつり

大安寺にお礼のお詣りである。

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奈良市 大安寺

「雑賀さんの病気平癒の祈願、貫主さまにお願いしておいた」と、大安寺の長岡さんから、連絡をいただいた。
実は2月15日に、僕は胃ガンの内視鏡手術をうけたのである。胃の中心あたりの粘膜にガン細胞ができているとのこと、あれこれ、あちこちに迷惑を掛けながら、2月15日にご近所の病院での施術で、ガンの粘膜を取り除くことができた。今のところ幸い、転移なしである。

それで13日(日)にお礼のお詣り、東大寺のお水取りの前に伺ったが、あくまでも本筋は大安寺ということである。

大安寺といえば光仁会、笹酒まつりであるが、平城京の時代には巨大な東西の塔をもつ筆頭官寺の役割を果たした歴史ある大寺であった。

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大塔の跡地、礎石も残されていた

この辺りを「知らなかった!もっと知りたい大安寺」(「仏教文化の源流 大安寺国際シンポジウム全記録」南都大安寺発行)にとても詳しい。

『大安寺伽藍縁起并流記資財帳』によれば、聖徳太子が額田部に建立した熊凝精舎が前身とされ、その後に百済大寺、高市大寺、それが大官大寺と改称されたのち、霊亀二年(716)に現在地に移されたとの歴史を誇る。

第49代光仁天皇の御忌法要。光仁天皇は在野時代しばしば大安寺を訪れ、竹林で「林間酒を温める」風流を楽しむなどした…この故事にあやかって悪病を封じて息災を願い、御忌1月23日を「ガン封じ笹酒まつり」としている(「知らなかった!もっと知りたい大安寺」より)。

「もっと知りたい大安寺」は、さらにエピソード満載である。
大学院生の頃、発掘に関わったという菅谷文則さんのお話は印象的である。
池田源太先生のが光仁会の復興ということを盛んにおっしゃっていました。大学院の授業でもなぜか笹酒の話をよくされていました。「がん封じに結び付けるのがいいのや」ということを盛んにおっしゃっておられました。お寺の行事が新しく復興していく時の今日的意義を付けをされていらっしゃった。
 笹酒まつり、盛り上げていくための先人の苦労もあるのである。

日本のお寺は名前を二つ持っているというお話も興味深い。
地名を元にしたものは、「てら」と読む。「あすかでら」、「かわはらでら」、「いかるがでら」。
同時に「じ」の読み方もある。「がんごうじ」、「ぐふくじ」、「ほうりゅうじ」

こんな具合で、寺は二つの名前を持っているのだが・・・・
大安寺は和風の、土地の名で読む読み方がない。あくまでも「だいあんじ」。国家安泰の意味しかない大安寺、これが珍しいと言われるのである。


千田稔先生の「百済大寺が大安寺のルーツ」論も目からうろこである。
聖徳太子が額田部に建立した熊凝精舎が大安寺の前身、これは「額田氏出身の道慈が作り上げた一つの物語かもしれないという見方がいまのところ許されています」。

大安寺は巨大な官寺として始まり、名を変えながらも官寺として続いてきた歴史との論で、言われてみれば、これは納得できる論である。

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大安寺、歴史を知れば知るほどおもしろい。
ガン封じの笹酒まつりと祈願、もう一つ深く、信じたくもなる。

ありがとうございました。

夜は東大寺の修二会。お松明と聴聞である。
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小雨、寒かったが、堪能した。
by koza5555 | 2016-03-15 15:51 | 奈良 | Comments(0)